クリスチャンって最高だ!
〜あなたに害を加えるものは何一つありません〜

2007.2.18(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 ルカの福音書10章17節〜20節
さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日このようにして、み言葉を語ることができて感謝します。「ハワイ・リバイバルミッション」が本格的に始まろうとしています。今週、私はハワイに行きます。私はハワイに行くのは十年ぶりですが、一週間、色々な集会があります。ぜひ祈ってください。またハワイで事務所を開設することになりました。初めての海外での働きで不安もありますが、主が導いてくださると信じています。

 先日、「リバイバル聖書神学校」の祈祷会で、世界の国々のために祈るときを持ちました。私はその祈祷会をリードしていました。「主が今、あなたに重荷を与えてくださる国について祈ってください。どこかの国名が浮かんだり、国旗を思い出したら祈ってください」と何気なく言いました。そして私自身も祈りました。

 時々神様は、預言的に私たちに語りかけてくださいます。私たちの神さまは生きておられるお方です。私の目の前に一つの旗が浮かびました。私はオーストラリアの国旗のように思いましたので、その為に祈りました。

 しかし、先日、ハワイ・ミッションの準備をしていると、私が祈りの中で見せられた旗はオーストラリアの国旗ではなく、ハワイ州の「州旗」であることがわかりました。とても驚きました。今年、ハワイで働くことが主のみ心であることがわかりました。私にも神様が語ってくださっていることを心から感謝しました。

 かつてハワイはイギリスの統治下にあったので、ユニオン・ジャックが入っているようです。今回ハワイでのミッションが祝福され、素晴らしいみ業が現されることを祈って下さい。

 今日は「クリスチャンって最高だ!」というタイトルで学びます。何年か前にも、このタイトルで話したことがありましたので、今回は少し内容を変えて、「あなたに害を加えるものは何一つありません」という副題を付けました。私は、『クリスチャンって最高だ!』という本を書きました。ぜひその本もお読みください。

 私は気付くと牧師の息子に生まれていました。「頼んでもいないのに、こんな家に生まれて、私は何て不幸なのだろうか」といつも思っていました。私の両親はこんな田舎で伝道を始めました。どうせやるなら、都会の方が良いのではないかとも思いました。仏教と農業が一体となっているこのようなこの地域で伝道しても、なかなか人々は来ないだろうし、大変な家に生まれてしまったものだと思いました。

 学校に行っても友達は私のことを誤解していました。キリスト教は西洋の宗教だと思っているようで、「お前の家はみそ汁を飲むのか。」と聞かれ、「そりゃあ、飲むよ…」と答えると、「じゃあ、スプーンで飲むのか?」といいました。「私は変なところに生まれてしまった。クリスチャンって最低だなぁ」と思っていました。

 しかしそれは、イエスさまのことをよく知らなかったからでした。イエスさまが私たちの神であり、救い主であるとわかったら、心の底から「クリスチャンって最高だ!」と叫ぶことが出来ます。イエスさまを信じたら最高です!

 牧師の息子がクリスチャンで、尚かつ、牧師をしていたら、キリスト教は本物だと信じて良いのです。もしも嘘ならば、とうの昔に教会から逃げています。しかし、このように牧師になっています。私はイエスさまと出会った体験を持っています。初めは両親の仕事を見ていて、家族の人数も多かったので、「外はどうでも良いから、内側のこともやって欲しい。七人も難民のような子どもたちが溢れているではないか」と思っていました。

 私は、大所帯に育ちましたので、結構、粗雑な人間です。どこでも安らかに眠ることができるという特技があります。私がもしも一人っ子であったら、旅先でぐっすりと眠れないかも知れません。しかし、私はどこに行っても、ぐっすりと眠れますし、どこに行っても便秘をしたことがありません。そのような家族の中に生まれ、将来のために準備してくださったと思います。

 教会に来るきっかけは、あまり喜ばしくないことが多いと思います。しかしそんな中でも、本当の神様と出会ったら、素晴らしいのです。イエスさまは生きておられる本物の神様です。私たちが信じているイエスさまが架空で、神話であったら、クリスチャン生活は無駄足・無駄骨です。そして牧師は詐欺師です。しかしイエスさまは実在された方であり、今も生きておられるお方です。ルカの福音書を記したのはルカですが、イエスさまについて見聞きして、書物にまとめました。ルカの福音書一章一節から四節に、

『私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。』

 ルカは「テオピロ」という人物に宛てて、この書を献上しています。ここで語っていることは、『すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。』とあります。イエスさまについて、テオピロは周りから既に聞いていましたし、当時、すでに色々な角度から記述されていたのです。

 「イエス・キリストも人が作り上げたストーリーではないか」と言われる人がいますが、それは歴史的にまぎれもない事実です。当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にありましたが、そのような中で起こった出来事でした。

 聖書がイエス・キリストについて記しているのは当然だと言われますが、外部の人物もイエス・キリストについて記しています。

 イスラエルの歴史家の中で、最も有名な人物は「ヨセフス」です。彼はAD35年から100年にかけて生きた人物です。特に彼は、エルサレムがローマによって滅ぼされる瞬間を見た人物でもあり、彼は『ユダヤ戦記』という書を記しています。彼の記述の中に、「ヨセフスのキリスト証言」という下りがあります。この一部は、後に加筆された部分もありますが、大部分は当時の歴史を表す貴重な歴史資料です。

(ヨセフスの「キリスト証言」)

 さてこのころ、イエススという賢人、〜実際に、彼を人と呼びことが許されるならば〜 が現れた。彼は奇跡を行う者であり、また、喜んで真理を受け入れる人たちの教師でもあった。そして、多くのユダヤ人と少なからざるギリシャ人とを帰依させた。彼こそはクリストス(キリスト)だったのである。

 ピラトスは、彼がわれわれの指導者たちによって告発されると、十字家刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見捨てようとはしなかった。すると彼は三日目に復活して、彼らの中にその姿を見せた。すでに神の預言者たちは、これらのことや、さらに、彼に関するその他の無数の驚嘆すべき事柄を語っていたが、それが実現したのである。なお、彼の名にちなんでクリスティアノイ(キリスト教徒)と呼ばれる族は、その後現在にいたるまで、連綿として残っている。(「ユダヤ古代誌六」より引用)

 聖書だけではなく、当時の歴史家もイエスさまのことを記録しています。イエス・キリストは実在されたお方であり、十字架に死なれたけれど、よみがえったと記録しています。聖書は、歴史的にも信じるに値する書物です。

 それに比べ、日本神話は偽りの上に成立していると先週話しました。日本の最も古い書物は『古事記』と『日本書紀』です。それは八世紀に記された書物なので、古いと言ってもそんなに古くはありません。しかし聖書はもっと古い書物です。『古事記』と『日本書紀』は、天皇家の中で記されました。天皇家は、神代の昔から続いており、神々の子孫だとでっち上げて書いたのです。それは、政治的支配のためにねつ造されたものです。神武天皇から九代目くらいまでは架空の天皇です。

 先週は二月十一日は「建国記念の日」と呼ばれる日でしたが、神武天皇が即位した日をその記念日としています。それを「BC660年」としています。この時代は、縄文時代にあたり、支配系統が存在するような時代ではありませんでした。

 にも関わらず、神武天皇が即位した日としています。日本の歴史は騙し事で満ちています。宮崎県に行くと、「宮崎神宮」があり、そこには神武天皇が祀られています。そして年間一度くらい、皇族が拝みに訪れます。そうすると、「皇族が拝みに来るならば、神武天皇は実在した人物だった」と騙されます。また、「神武天皇陵」もあります。ごていねいに、架空の人物の墓まで作り、天皇は神代の昔から続いている神々の子孫だと騙しているのです。戦争中は天皇のことを「現人神」と呼んで拝んだのです。現在は「象徴天皇」として、意味は変わっていますが、天皇制が確立した背景に、偽りの神話があるのです。

 しかし、日本人は偽りでもあまりそのことには関心がなく、それを良しとしています。偽りの上に成り立っているということは、本当の神ではないのです。

 そもそも偽りの上で働くのは、良いものではなく「悪者」です。時々、テレビなどで、「振り込み詐欺」についてやっています。それを見ていると、「そんなの馬鹿らしい。騙されるわけがない」と思って見ていますが、実際に電話がかかってくると、結構、騙されるようです。

 先日、私の知り合いの家に詐欺師から電話がかかってきたそうです。電話に出ると、ご主人が、電車の中で痴漢をして捕まったという設定だったそうです。今主人は、捕まって警察にいるというのです。もしも示談にしなければ、訴えられ、牢屋に入るかも知れない。しかし百万円くらい振り込めば、示談にしてくれるという電話だったそうです。

 ご主人風の人が出てきて、奥さんに泣きながら、「ごめんなさい。ごめんなさい。お金振り込んでちょうだい!」と訴えたというのです。

 少しおかしいという思い、ご主人の携帯電話に連絡すると、「なんだ?」と言って電話に出たそうです。それでやっと、嘘だとわかったそうです。騙し事が多い時代です。

 日本の宗教は、すべて偽りの神話上になり立っています。しかしながら、人々はそこから離れることが出来ないのです。なぜなら、それらの神々に対して祈ると、色々、不思議なことも起こったりするからです。そのために、神々が働いているような錯覚をするのです。偽りの上でも働くことが出来る霊的存在は、神ではなく、神の振りをした悪魔・悪霊どもなのです。

 しかし私たちが「クリスチャンって最高だ!」と言えるのは、事実の上で働く良いお方、生きておられる神に仕えることができるからです。

 聖書のみ言葉は、イエスさまが語られた言葉です。ルカ十章十九節に、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

とあります。イエスさまを信じると、神から権威を付与され、権威を受けて歩むことができます。クリスチャンとは、神から権威を受け取った者たちと位置づけることができます。

 私は今年で五十六才になります。年月が過ぎるのは早いです。先日まで小学校に通っていたのですが、五十六とは何事かと思います。人生は一瞬です。小学校は一年一年が長かったですが、やっと六年間が過ぎ、中学生になると、三年間は案外すぐ終わりました。高校三年間はさらに早く終わりました。人生には加速度がつきます。そして年代毎にテーマがあります。

 私は昭和二十六年生まれですので、まだまだ、戦後のどさくさを引きずっていた時代でした。小学校で最も権威が強いと言われる者は、腕力が強い人でした。各部落に「番長」と呼ばれる喧嘩に強いやつがいて、部落ごとで喧嘩をよくしていました。私の住んでいる地域は富沢というのですが、線路を隔てて富沢が二つに分かれていました。私の住んでいる富沢地域は富永に寄っているので、私は富永の番長についていました。いつも富沢と富永の子どもたちが張り合っていました。喧嘩と言っても、いつも最初はソフトボール大会から始まります。試合はどちらかが勝ち、どちらかが負けます。負けたらそれで良いと思いますが、それでは満足せず、次には相撲大会で結着を付けようとします。トーナメントで総当たり戦です。しかしそれでも満足せず、最後には殴り合いの喧嘩が始まります。しかしそこには一つのルールがありました。誰かが鼻血を出して泣いたら負けになります。だから腕力の強い人が一番優れた者という時代でした。

 しかし中学生になると、それが変わりました。今度は、頭が強いのが優れた者に変わります。腕力が強くても、頭が弱いと価値がなくなったのです。

 私が中学生の頃は、全校生徒が六百人いました。一学年、二百人ほどいましたが、実力テストは一番から最下位まで、全員成績が貼り出されました。私の通った中学校は、東小学校と西小学校が合併して出来ました。私は絶対に東には負けたくないと思い、懸命に勉強しました。しかし、最初の実力テストの順位は八十番でした。それで私はやる気を失いました。補習授業も高校入試を目指して三つのクラスに分けられました。中学、高校は腕力ではなく「知力」です。

 しかし学校を卒業すると、今度は知力だけではなく「経済力」です。経済力がなければ、いくら頭が良くても幸せに生きることはできないと考え、みんな経済力を求めます。けれども、経済力を手に入れても収まりません。必ず、次には権力を求めます。このように、力と一口に言っても種類があります。しかしある意味で、この世界で一番すぐれた力は「権力」です。権力はすべての力を超越します。そんなに勉強をしなくても、権力さえあれば思い通りになります。

 かつて「田中角栄」という政治家がいましたが、彼は大きな権力を持っていました。彼の出身地、新潟に行くと、新城のようないなか町に新幹線が止まり、高速道路も通っていてインターチェンジもあります。人は権力を得るために真剣になります。

 けれども、最も優れた権力とは、人間を背景にして得る権力ではなく、「神から与えられる権威」なのです。

 私たちクリスチャンは、この世の権力ではなく、神からの権威を求めなければなりません。権威とは誰かから付与されるものですが、何をバックにするのかが問題です。国や団体を背景にするのではなく、神の国をバックにする権威を求めることが大切です。そして、神は権威を与えると約束しています。それゆえに、「クリスチャンって最高だ!」と言うことができます。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 『害を加えるものは何一つない』という前提に、『蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威』が「必要」なのです。私たちに苦しみを与えるのは、神様ではなく、敵である悪魔・悪霊どもです。それらに打ち勝つ権威を、イエスさまを信じたときに与えられるのです。クリスチャンになると霊的な権威の立場が変えられます。そして敵に打ち勝つことができるようになります。マルコの福音書十六章十五節から十八節に、

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」』

とあります。『信じる人々には次のようなしるしが伴う』とあります。神によって与えられる権威を通して奇跡が起こります。ここには『わたしの名によって悪霊を追い出し』とあります。またルカの十章のみ言葉には、『蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威』とあります。これはどの世界においても受け取ることができません。しかし、イエス・キリストを信じるときに、その権威が与えられるのです。

 マルコの福音書に、

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。』

とあります。神は人間が救われるために、不思議な法則を準備されました。その一つが、「信じる法則」です。イエスさまが救い主であり、神であることを信じるのです。また、イエスさまが人類の罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえり、今も生きておられることを信じたら救われるのです。

 そんなことを信じることはできないと言われる人がいます。しかし、信じることの最小量について、聖書は、「口で告白する」と教えています。

『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

 ですから、口で告白することは大切です。「イエスさま。あなたを信じます」と、口で言い表すだけで救ってくださいます。

 時々、まさに死の寸前の人にも伝道するときがあります。そんな方々も永遠のいのちを受け取って、天国に行って欲しいのです。

 「イエスさまを信じてください。今から聖書を初めから朗読しますので聞いて下さい」と言っても、間に合いません。しかし、口で告白するだけで救われるのです。今までに、何度もそのような場面に遭遇しましたが、口の告白はすごいと思います。

 何年か前に、すでに意識があまりない方の所に行きました。「出会っても無駄だと思います」と言われましたが、入って行きました。「心の中で、私の祈りを復唱して下さい」と、わかっているのか、わかっていないのかわかりませんでしたが、「イエスさま」と祈り出しました。「イエスさまを救い主として信じます。」そして、最後に「アーメン」と言いました。その人は、それまでは声を出していませんでしたが、最後に「アー」と声を出しました。しかし、それっきり息が止まり、モニターが平坦になり、ブザーがピーと鳴り出しました。彼は亡くなりました。その時、彼は心の中で告白したことで救われたと思います。救いに努力はいりません。

 イエスさまが十字架につけられたときに、左右に強盗も付けられました。強盗たちは初めは悪口ばかり言って、「お前がキリストならば十字架から降りて自分を救ったらどうだ。」と言っていました。しかし途中で、一方の強盗がイエスさまの姿を見ていて、「これはただの人ではない。救い主だ」と気付きました。それで、強盗はイエスさまに「あなたが御国に入るときに、私も覚えてくれませんか。」と言いました。

 するとイエスさまは、「あなたは、今日、わたしとともにパラダイスにあります。」と言われました。私がイエスさまの立場であったら、そんなふうに言うことはできないと思います。「お前、今まで何を言っていたんだ。舌が渇かないうちに天国に入れてくれとは…冗談じゃない。地獄のどん底に行け」と言ってしまうかも知れません。

 しかし彼は、「イエスさま。私を救って下さい」と告白しただけで、天国に行きました。誰でも、イエスさまを自分の救い主として告白したら、救われると聖書は教えています。

 ある人が親戚から教会に行くことを猛反対されていました。しかし反対していた人はガンなり死にかけました。それで一生懸命に偶像を拝んで直そうとしていましたが、直りませんでした。私はぜひ、反対している人が亡くなる前に、病室を訪問してあげたいと思いました。私はその人のために祈っていました。「神様。一番良い会うチャンスをください」

 その人があまり体調が良くないことを聞いて、私はある日、病院に駆けつけました。駆けつけるタイミングも、すべて主がコントロールして下さいます。

 ちょうど私が病院に行ったとき、病室を移す作業中でその人は仮の部屋にいました。看護師や医者が来ない中で、三十分ほど時間がとれました。それでその人と話しました。「イエスさまを信じたら、天国に行けます。イエスさまを救い主として受け入れて下さい」と話しました。

 その人はそれまで、キリスト教に反対していましたが、「イエスさまを信じたい」と言われました。私の後について祈るように勧めました。「私の罪を赦して下さい。私を救って下さい。アーメン」と祈りました。

 やがて、医者や看護師たちが入ってきたので、私は帰りました。それから三十分ほど経って、私に電話がかかってきました。「今。亡くなられました」

 それを聞いて私は、「伝道して良かった」と思いました。神様は愛なるお方です。どんなに迫害していても、イエスさまを告白したら救われると教えています。口の告白が人を救い出します。

 続いて、『信じてバプテスマを受ける者は救われる』とあります。「バプテスマ」とは何でしょうか。バプテスマは権威との関係があります。バプテスマを受けることは、この世で生活するために、とても重要です。ガラテヤ人への手紙三章二十七節から二十八節に、

『バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。』

とあります。今日もバプテスマがあります。バプテスマとは、ただの儀式のように思いますが、神の権威とつながっています。バプテスマは、「キリストをその身に着た」とあります。信じてバプテスマを受けたら救われるとありますので、まだバプテスマを受けておられない方は、ぜひバプテスマを受けてください。バプテスマを受けても、外見上は何も変わりません。しかし内側では、大きな変化が起こります。神様から権威が与えられます。

 キリストをその身に着るとは、制服をもらうようなものです。最近は交通法規が改正され、駐車違反が厳しく取り締まられています。東京に行くと道が案外空いています。なぜなら、少し車を止めても、すぐに交通巡視員が来て切符を切られるようになったからです。それで路上駐車が減りました。巡視員や婦人警官は制服に身を固めています。彼らに、「あなたは駐車違反です」と言われると、その権威に屈服しなければなりません。何も文句が言えません。それは制服による権威です。その制服を見たら、その背後に警察力、国家権力がわかるので、誰も手出しできません。うら若い女性が制服を着て手をあげたら、ダンプカーも止めてしまいます。どんなに暴れ者でも、止めてしまいます。それは権威があるからです。

 しかし、その人が非番の時に手をあげても、止まるのはタクシーだけです。非番の巡視員が「駐車違反です」と言ても誰も従いません。しかし制服を着ていたら、権威を行使できるのです。

 私たちも神の権威の制服を着なければなりません。その制服とは「バプテスマ」です。バプテスマを受けていなくても救われます。婦人警官は制服を着ていても、着ていなくてもその立場は婦人警官です。しかし制服を着ていないと、立場があっても権威を使うことはできません。クリスチャンも同じ事が言えます。信じていれば立場があり、永遠の命・天国にはいることができます。しかし制服を着ていないと、権威を使うことができません。今日、権威を使うためにも、ぜひ、バプテスマを受けてください。

 バプテスマをすでに受けている方も、バプテスマを受けているとは、権威が与えられている証拠だと、み言葉から知らなければなりません。私たちは制服を着ていることを確認しなければなりません。コロサイ二章十二節から十五節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

とあります。バプテスマを受けると、私たちのすべての「罪は赦される」とあります。人間には良心があります。警察のお世話にならなくても、悪いことをすると、良心がうずきます。これは神からの促しです。心の中に皆良心があります。それに觝触する事柄は神の前に罪となります。しかしイエスさまは信じて、バプテスマを受けるなら救われるとあるので、信じたことが基本になり、バプテスマを受けるとすべての罪が赦されると教えています。

 イエスさまを信じたら、罪は赦されたと信じてください。どんなに大きな罪を過去に犯したとしても、イエスさまを信じるならば、その罪は赦されます。

 そしてもう一つは、債務証書が無効にされるとあります。罪とは、カーボン用紙の書類にサインをするようなものです。カーボン用紙の書類にサインすると、一枚目にも二枚にもサインが写ります。罪は必ず二枚仕立てです。罪を犯すと、一枚目の書類は神に届きます。しかし下のもう一枚には債務証書があり、悪魔が人生に関わる許可を与える内容です。特に、偶像礼拝は三代、四代に渡り悪魔に侵入される原因です。

 偶像礼拝は、「三代、四代に渡り、私の家系に侵入することを許可します」という書類にサインをするようなものです。悪魔は債務証書によって家系に侵入することが出来るのです。悪魔は偶像礼拝を通して、家と契約を結んでいるのです。そうすると、悪魔は自由自在に家系の中で働くことが出来ます。

 家内が病気になって祈っていたときに、天狗が現れた話を先週しました。なぜ、そんなものが現れたのか不思議に思っていました。しかし私の父親の家系の中に、修験者がいて山に入って修行をしていました。そして、父が生まれた津具村は天狗礼拝の中心地であったからです。その村に行くと、「ようこそ!天狗の里へ」という看板があります。天狗は偽りの神話であり、神ではありません。しかし皆が信じています。こんな礼拝行為をしていると、三代、四代まで敵に侵入され、結果として病気や色々な問題が起こってきます。イエスさまを信じて、債務証書が無効になるとは、すごいことです。バプテスマを受けたら罪が赦されると同時に、悪魔に渡ってしまった債務証書が無効になり、家系の中で暴れまくっていた悪霊どもが打ち破られるのです。

 そして次には、「すべての支配と権威の武装解除がされる」とあります。すべての支配と権威とは、悪魔・悪霊の「組織」です。時々、今回の悪霊は弱かったという表現を聞きます。悪魔・悪霊は強くても、弱くても関係がありません。組織との戦いは、親分であろうが子分であろうが、蜂の巣をつつくようなものです。どこをつついても、組織全体が動きます。しかし、組織の武装が解除されるなら、軍隊の武装解除がなされると、二度と立ち向かうことができません。

 同様に、悪魔・悪霊たちは色々な武器で私たちを攻めます。常に、経済的問題で苦しめられている家もあるかも知れません。ある家はコミュニケーション問題、ある家は親子の問題があるかも知れません。多くの武器を悪魔は持っています。しかしその武器をすべて取り上げ、武装解除して下さると教えています。これは「問題解決」を意味します。

 罪が赦され、債務証書が無効とされると武装解除がなされます。私たちは、今から十数年前にその事に気づかされました。それまでは教会には、不思議やしるしは起こりませんでした。しかしコロサイ二章の法則に則って、契約を破棄する祈りをするようになってから、武装解除が起こりはじめ、色々な奇跡をこの教会に見せて下さるようになりました。なぜ、奇跡が起こるのか。それは、債務証書が無効にされた結果として起こるのです。

 そして、『彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられた』とあります。もう二度と敵は私たちを攻めることができないのです。完全勝利を私たちに与えて下さると教えています。

 バプテスマは教会を通して与えられる権威です。教会に、バプテスマを授ける権威が与えられています。

 高校生は制服を着ていると、一目でどこの高校の生徒かわかります。私たちの時代は、高校の制服で、レベルが判定されるような悲しい時代でした。今はそのような事はあまりありません。高校生でもその制服によって権威が違うようでした。ある意味で、バプテスマは教会に与えられている権威ですので、大きな意味があります。なぜなら、教会は自分たちの信じる信仰と、教理の枠組みと共にバプテスマを施すからです。霊的戦いについて気づき、開かれた教会でバプテスマを受けるなら、戦いに関する権威のバッチが制服に付いていると思います。そのような人に対して、悪魔は手が出せないのです。自分が信仰に導かれた教会でバプテスマを受けることは重要だと思います。エペソ三章十節から十一節に、

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。』

とあります。教会とは、唯一、目に見えない敵と戦うことができる拠点です。教会に色々な期待があるかも知れませんが、教会の根本的な目的は、『天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示される』と記されています。天にある支配と権威とは、コロサイ二章で学んだ、『すべての支配と権威の武装を解除する』という所につながります。悪魔と悪霊どもの組織に対して、神は教会を通して対抗し、神の知恵を示されるのです。教会に属することにより、キリストの体として目に見えない敵に対して立ち向かう事が出来るのです。

 時々イエスさまを信じたので、教会に行かなくても一人で信じていれば、天国に行けると言います。それも真実ですが、教会を神があえて作られたことは、「教会を通して」神の豊かな知恵が、悪魔の支配と権威に対抗するためなのです。

 教会は目に見えない敵の力を破るために、この地上に神が用意されました。そしてバプテスマを通して、権威ある制服が与えられると信じます。

 多くの人が色々な問題が起こったときに、自分のせいや環境のせいのように考えます。「どうしてそんな問題が起こったのですか?」と聞くと、「たぶん私が悪かったのです。」「判断が悪かったのです。」「私の性格が悪かったのです。」「私の生まれた環境が悪かったのです。」と「友達が悪かった。」などと、目に見える環境のせいにします。しかしイザヤ書十四章十六節から十七節に、

『お前を見る者は、まじまじと見つめ、お前であることを知って、言う。「これがかつて、地を騒がせ、国々を揺るがせ、世界を荒れ野とし、その町々を破壊し、捕らわれ人を解き放たず、故郷に帰らせなかった者か。」』(新共同訳)

とあります。やがて人類の歴史が終わる日が来ます。今、世界中に戦争や殺戮があり、事件や貧困があり、家庭は壊れ、乱れています。それを人々はみな、他人や他国のせいにしています。しかしある日、人類が気付くと教えています。「お前だったのか。お前がこの地を揺るがせ、世界を荒野にし、町々を破壊して人々を故郷に帰らせなかったのは…」と気付きます。それは世の終わりの日かも知れません。しかしその時に気付いても遅いのです。

 イザヤ書十四章は、サタンについて語られている箇所です。私たちは一刻も早く気付かなければなりません。人生の中に悪いものを持ち込むのは神ではなく、「悪魔・悪霊ども」なのです。それに気付くならば、私たちに与えて下さる権威は、『蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力を打ち破る権威』ですから勝利できるのです。ローマ書八章三十五節から三十七節に、

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

 『圧倒的勝利者』とは、「度を超えて打ち負かす」という意味です。私たちクリスチャンは、色々な問題があっても悪魔に対抗する権威が与えられているので、「圧倒的な勝利者」になると聖書は教えています。

 今年、私は感動しているみ言葉があります。出エジプト記二十二章七節、

『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』

 この箇所は、『盗んではならない』という律法の細分化された規則です。この基本的概念は、「盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして返せ」ということです。旧約聖書の概念は、新約聖書に至って、その概念が発展します。旧約聖書において盗人とは、単に泥棒です。しかし新約聖書では、悪魔と悪霊どもが「盗み、殺し、滅ぼす者」だとイエスさまは語られました。

 泥棒の究極的な姿は、「悪魔・悪霊」であると教えています。『盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない』を、新約的概念を重ねて理解するならば、惨めにしたのは家庭や他人のせい、環境のせいだけでは盗人がはっきりとわかりません。周りの環境のせいにしているときには、本当の意味で盗人がわかりません。しかし、盗んでいたのは人ではなく、神でもなく、神々の振りをした悪魔・悪霊なのだと特定されたら、二倍にして取り戻すことができるのです。

 敵を発見したら、二倍にして回復されるのです。元々、人間は良い者として造られました。神様は公平に人を造られました。強いとか、弱いというのはありません。しかし盗人が来て、良いものを盗んでいるのです。しかし、盗まれていても、誰に盗まれているのかわかっていません。

 しかし、真犯人がわかったら、二倍にして返してもらえると教えています。その真犯人に気付いたのならば、人生で奪われた良きものを、二倍にして取り戻すことができるのです。

 クリスチャンはどうして最高なのでしょうか。私たちは、倍にして悪魔の手から良きものを取り戻すことができるからです。イエスさまが取り戻してくださいます。ですから、クリスチャンは最高なのです。あなたに害を加えるものは何一つありません。クリスチャンにはそんな素晴らしい立場があります。

 ルカの福音書十節のみ言葉は、弟子たちがそのことに気付いています。ルカ十章十七節から十九節に、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

とあります。弟子たちは、問題の背後に働いている敵を発見したのです。だから嬉しくて喜んで興奮して帰ってきました。その時に、イエスさまは、『あなたがたにを加えるものは何一つありません。』と語られました。

 「敵の力に気付いたとき」に「あなたがたに害を加えるものは何一つない!」という権威が確認されたのです。しかし続けて、イエスさまは、

『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』

と語られました。イエスさまを信じる人は、天に名が記されています。私の名前も、天のノートに「滝元順」と記されていることを信じます。私たちの名が天に書き記されいるがゆえに、この権威を行使することができるのです。

 イエスさまを信じることは、最高の幸せです。この地上においても勝利をとることができ、永遠の世界においても、永遠のいのちを受け取ることができます。今日、ひとりひとりに神様の権威があることを宣言します。そしてその権威とともに歩むことができるように祈ります。まだイエスさまを信じておられない方は、イエスさまを信じる告白しましょう。お祈りしましょう。

<祈り>
「イエスさま。私は、イエスさまが私の救い主であることを宣言します。私が犯したすべての罪を赦してください。悪魔の手に渡った契約書を無効にしてください。すべての契約書が無効になりますように。家族、家系を代表して、すべての悪魔との契約を断ち切ります。すべての支配と権威の武装を解除してください。今抱えている問題も、すべて打ち破ってください。私には神の権威が与えられていることを宣言します。『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 イエスさまの語られた、このみ言葉を宣言します。私の人生に害を加えるものは、何一つないことを宣言します。今私は、天に名が記されていることを、心から感謝します。永遠のいのちを、心から感謝します。そのことを確認させるために、聖霊様、私に触れてください。主の臨在が私を包みますように。勝利を宣言し、権威を宣言して、イエスさまの名前によってお祈りします。アーメン!」


[バックナンバー]