驚いてはいけません!

2007.4.8(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 マルコの福音書16章1節〜6節
さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。復活祭、おめでとうございます。今日のメッセージ・タイトルは、「驚いてはいけません!」と付けましたが、今朝、とても驚いたことがありました。この教会が始まった頃から、この教会に仕え、教会の顔ともいえる岡本キヨさんが早朝三時四十八分に、突然天に召されたからです。八十四歳でした。私は一報を聞き、自宅に駆けつけましたが、その時にはすでに天に帰った後のように見えました。イエス様の復活が日曜の早朝であり、復活祭とはイエスさまのよみがえりを記念する日ですが、その日に合わせるかのように、キヨさんは天に凱旋していかれました。何とも粋な最期であったと思います。
 彼女はいつも私に、「コロッと逝けるように祈ってください」と言われました。「じゃあ、祈ってあげるよ」と冗談のように祈っていましたが、まさかその通りになるとは思いませんでした。神様は、祈りを聞いて下さいました。
 私も天に帰るときには、同じようにいきたいものです。七転八倒して苦しんで死ぬよりもその方がいいと思います。
 キヨさんは夜中に少し息苦しくなって、携帯電話で信弘先生を呼んだそうです。しかし彼が駆けつけたときには、意識がなかったようです。伝道者の書七章一節から四節に、

『良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。』

とあります。私たちは人生の中で、楽しいところに向かう性質があります。しかし、聖書の世界観は、時に私たちの考えと違うことを教えます。「幸せになるためには、楽しいところにいくのではなく、悲しいところに行け」と教えています。
 今日はある意味で、大きな喜びの日、「復活祭」です。しかし同時に悲しい、少し心が重くなるような礼拝かも知れません。
 今朝は礼拝前に、「召天者記念会」がありました。教会が始まってからすでに五十人近い方々が天に帰られました。その方々を記念して、毎年、復活祭に合同で記念礼拝をしています。彼らはすでに、天に帰ってイエスさまの側にいます。彼らのことを思い出しながら、また、天で主を礼拝している彼らと共に、神を礼拝する集まりです。その中で、天に帰られた方々の、お元気な頃の写真が映し出されました。懐かしく思うと共に、淋しさもありました。彼らはもう、地上にはいないと思いました。私の父方と母方のおばあちゃんもその中にありました。一緒に楽しく過ごした日々を思い出しました。人の一生が死によってすべてが終わるならば、そんな寂しいことはありません。
 時々、「私の希望は夫婦揃って同じ墓に入ることだ」と言われます。もしも皆さんの人生の終着が、石塔の下で骨と骨が重なることなら、何と空しいでしょうか。聖書は、「死の日は生まれる日にまさる」と語っています。
 なぜこのように大胆に語ることができるのでしょうか?それは、私たちはこの地上で人生を終えるのではないからです。人生は永遠に続くからです。それも私たちを創られた、神様のもとで、永遠に生きる日々が来ると教えています。先に天に帰った方々は、すでに永遠に生きたのです。
 神は色々な種類の肉を創りました。牛肉、豚肉、鶏肉…そして人間の肉もあります。そんなにも多くの種類の肉を創ることができるとしたら、永遠の世界で生きる、二度と朽ち果てない肉も創ることができるのです。

 十年、二十年、三十年と同じ家に住むと、家が傾いてきて、「このままでは危ないから新しい家を建てよう」と新築します。私も二年前に三十年近く住んだ家から、新しい家に引っ越しました。家を解体してみて驚きました。周りは良さそうに見えたところも、中にシロアリが入り、家がシロアリの餌になっていました。地震が来たら死ぬところだった、新しくなって良かったと思いました。
 人間も年とともに古びます。寂しい思いがします。今年、私は五十六才になりますが、「だいぶ古びた」と思います。人間の体は土で創られているので、やがて土に戻ります。しかし、内側の魂は絶対に年を取りません。
 私はつい最近まで、東郷西小学校に通っていたような気がしています。今でも、ランドセルを渡されたら、背負って小学校に登校してしまいそうな自分がいて、時々恐くなります。あの頃の自分と最近の自分とは、さほどかわっていないような気もします。そして、やがて、この地上から出て行かなければならない日が来るのです。

 しかし、一般的にはどうでしょうか。仏教にしても、神道にしても、全く答えがないのです。仏教ならばどうでしょうか。死んだら極楽に行けるとか、地獄に行くとかはっきりしていません。葬式の時に、坊主が「喝!」と引導を渡して、極楽に入ったと思いきや、すぐには入れてくれないらしいのです。それからずっと法要しなければいけません。一つでもそれが欠けたら、たちまち地獄行きのようです。地上から一生懸命拝んであげないと、後押ししないと、死んだ人たちはどうも極楽にいけないようです。
 仮に極楽に入れたとしても、今度は「輪廻の恐怖」があります。地上で悪いことをしていると、何と、低級な生物に生まれ変わるというのです。犬になったり、猫になったり、猪になったりすると言うのです。今度は、延々と続く輪廻のサイクルの恐怖に耐えながら、解脱するまで努力し、頑張らなくてはなりません。それは、まったく望みのない世界です。それが本物とはどうしても思えません。
 神道も死後の世界がはっきりしていません。死んだら魂は山に戻ると言われ、時々、里に戻って祟るので、一生懸命拝まなければならないというのです。そんなわけのわからない、死後の世界観をあなたは信じるのでしょうか。

 私たちは空しい、先祖からの言い伝えではなく、本当の神様が提示してくださる情報を受け取らなければなりません。何と聖書の神は、「死の日は生まれる日にまさる」と告げています。私たちは永遠に生きることができるのです。この地上では、時には悲しいことや別れがあるかも知れないけれど、やがて、私たちはイエスさまのもとで、顔と顔を合わせ、再会する日が来るのです。「いたずらに悲しまないでください」というのです。そして、それが本当だということを示すために、イエスさまは十字架にかかられただけではなく、よみがえってくださいました。

 時々、「イエス・キリストは弱いのではないか、十字架にかかって殺されたのではないか」と言う人がいます。教会のシンボルは十字架です。新城教会の十字架は大きいです。人がかかっても持ちこたえることができるほどの、大きな十字架です。
 しかしこの教会の十字架には、イエス・キリストのむごたらしい姿はありません。カトリック教会では、イエス・キリストがむごたらしい姿で十字架にかかっています。なぜ、プロテスタント教会の十字架には、イエスさまはかかっていないのでしょうか。
 それは、私たちは、「よみがえりのイエスさま」を礼拝しているからです。十字架上で死にかけたイエスさまではなく、今も生きているイエスさまです。イエスさまは殺されたのではなく、「ご自分で命を捨てることができ、また、受け取ることができる」と聖書は告げています。ヨハネ十章十八節に、

『だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」』

とあります。イエスさまが人類の罪の身代わりとなって、自らいのちを捨て、救いを完成してくださいました。
 人間には、誰にでも良心があります。「これが罪だ、悪いことだ」と教えられなくても、皆わかります。世界中どの国の人でも、誰かのものを盗んだら罪、人を殺したら罪…とわかります。なぜわかるかというと、神が人に基準を与えたからです。神様は聖いお方なので、罪を犯した人間とともに住むことはできません。聖書の神は、善と悪が共同で住処を設けるような神ではありません。聖書の神様は絶対善なるお方です。善そのものであり、悪のかげりが一片もないお方です。
 ということは、人間は罪深いので、そのようなお方と一緒に住むことはできません。もしも住むことができるとしたら、罪によって生じた悪しき報酬を支払わなければなりません。誰かが支払ってくれるならば、共に住むことができます。それを人類の根源である神が人となって、人類の罪の身代わりとなり死んでくださいました。死んだだけではなく、よみがえってくださったことにより、私たちは一点のかげりもない、永遠の国・神の国に住むことができるようになったと、聖書は教えています。

 この地上の別れの日は、魂の引っ越しの日であり、死の日は生まれる日にまさるのです。これはすごいことです。パウロという人物は死後の世界を垣間見ました。第二コリント十二章を見ると、彼はこの地上から去って永遠の国・天国を見たと語っています。彼の人生の中で最も強烈な体験は、永遠の国・天国を見た経験でした。やがて、私たちも、その場所に行きます。
 また、人生には目的があり、その目的を忠実に果たし、地上での仕事が全て終わったら、神はその時も知っており、神のもとに召してくださいます。

 私はこの教会で、クリスチャンの方々が天に帰られる瞬間に、何度も立ち会ってきました。それでいつも不思議に思うことがあります。天に帰る瞬間は、私たち牧師のスケジュールをあたかも知っているかのように、天に帰られるからです。私たちは日頃忙しく動いています。特に、海外に行っていて新城にいないときなどは葬式が難しいですが、スケジュールの合間をぬうかのように、天にお帰りになるからです。私の父も色々な場所に行って奉仕していますが、ちょうど彼が新城に帰る日を選ぶかのように、隙間をぬって天に帰っていかれるからです。今回もそうでした。神が生と死をコントロールされていることを感じます。特に、復活祭の素晴らしい記念日に天に帰るとは、ある意味、最高の幸せかも知れません。人生の中に驚くようなことが起こるかも知れませんが、「驚かないでください。安心してください」と聖書は語っています。

 クリスチャンになると、悪い意味での驚きではなくて、良い意味での驚きが多くのなります。今日のテキストは、イエスさまがよみがえったという「驚くべき事柄」に弟子たちが遭遇した記事です。
 イスラエルの文化に人が死んでから遺体に香油を塗るというしきたりがあったようです。イエスさまは亡くなられて墓に納められました。イエスさまはこの地上におられるとき、「三日目によみがえる」と語られていましたので、そんな噂を聞き、時の支配者であったローマは墓を封印し、大きな石を置き、兵士たちを置いて墓を守っていました。しかしイエスさまを愛していた周りの女性たちは、イエスさまが亡くなられて三日経った朝、体に香油を塗るために出かけていきました。
 この記事を見ると、男性と女性の違いを見ることができます。男性は先に頭で考えてから行動します。「墓に行ったって油など塗れるはずがない」と考え、墓に行く気は起きないのです。「ローマの兵隊に捕まってしまう」と考えます。しかし女性たちは愛が原動力の思考形態です。イエスさまの体に何とか香油を塗ってあげたいと考えます。女性たちは何を考えて行動したかというと、「誰が墓の入口から、あの石を転がしてくれるのか」ということだけを話しながら、日曜日の早朝、墓に向かっていました。彼女たちの目的は、「イエスさまの遺体に油を塗ること」、そして、彼女たちの抱えていた問題は、「墓を塞いでいる大きな石を誰が取り除いてくれるか」の二点でした。
 しかし何と、墓に着くと、その石が既に転がしてあったのです。それだけでも驚きです。しかしさらに驚いたことは、「イエスさまはよみがえられ、そこにはもうおられない」という知らせでした。

 ある意味において、教会とはそのような場所です。教会に来られる方々は、色々な問題意識を持って来られます。「もしかしたら、教会に行けば私の人生を塞いでいる石が取り除かれるかも知れない」という期待で教会に来ます。すると何が起こるのでしょうか。驚くべき事が起こります。人生を塞いでいた大きな石がひとりでに取り去られるからです。イエスさまの復活のプロセスは、私たちの人生にも対応しています。
 先週も何人かの方々のために、共にお祈りさせていただきました。イエスさまの墓場に近づいて行った女性たちは、周りのしがらみを気にしないで、まっしぐらにイエスさまの所に近づいていきました。私たちも同じであるべきと思います。時々、教会に行くと、周りから何か言われるのではないかとか、村八分にされるのではないか、と思うかも知れません。しかし、そんなことは考えずに、イエスさまの所にまっしぐらに向かって行くならば、石が自動的に取り除かれるばかりか、今まで見たことも聞いたことも、思ったこともない、すごいことが起こるのです。第一コリント二章九節に、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 人生に神が用意されていることは、私たちが予想だにしない大きな事柄です。神様は私たちに、「驚いてはいけません!」と語られるかも知れませんが、私たちにとっては「大きな驚き」であり、それも良い驚きです。
 見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないことを、神は私たちに備えてくださっています。この復活祭に、イエスさまの復活と合わせて、そのことを学ぶことができます。ローマ人への手紙八章二十八節に、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

 時々、クリスチャンになっても、目の前に苦しいことや悲しいこと、あまり喜ばしくない事柄が立ちはだかっているかも知れません。しかし神は、すべてのことを働かせて「益としてくださる」と教えています。
 体操選手が床運動や鉄棒、鞍馬などで見せる演技は、クリスチャンの人生と同じだと思います。高得点の演技はどのような演技でしょうか。助走をつけて飛んで、ただ着地してみても、良い点数を取ることはできません。着地するまでに空中で斜めになったり、回転してみたり、最終的に両足で着地するときに九・九、十・〇という高得点が出ます。
 時々私たちは逆さになったり、ひねりが入ったり、宙返りしたり、あわやそのままで落ちたら即死するような場面に直面するかも知れませんが、最終的には完璧に着地し、すべてが働いて益となるのを知るのです。

 聖書のストーリーは、決して架空の神話ではありません。本当に復活が起こりました。何週間か前に、私はこのことについて語りました。イスラエルに行くと、イエスさまが十字架にかかられた、ゴルゴダという丘があります。またイエスさまが葬られたといわれる墓も残っています。その墓の前には、大きな石を転がす溝まであります。しかしそこには誰も葬られていません。
 私は二年前にイスラエルに行き、その墓にも行きました。イエスさまは墓を打ち破ってよみがえられました。これは歴史的事実です。女性たちが墓に向かって行き、そこに着くと天使が立っており、「ここにはおられません。よみがえられました。」と言われました。イエスさまが死を打ち破ってよみがえったことを、歴史的にも確認できます。

 十字架は、本当に信じられないような驚きのストーリーです。イエスさまはすごい力ある、素晴らしい人物であったのにもかかわらず、はたから見たら、周りの人たちから殺されたという状況が起こったからです。教祖が殺されたら「敗北の宗教」のように見えます。しかし、十字架の死は、死という誰もが勝つことができなかった「死の力」を打ち破る為にありました。そのことを証明するために、イエスさまは死からよみがえってくださったのです。

 旧約聖書の中にも、イエスさまの十字架と復活を示すようなストーリーが多くあります。聖書のストーリーは、最終的にはすべてイエスさまの十字架と復活に向かっていると言われます。
 旧約聖書に「師士記」がありますが、そこに「サムソン」という一人の男が出てきます。彼は大変力ある勇士でした。彼の人生の中にも、ある意味、イエスさまの十字架と復活を現しているのではないかという、ストーリーがあります。
 ある時に、サムソンは一人の女性を好きになり、結婚したくなって、彼女をもらいに出かけました。その途中で一つの事件に遭遇しました。それが、士師記十四章五節から六節に記されています。彼がお嫁さんをもらいに行くと、一頭の若い獅子が吠え猛りながら彼に向かってきたというのです。
 これから幸せな結婚をしたいと願い、お嫁さんをもらいに出かけたときに、一頭の若い獅子が彼に向かって出て来ました。絶体絶命のような状況でした。しかし十四章五,六節を読むと、

こうして、サムソンは彼の父母とともに、ティムナに下って行き、ティムナのぶどう畑にやって来た。見よ。一頭の若い獅子がほえたけりながら彼に向かって来た。

このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。サムソンは自分のしたことを父にも母にも言わなかった。

とあります。私たちの人生も、「さあ、これからだ!」と言うときに、ライオンが襲いかかってくるようなことがあります。しかし主を知る者たちには、神の霊が激しく注がれ、その敵を引き裂くことが出来るのです。ですから、私たちは恐れません。この地上において色々なものが襲いかかってきたとしても、神の霊によって、私たちの天敵であっても、子ヤギを引き裂くかのように、敵を打ちのめすと教えています。神の霊が私たちとともに働いているからです。
 その後、サムソンは大きな宴会を催しました。そして一つのことを彼は語りました。十四章十二節から、

=wサムソン
『サムソンは彼らに言った。「さあ、あなたがたに、一つのなぞをかけましょう。もし、あなたがたが七日の祝宴の間に、それを解いて、私に明かすことができれば、あなたがたに亜麻布の着物三十着と、晴れ着三十着をあげましょう。もし、それを私に明かすことができなければ、あなたがたが亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着とを私に下さい。」すると、彼らは言った。「あなたのなぞをかけて、私たちに聞かせてください。』

 時々、子どもたちがクイズをやっています。毎週、子どもたちに渡される「み言葉の剣」には、なぞなぞが書かれており、結構難しいようです。サムソンは自分の結婚パーティーの中で出題したクイズは十四節。

『そこで、サムソンは彼らに言った。「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。』

 「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。これ、なんだ?」と言いました。参列者には全くわかりませんでした。ここには、『彼らは三日経ってもそのなぞを証すことができなかった』とあります。サムソンはなぜ、このように語ったのでしょうか。

 彼は引き裂いたライオンを道ばたに放っておきました。しばらくして、その場に戻ると、ライオンに多くの蜜蜂がたかって、死んだライオンの腹の上に巣を作り、蜜があったのです。それで彼は蜜を集めて自分も食べ、親にもあげました。蜜を食べた人々は、それがどこから来たのか知りませんでした。

 彼はそんな経験の後、こう言いました。「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」
 実は、クイズの答えは、サムソンが倒したライオンのことでした。普通はライオンに襲われたら、ひとたまりもありません。ライオンの餌食となり、倒されるのが常かも知れません。しかし、「食らうものから食べ物が出る」というのです。
 私たちの人生に驚くべき事が起こる、でも驚いてはいけないと神様は言われます。何と、私たちを食らおうとするものから、食物が出るというのです。吠え猛る獅子とは最終的には何を意味しているのでしょうか。それは「悪魔」です。私たちの最大の敵は悪魔です。そして、悪魔の究極的な力は「死の力」です。悪魔が持っている最大のパワーは、死の力です。ヘブル人への手紙二章十四節から十五節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

 イエスさまの十字架と復活の意味は、人間にとっての天敵、死の力をもつ悪魔が、イエス様の死と復活によって破られたということでした。それゆえに、「食らうものから食べ物が出た」のです。私たちの人生は、今まで悪魔に食い尽くされるような人生であったかも知れませんが、何と、今度はそこから食べ物が出るのです。そんな人生に変えられる、その原点にイエスさまの十字架と復活があるのです。

 今まで皆さんが恐れていた存在は、恐れるに足りません。今度は、そこから食物が出ます。私は毎日のように、食らうものから食べ物が出ることを経験しています。私の働きは霊的ライオンを倒す仕事です。今、日本だけではなく、海外にまで行ってライオンを倒す仕事をしています。それで私の生活が成り立っています。
 「食らうものから食べ物が出、強い者から甘いものが出る」とあります。サムソンを殺そうとした存在から甘い蜜が出たのです。

 私たちは時々、死について考えると、どうにも対処できない無力感を感じます。歴史を見ると、権力者、知恵者、王たちも死に打ち勝つことはできませんでした。皆、死というライオンに食べられました。しかしイエスさまの復活は、「食らうものから食べ物が出る」、イエスさまの十字架の死と復活を通して、何と、死の力を持つ悪魔が打ち砕かれ、永遠のいのちを持つことができるようになったと教えています。
 ゆえに、今まで私たちに攻撃をしかけていた敵の力を滅ぼし、今度は、その敵さえも餌食にして、食糧とする人生を送るのです。

 イエスさまの死と復活は、人生に完全勝利をもたらすものです。イエスさまのよみがえりの勝利を共有することができると教えています。コロサイ人への手紙二章十二節から十五節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 私たちがイエス・キリストを信じるときに、与えられる祝福について教えています。まず第一に、「罪が赦され」ます。多くの人が罪によって苦しめられています。自分が犯した罪によって苦しめられています。多くの精神的に苦しめられている人々がおられます。その根底に、自分が犯した罪が自分を責め立てている現実があります。「過去にあんな失敗を犯してしまった…。もう駄目だ」と自分が犯した罪によって、苦しめられています。しかしその罪が赦されるのです。私たちが今まで犯した罪を、イエスさまの十字架と復活によって、赦してくださるということです。
 そして罪が赦されるだけではなく、「不利な債務証書を無効にしてくださる」とあります。罪を犯すときに「債務証書」ができます。罪とは神に対する反逆ですが、もう一方は悪魔と結ぶ契約です。契約書があるゆえに、ずっと責め立てられます。家系の中を見ると、同じような問題が繰り返し、繰り返し起こっている現実はないでしょうか。
 昨日、初めて教会に来られた方とお祈りしました。お話をすると、色々な問題がありました。「私は人生をうまくできなかった」と話していました。しかしその人の家系を見たら、その人だけではなく、その周りにも同じような問題がありました。罪によって、悪魔は家系の中に悪しき契約書を持ち込みます。その結果、家族、親族、一族を皆、同じ契約書によって訴え、不幸のどん底に落とします。それは家系的問題です。

 多くの日本人は家系の呪いを恐れています。家には家系的呪いがあると考えています。同じような病気で皆、死んでいくとか、経済的な問題で破壊されるとか、精神的な問題で苦しめられるなど、家系的呪いを感じています。
 しかしイエスさまの十字架と復活により、不利な債務証書が無効にされ、もう二度とそのような悪しき債務証書によって苦しめられることはないのです。イエスさまの十字架と復活は素晴らしいものです。単なる私たちの個人的な救いだけではなく、家系の呪いも解いてくださるのです。そればかりか、「すべての支配と権威を武装解除」してくださると教えています。
 すべての支配と権威とは、「吠え猛る獅子の一族、悪魔と悪霊の群れ」です。それらが私たちの人生に襲いかかって来ます。しかし、その牙と爪が全て抜かれ、戦うための武器がなくなります。
 悪魔は人類を責め立てるために、色々な武器を持ってきます。経済的な問題という武器、病という武器、家庭不和や人間関係という武器など、多くあり、それでめった打ちにします。しかし、武器が武装解除されると教えています。それは「問題解決」です。今まで持っていた問題を、解決してくださるのです。それはイエスさまの十字架と復活があるがゆえに、問題が解決されるのです。家系の中の問題も解決されると言われます。

 そればかりか、彼らを「捕虜として」凱旋の行列に加えた、これは私たちを責め立てていた獅子どもが捕虜となって、二度と立ち上がることができないように『食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た』ことを意味します。
 そんな完全勝利を、私たちに与えてくださいます。その瞬間が、「イエスさまの十字架の死と、よみがえり」の「復活」にあります。

 今日私たちはイエスさまの十字架と復活により、これらの特権を受けることができます。見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともない、素晴らしい勝利を与えるために、イエスさまはよみがえってくださいました。この驚きはこの地上だけではなく、永遠に続きます。

 岡本キヨさんも、今頃驚いていると思います。「教会で永遠のいのちとか、天国について聞いていたけど、聞いていたことはごく一部だった、すごい!」と叫んでいると思います。皆この地上から出て行かなければなりませんが、一度この地上を去って天国に行けば、私たちはもう、地上には戻りたいとは思わないでしょう。ヤゴが時が来て、殻を脱いでトンボとなり大空に出たら、もう二度とドブ川には戻りたくないのと同じように、天国は素晴らしい場所です。その場所に向かって、私たちは進んでいます。そして襲いかかってくるどう猛な獅子どもを打ち砕き、敵が我々の食物となる素晴らしい人生をあなたのものにしてください。

 今日すべての方がイエスさまを信じて、人生を歩んでいただきたいと思います。これは真実のストーリーです。イエスさまに従うことができることを、心から感謝します。一言お祈りします。

(告白の祈り)
「イエスさま。私はイエスさまだけが、私の神であることを、高らかに宣言します。死の力から完全に解放してください。死の恐れから、私を解放してください。私の人生は、イエスさまとともに歩む、驚くべき素晴らしい人生であることを、宣言します。食らうものから食べ物が出ますように。強いものから、甘いものが出ますように。私たちに立ち向かう敵の力が倒されて、そこから食物が出ますように。特に、死の力から、完全な解放を与えてください。いのちを与えてください。死の恐怖から、解放してください。永遠のいのちを受け取ります。イエスさまが私に用意された人生を、一秒足りても悪魔に奪われませんように。最後の最後の一滴まで生きぬき、主に仕えます。勝利の人生でありますように。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン。


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