勇気を出しなさい

2007.4.22(SUN)
新城教会牧師 滝元 明師

新約聖書 使徒の働き23章11節
その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。皆さんにお祈りしていただき、元気に今日ここに立つことが出来て感謝します。
 四月三日に家を出て、十六日に帰ってきました。先週は、福岡の教会でメッセージをしました。その前の週には、福岡県久留米市で話し、夜は熊本県で奉仕しました。
 翌朝、日曜日朝五時少し過ぎに家内から電話があり、悲しそうな声で「岡本キヨ姉が召された」と言うのです。私もたいへんショックを受けました。しかし彼女は、神様の計画の中で天に帰って行かれたと思います。
 私はその日、久留米で礼拝をし、翌日は熊本県で集会をする予定でしたが、「月曜日ではなく、日曜日の夜に集会をしてください」と言われました。それで月曜日だけ私のスケジュールが空き、岡本姉の前夜式に出ることができました。「たった一日なぜ空いたのか」と考えると、神の計画であり、岡本キヨ姉が天に召される日のために、主が備えておられたと思いました。

 岡本キヨ姉がよく私に、「先生、いつ帰ってくる?」と聞かれました。私は毎週のように外に出ていたので、私に葬式をしてもらいたいと思って「いつ帰ってくる」と聞かれました。岡本キヨ姉のご主人の時もそうでしたが、二人とも私のスケジュールがちょうど空いているときに、天に召されて行きました。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」と聖書にありますが、岡本キヨ姉が地上で良い働きをして、天に凱旋して行ったことを覚え、主のみ名を崇めます。私たちもいつ召されるかわかりませんが、決められたときがあるので、それまでは喜んで、イエスさまに仕えていきたいと思います。

 私は四月三日から十五日まで、ハワイ・ミッションのために、九州地区で決起大会をしました。「ハワイのために祈ってください。来れる人は来てください。またハワイのためにささげてください」とお勧めしています。私が出かけると、多くの教会が伝道集会や聖会を開催してくださいとお願いされます。九州では三月に福岡サンパレスというホテルで韓国教会が集会をしたそうです。一日だけの集会だったようですが、素晴らしい集会でたくさんの人が集まったと言われていました。二千三百名名程が集ったと言われました。その教会は一日のために、三千万円かけて会場を借りて集会を準備し、多くの人が主に導かれたそうです。
 今はハワイリバイバルミッションの決起大会をしていますが、実際にハワイリバイバルミッションが始まっているような思いで、毎回、メッセージをしています。一月は大阪、二月は四国、三月は四国、四月は九州と廻りました。約四十七の教会を廻りましたが、実数で二千三百二十六名が集まりました。ひとりで百万円もかからず、二千三百二十六名が集まったことを感謝しました。その中でイエスさまを受け入れたいと言われた方々が、百十六名、献身したいと言われた方々が三十名いました。ですから私のためにも、ぜひお祈りください。ハワイミッションのために、主が素晴らしい働きをされています。

 今週私は、新潟で集会をします。また五月は北海道、六月は北関東から上越、北陸、七月には東北方面に行きます。ぜひ覚えて祈ってください。ハワイリバイバルミッションのためのツアープランが出されました。カジュアルコース十三万九千円、デラックスコースはワイキキビーチにあるマリオットという高級ホテルで、十六万五千円です。今からお祈りくださり、ハワイにぜひお越しください。
 今日は使徒の働き二十三章十一節から学びます。

『その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。』

とあります。この聖書のみ言葉は、一九九六年二月六日に、私が早天祈祷会に行き、ひとりで祈りながら聖書を読んでいると、突然イエスさまが私の側に立たれたような臨在とともに、このみ言葉が私の目に飛び込んできました。

『「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」』

 その時に私は主の臨在を感じました。主が私の側に立たれたことがわかり、声を上げて泣きました。「イエスさま、ありがとうございます」と祈りました。『あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように…』とありますが、エルサレムとは私にとって甲子園であり、ローマとは東京だと教えられました。
 「あなたは甲子園でわたしのことをあかししたように、東京でもあかしをしなければならない」と教えられました。
 新城教会の教育館ができた時、日本の信徒会の会長をされている方から「先生、いつ東京でやってくれるのですか。先生、時が来ています。東京でやってください」と言われました。東京には色々な団体や長がおられ、私は特に東京に対するビジョンを受けていませんでした。
 しかし、一九九六年二月六日に、このみ言葉が与えられました。「これは神の時が来た」と思い、実行委員会で話しました。二年後、一九九八年に東京でミッションを行いたいと話しました。すると一番ミッションに協力的な田中政男先生が、「何日?」と言いました。私は「十日間」と言いました。「どこで?」と聞かれました。「日本武道館でやりたい」と言いました。すると、「武道館?十日間も貸してくれるか?」と言いました。それは聞いてみないとわからないではないかと言い、聞いてみて開かれたら行えば良いと言いました。
 そして岡本先生が武道館へ交渉に行きました。その時は一週間、武道館が取れたと言われました。あと三日間は一年前に空いていたら貸してくれると言われたようです。だから私は三日間の所に、天の軍勢を遣わして、だれも借りることがないようにと祈りました。
 一年後、岡本先生が武道館へ行き「どうですか。三日間空いていませんか。」と聞くと、あちらの方が、「お宅ははじめから、十日間申し込んでいないですか…」と言われたそうです。武道館で十日間の集会をしたことは、神の計画でした。
 しかし武道館でミッションを行うのには信仰がいりました。一日借りるのに三百三十万円かかりました。十日間借りると三千三百万円です。それを半年前に払わなければなりませんでした。また音響や照明も一日一千万円です。約一億円かかります。ミッションにお金があるわけではありませんが、主が言われたから行うようになりました。
 しかし「勇気を出しなさい。あなたは甲子園で私のことをあかししたように、東京でもわたしのことをあかししなさければならない」とみ言葉が与えられ、結論から見ると、多くの方の祈りによって祝福され、素晴らしい集会を持つことが出来ました。

 日本の色々なところに行くと、「私は武道館の集会で救われました」と言われる方が多いです。しかしこのみ言葉は、再び、ハワイのために主から語られました。『勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように…』とありますが、エルサレムは日本です。「あなたが日本で行ったように、今度はハワイで行いなさい。」というみ言葉を確信しました。
 去年の二月に、私は神のみこころとして決心しました。リバイバルミッションの実行委員会で話すと、皆が信仰を持ちました。去年五月にハワイの先生方に話し、行う決意を固めました。昨年の十月十五日にはハワイで第一回目の決起大会をしました。その時は、私と岡本信弘先生、滝元開先生とともに出かけました。テーマソングの『勇気を出して』は、決起大会の時に与えられたそうです。
 『あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもわたしのことをあかししなければならない』というみ言葉が、ハワイのためにも与えられました。私は、「日本で行ったように、ハワイでも行いなさいと語られて今日来ました。」と話しました。
 この決起大会の朝、私たちは出かける準備をしていると、地震が起こりました。ハワイは地震がない国なので、ハワイの人たちにとってはすごい経験です。皆、パジャマのままで外に出てみたり、一日中停電になりました。その時に開先生に詩篇六十六篇七節から十節のみ言葉が与えられたそうです。

『神よ。あなたが御民に先立って出て行かれ、荒れ地を進み行かれたとき、地は揺れ動き、天もまた神の御前に雨を降らせ、シナイもイスラエルの神であられる神の御前で震えました。神よ。あなたは豊かな雨を注ぎ、疲れきったあなたのゆずりの地をしっかりと立てられました。あなたの群れはその地に住みました。神よ。あなたは、いつくしみによって悩む者のために備えをされました。』

 揺れ動いている中で、このみ言葉が与えられました。ハワイミッションのテーマソングの一番は、

勇気を出して歩き始めよう 君を愛するイエスがいるから
勇気を出して歩き始めよう 君を愛するイエスがいるから

打ち寄せる波のように 風に揺れる花のように
イエスの愛 いつでも君のそばに

 ハワイを表している歌詞です。ハワイの花はハイビスカスです。沖縄は赤色ですが、ハワイは黄色です。二番は、

疲れたこの街が 揺れ動き目を覚ます
立ち上がろうもう一度 イエスの愛を受けて

 「疲れがこの街が 揺れ動き目を覚ます」とは、ハワイミッションを象徴するようなみ言葉だと思います。詩篇六十六章七節から八節に、

『神よ。あなたが御民に先立って出て行かれ、荒れ地を進み行かれたとき、地は揺れ動き、天もまた神の御前に雨を降らせ、シナイもイスラエルの神であられる神の御前で震えました。』

 神様が出て行かれたときに、地が揺れ動き、神の御前に震え上がったとあります。今度のハワイミッションは、日本のリバイバルの鍵があると思います。昨年十月十五日にハワイで地震があったのも、偶然ではないと思います。ですから、この賛美のように、

疲れたこの街が 揺れ動き目を覚ます
立ち上がろうもう一度 イエスの愛を受けて

 ハワイのためにお祈りください。世界や日本を廻ってみて、ハワイはとても良い場所だと思います。色々な国があります。スイスに行くと、公園みたいで綺麗だと思いました。しかし、ハワイは一番パラダイスに近いように思います。小鳥がたくさん来てさえずり、自動車が来ても逃げません。また、魚も人間といっしょに海を泳いでいるような所です。
 しかし実際には、日本人が大勢いますが、疲れた人がたくさんいます。親に反対されて結婚したけど、捨てられてしまった人、家に帰ることが出来ないからハワイに住んでいるというような、傷ついている人がたくさんいます。今ハワイはイエスさまを待っています。救いを待っているので、私たちは伝えなければなりません。三番は、

荒れ果てた世界に 注がれるイエスの愛
降り注ぐ雨のよう 心を潤す

 福音を伝えることによって、ハワイが揺れ動かされるように覚えて祈ってください。ハワイミッションに期待しています。皆さんもぜひ期待して祈ってください。
 昨日はハワイに行っている上條牧師と話しました。今の時代はすごい時代です。インターネット電話で相互の映像を見ながら、話すことが出来る時代です。私が九州を回っているときに、ハワイとつないで祈祷会をしました。また毎週金曜日は、ハワイとリバイバルミッション事務局が一緒になって祈祷会をしています。先週は上條牧師が祈祷会の中で大変良い話をしていました。ハワイに神の栄光が現されるように祈ってください。
 今回、上條牧師が出かける前に話しました。「六月には州知事や市長に会えるように手配して欲しい」とお願いしました。すると「州知事と市長、また日本領事にも会う道が開かれた」と、昨日知らせがありました。ハワイが福音によって揺り動かされるように、信仰を持って遠いハワイではなく、皆さんにとって近いハワイとして、リバイバルが起こされるように祈ってください。

『「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」』

 使徒二十二章から読んでみてください。使徒パウロが伝道し、最後にエルサレムに行きました。その時に彼は逮捕され、殺されそうになりました。使徒の働き二十二章二十五節からに、

『彼らがむちを当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に言った。「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。」これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところに行って報告し、「どうなさいますか。あの人はローマ人です。」と言った。千人隊長はパウロのところに来て、「あなたはローマ市民なのか、私に言ってくれ。」と言った。パウロは「そうです。」と言った。すると、千人隊長は、「私はたくさんの金を出して、この市民権を買ったのだ。」と言った。そこでパウロは、「私は生まれながらの市民です。」と言った。このため、パウロを取り調べようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引いた。また千人隊長も、パウロがローマ市民だとわかると、彼を鎖につないでいたので、恐れた。』

 パウロはサウル王の王家に生まれたので、ローマの市民権がありました。だからパウロを捕らえた千人隊長がむちを当てようと思いましたが、むちを当てられませんでした。そして次の日、議会に行きました。パウロが語ろうと思ったとき、大祭司が「彼を打て」と命じました。二十三章三節から六節に、

『「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」するとそばに立っている者たちが、「あなたは神の大祭司をののしるのか。」と言ったので、パウロが言った。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と書いてあります。」しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」』

とあります。パリサイ人は復活を信じる人であり、サドカイ人は復活を信じない人です。パウロはパリサイ人とサドカイ人がいるのを知り、「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです」と言うと、議会が二つに割れたようです。その結果、すごい争いになって、パウロが引き裂かれそうになったので、兵隊を遣わし力づくでパウロを引き出しました。引き裂かれそうになったとき、パウロは失望したと思います。殺されるのだろうか、どうなるのだろうかと考えたと思います。その時に、

『その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」』

 時々行き詰まったときは、イエスさまとお会いするときだと思います。パウロに対して、「あなたはエルサレムでは死なないよ。ローマであかしするときがくる」と言われました。神は、「勇気を出しなさい」と言われ、「私は死ぬことも覚悟している」と言ったパウロは勇気づけられたと思います。
 私たちの人生の中で、時々「勇気を出しなさい」と、神様に語りかけられるときがあります。失望して、「なぜ私の家庭は駄目なのだろうか…」と思われている方がいるかも知れません。しかし今日はこのみ言葉を捕らえてください。パウロに語られた言葉ではなく、神があなたにが「勇気を出しなさい」と語られています。
 「勇気を出しなさい」を調べると、色々な所に引用があります。マタイの福音書九章二節に、

『すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。』

 『子よ、しっかりしなさい』は『勇気を出しなさい』と同じ意味です。
 昨年、私は手術しました。その時に心臓カテーテルの検査をしました。医者に「お宅の家系に特別な病気をした人がいますか。」と聞かれました。それで、「中風で父が倒れました」と答えました。私は調べてもらうと、血圧は少し高いようですが、糖尿病もなく、他も悪くなく、このように元気なのは感謝です。
 人々が中風の人を床に寝かしたままで運んできました。中風は普通では直りません。私の父も中風で手が動かなくなり、言葉が出なくなりました。ある意味でこの人は絶望していたと思います。「俺はもう動けない。俺の人生は駄目だ」と考えたと思います。
 その時、イエスさまが「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われました。彼は罪意識があったと思います。どんなことを行ったのかわかりませんが、「あんな罪深いことをしたので報いが来た。俺は罪深い人間でもう駄目だ…」と、思っているところに、イエスさまが来られました。四人の友だちは、「イエスさまの所に連れて行ったら直る」と信じて彼を連れて行きました。人が多くて、イエスさまに見せることが出来ないと思った友人たちは、屋根をはがして彼をつり下ろしました。するとイエスさまはその友だちの信仰を見て、「子よ。しっかりしなさい。」と言われました。

 「子よ。勇気を出しなさい。駄目ではないよ…」という言葉です。また次に語られた言葉は、「あなたの罪は赦されました。」でした。これを聞いた人は、「何だ。この人は。罪を赦すことは神以外にはできないではないか。」と言いました。イエスさまは「罪を赦すことと、病を癒されることのどちらがやさしいか。人の子はこの地上で罪を赦す権威を知らせるために来た。立ちなさい。寝床をたたんで帰りなさい」と言われました。

 神が「勇気を出しなさい」と言われます。今日家庭に問題がある人は、「勇気を出しなさい」「しっかりしなさい」と、このみ言葉を宣言し、信じてください。どんな問題で人間的に不可能と思っても諦めてはいけません。マタイ九章二十節から二十二節には、十二年間長血を煩った人について書かれています。

『すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。』

とあります。十二年間長血をわずらった娘が、イエスさまの着物のすそを少し触っただけで癒されました。その時にイエスさまが、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」とあります。
 この記事を見ると、「女はその時から全く癒された」とあります。この記事はマルコ五章二十五節から三十四節にもっと詳しく書かれています。

『ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。『彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。』何か問題のある方はこの信仰を持ってください。そこで彼女は、『すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。』

 今は医学が進歩していますが、当時は直すほどの医学がありませんでした。多くの医者に行き、自分の財産を使い果たしてしまいました。そしてかえって悪くなる一方だったとあります。人生の中でやることなすこと、すべてうまくいかないことほど、悲しいことはありません。金も使い、色々なことをやったが、良くならず悪くなる一方だったというのです。絶望です。そんな時に彼女が最後にイエスさまに望みをかけました。二十七節に、

『彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。』

 彼女は絶望の中からイエスさまに望みを持ちました。イエスさまに触れることが出来たら、きっと直ると思いました。今日、何か問題がある方はこの信仰を持ってください。イエスさまの所に来たら、きっと直ると望みを持つことです。二十九節に、

『すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。』

とあります。この女性はひどい痛みがあったとあります。このような表現があることは余程の痛みがあったと思います。ある意味で人生のどん底にある人が、イエスさまのみ衣に触っただけで癒されました。

『イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

とあります。病が癒されることは、私たちの信仰にかかっています。小さいときによく祈りました。病気の時によく祈りました。祈った時に「直ったか?」と聞くと、「うん、だいぶ良くなった」と言いました。私も少しどこかが悪いと、子どもに祈ってもらいました。「直った?」と聞かれ、「まだだよ…」と答えたこともあります。子どもは祈ったらすぐに信じます。祈ったら信じることが大切です。信じたときに癒されたとあります。「安心して帰りなさい。病気にかからず、健やかでいなさい」とイエスさまは言われました。病気にかからないように祈りましょう。

 病気が癒されることも奇跡ですが、病気にかからないことも奇跡です。ですから病気にかからないように祈りましょう。マタイ十四章二十六節から二十七節に、

『弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。』

とあります。イエスさまが大きな奇跡を行われ、その後、一人で山に上って祈っていました。弟子たちは船でこぎ出していました。海が荒れていてなかなかこぎ出すことが出来なかったときに、夜中の三時頃、イエスさまが波の上を歩いてきたとあります。近づいてくるのを弟子たちが見つけると、「幽霊だ…」と、叫びました。弟子たちの心の中に幽霊という思想がありました。幽霊だと脅えました。時々クリスチャンでも昔の価値観があると幽霊だと言います。

 かつて私は台湾に行きました。山地の人がもてなしてくれました。とても良い人たちでした。夜、庭に電気が照っていました。なぜ夜中じゅう電気を付けているのかと聞くと、「カワス」が出ると困るからというのです。「カワス」とは幽霊です。夜になると悪霊が出るかも知れないと言うのです。聖書の中に暗いところに幽霊、悪霊が出るとは書かれていません。イエスさまは「しっかりしなさい。恐れることはない」と言います。ヨハネ十六章三十三節に、

『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」』

とあります。クリスチャンは「勇敢で勇気を出して、恐れないで行きなさい、わたしがいます」と言われます。私たちは主が共にいてくださることがわかったら、恐いことはありません。

 私が開拓伝道に入り、行き詰まったときに、田口の桔梗屋という旅館で「イエスさま、どうして私を見捨てたのですか」と一晩中泣いて祈ったときに、イエスさまが声をかけてくださったことを忘れません。

 「われさらに汝を去らじ。汝を捨てじ」と声を聞きました。「イエスさまが語られるならば、聖書のどこに書いてあるかを教えてください」と祈りました。すると、「ヘブル書十三章」と語られ、そのみ言葉があったので大変勇気づけられました。イエスさまは決して見捨てず、見放さないとあります。

 それから五十八年間が過ぎました。私の確信は「神は決して見捨てることはなく、見放されることもない」ということです。このみ言葉はヨシュア記一章五節から六節にあります。

『あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。』

とあります。偉大な勇士ヨシュアに神が語られた事と同じ事を、私に言われました。私は信仰が強い者ではありません。信仰も弱く、親も捨て、兄弟も捨て、イエスさままで捨ててしまうのですか…という、私にとっては最も弱い時でした。その時に、「われ汝を去らじ。われ汝を捨てじ。」と語られ、「イエスさまが私を捨てなかったから大丈夫だ。やっていける。」と思いました。今日までやってくることができました。イエスさまが約束してくださった通り、守ってくださいました。マタイの二十八章十八節から二十節に、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 み言葉を受けて信仰を持つかどうかです。受け取るかどうか。「勇気を出しなさい」「しっかりしなさい」」「わたしがともにいる」という言葉を受け取るかどうかです。自分のものとして受け取ったら、これから素晴らしい人生を送ることが出来ます。これから勇気を出して伝道していきましょう。素晴らしい祝福が必ずあります。勇気を失っている人は、今日から勇気を出して下してください。『勇気を出しなさい』と宣言し、励まし合いましょう。イエスさまを信じて素晴らしい道を歩んでいきましょう。お祈りします。


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