神は正しい方です

2007.3.4(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘師

新約聖書 ヘブル人への手紙 6章9節〜12節
だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。

 ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。今日久しぶりにこの場所に立ち、皆さんと御言葉を分かち合うことができることを心から感謝します。

 今朝、玄関で何名かの方に「お帰りなさい」と言われ、「あれ、どこから帰ってきたんだっけ?」と思うほど、ハワイに行ったのが遠い昔のように感じられましたが、一方で、ハワイがすぐそこであるかのようにも思われます。

 「ハワイに行く」というと、ハワイに行ったことのある人も、ない人も、「いいですね」と言います。それだけハワイは、夢のアイランドであり、魅力的な所のようです。今年は日本も暖冬で、過ごしやすかったと思いますが、寒さを避けて、多くの方がハワイへ出かけたりします。実は、ハワイも日本と同じ北半球にあるので、今の季節は冬です。ですから、夜には少し肌寒く、長袖をはおっていましたが、昼間はさすがに暑かったです。また、雨期なので、時々雨が降ったりしました。

 今回は、現地の先生方との打ち合わせや、事務所立ち上げの準備と当時に、ホテルのリサーチなどもしてきました。会場になるワイキキシェルという野外ステージから、宿泊先として予定されているホテルから、何分かかるか歩いてみると、十五分くらいかかりました。その途中、ビーチで多くの人が楽しそうに遊んでいる光景を目にしました。一週間足らずの短い期間で忙しく、ビーチを眺めたのはこの時だけで、あっという間のハワイ滞在でしたが、皆さんのお祈りに支えられ、よい時であったことを感謝します。

 今日、午後からは、ハワイの様子を収めた写真を見たり、とりなしの報告や、ツアーの紹介、また共に祈るときを持ちたいと思いますので、ぜひご参加ください。

 今日は、「神は正しい方です」というタイトルで学びます。

 神は正しい方というのは当たり前のことです。しかし世の中当たり前のことが、当たり前に動いていないのです。クリスチャンになる前、皆さんは何か信仰していたものがありましたか。それは正しく、真実なものでしたか。嘘を並べ立て、信頼できないものではありませんでしたか。日本では、八百万も神がいるといわれていますが、そのすべてが、嘘で塗り固められたようなものです。多くの人が、良いときもあれば、悪いときもあるというような陰陽の考えを持ち、拝まなかったらたたりがあるという、恐怖を与えるような神を信じています。何の御利益もないというだけならばまだいいのですが、効力がないだけでなく、反対に、害を与えるものを信じています。そのような時代にあって、今、真の神様を信じて、教会に集うことができているのは恵みです。

 神様は正しいお方です。しかし、時々、世の中、不公平だと感じることがあるかもしれません。金持ちがいて貧乏人がいる。頭が良い人もいれば、悪い人もいる。しかし、順調にいっているとき、成績が良いとき、楽しいときに、世の中はなんて不公平なんだ、と思うことはあまりないと思います。病気になったり、問題にぶつかったり、自分が幸せでないとき、不公平だと感じるのではないでしょうか。なぜあの人はあんなに楽しそうなのに、あんなに裕福なのに、なぜ私はこうなの? 世の中不公平じゃない…と考えると思います。

 インターネットに、世の中がどんなに不公平なのかということについて、多くの人が書き込みをしていました。その一つをご紹介します。

 「人と差があってもいいと思いますよ。人と同じなんて嫌じゃないですか。劣等感も優越感も捨てて今の自分を愛してください。そして、どんな人にでも慈悲を忘れずに。

 学校というものは、結局、表面しか見ていないもの。皆、人の内面なんてどうでもいいと思っているのでしょうね。僕も、一時期、みな死んでしまえばいいのにって思ってましたが、自分が死ねばいいんじゃないかって思い直しました。だって、その人たちに罪はない。自分よりもはるかにたくさんの努力をしているかもしれないし、その人の才能かもしれない。勝手な自分の嫉妬で、他人を傷つけるのは卑怯だし、理不尽だし、何よりも身勝手な妄想だと気づいたからです。もっと客観的に見てみてください。思い詰めないで、ゆっくりと自分と相談してください」

 この方は学生なのでしょうか。世の中は不公平と思いつつも、現実を受け入れ、相手を客観的に見るようにと勧めています。人生には、いいときも悪いときもあります。人と比べることは、何の益ももたらしません。

 最初にお読みしたヘブル書の六章十節に、『神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです』とあります。惑わしの多い今の世にあって、私たちの信じる神様は、正しいお方であり、私たちが行ってきたことを何一つ忘れることのない神様です。

 皆さん中で、「私は成功者だ」と確信を持って言える方がどのくらいいらっしゃるでしょうか。人生は紆余屈折、さまざまな苦労や悲しいことがたくさんあります。しかし、その経験をしたからこそ、今があると思います。そして、最後がどうであるかが大切です。

 私はプロ野球が好きです。野球は、九回までの攻防で、点数によって勝ち負けが決まります。途中、十対ゼロで勝っていたとしても、九回裏に十一点を入れられたら負けてしまいます。プロ野球の場合は、シーズン中に一四六試合あり、一試合負けたからといって、それで終わりではありません。試合を消化し、最終的に一番勝った試合の多かったチームが優勝するのです。また、チームを持っている企業がどれだけ儲かったか、ということもプロ野球では重要です。

 マラソンは、四二・一九五キロを走りますが、最初から最後まで、ずっと楽しく走れるかというと、そうではないと思います。十キロ地点、二十キロ地点、三十キロ地点と、時々に風が強くて走れなかったり、足が痛かったり、苦しくてもう止まりたいと思うことがあるでしょう。でも、それを乗り越えて走り終えた人が栄冠を得ることができ、勝利者として名乗りを上げることができます。私たちの人生も同じです。ゴールがあります。

 私は幼い頃、偉い人は成功者だと思っていました。私にとって偉い人は牧師でしたから、牧師は成功者だと思っていました。現実的に自分が牧師になってみて、牧師が偉いかどうかはわかりませんが・・・。また、学校の先生や政治家、警察官は偉い人だと思っていました。しかし今はそんなふうに思っている人はあまりいないと思います。教師がセクハラをしたり、政治家が賄賂を受け取ったり、牧師までが堕落している人がいるという、恥ずべき現実があります。では、誰が成功者なのかと考えます。

 先日、高校の同窓会に出席しました。高校卒業後、三十数年経った現在の様子を見聞きすると、人生ってわからないものだと思います。

 高校生の頃、私はあまり成績が良くありませんでしたが、友達に、ずば抜けて成績の良い人がいました。私は、「将来、彼は、きっと大物になるだろう」と思っていました。しかし、現在、リストラされて職を失って、元気をなくしていると話を聞きました。反対に、四十五人中、いつも四十五番という友達がいました。九教科中、七教科が赤点でした。私たちは、「彼は卒業できるだろうか」と心配していました。そこで、最後の試験の時には、彼の周りに席を占めて、「社会は俺が見せてやる」「数学は俺が…」というようにして、何とかその人が赤点から免れるように(ある意味ではカンニングをさせたようなものですが)、協力し合いました。そのかいあってか、彼は何とか卒業できました。そんな彼が、今どうしているかというと、彼は、有名会社の上役であり、営業マンとしては、車を一ヶ月に何十台も売るトップセールスマンです。

 今は受験真っ只中で四苦八苦している人もいるでしょう。学校の成績が良いとか悪いとか、気にしている人もいるでしょう。しかし、どこの学校に入ろうが、どこの会社に入ろうが、あまり関係がないように思います。その後、どのように将来につなげていくかが大事なのだと思います。もちろん、いい学校、良いところに就職したいと願い、努力するのが無駄だと言っているのではありません。人は、表面を見て評価しますが、神様は私たちの内面を見ておられます。

『そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。』

(ヘブル六章十一節)

 私たちクリスチャンは、どれだけ神様と向き合い、神様と共に歩み、多くの方に神様の愛をどれだけ示していくかが大切です。そして、私たちの将来には希望があることを確信し続けていきたいと思います。

 聖書の中に、ヨルダン川を渡ったイスラエル人について書かれています。

 最初、モーセがイスラエルの民を率いて、エジプトから乳と密の流れる地カナンを目指していました。本来、二週間くらいで行くことができる距離ですが、彼らの不信仰や罪によって、四十年間さまよいました。しかも、モーセをはじめ、エジプトから出てきた者たちは、ヨシュアとカレブ以外、誰もカナンの地に入ることはできませんでした。モーセの死後、神から指導者として立てられたヨシュアは、偉大なモーセのあとを引き継いで、どのようにこの民を導いていったいいのか、大きな不安を持っていたと思います。しかし、神はヨシュアに次のように語られ、彼を励ましました。

 『ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。』(ヨシュア記一章七節)

 カナンの地を目前にし、人々はヨルダン川を渡らなければなりませんでした。ヨルダン川の前で、ヨシュアは神から語られたとおりを民に命じました。『見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。』

 その言葉どおり、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川の流れがせき止められ、壁のようにせきをなして立ったと書いてあります。普通では絶対にあり得ないことです。しかし、彼らは神様の言われたことを信仰によって受け取り、一歩川に足を踏み入れました。そして、まさにそのとき、川の水がせき止められ、彼らは乾いた地を渡って約束の地カナンの地に入ることができたのです。

 今、皆さんの前には大きな障害物があるかもしれません。八方ふさがりのような状態かもしれません。しかし、彼らが一歩踏み出したときに奇跡が現されたように、皆さんが、主を信じて一歩踏み出すときに、様々な悩みや病気、問題に対して、主の業を現し、解決に導いてくださることをぜひ覚えてください。

 今年、十月にハワイリバイバルミッションが計画されています。まだ日本でもミッションが行われていないところがあるのに、なぜハワイなのだろうかと思われる方があると思います。私も、いろいろ考えました。頭の中で計算して、金がかかるよなぁ、大丈夫かなぁと思いました。また、時間がかかるなぁ。時差もあるし…と思いました。

 このハワイリバイバルミッションに与えられた御言葉は、『あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる』(イザヤ書五十八章十節の後半)です。

 ハワイは、南の楽園、夢のリゾート地と称されるように、楽しさがあふれ、十分明るいイメージがあります。ですから、神様は、私たちに何をさせようとされているのかと、初めはよくわかりませんでした。

 先日ハワイの先生方から現状を聞きました。表面的にはハワイは真昼のように明るく多くの人がそこを訪れて楽しんでいます。しかし、一歩入り込んで、実際そこに住んでいる方達を見ると、苦しみ、悩んで教会に来ている人が多くいることがわかりました。

 ハワイに住む人々の三分の一ほどが日系人といわれています。親の反対を押し切ってアメリカ人と結婚してハワイに来たけれど、主人に捨てられ、シングルマザーとなり、日本にも帰れず、そこにとどまり、不安を抱え、傷ついている現状を知りました。その話を聞き、確かに主は、この暗やみのような状況に光を差し込もうとされていると感じました。日本でも多くの人が悩み、苦しんでいます。しかし、ハワイにおいて、多くの日系人が時代の流れの中で苦しんでいるのを見るとき、主が長年苦しんでこられた方達に目をとめておられるのを感じました。

 今までにも何度かハワイでリバイバルミッションを開催したいという話が持ち上がりましたが、その度に、その計画が閉ざされ、門が開きませんでした。なぜだろうと思っていましたが、今回ハワイリバイバルミッションが決まり、確かに主が時を備えられていたと感じました。

 来週から、里辺架姉と、うちの泉がハワイに行くことになりました。この娘二人がハワイでどれだけの働きができるかわかりませんが、このまま十月まで私が行かなくて済むほど頑張ってくれるといいなぁと、淡い希望を抱いています。是非、皆さんもハワイのために、お祈りください。

 ハワイリバイバルミッションのテーマソングができました。「勇気を出して」という曲です。勇気を出して一歩踏み出したら、そこに神様がともにいる、あなたを愛している神様があなたを受け取ってくださるという歌詞です。

 学生の時、私は数学だけはよくできました。他の教科はまったくできなかったのですが、数学の問題を前に出て解いてください、と言われ、黒板に計算式を解いていたので、よく目立ちました。「岡本君は、よくできるね」と言われたとき、私はあえて「そんなことないよ」と言って、否定しませんでしたから、私がほかの教科も全部できるかのように見られていました。

 今でも、「先生は何でもできますね」と言われます。私は印刷はできます。そして下手ですがメッセージもできます。また肉や魚を切ることもできます。しかし、できないこともたくさんあります。できないのにできると思われていますが、私はあえて否定しません。

 私は海外に行くのが好きではありません。食べ物が合わないことと、英語ができないことが原因です。税関を通るときに、何を聞かれるのかと不安になります。私は気が小さいです。今回ハワイに行くときには、英語が私よりもできる娘が一緒でしたから安心でしたが。私はよく「英語もできないしペンペンもできない」と言います。ペンペンとはギターのことです。音楽がまったくできないのです。ある人は、「私は何もできない」と言われます。しかし、神様は私たちに力を与えてくださいます。できないことを見るのではなく、私たちに与えられているできることを見てください。イスラエルの民が勇気を出して一歩踏み出したときに、水がせき止められたように、皆さんも勇気を出して一歩を踏み出してください。できることを精一杯やってみてください。

 今まで皆さんの人生には山や谷があったことでしょう。この教会にもありました。明先生御夫妻がこの地に来られて、五十数年が経ちます。私は母のお腹にいるときからこの教会に来ていますから、幼い頃からずっと教会を見てきましたが、いつも順調にきたわけではありません。偶像礼拝の盛んなこの地域に教会が建てられ、先生御夫妻をはじめ、初めに救われたクリスチャンの方々が戦ってきたことにより、人々が増やされてきました。

 今から十五年前、甲子園ミッションの前年に、霊の戦いが始まり、その戦いの最中に、この教会から多くの方が離れていってしまいました。教育館ができたばかりの時で、私はすぐに、返済はどうなるのかと考えました。計算しても答えは出ませんでした。到底足りない状況でした。しかしそんな状況でも、主は支え、乗り越える力を与えてくださいました。色々なことを通して、私たちを精錬し、きよめ、強めてくださることを感謝しています。

 最近、私は、アメリカのアポロ宇宙船のことが書かれている本を読みました。アポロ十三号は映画化されたので、皆さんもよくご存知だと思いますが、本の中にはこんなことが書かれていました。

 アポロ十三号は、打ち上げから五十五時間後に、地球から約三十三万キロ離れた所で、酸素タンクが爆発して、船内の酸素の大半が失われ、もうあと数時間で駄目だという絶体絶命の状況に陥りました。航空宇宙局NASAは諦めて、当時のニクソン大統領に殉職声明文を依頼していました。しかし、そこに乗っていた三人の宇宙飛行士たちは全員クリスチャンでした。どうすることもできない危機に遭遇しながらも、ただ恐怖に脅えて手をこまねいていたのではなく、三人が主の前に手を取り合って祈りました。そのとき、次の御言葉が与えられたそうです。

『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(第一コリント十章十三節)

 彼らはこの御言葉を信じて、真剣に祈りました。祈っている内に、月面着陸用の着陸船を救命ボートとして脱出するというアイディアが思い浮かび、彼らは奇跡的に生還することができたというのです。地球に戻った彼らは、「私たちがもし神を信じていなかったら、生還できなかった」とコメントしたそうです。その後ジム・ラベル船長は、「どんなことでも決して諦めてはいけない。神を信じ、神のうちに夢と希望を持ち続けなさい。未来はあなたの手の中にあるのだ。神への願いは必ず聞かれる。だから勇気を持ち続けなさい。希望を持ち続けなさい」と、メッセージを送ったそうです。

 私たちは絶体絶命でもう駄目だ、人間の力ではどうすることもできない、お手上げだという状況の中でも絶対者である神様が私たちと共におられ、脱出の道を備え、祝福を与え、恵みを与えてくださることを信じていただきたいと思います。

 旧約聖書に大きな賞賛を得た人たちのことが記されています。しかし、その賞賛の陰に、苦しみや大変さもありました。

 アブラハムは百歳で念願の子どもを得ましたが、可愛い盛りのときに、神様はイサクを捧げるようにと語られました。アブラハムの心は相当痛んだことでしょう。しかし、彼はそれを受け止めて、モリヤの道を進み、イサクをほふろうとしたそのとき、主が代わりのいけにえを与えられたのでした。アブラハムは、神の友、信仰の父と呼ばれました。それは、彼が偉かったわけではなく、どんな不利な状況にあっても神に信頼したことによって、イサクが生かされ、大きな祝福を受けたことを見ることができます。

 また、ヨセフは、若いときに兄さんたちに嫌われてエジプトに奴隷として売られ、投獄され、これ以上落ちるところがないというどん底にまで落ちました。それで終わりだというような状況の中で、神は彼をエジプトの総理大臣にまで引き上げました。ヨセフは、自分を売った兄さんたちを許し、飢饉のとき、お父さんや一族をエジプトで養いました。それは、彼がどんなに苦しく、神を恨み、欺いてもおかしくないような状況の中にあったときにも、決して神に対する信頼を失うことなく、歩んでいたからこそでした。

 またヨブも、一瞬のうちにすべてを失い、一度は自分の正しさを主張しましたが、神を捨ててもおかしくないような状況にもかかわらず、主に悔い改め、主に従ったことによって二倍の祝福を受けました。どんな逆境の時にも神を信じた証しです。

『それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。』(ヘブル六章十二節)

 私たちは恵みにより、永遠のいのちをいただいています。しかし、私たちだけが良ければいいのではありません。まだ救われていない家族や親族、友人に御言葉を伝え、同じ恵み、祝福、神の子どもとしての相続権を受け取ることができるように、信仰と忍耐を持って祈っていきたいと思います。

 イエス様はこの地上に来られ、誰よりも仕える者として、へりくだって人に仕え、私たちに模範を示してくださいました。そして、私たちの罪のために十字架にかかり、むち打たれ、身代わりになって死なれましたが、三日目によみがえり、今も私たちを導いてくださっています。このイエス様に従っていきたいと思います。また群れの模範となるなら、栄冠を受けることができます。

 『大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。』(ペテロ第一五章四節)

 目の前には多くの悲しみ、苦しみ、疲れ果ててしまうときもあるかもしれません。しかし神様は、私たちの疲れをいやし、新しい力を与えてくださいます。明日のことは、いや、一瞬先のことも誰にもわかりません。しかし私たちの神は、正しい神様なので、神の視点を持って歩むならば、必ず正しく導いてくださり、祝福され、喜びを見いだすことができることを確信しています。

 お祈りします。


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