神の国文化論

2007.4.1(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 コリント人への手紙 第二 5章16節〜19節
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日、このようにメッセージを取り次ぐことができて感謝します。
 昨日は松枝明博兄と浩子姉の結婚式が行われました。大変祝福された結婚式でした。これからもっと、結婚式があると良いと願っています。
 また、神学校の方も祝福され、二十数名の方々が入学されました。明日は入学式があります。心から皆さんのお祈りを感謝しています。
 先週は、ロサンゼルスで奉仕をしました。「ミュージック・アーツ・リバイバル・ムーブメント」という、ロン・ブラウンさんをはじめとする、クリスチャン・ミュージシャンたちの集会が開かれました。特に今回は、ミュージシャンたちが一致し、霊的戦いをよく理解して働きたいという目的で、集会が導かれました。そのような中で、み言葉を語らせていただきましたが、皆、たいへん恵まれ、ハワイミッションにも参加したいと言われました。ジョー先生がアメリカ的な視点から、霊的戦いについて語ってくださり、その後、私が個人的解放の視点から、語らせていただきました。また、ロサンゼルス近辺にある教会で、ハワイ・リバイバルミッションの決起大会を行いました。
 ハワイリバイバルミッションの協力をお願いのために、一つの教会にも行きました。そこは韓国系の方々が多く集まっており、日本人もいると言われました。朝の六時に早天祈祷会に行くと、駐車場に止めるスペースがありませんでした。
 何と、早天祈祷会に、三千人ほどの人々が集まっていました。日曜日は五千人ほど集まるそうです。韓国教会には底力があります。アメリカでも、それだけの人々が礼拝をしている姿を見て感動しました。次回は、そこでハワイミッションの決起大会ができたらと願っています。お祈りください。

 先週はハワイで、色々な伝道団体が自分たちの働きを紹介するフェスティバルがあり、五千人ぐらいの人々が集まったそうです。その中で、ハワイ・リバイバルミッションを紹介するブースを設けて、私の娘と泉姉とが広報活動をしました。ハワイ・リバイバルミッションが祝福され、日本とアメリカをつないで、リバイバルが起こされるように、祈っていただきたいと思います。

 日本はどんどん国際化しています。新城教会にも、外国の方々が礼拝に出席してくださっています。色々な国で奉仕すると、日本の常識が世界の非常識であったりします。文化の違いにとまどうことがあります。
 先週は、パサデナの黒人教会で礼拝をしました。この教会でも、ゴスペルを歌っていますが、黒人教会では、ブラック・ゴスペルが普通です。私たちも、元気の良い賛美をしますが、黒人教会はこんなものではありません。クワイヤーと会衆が一体となって、賛美します。そこに行ったら、新城教会は静かな教会だと思います。これは、文化的背景の違いがあるからです。私は色々なところに行っているので、だいぶ慣れていますが、一緒になって「ハレルヤ」と言いながらも、何となく引いている自分がそこにいるのを感じます。

 神様は色々な民族、人種、また国々を通して、福音を伝えるように計画されました。しかしながら、それぞれの国には独自の文化があり、それが宣教の障害となっていることも確かです。文化の取り扱いについても、霊的な目を開いて扱わなければなりません。そして私たちは何よりも、「神の国の文化」を受け取り、それを国に定着させなければなりません。第二コリント五章十六節から十七節に、

『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』

とあります。クリスチャンは「新しく造られたもの」だと教えています。イエスさまは「新しく生まれ変わらなかったら、神の国を見ることができない」と語られましたが、イエスさまを信じると、私たちに新しい人生、新しい創造が始まると教えています。主を信じる前は、人間的視点、人間的標準で人や物事に接していましたが、主を知ってからは「神の視点、神の基準」で、新しい文化を創造していくのです。

 今私たちは、日本のリバイバルを求めていますが、リバイバルとは、その国にどのくらい神の国の文化が形成されるかにかかっています。その度合いにより、リバイバルが国に留まるか、消えるかが決まります。現在、日本においてイエスさまを信じている者たちは少ないかも知れませんが、先に救われた者たちが、新しく造られた民として、この国に神の国の文化を植え付けなければならないのです。

 「文化」について辞書で調べると、「文化とは、人間が長年において形成してきた、習慣や振る舞いの体系。集団がもつ信仰、態度、言語など、あらゆる生活の仕方」と定義されています。

 ということは、突き詰めれば文化とは、「人々が持っている共有された価値観」と言うことができます。日本人ならば、日本人として共有している価値観があります。日本人は、これが常識だと思っていますが、海外に行くと非常識も含まれます。

 私も最近、海外に行く機会が多くありますが、日本の教会では普通のことが、アメリカの教会では通用しないこともあります。私は色々な国に行って、まず聞くことがあります。それは、「この国で絶対にやってはならないことは何ですか?また、しなければならないことは何ですか?」と聞くようにしています。

 日本ならば、子どもたちが来たときに「可愛いねぇ。」と言って頭をなでるのは普通です。しかし、インドネシアやイスラム諸国に行って、子どもの頭をなでると、呪いを置くことになってしまいます。可愛いという表現は、インドネシアでは、頬を引っ張るのです。日本でそんなことをしたら子供たちは怒ります。

 私は五月にスペインに行きます。スペインのクリスチャン・テレビ局から招きが来て、三日間テレビに出ることになりました。これは、ヨーロッパ全土に放映されます。

 去年この教会にスペインから牧師が来て、交わりをしました。また、新城教会のインターナショナル・ミニストリーで救われた家族が、今はスペインで宣教師をしています。彼らが私たちのことをスペインに紹介しました。また、新城教会のインターナショナル・ミニストリーのホームページを見て、霊的戦いがスペインでも必要なので、どうしてもやって欲しいということで、私たちを招いてくださいました。どうやって三日間を過ごそうかと、少し不安なところもありますが、神様から知恵をいただいて働きたいと思います。フェルナンド先生もいっしょに行ってくださるので、私は安心しています。

 一昨年は、プエルトリコでテレビ番組に出ました。放送中に視聴者から電話が入って、質問を受けたりしました。祈りの要請があったりもしました。即決で判断して話さなければならなかったので大変でした。また、あちらの人たちは体が大きいので、椅子に座ったら足が下につかずに、ぶらぶらして話しにくかったです。異なった文化や習慣の中で奉仕しすることが増えています。

 世界から日本人は、お人好しに見られています。日本で振り込め詐欺が横行していますが、それは日本特有の犯罪らしいのです。電話一本で大金を振り込んでしまうようなことは、海外では考えられないそうです。日本特有の事件と言われます。

 日本の文化も、神の国の文化の中で取り扱う必要があります。日本は美しい国で、美しい文化を持っているとよく言われます。しかし間違ってはいけないことは、文化とは「人間が長年にわたり形成してきた振る舞いの体系。信仰、態度、言語など、あらゆる生活の仕方」というのが定義ならば、その中に、「色々な不純物が含まれている」ということです。文化とは「人の営み」によって形成されるものです。人の営みは、罪にまみれています。そのような中から、形成されてきたものを無批判で受け取ってはならないのです。私たちは見分ける目を持たなければなりません。そして、日本のリバイバルのためには、「神の国の文化」をこの国に置くことが重要です。神は日本にしかできない、繊細さや特徴を与えてくださっていますが、良いものは残して、悪魔が持ち込んだ策略を見分けて切り分けなければならないのです。

 神が人間を造られましたが、人類の歴史は神から離れた所から出発しています。アダムとエバが罪を犯して神から離れてしまい、その末裔が私たちです。そこからもう一度人類を取り戻すためのプランを神は立てられました。イエスさまはこの地上に来られ、十字架にかかられ、三日目によみがえってくださいました。

 来週は「復活祭」です。復活祭はイエスさまが十字架にかかられ、死なれましたが、よみがえってくださったことを祝います。これを英語では、「イースター」と言いますが、最近はアメリカの教会でも、イースターという言葉をあまり使わなくなり、「Resurrection Day」と呼んでいます。なぜならば、イースターとは、ゲルマンの豊穣神「イオストレ」という女神の名前でしたが、復活祭に置き換えられたからです。これはある意味での文化的汚染です。

 来週は、イエスさまのよみがえりを記念する日です。神の国の文化を、私たちがこの国に現す良い日です。その日には、先に天に帰られた方々の、記念会があります。ぜひ、イエスさまを知らない方々をお招きください。教会は素晴らしいところです。ゆりかごから墓場まで、いや、永遠まで神は助けてくださいます。

 時々、クリスチャンになると、これからの冠婚葬祭はどうなるのだろうかと心配します。しかし心配はまったくいりません。すべて、聖書の価値観に基づいた「神の国の文化」の中で、すべての人生の営みが備わっています。

 昨日は、神の前で結ばれる「結婚式」がありました。これも神の国の文化です。また時々教会では葬式もあります。

 教会の葬式にまだ出席したことがないなら、ぜひ、出席されたら良いと思います。葬式に来られた方々は、皆、感動して帰られます。「教会の葬式は素晴らしい」と言われます。

 教会とは都合の良い場所です。昨日は結婚式がありました。しかし、結婚式と同じ場所で葬式も行われるからです。新郎・新婦が立っていたと同じ場所に棺桶が置かれます。

 考えてみてください。一般的に、「結婚式を斎場で行う」と言ったらどうでしょうか。誰もいかないかも知れません。最近、隣の駅前に大きな斎場ができましたが、「この度、そこで結婚式をすることになりました。お越しください」と言ったら誰も来ないし、頭がおかしいと言われるかも知れません。葬式をするような所で、結婚式とは冗談ではないと言われます。

 しかし教会は、葬儀も、結婚式も同じ場所です。何んの違和感も感じません。教会には死を超越した文化があるのです。なぜならば、イエスさまを信じる者たちは、新しく造られた者であり、この地上だけで終わりではなく、永遠に生きるからです。死もいのちも、すべて神の御手の中にあるという、はっきりとした理解と価値観を私たちは持っています。ですから、同じ場所でも、全く問題ありません。

 今日は花が綺麗に飾られていますが、花も、結婚式用とか葬式用とかあまり関係がありません。しかし、日本人は菊の花を見ると、イメージが悪いです。

 何年か前にアメリカの教会に行きました。すると、アメリカの教会の方が、私を歓迎してくださって花束をくださいました。それは白い菊の花束でした。複雑な思いになりました。花は人間を楽しませるために、神様が与えてくださっています。クリスチャンになると、色々な面で、今までに持っていた考え方が整理され始めます。

そのような中で、一番整理されなければならない考えは何でしょうか。特に、世界中の文化に悪い影響を与えている諸悪の根源について、聖書は記しています。ローマ書一章二十節から二十三節に、

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。』

 神はすでに、ご自分を、人類に自己紹介しておられます。その一つは、『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる』とあります。
 日本の自然を見ると、緑が豊かです。また、全世界中では多彩な自然を見ることができます。これを見て、なぜ創造者を認めず、「すべては偶然に自然に出来た」と言えるのでしょうか。すべてに秩序があります。宇宙を見たら、宇宙を創造した神を見ることができると教えています。それは当然のことです。
 今日、私たちは「新城教会」という会堂で礼拝していますが、この建物は誰かが設計し、誰かが作りました。そのことを、誰もが認めています。この教会に入って「良い建物ですね。いつ、自然にできたのですか?」とは言いません。この会堂は、一九八〇年に完成し、二十七年も経っています。しかし古さを感じさせなくできています。よく祈って計画しましたので、今があります。家が工事屋さんや設計者によってできたことは、誰もが認めますが、それが地球や宇宙、自然となると創造者を認めないのです。それはおかしいことです。しかし「本来、人間は認めているはずだ」と聖書は主張しています。そのことを知っていながら、心は暗くなり、『不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。』とあります。

 神とは天地宇宙を造られた、人間の想像をはるかに超えたお方です。にも関わらず、人間は神をちっぽけにしてしまいました。「滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてた」と語っています。それは「偶像礼拝」です。

 神はご自分を、自然を通して紹介しておられますが、これを神学用語で「一般啓示」と呼びます。同時に、それだけでは不十分なので、「特別啓示」と言って、神のみ言葉である「聖書」が人類に与えられました。ですから、私たちが聖書を片手に自然を見るならば、神がおられることがさらに明らかなるのです。
 しかし人類は、神を自分の手で作った神々に代えてしまったのです。そして、それを原点として、各国の文化が形成されているのです。ローマ書一章二十四節、二十五節に、

『それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。』

 偶像礼拝が、社会にどのような結果を与えているかについて、聖書は語っています。…『神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。』とあります。
 これは「性的な罪」について指摘しているのです。今日本でも、多くの性的乱れがあります。男女間が超えてはならない一線を越えてしまったという領域で、社会に多くの問題が起こっています。それは世界中共通したことです。
 けれども人類は、性的乱れがどこから発生するかについて、原因を知りません。それは、偶像礼拝が原因となり、性的に乱れた社会が出来上がるのです。

 世界史の中で、偉大な国々の文化を見ると、高度に発展した文化が突如として滅びたという歴史を学ぶことができます。それは政治的、軍事的など様々な理由がありますが、一つ共通して言えることは、その国の性道徳が乱れると、神の裁きの手が伸びて、国が滅びたという歴史です。そして、その根底に「偶像礼拝」があるのです。偉大な神を、ちっぽけな、人間が手で作った神々に代えてしまったことに問題があると教えています。
 またローマ書一章二十六節から二十七節に、

『こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。』

 今や世界中の性道徳が乱れ、それがオーバーランして、男性と男性、女性と女性が結婚するという、信じられない社会が出来上がっています。日本にはまだまだ、そのような罪は隠れた領域にありますが、アメリカに行くと、その権利が公に主張されています。「男性同士の結婚、女性同士の結婚を認めよ!」と、権利が強く主張されています。
 ジョー先生が、アメリカでは大変だと言われました。前回のアメリカ大統領選挙の一つの争点は、同性愛者の権利をどのように扱うかということでした。もしもその権利が、法律で認められると、教会は大変になります。教会が男性同士、女性同士の結婚式を司式しなければ、法律違反になってしまうからです。大変な問題なので、祈ってくださいと言われました。
 しかし、その原因の根底は、偶像礼拝です。
 ローマ書一章を見ると、偶像礼拝を根底とし、『それゆえ、こういうわけで、また』と、節をつないでします。ローマ書一章二十九節から三十一節に、

『彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。』

 ここでは、社会に満ちている悪を、悪を表すすべての単語を駆使して表現しています。私たちが、社会の中で体験している多くの問題が、ここには含まれています。そして、その発生源は、天地宇宙を造られた神を人間が手で作った神々に代えてしまった、「偶像礼拝」から発生していると告げているのです。

 日本の文化を見ると、偶像礼拝が中心に座っています。ゆえに、聖書が告げるような悪い実が結ばれているのです。他の国々においても調べてみると、根底は日本とは違う形ではありますが、偶像礼拝が中心に座しています。私たちは、神の国の文化を持つ者として、「人間が作った物は神ではない」という文化を、しっかりと受け取り、それを主張しなければならないのです。それはある意味で、最も戦いが激しいかも知れません。

 日本文化の中で中心的に語られる概念が「和」です。黙っていても皆と分かり合えるという面もありますが、和によって皆と調和を保っているときは良いですが、一度調和が崩れたときには、激しく和を崩した者に対して牙をむきます。そしてその中心は、「宗教的活動」に関することです。ですから、日本においてはなかなかクリスチャンになるのが難しい現実があります。なぜならば、家や地域の中の和が乱れると、問題が発生するからです。そしてその中心にあるのが、「手で作った神々を拝むか拝まないか」という所に戦いがあります。
 この領域での戦いは常にあるかも知れませんが、神がどこで一番強く働いてくださるかについても、聖書は教えています。第二コリント十章三節から六節に、

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

 私たちはこの国が変えられるように、平和が続くように、リバイバルを祈っていますが、そのためには何が必要でしょうか。それは、この国の中に悪魔が設けた「要塞」が砕かれなければならないと教えています。
 色々な問題がある時、あの人が悪い、この人が悪い…と、人間的標準で問題を見ますが、人間的な標準ではなく、神の標準で見なければならないのです。もしも色々な問題の背景に、透明人間のような存在が関わっていたらどうなるかということです。家の中に、家を乱す透明人間のようなものが立ちはだかっていたならば、それが発見されなかったら、なかなか問題は解決しません。同様に、日本には透明人間のような敵の力が働いているのです。それを退治しなければなりません。特に、文化の中に立てこもっている、悪魔の要塞を発見し、砕かなければならないのです。十章五節に、

『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ』

とありますが、悪魔が立てこもる要塞とは、「神様が与える知識とは、逆の考え方」それがすなわち、悪魔の立てこもりの「要塞」であると教えています。
 私たちは教会に来て、聖書の知識を新しい文化として身につけます。そのときに、日本文化の中で習ったり、家風として学んできたことの中に、神の知識に基づかない多くの間違った考えがあることに気づかされます。その考えを正すこと、それを神の知識に置き換えること、それがすなわち、悪魔の立てこもりの要塞を破ることだと告げています。
 神は天地宇宙を造られた方であり、決して、小さな空間に霊感を現すような存在ではないのです。

 日本人全般の中に一つの暗黙の了解のようなものがあります。木や石を拝んでいる人の所に行って、「大丈夫ですか。ちょっと頭がおかしくないですか。」と聞いたら、皆、怒ります。「これで良いのです。」と言います。
 しかし海外から見ると、あれは石ではないか、木ではないかと見えるのです。だから、「なぜ日本人は電化製品など、素晴らしいものを作る頭のよい民族なのに、あんなものを拝んでいるのか」と言います。
 日本人の考え方の中心にすわっているのは、「木、石、金属を拝んでいると、何らかの霊が来てその中に住まう」という考え方です。また色々な霊体験を持っているのです。拝むと、何らかの霊体験があるので、ただの石や木や金属を超えて、拝むと手応えを感じるので離れることが出来ないのです。
 しかし神は警告しています。神は天地宇宙を造られた大きな方なので、決して限られた範囲内に霊感を現すような、ちっぽけな存在ではない、もしも限られた領域の中に、何らか霊的なものを感じたならば、それは神ではなく、神のふりをした霊的存在、すなわち、悪しき力なので気をつけろと言うことです。
 特に日本人が悪魔から信じ込まされている嘘とは、「物に霊が宿る」という考え方です。しかし聖書は、そうは言いません。物は物です。クリスチャンになると段々、それがわかってきます。教会は、結婚式も葬式も同じ場所で行う理由は、物に霊が宿るわけではなく、人間は死んだら霊は神の所に戻るがゆえに、恐れないのです。
 しかし物に霊が宿るという考え方があったらどうでしょうか。「昨日は、この教会で葬式があってそうだ。そして、今日は結婚式だ、死の霊が働くのではないか」と心配になります。しかし神の知識、神の国の文化は、そこに捕らわれることはありません。

 しかし日本人は案外、そうはいっても、整理しにくいのです。先週私はロサンゼルスの黒人教会で礼拝を持ちました。元気の良い賛美で恵まれました。暑かったのですが、クーラーがなくて、色々な物で扇ぎながら礼拝をしました。しばらくすると、暑い中で皆にうちわが配られました。そのうちわは、教会がどこからか景品としてもらった物でした。そこには、「Free Casket」と記されていました。それは、「棺桶タダ!」という意味です。うちわには「棺桶屋」とストレートな会社名が表示されており、「我が社で生前予約をすると、すてきな五つのタイプの棺桶の中から、一つを無料で差し上げます」と書かれていました。
 たとえば、このような公告が入ったうちわが今日、この場で配られたらどのように感じますか。西欧文化は日本文化とはかなり違うようです。物は物と、整理が付いています(この考えにも、いろいろ問題がありますが…)。しかし、日本でそのようなうちわが配られたら、「縁起でもない」とクレームが付くと思います。考え方において、整理されなければならない部分が多くあるのです。
 「偶像礼拝が諸悪の根源」と言う理解があれば、多少戦いがあっても、神の国の文化をこの国に主張し、定着させることが出来ます。そうでなければ、社会の性的乱れや悪は治まらず、どんどん、破壊的社会になっていくのです。

 家族の中で偶像礼拝があったら、勇気を持って、イエスさまだけが神であることをはっきりと主張しなければなりません。クリスチャンとして立っていこうとするときに、色々な迫害があるかも知れません。しかしそんな時が、あなたに最も強力な武器が手渡たされ、大きな勝利がもたらされる瞬間なのです。決して恐れないで、戦っていくようにと励ましています。

 今私たちは日本において、クリスチャンとして歩んでいます。色々な困難があるかも知れません。しかし真の神が私たちとともにおられるならば、必ず勝利するのです。
 今日はこの礼拝後に「献児式」があります。教会では、子どもが与えられたなら、イエスさまにささげる祈りが成されます。このような神の国の文化が、教会から、地域、国に広がっていくときに、やがて国にリバイバルが起こされます。

 今日、私たちには、神の国の文化を形成する役割が与えられています。それぞれの場所で、それぞれの役割を果たしていくときに、この国は変わっていきます。この国を変えるためには力がいりますが、一番必要な力は、聖霊の力です。神が力を与えてくださるならば、必ず勝利が与えられます。なぜならば、私たちは新しく造られた者であり、古いものは過ぎ去ってすべてが新しくなったからです。そして、私たちに与えられている使命として、第二コリント五章十八節と十九節に記されています。

『これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。』

とあります。私たちは神と和解を受けたものですが、和解のことばをゆだねられた者として、この世に出て行かなければならないのです。そして、神の国の文化を広めるために働くのです。諸悪の根源を知り、この国において、神の使者として人々に神との和解を委ねる者として、働きたいと願います。お祈りします。


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