「クリスチャン・ライフ」
〜主を信じる者の人生〜

2007.5.6(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

旧約聖書 詩篇23篇
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。久しぶりに新城教会でみ言葉を語ることが出き感謝します。三週間ぶりとなります。
 先日、ある少年から、「順先生、最近教会に来ていないねぇ」と言われてドキッとしました。私は毎週礼拝は守っていますが、新城教会に来れていないだけですが。
 先週は連休でしたが、いかがお過ごしでしたか?教会にとっては大変忙しい週でした。三日から四日まで、「二十四時間連鎖PPH」が行われ、全国から集まった勇士たちが、特に今年行われる「ハワイリバイバルミッション」のために、熱く祈り、素晴らしい一時でした。
 また昨日は、インターナショナル部会が中心となり、新城文化会館の広場で、「インターナショナル・フェスティバル」が行われ、朝から夕方まで人が絶えることがありませんでした。多分、千名以上が集まりました。世界各国の出店があり、楽しかったです。新城市の「国際交流協会」とタイアップして行われたので、直接的な伝道はできませんでしたが、歌は全て主への賛美でした。色々な方法を通して、主が日本に、また新城に働いてくださっていることを、感謝したいと思います。

 今日は「詩篇二十三篇」から学びます。この詩は、主が私たちの人生を導いてくださるという内容です。それで、「クリスチャン・ライフ」というタイトルを付けました。日本語の副題は、「主を信じる者の人生」と付けました。
 詩篇二十三篇は、神様が「羊飼い」で、私たちは「羊」という設定で詩が読まれています。
 人は羊の性格に少し似ているようです。羊は羊飼いがいなくては生きることが出来ない、ある意味で弱い動物です。しかし羊は羊飼いがいることによって、安全に生きることが出来ます。
 詩篇は旧約聖書に含まれています。新約聖書に至っては、この羊飼いが「イエスさまご自身」であると教えています。
 ヨハネの福音書でイエスさまは、このように語られました。十章十四節に、

『わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。』(口語訳)

 イエスさまは「良い羊飼い」と記されています。聖書の神様は「良いお方」です。日本の神々は拝めば神となり、拝まなければ鬼にもなるという、「鬼にもなれば神にもなる」という存在です。
 しかし聖書の神様は「良いお方」と紹介されています。私たちは良い方と共に生きることができます。イエスさまは、「羊のためにいのちを捨てる」と語られました。
 詩篇二十三章は「主は私の羊飼い」とありますが、羊飼いをイエスさまに置き換えて読むと、クリスチャン人生の中身が見えてきます。私たちには素晴らしい人生が用意されています。一節に、

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』

 この言葉は大変短いですが、「乏しいことはない」という言葉には、深い意味があります。「乏しいことがない」とは、この地上ではなかなか言えません。
 例えば、美味しい食事が出されても、二回繰り返して食べるとあまり美味しいとは思えなくなるからです。
 私はある時、沖縄に行きました。沖縄の教会の方々は接待精神にに溢れており、私をあるお店のバイキングに連れて行ってくれました。お腹が空いていたので、私は払った分だけは取り返そうという思いで(私がお金を払ったわけではありませんが)真剣に食べました。絶対に元を取ってやろうと、高そうなものばかりを食べました。食べ終わって、「最高だった、乏しいことはなにもない」と、満足して帰ってきました。
 翌日、次の教会へ行くと、「先生。食事に行きましょう。良いところがありますよ…」と言って私を食事に連れて行ってくれました。すると何と、そこは昨日と同じ場所でした。バイキングの内容もまったく同じでした。前日は感動しましたが、二回目は食べる気がなくなってしまいました。申し訳ないと思いながらも、いやいや食べた覚えがあります。
 どんなに美味しい食べ物でも、二回食べたら乏しくなります。「私には乏しいことがない」とはいえません。
 私たちはやがて天国に行きますが、天国は乏しいことのない場所なはずです。天国では、何回食事をしても、「乏しいことがない」と思います。常に最高の満足です。

 イエスさまを信じると、やがて行く天国ではなく、この地上においても「乏しいことがない」すなわち、神の国の中を歩むことができるのです。それは、神の計画の中を歩むことができるという意味です。
 ゆえに、「乏しいことがない」とは、「神の国」を現しています。私たちがイエス・キリストを信じるならば、天国を待たずして、この地上においても、神の国の支配を体験できるのです。二節には、

『主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。』

 羊はストレスがあると、絶対に寝ころばないそうです。必ず起きあがって周囲を見回します。けれども、何のストレスもないと、寝ころぶようです。主は私たちを、「緑の牧場に伏させてくださる」とあります。イエスさまが私たちに願われていることは、ストレスを与えることではなく、伏させることです。そして主が私たちを、「義の道」に導いてくださると教えています。
 イエスさまが私たちを導こうとされる方向は、「義の道」と教えています。私たちが道に迷ったとき、道先案内人が現れ、目的地に導いてくれたら、今までのストレスはなくなります。
 人生で最も大きなストレスは、「人生、どこへ向かったらいいのか」です。しかしイエスさまは良い羊飼いとして、私たちを義の道に導いてくださるのです。
 クリスチャンになると、人生の中に神の計画がある事がわかります。エペソ二章十節に、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

とあります。神様は私たちの肉体だけを創られたのではなく、私たちが将来歩むべき、「時間、空間、出会い」も、すべてセットで良いものとして創られたのです。
 私たちは時々、神の計画から外れてしまう事があります。外れると良いことはありません。しかし、主は再度、義の道へと導いてくださいます。
 カーナビは、目的地を設定しておけば、多少道を間違えても、リルートして正しい道を何度でも提示します。イエスさまを信じることは、人生カーナビが設定されて歩むようなものです。主が設定された一番良いルートを進んでいけば、問題はないのです。時々道から外れると、聖霊様がリルートされ、色々な道を提示してくださいます。しかしリルートではなく、主が最初に選ばれた道を歩むことが一番素晴らしいのです。

 また時には、「本当にこの道で良いのだろうか?」と思う時もあります。しかし主はすべてをご存知で、私たちを導いてくださいます。時々私たちの思いと、主の思いが違うので、自分の思い通りに行くとは限りません。しかし最良の道が用意されているのです。
 今年の二十四時間PPHでは、ハワイ・リバイバル・ミッションのために祈りました。「ハワイでなぜ、ミッションをやるのか・・・」と言われる方がいます。
 私たちは時々、意味がわからない時がありますが、神様の道に行くと、そこには大きな計画と祝福があります。

 私は「ハワイ・リバイバル・ミッション」は主のみこころであると、確信しています。私には不思議な体験があります。
 今年の一月、神学生と共に県民の森に祈祷会に行きました。その中で、世界の国々のためにとりなして祈るように導かれました。
 「主があなたに思いを与え、ある国のために祈るようにと教えてくださいます。また、ある方には目の前に旗が見えるかも知れません。その国のために祈ってください」とお勧めました。
 私はそう言ったものの、なにかを感じるような者ではなく、不思議な体験はあまり多くはありません。
 しかしその夜は、一つの国旗のようなものが、私の脳裏に浮かびました。祈る前に、「隣の人に自分の感じたことを分かち合うように」と言いました。
 私もお隣の人に、自分の感じていることを分かち合いました。私の脳裏に浮かんだ旗は、今まで見たことがないものでした。それは、左上にユニオンジャック(イギリスの旗)、その下にはストライプの模様がありました。「これはどこの国の旗か・・・」と考えました。
 私は旗の模様を隣の人に説明し、「たぶん、オーストラリアかな」と言いました。そして、オーストラリアのために祈りました。

 私は翌二月にはハワイに行くことになっていました。それで、ハワイについて色々と調べていました。調べると、ハワイのホームページに旗が付いていました。どこの旗かな、と思いました。最初はあまり関心がありませんでしたが、私が県民の森で見た旗と似ていました。よく調べてみると、それは「ハワイの州旗」であることがわかりました。私はドキッとしました。ハワイのために祈るよう、主が私に超自然的な方法で導いてくださったからです。それで私は、主のみ名をあがめ、それからは本気でハワイのために祈るようになりました。
 皆さんもぜひ、ハワイのために祈ってください。ある意味で、今年ハワイでミッションが行われることには、重要な意味があると思います。ハワイから太平洋戦争が始まりました。太平洋戦争が終わって、今年で六十二年になります。終戦当時十八才の人は、今年八十才になります。ということは、もうしばらくすると、太平洋戦争に参戦したり、体験した人たちがこの地上からいなくなるからです。

 神の働きは、常に「回復」というテーマと共にあります。日本が世界平和を乱す悪しき行為を開始したその場所で、日本人主導で回復のために働くことは、霊的に大きな意味があります。いまはその全容がわからないかも知れません。しかし、日本人からアクションを起こすことはとても重要だと思います。太平洋戦争世代が消えゆくただ中にあって、主が回復のために祈るように、導かれているのだと思います。
 ある意味で、太平洋戦争から、世界平和のバランスが崩れたことは確かです。世界の歴史は一口では評価できませんが、日本の責任は大きいと思います。主が導かれるのは常に、「義の道」であり、正しい道です。ですから、主は罪があったら、必ずそれを取り除き、義の道に私たちを導きます。

 神様が私たちを正しい道に、愛を持って導いてくださると私は毎日のように体験しています。それを最前線で見ることが出来る職業なので、感謝しています。
 先週私は、静岡県にある、一つの教会で奉仕させていただきました。一人の方が喜んで私を迎えてくださいました。私はその人を見るとたいへん感動します。それには理由があります。

 数年前、新城教会に一人の婦人がやって来てこう言われました。「私のために祈ってください。私の家は毎年五月になると死人が出ます。去年も結婚したばかりのいとこが、祭りに行く途中、交通事故で亡くなりました。」
 いとこは結婚して子どもが生まれ、幸せの絶頂でしたが、突然、交通事故で死んでしまったのです。葬式が終わって、奥さんはあまりにも悲しくて、子どもを連れて突然、行方不明になったそうです。私は、「回復のために祈りましょう」と言って、そのようなことが頻繁に起こるのは、家系的束縛がある事を話して、共に祈りました。すると、家族は救われ、今ではご家族でこの教会に来られています。

 三年程前、静岡の教会に行きました。最後の聖会でその話しをしました。「毎年五月に人が死ぬようなことがあった」と証しました。そして、家系的束縛から解放する祈りのために、人々を招きました。
 その日、大勢の人が祈りを待っていました。私はその夜、聖会が終わってから、新城に帰る予定となっていましたので、最終の新幹線の時間を覚え、時間までに駅に行けるように調整しながら、皆のために祈っていました。
 その夜、祈りを求める人たちが多くいたので、時間に間に合うかどうか不安がありました。私は、もしも万が一、間に合わなかった場合、浜松止まりの最終新幹線で浜松まで行き、東海道線で豊橋まで行けば、新城に帰れるという非常用スケジュールを押さえていました。しかしそれを使いたいとは思いませんでした。
 帰る時刻が近づいても祈りが終わりませんでした。もうしょうがないから、途中で打ち切って帰ろうと思っていたときに、主が私の心に語られました。
 「お前、電車一本くらい遅れても、良いじゃないか。そのくらいサービスしろよ…」という思いでした。「二〜三時間犠牲を払えば良いだけだ・・・。」
 それで私は決断し、最終便の次の便、使いたくなかった浜松止まりにすることにしました。やっと祈り終えて、さあ帰ろうと思うと、一人の女性が後ろから出てきました。まだ少し時間があったので、話を聞きました。
 その女性が、「私は結婚していたのですが、主人を交通事故で失いました。私の嫁ぎ先では、毎年のように死人が出ていました。」と、どこかで聞いたことのある話を始めました。

 私は、「あなた、さっきの集会にいなかったの?私は、あなたと同じような人の話しをしたんだよ。私の教会に、同じような体験をした人がいるので…」と言うと、「そのとき、子どもを連れて外に出ていました。」と言われました。
 「あなたはどこに嫁いでいたのですか。」と聞きました。その答えを聞いて、私はたいへん驚きました。

 何と、彼女は、行方不明になっていた「本人」であったからです。私はビックリしました。そして神の導きを感じました。
 今回もその方と出会って話しました。彼女は、「あれから幸せになりました。」と言われました。「今は行方不明ではなく、連絡を取り合っています」と言われました。神は愛なる、良いお方だと感動しました。
 今回、その方にもう少し詳しく聞いてみました。「なぜ、この教会に来たのですか?」

 彼女は家から出て、色々な場所を点々としたそうです。そして、今住んでいる町に来たそうです。以前教会に行ったことがあったので、教会に行ってみたいと思っていたそうです。
 ある日、駅前に行くと、ギターを弾いて歌っている青年たちがいたそうです。耳を澄まして聞くと賛美歌でした。それで、その人たちに、「どこに教会があるのですか?」と聞いたそうです。
 すると、自分が住んでいる場所の近くだったので、その教会に行くようになったそうです。やがて、その教会に私が招かれ、彼女に奇跡が待っていました。まさに、それは、主が義の道に導かれたことです。神は超自然的な方法で、私たちを義の道に導かれます。

 またある時、自殺未遂をした男性が、奇跡的に救い出され、ここに連れてこられました。私はその方のために、「自殺は死の霊の働きで、絶対にそんなことをしてはいけない、神様は生きていくように願っておられる」と話しました。そして、色々な死にまつわる束縛が断ち切られるように祈りました。
 「なぜあなたは、死まで決断したのですか?」と聞くと、彼は、「女性にふられたのが原因です」と言いました。しかし、神が奇跡的にその人を助けられました。彼のために祈ってあげました。
 約一ヶ月後、私は東京に行きました。若者たちがたくさんいる集会でした。「男女関係の中に良からぬ関係があると、そこから悪しき力が入り込んで、失恋しただけで自殺未遂するはめになる事がある。そんな人が教会に来た」と話しました。そして、「きよく歩んでいきましょう。義の道を歩んでいきましょう。」と話しました。多くの若者たちが悔い改めて祈りました。
 集会を終えて帰ろうとしたときに、「ちょっと来てください。」と呼び止められました。私が全体のために祈ったときに、一人の女の子が突然倒れ、他の部屋でスタッフたちが祈っていました。何と、そこに倒れて運ばれてきた女の子は、「自殺未遂をした男性と付き合っていた娘」でした。
 私は驚きました。なぜここにいるのかと思いました。聞いてみると、彼女が落ち込んでいたので、クリスチャンの友だちが彼女を集会に連れてきたというのです。私の話に、彼女は、「自分の体験に似ている」と思っていたようです。
 神様は一人一人を罪の道ではなく、義の道に導かれます。
 詩篇二十三章四節に、

『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』

とあります。時々私たちの人生には、死の陰の谷を通過しなければならないような時があります。
 詩篇は、ダビデがユダの荒野を見ながら作りました。現場に行くと、その状況がよくわかります。荒野には、死の陰の谷といわれるような、深い渓谷があります。時に、羊飼いは羊を連れて谷を通過します。「死の陰の谷」という怖い名前が付いていますが、谷には水が流れています。谷は水飲み場に適した場所です。そこには多くの小動物や、あらゆる命あるものが降りて来るのです。
 しかし一方で谷は、猛獣たちの集まる場所でもあります。「死の陰の谷」と呼ばれるように、切り立った岩肌の両サイドには、猛獣たちが潜んでいて、水を飲みに来る羊や小動物を狙っています。そこは羊たちが通過するとき、一番危険の場所でした。

 人生も、同じかもしれません。命の水を飲もうとする時、敵が私たちに襲いかかってきます。誰かが救われる瞬間は、霊的に大きな戦いです。人々が救われないように、教会に人々が行かないように、悪魔は真剣に働きます。
 しかし主が私たちと共におられるときに、主の杖は「慰め」とあります。慰めというと、杖で頭をなでられるかのようですが、英語の聖書では「守り」という表現です。「あなたの鞭とあなたの杖、それが私の守りです」となっています。
 羊飼いたちが持っている杖は、外敵から羊を守り、敵を打ち破るためのものです。イエスさまがともにおられたら、死の陰の谷に差し掛かったとしても、主はご自分の杖で敵を追い払って水を飲ませてくださるのです。
 第一ペテロ五章八節に、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

とあります。ペテロの手紙は、クリスチャンに対して書かれている手紙です。日本の多くの教会では、悪魔について語られません。神についてはよく語りますが、敵についてはほとんど語りません。悪魔・悪霊どもなどは存在していないかのように、「そんなことを気にしては駄目だ」と言い、「気にするとよけいに悪魔が動く」と教えます。「霊的戦いは寝ているライオンのしっぽを踏むようなもの」と考えている牧師やクリスチャンが多いのです。しかし聖書ははっきりと、クリスチャンたちに、『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』と警告しています。人生は、「霊的戦いのただ中にある」ことを知らなければ、クリスチャンであっても倒れます。日本中の教会を廻って感じることは、教会が苦しんでいる姿です。特に、クリスチャン二世がなかなか信仰を継承しません。私たちの教会では、クリスチャン一世、二世、三世、四世までが集っています。しかし一般では、なかなか二世はクリスチャンにならないのです。なぜ、なかなか信仰継承がなされないかというと、初代クリスチャンがあまりにも苦しんでいるからです。イエスさまを信じたら幸せになっていく姿を二世が見たならば、「私もイエスさまを信じていかなければ」と思います。しかしクリスチャンになった親たちが苦しいだけだと、二世のクリスチャンたちは引きはじめ、信仰から離れていきます。三代目になると、何事もなかったかのように、元に戻ってしまいます。
 その原因は、霊的戦いについて教えないからです。「霊的戦いは必要ありません。悪魔はいません。悪魔はいたとしても、ノミのようなもので全く力がない。そんなこと気にしないでください」と話します。
 それは大きな間違いです。私は牧師をしていますが、牧師には大きな責任があると思います。もしも、私が、悪魔・悪霊どもが働いているのにも関わらず、「悪魔・悪霊は恐ろしくない。気にしなくても良い、または、そんなのはいないから…」と話せば、「そうか。そういうものだ…」と人々は考えます。
 しかし、現実に悪魔が働いていたらどうでしょうか。皆やられて、倒されます。だから、牧師や教会が霊的にどのような立場を取るかによって、教会に来られる人々の人生が変わります。大きな責任が課せられています。私は、身を低くして、主と教会に仕えていかなければならないと感じています。

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

と警告しています。
 しかし主がともにおられるならば、主が私たちを守ってくださいます。社会の中には多くの問題がありますが、これらの根源は霊的な問題です。けれどもイエス・キリストを信じる者たちは敵を知り、神を知ることによって、無駄な悩みや苦しみから守られるのです。第一ペテロ五章九章に続きます。

『堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

 苦しみが悪魔によって生じると教えています。だから、「立ち向かわなければならない」と教えています。しかし、主が私たちとともにおられるから恐れるなと教えています。
 ヤコブ四章六節から七節に、

『しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

とあります。私たちの信仰には二つの側面があります。一つは「神に従い、神に近づくこと」です。しかしそれだけに終始すると、最終的に神が敵となりやすいのです。
 しかし聖書は神に従うと共に「悪魔に立ち向かいなさい」とあります。色々な問題を持ち込むのは、神ではなく悪魔です。神様は良い羊飼い、良いお方なので、決して私たちに試練を与えたり、問題を持ってくる存在ではなく、悪魔が私たちに苦しみを持ってくるのです。しかし立ち向かったら、悪魔は逃げ去ると教えています。

『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』

とあります。
 「高ぶる」「へりくだる」とはどういう意味でしょうか。「高ぶる」とは、「私は偉い」と威張っていることのように思います。そして「へりくだる」とは、みんなの前で頭を下げて「謙遜さ」のように思います。
 しかし、ここで語られている「高ぶる」こと「へりくだる」ことは、「従うこと」と「立ち向かうこと」に対応しています。「高ぶり」とは、「神に従わない」事であり、それは「悪魔に立ち向かわないこと」なのです。悪魔に立ち向かわないこと、それがすなわち、「高ぶり」なのです。なぜなら、悪魔は最高に高ぶった存在だからです。「へりくだる」ことは、「立ち向かう」ことです。
 ですから、私たちは神に従い、悪魔に立ち向かう、すなわち、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えるに対応します。「へりくだることは、悪魔に立ち向かうこと」なのです。
 詩篇二十三篇五節に、

『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』

 神は、敵の前で食事を整え、油を注いでくださるお方です。今、多くの方が教会に来られます。来られるきっかけは、問題がどうにかならないかと教会に相談に来られます。問題がなくなるように、教会は日々、色々なテーマで執り成し、問題の背後で働く悪魔が砕かれることを祈ります。そのような中、奇跡的な神のみ業を見させていただいています。

 しかし、イエスさまの問題解決の方法は、悪魔が新興宗教などを通して働く方法とは、全く違います。このことについて、よく知らなければなりません。
 時々私たちは、熱が高くなったり、どこかが痛くなると薬を飲みます。先日、私はひざが痛くなって病院に行きました。すると医者がひざの使い過ぎだと言いました。私は立っている仕事が多いので、今後に支障があっては行けないと思い、病院に行きました。痛み止めの注射をしてもらうとすぐに直るので、痛み止めの注射をしてもらえるように頼んでみました。
 すると医者が「あなたは今日一日、絶対安静に出来ますか」と言われました。私は忙しくてその日、やることがあると言いました。すると「それでは痛み止めは打てない」というのです。「そんなことを言わないで打ってください」と言うと、「いや打てません」というのです。「なぜ?」と聞きました。注射をすると痛みが全くなくなるので、問題がなくなったかのように勘違いして動いてしまうので、薬が切れた時にもっと痛くなる。「直るためには安静にするしかない」と言われました。それで私は注射ではなく、薬をもらって帰ってきました。少しずつ養生しながら動いているうちに、ひざは良くなりました。

 私たちは時々、熱があったら解熱剤、痛みがあったら鎮痛剤というような方法で、問題解決を願います。「イエスさま、今こういう痛みがあるから、この痛みがなくなりますように。」「イエスさまこんな問題があるので、その問題が消えますように」と目の上のたんこぶが取り去られるように願います。悪魔は、新興宗教などを通して、目の前の問題がなくなることを売りにしています。
 しかしそれは一時は良いのですが、解熱剤や鎮痛剤のようなもので、薬が切れたときには最悪になっていることが多いのです。
 しかしイエスさまの働きは違います。その根本から、悪いところを治療してくれるのがイエスさまです。時には私たちがいくら祈っても、目の前の敵が去らないような時もあるかも知れません。今、目の前に敵がいて困っているかも知れません。敵とは現実的な存在でもあり、また、悲しみなども敵となります。大きな悲しみがあると、食事が出来なくなります。
 私の所には、よく色々問題で電話があります。食事の最中に、悪い知らせを聞いたりします。そんな時、せっかく美味しく食べていた食事が、食べられなくなってしまうことがあります。

 何年か前、私と家内が韓国に行っていると、携帯に電話がありました。それは、我が家で十数年飼っていた犬が死んだという知らせでした。その知らせを聞いたとき、家内は元気をなくしてしまいました。一緒に空港まで連れて行ってくれた韓国の方も、「私の家にも最近同じ事がありました」と慰めてくれました。
 日本に到着して家に帰ると、家族四人皆、暗くなっていました。悲しみがあるとお腹が空かないのです。食事があっても誰も手を付けようとしません。私だけが食べ出すと、「あんたよく食べれるねぇ…」と、皆から冷たい視線を浴びました。悲しみがあるだけで、食べられなくなります。
 しかしイエスさまの問題解決方法は、「敵の前で食事を整えてくださる」とあります。問題があったり、色々な敵がいると、普通では食欲がなくなります。しかしそのような中にあっても、力づけてくださるというのです。
 2007年に対するメッセージの中で明牧師は、この「食事」というのは、ただの食事ではなく「宴会」だと語っていました。神様は敵の面前で「宴会」を催すほどに、力づけてくださるのです。普通は問題があったら宴会どころではないと思いますが、敵がいても、宴会が出来るよう力を与えてくださるのです。
 またそれだけではなく、「頭に油を注いでくださる」とあります。イスラエルでは、王様になるときに、預言者が権威の象徴として油を注いで、王を任命しました。頭に油が注がれるとは権威を現しています。
 神様の働きは、目の前に敵がいたとしても、そのただ中で食事が出来るようになり、油注がれるとは、今まで敵の下で苦しんでいたのが、今度は聖霊の油そそぎによって、徐々にそのポジションが上がり、敵を見下げるほどの権威をあなたに授けるということです。

 すぐに痛みや熱がなくなることはないかも知れませんが、根本的なところに勝利が来て、やがて敵は小さくなって、何の影響もなくなるようにしてくださいます。そのような権威をあなたに授けてくださると聖書は教えています。

 第一ペテロ五章八節に、『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』と読むと、恐ろしくなります。
 しかし、士師記十四章のサムソンの人生を通して、やがて私たちの新約の時代に現される神の権威が預言的に現されています。

 サムソンが結婚披露宴に行く途中、ぶどう園のところで一匹の若い獅子が吠えたけりながら向かって来ました。サムソンは何の武器も持っていませんでした。その時、彼に主の霊が激しく下り、彼はまるで子ヤギを引き裂くかのように、獅子を引き裂いてしまいました。
 何と、普通では絶対にやられる敵が襲いかかったのにもかかわらず、彼は丸腰で、神の霊が注がれただけで、子ヤギ引き裂くかのごとく、やつけたのです。そして獅子を道ばたに放り投げました。
 しばらくして、サムソンが帰ってくると、その獅子の死体の上に蜜蜂が集って蜜が出来ていたのです。彼はそれをかき集めて、自分で食べ、他の人たちにもあげたというのです。それがどこから来たのか、誰も知らなかったというのです。
 そんなことを体験したサムソンは、自分の結婚披露宴の中で一つの謎かけをしました。それは、「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。これ何だ!?もしもこの謎が解けたら、晴れ着三十着やるぞ!」と言いました。
 そこにいた人たちにはわかりませんでした。この答えは、「サムソンが倒したライオン」でした。ライオンは人を食い尽くす敵ですが、普通は食べられてしまうのが、何と、そのような者から食べ物が出たというのです。「強いものから甘い物が出た」と言っています。

 これはクリスチャンに与えられる権威です。詩篇二十三篇では、主が羊飼いで私たちを守ってくださるという視点です。しかし新約の時代になると、今度は私たちは神様に従うと同時に更に権威が与えられて、悪魔に立ち向かい、食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出るのです。今までの敵から食物が出るほどに、大きな勝利を与えてくださるのです。

 先日私の家に、甥っ子の一人来て、何か食べさせてと言いました。その時にちょうど毛ガニがありました。それを出すと彼はすごく喜んでいました。「すごい、順先生どうしたの?この毛ガニ?買ってきたの…?」と言うのです。
 私は、「これは元悪霊だったけど、今は毛ガニになった!」と言いました。すると「何言ってるの?」と言われました。再度、「これは元は悪霊だったのが、毛ガニになったんだよ」と言いました。彼はキョトンとした顔をしていました。
 なぜなら、私はある方のための霊的解放を祈りました。すると、その方が解放され、喜んで私に毛ガニを送ってくださったからです。悪霊が倒されたことにより、私には毛ガニとなったのです。食らうものから食べ物が出るのです。私はいつも実行しているかのようです。そのような勝利の人生を、あなたに上げると聖書は約束しています。

『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』
『私の杯は、あふれています。』

 「杯」とは、私たちの人生を現していると注解書に記されていました。これは、人生の豊かさを現しています。イエス・キリストを信じる人生、新約時代を生きる私たちには、何と、

『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。』

 私たちが幸せを追い求めるのではなく、幸せが私たちを追ってきて、幸せから逃げるのが大変な状況です。『私は、いつまでも、主の家に住まいましょう』とあります。
 私たちはいつまでも神の国の中に歩むことが出来る、クリスチャン・ライフはそのような素晴らしい勝利の人生です。
 主を、「私たちの牧者」として、従っていきましょう。そして、悪魔に立ち向かっていきましょう。義の道に主が導いてくださるように。
 サムソンのように、今まで私たちを食らうものから、食べ物が出るような人生を送りたいと願います。お祈りします。


[バックナンバー]