イエスのみ名には力があります

2007.4.29(SUN)
新城教会牧師 上條 実師

新約聖書 使徒の働き 3章1節〜8節
ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

ハレルヤ!今日皆さんとともにみ言葉を学ぶことができますことを感謝します。先々週の木曜日から先週の火曜日までハワイリバイバルミッションの準備のためハワイに出かけました。ハワイでは決起大会を行うと同時に、教会訪問やハワイリバイバルミッションの大会の準備等ができて感謝しています。今日の午後はハワイリバイバルミッションホットライン祈祷会が行われます。ハワイのためにお祈り下さっていると思いますが、実際何を祈って良いかわからない方もいらっしゃると思います。ですから現地ハワイリバイバルミッションのために働いている姉たちとインターネットの電話をつなぎ、一緒に祈りたいと思います。協力してくださっているハワイの各教会のために、特に牧師先生の名前をあげてお祈りしたいと思います。また映像もすこし取ってきましたので、その映像を見ながらお祈りしたいと思います。
 では使徒の働き三章一節から八節を学びましょう。このみ言葉はハワイに行く途中の飛行機の中で読んで与えられました。飛行機の中で今まで守られてきたこと、新城教会に与えられた祝福を感謝しつつお祈りしていました。その祈りの中で今年の復活祭の早朝に天に帰っていった岡本キヨ姉のことを思い出しました。キヨ姉は新城教会が始まった当初からいらっしゃった方であり、新城教会の母親的存在でした。私もキヨ姉の思い出が沢山あります。子どもクリスマス会の時いつも「これでプレゼント沢山買いなさい」と多額の献金をして下さいました。いつもマルイチさんからもプレゼントをして頂いたり、いつも助けて下さいました。また数多くの思い出の中で、私は夏休みに高校時代アルバイトをしておりました。その時いつも母親が昼食のためにおにぎりを作ってくれていましたが、その当時夏休み時に軽井沢にて避暑地伝道をしておりまして、母親が留守するになる時がありました。その時キヨ姉が作ってくださる事となり、おにぎりを作ってくれました。キヨ姉のおにぎりは堅くて、ギュウギュウに詰まっている力強いおにぎりで、砲丸の玉を食べているような思いがしました。『受けるよりも与えるほうが幸い』というみことば通り、キヨ姉は与える人でした。ある時は新城教会の子ども会とともに車に乗って小学校のためにお祈りに行く途中、交差点でキヨさんに出会いました。キヨ姉がまだオートバイを乗っているときでした。彼女が私の車の窓ガラスをたたいて「あなたたちに上げたいものがある」と言ってバックの中をガサガサと探して、バックの一番下の方から「はい!」と、百円玉などの硬化をビニール袋に一杯詰めたものを下さいました。子どもたちは「ヤッター」と大喜びしたことを思い出します。キヨ姉は「受けるよりも与えるほうが幸い」というみことば生活の中で実践した方だと思いました。先ほどお読みした『金銀は私にはない。私にあるものを上げよう』というみ言葉をその時思い出しました。キヨ姉からよく頂いたなぁと思いつつ、自分のことを考えると私には何も上げるものがない。私は何を上げることができるだろうと考えてしまいました。「金銀は私にはない。」その通りだと思いました。その時「私にあるものを上げようナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」』を読んで気付かされました。私には何もない。金も能力も、知恵もない。しかしイエス・キリストの名があるんだと再確認させられました。
 使徒の働き三章はイエスさまが復活された後、五旬節の日に聖霊様が深く臨まれてからの出来事です。ペテロとヨハネが美しの門から宮に上って行く途中の出来事です。一人の男性が物乞いをしていたのです。この物乞いをしていた男性について使徒の四章二十二節に、

『この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。』

とあります。わざわざ年齢が記されています。「うまれつき足のきかない男だった」とありますが、四十年間歩いたことのない方だったのです。生活をするために、いつも人の世話になり、運んでもらわなくてはならない生活をしていた男性でした。自分の信仰も同じだと気づかされました。私はイエスキリストを信じています。祈ることも知っています。しかし悪魔は私たちの目の前に問題や病いなどを見せてきます。動けなくしてきます。自分の生活の事だけで精一杯。祈ることを自分のことだけ、自分の生活がよくなるように、また今自分の家族で困っていること、問題が解決するように、自分の仕事、商売がうまく行くようにと自分のことばかり考えさせます。。『受けるより与えるほうが幸い』というみことばは知っていても、実際は受けることばかりを求めていないでしょうか。イエス・キリストは、私たちのために最高の犠牲の愛で注いでくださいました。私たちの罪のためにイエス・キリストは十字架にかかられ、葬られ、三日目によみがえってくださいました。このイエス・キリストを信じる時救われ、永遠の命を与えて下さるのです。その神さまが『受けるよりも与えるほうが幸いである』とみことばで語っています。まさに十字架は犠牲。与える事です。私たちのために全てをすてて愛を与えて下さいました。今私たちは素晴らしい犠牲の中で救われ、礼拝を守る事ができています。私たちは神様から素晴らしい犠牲をいただいたのですから、与えるクリスチャンにならなくてはなりません。ペテロとヨハネが美しの門を通ったときに、足のきかない男が彼らに施しを求めました。その時『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」』とペテロは宣言しました。すると四十年間歩いたことのない人が立ち上がたのです。私たちのまわりには多くの病気で苦しんでいる方がいますが、そんな神様のみ業を見せていただきたいと願います。しかし私たちの心の中に悪魔が囁いてきます。「お前の信仰では無理ではないか」「そんな信仰生活をしていたら祈りは答えられない」などと、否定的な思いを入れてきます。おまえの祈りでは無理だと語ってくるのです。自分のようなものが祈っても、癒しや奇跡起こるはずがないと思わせてきます。イエスさまを見させずに、自分を見させてくるのです。ペテロとヨハネは始めからそんな力ある人ではありませんでした。ペテロはイエスさまが十字架にかかられる前に三度もいなんだ弟子でした。最後にはマルコ十六章七十節から七十二節では

『しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。』

とあるように、のろってしまったような弟子でした。しかしイエス・キリストが十字架にかかり、復活されてからヨハネ二十一章四節から十四節に、

『夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。』

のろいをかけて誓ったペテロは、イエスさまが復活した後も自分の糧のために、夜通しガリラヤ湖で魚を捕っていたとあります。夜通し網を下ろしたが全く魚は捕れず、ただ疲れが残た時、イエス・キリストは「食べる物がありませんね。」と言い、そのペテロたちに朝食を用意し、またなんの収穫もなかったペテロたちに「右側に網を下ろしなさい」と言われました。すると百五十三匹の大きな魚が捕れたとあります。裏切ったペテロにイエス・キリストは赦し、祝福を与え、今の一番必要なもの、夜通し働いたペテロたちに一番必要であった朝食を作って待っていてくれたのです。裏切ってしまったペテロに対して「お前を愛しているよ」とイエスさまは手を差し伸ばしました。今日私たちもイエスさまをは裏切らぎった一人です。色々な問題や病気になったときに、イエスさまに祈ることすら忘れてしまい、イエスさまに信頼すること、イエスさまに顔を向けることせずに、自分で頑張ってしまっています。祈っても無駄だと思います。しかしお分かりだと思いますが、再度イエスさまの十字架とその血潮によって罪が赦されることを覚えてください。イエスキリストと常に行動をともにしていたペテロ。イエスさまを裏切り、呪って誓ってしまったペテロでさえ赦し、祝福を与えてくださっています。私のためにもイエスさまが十字架で死に、三日目によみがえってくださった事を信じた時、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

あなたを最高に愛している。どんな人でも愛を与えてくださっているのです。覚えてください。私は、そしてあなたはイエスさまに最高に愛されています。そんな中で今私は何を神様にお返しできるかと思ったとき「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言われました。私は何も出来ないが、私にはいのちを与えてくださったイエスさまの名前がある。だから私には何も力がないけど、イエスさまのみ名をもっと大胆に使うなら祝福と勝利があると教えています。美しの門で座っていた男は、四十年間歩くことが出来ない人でした。四十才といえば一番働き盛りの時かも知れません。そんな人がただイエスキリストの名によって歩きなさい。と宣言した時、癒されたのです。ペテロとヨハネに「金銀は私にはない。」と言われたときに、その男性はがっかりしたかも知れません。金がもらえればなんと幸せかと思っていました。しかし根本的な幸せではありませんでした。「金銀は私にはない。でも、あるものを上げよう。ナザレのイエスの名によって歩きなさい」彼は立ち上がって賛美し、踊り上がって癒されたのです。彼は完全な癒しをいただきました。いくらお金を使っても癒しは比べることが出来ないと思います。どんなにかこの男性は嬉しかったと思います。私たちは色々な問題や病があります。そこに止まって動くことができない、しゃがみ込んで一歩も進むことが出来ない人などどんな状況下にいる人にも素晴らしいイエス・キリストの名前を与えてくださっています。もっと皆さんが大胆にイエス・キリストの名前を使い、イエス・キリストの名前で語っていくならば勝利があります。使徒三章十二節に、

『ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。』

とあります。ペテロはなぜそんなに驚いているのですか。私ペテロに力があるわけではない、ペテロに信仰があるわけではないと言っています。使徒三章十六節に、

『そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。』

とあります。イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスのみ名に救いがあり、力があると聖書は教えています。よく祈っていないから、奉仕していないから、何も取り柄のない者だから、等々惑わされ、全く進めない状態。病いや問題を見ながらお手上げ状態になっています。

『そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。』

四十年間動けなかった人が、歩けなかった人が完全に立ち上がり、くるぶしが強くなり、躍り上がりました。ヘブル十三章八節

『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』

とあるように、今も生きて働くイエスキリストを信じて、イエスの名によって宣言していきましょう。イエス・キリストの名前には力があります。あなたがこれから立ち止まってしまうのではなく、逃げてしまうのではなく、大胆にイエスさまの名前で祈りはじめてください。おどろくばかりの恵みが私たちに訪れます。今も働いていて悪魔はわかっています。このイエス・キリストの名前を大胆に宣言されたら、自分がどれだけ敗北するのか、どんなに大変なことかがわかっているために、イエス・キリストの名前を人々が大胆に使えないようにし、攻撃してきます。癒しなんて無理だ。問題の解決も無理だ。と問題ばかり見させます。イエスキリストの名が使えないようにしてくるのです。イエスさまを信じたけど、大変だ苦しいと立ち止まってしまいます。しかし今日、イエス・キリストの名前をあなたが大胆に使い始めたら、問題が動き始めます。問題が解決されます。病いも癒されます。私は実際に驚いた癒しを見たことがあります。だいぶ前になりますが韓国のチョー・ヨンギ先生の聖会で、私はメッセージテープを取る仕事をしていて舞台裏でメッセージを聞き、皆が祈られるのを見ていました。その時にチョー・ヨンギ先生が大胆に「聾唖者の方、いらっしゃってください。癒されます。」と言われました。またベッドに寝かされたまま来られている方もいました。私は会場に入るエレベーターでベッドのままでこられたた人を見ていました。私は「大変だなぁ。こんな人を連れてきて。」と否定的に思ってしまいました。しかしその集会で聖霊が働かれ、ベッドで連れてこられた方が起きあがって歩いたのをこの目で見ました。また聾唖者の方のためにも一人一人祈ります。といってろうあ者の方々を舞台に招き出しました。十人程いましたが、なんとイエスキリストの名によって祈りました。癒されように祈りました。するとどうでしょう九人が癒されました。後ろから先生が小さな声で「ハレルヤ」と話しかけたときに、今まで音を聞いたことがないのでビクッとされながら、「ハレルヤ」と声が出始めました。奇跡を目の前で見せていただきました。しかし知らないうちに祈ってもダメだと否定的になり、○○先生は癒しの賜物がある、素晴らしいと、すぐに神ではなく、人を見てしまいます。神様が素晴らしいのではなく、力があるのではなく人を見てしまいます。しかし使徒三章十六節にあるように、

『そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。』

イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのですというのです。あなたがイエスのみ名を使うときに、あなたとともにいて、あなたを愛し救ってくださった神は、あなたが宣言したときに働かれることを覚えてください。今日あなたに色々な問題があり、助けてと人に助けを求めるのではなく、大胆にイエス・キリストの名前であなた自身で祈ってみてください。背後に働く悪魔をイエス・キリストの名前で打ち砕く祈りをして下さい。恐れないで「この問題をイエスさまのみ名によって解決してください」とあなたが信仰を持って宣言する時に解決し、癒され、勝利していくのです。そして使徒四章四節に、

『しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。』

とありました。このひとりの人が癒されたことにより、その奇跡を見たことにより、イエス・キリストの名前によって宣言したことにより、男性だけで五千人の人がイエスさまを信じました。これは、まさにリバイバルです。私たちはリバイバルを望んでいます。この聖霊様の時代、一人ひとりが大胆になってイエス・キリストの名前を信じ、大胆に宣言したら、リバイバルが起きます。駄目だと悪魔は見せてきます。しかしあなたが大胆にイエス・キリストの名を宣言しはじめたら、暗やみが打ち砕かれ、人が救われ、すべての病いも癒されます。まずは駄目だと目の前の問題を見せてくる力が打ち砕かれるように祈りましょう。あなたがイエス・キリストの名前を呼び求めたら、学校や職場、家族の中に勝利が表されます。神のわざが始まります。この教会に素晴らしい祝福が始まります。イエスキリストの名前の権威を信じましょう。悪魔はその名前を使って欲しくないのですぐにその名前に蓋をし、一生懸命何時間も祈らせ、祈りが答えられるのは忍耐がいると思わせてきます。しかし今は聖霊の時代です。イエス・キリストのみ名には力があることを信じ、イエス・キリストの名前を大胆に語ってください。不思議なことが起こるはずです。家庭集会の証は、子どもたちはよく「健康であることを感謝します。以上です。」とか、「朝早く起きれるように祈ってください」とか祈りの課題のような証のようなものになっています。しかしイエス・キリストの名を宣言し始める時、子どもからお年寄りまでが、イエスキリストの名を宣言したときに、「こんなふうになってしまいました。不思議です。」と、イエスキリストの御名をほめたたえる証に変わると信じます。そして地域の人々が、学校の人が、職場の人が、家族がその奇跡を見て、イエスキリストを神さまと信じることでしょう。あなたがどんな信仰状態にあっても、あなたが信じているイエス・キリストの名によって大胆に宣言するならば、勝利があることを信じましょう。使徒の働き三章六節のみ言葉を今から皆さんで宣言して祈りましょう。神様が癒し解決してくださることを期待しましょう。神にとって不可能なことは一つもありません。

『「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」』

お祈りしましょう。


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