何をやってもうまくいく!

2007.1.28(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 詩篇1篇1節〜3節
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

 ハレルヤ!おはようございます。こうして御言葉を語ることができて感謝します。一月は新城教会において、すべての礼拝で奉仕させていただけることを、感謝します。一月は、主によって一年を方向付ける為のみ言葉を語らせていただいています。先週は、「二倍の祝福」というタイトルで学びました。そして今日は、先週のみ言葉を引き継ぎながら、「何をしてもうまくいく!」というタイトルで学びたいと思います。

 今はちょうど受験シーズンで、色々な方面で試験がなされ、うまくいったり、うまくいかなかったりと、一喜一憂している人がいるかも知れません。しかし、聖書は「すべてのことが働いて益となる」と記されていますので、すべて主がうまくやってくださいますので、リラックスして精一杯勉強していただきたいと思います。クリスチャン人生は、「良いこともあれば、悪いこともある」という人生ではなく、祝福に祝福を重ねて生きる人生です。

 先週はヨブ記から学びましたが、ヨブの半生は大変でした。しかし最終的には主がヨブを回復してくださったと学びました。ヨブ記四十二章十節に、

『ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。』

とあります。一時は失った時期もありましたが、最終的に神が「二倍に祝福された」と記されています。

『主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。』

 始めよりも後が祝福される、というのが聖書の原則です。クリスチャンは信仰によって歩んでいます。それはみ言葉を信じて歩むことです。み言葉を学び、み言葉を自分に適応していくことが大切です。
 さて、聖書は六十六巻あり、四十人以上の筆者により、時代や文化や背景の違う中で記された書物です。それが神の霊によって一冊にまとめられた、と聖書自体が証言しています。「ヨブ記」の次の書は「詩篇」です。ヨブ記は四十二章が最後の章ですが、その次が詩篇です。ヨブ記の次に詩篇があるのは偶然ではなく、神の支配があったと信じます。「ヨブは二倍の祝福を受けた」と結論づけ、続く詩篇一章一節からは、

『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』

とあります。「その人」とは、ある意味において、「ヨブ」を指しているのかも知れません。また、「その人」とは、私たち自身をも指しています。
 今日午後から、サンデースクールが行われます。山崎ランサム和彦先生が三回シリーズで「新約聖書の歴史」について語ってくださいます。彼は聖書の専門家ですので、ぜひ、楽しみにしてください。わかりやすく教えてくださると思います。
 新城教会はとても恵まれています。色々な領域に特徴を持った人々がいて、皆が共有し合って一つの教会として成り立っています。

 私は先週、四日間冬休みをいただき、家族旅行をしました。家族五人でお金のかからない旅行をしました。それでもグアムに行きました。私は一年間コツコツとマイルを貯めて、五人分の往復無料チケットを手に入れました。しかしそれは一年間使わないと権利が消えてしまいます。だから今回グアムに行ってきました。名古屋から約三時間で常夏の国に行くことが出来ます。安いホテルに泊まりました。するとそこに何と、新城教会の若者軍団五人組が泊まっていました。彼らは最も安いツアーで来たようです。おかげで、朝食と夕食の二回もおごらされてしまいました。
 私はグアムをよく知っています。彼らが私に「日本人のいない静かなビーチに連れて行ってくれ」と言いました。そこで私は、彼らを車で連れて行きました。すると途中に公園がありました。それは日本人が作った公園でした。中に「平和寺」という寺があり、仏像と共に日の丸が奉納されていました。しかしその日の丸をよく見ると、たいへん驚くことがありました。それは新城市からの慰霊団の旗でした。教会近所に住む私の知っている人たちの名前も記されていました。新城からの慰霊団が、二十年ほど前に奉納したものでした。私たちは悪しきつながりが断ち切られるように、真剣に祈りました。

 神様は不思議なお方です。遊びに行っても、主の働きが待っています。神様はすべてを用意されていると感じました。皆さんにも、神様が計画を持っておられます。遊びに行ったとしても、現地において主の働きが待っています。私はグァム島で、それも新城の人たちが、真剣に偶像礼拝をしているのを見て驚きました。しかし、勝利を祈ることができました。
 私たちがイエスさまを信じるなら、「何をしても栄える」と詩篇に約束されています。

 「その人」という言葉が、一節から三節までに四回も出てきます。「その人」という所に自分の名前をいれて読むと良いと思います。

『まことに、その人(滝元順)は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人(滝元順)は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人(滝元順)は、何をしても栄える。』

 一節に、『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。』とありますが、人間は皆、罪人です。罪がないと言える人は一人もいません。
 ある時、嘘つき大会があり、優勝したのは「私は今までに一度も、嘘をついたことがありません」と言った人でした。嘘をついた事がない人、悪口を言ったことがない人などはいないと思います。皆、罪人です。「悪者のはかりごとに歩まない」、また、「罪人の道に立たない」ということは、イエスさまの十字架によって、罪が赦されたから言えるのです。
 教会のシンボルは十字架です。それは、イエスさまが私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったゆえに、私たちは罪人の道に立たないで済むのです。

 さて、イエスさまの十字架には、どのような意味があったのでしょうか。罪が赦され、永遠のいのちが与えられるという意味がありますが、ガラテヤ書三章十三節から十四節にもう一つの意味が記されています。

『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』

 イエスさまが呪われた者となってくださったことによって、私たちの罪は赦され、永遠のいのちを受ける者となりました。そしてイエスさまの十字架は、「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスにあって異邦人に及ぶため」とあります。
 「異邦人」とは私たちのことです。ユダヤ人から見れば、私たちは異邦人です。アブラハムが受けた祝福を私たちも共有するのです。また、その結果は「聖霊を受けるため」と教えています。

 ということは、何をしても栄える「その人」とは、「アブラハム」を指し、「アブラハムの祝福が私たちの所に来るため」に、イエスさまが十字架で死んでくださったのです。
 ゆえに、「アブラハム」という人物はクリスチャンの手本となる人物でもあります。創世記一章から十一章までは、天地創造からアブラハムまでの歴史を凝縮して記されていますが、それと同じくらいのボリュームで、アブラハムという一人の人物について記されています。
 ということは、アブラハムという人物は、鍵を持った人物であり、私たちクリスチャンを代表する人物なのです。そして、この人物について学ぶとき、彼に与えられた祝福を共有できるのです。アブラハムは、もとは「アブラム」でしたが、後に、「アブラハム」と名前が変えられました。創世記十三章二節に、

『アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。』

とあります。彼は経済的にたいへん豊かな人でした。それだけではなく、霊的にも精神的にも、すべての面で豊かな人でした。
 クリスチャンには何となく、「きよく、貧しく、美しく…」というようなイメージがありますが、それはカトリックの影響が強くあると思います。しかし聖書を読むと、クリスチャンとは、すべての面で祝福された種族なのです。

『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』

とありますが、主はあなたを経済的にも祝福しようと願われています。アブラハムが祝福されたように、あなたも祝福されます。
 しかしアブラハムは自分の利益を求めず、他人の利益を計り、主のみこころを求めた人物でした。
 彼は甥のロトとともに行動していました。ある日彼はロトに、「一緒に行動していて喧嘩になってはいけないから、別れて住もう」と提案しました。そしてロトに、「どこでも良いと思われる場所を選ぶように」と言いました。ロトは欲が深く、低地の緑が豊かな方面を選択しました。それはソドムとゴモラと言う地域であり、後に滅ぼされてしまいましたが、そこは肥沃な土地でした。アブラハムはロトが言うままに、争わずに肥沃な土地をロトに与え、荒れ地を選びました。
 彼らの仕事は放牧でしたので、草があるかないかが自分の利益と財産に関わることでした。その選択は、アブラハムにとっては不利益でしたが、彼はロトの利益を優先しました。

 当時は、それぞれの町に王がいて、小競り合いがありました。ある時、ケドルラオメルという王が中心となり、ソドムとゴモラの王たちを襲いました。その結果、ロトを含めて町の住人と財産のすべてが持ち去れるという、事件が起こりました。
 私たちにも将来、何が起こるのかわかりません。それは神様にしかわかりません。ある時は自分の選択が不利益だと思うときがあるかも知れません。しかし、アブラハムのようなスタンスを常に保っていたら、将来もうまく導びかれるのです。
 ロトは自分で選んだゆえに、最初は良かったのですが、最終的には全てを持ち去られてしまったのです。

 しかしそれを聞いたアブラハムは、何をしたのでしょうか。創世記十四章十四節から十六節、

『アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。』

 アブラハムは遊牧民でした。周囲の人々も戦士ではなく、奴隷やしもべたちで、羊を飼う専門家たちでした。しかしアブラハムの一族が立ち上がり、彼らを追跡し、打ち破り、奪われたものを全て取り戻したのです。

 アブラハムの行動に、クリスチャンの行動を重ねることができます。時々、私たちは弱く見えるかも知れませんが、私たちは主の勇士です。アブラハムの戦いは、最終的には霊的戦いを意味しています。クリスチャンは戦う種族であり、目に見えない敵と戦うのです。奪われたものをアブラハムが取り返したように、私たちも敵を発見し、奪われたものを二倍にして取り戻すことができるのです。
 アブラハムはロトとソドムとゴモラの財産まで、全てを取りもどしたのです。
 神は私たちにも力を与えてくださり、町を略奪する力を打ち砕く働きをさせてくださるのです。

 アブラハムはすべてを取り戻し、親類ロトも取り戻して帰ってきました。砂漠の遊牧人たちが、周辺の街々の王たちの軍隊に勝って、勝利を治めたのです。

 アブラハムが凱旋したとき、一人の人物が彼を出迎えました。創世記十四章十八節から二十節、

『また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。』

 それが「メルキゼデク」という人物です。新約聖書では、ヘブル書五章と七章に「メルキゼデク」が引用されています。それは、旧約聖書中にご自身を現わされた、「イエスさま」として捉えられています。
 メルキゼデクは旧約聖書中、創世記にしか出てきません(厳密に言うと、詩篇に引用がありますが)。彼についての背景は全くわかりません。けれども、アブラハムから十分の一を受け取りました。これは、イエスさまご自身と重ねられています。アブラハムは、「メルキゼデク」に戦利品の十分の一を渡したのです。

 さて、アブラハムはなぜ、祝福されたのでしょうか。それは、アブラハムの行動から学ぶことができます。

 アブラハムはソドムの王が持ち去った、すべてを取り戻してきました。その時点で、すでにソドムとゴモラの王たちよりも、アブラハムには力があることが証明されています。ソドムの王とアブラハムの会話が記録されています。創世記十四章二十一節から二十三節に、

『ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。』

 アブラハムは、ソドムとゴモラの財産を自分の物とすることも出来たのです。しかしそれを全てソドムの王に返しました。なぜならば、「お前を富ませたのが私だ」とソドムの王に言わせないためだとあります。
 アブラハムは富んでいましたが、彼が認識していたことは、「富は神によって与えられたもの」という理解でした。

 今日皆さんの中で、富んでいる方もおり、富んでいないと言われる方もおられると思います。私たちが任されているものについて、「自分が稼いだのだから、全て私のものだ」と思いがちですが、決してそうではありません。「神が私たちを富ませてくださった」のです。「人を富ませるのは神である」という認識をアブラハムはしっかりと持っていたのです。ゆえに、神はアブラハムを祝福されたのです。
 私たちも毎日働いていますが、健康で働くことができるのは、主が私たちを助けてくださっているからです。私たちの生活のただ中に、主が働く領域を常に認める必要があるのです。それゆえに、主はアブラハムを祝福してくださったのです。

 アブラムは自分の戦利品の十分の一を、メルキゼデクという祭司に与えたとあります。アブラハムは戦いの勝利も、神が勝利を与えてくださったという、神の領域を常に認めていたのです。ですから十分の一を、神のためにささげました。
 アブラムが十分の一をメルキゼデクにささげた後に、神の言葉が臨みました。創世記十五章一節に、

『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」』

 神が彼を祝福した背景に、彼の生活の中に、「神の領域を確保していた」というところに秘訣がありました。

 教会では毎週、献金があります。献金があるので、「教会で会費を取られた」と誤解する人もいるかも知れません。
 皆さんの尊い献金によって、いつも支えられていることを心から感謝しています。特にこの教会には、多くの施設が与えられています。これは初代に救われた方々が、真剣にささげて、神の宮を建てる努力をして下さった結果です。
 この会堂は、一九八〇年に建ちました。今年で二十七年目になりますが、まだまだ良い感じです。教育館もあり、カフェもあります。皆さんがリラックスして教会で過ごせるように、施設が整っています。これは、特に、初代のクリスチャンたちが真剣に祈り、ささげてくださったゆえです。その為多くの方々がその後、教会に加わることができました。さらに、後から加わられた方々も、維持するためにささげてくださっていて今があります。心から感謝します。

 ある意味で献金は重要だと思います。アブラムは十分の一をささげましたが、額の多少ではなく、献金とは、私たちの経済のただ中に「神の主権、神の領域を設定する行為」なのです。それが重要だと思います。

 新城教会の献金ポリシーは、第二コリント九章七節にあります。

『 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。』

 毎週献金がありますが、「喜んでささげる」ことができる額を献金してください。しかし、アブラムが十分の一をささげたという記録と共に、マラキ書三章十節から十二節には、次のように約束されています。

『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。』

 あなたが受け取った、十分の一を神様のために返してみなさい、そうしたら、それが大きな祝福となるという約束です。
 私たちが「喜んで」主の前に、十分の一をささげたら祝福となって戻ってくると約束されています。
 十分の一とは何でしょうか。全収入の十分の一ですか。それとも、経費を抜いた十分の一ですか。それとも、時間の十分の一ですか。労働力の十分の一なのかと、定義付けは難しいです。しかし、それは自分の信仰で決めれば良いことだと思います。
 何れにしても、自分に与えられている領域の中で、あるパートを神の前に、「これは神の分です!」と宣言すること、「神の領域を設定すること」が私たちにとって祝福の鍵となり、また種となるのです。自分でしっかりと決めることが大切です。

 アブラムが十分の一をメルキゼデクにささげたとあります。その後に、「あなたを祝福する」という言葉が主からあったように、私たちも、すべての領域の中に、「神の領域」を宣言することが重要だと思います。

 先週も皆さんとともに祈りましたが、悪魔もその領域についてよく知っています。初詣では、必ず賽銭を投げさせます。賽銭を入れずに拝んだら罰が当たるように思わせます。それは、経済の領域の中に、悪魔が自分の領域を確立させるための契約なのです。ゆえに悪魔は、常に経済の中に居場所を持ち働きます。
 しかし神に献げることは、経済のただ中に神の座を設ける契約なのです。私たちがどのように十分の一を設定するのかについては、それぞれに任されていますが、神の前に、「これは神の働きのためです。」と設定し、神のために聖別して使うことが重要です。
 今年、祝福されるためには、皆さんの時間や経済など、すべての領域に、神の領域を設定して下さい。それは、何をしても栄える為の一つの条件であると信じます。ぜひ実行してみてください。

 アブラハムには、約束の子「イサク」が生まれました。イサクとは、待ちに待って神から与えられた子どもでした。そして、イサクも祝福を受けたと記されています。創世記二十六章十四節から十七節に、

彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。

『それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。』
 また、十九節から二十節、

『イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。』

 イサクは大変祝福されました。だから周りから妬まれました。人間は悲しいことに、妬み心があります。時々、誰かが祝福されると妬み、喜びを共有することができない場合があります。イサクは大変祝福され、そのために妬まれたところがありました。特に、井戸を持つことは家畜を養うために重要でしたが、周りの羊飼いたちが来て、「これは俺たちのものだ」と言って、イサクを追い出しました。彼の生涯を見ると、何度か追い出されています。しかし彼は争いを好まない人でした。「イサクは争った」と記されていますが、全体を読むと、彼は争ってはいません。彼は平和主義者でした。そのような中、神が彼を祝福された事実を見ることができます。

 時々あまり利益にならない、損をしてしまうように感じることがあるかもしれません。しかし争いは神の働きを実現するものではありません。私たちは悪魔に対しては闘争的であっても、人に対しては平和でなければなりません。
 創世記二十六章二十四節から二十五節、

『主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。』

とあります。神がイサクに現れて、「アブラハムのゆえにあなたを祝福します」と言葉が付け加えられています。
 信仰を持つことは、新しい世代に対しての責任があります。初代のクリスチャンは「困難の中での信仰」という役割があるのかも知れません。しかしそれは、新しい世代のために果たすべき、重要なポジションなのです。
 今日私がここで働くことができるのは、両親がクリスチャンで、因習深い新城で妥協せずに戦ってくれたからです。それゆえ、私はその勝利の上に乗っかって働くことができます。

 ロケットの打ち上げを時々見ますが、ロケットは三段くらいになっています。人工衛星を打ち上げるとき、一段目のロケットには太い大きなエンジンがついています。打ち上げにはすごい推力がいります。しかしそれが上昇すると、一段目のロケットは切り離され、二段目ロケットに点火されて飛び立ちます。やがて、二段目ロケットが燃え尽きると、今度は三段目ロケットが飛び出していきます。そして、最終的に人工衛星が宇宙に放出されると、衛星は無限に地球の周りを回り続けます。

 ある意味で、クリスチャン生活も似ています。「偶像礼拝は三代、四代ののろい」とありますが、クリスチャンになってからの三代、四代はちょうどロケットのようです。まずは偶像礼拝の強い束縛を打ち破るために、一段目ロケットが噴射し、大きな推力がいります。悪霊の支配する大気圏を抜け出すまでには大きな力がいります。しかし二段目に点火されると一段目よりも楽になります。そして、三段目、四段目くらいには無限に軌道を回り始めるのです。
 しかし、ロケット打ち上げが最も難しいのは、一段目ロケットの切り離しの時です。一段目の推力が落ちてしまうと、全体が落ちてしまいます。
 ある意味で、初代のクリスチャンは、すごいパワーを必要とするのかも知れませんが、二代目に切り替わると楽になり、三代目は更に楽になり、四代目にはそれが自然になるのではないでしょうか。
 日本の社会では、偶像礼拝に妥協せずに生まれた世代がまだありません。日本には悲しい歴史があります。第二次世界大戦時には、教会は日本国政府によって一つに集められ、「礼拝を守っても良いが、まずは礼拝前に神棚を拝んでからにしろ」と、教会の十字架の上に神棚を作らせ、君が代を歌い、宮城遙拝をしてから礼拝を始めました。信じられない事ですが、そのような中、命をかけて犠牲となった牧師たちもいました。しかし多くのクリスチャン、牧師たちが迫害に屈したという、悲しい歴史があります。今は信教の自由が保障されていますが、今後、どうなるかわかりません。しかし、私たちがしっかりとした土台を作っておくならば、二代目、三代目はさらに楽になると信じます。私はこれからの新しい世代に期待しています。
 ここには初代のクリスチャン、二世、三世の方々もおられますが、それぞれの世代には役割があり、次の世代に対して責任を果たすものです。イサクが祝福されたのは、初代の信仰者アブラハムのゆえでした。初代のクリスチャンたちが信仰の火を燃やすならば、何をやっても栄えるという祝福を、一族が共有できると教えています。
 またイサクもまた、すべてに神の領域を意識した人物でした。私たちも、毎日の生活のただ中に、神の領域を設定して歩むことが大切です。詩篇一篇に、

『その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』

とあります。この近くにも川があり、川の畔は木の生長が違うのを見ることができます。大きな木が並んでいて、どこに川があるのかすぐにわかります。川のそばに植わった木々は水には苦労しません。その為に、すくすくと育ちます。私たちも川のほとりに植わっているクリスチャンであり、何をしても栄えるものでありたいと願います。詩篇一篇は賛美になっています。

主の教えを喜びとし 昼も夜もその教えを口ずさむ
その人は水路の側に 植わった木のようだ
時が来ると 実がなり
その葉は 枯れない
その人は 何をしても栄える

 聖書は、最初に出てきた言葉が、最終的に何を意味しているのかにより、最初の意味を置き換えることができるという法則があります。
 水路、水とは、最終的には聖霊様の働きについて教えています。だから、川とか水が聖霊様ご自身であり、聖霊の流れのそばに植わっている人たちは何をしても栄えると理解できます。
 今年一年間、祝福される秘訣は、聖霊に満たされて歩むことです。それが何をしても栄える秘訣となります。第一サムエル記十章六節から七節に、

『主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。』

 これはイスラエルの最初の王であったサウルに語られた言葉です。
 「手当たりしだい何でもしなさい。何でもうまくいきますよ。主があなたとともにおられるからです。」こんな人生を送ってみたいです。その条件として、「主の霊が激しく下るならば」となっています。
 神様は、「父なる神」、「子なる神」、そして助け主、「聖霊なる神」です。聖霊様は私たちの助け主ですので、助け主を意識しなければなりません。常に神の領域を設定すると話しましたが、それは聖霊様を歓迎するということです。主の霊が激しくあなたに下ったならば、手当たりしだい何でもしなさい、というこのみ言葉も賛美になっています。

主の霊があなたに天から激しく注がれる 
天から激しく注がれる
主の霊はあなたを新たな人に変えられる 
新たな人に変えられる
主の霊注がれ  みなぎる主の力
主の霊注がれ 現れる主の栄光
主がともにおられるから 手当たりしだい何もかも
手当たりしだい何もかも 現そう主の栄光

 聖霊に満たされた人生は、祝福に満ちた人生です。ピリピ二章十三節から十四節に、

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。』

 聖霊に支配されると、考えの中に主が働いてくださいます。「志」が与えられ、「事を行わせて」下さるというのです。時にはつぶやきが出たり、疑いが出たりしますが、神が与えた志は必ず着地するのです。
 時々私たちは「神様。私に導きを与えてください」と祈ります。その祈りも大切ですが、聖霊様の働きは、私たちの心のただ中にあり、あなたに志を与え、それを実現させてくださるのです。それは、手当たりしだい何もかも、うまくいくと教えています。

 一九九二年二月十三日、私たちの祈りのただ中に、主の霊が激しく下ったという体験があります。それから、ある意味でこの教会もうまくいくようになりました。それまで、私たちの働きはとても人間的でした。教会の五年後、十年後はどうなるだろうかと、五ケ年計画、十ケ年計画を立て、計画に沿って計画と達成率にどのくらいの差があるだろうかと、ビジネス的手法を使っていました。しかし、九十二年に聖霊様が私たちの所に訪れてくださったとき、積極的な意味で「あなたのビジョンを放棄しなさい」と語られました。
 時々、「あなたのビジョンは何ですか?」と聞かれます。もちろん、ビジョンも必要ですが、時々、ビジョンが野心に変ってしまうことがあります。
 しかし聖霊様が訪れるときに、人間的な計画ではなく、聖霊ご自身が私たちの中に志を与え、事を行わせてくださるのです。ゆえに、手当たりしだい何もかもうまくいく、という祝福を体験させていただいています。ある意味で、計画を放棄したような所がありますが、主が私たちのただ中に働かれる現実を見せてくださっています。甲子園ミッションから始まり、今までの歴史を見る中で、神が起こしてくださった奇跡の足跡を多く見ることができます。私たちの中心は自分の計画ではなく、みこころの中心を聖霊によってつかむことができるようにと祈っています。それは聖霊ご自身によって可能になることです。

 今年も一年、ひとりひとりが聖霊に満たされるように祈り、心に志を与えられ、手当たりしだい何もかもうまく行く事を願います。
 川のほとり、水辺に立っている木は、葉も枯れず、時が来たら実をならせ、いつも成長しています。別に木は努力しているわけではないのです。川の側に植わっているがゆえに、自動的に実を結ぶサイクルを持っているということです。
 私たちも聖霊に満たされて歩むならば、実を結び、祝福されます。今年は、何をしてもうまくいくことを願っています。お祈りします。


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