新しい力を受けよ!

2007.1.14(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 イザヤ書40章27節〜31節
ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 ハレルヤ!おはようございます。このように今朝も、皆さんとともに礼拝が守れることを心から感謝します。
 二〇〇七年が始まってすでに二週間が経ちますが、いかがお過ごしでしょうか。あっという間に過ぎてしまい、もとの忙しい生活に戻ってしまったと思われます。
 しかし、日曜日に神の前に出て、ともに礼拝をささげ、新しい力を受けて一週間を始めることは大変重要です。
 教会は、毎週、神様から新しい力を受け取るところです。ですから今日も新しい力をいただきたいと思います。

 私たちの教会では毎月、「新城教会ニュース」を発行しています。地域に新聞折り込みしています。今月、二〇〇七年の第一号が発行されましたので、ぜひお読みください。また、まわりの方々にも教会ニュースを差し上げたら、教会のことがよくわかると思います。
 今月号の体験コーナーは岡本泉さんの記事が載っています。なかなか面白いです。彼女は四年半ほど、アメリカで生活して近頃帰ってこられました。

 「今回は四年半海外で暮らし、先ほど戻って来られた岡本泉さんにお話を伺いました。日本に帰ってきて、何か変わったと思うことがありますか?」という質問に対して、答えています。
 「色々なものに違和感を感じています。密閉されているトイレや便座が暖かいこと。一日で終わってしまいそうな牛乳。レストランで出てくる水のコップがすごく小さいこと。コンビニやスーパーで周りが見渡せること。スタバがない町。みんなだいたい同じ背の高さってこと。カルフォルニアロールがない回転寿司屋。アルコールのコマーシャルをテレビでやっていること。「How are you?」って聞かない文化。太っていることを気にしなくなった自分。よくしゃべる自分など。」

 海外生活で、ちょっと違う文化体験されているようです。教会に来ると、教会に来た自分と、来なかった自分を比較できます。一週間教会に来て、教会に来た自分と、来なかった自分を比べてみたら良いと思います。み言葉とともに週を始めたら、どんなに素晴らしいかを体験できると思います。

 今日は「新しい力を受けよ!」というタイトルで学びたいと思います。イザヤ書四十章二十九節から三十一節、

『疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

とあります。今日、「疲れた〜」と言って、心も体も疲れて教会に来られている方々に、神は力を与えてくださいます。また、活気ない方には活気を与え、倒れているような若者もいますが、神様が助けて立ち上がらせてくださるとあります。
 『主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない』とあります。私たちの人生は、走ったり歩いたりしますが、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」という一年であることを願います。このみ言葉が賛美になっています。

主を待ち望む者は 新しく力を力を得る
鷲のように翼をかって 高く高く舞い上がる
走ってもたゆまず 歩いても疲れない

 鷲は時々、羽根が生え替わります。鳥に羽根がなければ、鳥ではありません。鷲が毛が抜けて、飛べなくなった時にはじっとして岩陰で休んでいます。すると、やがて古い羽根が全部落ち、新しい羽根が生えてきて、前よりも強力に風を受けて飛ぶことができるのです。
 私たちは大変便利な時代に生きており、五分間で何でも欲しいものが手に入るような街に住んでいます(新城は例外ですが)。
 最近はコンビニエンス・ストアーがあり、お腹が空けば夜中でも、すぐに食糧が手に入ります。待つのが不得意な文化の中に生きています。私も待つことがあまり好きではありません。夕飯が期待した時刻に出来ていなかったりすると、「早く早く…!」と家内を困らせます。「もう少し待ったらどう」という言葉とともに、「早くして欲しかったら手伝ってよ…」と言われます。インスタントラーメンも、三分で出来上がります。四分にすると売れないそうです。三分は現代人のがまんの限界かもしれません。だから、三分待つという製品が多いのです。
 私たちも神様に向き合うときに、三分間で力をいただこう、答えをいただこう、という感覚になってしまいます。しかし神の前に出ると、時々、忍耐を学ばされます。待ち望まなければならないときがあります。教会で、私たちは、神が働かれる法則を学びます。神の法則は、時として人間の法則とは違います。

 イエスさまがこの地上に来られたときに、人間の法則とは違う法則で働かれました。イエスさまは、ガリラヤ湖の上を歩かれたと聖書に記されています。

 ある人がイエスさまが水の上を歩いたといわれる、ガリラヤ湖を見学に来たそうです。すると、向こう岸に渡るフェリーがあると聞いて波止場に行きました。すると「一人五十ドル」と書いてありました。それを見て言いました。
 「たったこれだけの距離で五十ドルも取るのか。イエスさまも歩いて渡るわけだ…」

 そういうわけでイエスさまは歩いて湖を渡られたのではありません。イエスさまは神の法則を知っておられたのです。私たちも教会に来て、神の法則を学ばなければなりません。
 イエスさまが語られた有名な言葉の中で、「山の上のメッセージ」はその典型かも知れません。マタイの五章三節に、

 

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』

普通は心が豊かなら幸せだと言われます。またマタイ五章四節、

『悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』

とあります。普通は、喜んでいる方が幸せだと思います。また、

『柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。』

とあります。最近、時々耳にする問題は、「遺産相続」です。遺産相続となると、普段仲が良い兄姉姉妹が互いに鬼と化し、性格が変化します。そして地を相続するのは、柔和な人たちではなく、ずるがしこい人たちです。柔和だと財産が減ってしまいます。しかし、イエスさまは、『柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。』と語られました。また六節に、

『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』

とあります。「飢え渇いている」者がなぜ幸せなのかと思います。しかし、聖書はその人が幸せ者だと言っています。
 神の法則は、人間の法則とは全く違うところにあります。特に、『心の貧しい者』とは、これは「the poor in spirit」です。霊的に貧しい者は幸せだとあります。
 ある意味で教会に来られた方々は、霊的にハングリーな人たちです。そのことによって神との出会いがあったと思います。私たちが神様と出会うためには、飢え渇くこと、待ち望むことです。そのときに力を受けるとあります。
 私たちの人生には、すぐに神様の答えが来なくて、継続して祈らなければならないこともあるかも知れません。しかしその時こそ、力を得るための充電期間です。自分の思い通りにならない時もありますが、そんな時でさえ、新しい力を得るときであると知るのです。

 神様の法則を知ると、次に、私たちの中に神の法則以外の原理が働いていることに気付かされます。それは言い換えるならば、「悪魔の策略」です。神様の法則を知るだけではいけません。悪魔の策略について気付かなければなりません。『悪魔の策略に対して立ち向かいなさい』とあります。悪魔そのものに立ち向かうことも必要ですが、それ以上に、「策略を見抜くこと」が必要です。見抜くことがすなわち立ち向かうことであり、また、立ち向かうことは、神の法則に生きることに他なりません。
 昨年末から教えられていることは、私たちの神様は「光なる神であり、暗いところが何一つない」という事です。第一ヨハネ一章五節に、

『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。』

またヤコブ一章十六節から十七節に、

『愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』

また、第二コリント一章十八節から十九節に、

『しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり。」と言って、同時に「否。」と言うようなものではありません。私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。』

 私たちが仕える神様は、光なる神であり、暗やみと共に存在するような方ではないのです。私たちに良いものだけを与える方であり、「イエス」と言いながら、「ノー」と言われる方ではないのです。神様は決して、途中で考えを変える方ではないと教えています。イザヤ書四十章に、

『ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。』

 時々、神が約束されたのにも関わらず、なぜ、そのようにならないのか。神様は私を見捨てたんではないか、と思うようなことがあるかも知れません。「長い間祈ったけど、祈りが聞かれない、神は約束を途中で変えられたのではないか」と言われるかも知れません。しかし、そうではないと言うのです。神様は「イエス」と言って「ノー」と途中で変えられる方ではないのです。常に真実な方であり、光なる方であり、私たちの祈りと願いは、神の前に見過ごされていないと教えています。
 しかし同時に、待ち望むことがないと手に入れることができないとも教えています。神様とのお付き合いは、常に待ち望むことが必要です。

 先日遠くに住む方から、教会にメールが来ました。「私はいつも日記を付けています。日記を読み返して気付いたことがある」と書かれていました。それは、「祝福を受けたその後に、必ず悪いことが起こる」と書かれていました。その繰り返しの中で、「どうしてこういうことが私の人生に起こるのか、理由を知りたい」とメールが来ました。

 案外、そういうことがあります。良いことがあったら、悪いことが起こる。悪いことがあったら、良いことが起こるに違いないと考えます。日本人は、そのような事を日常的に体験していますので、「今年は厄年だから気をつけなければいけない。ちょっとお祓いをしてもらわないといけない」となります。クリスチャンであっても、そのように感じる人がいるかも知れません。
 しかし私たちは騙されていてはいけません。私たちの神様は良いものを与え、試練を与え、奈落のどん底まで落としてからはい上がらせるような、神ではありません。私たちの神様は常に良い方であり、良いことの上に良いことを重ねるお方です。

 昨年の暮れから話していますが、日本の神々は「吉凶の神々」だと話しました。今回の教会ニュースに、「どちらが良いですか」というタイトルの巻頭メッセージを書きました。
 案外私が書いたメッセージを、色々な方が読んでいてくださり嬉しいです。クリスマスに来られた方が、「いつもニュースを読んでいる」と言われ、「メッセージを書いているのが、どんな人か見たいと思ってきた」と言われました(それは私です、と言えなくなってしまいましたが)。
 日本の神々は陰陽の神々であり、吉凶の神々です。良いことを行ったら、悪いことも行うという神々を拝んでいます。そういう神々を拝んでいれば、神そのもののキャラクターが、善悪テーマなので、人生の中に、良いことと悪いことが繰り返します。仕えている神の持っているテーマが、人生に反映されるのです。クリスチャンになれば、そのようなサイクルから抜け出すはずですが、案外、クリスチャンになっても、世界観は簡単には変わらないものです。依然として、良いことがあったら悪いことが起こるものだという考え方に支配されます。
 さらに、日本の文化・習慣の中に悪魔の策略が巧みに隠されています。ゆえに、私たちが意識していなくても、生活のただ中にそのサイクルが置かれているがゆえに、策略に組み込まれてしまうのです。

 日本人が一年中で最も偶像礼拝をするのが「一月」です。多くの人々が初詣に行きます。一説によると、八千万人、九千万人と言われます。同時に、日本人が真剣に偶像礼拝をするもう一つの季節が「盆」です。何か良いことがあると、「盆と正月が一緒に来たみたい」と言います。「盆と正月」は日本人の一年サイクルにおいて、最も重要な季節となっています。
 しかし、これは陰陽の影響です。日本人は、誰でも干支を知っています。干支は中国の十二支から来ています。その根底は、ヨーロッパの「黄道十二宮」という星占いにあります。そもそも、一年をいくつに区切っても良いはずです。
 今年幸せに生きていきたいのならば、「占いに目を向けないこと」です。特に、星占いは危険です。しかし、ほとんどの占いの根底に「星占い」があります。

 実は、イエスさまがお生まれになったとき、イエスさまの居所を最初に発見したのが、東の博士たちでした。「博士」という言葉は、原語で「マゴス」、すなわち、魔術師という意味です。かつて博士と呼ばれるような人たちは、星占いにたけていた人たちでした。神秘的な領域はオカルトの世界であり、それを解き明かすことが出来るのは、マゴスだけでした。東の博士たちとは占星術者たちであり、イエスさまと家族が住んでいた家まで特定したのです。力があるのです。
 しかし、当たるからと言って信用し、心を寄せてはいけません。その後の結果がたいへん悪いのです。マゴスが現れてイエスさまを発見した後、ヘロデは二歳以下の子どもたちを全員殺してしまいました。もちろん、それは聖書の預言とも関わりがあることでしたが、星占いの結果は死の力との契約です。餌は光に見えますが、後に死の淵に連れて行くのが悪魔の働きです。

 日本の社会は、悪魔の餌と策略で満ちた社会です。日本の月々には干支が当てはめられています。一月を正月と言い、盆とは本来「七月」です。一月と七月は相対する位置関係にあります。一年を十二に分けて円に表すとよくわかります。一月は干支で表すと「寅」と表記されます。その対極に七月があり、そこは「申」です。相対するものが陰と陽です。陰陽理論では、両者のバランスが重要なのです。ゆえに、一月に偶像礼拝をしたら、七月にも偶像礼拝を同じ比重でしなければバランスがとれないのです。ですから、正月と盆、一月と七月に強く偶像礼拝を行うのです。
 このように、日本の偶像礼拝のサイクルは暦にあります。その根底が「陰陽の理論」です。一方をだけでなく、セットで実行しなければなりません。一月には、「火」という偶像礼拝のテーマがあります。対局する盆の時期には「水」というテーマがあります。「火と水」も陰陽セットです。ゆえに、正月にはどんど焼きなど、火関係の偶像礼拝が多いのですが、盆は逆に水神礼拝や精霊流しといった、水テーマの偶像礼拝が多くあります。日本はそれらが文化、習慣となって当然のこととして生活に息づいています。私たちは毎月、何気なく生きていますが、実は、陰陽バランスをとりながら生活しているようなものなのです。それは、善神と悪神が戦ってバランスがとれるとき人は一番幸せだという陰陽の世界観を暗に認めることになるのです。良いことと悪いことが交互に起きてもよいということを暗に認めるようなものです。

 私たちは、このようなサタンの策略に目を向けなければなりません。クリスチャンであっても、考えの土台が変わらなければ、サタンは訴えるのです。「祝福を受けたら、こんどは俺が働く番だ!」
 良いことと悪いことが繰り返すのです。しかしサタンの策略を見抜いたら「ノー」と言うことができます。私たちの神は、「しかりと同時に否と言われることは決してない!」「神は光であって、暗いところは何もない。常に良い物を与えてくださる!」と宣言し、サタンの訴えを打ち破るのです。
 心のスイッチを切り替えなければなりません。あなたの人生の中で、良いことがあったら次に悪いことが起こることはありません。良いことの次には、更に良いことが増し加えられます。特に、暦という策略に支配されないことです。私たちにとって毎日が良い日です。暦を見て、「今日は悪い日、仏滅…」と言って、一喜一憂することはありません。すべてが良い日であり、主の日です。「この日は主が造られた」という賛美があります。

この日は この日は 
主が造られた 主が造られた
我らは喜ぼう 
この日をば この日をば
この日は 主が造られた
我らはこの日を 喜ぼう
この日は この日は
主が造られた

 今日は主が造られた日です。ですから、日本の暦に惑わされてはいけません。イザヤ書四十章一節から五節に、

『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」』

 このみ言葉は、バプテスマのヨハネとイエスさまによって実現されました。ここでは、「山が削り取られ、谷が埋められて平らになるときに、主が道を用意される」と教えています。私たちの考え方において、山と谷の世界観が打ち砕かれ、平らになるときにイエスさまが来られる、リバイバルが起こるのです。
 また、続いて素晴らしい法則があります。二節に

『そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』

 神の法則には、罪と引き替えに「二倍の祝福」を与えるとあります。イエスさまと出会って素晴らしいことは「罪の赦しを得る」ことです。多くの人々が過去の罪の記憶に責められ、苦しんでいます。イエスさまは、罪の身代わりになって死なれ、三日目によみがえられました。これが十字架の意味です。過去にどんな罪を犯したとしても、イエスさまがあなたの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、復活してくださいましたので、罪が赦されるのです。
 この地上においては、罪の償いはできても、本当の赦しを受け取ることはできないかも知れません。人間の犯す罪は、究極的には、人間を造られた創造者に対するものです。罪は創造者に赦しを請わなくてはなりません。そして赦しは、必ず、背後に犠牲が伴います。
 例えば、私が信弘先生に一万円借りたとします。返せなくなり、「許してください」と言います。その時、信弘先生が、「許してあげる」と言ったら、彼は一万円損しなければ、私を許すことは出来ません。許すと言っても一万円請求したら、本当の許しではありません。

 同様に、イエスさまが私たちの罪を赦してくださるのは、何らかの代価を払ってくださったのです。「罪の支払う報酬は死」と聖書には記されています。罪を犯すと人間は永遠の滅び、地獄に行ってしまいます。しかしイエスさまが私たちの罪の身代わりとなって死んでくださり、地獄にまで行ってくださいました。そして復活してくださった犠牲のゆえに、私たちは赦されたのです。

 同時に、罪の赦しと共に「二倍の祝福」を与えてくださるとあります。私たちが罪を認めてイエスさまの前に出るときに、二倍の祝福を与えてくださいます。
 去年よりも今年、あなたはどんな祝福を受けるのでしょうか。それは「二倍の祝福」を受けるのです。これが神の法則です。神様は、二倍にして返してくださるお方です。
 人間の行動を規定した「モーセの十戒」は、見える世界だけではなく、見えない世界にも関連性を持っています。出エジプト記二十二章七節に、

『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』

とあります。盗んだら、泥棒は、それを二倍にして返さなくてはならないのです。これが神の法則です。ザアカイは「四倍にして償う」と言いました。彼は旧約聖書をよく知っていました。普通は、盗んだら倍にして償えばよいのです。しかし彼は四倍にして返すとイエスさまに言いました。

 昨年ヨブ記から学びました。ヨブ記の最後に結論があります。ヨブは試練にあった人物でした。彼の人生は大変でしたが、主を心から待ち望んだ人物でした。その結果、彼は最終勝利を得ました。ヨブ記四十二章十節に、

『ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。』

とあります。最終的に、神がヨブの失った財産を二倍にして返してくださいました。これは神の法則に則した出来事でした。ヨブは持っていたものを盗まれました。しかし神は最終的に二倍にしてくださったのです。

 さて、ヨブの持ち物は誰に盗まれたのでしょうか。自然災害や犯罪によって盗まれたように見えますが、その根源は「サタンによって盗まれた」ことがわかります。サタンによって何もなくなってしまったのです。
 今、多くの人々に破壊的な出来事が起こり、良き人生が盗まれています。誰が盗んでいるのでしょうか。人のように思いますが、実は、悪魔・悪霊どもによって破壊されているのです。私たちクリスチャンは、その事実を知ることができます。私たちには将来が隠されています。何が起こるのかわかりません。しかし、神が持っておられる計画は、良い計画以外にはありません。それにも関わらず、悪いことが起こったならば、背後に悪しき者が働いているのです。

 独裁者ヒトラーが占い師の所に行きました。そして彼はこのように聞きました。「俺が死ぬ日はいつか。占ってくれ」
 すると占い師は自信を持って答えました。「閣下、あなたが死ぬ日は、ユダヤ人の祝日です。」
 「なぜ、わかるのか」すると、「何れにしても、あなたが死ぬ日は、ユダヤ人の祝日になりますから。」と答えました。

 社会や国に破壊や殺戮があります。しかしその背後で悪魔が神が用意した良い物を盗んでいるのです。しかし、「盗んだら二倍にして返せ」というのが聖書の法則です。
 昨日私はこのみ言葉を読んで、興奮しました。これは見える盗人に対しても、見えない盗人に対しても適応される神のみ言葉です。
 新約聖書に至っては、「盗み、殺し、滅ぼし」とは、「悪魔・悪霊ども」です。今年私たちは、悪魔・悪霊どもに宣言しなければなりません。「お前は私たちから奪い取ったものを二倍にして返せ!」と、二倍を奪い返すことができます。私たちの神様は、良いことと悪いことを繰り返す神々のようではなく、常に、二倍の祝福を私たちに下さるお方なのです。
 今年が去年の二倍ならば、次の年はどうでしょうか。何と倍々ゲームのようです。四倍、そして次は八倍、次は十六倍となります。素晴らしい神様に仕えることができるのは、何と幸せでしょうか。
 今年は去年の倍の祝福をいただくことができます。これが神の法則です。悪魔は私たちから奪っていったものを、倍にして返さなければなりません。

 聖霊の油注ぎも、去年より倍もらうことができます。今、日本の教会を廻ると、一つの問題が起こっています。それは、なかなか信仰が次の世代に受け継がれていないという問題です。親がクリスチャンでも、息子・娘がクリスチャンではない場合が多いのです。初代のクリスチャンは熱心ですが、うまく行かないのです。悪魔の攻撃に遭って弱っています。それを見る二世、三世は、「イエスさまを信じてもあまり良いことがない」と信仰から遠のいてしまいます。クリスチャンではない人と結婚すると、今度は、偶像礼拝が再び入ってきます。すると三代目は、ほとんどイエスさまを意識しなくなってしまいます。やがて四代目くらいには、何事もなかったかのように、クリスチャンホームは消え去るのです。三代、四代は戦いの世代です。神様を信じると「千代に至る祝福」がありますが、同時に「三代、四代ののろい」という偶像礼拝の影響を引きづります。重なっている世代は戦いの領域です。戦いを知らずに、悪魔の策略に騙されて生きていると、良いことと悪いことが繰り返し起こってきます。それを見て、二代目は信仰の世界から身を引き始めます。しかし私たちは、そのような法則にはないことを宣言しましょう。初代のクリスチャンが輝いたら、二代目はもっと輝くのです。第二列王記二章九節に、

『渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。』

 エリヤの弟子はエリシャでした。結果的に、エリシャはエリヤが持っていた二倍の油注ぎが与えられました。これが聖書の法則です。
 今年は主が、若い世代を立ち上がらせると信じています。今年は「ハワイリバイバルミッション」があります。ぜひ、皆さんもハワイに行ってください。今度ハワイの事務局に派遣されるのは、私の娘と信弘先生の娘です。彼女たちは海外で生活をした経験があり、英語もでき、車も運転が出来るので派遣されます。油注ぎがないとできないと思います。ぜひお祈りください。しかし、次の世代には二倍の油注ぎが与えられます。ですから、この教会は倍々ゲームです。初代よりも、二代目、三代目…と、新しい世代にどんどん新しい油注ぎが与えられていくのです。これが聖書の原則です。

 一九九二年に聖霊が注がれました。それは私たちのような二代目から始まりました。これはある意味で、神の法則に沿ったものでした。その背景にあったのは、やはり、「待ち望む」事でした。愛知県民の森に入り、毎週月曜日に、真剣に神を待ち望んで祈っていました。その時、九二年二月十三日、天が開かれて新しい油が注がれました。待ち望んだときに主が大いなるみ業を現してくださいました。今年も諦めないで、待ち望んでいくことを教えられています。
 今年は、結婚されていない方々が、幸せな結婚ができ、人生が明るくなることを祈っています。皆さんもぜひ祈ってください。
 クリスチャンの男性が女性に結婚を申し込むと、最初受け取る答えは「祈らせていただきます。」です。私も家内に三十年ほど前、「私と結婚してください。絶対に牧師にならないから…」と、言いました。
 すると、「本当?私は種屋の娘だから、牧師とは結婚できない。」と言いました。「でも、祈らせてください」と言いました。
 その後、男性は待ち望む日々が続きます。しかし最後に「O.K!です」と言われた時は嬉しかったです。待ち望むので、よけいに嬉しいのです。

 「待ち望む者は力を受ける」とありますが、待ち望んでいるただ中が、聖霊の油注ぎをもらっているときです。
 九二年に聖霊様が私のところに訪れてくださいましたが、一番良かった時期は、まだ扉が開かれる前、毎週県民の森に行き真剣に主を求めて祈っていた時でした。
 時々待ち望むことを強いられることがあるかも知れません。特に、日本のリバイバルを考える時、長らく待ち望んでいても、あまり変化がないと思ってしまいます。しかし待ち望む中で神様が働いてくださることを、信じていきたいと思います。今年は良い神様が必ずみ業を成してくださると信じましょう。

『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

『ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。』

あります。「忘れてしまったのではないかと言うな。わたしは絶対に忘れていない。イエスと言ってノーとは言わない。必ずあなたに新しい力を与える、あなたの訴えは、神の前に見過ごしにされていません」というメッセージです。

 今週、神の前に待ち望みましょう。神の前に出て行き、「主よ。私たちの所に来てください。日本にリバイバルを与えてください。」と待ち望む時に、必ず力を受け、新しい扉が開かれることを信じます。そして悪魔に、「お前たちは二倍にして返せ!私たちは取られる物は何一つない!」と、大胆に宣言しましょう。

(祈り)
「イエスさま。あなたは光なる神様です。感謝します。私たちに倍の祝福を与えてくださる神であることを、心から感謝します。今日私たちは、神のみ言葉を宣言します。盗人どもに宣言します。悪魔よ。良く聞け!お前たちは、私たちから盗んだ物を倍にして戻さなくてはならない。二倍にして返せ!今年は回復の年であることを、宣言します。イエスさまのみ名による勝利の年であることを宣言します。イエスさまは勝利者。悪魔は敗北者です。私たちは、あなたを待ち望みます。新しい力で満たしてください。イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。」


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