二倍の祝福

2007.1.21(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 ヨブ記42章10節〜12節
ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。こうして彼のすべての兄弟、すべての姉妹、それに以前のすべての知人は、彼のところに来て、彼の家で彼とともに食事をした。そして彼をいたわり、主が彼の上にもたらしたすべてのわざわいについて、彼を慰めた。彼らはめいめい一ケシタと金の輪一つずつを彼に与えた。主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。

 ハレルヤ!おはようございます。今日、皆さんとともに礼拝が守れることを感謝します。
 二月十一日から十三日まで、「リバイバル拡大聖会」が行われます。今回は、ハワイから黒田朔先生が来てくださり、御言葉を語ってくださいます。ぜひお出かけください。
 今年は十月に、ハワイにおいて「リバイバル・ミッション」が行われます。お祈りくださり、お出かけください。
 ハワイはアメリカに属していますが、日本の県の一つではないかと勘違いされるほどです。しかし百年程前は、ハワイに王朝がありました。その最後は、リリウォカラニという女王でした。けれども、彼女の王朝を最期に、アメリカに併合されました。彼女は「アロハ・オエ」という大変有名な歌を作りました。それは別れの歌です。ハワイは複雑な歴史を持った島です。
 ある時、リリウォカラニが、イギリスのビクトリア女王と対談しました。リリウォカラニが、「実は私にも、イギリス人の血が流れているんですよ」と言うと、ビクトリア女王は驚いて、「えっ?ご先祖にイギリス人がいらっしゃるんですか?」と聞きました。
 すると、「いいえ、先祖の誰かが、イギリス人を食ったのです」と答えたそうです。
 そこには日系人が大勢います。しかし、日本人はクリスチャンが少ないので、日本人が救われるよう、同時に、アメリカとの接点の中でアメリカにも主が働いてくださるようにと祈りつつ、開かれます。ぜひお祈りください。

 今日は「二倍の祝福」というタイトルで学びます。私たちの神は、常に、二倍の祝福を与えてくださるお方です。日本の神々は、「一つあげたら、一つとる」という性格の神々です。与えた分だけとっていく、「ギブ・アンド・テイク神」です。
 日本の神々について勉強すると、「神にもなれば鬼にもなる」という神々だとわかります。ということは、初めから「鬼」なのです。しかしイエスさまは、良い方であり、二倍の祝福を与えてくださるお方です。

 聖書の中で一番大きな試練を受けた人物は、ヨブであると先週も話しました。ヨブの受けた試練を見ると、私の試練はまだ良いほうだと思える大きな試練を体験しました。それも、幸せの絶頂期に、大きな試練と出会い、持ち物のすべてがなくなってしまいました。またヨブ記をお読みください。しかし、ヨブ記四十二章には結論があります。それは、ヨブが回復されたという、ハッピー・エンド・ストーリーです。四十二章十節に、

『ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。』

 そして十二節に、

『主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。』

とあります。ヨブは旧約聖書中の人物で、神を知っている人物でした。しかし、旧約聖書から新約聖書への流れから、新約的視点によってストーリーを解釈すると、ヨブの前半の人生より、あとの半生が祝福されたというのは、「イエスさまを信じる前と、その後」とも捉えることができると思います。
 イエスさまを信じると、前の半生よりも、信じてからはもっと祝福されます。それも二倍の祝福を与えてくださるのです。
 私たちは教会に来て、神の法則を学びます。神が人間に対して持っておられる法則について学んでいます。法則を無視することはできません。法則に則らなければ、人生はうまくいきません。見える世界と、見えない世界に法則は適用されます。
 社会の中にも色々な法則があり、その法則から外れると問題が生じます。人間を幸せにするための法則を知る必要があります。

 ヨブは大きな試練に出会い、すべての持ち物を奪われました。しかしながら、神は二倍にして返してくださいました。
 ヨブ記一章三節に、

『彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。』

 ヨブ記一章三節には、「羊七千頭」と記されていましたが、四十二章十二節には、「羊一万四千頭」と「二倍」になっています。らくだは「三千頭」から「六千頭」になっています。また「牛五百くびき」が「一千くびき」、「雌ロバ五百頭」が「一千頭」と、すべてが倍になっています。
 これは主を信じるときに、二倍の祝福を与えてくださるという意味です。

 私たちは生まれながら、日本の文化・習慣に浸かっていますので、日本の宗教の影響がことのほか強くあります。日本の神々は、「一つ与えたら、一つとる」という、「陰陽の理論」を基にしています。それが心の受け皿として座っています。受け皿が変わらないままでイエスさまと関われば、一つもらっても、とられるようなクリスチャンもいるかも知れません。
 しかし神が人間に与えようとされている原則を知るときに、一つあげたら一つとるというのではなく、倍返ししてくださることを学ぶことができます。ですから、良いことがあったら、悪いことが起こるという考え方に支配されないよう、気をつけなければなりません。
 「今日は良い礼拝、良い賛美だった、次は気をつけなくては…」という考え方を持たなくても良いのです。今日祝福されたら、来週は更に祝福され、もっと注いでくださるという立場に立つことができます。
 イエス・キリストを信じることは素晴らしいです。イエスさまを信じると、人生に倍の祝福を受けます。やがて、地上から誰もが出て行かなければなりませんが、永遠の国・天国に連れて行って下さると教えています。
 クリスチャンは基本的に死を恐れていません。クリスチャンの歴史を見ると、多くの殉教者が出ていますが、そのほとんどが、いのちがけで信仰を守った人たちでした。いのちが欲しかったら殉教はできません。なぜ、殉教の歴史を持っているかというと、「永遠のいのち」があるからです。永遠のいのちがあるがゆえに、この地上だけではなく、永遠の希望を持つことが出来るのです。
 ヨブは半生が祝福されてたことが十二節から十四節に書かれています。

『ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。』

 ヨブが問題に遭遇した時、すでに子どもが十人いましたので、彼は相当な年齢でした。しかしその後、百四十年間生き、四代目まで見たとあります。それは「長寿の祝福」です。イエスさまを信じると、この地上でも楽しませてくださることを表しています。

 私の母方のおばあちゃんが亡くなって十五年経ちますが、大変長生きしました。彼女は東京で案外裕福な生活をしていましたが、七十才頃に新城に遊びに来て、イエスさまを信じました。それでこの世の快楽よりも、イエスさまとともに過ごしたいと言い、私たちと一緒に二十年以上生活しました。私は七人兄弟で、父と母で九人でした。家族数が二桁の大台には乗りたくないと思っていましたが、おばあちゃんが入って来たので、十人になってしまいました。クリスマスの時はケーキを十等分したので、一切れが鉈の先のような形でした。しかし二十年間、仲良く過ごしました。おばあちゃんは九十一才で亡くなりました。

 彼女が亡くなる二〜三日前、私はおばあちゃんにこう言いました。「おばあちゃん。早く良くなってよ」すると、「私はもう二、三日したら天国に行くから…」私は、「死ぬ日はわからないよ…」と思っていましたが、おばあちゃんは「二、三日したら天国に行くから…」と言っています。
 それで私は、「そう。じゃあ、天国に行ったら、イエスさまに、早く日本にリバイバルを起こしてくれるよう、頼んでくれよ…」と言うと、「ああ。そう言っておくよ」と答えました。
 すると本当に二、三日したら亡くなりました。その亡くなり方があっぱれでした。「苦しい。助けてくれ!暗いところに落ちていく…」というのではなく、おばあちゃんの最後の言葉は、「勝利は我もの。ハレルヤ!」でした。それを見て、「おばあちゃんは天国に行った!」と思いました。

 また私の父方のおばあちゃんも、九十才まで生きました。おばあちゃんは八十才でイエスさまを信じました。そして安らかに天に帰りました。
 亡くなる二、三日前におばあちゃんは意識を失いましたが、しばらくして意識が戻り、「あのな。俺は天国に行って来たぞ。すごく綺麗だった。花が咲き乱れていて、歩いても足が痛くなかったぞ。俺が死んでも、みんなに泣くなと言ってくれ。あんな素晴らしいところに行けるのなら、泣く必要なんてなにもない…」そして、安らかに天に帰って行きました。それもあっぱれな最後だったと思いました。
 ギリギリの状況の中、そのような言葉は、なかなか言えないと思います。しかしおばあちゃんたちの最期を見ると、「人生はこの地上だけで終わりではない。本当に天国がある」とわかります。
 神は地上でも二倍の祝福を与えてくださり、永遠の国・天国にまで導いてくださいます。それも、ただイエスさまを信じるだけです。

 イエスさまは私たちの救い主です。私たちの罪を赦してくださいます。罪があると私たちは天国に行くことができませんが、悔い改めるならば、きよい者として天国に入れてくださいます。なぜならば、イエスさまが私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださったからです。

 ヨブは試練に遭って後、百四十年生き、自分の子どもたちを四代目まで見たとあります。彼は重い病気になりましたが、回復したら健康の祝福をいただきました。

 昨年、病になった方々、今年は「長寿の祝福」をいただくのです。
 直っても、「いつ再発するだろうか」とビクビクする人たちがいますが、イエスさまを信じたら、再発を恐れません。
 ヨブは大変な病になりましたが、神様はいやしてくださいました。そして、その後、百四十年も生きたのを見ると、病で一度は倒れたとしても、立ち直り、健康で生きることが出来ると教えています。第三ヨハネ一章二節に、

 

『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』
 また第一テサロニケ五章二十三節に、
『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

とあります。神様は、私たちの魂を救うだけではなく、体もいやしてくださると教えています。奈落の底からはい上がってくるような人生ではなく、神は『あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である』事を願っておられるのです。
 これを英語の聖書で見ると、「たましいの祝福と同じように、健康であれ」となっています。クリスチャンになると、まず、たましいが健全になります。たましいとは、人格から体を除いたものであり、人間の本質です。精神活動の主体、自己、自我、それが「たましい」です。人間の中心はたましいであり、それが健全になるのです。なぜなら、神の法則を知り、神の規制されている場所には近づかなくなるからです。

 今は多くの精神的問題が社会を包んでいます。一説によると、引きこもりの人たちは現在、百二十万人と推計され、うつ病は三六〇万人程と言われます。それらは心の病です。
 私が古い家に住んでいたとき、まわりに、のら猫が十匹くらい住み着いていました。ちょっと油断すると、彼らは家の中に入ってきて食糧をあさるのです。家に帰って泥棒猫とはち合わせになったことが度々ありました。猫は私に気付き、すごい勢いで隙間から逃げていきました。次の日に、その猫と出会っても全く悪びれていませんでした。野良猫なので、次の日の食料の保証もありませんが、全く心配している様子もありません。私たちは、人間に生まれて良かったのだろうかと思います。

 しかしイエスさまは、私たちの心に触れてくださいます。イエスさまは、まず、私たちのたましいに平安を与えてくださいます。病は気からと言いますが、気持ちが弱ると病気にもなります。心に平安があると体も健康になります。

『あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』

 まず私たちは、たましいに幸いを受けることが大切です。たましいの幸いは神から来ます。イエスさまを私たちの救い主として受け入れるならば、私たちの魂が救われ、そればかりではなく、「たましいの祝福と同じように、健康になる」と聖書は教えています。イザヤ書四十三章四節に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

 これは神が人類に与えたラブレターです。「わたし」とは神様のことです。神が私たちを愛してくださっているという概念は、日本人にはありません。エペソ二章十節には、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 神は過去・現在・未来を現在形で持っておられます。未来がわからず、不安なときもありますが、私たちの創造者である神は、あらかじめ私たちの全てを備えてくださっているのです。どのような道筋を歩むのか、どんな空間を歩むのか、どんな人間関係を持つのか、未来の空間まで含めて神は創造済みだというのです。
 そしてそれは「良いもの」です。私たちのすべてが備えられているとは、何と素晴らしいでしょうか。それを、神様の手から受け取るべきです。

 らくだの親子がおりました。らくだの子どもがお母さんに質問しました。「お母さん。僕たちはなぜ、こんなに首が長いの?」するとお母さんは、「それはね。広い砂漠を遠くまで見渡すためだよ」と答えました。
 「じゃあ。僕たちの足はなぜ、こんなに太くてひずめが割れているの」「それはね。砂漠にめり込まないように、安定して歩くためだよ。」
 「じゃあ、なぜ、まつげが長いの?」「それは強い太陽に目をやられないように、保護しているんだよ。それから、砂漠には砂嵐があるでしょう。その砂が目に入らないように、保護しているんだよ。」と言いました。
 「じゃあ。なんでこんなに大きなこぶが背中に二つもあるの?」「それはね。砂漠には水がないから、水をためるタンクなのよ。」
 するとらくだの子どもが言いました。
 「じゃあ。なぜ、僕たちは動物園の檻の中にいるの?」

 砂漠に生きる動物、らくだにはすべてが備わっています。砂漠に対応するために造られています。しかし、動物園の檻の中にいたら、その機能が全く使われません。
 同様に人間は良いものとして造られましたが、その機能が使われていないことが多いのです。良いものと言うと、「牧師さん。人生、そんなに甘いもんじゃないよ」と言われてしまいそうです。
 人生は良いどころか、七転八倒して苦しみながら生き抜いていくように思います。なぜ、そのようなことがあるのでしょうか。それは、動物園のらくだのように、檻に入れられているからです。
 エペソ二章一節から二節。

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』

 人間を檻の中に閉じこめてしまうのは、「霊の仕業だ」というのです。悪魔・悪霊によって、人間が檻の中に閉じこめられてしまうと、せっかく高性能で高機能な人間が、身動きがとれなくなってしまいます。罪によって、悪魔・悪霊が働いて檻の中に入れられてしまいます。それゆえに人は自由はなくなり、束縛されるのです。

 ヨブは多くの試練を受けました。その中身を見ると、子どもが亡くなったり、財産を失ったり、病気になったりしました。その背景には、自然災害や強盗、病という理由がありました。しかし実は、それ以上の問題の根源に関わる理由がありました。ヨブ記二章七節から九節、

『サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」』

 ヨブ記の悲劇は、登場人物の誰一人として、ヨブが被った災いの根本的原因について気付かなかったということです。誰一人として、根本的原因について話題にもしませんでした。
 ヨブはただ、神から試練を受けたと思っていました。しかし、実は、根源に関わっていたのは神ではなく、サタンであったのです。ヨブ記の登場人物たちは、誰一人としてそれには気付きませんでした。気付くのは、ヨブ記の読者だけです。
 今日、私たちがヨブ記を読んだら、わざわいは神からではなく「サタンからだ」と気付きます。
 聖書は情報提供の書物です。私たちはそこから真の理由を見つけなければなりません。ヨブの病はサタンから来ていました。しかし、ヨブの妻はそれには気付かなかったのです。それで、「神をのろって死になさい!」と言いました。神がヨブに苦しみを与えたと思いました。彼らにとって、神は敵となっていたのです。

 私たちの人生を檻の中に閉じこめる敵がいます。そのことに気付かなければいけません。
 先週、私は色々な方とお話しをして、一緒に祈りしました。教会には、毎日のように祈りを求めて来られる方がいます。私はそのために働いています。スタッフたちは、その背後のとりなしの祈りをしています。色々な方々との接点があります。

 先週ひとりの方が教会に来られました。それは最近、自分の娘が教会に来るようになり、娘の紹介で母親が祈りを受けに来たのです。
 娘が来たのは、去年の七月の終わりでした。当時、彼女は痩せこけていて、いまにも折れてしまいそうでした。背の高さは普通ですが、体重は三十キロ代だと言われました。私はその方のためにお祈りしました。特に、その方の背後で働いている悪魔の力が打ち破られるようにお祈りしました。
 祈りにより、すぐに効果が現れる場合と、徐々に現れる場合とがあります。それは、神がその人に最適な方法で応じて下さるからです。先週は「主を待ち望む」ことについて学びましたが、彼女はイエスさまを信じ、解放を受けたことによって直ちに体重が増え始め、元気になりました。先週聞くと、彼女は十キロほど太ったと言われました。それでお母さんを連れてこられたのです。
 お母さんは自分の娘が癒されたのを見て教会に来ました。お母さんに、その頃の娘をどう思っていたのかと聞くと、「娘はしばらくしたら死ぬ」と思っていたそうです。お母さんは霊感の強い人で、人が死ぬときがわかるというのです。それは悪霊の力だと思いました。「娘はたぶん死ぬ」と思い、一才くらいの子どもがいたので、どうやってその子を育てて行こうかと考えていたそうです。
 しかし突如として、ある日を境に娘は変わったのです。理由を聞くと、「教会に行って祈ってもらったから」と言うのです。それを聞いて、お母さんも祈りを受けに来たのです。お母さんも娘と同様、聖霊様に触れられ、背後の悪魔の力が打ち砕かれました。
 彼女は何の原因もわからず、どんどん痩せていき、どうにもならなかったのです。けれども、イエスさまによって癒されました。しかしその背後に、敵の力が関わっていました。エペソ二章二節に、

『そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』

とあります。しかし神が私たちに立てている計画は、将来と希望を与える計画であり、二倍の祝福です。
 しかし、悪魔が立てている計画は、私たちにとって「最低、最悪の計画」をいつも練っているのです。最低最悪の計画は常にアップデートされており、更に悪い計画が仕組まれているのです。
 けれども、イエスさまを信じることによって、暗やみの力は破られ、回復してくださるというのが神の法則です。出エジプト記二十二章七節に、

『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』

とあります。これは十戒の中の「盗んではならない」という律法の、さらに細かい規定です。「盗人は二倍にして返せ」というのが神の法則です。
 旧約聖書から新約聖書になると概念が発展します。盗人とは、単なる盗人ではなく、目に見えない世界の盗人、「悪魔・悪霊ども」として発展しています。イエスさまは悪魔・悪霊どものことを、彼らは「盗み、殺し、滅ぼすもの」と語られました。人類から良いものを盗む犯人は、悪魔と悪霊どもです。
 盗人が見つかったならば、「盗人は倍にして償わなければならない」と教えています。多くの人々が、人生の良きものをサタンに盗まれていますが、そのことに気付きません。
 「人間関係が悪かった、生き様が悪かった。私の失敗。あの人の失敗…」と、環境や自分のせいにしています。しかし盗人の超本人は悪魔・悪霊どもなのです。それらが発見されたなら、倍返しで取り戻すことができるのです。

 新城教会には、一九九二年、主が敵についてはっきりと教えてくださいました。「敵は人ではない、悪魔に立ち向かわなければならない」と告げられ、敵が発見されたのです。盗人が発見されたなら、「倍にして」返してもらうことができるのです。失ったものは、二倍にして取り返すことができるのです。
 神様は、あなたに二倍の祝福を与えるお方です。そのためには、私たちの人生の背後で働いた敵を見つけなければなりません。
 神の法則がわかると、見えてくるのは「悪魔の策略」です。悪魔の策略を見抜くことは悪魔に立ち向かうことであり、盗人を見つけることになります。ゆえに、私たちは二倍にして返してもらうことができるのです。
 黙示録十八章一節から三節に、

『この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」』

 「彼女」とは、「大バビロン」です。黙示録は使徒ヨハネによって記されましたので、この時代、バビロンという国は無くなっています。ゆえに、大バビロンが何を指すのか、ローマ帝国を指すのか、特定の人物を指すのかわかりません。しかし何れにしても、悪魔・悪霊どもの巣窟となる要素が記されています。
 大バビロンは、「不品行と極度の好色」によって倒れたのです。現代社会を見ると、不品行と極度の好色で満ちています。毎日、職場では、朝から晩まで話題になるのはエロ話ではありませんか?「極度の好色」で満ちています。
 私たちクリスチャンは、きよくなければなりません。きよい歩みをしないと、大バビロンのように倒されてしまいます。「人生が倒れる秘訣」は、大バビロン・ストーリーにあります。彼らが倒れた理由は、不品行と極度の好色でした。さらに、二十三節では、

『ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。』

 古代バビロンは、かつて「魔術の国」でした。魔術の背景には必ず偶像礼拝があります。そして、魔術と不品行は表裏一体です。偶像礼拝と性的な罪はやがて国を倒し、人生を倒してしまう根源的理由になるのです。教会はそのことに立ち向かわなければなりません。
 日本はどうでしょうか。魔術で満ちています。魔術と一口に呼びますが、その範囲は広いのです。

 最近ファンタジーやバーチャル・リアリティーが流行っています。コンピューターの中の仮想空間で、自分が主役となって何でもできます。近ごろ、猟奇的な事件が多いです。バラバラ殺人など良くできると思います。

 先日、ある方の解放の祈りを導かせていただきました。その方が私にメモリー・フラッシュを持ってきて、「これは私の主人の趣味ですが、ちょっと見てください」と言われました。それを見て驚きました。それは、人間の体を切り刻んだ写真でした。それも実際の写真ではなく、コンピューター・グラフィックで実際よりもさらにリアルに作られていました。「これはまだましな画像です」と言って、見せてくれました。人間の体を解体したりすることが、仮想空間の中では自由にできるというのです。
 事件がなぜ起こるのかというと、そのような背後に悪魔の力が働いているからです。ファンタジーの多くにも、魔術が関わっています。巧みに、綺麗にラッピングされていますが、実は、その背後にエジプトやバビロンの魔術、占星術が関わっています。
 朝起きるとテレビで「今日の運勢」とやっています。それも魔術です。魔術は国を滅ぼすと教えています。ファンタジーやバーチャル・リアリティーに捕まえられてはいけません。信じられないような事件に引き込む力となってしまいます。私たちは、危険な時代に生きていますが、その背後の悪魔を見抜き、盗人は誰かということに気付かなければなりません。
 魔術から解放されるならば、あなたは祝福を受けることが出来ます。そして神様が定められた法則は、イザヤ書六十一章七節、

『 あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。』

 「人生に屈辱的なことがあった」と、昨日もある方が言われました。一般に、そんな体験があったら、二度と立ち上がることはできないと思いす。
 しかし神様は、「あなたがたは恥に変えて二倍のものを受ける」と言われます。私たちの信じる神様は、決して一つ与えたら、一つとってしまう神ではなく、祝福の上に祝福を積み重ね、二倍を与えてくださるお方なのです。「その国で二倍のものを所有する」と告げています。ヨブがそうであったように、私たちもそのようになるのです。

 それはイエスキリストと出会うときに、成されます。今日、恥に変えて二倍の祝福を受け取りましょう。また良きものを盗み、私たちを惨めにする悪魔に立ち向かい、その策略を見抜きましょう。

 イエスさまを信じたら、ぜひ、バプテスマを受けてください。今日もバプテスマがありますが、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」と聖書にあります。
 バプテスマは一つの神秘です。それにより、救いが定着します。

 先週、ある、おじいさんとおばあさんの家を訪問し、家庭集会をしました。おじいちゃんとおばあちゃんは、まだバプテスマを受けていなかったので、バプテスマを勧めました。すると始めは、「仏壇と墓があるからなぁ。」と言っていましたが、私は一生懸命に伝道しました。
 私は、「バプテスマを受けたからといって、水から上がった途端、額に十字の入れ墨が入るわけではないから、大丈夫だよ」と言いました。
 するとおばあちゃんが、「うん。そうだね。でも、心に十字の入れ墨が入るね」と言いました。心に入れ墨ならぬ、聖霊の焼き印が入ります。イエスさまを信じてバプテスマを受けるならば、心に焼き印が押され、主の民として二倍の祝福を受けるのです。

 人生で関わった偶像礼拝、不品行、魔術などからの悔い改めと解放を祈りましょう。また「ヨブが友人のために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、更に主はヨブの所有物をすべて二倍に増された」と聖書にあります。
 この友人たちはかつてはヨブの友人でしたが、敵となっていました。試練のただ中でヨブは友人たちに責められ、彼らを憎んでいたと思います。
 しかしヨブはその憎しみから解放され、友人たちの祝福を祈りました。その時、元どおりにされたとあります。聖書は、「霊」、「肉」、「たましい」という領域が「人間」と定義づけています。霊的な領域は、偶像礼拝、魔術からの解放です。また、心の領域は、特に、憎しみからの解放です。そして、体の領域は、不品行や極度の好色からの解放です。

 私たちは神の法則を知っています。罪を悔い改めたら赦されます。そして二倍の祝福を与えてくださいます。
 今日は、ファンタジーやバーチャル・リアリティーについても祈りましょう。主から自由をいただきましょう。ともに祈り、二倍の祝福を受けましょう。

(祈り)
「イエスさま。今私はイエスさまを、私の救い主として受け入れます。私の人生に来てください。私に二倍の祝福を与えてください。私の霊とたましい、肉体を完全にきよめてください。偶像礼拝、魔術からも解放してください。ファンタジーの世界の魔術の力と完全に断ち切ります。テレビやコンピューターの背後に働く、悪魔の力を断ち切ってください。心の領域にも、安らぎを与えてください。私を元気にしてください。心が健康になりますように。自由になりますように。憎しみから、完全に解放してください。肉体の領域も守ってください。汚れに染まることがないように。過度な好色、不品行から守ってください。すべての罪を赦し、盗人、悪魔が持ち去った良きものを取り戻してください。イエスさまのみ名によって、聖霊によってお祈りします。アーメン。」

 クリスチャンになる前に、神社で賽銭を投げたことがある人はいますか?これは、経済を支配している悪魔との契約です。ですから、今日はそれを断ち切って祈りましょう。
 私は、教会における献金の役割は重要だと思います。それは額ではなく、経済と神との関係づけの契約だからです。悪魔は、神に対する献金の祝福を逆手にとって、自分と関係づけをします。その結果、悪魔に経済を握られます。ある時には祝福されるように見えますが、根こそぎ持って行かれてしまいます。

(経済の回復のための祈り)
 「イエスさま。今まで経済の領域を悪魔に取られていたならば、取り戻してください。悪魔に献金した罪を赦してください。神社で賽銭を投げ入れたことを赦してください。その時に奪われた、経済の祝福を完全に取り戻してください。二倍にして、取り戻してください。経済的に苦しむことがないように守ってください。勝利を宣言します。イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。」


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