「必ず」

2007.3.25(SUN)
新城教会牧師 滝元 明師

旧約聖書 イザヤ書55章6節〜13節
主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」

 ハレルヤ!おはようございます。久しぶりにこの講壇に立たせていただくことができ、感謝します。いつも色々なところを巡回していますが、皆さんのお祈りに支えられて健康が支えられていることを感謝します。
 夕べ、アメリカから連絡がありました。今、アメリカでミュージシャンのための集会があり、大勢の有名なミュージシャンたちが集まっていますが、その集会で順牧師が大変素晴らしい御言葉を語り、ミュージシャンたちは釘付けになって耳を傾けていたようです。明日は、上條頌君がアメリカにいたときに通っていた教会で礼拝があるようです。

 私は一月は大阪方面、二月は四国、三月は沖縄に行き、今日はここにおりますが、四月には九州へ行きますので、ぜひお祈りください。今日は「必ず」というテーマで学びます。

 私は三月十三日に沖縄で聖書を読みながら祈っていました。その時に、今日のみ言葉が与えられました。私はハワイ・リバイバルミッションのために重荷があり、そのために与えられたみ言葉でもあります。六節から七節に、

『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』

 ハワイ・リバイバルミッションに大勢人々が来て、恵まれることも大切ですが、それ以上に、ハワイのためにお祈りくださる皆さんが、この機会に主にお会いし、ハワイ・ミッションを通して自分の信仰が燃やされ、主を深く知ることができるように願っています。

 私は先週、琵琶湖にある祈祷院で奉仕をしました。祈祷院とは、特別に主を求める場所です。韓国には非常に多くの祈祷院が多くあり、人々は真剣に祈っています。韓国の教会は大変恵まれています。チョー・ヨンギ先生と弟さんが、何かのことで二十年程前に別れて働きをしていましたが、最近また一緒にやるようになったようです。そこで、チョー・ヨンギ先生の教会にどのくらい人々が来ているかと聞きました。すると、七十五万人と言われました。また、弟さんの教会には、五十万人来ていると言われました。日本のクリスチャン人口は、約五十万人です。韓国は素晴らしく祝福されています。
 私を今度招いてくださった祈祷院の先生は女性の先生です。その先生は今六十才くらいですが、今までに私を二回招いてくださいました。日本のリバイバルのために一番熱心な先生を送ってくださいと祈っていたら、私に当たったと言われました。
 色々なことを先生に聞きました。いつ献身したのかと聞きました。すると先生は二十年程前にご主人を亡くしたようです。それで彼女は神学校に入って勉強をすることにしたのです。神学校に入り、四年間学んだようです。その神学校では毎週火曜日に山の中腹にまで入って、夜十時から朝五時まで祈ったというのです。四年間祈り続けたそうです。神学生は何人いるかと聞くと、千五百人と言われました。「リバイバル聖書神学校」は、四十人から五十人ほどです。リバイバルが起こったら、リバイバル聖書神学校も大きくなると思います。その方も、必ず朝は四時に起きてお祈りするようです。私たちも素晴らしい神様の恵みをもらっていますが、真剣に主を求めることが大切です。

『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。』

とありますので、皆さんも個人的に主を求めてください。七節に、

『悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。』

とあります。私たちは神様との関係が正しくあるべきです。ですから、悪いことを止めましょう。
 八節から九節に、

『「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。』

とあります。
 私たちの信仰は、神様との関係です。人を騙したというのではなく、生ける神様とともにあるので、神様との正しい関係を持って行くことが大切です。
 旧約聖書にダビデという王がいますが、彼は神様から油注ぎを受けました。その時に、サムエルはエッサイの子どもたちを集めて油注ぎをしました。最初のエリアブを見て、サムエルは「この人だ。油注ぐ人は…」と思ったときに、神様がこのように言われました。

『「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」』

 私たちの信仰生活では、うわべではなく、神は心の中を見るとあります。思いが神の前に喜ばれることができるように、歩んでいきたいと思います。
 この時、ダビデは少年でしたが、「彼は血色の良い顔で目が美しく、姿も立派だった」と書かれていますが、サムエルは少年ダビデを見て祝福しました。私たちも神様から信頼される歩みができるように祈っていきましょう。
 今日のみ言葉のタイトルは「必ず」です。イザヤ書五十五章十節から十一節に、

『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』

とあります。「必ず」という言葉を誰かの言葉ではなく、自分に対する言葉として、受け取ってください。

『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し…』とあります。神様がこれからの人生を必ず、潤してくださるとあります。また『必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』とあります。
 それぞれの受け止め方がありますが、神が必ず祝福されると教えてくださっています。クリスチャン生活は神様が祝福してくださいます。

 私は十九才で救われ、二十才になって津具村へ開拓伝道に出ました。大変迫害がありました。私は真剣に山の中で泣きながら祈りました。
 「イエスさま。家も職もない。どうやったら良いですか。」と祈りました。その時にヘブル書六章十三節からのみ言葉が与えられました。

『神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。』

 昔は聖書を文語体で読んでいましたので、「われ必ず汝を恵み恵まん。汝を増やし増やさん」とありました。この言葉は私の生涯の宝となっています。必ず神が私の人生を祝福してくださると信じました。「神は指して誓うところがないゆえに、必ず汝を恵み恵まん。汝を増やし増やさん」と言われました。
 私は五十数年の間、このみ言葉を離さず、「必ず祝福してくださる」と信じています。現在、素晴らしい教会で礼拝できることは素晴らしいです。また多くの人のささげ物によって教育館ができ、プレイズ出版があり、リバイバル神学校がある、そして、リバイバルクルセード時代から、リバイバルミッションまで導いてくださったことは、ある意味、ただ事ではありません。これは神様が約束を「必ず、汝を恵み恵まん。増やし増やさん」と語られた成就です。
 「あなたがたを悪から立ち返らせて、祝福に預からせるためだ」とありますが、イエスさまを信じることは、サタンの支配下から神の支配に立ち返ること、そして暗やみから光に入ることです。そして悪から立ち返らせて、祝福に預からせることです。
 クリスチャンになることは、神様がすでに準備された祝福をあなたに与えてくださるとことです。長い間クリスチャン生活をされている方は、本当にイエスさまを信じて祝福され、恵まれたと思います。
 私の家庭も「地を潤す」とありますが、潤されました。今日は誰かのためではなく、「必ず地を潤す」と書かれていますので、「必ずわたしの望むことを成し遂げる」とありますので、皆さんに関することも成し遂げてくださいます。

 先週は上條麻輝君と愛美さんの結婚式がありました。素晴らしい祝福の時でした。感謝しました。私には子どもや孫が今、四十二人あります。日本の教会の平均礼拝出席者は三十七名です。信じたらそこで終わりではなく、千代にまで祝福されます。信じたらこの地上だけではなく、あなたの家系が千代まで祝福されると教えています。創世記四十六章一節から四節に、

『イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた。神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ。」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」』

 聖書の神様は絶対に約束を忘れない方です。ヤコブに「ヤコブよ、ヤコブよ。エジプトに下るのを恐れてはいけない。わたしが一緒に行って導き上る」と語られましたが、神様は永遠の方なので、私たちが理解できない時があります。
 アブラハムにあなたの末によって、地の氏族が祝福されると言われ、ひとり子イサクを与え、その子どもにヤコブとエサウがいます。ヤコブは十人の子どもができ、十人の中でヨセフを特別に愛していたので、兄弟が妬んでエジプトに売りました。お兄さんたちは嘘を言い、羊の血をヨセフの着物に付け、「お父さん。見て!これ、ヨセフのじゃない。獣に食われたのでしょう。」と言いました。
 その時、ヤコブは激しく泣き、「ヨセフは獣に食われた。私も一緒によみに下ろう」と泣いています。神様はヨセフが売られた時も知っていました。

 ヨセフは十七才でエジプトに売られ、牢屋に入れられたり、色々な事がありましたが、神は彼が三十才の時にエジプトの支配者にしました。そのときから七年の間、大豊作があり、また七年の間、大飢饉が来ました。そして二年目にはカナンの地にも大飢饉が来たので、ヤコブの子どもたちはエジプトへ買い物に出かけて行きました。そこで、ヨセフは兄たちに出会い、自分の身をあかしました。
 「お兄ちゃん。私はあなたがたがエジプトに売ったヨセフです。」と言いました。その時ヨセフは、「私をエジプトに売ったことを悔いてはいけません。神が私を先に送られたのです。これからまだ五年間飢饉があります。だからお父さんもエジプトに呼んでください」と言いました。
 そこで彼らは帰り、「お父さん。ヨセフはまだ生きていました。」と言いました。ヤコブは百才を過ぎていて、それは気が遠くなるような話でした。それから彼らはヨセフの所に出かけました。その時に神様が、

『「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」』

と言われました。それはヨセフが売られてから、二十二年間が経っていました。神様はわかっていながら黙っていました。けれども、時が来たときに開かれ、彼に会いました。皆さんの中でも、なかなか祈りが聞かれない時があります。「恵み、恵まん」と言われていますが、「私はどうしてこんななの?」と思わないでください。神はあなたのすべてをご存知です。あなたの悲しみも、苦しみも知っています。神様は必ず潤してくださると言われましたので、必ず潤してくださいます。また必ず、恵みを与え、導いてくださいます。信仰を持って行きましょう。

 ミッションの働きが始まり、すでに十五年が経ちます。聖霊が注がれ、霊的戦いが始まり、リバイバルが来ると言われて十五年が経っています。この教会は祝福されていますが、私はもっと大きなリバイバルが来ると信じています。「必ず」来ます。必ず来ることを信じ続けていきましょう。イザヤ書五十五章十節に、

『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。』

 聖霊が臨まれると、必ず地を潤し、恵みを与えてくださいます。クリスチャンが恵まれる秘訣は、「信じることと従うこと」です。「信じます」「従います」と、神様の恵みをいかにそのまま信じるかどうかです。また、このみ言葉の引用があります。それはコリント第二の手紙九章五節から十一節にあります。

『そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。』

 クリスチャンが祝福される道は、『受けるよりも与える方が幸い』とあります。この教会がいつから祝福され始めたかを、私は知っています。

 私が開拓伝道に出て、ダンスホールを会場に集会をしていました。その時私は、まだ麻工場で働いていました。当時新城教会では、礼拝献金をしませんでした。それはある人が、「滝元さん、新城の人はケチだから献金させると、人が来なくなりますよ」と言われました。私も働いているので、献金をする必要はないと思っていました。それでずっと教会では献金をさせませんでした。
 ある時にジョセフ・シメオンソン先生が来られて、メッセージをしてくださいました。そして最後に祝祷して、終わりますと言いました。
 すると先生が、「どうして献金がないのですか」と言われました。私は「この町の人はケチなので、献金させると来なくなるので献金させないのです。だから、私は献金を取らない主義です。」と言いました。
 すると「先生、取らない主義と言いましたが、取るとか取らないかと言いましたが、献金は先生が取るのですか。神様にささげる物ではありませんか。」と言われました。そして、「そういう教えは聖書のどこにありますか」と聞かれ、「まあ、聖書はともかくとして…」と言いました。
 「先生、宝を天に積めと書かれてあるでしょう。またマラキ書には十分の一をささげたら天の窓を開けて溢れるばかりの祝福を与えると書いてあるでしょう。献金したら神様が祝福されます。先生はクリスチャンから祝福を奪っているのです。傲慢ですよ」と言われました。
 その時に私の目が開かれました。それから私は変えられました。献金は取るのではないとわかりました。「献金をしましょう」と話すようになりました。それから初期の教会は二十人くらいでしたが、「教会と建てよう。予約献金をしよう」と話しました。教会を建てるためには、一ヶ月に一万八百円が必要でした。予約したら一万一千円でした。それを五年間続け、ついに、二百九十坪の土地を買い、百人入れる教会が建ちました。この教会は、ささげるようになってから祝福されました。ここにいる先輩クリスチャンたちはケチではなく、喜んでささげたのでこの教会があります。献金とは種を蒔くことです。

『蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。』

 私はハワイのための決起大会の為に、今までに三十四の教会を廻りました。私の仕事は、「皆さん、ハワイのために祈ってください。ハワイにリバイバルが起こるように祈ってください。」また、「ハワイに来てください。」という仕事です。
 そしてもう一つは、「ハワイのために、献金してください」と願いする仕事です。毎日勧めます。毎日勧める以上、私も毎日、献金をします。
 沖縄のある教会で集会をしました。そうしたら、その教会の先生は信仰がある先生で、教会が五倍ほど大きくなっていました。駐車場も増え、大きなビルを買って礼拝を持っていました。
 先生が、「皆さん、ハワイのために献金しましょう」と勧めてくださいました。集会が終わってから配布物を紹介してくださいました。「シールが入っています。これを聖書にしっかり貼ってください。そうすると、聖書を読む度ごとにハワイのことがわかり、ハワイのために祈れます。」と言われました。私も貼りました。そして、「皆さんもハワイに行きましょう」と言いました。
 それから「振替用紙が入っています。今日はあまり献金が多くはありませんでしたが、振替用紙があります。これでハワイのために献金を送ってください」と言われました。
 そこで皆さんにもお願いします。ハワイのために喜んでささげてください。いくらでも構いませんが、喜んでささげてください。今日は私も、ハワイのための献金をしたいと思います。

 イザヤ書五十五章十二節から十三節に、

『まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」』

 時々人生には、いばらのような苦しみ、とげがあり祝福されていないと言われる方もあるかも知れません。しかし『おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしすりとなる。』とあります。
 私は、「われ汝を恵み恵まん。」と言われたイエスさまが、五十八年間約束を守ってくださったことを感謝します。クリスチャン生活をするならば、必ず、祝福されると信じましょう。いばらの生活ではない、素晴らしい祝福が来ることを、信仰持って進んでいきましょう。「必ず」恵まれます。一言お祈りします。


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