イエスさまは主です!

2007.3.11(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 マタイの福音書16章13節〜16節
さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

 ハレルヤ!三週間ぶりに、新城教会でメッセージを語ることができ、感謝します。二週間前はハワイミッションの決起大会で、約一週間、ハワイで奉仕しました。
 また先週は、千葉県の教会で奉仕していました。三月は年度末で大変忙しい時期です。また、色々な面で変化のある月でもあります。ある方は、心落ち着かないかもしれませんし、新しい領域に対して不安かも知れません。週報を見ても、色々な動きがあることがわかります。今週は結婚式もあります。結婚に関しても、結婚してみないとわからない未知の世界があるようです。女性は、男性は結婚したら変わるだろうと考えているかも知れませんが、男性は案外変わりません。
 また男性は、女性に「結婚しても変わらないで欲しい」と考えているかも知れませんが、実際には、どんどん変わって行きます。そんなギャップもあります。しかし、イエスさまは、いつまでも変わらないお方です。

 今日は「イエスさまは主です!」というタイトルで、み言葉を学びます。「主」という言葉は、「The Lord」、「神、救い主」という意味です。はじめて教会に来られた方は、キリスト教用語がたくさんあり、わからないと思いますが、すぐに慣れますから、心配しないでください。「イエスさまは主です!」というのは、私たちの「信仰告白」です。
 今日から私の娘と岡本牧師の娘がハワイに出かけます。明日から本格的に、ハワイミッションの事務局が始動し、ハワイミッションの活動が本格化します。ぜひお祈りしていただきたいと思います。
 二週間前に、私はハワイに行きました。働きは整えられつつありますが、今度はさらに前進しますので、ぜひ祈っていただきたいと思います。
 「ハワイにまで行って、なぜ、ミッションをするのか」と思われる方もいるかもしれません。

 実は、ハワイは、日本と大変関わりが深い場所です。ハワイと聞くと、一般的には「楽園」というイメージがあり、素晴らしい所だと考えるかも知れません。
 しかし実は、楽園イメージやリゾートは、人工的に作られたものです。ワイキキには綺麗なビーチが広がっていますが、それは人工的に作られたものです。夜になると、どこからともなくトラックで砂が運ばれてきて、ビーチを作っています。その場所は、昔はビーチではありませんでした。最近は、持ってくる砂がないという問題があるようです。またハワイアン音楽でさえ、作られたものであり、元々現地にあった音楽ではありません。
 ハワイはポリネシア人たちが渡ってきて形成された島です。紀元三世紀から五世紀の間に、アジアから移住してきた人たちによって形成されたのです。
 日本とも大変関わりが深く、江戸の末期から日本人たちが移住し、今でも、人口の四分の一から五分の一が日系人だと言われます。近代ハワイは日系人が作り上げた島と言っても過言ではないのです。
 また、世界史上、最も悲惨な事件は太平洋戦争でしたが、その火ぶたが切られたのも日本軍の先制攻撃によって始まった「真珠湾」でした。
 そして現代に至っても、ハワイには日本人が多く来ます。一日に、なんと、五千人から六千人もの日本人が、ホノルル国際空港に到着するそうです。ハワイはアメリカの州の一つというよりも、「日本のそのもの」であるかのような歴史的背景があります。
 神は世界の国々に教会を建て、各教会に宣教の領域を割り当てられておられると思いますが、ハワイはこうしてみると、日本教会が果たさなければならない、大きな使命があると思います。日本のリバイバルを考えるときに、ハワイでの働きが、日本のリバイバルにも扉を開くと信じます。
 リバイバルとは、今まで「イエスは主です」と告白しなかった人たちが、「イエスは主です!」と告白するようになることです。

 元々、ハワイの原住民の人たちは、日本人と同じ宗教観を持った人々であり、八百万の神々を拝んいました。今でも、そのような文化を持っています。
 最近、日本で人気の「フラ」というダンスがあります。それは、火山の神「ペレ」に捧げる祈りです。先日、『世界、不思議発見』という番組で「フラの起源」についてやっていました。それは、ただのリゾート気分を満喫するための踊りではなく、火山神ペレに捧げる祈りの踊りだとやっていました。ハワイの北方に、「カウアイ島」がありますが、そこには、「フラの聖地」という神殿があって、そこで踊らないとフラの神と一体になれないとやっていました。
 私は二週間前にハワイに行きましたが、そのテレビを見た後でしたので、「そこに行ってみたい!」と思いました。潜入して悪霊に対する踊りではなく、勝利を宣言して祈りたいと思いました。けれども、どこへ行ったら良いのかわからず、情報がありませんでした。しかし祈っていると、主が導いてくださり、その場所に行くことができました。

 ぜひ、ハワイ・ミッションのためにお祈りください。『勇気を出して』というテーマソングCDが出ました。ぜひ聞いてみて下さい。

 イエスさまが弟子たちに、「あなたがたはわたしを誰だと思いますか」と質問すると、ペテロが、「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えました。私たちの信仰の基本は、「あなたは生ける神の御子キリストです」とペテロが信仰告白したように、八百万の神々ではなく、天地宇宙を造られたただ一人の神、イエスさまであると大胆に告白することが基本です。使徒の働き四章十二節に、

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」』

とあります。時々、キリスト教は「イエスさま以外に救いはない」と、「排他的だ」と言われます。
 しかしもしも、天地宇宙を造られた神がおられるらば、「わたしが創造主ですよ」と紹介しても、何も排他的ではなく、当然のことです。
 ここにはお子さんを持つ親御さんたちがおられますが、自分の子どもを見て、「これは私の娘です。」「私の息子です。」と紹介するのは当然です。「世界には多くの親がいるので、この子に対して、私が親だと主張するのは排他的だ」とは言わないのです。「私がこの子の親です」と主張するのは当然なように、「わたしが天地宇宙を造りました。わたしが救い主です」と神が人類に主張するのは、当然のことなのです。

 『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」』とあります。日本人の宗教観は八百万の神々です。下手な鉄砲数撃てば当たると考えています。色々な名前を使って祈ったら、その中の一つくらい当たるだろうと考え、色々な神々に祈りをささげます。神社で祭りがありますが、それは一つの神に対する祭りではありません。神社は多くの祭神の寄せ集めであり、そこで頭を下げることは、「祀られている祭神の名によって祈る」ということです。
 祈りとは、霊的世界への扉なので、注意深く扱うように教えています。日本人の誰もが祈り心を持っています。常に誰かに対して祈りたいと願っています。しかし祈りに対して必要なのは、誰に対して祈るかという、対象と名前がはっきりすることです。「イエスの名」によって祈るならば、その祈りは父なる神である、本物の神に届きますが、他の名前を使うと、神以外の神々、神のふりをした敵に祈りが渡ってしまうのです。そのような名前の法則があります。皆さんの家に電話をかけるときに、電話番号は一つだけで、一桁間違えると他の家にかかってしまいます。
 祈りも同じです。「この方以外に救いはない」というのは、イエスさまの名前によって祈るならば、本物の神様に到達しますが、他の名前で祈ると悪魔・悪霊の所に通じてしまうのです。

 ハワイは一八二〇年に、アメリカから宣教師が来るまでは、八百万の神々を礼拝し、自然崇拝をしていた島でした。そしてそこには「カブ」という大変厳しい階級制度があり、偉い人とは、霊を呼ぶ能力が高い人が偉い人と位置づけられていました。それで、霊能者と呼ばれる人たちが、島を牛耳っていました。人々は霊能者に指示を仰がなければ生活ができませんでした。霊能者の言葉にいちいち脅えていました。

 日本も同じような所があると思います。霊能者によって語られた言葉は、ずっと尾を引きます。占い師のところに行き、占い師のおばあさんが神懸かりをして、「あなたは絶対に離婚する!」と言われたら、結婚してからも、いつもビクビクしてると思います。それは重い言葉となります。なぜそんなに重い言葉になるのかというと、それは、背後に霊が働いているからです。それは神ではなく、悪霊が働いているからです。そのような言葉を聞くと、生活がどんどん狭められてしまい、動きが止められてしまいます。
 日本人はどうでしょうか。ほとんどの人たちが神々の奴隷のような生活をしています。彼岸が近づいていますが、先祖を拝まなければ先祖に祟られると考えます。考えてみると、やがて私たちも先祖になりますが、先祖になった時に、この地上に祟ったりするだろうかと考えます。絶対に、そんなことはないはずです。

 ハワイにおいても、そのような歴史が長く続いていました。しかしハワイに王朝が栄え、最初の王は「カメハメハ」という人でした。彼は、ハワイ諸島を支配しました。その王様はリーダーシップがありました。しかし彼が死んで、カメハメハ二世の時代になったとき、二世はカメハメハ一世の長男でした。それで母親が心配したようです。「この子には島々を治める力がない・・・」それで母親は自分の権力を行使し、一つの改革を実行しました。それはカブという階級制度を全廃し、ヘイアウという神殿を全て壊し、偶像を全て撤去してしまいました。それは、自分の息子の中央集権を確立するために実行したことであり、権力をふるっていた霊能者たちを一掃したのです。それが一八一九年のことでした。
 そして翌年、一八二〇年、遠くアメリカの東海岸、ボストンから宣教師たちが入ってきました。

 神の働きにはタイミングがあります。昔は今のように電話があるわけではなく、ボストンからハワイ諸島まで、船で六ヶ月かかったと言われます。一八二〇年に港に入ることができるかもわかりませんでした。しかし、ハワイ諸島に入ってみると奇跡が起こっていました。それまで八百万の神々を拝み、霊能者たちが支配していた島が変わっていたのです。ある意味、宗教的空白時代にキリスト教宣教師が入って来たのです。人々は頼るものがなかったので、「イエスさまが救い主」という言葉に耳を傾け、多くの人たちがクリスチャンになりました。リバイバルがハワイに起こりました。すべての物事に、「神の時」があります。

 私たちがイエスさまを信じると、何気なく生活していますが、そんな行動の一つ一つに、神の時を体験できます。神の時の中で行動できる特権に預かることができます。
 そのような宗教的空白時代に、神がハワイに福音の扉を開かれました。しかしハワイの人々が偶像礼拝から離れたといっても、権力者によって無理矢理変えられたわけで、心までは変わりませんでした。まだまだ、人々は火山の神・ペレを恐れ、偶像はなくなったかも知れませんが、八百万の神々、森羅万象を恐れる生活をしていました。特に彼らは、火山の神ペレを一番恐れていました。なぜならば、ハワイは火山によってできた島々なので、噴火はペレの怒りと考えていました。

 しかしそんな中にも、大きな転機が訪れました。ハワイに行くと、ハワイ島という一番大きな島がありますが、ヒロという町があります。そこに一人の酋長がおり、カピオラニという娘がいました。彼女は裕福な家庭に生まれ、やりたい放題で、一夫多妻ではなく、一妻多夫というように男をいっぱい侍らせ、酒を飲み、自堕落な生活をしていました。
 しかし一八二二年、彼女はサーストンという牧師に出会い、イエスさまのことを聞きました。そして、主を信じ、「イエスは主である」と告白をしました。その時、彼女の人生はまったく変えられました。
 世の中にはどうにもならないような人たちもいますが、イエス・キリストを信じるときに、大きな変化が訪れます。神が働いて下さり、どうにもならない領域に勝利することができます。
 カピオラニは、今までの罪を悔い改め、多くの夫がいましたが一人の中心的な夫だけを残し、全ての婚姻関係を解消し、カピオラニ夫妻は伝道者となりました。そして、多くの人たちに福音を伝えました。
 そんな中、伝道の障害となったのが、やはり火山の神ペレでした。ペレを敬わないと悪いことが起こるのではないかと、恐れていたのです。

 一八二四年十二月、彼女はペレに対抗すべく、裸足で百六十キロの道のりを歩き、ペレが住むというキラウエア火山に向かいました。道中、ペレの霊能者カフナたちからの妨害や嫌がらせもありましたが、最終的にはキラウエア火山の火口にまで行き、ペレが住むという火口に向かって神のみ言葉である、聖書を朗読しました。それはハワイの最高神に対する冒涜でした。人々は彼女がペレに打ちのめされ、火山は大爆発すると恐れ、その光景を見ていたのです。さらに彼女は、ペレへのささげ物という、神聖なオヘロの実を火口で食べ、その食べかすを火口に投げ込みました。皆はそれを見てさらに恐れました。最後に彼女は、火口に石を投げ込んで、悠々と帰ってきたのです。しかし、何も起こりませんでした。

 それを見て、人々の心は解かれました。カピオラニが、ペレを侮辱するような行動を取ったのにもかかわらず、何も起こらなかったのです。それを見て、人々は「イエスは主です!」となだれ込むように、クリスチャンになったという話が残っています。
 私たちがイエスさまの側に立つならば、この世の神々は決して恐ろしいものではないと、ハワイの歴史においても証明されているのです。
 「イエスさまを信じませんか?」と言うと、「私には先祖がありますし、地域の神社とも関わりがあります。そこから離れると罰が当たるかも知れません」と言う人が多いのです。しかしそんなことは絶対にありません。
 今日お読みしたマタイ十六章十三節は、

『さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」』

 そしてイエスさまは、『あなたがたはわたしを誰だと言いますか』と聞くと、ペテロが『あなたは生ける神の御子キリストです』と告白しました。
 イエスさまが弟子たちに『あなたがたはわたしが誰だと思いますか』と質問した場所は、「ピリポ・カイザリヤ」という地方に行ったときであったとあります。
 「ピリポ・カイザリヤ」は、ガリラヤ湖から北へ上った所で、ガリラヤ湖の水源とも言われる水がわき出るきれいな場所です。ピリポ・カイザリヤは、本来は「パニアス」という地名でした。それはギリシア神話に出てくる「パン神」を意味しています。その町にはパン神が祀られていました。
 イエスさまの時代、周辺はヘレニズム文化の影響を受け、ギリシア化した町々が多くありました。ピリポ・カイザリヤ地方は、歴史を見るとローマ皇帝アウグストから、ヘロデ大王がもらった町であり、そこに皇帝崇拝の神殿さえ建てられていました。ピリポ・カイザリヤ地方は、時代背景から見ると、その町の名前からもわかるように、ギリシア神話の神々が祀られた偶像礼拝の地でした。イエスさまはあえてその地に行き、弟子たちに聞きました。「あなたはわたしを誰だと思いますか?」

 ここには、深い意味が隠されています。私は二年前にイスラエルに行きました。その時にピリポ・カイザリヤへ行き、「パン」という、日本で言えば「水神」にあたる神殿に行き、霊的戦いの祈りをしました。イエスさまはその場所で、弟子たちに、「あなたはわたしを誰だと思いますか」と聞かれ、弟子たちは「あなたは生ける神の御子キリストです」と信仰告白したのです。
 聖書も現地に行くと、よくわかってきます。私たちの信仰告白は、どのような領域で成されるべきかについて教えています。誰も迫害しない平和な状況の中で、「あなたは神の御子キリストです」と告白するのは簡単かも知れませんが、あえて、ピリポ・カイザリヤ地方に弟子たちを連れて行き、「わたしを誰だと思いますか」と質問されたことは、「偶像礼拝のただ中で、イエスは主です!と告白することが大切である」と教えたのです。
 その時に続けてイエスさまは、マタイ十六章十七節、

『するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』

 日本は、正に、ピリポ・カイザリヤで「あなたは神の御子キリストです」と告白している弟子たちと同じです。なぜなら日本には、多くの偶像があるからです。
 あなたが、「イエスは主です」と大胆に告白できるとしたら、自分で悟ったかのように思うかも知れませんが、『あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』父なる神によって理解しているのです。
 今日「イエスは主です」と告白できるならば、それは天の父が聖霊によって示していると教えています。「私は神と出会ったことがない、神の声を聞いたことがない」と言われるかも知れませんが、「イエスは主です!」と告白できるのは、聖霊によることであり、父なる神から教えられたことなのです。ローマ書十章九節から十節に、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

 口で告白することは簡単ですが、簡単な法則を通して、霊的世界では大きく変わります。「イエスは主です」と今日、告白しましょう。「イエスは主です!」
 これを教会だけで告白するだけではなく、ピリポ・カイザリヤ地方のように、悪魔の祭壇が築かれているただ中で告白して下さい。イエスさまは、必ず勝利を与えて下さいます。
 そしてその後イエスさまが語られたことは、マタイ十六章十八節に、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』

 パンの神殿は岩の上に建てられていました。ピリポ・カイザリアの人々は、「自分たちの土台はパン神だ」と考えていました。
 しかしイエスさまは、「わたしはこの岩の上に教会を建てます」と言われました。「岩」とは「イエスさまご自身」であり、私たちの「信仰告白」です。けれども、イエスさまがパンの神殿を見ながらこのことを語られたのは、今まで人々がギリシア神話の神々が主であると語っている上に、神の神殿が建てられることを意識されたと思います。
 日本も状況は同じです。「八百万の神々が我々の主だ」と人々は語っていますが、彼らが岩であると言う土台をつらぬいて、神の教会が建てられ、「ハデスの門」とは、悪魔の住処を意味しますが、「ハデスの門もそれには打ち勝てない」、必ず、主はそれらに対して勝利を与えて下さるのです。
 時々、クリスチャンとなる決断をするときに、恐れがありますが、それは恐れるに足らないことです。そのような異教の上に、主はご自分の教会を築こうとされているからです。真の岩はイエス・キリストであることが、やがて実証されるからです。ハデスの門は教会を攻めることができないのです。教会は、主を信じる個人を意味しますので、イエス・キリストを信じる者を侵害できないと教えています。
 異教の神々のただ中で信仰告白が成されるとき、十六章十九節。

『わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

 偶像礼拝が満ちている、偶像の神々を岩とするただ中で、「イエスは主です」と告白する者たちには、「御国の鍵」が与えられるのです。特に日本のクリスチャンには、御国の鍵が与えられています。なぜなら、同じような環境下で信仰告白が成されているからです。ハワイにおいてもそうでした。「イエスは主です」と酋長の娘が告白したときに、主がそのことを通して、大きなリバイバルを起こされました。私たちも「イエスは主です!」と敵のただ中で、告白するときに御国の鍵を授けて下さるのです。
 それはどのような鍵でしょうか。

『あなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』

 それは天と連動する鍵を、私たちに与えて下さると教えています。どんな重い扉でも、鍵が開いたらやがて開きます。日本の扉は青銅の扉のようで、重くて、そう簡単には開かないように見えます。しかしそれに加えて、ロックがかかっているのかも知れません。しかし、御国の鍵をもった主を信じる者たちが、鍵を使うならば、その扉は開くのです。

 「つなぐ」とか、「解く」という言葉は、当時の律法学者「ラビ」が、律法の解釈において「禁じたり」、「許可する」という時に使う言葉でした。人々は、旧約聖書を読み、自分では判断ができなかったので、すべてを宗教家のラビの所に行き、判断を仰いでいました。ラビが「駄目だ」と言えば駄目で、「良し」と言えば実行されました。そのような、宗教的圧制下にあって、イエスさまがあえてこの「つなぐ、解く」という言葉を使ったのは、弟子たちが、律法学者に尋ねなくても自分たちで判断ができる、地上で判断することが天における判断になる、一人ひとりに権威が与えられるという、律法の束縛からの解放の鍵を弟子たちに授けたのです。

 つなぎ、解く鍵は、旧約聖書の規定にある、色々なのろいからの解放の鍵であることがわかります。
 日本では、多くの人たちが偶像礼拝をしていますが、偶像を自分の守り神だとして信じています。まさか、敵に礼拝を捧げているとは思っていません。そこに問題があり、罠があります。
 詩篇一〇六篇三十四節から四十節に、

『彼らは、主が命じたのに、国々の民を滅ぼさず、かえって、異邦の民と交わり、そのならわしにならい、その偶像に仕えた。それが彼らに、わなであった。彼らは自分たちの息子、娘を悪霊のいけにえとしてささげ、罪のない血を流した。カナンの偶像のいけにえにした彼らの息子、娘の血。こうしてその国土は血で汚された。このように彼らは、その行ないによっておのれを汚し、その行ないによって姦淫を犯した。それゆえ、主の怒りは御民に向かって燃え上がり、ご自分のものである民を忌みきらわれた。』

 偶像礼拝は何の感覚もなく行うことはありません。何らかの霊感があるので、偶像礼拝をします。偶像礼拝をする人は、霊感が強い人が多いのです。石や木などに霊感を感じるので、一生懸命礼拝をささげます。ハワイには日本の宗教団体のほとんどが、支部を作っています。ホノルルには宗教通りがあります。なぜそのようなものを作るのかというと、ハワイは霊感を強く感じる島だからというのです。しかし、ハワイの島だけに限られた霊感は、天地宇宙を造られた本物の神からのものではありません。限定された空間に感じる霊感は神ではなく、神のふりをした存在です。偶像礼拝は罠です。自分の味方と思って関わっているのかも知れませんが、それは悪霊と契約書を交わしているのです。偶像礼拝をしていると、三代、四代に渡って呪いを受けてしまうのです。エレミヤ書三十一章二十七節から三十一節に、

『見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。――主の御告げ。――その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。』

 不思議な言葉です。父親がぶどう園に行き、酸っぱいぶどうを食べたら、ぶどうを食べてもいない息子が、孫が、「歯が痛い!」と言って泣き出したというのは聞いたことがない話です。また、おじいちゃんとおばあちゃんがぶどうを食べると、彼らは総入れ歯で、歯は痛みませんでしたが、ぶどうを食べてもいない孫の歯が、「痛い!」と泣き出したということはありません。
 けれども、人生に起こってくることは、そのような事柄です。言われのない、のろいによって苦しめられるというのです。自分の家系を見て、何も問題がない、麗しい家系という人はあまりいません。自分の家系を見ると、同じような問題が繰り返し、繰り返し、起こってきます。
 色々な問題が起こると霊能者は、「あなたの家系に、まだ成仏して先祖がいるから拝んで下さい。祟られているよ」と言われます。先祖が祟るはずはないのに、祟られていると信じ、先祖崇拝を熱心にやります。先祖は自分の味方にも、敵にもなるという特殊な世界観を持っています。実はそれが罠なのです。
 偶像は罠であり、悪霊が神のふりをして人間と契約を結び、その契約は三代、四代にも渡るのです。父が酸っぱいぶどうを食べたために、その罪が、息子や孫に出るという恐ろしい結果となりうるのです。
 しかしイエスさまを信じ、異教の神々のただ中で「イエスは主です!」と告白するとき、鍵が与えられます。それは、つなぎ、また解くためのものです。三代、四代ののろいであったり、父が酸っぱいぶどうを食べたために歯が浮くという規定さえも、解いてしまう鍵なのです。エレミヤ書三十一章三十一節には、「その日が来る」と結論が記されています。

『見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。』

 今までは父が酸っぱいぶどうを食べたために子どもの歯が浮くと言っていたが、イエスさまを信じると、新しい契約により、御国の鍵をもらうことができるので、家系的なのろいからも解放されるのです。素晴らしい鍵です。

 そのためにも、私たちは異教の神々ただ中で、はっきりとした信仰告白することが必要なのです。ピリポ・カイザリヤにおいてイエスさまは、「あなたはわたしのことを誰と言いますか」と聞いたとき、ペテロが、「あなたは神の御子キリストです」と告白したように、周りは、多くの偶像礼拝と共に、閉ざされた領域かも知れませんが、大胆にイエス・キリストを信じ仕えていくならば、ハデスの門もそれには打ち勝つことができず、御国の鍵が与えられ、二度と悪霊に攻め込まれることがない、素晴らしい権威をいただくことができるのです。

 今日イエスさまを信じている人は、すでにそのような鍵を持っています。まだ、イエスさまを信じておられない方は、色々な環境があるかも知れませんが、大胆に「イエスは主です!」と告白し、宣言して下さい。それは自分から出たことではなく、父なる神から出たことであると教えています。
 「岩の上にわたしの教会を建てます」とあるように、悪魔が置いた岩を砕き、イエスさまという岩の上に、揺るがない人生を建てることを願っています。お祈りします。

(告白の祈り)
「イエスさま。今、私たちは、日本という偶像礼拝のただ中で、イエスさまがだけが主ですと高らかに告白します。イエスさま以外に救い主はいないことを宣言します。私たちに鍵を授けてください。扉が開きますように。イエスさまの名前を高らかに宣言してお祈りします。アーメン。」


[バックナンバー]