あなたは本当に神がわかっていますか?

2007.2.25(SUN)
新城教会牧師 上條 実師

新約聖書 ヨハネの手紙 第一 4章7節〜11節
愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日このようにしてみ言葉を語ることができて感謝します。ハワイリバイバルミッションの決起大会と事務所開設の準備のために滝元順牧師と岡本信弘牧師、滝元里辺架姉、岡本泉姉がハワイに出かけております。また滝元明牧師も今日は四国の徳島市と高知市にて決起大会のために出かけております。ぜひ覚えてお祈り下さい。ハワイでは、今インターナショナル・ジャパニーズ・キリスト教会にておいてセミナーが行われています。またその後も夕拝があります。覚えてお祈り下さい。
 さて今日は第一ヨハネの四章から「あなたは本当に神がわかっていますか?」というタイトルで学びたいと思います。もう一度第一ヨハネ四章八節をお読みしましょう。

『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』

ここに『愛のない者に、神はわかりません』とあります。皆さんは「愛」の反対はなんだと思いますか?ある方が愛の反対語は「憎しみ」や「怒り」ではなく「無関心」だと言いました。うまく言ったものだなぁと思います。私たちは自分のことばかり考えてしまいます。他の方々に関しては無関心です。日々の祈りではいつも自分のこと、家族、自分に関わることについては祈ります。しかし、他人事については結構無関心です。愛がない私が質問するのはなんですが、あなたは愛がある人間でしょうか?私の長男に問えば「当たり前だよ。愛しているし、愛されているよ。」と答えるかも知れません。三月十七日に息子たちの結婚式があります。ぜひ祈っていただきたいですが、あなたには愛があるでしょうか?私は自分が親になってみてわかったことがたくさんあります。私には三人の息子と二人の里子と暮らしていますが、子どもたちは夕方になるとよく「食事はまだ?」と聞きます。「お腹が空いた。早く食べさせて〜」と催促します。家内は忙しい中ご飯を作ってくれているにもかかわらず子どもたちは「何?今日これだけ…?」という表現をする時があります。用意する側の立場は、忙しい中メニューを考え、買い物に行き、栄養のバランスなどを考えて愛を込めて調理しています。しかしそれにも関わらず、家族から「えっ、これだけ?」と心ない言葉を言ってしまうことがあります。わたしが子どもの時もそうだったと反省させられます。当たり前のように食事は用意してくれるものだと思っています。どれだけ食事を作ると言うことが大変なのか、また母親の愛が分からないのです。親には用意してもらうことが当たり前。できていなければ不満を言ったり、怒ったりしていました。しかし自分が親の立場になると、どれだけ子どものことを愛しているか。どれだけ大変なのかがわかります。昔、自分がどれだけ親に迷惑をかけたと考えると、本当に申し訳なかったと今になって気付く愚かな者です。もう一度、愛についてしっかりと目を留めてください。私たちは無関心なのです。第一ヨハネ四章八節をもう一度お読みしましょう。

『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』

聖書は『愛のない者に神はわからない』とはっきり述べています。私たちクリスチャンはイエス・キリストを知っています。イエス・キリストの十字架の愛を信じることができました。イエス・キリストの十字架は犠牲の愛です。イエスさまは私を十字架によって救ってくださいました。第一ヨハネ四章九節から十一節に、

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。』

とあります。難行苦行したら救われるのではなく、イエス・キリストを信じ受け入れた時、私の神となって下さるというのです。一方的な愛です。わたしたちのために犠牲となり、十字架にかかり、葬られて三日目によみがえってくださり、わたしたちに永遠のいのちを与えてくださいました。私たちはイエスさまによって救われたことを心の底から感謝しましょう。
 また私は、新城教会は与える教会だと思っています。自分の教会だけでなく日本のために働いている教会です。今日も牧師先生方がハワイや四国に出かけています。自分の教会だけでなくこの日本のすべての人が救われるようにリバイバルを祈り、出かけています。また私たちも日本のために祈り、ささげています。今年は海外であるハワイまで祈りと働きが拡大されています。そのため月曜日の夜には、県民の森や総合公園に出かけてリバイバルのために真剣にお祈りしています。自分のためではなく、日本と世界のリバイバルのために、真剣に祈っている教会です。そんな中で聖霊さまのおとずれがありました。そしてこの教会にそれまでは目隠しにされていた霊的戦いを開いてくださいました。暗やみの力に対して、聖書にハッキリ書かれていましたが、理解できずにいました。大変な出来事があると自分の信仰のなさや、人を見てしまい、「自分は駄目だ。」とか「自分には信仰がない」と自分の敗北を認めていた者でした。しかし私たちが日本のリバイバルのために、日本を愛して祈り始めたとき、見えない敵がいる。霊的戦いを神様が教えてくださいました。人ではない。暗やみの世界があり、わたしたちにどんなに大きな影響を与えていたのかについて教えて下さったのです。イエスのみ名に力があり、暗やみを打ち砕いて下さることを開いて下さいました。会社や家族等問題があります。そこに働く暗やみの力・透明人間のような存在があることを知り、イエス・キリストを信じる者としてイエス・キリストの名によって祈っていくときに勝利をいただき、問題が解決していくことができるました。日本のために、世界のために「受けるよりも与えるものは幸いです。」祈り続けた時大きな祝福を与えて下さいました。
 そのような中で今回第一ヨハネ四章八節のみ言葉が教えられました。『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』愛の反対は憎しみではなく、無関心だと教えられ、わたしは自分の事しか考えられない自己中心的なものだと教えられました。
 我が家には三人の子どもと、二人里子の七人で生活しています。先週里親の勉強会に出席させていただきました。その時さまざまな資料をいただき、里親をされている方の体験談などを聞く事ができました。里親の登録時に一応のことは理解していたつもりでしたが、現実に多くの子どもたちを預かった里親さんの体験談等を聞き、更にその為にお祈りしなくてはと教えられました。多くの子どもが家庭で育つことができず、苦しんでいる現実。。特に今現在、愛知県では赤ちゃんを預かる乳児院がいっぱいで収容できず、他県に回してしまう程だそうです。家庭のためにとりなす大切さを覚えました。今家庭が崩壊しています。家族がともに住むことさえできない混乱期に来ています。私たちは自分のことで精一杯。自分の家族、自分の幸せを考え、自分さえ裕福であればよい。自分のために、日々備えをしています。しかし私は今まである程度知ってはいても、自分には関係ない。わたしとは無関係だと思っていました。だから見えなかった所が見え、霊的戦いによって解放されるように、戦って祈って行かなくてはいけないと思っていました。今までは自分の手が届くところだけを祈っていました。知らず知らずのうちに自分の信仰が、受ける事ばかりを考えていました。マルコ十二章二十八節から三十一節に、

『律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」』

とあります。聖書は『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』とあり、そして二つ目は、『隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。このみことばが自分の中で理解できていなかったのです。今多くの人は子どもができずに苦しんでいます。また子どもたちが家庭の中で大変な思いをしていることが分かりました。親と色々な事情で生活できないのです。今全国で三万人ほどの人が施設生活を送っています。わたしはそのような子どもたちのために何をしたら良いのだろうか?考えさせられました。自分の家庭に、何人も預かることはできません。しかし私はクリスチャンであり、生きている神がある。その子どもたちのために祈ることができると思いました。祈りは聞かれる。私たちには限界がありますが、私たちが祈る時そのような子ども全てに祈りは答えられると知りました。
「愛がなくては神はわかりません」その他にももっと目が開かれなくてはいけない部分がたくさんあると思います。私たちは無関心なのです。イエスさまの十字架の愛を知り、霊的戦いを知りながらも、無関心な事柄が多くあることに気がつきました。今はテレビやインターネット、雑誌、新聞など至る所にたくさんの情報源があります。私たちは知ろうと思えば簡単に知ることができる時代に住んでいます。しかし『愛のない者に神はわかりません。』無関心なのです。今日多くの愛を頂き、神様が分かるようにさせて頂きたいものです。あなたが愛するべき所がたくさんあるのです。今年、「二倍の祝福を受ける。」とか「手当たり次第ないもかも主の栄光を現す。」と語って下さっています。「何をしても栄える」などと、ワクワクするようなみ言葉をいただいています。あなたが愛を持つ時祝福が流れ始めます。聖書は、「イエスさまがかしらで私たちは各器官です。」とあります。器官には色々な役割があります。手が足のようには動きません。手は手の役割があり、足は足の役割があります。あなたはあなたなりに神様が「このために愛を持って見なさい。祈り始めなさい。戦い始めなさい」と言われています。私は教会で子ども会を担当させて頂いています。数週間前土曜日に行われる「ほさなクラブ」という子ども集会で飢餓についてお話ししたことがあります。私たちはお腹いっぱい食べることができます。しかし世界には今も多くの方が飢餓に直面していることを教えたのです。私は飢餓について祈り、その背後に働く悪しき力が打ち砕かれるように祈らなければならないことを教えました。子ども達に教えた飢餓に対しての学びを、皆様にもご紹介したいと思います。日本は世界で一番食べ物を無駄にしていると言われています。インターネットの内容を見ていただきたいと思います。

日本は世界で一番、食べ物を無駄に捨てている
現代では、まだ食べられる食品や食べ残し食品を含めて、日本全 国で一年間に二一八九万トンもの食品廃棄物が出ています。
国民一人当たりだと一七一kgにもなります。
日本は、世界で一番食べ物を捨てている国だといわれている。
※生ゴミとして捨てられている食品の4分の1は、食べ残しや
手つかずのまま
※日本の食品廃棄物二一八九万トンのうちの約六〇%一二五〇万tが家庭の台所から出る生ゴミです。ある調査では、この家庭から出る生ゴミの六八%が調理くず(野菜、果物の皮や芯)で、およそ四分の一にあたる二七%が食べ残しや手つかずの食品、五%が食べられない部分(貝殻や魚の骨)だったそうです。この数字を全国に当てはめてみると、食べ残しや手つかずで捨てられた食品の量は約三三八万トンにも上ります。
※ある大手コンビニチェーンが二〇〇三年度に捨てた消費期限・賞味期限切れ(あるいは間近)の食品は約四〇〇億円分にもなる。そして他のコンビニやスーパーなどでも同じことが行われていたり、ファーストフードやファミリーレストランなどでも食べ残しがたくさん捨てられたりしていることを考えると、膨大な量の食べ物が、まだ食べられるのに捨てられています。
※無駄なく食べることで、多くの飢えに苦しむ人々を救えます。今、世界では8億人を超える人々が食料不足に苦しんでいます。そして飢えや栄養不良による病気で毎日3万人、
年間一千万人もの子どもたちが命を失っています。人口が増加して食料の生産が追いつかない国、戦争や紛争などで 食料の生産ができない国、天候不順や災害などによって食料生産が極端に減ってしまった国 などが世界にはたくさんあるためです。
世界の人口は、現在約六三億人で、世界の穀物生産量はおよそ一九億トンです。一人当たり一日に最低限必要な穀物の量は四五七g(年間一六七kg)といわれてますので、約一一四億人分の穀物があるはずです。ところが、その穀物の半分が食肉生産のための家畜飼料に使われ、食料不足に悩む人々にはまわってきません。

とありました。私たちは飢餓があることも忘れて毎日お腹いっぱい食べています。ご飯が用意されていなかったら、「できていないじゃないの。」と言い、またそれで満足できないと「これしかないの?」と言ってしまいます。アフリカで一人の子どもが三日間歩いてきてやっと食糧にありつけ、自分で食べる体力もないのでスープを飲ませてもらっている写真がありました。そしてその顔には一筋の涙を流していました。しかし三日間歩いて来てやっと食糧にあり付けると思った時に、目の前で食べ物がなくなってしまったと子どももいたというのです。食べられない子どもが涙を流しているのと同時に、与えている職員も涙していました。その職員は「また来てね」としか言うことができません。その子はまたがないのです。たべられないということは死を意味しています。だから涙しているというのです。私たちはいかに無駄をしているかを考えてみて下さい。賞味期限が切れているということで廃棄処分をしてしまいます。私たち太りすぎといって悩んでダイエットとをします。それならダイエットをするお金を飢餓に苦しんでいる人にささげたら良いのではないかと思います。
また飢えや栄養失調で毎日三万人程が亡くなっていきます。また年間約一千万人の子どもたちが亡くなっているのです。ほさなクラブでこのようなことを学び、好き嫌いを言っている場合ではない。食べられることを感謝しなくてはいけない。また飢えて苦しんでいる人々のために祈り、ささげようと促しました。ある子どもは、涙を流してメッセージを聞いていました。またある子どもは、学校で飢餓について発表したいと言ってきた子もいました。私たちは飢餓についてニュース等で聞いてはいても無関心でした。気にしていませんでした。コンビニに行けば、食べ物が溢れている。でもそのコンビニで一分、一時間でも経過してしまうと廃棄してしまうのです。愛を与えていただきましょう。あなたが祈り、戦いはじめた時、そのところに祝福が始まります。勝利が来ます。また行動し始めてください。そうすれば、そこに愛の手が伸べられ、その人に祝福が届きます。『愛のない者に神はわかりません』とありますが、自分しか見えない人には神様がわからないというのです。
今まで関心がなかったところに関心を持ち始めて下さい。私たちは各器官です。皆感じるところが違います。あなたが祈る時、神様はあなたに答えて下さいます。「○○のために祈りなさい。」「○○の分野のために祈りなさい」と今まで今までまったく目にしていなかった場所、人、分野について語って下さいます。無関心だった所が、実はわたしが、あなたが神に祈り、行動しなさいと語られていたところ、神から任命されていたところであることが気がつきます。そしてその事をあなたが祈りはじめ、行動しはじめ、戦いはじる時、新しいことを起こして下さいます。リバイバルを起こして下さいます。また今まで自分のために祈っても、全く動かなかった祈りの課題も解決します。「受けるより与える方が幸いです。」このみことばが成就します。批判や批評は簡単にできます。しかしあなたが関心を持つことがまず始めであり、重荷をもって祈り始めるとき事態が動きます。行動し始める時事態が動きます。祝福から祝福へとつながります。皆さんの中に子どもさんが学校へ通っている方がいらっしゃると思います。今学校でいじめ問題が社会問題となっています。あなたはどれだけ学校のために重荷を持って祈っていますか?小学校、中学校、高校、大学等多くの学校がありますが、あなたが祈り始めて下さい。学校でいじめがなくなるように祈ってください。今まで買い物や用事でただ通りすぎていたところを、少しの時間立ち止まって祈ってみてください。子どもから学校の状況を聞いて、一緒に祈りましょう。その祈りは霊的な世界で勝利し、現実の中でも祝福が拡がっていきます。病いの方のためにも祈ってください。本日も週報に祈りの欄に病いの方のために祈りましょうという欄があります。あなたはその方々のために毎日祈っていますか。自分が病気の時に、見舞いにきてもらったり、お祈りしてもらったり、気にかけてもらっていると本当に慰められ、励まされた事を思います。神様から教えられたら祈りましょう。お見舞いに出かけましょう。また身体に障害を持っておられる方のためにも祈りましょう。その方々が癒されるように、守られるように祈りましょう。また日本全国だけでなく、この地域でも事件、事故が多くあります。そのために祈りましょう。被害者のために、加害者のために、その両家族のために、事件のために、早期解決のために、真剣にとりなし祈りましょう。また政治のために祈りましょう。批判はできます。しかし聖書は『上に立つ人のために祈りなさい』とあります。わたしはあの人を支持する。しないとか言うのではなく上に立つ人のために祈りましょう。日本のために、市町村の行政のために祈りましょう。またあなたが神さまから祈れといわれた地域のため、国のために、人のために祈りましょう。また教育基本法などの事で祈っていますが教育のためにも祈りましょう。当たり前のように学校で進化論が教えられています。それは宣教拡大には大きな妨げです。祈りましょう。あなたが今まで祈らなかった部分を祈り始めると神が動き始めます。「愛のないものに神はわかりません」あなたが無関心であったところに愛を持たせてもらいましょう。愛を持って祈り始めることを悪魔はいやがります。無関心にさせていれば、愛を持って祈らないようにすれば、悪魔、悪霊の勝利です。しかし私たちが霊的戦いを知るものとして、祈り始めるとそこに勝利します。祈りの課題はたくさんあります。あなたが今まで無関心であり祈らず、行動しなかった所に神様から愛を頂きましょう。イエスさまは私たちのために犠牲を払ってくださいました。犠牲の愛でわたしを愛してくださいました。私たちも祈りの中で神様から教えられたことを、無関心ではなく、祈り始めて下さい。犠牲を持って祈り始めましょう。暗やみの力、目に見えない敵にイエスキリストによって勝利の宣言をしましょう。悪魔は私たちの目や耳を押さえ、霊的に見えなく、聞こえなくさせます。無関心にさせます。今日神の声を聞きましょう。神さまが何のために祈らせてくださるかを見ましょう。各器官の一つであるあなたが、祈りなさいと教えられたところを祈り始めたら、大きな働きが始まります。小さな歯車が一つ動くと次の歯車が動きます。そして次の歯車というように次々と動いていなかった歯車が動きだし、最後には大きなものを動かす力として働きます。まずあなたです。あなたが動いたらつぎの事が動きます。今まで無関心なところを示して頂き、祈ってください。神はこのために祈りなさい。働きなさい。戦いなさいとあなたに語ってくださいます。神を愛し、隣人を自分自身のように愛することができるように祈りましょう。まず私たちの一番の隣人である夫婦のため、家族ために愛が与えられるように祈れません。互いに愛し合いましょう。また敵対している人のために祈りましょう。愛することができるように。赦すことができるように祈りましょう。戦いましょう。至る所に暗やみの存在があります。それに対して祈り、戦い始める時、祝福してくださいます。「愛がない者ですから赦してください。愛を教えてください」と祈ってください。「神様見えない部分、無関心であった部分を悔い改めます。私の担当する愛を与えてください。」と祈り始めてください。愛がまだ注がれていない部分、私たちクリスチャンが目隠しにされて無関心になっていた所が山積みのようにあると思います。まずイエスさまの十字架の愛を心から感謝し、祈りましょう。祈りは大きな武器です。祈る時『見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだことのないもの』を神は備えてくださっています。今日無関心であったこと悔い改め、愛のある者としていただけるように祈りましょう。祈り始めたら大きな霊的な地震が起き、リバイバルが起こされ、更に不思議なことがこの日本に訪れることを覚えてください。『受けるよりも与える方が幸い』とあります。あなたが自分とは全く関係事でも、関心を持って、愛を持って祈り始める時、今まで自分のことで祈っても祈っても答えられなかったことが、解決することがわかります。、『愛のない者に神はわかりません。』愛のない、愛の欠けている自分。教会であってはいけません。愛を求めましょう。最後にルカの福音書十章三十六節から三十七節を開きたいと思います。これは、良きサマリヤ人の話です。祭司もレビ人も傷を負ったけが人を、見て見ぬふりをして助けませんでした。しかしサマリヤ人は助けました。

『この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

ここに『憐れみをかけてやった人です。』とあります。あなたが無関心の所に憐みをかけ始めた時、事が成就します。愛して祈り始めたら、必ず主が動いてくださいます。見えなかったところが見え始めます。今から聖餐の時を持ちます。これはあなたのために犠牲を払ってくださったイエスさまの血と肉です。この愛がなかったら私たちは救われません。愛がないなら神が分かっているようで、分かっていません。まずイエス・キリストを心から愛することができるように。そしてとくに無関心さを悔い改め、愛のある者として祈り、行動し、戦う勇士に変えていただきましょう。愛の中で神様が新しいことを見せてくださいます。新しい勝利に導いて下さいます。お祈りします。


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