もう間もなく!

2007.2.11(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 使徒の働き1章3節〜8節
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今年は冬があったのか、ないのかわからないような温かい日が続いていますが、スキー場などは困っているようです。
 今日は「もう間もなく!」というテーマで学びます。「もう間もなく…」と聞くと、「もう間もなく春が来る!」と感じます。また、結婚を控えている方は、「もう間もなく結婚」、また受験生にとっては、「もう間もなく合格発表」、また、赤ちゃんが生まれる予定のある方は、「もう間もなく出産」、ある方は、「もう間もなく定年」…と、色々な「もう間もなく」があると思います。
 しかし私たちクリスチャンは、「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けます」という期待をしなければなりません。
 今晩から、「リバイバル拡大聖会」がありますので、ぜひご参加ください。一九九二年二月十三日、拡大聖会後に連続祈祷会を行っていたただ中に、激しく聖霊が注がれました。その時から私も変えられ、新城教会も祝福されはじめました。それはリバイバル拡大聖会のただ中で起こったことでした。日本にリバイバルを起こして欲しいという願いを持って祈っていたときに、主が訪れてくださいました。今週も、三夜連続で徹夜祈祷会を行いますので、ぜひお越しください。

 この「もう間もなく」を、英語の聖書で読むと「in a few days」となっていました。「数日の間に」という意味です。イエスさまは、「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けます」と言われました。聖霊の訪れは、期限が決まっておらず、際限なく祈ったのだろうかと思っていましたが、そうではなく、主は、「数日の間」と約束してくださっていたのです。ですから、彼らは希望を持って祈っていたのだと思います。
 私たちも、数日間に主が激しく訪れてくださると信じて祈りたいと思います。今晩からの拡大聖会は、「ハワイ・リバイバル・ミッション」のためにも祈るひとときです。講師として、ホノルルから黒田朔先生が来てくださいます。ぜひご参加くださり、恵みを受けてください。
 使徒の働き一章三節に、

『イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。』

とあります。イエスさまは十字架で死なれましたが、三日目によみがえられました。これは歴史的事実です。使徒の働きは、ルカによって記されました。ルカの福音書一章一節から四節に、

『私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。』

 二週間前に、山崎ランサム先生から素晴らしい聖書講義を受けました。特に、旧約聖書から新約聖書に至る、四百年間の中間時代についての時代的背景について学びました。聖書の記述は、歴史的な事実に基づいていることであり、決して、でっち上げの空想話や神話とはレベルが違うということが、はっきり理解できたと思います。
 今お読みした聖書箇所には、「イエスさまはよみがえられた」そして「今も生きておられる」とあります。
 もしもイエスさまが死んだままで、よみがえりがでっち上げの神話だったらどうでしょうか。それは空しいことです。今日、このように多くの方が集まられていますが、イエスさまの十字架やよみがえりがすべて嘘で、神話であったら空しいのです。朝早く起きて教会に来たのも、無駄足、無駄骨になりかねません。聖書も、そのことについて言及しています。第一コリント十五章十四節に、

『そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。』

また十五章十九節に、

『もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。』

とあります。イエスさまがよみがえらず、聖書に書かれているストーリーが全て嘘ならば、あなたがたは一番哀れだと語っています。また牧師は嘘つきの親分になってしまいます。皆さんは、空しい者たちの集まりになります。教会は嘘つきと空しい人々の集まりになります。しかし、復活が事実であれば、本当にすごいことです。

 今日は「建国記念の日」と言われます。昔の人ならば、「紀元節」と言うとわかると思います。これは初代天皇である「神武天皇」が即位した日であるとし、それを「建国の日」として祝っているのです。
 しかし日本の歴史の登場人物は、かなりの率で歪曲され、嘘や作り事が多いのです。神武天皇の即位は、「紀元前六六〇年」とされています。それから天皇家は一二〇数代続いていると言われます。
 しかし考えてみると、紀元前六六〇年は「縄文時代」です。人々は狩猟民族であり、竪穴式住居に住んでいたような時代です。暦もなく、支配構造もできていなかった時代です。それにも関わらず、神武天皇が即位したいうのです。
 実は一代目から九代目までは架空の天皇です。十代目の崇神天皇からはたぶん実在した天皇と言われます。辻褄を合わせるために架空の天皇を置いているのです。これは政治的理由です。
 近頃、聖徳太子は、実在しなかったというのが定説になってきています。聖徳太子は生まれたときにすぐ言葉を発した天才児とされ、幼児期に既に高僧の悟りに達し、十人の言葉を同時に聞き、それに的確な判決を下し、未来の出来事を予測し、仏教と儒教を短期間に極意に達し、十七条の憲法を作ったという、スーパーマンです。そんな人はいないのです。それは、天皇家の血統に生まれ、生まれながら天才で、仏教も儒教も頂点に極め、歌を作る能力、政治的調整力、慈愛にも満ち、憲法を作るほどの能力があり、信仰心も厚い、こういうスーパーマンが生まれるのが天皇家であり、天皇家に仕えていけば間違いない、クーデターなんか起こすなというものです。政治的支配とプロパガンダのために、このような人物がでっち上げられたのです。日本神話は想像の産物です。空想の産物を根拠を置いて国を建てるなら、空しいこと極まりありません。

 しかし私たちは、事実の上に信仰を建てあげているのです。
 山崎先生の授業でも学びましたが、イエスさまが生活されていた当時、イスラエルはローマの属国でした。ユダヤ人には人を死刑にする権威がありませんでした。ゆえに、イエスさまはローマによって死刑が実行されました。これは隠すことができない事実でした。そしてイエスさまが亡くなられて三日目によみがえられましたが、それが嘘であったのならば、ローマのイスラエル支配にも、大きな影響を与える出来事でした。ローマ帝国からは、イエスさまはユダヤ教の異端児のように思われていました。そのような中から、ユダヤ教徒たちから訴えられ、最終的に死刑になりました。そんな人物がよみがえったとする虚偽が広がったら、大きな事件になってしまいます。
 先日フセインが死刑になりましたが、三日目によみがえったという噂が出たら大変な騒動になってしまいます。けれども、それが嘘ならば、やがて噂も消えてしまうと思います。
 しかしイエスさまの十字架と復活は、ローマ支配の中にあっても、社会において隠すことのできない事実として、人々に認められたのです。それが、数多くの書物に記されているとルカが記しているように、これは歴史的な事実なのです。
 私たちの信仰は、決して偽りではなく、事実に基づいていることを知る必要があります。イエスさまは苦しみを受けて後、よみがえられ、『四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。』とあります。ですから、本当に、よみがえられ、今も生きておられるお方です。
 皆さんが今日、教会に来られたことは、決して、無駄足・無駄骨ではないのです。社会で最も希望を持った者たちなのです。今も生きて働いておられるお方に礼拝をささげています。今日は、イエスさまがこの国の王であることを宣言しなければなりません。

 今から六十数年前は戦争中でした。当時は、神道がすべてを支配していたのです。そのため、教会も大変な試練の中にありました。
 昭和十五年は日本が始まって二千六百年が経ったという皇国史観に基づき、大きな祝典がありました。日本において、前にも後にも、これ以上の国家的式典はないと言われるほどの神道セレモニーがありました。そこに、教会さえもひれ伏し、偶像礼拝を容認してしまったという、悲しい過去があります。
 一九四〇年十月十七、青山学院大学の講堂にすべての教団教派から、多くのクリスチャンが集まり、宮城遙拝をし、天皇賛美歌を歌い、集会の後、クリスチャンたちが一丸となって明治神宮に参拝したという事実があります。キリスト教の教理において、父なる神、子なる神、聖霊なる神という三位一体は重要です。しかし当時は、それに天皇を付け加え、天皇なる神とさえ言った神学がありました。天皇は現人神であり、最初は救い主として来られ、その後は、政治的支配を現すために来られたというのです。日本の教会が国家権力の下に牛耳られた歴史があります。日本の教会が、すべての権威を悪魔に渡してしまった、悲しい事件が起こりました。
 その後、敗戦により、もう一度信教の自由を取り戻しましたが、まだまだ、その時の霊的影響力は教会の中に深く根ざしているように思います。
 賛美歌さえも歌詞が変えられました。それが今でも継続して歌われています。昔、新城教会で「頌栄」という賛美をしていました。「父、み子、み霊の大御神に」と歌っていました。「父なる神、子なる神、聖霊なる神」が「大御神」だというのです。「大御神」とは何でしょうか。それは「天照」を意味します。その名残が、そのまま歌われています。日本が悪魔の権威の下に入った歴史は、そんなに昔のことではありません。
 私たちは二度とそのような事が起こらないように、祈っていかなければなりません。
太平洋戦争で何が起こったのか、日本国民は三百万人以上が死にました。また、アジア諸国の何千万人という人々が死にました。今でも中国残留孤児問題や、北朝鮮との関係も複雑で、後遺症は大きいです。その中心にあったのが皇国史観であり、政治と宗教が一体となった支配構造でした。私たちはこの特定の日に、祈らなければなりません。

 『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』とイエスさまが語られたときに、弟子たちは六節、

『そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」』

 彼らは聖霊が降るときに、何が起こるのかについてよく理解していました。当時のユダヤ人たちは、目に見えない世界の支配が、見える世界を支配するという理解を持っていました。目に見えない世界が悪魔によって支配されているならば、見える世界にも、その結果が現れるという理解をしていました。見えない世界に神の支配があるならば、見える世界にも神の支配が現わされると理解していました。見えない世界と見える世界は表裏一体という理解でした。ゆえに、「あなたがたは聖霊のバプテスマを受けます」というイエスさまの言葉を受けて、「この国の支配も神の支配に変えられる」という期待を語ったのです。

 私たちも見えない世界と見える世界が表裏一体であり、同時進行しているということを理解しなければなりません。私たちは見える世界に生きているので、見える世界がすべてのように考えてしまいがちです。見えない世界が、見える世界に影響を及ぼしているとはなかなか考えません。
 今の日本の現実を見ると、神が目に見えない世界を支配しているとはとても思えません。起こることは悲惨な事件ばかり、悲しいことばかりです。このような結果が出るのは、目に見えない世界をサタンに牛耳られているからです。しかし聖霊が降るならば、目に見えない世界の支配権が変えられ、国が再興されると弟子たちは理解していました。

 イスラエルが一番栄えていた時期は、ダビデ王とソロモン王の時代でした。弟子たちが、「今こそ、この国を再興してくださるのですか」と語った背景に、彼らの脳裏は、ダビデとソロモンの時代を描いていたことでしょう。
 ソロモンの時代には神の宮が建てられ、主への賛美とみ言葉が回復していました。その時期、イスラエルには素晴らしい神の支配が訪れていたこと見出すことができます。
 ソロモンの時代、神の宮が建てられたときに、諸国の王たちがイスラエルを見学に来ました。シェバの女王は宮殿を見て、深く感動しました。そして第二歴代誌九章七節から九節において、

『なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできるこの、あなたの家来たちは。あなたを喜ばれ、その王座にあなたを着かせて、あなたの神、主のために王とされたあなたの神、主はほむべきかな。あなたの神はイスラエルを愛して、これをとこしえにゆるがぬものとされたので、彼らの上にあなたを王として与え、公正と正義とを行なわせられるのです。」彼女は百二十タラントの金と、非常に多量のバルサム油と宝石とを王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったこのバルサム油のようなものはなかった。』

と語っています、シェバの女王がソロモンの時代に訪問したとき、国は盛んに主をほめたたえ、神の支配が満ちていました。神殿の奉献式で主をほめたたえている時に、神殿に栄光の雲が満ちたという記事があります。
 シェバの女王は、「何と幸せなことだろうか。この王のもとで過ごす人たちは…」と感動しました。
 目に見えない支配が変わるときに、見える状況も変わると聖書は教えています。ですから、弟子たちもそのことをよく理解していました。聖霊が注がれるとき、力を受けるとあります。それを聞いた弟子たちは、「国が再興すること」を意識したのです。
 聖霊様の力が私たちの人生に訪れるときに、目に見えない世界の支配が変わります。それゆえに、現実も変わってきます。

 私は牧師の息子に生まれました。小さな頃から聖書の話を聞いていました。私の両親は厳格で、食事の前に聖書を一章読み、祈りをしないと食事をさせてくれませんでした。それが毎日のことでした。食事を食べる前にイライラしていました。詩篇に入ると、短い箇所が続くので嬉しかったのですが、「一一九篇になったらどうなるだろうか」と心配していました。詩篇一一九編はとても長いのです。父と交渉して、区切って何とか事なきを得ました。私は教会に来ていても神様が良い方であるとは、なかなか信じることができませんでした。神様は自分に人を近づけるけど、近づかない人にはゴツンとげんこつをふるう恐い神だと思っていました。
 しかしそんな私にも、個人的に神に出会う瞬間がありました。それは聖霊様の働きです。聖霊が降るときに、私たちに福音の光を輝かせないように働いている、敵の力が打ち破られます。第二コリント四章一節から四節に、

『こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

 私たちが福音について、イエスさまについてわからないのは、理解力がないとか、頭が悪いからではなく、聖書は、「この世の神々が覆いをかけている」と教えています。いくら太陽が照っていても、雲があったら光が届かないのと同じように、福音の光はすべての人を照らしていますが、その上に黒い雲、すなわち「この世の神々」とありますが、「悪魔・悪霊ども」が覆いをかけていたら、その光は届きません。
 しかし聖霊が注がれるとは、黒雲が裂かれ、打ち砕かれるのです。その時に光が届き、はっきりと神を知ることができ、見えない世界についても理解が及ぶようになります。

 私は見えない世界のことはあまり考えませんでした。この地上において、イエス・キリストを信じて従うことが必要という事は分かりましたが、見えない世界と見える世界が互いに関連しているとは思っていませんでした。
 しかしある日、見えない支配が見える現実を支配することを教えられました。最初にそのことに気づかされたのは、今から二十数年前の事でした。
 二十数年前、教会に一つの事件が起こりました。それは、若い奥さん方が相次いでガンで亡くなったことです。私たちは、一生懸命いやされるように、神の前に祈っていました。しかしその祈りは聞かれることなく、相次いで亡くなっていきました。教会は失望しました。一生懸命祈ったのにも関わらず、どうして神は祈りを聞いてくれないのだろうかと不審に思いました。
 そうこうしている内に、今度は私の家内が病気になりました。朝起きることができなくなり、食べることもできなくなって、どんどん痩せていきました。既に家内の友人であった二人が亡くなられていたので、私たちはたいへん恐くなりました。
 私は、「今度は家内の番だろう・・・」と恐怖に縛られ、身動きがとれなくなりました。教会は暗い雰囲気になり、常に心には恐れがありました。
 人間は悲しいことに、何か事件が起こらないと真剣に祈りません。すべてが順調でうまくいっている時は、あまり祈らないかも知れません。
 時々、珍しい方が県民の森祈祷会に来られます。「素晴らしい。聖霊の火がついたかな」と思いますが、だいたい、色々な問題があって祈りに参加されます。もちろんそうではない方もいますが、色々な問題があると、「神様、助けてください!」という心になって祈るようになります。

 私は牧師の息子に生まれましたが、祈りが好きではありませんでした。食前の祈りで大変悪い印象があったので、祈りだけはしたくないと思っていました。
 思い起こすと、拡大聖会の時期でしたが、家内がやせ細って伏せていました。集会に行きたくても、起きあがれないのです。私は、「これは真剣に祈らないといけない」と思いました。
 そして、決断しました。あまり人生の中で、真剣に祈ったことはありませんでしたが、一度真剣に祈ってみようと思いました。そこで単純に考えたことは、日本人が一番祈っていない夜中を選んで祈ろうとしました。たぶん、日本語で祈っているのは私だけなので、天によく聞こえるのではないかと思いました。そして、低い所で祈るよりも高い所の方が神様が聞いてくれるのではないかと、愛知県民の森の山頂に登って祈る決断をしました。
 私は、険しい岩山の頂上に登って行きました。一晩、寒い所で過ごすので温かいお茶とおにぎりを二つ持ち、また、み言葉をいただこうと思ってカバンに聖書を入れましたが、聖書は案外重たいのです。よく考えてみると、暗いから聖書は読めないと思ったので出しました。お茶とおにぎりだけをもって、山頂で祈りました。
 「神様。助けてください。行き詰まっています。家内も病気だし、教会の人たちも皆、希望を失っています。どうにもならないのです。助けてください。」と真剣に祈りました。誰もいないので、大きな声で祈りました。私は目に見えない世界が、この世界を支配するという考え方がなかったので、悪魔・悪霊の働きは全く気にしていませんでした。「聖書には悪魔や悪霊が出てくるけれど、今はどうしたのだろうか。イエスさまが全部、退治してくださったのだろう。また、科学の発展に彼らはついていけなかったのだろう」と思っていました。

 しかし周りに、あまりにも連続して色々な問題が起こり、「もしかしたら、これは霊的なものか」と思いました。夜中の二時頃でしたが、愛知県民の森の頂上で叫びました。「主よ。もしもこれが霊的な問題ならば、家内を病気にしている悪魔の力が打ち破られますように。悪霊よ。出て行け!」と祈りました。
 しかしその瞬間、私は今までの人生に体験したことがないことが起こりました。それは、私の目の前に、真っ赤な顔をした天狗が現れたからです。その後、どうやって山を下りて来たのかわからない状態でした。
 そして私は翌朝、教会スタッフにそのことを話しました。「私は昨夜天狗を見た」と言うと、皆にバカにされました。「夜中にそんなところに行けば、そういう気にもなるわ。」と言われました。
 しかし私は夢か幻か、肉眼なのかはわかりませんが、赤い顔の天狗が私の前に現れたという印象を持ちました。私は恐かったのです。私はしっぽを巻いて逃げてきましたが、「このままではいけない。リベンジしなければならない」と思いました。
 それで次週の同じ時間、皆を誘って同じ場所に行きました。その時のことを今でも覚えています。一人で行けば恐いけれど、数人で行けば恐くなかったです。なんと祈りが祝福されました。みんなで朝まで祈ってしまいました。「何が天狗だ。祈祷会は楽しいではないか」と皆、口々に言いました。心に平安が来ました。
 その頃から、家内は徐々に元気になりました。それと同時に、毎週月曜日に、県民の森へ祈りに行く習慣ができました。県民の森祈祷会は、私が天狗を見た事から始まったのです。それから今まで二十数年続いています。県民の森祈祷会は、毎回祝福されています。
 そこで主が見えない世界が、見える世界を支配することを教え続けてくださっています。

 もしも色々な困難を抱えている方がおられたら、見えない世界で勝利をとるために、聖霊様を求めなければいけません。
 イエスさまに、「聖霊がそそがれますよ」と言われたときに、「それならば、いつ国が再興されるのですか。」と弟子たちは聞きました。見えない世界が変えられるときに、見える世界が変えられます。
 二十数年前に、神が教えてくださった小さな事が、徐々に大きくなり、一九九二年二月十三日の拡大聖会のただ中で、更に大きな天が開かれました。私はその時のことも昨日のように覚えています。
 ちょうど甲子園ミッションの準備のただ中で、色々な試練があり、行き詰まっていたときでした。昼間と夜は拡大聖会の奉仕があり、終わってから祈祷会に行くのは辛かったです。しかし決めたことは続けようと思い、皆で一週間祈っていました。
 最終日、私は祈祷会のリーダーでした。祈祷会のリーダーには特権があります。自分の心次第で、祈祷会を長くも短くもできるからです。その日は、なるべく短くして、帰って来ようと思っていました。最後の祈祷会には八人しか参加者がいませんでした。みんな疲れていたので、大きな声では祈ってはいませんでした。広場にある小屋の中で祈っていました。三十分くらい経ち、そろそろ帰ろうかと思っていました。すると外から「ゴーッ」という音が聞こえました。最初は飛行機かと思いましたが、段々その音が近づいてきました。すると、それまであまり声を出して祈っていなかったのが、大きな声になりました。そして「ゴーッ」という音が、私たちのただ中に入ってきました。その瞬間、周りにいる人たちが皆、倒れてしまいました。私はそれまで、人が倒れるのは病気の時しか見たことがなかったので、驚きました。みんな心臓麻痺を起こして、死んでしまったのだろうかと思いました。恐くてその祈祷会を止めました。
 「もう祈祷会をやめよう。帰るぞ…」と言って帰ってきました。祈祷会から帰って来てすぐにスタッフたちに連絡しました。「今、祈ってたらすごいことが起こったから、みんな来てくれ。」と呼びました。するとみんな続々と教会に集まってきて、祈り出しました。すると、自分で祈ったと言うよりも、祈らされた感じでした。気付いたら、朝になっていました。その後、教えられたことは、「霊的戦い」でした。

 あれから十五年が経ちますが、「聖霊があなたがたに臨まれるとき、力を受けます」とありますが、福音宣教のためには、見えない国の支配が変えられなければならないのです。そのために祈るように教えられました。

 私は県民の森で祈っていた時に、なぜ天狗が出てきたのかわかりませんでした。天狗は悪魔、悪霊を現すのにふさわしい姿なので出てきたのかと思っていましたが、後でわかったのは、愛知県民の森は修験道の山で、天狗伝説が残っている修行場でした。私は知らないでそこで祈っていましたので、その場の支配が、私に挑戦したのだろうと思いました。それでも、なぜ天狗が出てきたのだろうかと疑問に思っていました。
 やがて、主は、見える現実に一番影響を与えるのは「偶像礼拝」であると教えてくださいました。偶像礼拝は、見える現実で行いますが、実は、「見えない世界へつながりる窓」です。その窓を通して、悪魔・悪霊どもとつながります。そして家系が捕まえられます。家系の中に問題が起こるのです。
 家系を見て、何の問題もないと言われる人はいないと思います。同じような問題が、繰り返し起こります。ということは、家系の中に天狗のような、悪魔の力が潜んでいるのです。家系の中で行われた偶像礼拝をしっかりと悔い改めて、そのつながりを断ち切り、神の国の勝利を宣言しなければならないのです。
 私はクリスチャン二世なので、偶像礼拝をしたことはありません。偶像礼拝にはまったく関心がないです。しかし私の父は初代のクリスチャンで、父の家は愛知県津具村にあります。父は偶像礼拝の盛んな家に生まれました。私の父は小さな頃、神社で舞を踊っていたようです。「あなたは霊感が強いね」と言われたようです。
 私の母の家系も、一生懸命偶像礼拝をしていた家系でした。結婚とは二つの家系が一つにされることです。私が家内と結婚したことにより、滝元家と家内の家系がつながり、悪霊も自由に往来するような構造ができます。ということは、滝元家の背後に、何らかの家内を攻撃するような敗北があったら、現実問題として現れることを教えられました。

 それである時、父の家を調査しなければならないと思いました。父の家は、どんな偶像礼拝をしていたのかわからなかったので、まず、目に見える領域で父の家を調査しようと思い、北設楽郡津具村の父の実家に行きました。「簀の子」という、家がたった四軒しかない所でした。川を渡ると津具村に入ります。そこに行って驚きました。
 津具村に入ると、一つの看板がありました。それは、「天狗の里にようこそ!」という看板でした。天狗がうちわを持って、ウェルカムしている看板でした。これが家系の中にあったゆえに、天狗が出てきたとわかりました。それから、家系にある暗やみの支配が打ち砕かれ、つながりが断ち切られ、主のものとなるようにという祈りが始まりました。

 今教会に来られると、まず初めに家系の中で敗北をしている歴史があったら、その根源にある偶像礼拝の束縛を断ち切る祈りをします。そうすると見えない世界が変えられ、ゆえに、現実も変わってくるので問題も解決しやすくなります。
 一九九二年に聖霊様が訪れてくださり、見えない世界に対して挑戦をするように教えてくださいました。それによって、多くの領域が勝ち取られてきたことは事実です。
 しかしながら、まだまだ、この国の現実を見るときに、また、兄姉姉妹の現実を見るときに、癒されない病や解決できない問題や苦しみがあることを覚えます。ですから、もうこれで大丈夫だとは言えません。私たちは見えない世界の現実をさらに知る必要があります。まだまだ、知っているのはほんの一部分かも知れません。さらに知るためには、次の油注ぎが必要です。

 聖霊の力が臨むときに、力を受け、すべての国々に対して証人となると聖書は約束しています。私たちが願わなければならないことは、弟子たちが「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けます」と言われたときに、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」という、「見えない王国が変えられるときに、見える王国も変わる」という理解でした。
 イエスさまは「もう間もなく」と語られました。これは、もうすぐに聖霊が注がれるという言葉でした。私は、もっと主に期待しなければならないと思います。リバイバルを長らく求めて祈っていますが、起こらないではないか、問題のために祈ってきたけれど、あまり動かないのではないかと考えます。
 しかし、主は「もう間もなく/in a few days」数日の間に、そのことが起こると言われました。私たちはもっと主の訪れを身近に、現実的に感じて待ち望まなければならないとみ言葉から強く教えられました。
 今週は切に、聖霊のバプテスマを求めましょう。聖霊のバプテスマは一度だけだと言う考えと、繰り返し起こるという考えがあります。
 聖書を読むと、使徒の働き二章で起こったことが、繰り返し起こっているのを見ることができます。主の訪れはたった一度だけではなく、「繰り返し、繰り返し」起こるものです。ですから、私たちは新たなる聖霊の訪れを必要としています。日本を見るときに、この国の支配が神の支配によって導かれているとは言えません。その背後に、敵の力を感じさせられます。それを改革できるのは、クリスチャンの祈りによって、見えない王国の支配が変えられない限り無理であることを、み言葉から学ばなければなりません。昔から悪魔に牛耳られているような国ですので、「日本にいつ勝利を与えてくださるのですか」と私たちは祈ります。

『イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

 私たちが聖霊の力に満たされた結果として、地の果てまで証人となると語られました。今まで、リバイバルミッションも、国内で活動していましたが、今回、初めて海外に出て行きます。このみ言葉の成就であると信じています。今までの油そそぎではなく、新たなる聖霊の力が必要であると強く感じています。すべての国々に出て行って、福音を伝えなさいとイエスさまは語られましたが、地の果てにまで私たちは証人となっていかなければなりません。
 新城教会のメンバー一人一人に、聖霊を注いで地の果てにまで証人としてくださるのです。弟子たちと同じように、聖霊を求めて、今週は特に、主が新しい扉を開いてくださり、この国を開いてくださるように祈りましょう。
 敗北という現実があったら、目に見えない世界で戦っていただきたいです。目に見えない世界をどれくらい現実感をもって認識できるのかが、人生の勝敗にかかわるのではないかと思います。
 更に教会の中においても、その現実を教えられるように祈っていただきたいです。「もう間もなく」というみ言葉をキーワードに、今週は主を待ち望んでいきたいと思います。今週主が私たちに訪れてくださるように、そして、目に見えない世界に大きな勝利が与えられるように、祈りたいと思います。

(祈り)
「イエスさま、今私たちは、イエスさまが王の王であり、主の主であることを宣言します。今日という日に、この国に対して宣言します。日本の主は、イエスさまであることを宣言します。かつて教会が悪魔にひざをかがめた罪を赦してください。建国記念といわれる日に、国を代表し、教会を代表し、その罪を悔い改めます。国と教会の土台を変えてください。見えない世界で敗北しているならば、勝利を与えてください。

 また、私の家系を代表して祈ります。偶像礼拝の罪を赦してください。目に見えない世界で権威を主張している、悪魔の支配が破られますように。聖霊様、訪れてください。数日の間に、私たちの所に訪れてください。教会に、個人に、家庭に、地域に、国に訪れてください。主の勝利を国に見ることができますように。私たちを証人として用いてください。イエスさまの御名を通して祈りをささげます。アーメン。」


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