リバイバルを求めよう!

2007.4.15(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 使徒の働き2章37節〜43節
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。

ハレルヤ!皆さんおはようございます。先週は復活祭で、皆さんとともにイエスさまの復活をお祝いしました。私たちはよみがえりのイエスさまを礼拝しています。今日もみ言葉を学ぶことができることを、心から感謝します。
 先週は、岡本キヨ姉が亡くなられ、葬式があり教会は変則的なスケジュールでしたが、皆さんのご協力により素晴らしい葬式がなされて、感謝します。葬式には町の人々も来られるので、イエスさまのことを紹介する良い機会でもあります。新城教会の葬式は故人の一生を映像でまとめて紹介していますので、悲しみの中でもほっとするところがあります。悲しみの中でも時には拍手が起こったり、時にはなつかしい映像や楽しい映像に、笑いが起こったりします。永遠に生きる希望があるのは大変素晴らしいです。

 今日は「リバイバルを求めよう!」というタイトルで、聖書から学びます。私たちの教会の最大の目的は、「日本のリバイバル」です。リバイバルとは、日本のすべての方々がイエスさまを信じ、神の国がこの地に現されることです。教会設立以来、そんな熱い思いを持って活動が続けられています。特に、一九九二年、この教会に主が力強く訪れてくださって以降、リバイバルミッションの働きが始められました。その時から「日本のリバイバルのために祈りなさい」という、さらに熱い思いが与えられました。今もその熱い思いと祈りが継続されています。
 今朝は、特に、日本のリバイバルについてもう一度心に刻み、祈るように導かれています。
 クリスチャンとは、よみがえりのイエスさまが語られた言葉を受け取り、自分のライフスタイルにして歩む者たちですので、イエスさまが語られた言葉を重く受け止め、歩む必要があります。

 イエスさまには十二人の弟子たちがいましたが、イスカリオテのユダはイエスさまを裏切りました。イエスさまがよみがえったとき、十一人の弟子たちに語られた言葉があります。マタイの福音書二十八章十八節から二十節に、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 よみがえりのイエスさまが語られ言葉は、まず第一に、『「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。』でした。
 イエスさまの公生涯の権威は素晴らしく、力強いものでした。しかし、イエスさまの公生涯を見ると、イエスさまの宣教のはじめと、十字架の直前に悪魔の攻撃がありました。ということは、イエスさまの権威は、全幅の権威ではなく、条件付きの権威であったことがわかります。
 しかしイエスさまが死の力を打ち破ってよみがえられてからは、『わたしには天にもおいても、地においてもいっさいの権威が与えられた』と語られました。イエスさまがいっさいの権威を受け取られたのは、公生涯ではなく、「よみがえられてから」でした。
 そして弟子たちにその権威を託し、『あなたがたは出て行って福音を伝えなさい』と命令されました。十一人の弟子たちに『あらゆる人々を弟子としなさい』と語られました。また、『父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい』と言われました。その後、聖霊を受けた弟子たちは、イエスさまの言われた言葉を実践していきました。ペテロは語りました。

『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』

 すると群衆は呼応し、『三千人もの人が主を信じてバプテスマを受けた』と記されています。宣教には、「イエス・キリストの救いについて語ること」と、「父と子と聖霊によってバプテスマを授ける」という目的があります。
 今日は子どもたち六名がバプテスマを受けます。子どもでも大人でもイエス・キリストを自分の救い主として受ける入れ、『信じてバプテスマを受けるものは救われ』、『聖霊を受ける』と約束されています。使徒二章三十九節に、

『なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』

とあります。『あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」』とあります。老人から子どもたちまで、皆に与えられる恵みであると教えています。信じたら「バプテスマを受ける」ことは重要です。
 同時にイエスさまが語られたことは、出て行って福音を伝える、『あらゆる国の人々を弟子としなさい』という「世界宣教」でした。

 今年は「ハワイ・リバイバルミッション」が行われます。「なぜハワイなのか?」について、私はミッション・ニュースの巻頭言に書きました。
 「ハワイ」と聞くと、普通は「リゾート地で良いなあ」と思います。夢の国、楽園のようなイメージを受けます。しかし実は、ハワイのリゾート地としてのイメージは、後に作られたものであり、元々からのものではありません。「ハワイ」と聞くと、ワイキキの白い砂浜を思い描くと思います。けれどもワイキキの砂浜は、人工的に作られたものです。深夜ワイキキの砂浜に行くと、どこからともなく白い砂を満載したトラックが来て、砂を蒔いています。波によって失われた砂を補給しているのです。昔、そこは珊瑚礁で砂浜はありませんでした。しかしリゾート開発によって、人工的に砂浜が作られました。ハワイアン音楽も後に作られたもので、元々のハワイの音楽ではありません。
 ハワイは、ポリネシアの諸島から渡ってきた人たちが最初、住んでいました。そのルーツは日本人と同じ、「縄文系の人々」でした。
 日本人の源流は、縄文系の人たちです。その後、中国・朝鮮半島を経て、弥生人が入ってきました。弥生人は稲作を持ってきましたので、あまり稲ができないところへは移動して行きませんでした。ですから、寒い北海道や東北、沖縄にまではあまり広がりませんでした。主に本州に定着しました。日本人とは、縄文人と弥生人が混ざって出来上がった民族です。この列島に、昔から住んでいるわけではありません。
 一方縄文系の人たちは、ポリネシアの方面から、ハワイ諸島にまでカヌーで移動していきました。ハワイはアメリカの一州でもありますが、ハワイアンの人たちは日本人と同じルーツをもっています。宗教的にも八百万の神々を拝んでいます。ハワイアンが拝む対象は、火山や自然そして偶像です。祈りの言葉の響きは、神道の祝詞にそっくりです。
 また、ハワイには日本人が多く移民したという歴史があります。日本人によって形作られた島と言っても過言ではありません。
 そして太平洋戦争が始まったのも、ハワイのパールハーバーからでした。第二次世界大戦は大きな傷を世界に残しましたが、とりわけ、太平洋戦争が世界平和のバランスを大きく壊したと言えます。太平洋戦争以降、日本に平和が訪れましたが、世界には冷戦構造が出来上がり、核爆弾が多く作られ、今もその延長上にテロとの戦いがあります。歴史の評価は一口には言えませんが、日本が果たした悪い役割があります。

 『あらゆる国の人々を弟子としなさい』とイエスさまは語られましたが、世界宣教の歴史を見ると、各国、各民族に割り当てられた神からの責任があるように見えます。ハワイは歴史的にも、最も日本と深い関わりがあり、「宣教」という意味において、日本教会が果たさなければならない、祈らなければならない領域があります。ただリゾート地という理解ではなく、ハワイのリバイバルを願って、働かなければなりません。
 「なぜ、ハワイなのか?」について、リバイバル・ミッション・ニュースをご覧くださり、ぜひお祈りください。この働きは、祈りの運動です。まずはリバイバルのために祈ってください。

 聖書の提示する祝福の原則は、「受けるより、与える方が幸い」ということです。新城教会は田舎にあっても、ある意味において、祝福されています。それは、この地の伝道だけに力を費やしてきたのではなく、日本全体のリバイバルを視野に入れて祈り、犠牲を払って来たためと信じています。日本のリバイバルを願い宣教を行ってきたことに、祝福の源があるように思います。
 同時に、インターナショナル・ミニストリーもあり、日本人のみならず、外国人の方々も受け入れているところに、祝福の源があるように思います。そして今年、ハワイでミッションが行われることが、ハワイのリバイバルのために祈ることが、祝福となってこの地に現わされると信じます。日本人には自分勝手なところがあり、島国根性で、自分さえ良ければいいという所がありますが、そこには祝福の原則はありません。自分のことよりも、外に目を向けて、イエスさまが語られたように、「全世界の人々を弟子としなさい」という言葉に重点を置き、世界宣教に励んでいくときに、自国にも、素晴らしいリバイバルを起こしてくださると信じます。
 そのような意味で、今ハワイで活動が繰り広げられていますので、ぜひお祈りください。

 最近、ハワイで毎週「勇士祈祷会」が開かれています。ハワイのリバイバルのビジョンに燃える先生方や兄姉姉妹が集まって、ハワイ時間の毎週木曜日夜七時から、集会が開かれています。しかし今は不思議な時代で、日本においてその集会にリアルタイムで参加できます。現在は、インターネット上で無料で、どこの国の人とも話すことができます。カメラを付けておくと、映像を見ながら話しができます。インターネットに加入していたらタダで利用できます。
 先日、ブラジル人の方から「先生、ブラジルにいる私の妹のために祈ってくれませんか。」と頼まれました。「どうやって祈ったら良いですか」と聞くと、「コンピューターを使って、顔を見ながら祈って欲しい」と言われました。いつ祈るのかと聞くと、ブラジル時間で朝の九時と言われました。こちらでは夜の九時でした。先方は眠たそうな顔をしていましたが、顔を見ながら通訳を通して祈りました。地球の裏側で初めて出会った人が、「イエスさまを信じます」と祈っていました。
 金曜日の午後二時から、ハワイの集会に新城で出ることができます。ハワイの準備事務所で私の娘と岡本泉さんが働いています。今も彼女たちはコンピューターを通して、この礼拝に参加しています。この時代にあって、私たちは神からの託された使命に生きていかなければなりません。

 日本はこれまで三回程、リバイバルが起きるチャンスがありました。今週の「リバイバル新聞」に一つの記事がありました。

(リバイバル新聞のより)
「日本は歴史上、過去三度ほどリバイバルの好機を迎えたことがあります。第一回は一五四九年、初めて日本にキリスト教が伝えられたときでした。しかしながらその宣教は、ローマ・カトリックによってなされたために、民衆は仏教から改宗したとはいえ、それまで使っていた仏像に少しノミを当て、マリア像やキリスト像に改造した程度のものでした。第二回目のチャンスは明治維新とともに訪れました。しかしながら、教会は神道との関係を排除することが出来ず、やがて教会は軍部によって統一される結果となりました。
 強大化した国家神道を背景に太平洋戦争に突入した日本は、やがて内外に未曾有の傷を残して終戦を迎えました。神風が吹くと信じて疑わなかった国民は、敗戦により神社離れが進み、その後GHQ司令官マッカーサーによって多くの宣教師が日本に遣わされたことにより、日本においてキリスト教は爆発的発展を果たすかのように見えました。しかしながら、一九五二年に主権が日本に返還されるとともに、戦後廃れていた神道が徐々に台頭し、それに呼応するかのように、教会に押し寄せていた群衆は消えて行きました。
 三度にわたる好機を逃がした共通原因は、各時代において教会が偶像礼拝に対し、はっきりとした決別の態度をとれなかったことです。
 特に、戦前のキリスト教界においては、自由主義神学などの立場によって、「神社を拝む事は偶像礼拝に値しない」とされ、聖書の神と日本神話の神々の類似点が提唱されました。その背景には、当時の情勢に合わせ、キリスト教を再構築する目的がありました。事実、太平洋戦争当時の日本の教会は、礼拝前には宮城遙拝と君が代斉唱を強いられ、信じられないことですが、礼拝堂に神棚を設置するということまで行われたのです。一方、神社参拝や宮城遙拝を拒否したクリスチャンが不敬罪として逮捕され、殉教した人々もいます。このような悲しい歴史を繰り返すことのないように反省し、祈らなければなりません。」(ここまでがリバイバル新聞の記事)

 実は、これは私が書いた記事ですが、今まで日本教会はリバイバルのチャンスを三度ほど逃してしまいました。このままで時代が終わったとしたら、どうでしょうか。
 さて、現代は、「世の終わりの時代」と言っても過言ではありません。環境問題、人口増加率、食糧問題を見ても、人類に明日はあるのだろうかと思います。十年、二十年前と比べると今の方が悪くなっていきます。誰もが、「この世は長く続かないのかも知れない・・・」と考えています。
 聖書は、「この世は永遠に続くものはない、この世には終わりがある」と主張しています。人類が神から離れ、自分勝手な生活をした結果、多くの問題に直面しています。神から離れた人類は、いくら科学が発展しても、本質的なものを変えることは出来ません。結局、どうにも修理が利かない世界になっています。神が直接介入しない限り、人類をリセットできないほど、悲惨な状況が起こると聖書は預言しています。今、聖書の預言通りに世界は動いています。やがて世界は神によって、もう一度リセットされ新しく造られるときが来るのです。

 しかし、そんな厳しい中でも、各国に主は訪れ、世の終わりを目前にして、人々を劇的に救われるという「リバイバル」が起こっています。
 しかし日本だけは例外のようです。日本教会の歴史を見ると、一向に教会は成長していません。ある意味で、イエスさまの敗北のようです。私たちがやがてイエスさまの前に出たときに、イエスさまは何と言われるのでしょうか。
 「日本の兄姉姉妹、ごめんなさい。わたしは日本で失敗しました」と言われるでしょうか。決してそんなことはないはずです。このような困難な時代にあっても、必ず主は勝利を取ってくださると信じます。

 しかしリバイバルのために使われるのは、誰かというと、先に救われたクリスチャンたちです。私たちが、リバイバルのために祈らなければなりません。またリバイバルのビジョンに燃えて、戦う勇士となるべきです。私たちが救われたのは素晴らしいですが、今度は、人々を救うために、戦う側にならなければなりません。
 使徒の働きを見ると、『その日三千人ほどが弟子に加えられた』とあります。これは単なる信徒ではなく、「弟子になった」ということは、イエスさまと同じ歩調で歩む者たちに変えられたということです。

『そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。』

 その弟子たちによって、多くの奇跡が行われ、神の国が前進していった様子を知ることが出来ます。初代教会の人々は、永遠のいのちを与えられだけに止まらず、その国のリバイバル、世界のリバイバルのために勇士となりました。
 私たちは日本において選ばれた者として、日本のリバイバル、世界のリバイバルのために、熱く燃えるクリスチャンになることを、主は願われています。私たちは初代教会の弟子たちと同じように、リバイバルに熱く燃えたいと願います。
 足もとだけを見ていると、全体像を見失い、気付くと自分たち自身が困難の中に立たされる事があります。日本は三度ほどリバイバルの機会を迎えましたが、当時のクリスチャンたちは偶像礼拝と戦うことを恐れ、妥協しました。妥協することと、戦うことはどちらが楽なのでしょうか。妥協することの方が楽です。しかしその結果として受け取ったのは、大きな被害と迫害でした。
 私たちは歴史から、学ばなければなりません。歴史は繰り返すと言われます。ですから現実を直視し、国のためにも祈らなければ、やがて国は同じ行動を繰り返します。なぜなら、背後に悪魔が働いているからです。

 近頃の政治的な流れを見ると、何となく危ない感じがします。何年か前に、法律が改正され、自衛隊が海外で働くことができるようになりました。小泉内閣は各国の反対をよそに、靖国神社参拝を強行しました。続いて教育基本法が改正され、日本の文化を尊ぼうと、神社崇拝を肯定するような教育が強調されつつあります。
 また先週は、憲法改正の為の国民投票法案が可決されました。その法案は色々な問題を含んでいます。戦後六十年以上経ったので、憲法を改正しようという働き強くなっています。
 昔と同じような闇の力が強く働いている今日この頃です。このような中で、クリスチャンが、この国のために祈らないでいたらどうなるのでしょうか。もしかしたら、日本は同じ事を繰り返すかも知れません。また、世界的な動きに日本も組み込まれ、戦争に巻き込まれ、教会も困難な時代を迎えるのかも知れません。

 私たちは足もとを見るのではなく、国全体、世界を見つめてとりなし祈り、主の勇士として立ち上がる必要があります。その時必ず、主は大いなる勝利を与えてくださると信じます。
 「現代の日本人の精神はなっていない」という意見があります。そして、「昔は良かった」という考えを前提に、何とか精神的な部分を建て直そうと政府は願っています。しかしこれは本当の意味の改革にはなりません。真の神と出会わなければ、人は皆、罪人なので、罪によって滅びて行きます。
 しかし、イエスさまと出会えば、罪が赦され、新たにされ、聖霊様が守ってくださるので、正しい歩みが出来るようになります。本当の意味で精神が復興し、国が改革されるのです。教会がそのために役割を果たす時に、国が変えられていきます。私たちはそのことを知っていますから、日本のために祈らなければなりません。

 「主の勇士」と言っても「私とは関係がない」と言われるかも知れません。しかし聖書はどのような立場にあっても、主はあなたを勇士として任命されると語っています。聖書には、影があり実態がくるというテーマがあります。影は、旧約聖書中にあり、新約聖書中に預言が実現するという姿を見ます。
 先週私は士師記のサムソンという人物から、「イエスさまのよみがえり」について話しました。
 今朝は、三千人が救われるという使徒時代のリバイバルの前段階として、旧約聖書に影があるように思います。それを士師記から見出すことが出来ます。

 士師記六章には「ギデオン」について記されています。イスラエルの救いは、リバイバルに関わる影であると思います。士師記六章一節から六節に、

『イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガザに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。彼らが自分たちの家畜と天幕を持って上って来たからである。彼らはいなごの大群のようにしてやって来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。しかも、彼らは国を荒らすためにはいって来たのであった。それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は主に叫び求めた。』

 イスラエルが主の前に悪を行ったゆえに、困難な時代を迎えたと記しています。六節に、

『それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は主に叫び求めた。』

 人間は弱ると、主を求めるという性質があります。それもときには良いかも知れませんが、非常に弱まる前に、主を叫び求めなければならないと思います。私も、主を叫び求めたのはいつも、弱まったときであったように思います。それも良いのですが、私たちは聖書の中から原則を先に見つけなければなりません。
 イスラエルの人々が主の前に悪を行った結果として、「ミデヤン人の手に渡された」とあります。聖書は悪について、罪について指摘している書物です。ある意味で教会に来ると、罪についての指摘がなされますので、少し心が痛いときがあります。「罪について語らなければ良いのに、もっと耳あたりの良いことを語ってほしい」と考えるかも知れません。
 なぜ神は罪から離れるように語っているのでしょうか。それは罪によって人は弱まってしまうからです。「神が人を裁く」と言われますが、結果的に神は人を裁かれますが、罪を犯して原因を作ると敵が動くのです。ミデヤン人やアマレク人たちは、神に対して敵対している者たちでした。その敵がイスラエルを襲ったのです。私たちが罪を犯すと、神ではなく、「敵が動く」のです。目に見えない敵である悪魔・悪霊たちが動き、害を加えるのです。
 私たちは時々弱められますが、その時は、敵の力から解放されることが必要です。同時に、罪について認識し、悔い改めることが必要です。ですからペテロの最初のメッセージは「悔い改めなさい!」でした。

 人が罪を犯すことによって敵が動き、弱められるのです。イスラエルが主の前に悪を行った結果として、何が起こったのでしょうか。六章三節に、

『イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。』

 種を蒔くと、「いつでも」ミデヤン人やアマレク人、東の人々が上ってきて襲ったのです。そのようなことはないでしょうか。「さあ人生これからだ!」と言うときに、「いつでも」敵に襲われるという人生を送っている人がいるかも知れません。この原因について士師記六章十節に、

『それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」』

 『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』とあります。「神々を恐れてはならない」というところに*印があり、他訳が記されています。それは「拝んではならない」とあります。
 イスラエルが度々、収穫の頃に敵に襲われた原因は、「偶像礼拝」にあったのです。日本にも多くの偶像礼拝がありますが、その結果として、敵に収穫時に襲われるのです。
 私たちの戦う相手は、偶像礼拝であり、偶像礼拝は敵の侵入を許し、人を弱くすると聖書は教えています。
 しかし弱くなったときこそ、主を求め、主は出会ってくださるのです。素晴らしい祝福を受けることが出来ます。
 イスラエルが弱ったときに、主は助けの手を差し伸べられました。士師記六章十一節から十二節に、

『さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」』

 イスラエルに「アビエゼル人ヨアシュに属するギデオン」という人物がいました。彼は度々ミデヤン人が襲ってくるので、酒ぶねに隠れて小麦を打っていました。当時の酒ぶねは石灰岩をくりぬいた岩の窪みにありました。「小麦」とは、自分の食物でした。そんな自己中心的な男に突然主が訪れ、「勇士よ。主があなたと共におられる!」と語られました。
 「勇士よ、主があなたとともにおられる」と声を掛けてくださっても、「主よ、私は勇士ではありません」とギデオンのように拒否してしまうことがあります。ギデオンも自分が勇士だとは夢にも思っていませんでした。彼は自分のことしか考えていませんでした。
 「アビエゼル人」ヨアシュの息子が「ギデオン」と紹介されていますが、よく調べると、彼はイスラエルの中でも「特に弱かった」ことがわかります。士師記六章十五節に、

『ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」』

 ヤコブには十二人の子どもがいましたが、その中のヨセフはエジプトに売られました。そしてエジプトで二人の子どもを設けました。それが「マナセとエフライム」でした。ヤコブは死ぬ前、マナセとエフイエムを呼んで二人を祝福しました。その時ヤコブはよく目が見えず、彼は祝福の手を置くときに、右手をエフライムの上に置き、マナセに左手を置きました。マナセが兄でエフラエムは弟でした。普通ならば、右の手は祝福の手なので、長男であるマナセに置きます。息子のヨセフがヤコブに間違いを指摘すると、「これで良いのだ」と言って、ヤコブは腕を交差させてエフライムに右手を置き、マナセに左手を置きました。その結果、マナセ族は、イスラエルの十二部族の中でも、最も卑下された弱い部族となりました。その子孫がギデオンでした。
 その上、ギデオンは、マナセ族のアビエゼル人ヨアシュの息子としてまだ若く、弱い存在でした。そんなそのギデオンの所に主が現れたのは、「神の働きは人間の働きとは全く違う」ことを意味しています。
 何でもできて、頭がきれて活動的な人たちを神は選ばれると考えますが、神の目から見る勇士はそうではありません。「勇士よ!」と告げられたギデオンは、イスラエルの中で最も弱く見える存在でした。そんな者に主の訪れがありました。

 来週は「ギデオン協会」と言って、学生や看護師たちに聖書を配布している団体の方々が来られ、案内と献金の時があります。彼らは聖書を無料で配布する働きをしています。「ギデオン協会」とは、このギデオンから来ており、弱い者を強くするところから出ています。自分のためではなく、誰かのために働くときに主は祝福してくださいます。ぜひ、聖書贈呈のために献金してください。

 ギデオンは弱く見えましたが、神は彼に目を留められました。私は一つのことを覚えています。私の弟の結婚式の時に、ある人が祝辞を述べました。それは上條実牧師の結婚式でした。「皆さん、手を出してください。指は五本ありますね。この中で一番高い指は中指です。実さんは三男です。三男は一番高いのです。」と言われました。そうしてみると、一番低いのは長男に当たります。しかし神は私のような弱い存在にも目を留めてくださいます。人は顔形や能力を見ますが、神はそのようには評価されないのです。第一コリント十二章二十二節に、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

とあります。聖書はひとりひとりの存在を、キリストのからだの各器官として位置づけています。今日ここにおられるひとりひとりは、イエスさまのからだの各器官を形成しています。そして弱そうに見える器官が、「なくてはならない存在」であると教えています。

 今日あなたも、主の勇士になることが出来ます。勇士となる「条件」として神が語られた言葉があります。士師記六章二十五節から二十六節に、

『その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」』

三十四節に、

『主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。』

とあります。ギデオンが弱い者であったのが強くされた条件の一つは、二十五節に、

『その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。』

 神が彼を勇士とするために出した条件は、「あなたの父の家のバアルの祭壇を倒せ」でした。人々が弱くされる要素は、「父の家の偶像礼拝」であると教えています。旧約聖書の時代、イエスさまの十字架とあがないが完成されていなかったので、偶像があったら粉々に壊すことが要求されました。しかし今はイエスさまの十字架の勝利があるので、家の偶像を壊すことが出来なくても、つながりを断ち切ることができます。そして、やがて家からも偶像がなくなるのです。
 家系の中の偶像礼拝が人々を弱くしていると教えています。ギデオンが自分の家の偶像を打ち倒したときに、主の霊が注がれました。私たちは聖霊に満たされなければ何も出来ませんが、聖霊に満たされる条件は「父の家の偶像礼拝を断ち切る」ときに、主の霊が私たちを覆います。そして主の勇士たちが集まってきたように、私たちも主の勇士として集まることができると教えています。

 主の霊に満たされ、解放されたギデオンが角笛を吹いたときに、三万二千人集まり、ミデヤン人と戦うために軍隊が結成されました。しかし神様は三万二千人もの大きな軍隊を必要とされませんでした。それが士師記六章から七章に記されています。神様は敵に対して、たった三百人を勇士として選び取りました。敵軍ミデヤンの軍隊は「十三万五千人」でした。それをたった「三百人」で打ち負かすという、大きな勝利につながりました。
 その時に三百人をどのように選び出したかについて、士師記七章七節に記されています。

『そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」』

とあります。神は三万二千人から三百人の精鋭部隊を選び出すテストしました。人が水を飲む姿を見てテストされました。ほとんどの人が自分の持っていた槍や刀を置いて、川で犬のように両手をついて水をぺろぺろと飲みました。
 しかし三百人は水の飲み方が違いました。片手で槍を持ち、片ひざをついて片手で水をすくって飲みました。その時に神はこのように語られました。
 「武器を持ち、一方では片ひざをついいて水を飲んだ者たちを集めなさい」それが三百人でした。そして、何と、三百人だけで敵の軍隊は敗れたのです。
 三百人の勇士から学ぶことができます。それは、「どんな時にも戦いを忘れない」ということです。
 日頃の生活の中で、食事をするとき、仕事をするとき、生活のただ中で「常に戦いを忘れない人」が「主の勇士」であると教えています。

 日本のリバイバルのために、神が選ばれる勇士は誰でしょうか。まずは、「自分が弱いと感じているような、最初のギデオンのような人」を選んでくださいます。
 また、「父の家の偶像礼拝に対してが開かれ、そこから解放された人たち」を主が選んでくださいます。
 そして、「生活のただ中で常にリバイバルを信じ、戦いを忘れない人」たちです。常に臨戦態勢の人たちを主は喜ばれます。どのような領域にも戦いがあります。いつでも祈りによって戦うことができる、主の勇士をこの国に必要とされています。

 私たちは日本においては三百人の勇士のような、小さな存在かも知れません。しかし、ひとりひとりが勇士となるならば、この国を変えることができます。日本のリバイバルのために熱く祈る者でありたいと思います。お祈りします。
 
 今日は「私を主の勇士としてください」と祈りましょう。そして、「この国のリバイバルのために用いてください」と祈りましょう。

(祈り)
「イエスさま。今私は主の勇士であること宣言します。弱い者ものではなく、主の勇士であることをギデオンのように宣言します。聖霊の火を注いでください。父の家の偶像礼拝によって結ばれた、一切の契約を断ち切ってください。その影響を取り去ってください。主の霊を注いでください。リバイバルの勇士としてください。この国、また世界のリバイバルのために、心を熱く燃やしてください。どんな時にも戦いを忘れることがないように、主から離れることがないように、力を注いでください。日本にリバイバルを起こしてください。そのために私を用いてください。イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。」


[バックナンバー]