言葉を取り戻せ!

2007.5.13(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

新約聖書 使徒の働き 2章1節〜4節
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。このようにして、礼拝で奉仕できることを感謝します。今日は聖霊が降ったときに、『御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした』という箇所から、お話ししたいと思います。
 今日は母の日です。母がいないと私たちはこの世に生まれてくることはありませんでした。私は七人兄弟の長男として生まれました。私の母は大勢の子どもたちを育てましたので、愛情を持って手塩を掛けて育てたというよりも、いのちに別状がある領域を優先して育ててくれました。ですから私はどこでも寝ることができ、また、何でも食べることができます。でも、ひとりっ子がちょっぴりうらやましかったです。クリスマスケーキも、いつも鋭い鉈のようなケーキばかり食べていました。ひとりっ子だったら、もっとこのケーキの角度が広がるのだろうな、と思っていました。しかしそのような環境の中にも、神の計画がありました。このような仕事をしていると、眠る場所や食べる物がよく変わります。でも、全く苦になりません。食べる速度は人一倍早く、一瞬にしてサイズを見分けて大きいほうに手が伸びるという変な特技があります。現在、子どもたちも皆、外に出ていますので、家内とふたりで生活をしています。それにも関わらず、大きいほうを選んでしまうという、悲しい現実があります。「あなたはなぜそんなに慌ててるの?私しかいないのに…」と言われます。なかなか小さな頃の癖は抜けないものです。しかし神様はすべてのことに目的を持って一人ひとりを育てて下さいます。

 さて、今週は十九日に、「ヘブンリー・キングダム」のコンサートがあります。ぜひ、お出掛けください。
 先日の国際フェスティバルで、ヘブンリー・キングダムの賛美を聞きましたが、大変上手くなりました。今回はカズ加藤夫妻をゲストに行われます。グレードの高いコンサートだと思います。それも千円で聞くことが出来ます。ぜひこの機会に、一人でも多くのお友達をお誘いください。また、ぜひ祈ってください。開演が二時からで普段ではなかなか来ることが出来ない、主婦の方々などが出席しやすい設定になっています。

 また今週私は、スペインへ出かけます。スペインのテレビ局「ENLACE」が私たちを招いてくれました。皆さんの祈りを必要としていますので、ぜひお祈りください。今週の土曜日と日曜日の二日間、夜七時から十一時まで番組があります。このテレビ局は、広いサービスエリアを持っています。スペインはヨーロッパの西の端に位置しますが、首都マドリードでの集会です。不思議な導きがあるので、ぜひ祈ってください。テレビのサービスエリアは、スペイン全土だけでなく、ヨーロッパ全土、北アフリカやアメリカ大陸の一部にまで届きます。私のメッセージが広い範囲に流れるので、責任重大です。失敗しないように祈ってください。霊的戦いのセミナーのような集会です。会場にはスペインの牧師たちやリーダーたちが約四百名集まるようです。また集会後、霊的戦いについての質疑応答の時間もあります。私の通訳をフェルナンド先生がします。今日は「言葉を取り戻せ!」というタイトルでみ言葉を学びますが、主が言葉を取り戻し、言葉が通じるようにぜひ祈ってください。

 神の計画は不思議です。神はすべてのことを働かせて、益としてくださいます。色々なことが人生にありますが、それらはすべて総合して、勝ち取られていきます。
 新城教会に二十年ほど前からインターナショナルの働きが始まり、その中に一組のペルー人カップルが来ていました。彼らはやがてペルーに帰国しました。日本では子供が二人いましたが、ペルーに帰ってからもう一人、子供が生まれました。
 しかし生まれた子供が大きな病気でした。病気の治療のためには、高い薬を使わなくてはなりませんでした。その為の薬はペルーにはなく、スペインから輸入しなければなりませんでした。ペルーではお金がかかるということで、ペルー政府が「あなたたちはペルーで治療するのは大変なので、スペインに行って治療を受けなさい」と言いました。それで、彼らはスペインへ一家で移住しました。
 彼はスペインでも教会に行くようになり、やがて彼は副牧師のような立場になり、伝道者となってヨーロッパ各地で伝道するようになりました。
 そのような中、去年、新城教会のインターナショナル集会に、スペイン教会の主任牧師を連れてきました。集会が終わってから、私はスペイン人の牧師たちと交わりをしました。そんな中、この教会が霊的戦いに導かれた事を少し話しました。
 彼らがスペインに帰り、「ENLACE/エンラセ」というテレビ局で、日本宣教の報告の証をしたそうです。そこで彼らは、新城教会についても話しました。するとそのテレビ局が新城教会に興味を持ち、「スペインにも霊的戦いが必要だ」と、新城教会のホームページをチェックしました。それで、新城教会の滝元順を招こうと、私と家内、フェルナンド先生夫妻をスペインに招いてくれました。今週、そのためにスペインへ行きます。
 一つの事柄が主の計画を実現し、さらに次のことが次のことを呼び…というように拡大しています。今回の働きを通して、ヨーロッパにも霊的戦いが広がるかも知れません。

 今年一月に、私は家族でグアムへ遊びに行きました。グアムはかつてスペインの領地でした。島内にはスペインの砦があり、そこに行ったとき、日本とスペインとの間には悪しきつながりがあるので、それらが打ち砕かれるようにと祈りました。
 祈り終えると、家内が私にこう言いました。「祈っていたら、今度はスペインに行くような気がする」
 私は、「そんな気はしない、そんなことはあり得ない」と答えました。
 休みが終わってグアムから帰ってくると、フェルナンド先生が一枚の紙きれを持って来て、「順先生。スペインから招きが来ているんけど、行きますか?」と言うのです。私は驚きましたが、主がすべてを整えておられると信じました。

 弟子たちの上に聖霊が注がれたときに、「御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話し出した」とあります。話した内容は、イエスさまの福音についてでした。
 エルサレムには色々な国の人々が住んでいましたが、なかなか言葉の壁があって話が通じませんでした。弟子たちもガリラヤ出身の田舎者ばかりで、外国語が話せるような人はいませんでした。
 しかし聖霊が注がれたときに、彼らは聖霊に満たされ、他国の言葉で語りはじめました。他言語を勉強していなかったのに、聖霊によって外国語で話しはじめ、福音を語ったのです。外国人たちはその話を聞いて、福音をキャッチしました。
 「その日、三千人が弟子として加えられた」と聖書は記録しています。そこで言葉が取り戻されたという奇跡が起こりました。

 私も外国語を勉強していないので話せませんが、新城教会には優秀な通訳者たちがいることを感謝しています。各国の通訳者が揃っています。言葉には強い力が隠されています。言葉によって人々が救われるのです。
 ゆえに、言葉について正しい理解を持たなければなりません。はじめに神はことばによって天地宇宙を創られました。創世記一章一節から三節に、

『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』

 神が「光あれ」とことばを発せられました。その時、光ができたと記されています。すべての物が神によって創造されましたが、聖書は「ことばによって」創造されたと告げています。創世記一章は、聖書の最初のページに出てきます。そして新約聖書では、「光あれ」と仰せられたのが誰であるのかについて記しています。コロサイ人への手紙一章十六節に、

『なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。』

 「御子」とはイエスさまのことです。「光あれ」と、天地創造の時に声を発せられたのは、まさしく、イエスさまでした。イエスさまとは、神が肉体をとってこの地上に来られたお方です。イエスさまは神そのものですが、まだ肉体をとってこの地上に来られる前、天地宇宙の始まりの時にもおられました。
 神が声を出されたときに、万物は創造され、また私たちも創られたと教えています。
 日本人に「創造主なる神を信じますか?」と問いかけると、「信じます」と答える人は少ないようです。日本人は神仏を礼拝したりして、宗教心は厚いのですが、創造主なる神を信じません。けれども日本人は占い好きです。占いよる言葉は受け入れるようです。ヨーロッパから見ると、それは不思議なことらしいのです。占いは、神々の存在があってこそ成り立つのにもかかわらず、なぜ日本人は神を信じないで占いを信じるのだろうかと、疑問のようです。その理由は、後に述べることにします。

 何れにしても、日本人は創造主なる神を信じていません。しかし天地宇宙の原因となった方がおられるので、私たちは存在しているのです。もしも日本人が信じているように、進化によって人間ができたとしたら、すべてが偶然の産物です。あなたも偶然、私も偶然、これから起こってくることも、すべて偶然の組み合わせです。
 しかし最初に創造者なる、原因となる方がおられたならばどうでしょうか。最初に意思・計画があったはずです。進化論はすべてが偶然の産物としますから、最初に置かれている要素は「無秩序」です。そこには何の意志も計画もありません。しかし最初に創造の原因があるならば、最初に意思が働いているはずですから、私たちにも計画があるのです。神を認めない人々にとっては、人生で起こるすべての事象は空しい偶然の産物ですが、神を信じる者にとっては、すべて神の計画の中で動くのです。
 ですから、クリスチャン生活はエキサイティングです。次に何が起こるのか楽しみです。しかし普通は、明日は何が起こるのだろうかと不安になります。「明日も偶然の中で、どんな悪いことが起こるのだろうか」と考えます。
 しかし私たちクリスチャンは違います。神のプランが今日も明日も未来にもあるからです。神の創造された計画の中を進んでいけば大丈夫、という確信があります。

 ヨハネ一章一節から五節にも、創造主イエスさまについて記されています。これは新約聖書の創世記とも言われる箇所です。ここでは、イエスさまを「ことば」と紹介しています。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』

 「ことば」は、創世記で「光りあれ」と仰せられた神です。すなわち、「ことば」は「イエスさま」です。ということは、人類に言葉がありますが、言葉とは相当特殊な存在であると思われます。なぜならば、神がことばを発したことによって、万物が創られたのなら、私たちが普段使っている言葉には、相当の力と秘密が隠されているはずです。何気なく私たちは言葉を発していますが、言葉は、神とともにある力なのです。そもそも、救われるためには何が必要でしょうか。それはローマ書十章八節に、

『では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。』

 聖書は、「ことば」が「言語」に置き換えられているがゆえに、私たちに伝達されます。九節から十三節に、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。』

 私たちが救われるための条件は、「心で信じて義と認められ、口に告白して救われる」とあります。今日、初めて教会に来られた方もおられるかも知れません。初めて教会に来て、聖書の分厚さとこの細かい字を見て、うんざりしたかも知れません。もしも、「聖書を全部知らなければ救われることはできません、これから長い修行が始まるのです」と言われたら、誰が救われるのでしょうか。救いは、万民のものでなければなりません。子どもからお年寄りまで、簡単に救われないのならば、救いとは呼べません。修行して何かを勝ち取るのは、救いではありません。救いとは、溺れた人が引き上げられるようなものです。

 この救いがどこに隠されているのかというと、「口の告白」によって救われるというのです。信じる最少量を突き詰めていくと、それは「口の告白」に当たります。ちょっぴりでも信じるというか、期待感がなかったら告白はできないのです。教会に来て、イエスさまが本当の神かどうかわからなくても、期待して告白してみて下さい。「イエスさまを信じます」と、告白するならば救われるのです。そして、「救い」とは、「暗やみから光に、サタンの支配下から神の支配下に移される」ことです。

 時々、「神がいるなら、なぜ地球はこんなに混沌としているのですか」と言われます。その理由は、地球は悪魔の支配下にあるからです。悪魔が所有しているのです。もともと人間は神によって創られましたが、最初の人間アダムとエバが罪を犯したことによって、人類は悪魔の手に渡りました。地球はある意味において、悪魔に所有権があります(もちろん、根本的にはすべては神のものですが)。ですから、人類の歴史を見ても、個人の生活を見ても、あまり良いことはなく、次から次へと悪いことが連続して起こっています。今後も、地球の未来はあまり明るくありません。もっともっと混沌としていくのです。

 今回私はスペインに行きますが、もしもスペインがなかったら、かなり世界の歴史は変わっていたと思います。実は、スペインの歴史を見ると、ある時代は「日の沈まない国」と呼ばれていました。「大航海時代」、スペインは全世界に出て行き、世界の多くの国々を所有しました。彼らは日本までも来ました。どんな方法で来たかというと、はじめはローマ・カトリックの宣教師たちを送り、国を教化し、次に植民地政策を持ったポルトガルやスペインが武力と共に入ってきたのです。
 フィリピンという国名は、「フィリップ」というスペイン王の名前からとられました。スペインは日本にも来ましたが、豊臣秀吉が伴天連追放令を出し、ポルトガルやスペインを追放しました。
 一五四九年からローマ・カトリック宣教が始まりましたが、同じ年にブラジルでも宣教が始まりました。その後ブラジルはどうなったかというと、ポルトガルに占領され、国全体がポルトガル語になりました。日本にも同じプランニングシートを使って入ってきましたが、日本は植民地化されませんでした。もしかしたら、歴史のコマが少しでも狂っていたら、私たちは今頃、ポルトガル語かスペイン語を話しているかも知れません。
 世界の歴史を見てみると、あまり喜ばしい歴史はありません。常に血生臭い、人々が不幸になることの連続です。なぜならば、その背後に暗やみの力である悪魔が働いているからです。人類が悪魔に所有されているがゆえに、悪魔の思いどうりの人生になってしまうのです。

 人間はやがて、この地上から出て行かなければなりません。もしも、悪魔に所有されたままで出て行くなら、死後、悪魔の国に属さなければなりません。もしも生まれながらの人間として死ぬならば、永遠の滅びに行くと聖書は教えています。
 死ぬことを考えて楽しみに思う人はいません。誰にでも恐れがあります。死んだら恐いことが待っているのではと思うのです。人間は神から創られているので、予知能力があります。死後の世界をある程度キャッチしています。もしも神を信じなければ、永遠の滅びであると聖書は教えています。

 しかし、イエス・キリストを信じるならば、何と、私たちは神の国にはいることができるのです。今日は夕方から、岡本家の記念会がありますが、私たちには希望があります。教会で一緒に信仰を守った方々が先に天に帰って行きました。しかしやがて私たちは、神の国・天国において、再会できる希望を持っています。
 そして、そのきっかけとなるのが、「口の告白」です。「イエスさまを信じます」と告白したら救われるとあります。「イエスさまが私の神です」と告白したら、救われます。
 誰が告白するのかというと、「私たち自身」です。その瞬間、暗やみから光に、サタンの支配下から神の支配下に移されるのです。それも、ただ「口の告白」によって起こるのです。

 ということは、私たちが何気なく使っている言葉によって、自分自身の生と死が支配されるとしたら、言葉には相当強力な要素があるのです。神は天地宇宙を「ことば」によって創り、また人類に「言葉」を与えた背景に、大きな神の計画と力が関わっているはずです。

 現実に、言葉によって慰められたり、また逆に、傷付けられ苦しんでいる人もいます。平手で叩かれなくても、言葉で叩いたらその人は深く痛みます。今日は母の日ですが、お母さんが子どもたちを、「あんた、バカみたい。最低、最悪…」といつも罵りながら育てたらどうでしょうか。子どもは、「俺はバカだ」と思い込んでしまいます。多少バカな要素があっても、「あんたは素晴らしいねぇ。よくできたものだ…」と、励ましの言葉とともに育てたらどうでしょうか。心は喜びに満たされて、順調に育っていくと思います。一般的にも言葉で傷を受ける事が多いのです。言葉の中には、人を傷付ける力があり、癒す力もあります。
 教会は神様のことばを語ります。神様は創造的なことばを放たれているので、神のことばに触れると、回復を体験します。今日も神のことばを紹介していますので、心の崩れた部分が回復されると信じます。

 最近、『バベル』という映画が話題になっています。日本でも上映され、場面中、ライトがチカチカして気分が悪くなる人が出て、注意が促されています。私はその映画を見ていませんが、聖書の創世記十一章の「バベルの塔」を題材に、ストーリーが展開しているようです。映画は世界中には色々な文化や習慣があるが、問題は同じだと主張しているそうです。
 バベルの塔については、創世記十一章一節から九節に記されています。一節に、

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。』

とあります。神様が人類を創造し、人類に言葉を与えました。その言葉は、多くの言葉や方言ではなく、「一つの言語」でした。人々は一つのことばでコミュニケーションしていたと記されています。
 しかしある時、その言葉に変化が起こり、多言語になってしまいました。言語数について扱っているホームページで調べましたら、今世界には「六千九百十二言語」あるとレポートされていました。それは一つの国に約三十数個の言葉がある計算です。
 日本国内には多少方言はありますが、ほとんど同じ言語として通用します。しかし同じ国の中でも全く違う言語を持つ国も多くあります。

 この地域は、三河弁を話していますが、三河弁は日本の標準語です。歴史的に見ても本当です。なぜなら、徳川家康が江戸城を作りましたが、家康は岡崎の人でした。彼らは三河弁を話し、江戸城の公用語は三河弁でした。しかし家康が参勤交代で地方の大名を連れて来たことにより、色々な地方の言葉が混ざり、純粋な標準語である三河弁が崩れ、今の東京弁となったようです。
 何れにしても日本語は、汎用性の低い言葉で、日本から一歩出ると通じません。残念に思います。私は色々な国で奉仕するときに、日本語しかできないので、英語やスペイン語が出来たらいいのになあ、と思います。そうしたら、より多くの人たちとコミュニケーションできるからです。
 けれども日本語は都合の良い言葉だと思います。なぜならば、日本語は動詞を最後に語れば良いからです。英語などは主語の次にすぐに動詞がきます。それで目的がはっきりしてしまいます。日本語で、「明日教会に一緒に行かない?」と誘われたら、「どうしようか・・・」とまず考えます。そして、「私は教会に…」と言葉を発してから、その人の顔色を伺い、行くか行かないかを決めて、最後に「行きません」とか、「行きます」と結論を出せば良いのです。しかし、英語では、「I go to church.」と、「私は行きます」とはじめから結論を言って目的語を語ります。そんな語順でよくコミュニケーションできると思いますが、あちらもそう思っているようです。
 しかし言葉が多くなったことは、本来、神のみこころではないのです。「全地は一つのことば、一つの話しことばであった。」とあります。言語が多くなった理由は、後半を読むとわかります。創世記十一章一節から九節に、

『そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。』

 本来人類は一つの言葉、一つの民として、同じことばを使ってコミュニケーションしていました。
 ある時、人々が集まって町を建て、塔を建て、名を上げようというプランをたてました。その時、神が、降りてきて人々が互いにコミュニケーションをできなくし、全人類を散らされたと記しています。

 人類は散らされながら移動して行きました。これは人類学的にも、民俗学的にも事実です。日本から、西に行けば行くほど、歴史が古いです。日本より西にある国は韓国ですが、韓国の方が歴史が古いです。もっと西は、中国、そしてインド、そして次はメソポタミアです。メソポタミア文明は、世界最古の文明です。それはバベルの塔の付近から人類が移動した証拠です。

 バベルの塔で人々が町を作り、塔を建て自分たちの名を上げようとし始めたときに、神が言葉をバラバラにし、人々を散らしたというのです。
 そこには何らかの理由があるはずです。なぜ神がこんな事をされたのかと思います。考古学で「バベルの塔」について調べると、単に高いところから景色を眺める塔ではなかったことがわかっています。ブリューゲルが、「バベルの塔」という絵を描きました。『バベル』も、彼の描いた絵から始まります。

 案外、私たちは、昔の人たちは頭が悪く、現代の人々は頭が良いと考えますが、これは現代人のおごりです。人類は神によって創られたので、昔の人も、現代の人も脳の量は同じです。だから昔も今も、同じように考え、判断し生活していました。現代人が、「これが科学の粋を集めたものだ」と考えている価値観と、昔の人々の価値観は違いました。ゆえに、人類の歴史は、能力の差というよりも、「価値観の違い」とも言えます。
 塔を建て、やがて天にまで、星の世界にまで到達できるなどと、バベルの塔の時代の人々が考えていたはずはありません。
 では、バベルの塔は何の目的であったかというと、ブリューゲルが描いたバベルの塔にもありますが、頂上に「神殿」が建っています。バベルの塔の目的は、塔の上で神霊を呼ぶ施設でした。
 神が人間を見ていたら、塔を建て、神殿を建てて、霊を呼ぼうとしていたのです。それを危険視して、人類を散らしたのです。

 現代人の生活の中心は経済活動です。先週一週間の行動は、よりよい経済活動に集約されます。小学生、中学生、高校生、大学生は、将来より良い経済活動ができるために、一生懸命勉強します。現代の生活の中心は、経済活動です。しかし、しばらく前まで、人類の諸活動の中心は、「宗教活動」でした。昔の人は未発達だったと考えますが、これは価値観が違うだけなのです。

 私は去年、エジプトへとりなしに行きました。ピラミッドにも行きました。それはとてつもなく大きなものでした。広い砂漠にピラミッドが何基も建っていました。ピラミッドは、王が自分の権威を主張するために作った墓だと考えられていました。しかし最近は段々とその説は否定されてきています。それは何らかの宗教施設、太陽神と交流する施設だと考えられています。ピラミッドは現代の原子力発電所よりももっと大きな施設です。それは奴隷が作ったのではなく、国民の総意をもって、ある目的を持って造られた施設であると言われます。
 なぜそんなものを作ったのかというと、昔の人々は、「宗教活動を生活の中心とすると相当な利益を得ることができる」と考え、また、実体験していたからです。
 目に見えない世界にうごめく霊どもをうまくコントロールすると、自分たちの生活が豊かになると考えていたのです。だから彼らの活動の中心は経済活動というよりも、「霊的活動」でした。ピラミッドやバベルの塔は、現代なら、原子力発電所に匹敵するのかもしれません。彼らは霊を招いてコントロールする施設を作りました。バベルの塔も同じような意味を持つ施設でした。

 先に神はすべてをことばによって創った学びました。アダムとエバを創造し、何語なのかはわかりませんが、何らかの言語を教えたはずです。聖書は、「はじめは一つのことばであった」と告げていますので、アダムは日本語、エバは英語というのではなく、神から与えられた「一つの言葉」を話していたはずです。それが人類のうちに徐々に広がっていった事でしょう。

 神が人類に最初に教えた言葉とは、どんな言語であったのか・・・、それを想像したことはありますか。それは、天地宇宙を創るときに使用したことばの一部を取って、人類に与えた事でしょう。少し前までは天地創造のために使用していた神の言語の一部を、人類に与えたはずです。
 ということは、人類が最初に習った言語は、今の私たちには想像もつかないほどパワフルな言語であったはずです。
 現に、アダムとエバは、神とも悪魔とも、自由に、普通に会話をしています。あたかも、お隣さんに語りかけるかのように、会話しています。それは、見えない世界の存在ともコミュニケーション可能な言語でした。力溢れる言語であったと推測できます。

 してみると、人類が神からもらった最高の武器は、「言語」かもしれません。それさえ持っていれば、「何でもできる」という武器を、神は人類に与えたと思います。
 しかしそのパワフルな言語を、人間は何のために使ったのでしょうか。本来使うべき神とのコミュニケーションの為にではなく、神の振りをした悪霊どもを呼ぶための施設を作り、一つのことばで一致して、悪霊どもを呼ぶ行為をし始めたのです。その時神は、

『「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。』

と語りました。
 神がこのように語られた意味を、何となく理解できます。神が人類に与えたパワフルな武器を、悪魔に向け、悪しき力をコントロールし始めたのなら、「人は何をしでかすかわからない」と危惧されたことでしょう。
 そんな人類の危険な行為を阻止するために、神ご自身が「降りて」、言語を混乱させ、通じなくして世界中に散らしたのです。それは、ある意味で人類に対する配慮だったように思います。
 人間に与えた言語が悪魔の方に向いてしまったら、何事が起こるかわからないので神がそれを止められたのだと思います。
 ここに、「降りていって」という言葉が二回使われています。バベルの塔はまさしく、降霊のための施設でした。

 今、家庭の中で同じ日本語を話しながら、なかなか言葉が通じない現実があります。また夫婦の間で、同じ日本語を話しながら通じない現実があります。どこに原因があるのでしょうか。それは感情的なものというよりも「霊的な問題」なのです。最初の人類のグループが、一つのことばで本来は神に向けなければならない言葉を、悪魔・悪霊に向けたときに、人々は同じ所に住むことが出来なくなったばかりか、言葉が混乱したのです。それは人類が降霊の儀式に関わったことによって引き起こされた事件です。人類の言葉が通じない原因は、「バベルの塔」にあります。それを突き詰めると「降霊」に原因があります。

 日本には色々な宗教施設があります。神社、寺、修験道などいろいろありますが、それらは一口で言えば「霊を効率よく降ろすための施設」と呼べます。神社で鈴を鳴らし、手を叩くのも降霊のためです。それにより、悪しき力が降りてくるのです。日本人はそれをすることにより、生活を助けてもらえると考えています。日本の神に対する概念は「神にもなるし、鬼にもなる」という考え方です。それは、鬼であっても手名付ければ、自分の配下に置くことができるという考え方です。
 しかし、その結果は決して良いものではありません。お互いの関係は遠くなり、言葉は通じなくなるのです。
 もしも皆さんの周りに、関係が遠くなったり、言葉が通じない場合、その人が悪いのではなく、霊的な原因を見つけなければなりません。特に日本は降霊の国です。そのような中で言葉がバラバラになり、関係が遠くなっているのです。
 本来、神が人間に与えた言葉は、強力なものでした。しかし、本来の言葉を本物の神ではなく、悪霊に向け、自己実現のために使用したら何でもできる程、危険な武器であったのです。
 日本は偶像礼拝の国です。バベルの塔と同様、降霊のための呪術や呪文で満ちた国です。その結果、言葉が通じず、人々の関係が遠いのです。しかし私たちが本物の神に言葉を向けていくならば、「イエスさまを信じます」と告白したら救われるのです。

 教会はペンテコステの日から誕生しました。ペンテコステに起こったことが使徒二章一節から四節に記述されています。

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

 イエスさまの弟子たちが百二十人程、二階座敷でイエスさまの名前によって祈った時に、今度は聖霊様が降りて来てくださいました。そのシンボルとして、「炎のような分かれた下が現われた」と記されています。
 舌によって空気の流れがコントロールされ、はじめて言葉になります。聖霊様が舌のようにシンボル化されて現れてくださったのは、言葉という領域の中で働こうとされたのではないでしょうか。
 弟子たちが聖霊に満たされたときに、他国の言葉で話し出したとあります。それまでコミュニケーションできなかった人たちと、コミュニケーションできるようになったばかりか、福音を聞いた人たちはイエス・キリストを信じ、永遠のいのちに至る道に入りました。これは正しく、言葉の回復によるものです。

 教会とは、言葉の回復の場所として始まったことがわかります。言葉の領域で悩まれている方がおられますか。家の中で息子とことばが通じなくて困っている、嫁と姑の間でことばが通じなくて困っていると言われる方は、イエスさまに期待してください。
 そしてその回復は、神が本来人類に与えた、最もパワフルな言語の回復にあるのです。現在、日本語を話していたとしても、クリスチャンの日本語は、バベルの塔によってバラバラにされて派生した日本語ではなく、本来神がアダムとエバに教えた、最もパワフルな、神から直接教えていただいた日本語として回復されなければならないのです。

 言葉がそれほどまでに強力な武器ということを悪魔もよく知っています。ゆえに、人類に起こっている問題は、民族と民族、国と国という中で言葉の分野で起こっています。

 はじめに述べた、日本人は創造の神は信じないけど、占いは信じるというのには、一つの宗教観が関わっています。一般的に結婚式では忌み言葉と言って、語ってはいけない単語があります。「切れる」、「壊れる」、「離れる」、「落ちる」などという言葉を語ってはいけないというのです。だから結婚式のスピーチは苦労するのです。しかし教会では、何を語っても良いのです。そんなことは気にしていません。
 しかし日本人はすごく気にしています。日本人の宗教観の根底に、「古神道」があります。それは「言葉そのものの中に、力が宿っている」というものです。ゆえに、占いの言葉そのものだけで十分なのです。べつに創造神がいなくても、言葉そのものが神々であるという考えです。それは『言霊(コトダマ)信仰』と呼ばれます。これは聖書の概念に通じるようにも見えますが、根本はまったく違います。昔は言霊を事霊とも書きました。これは、言葉に出したことが事として成就するという考えです。
 クリスチャンでも時々、「否定的な言葉を語ってはいけないよ。悪魔が聞いていてそうなってしまうから…」と言います。案外それを聖書的概念として語っているところがありますが、日本人の発言の根底には、日本古来の言霊信仰と通じるところがあるので注意が必要です。
 日本語の根本に言霊信仰があり、これは古事記や万葉集にもその概念が記されていますが、日本語の五十音の一音一音には、日本神話の神々が対応していて、「言葉を発するたびに神々が動いて事が起こる」とされる考え方です。
 そんな危険な信仰をルーツとする国に私たちは生きています。日本語を語るたびに、日本神話の神々が共に動くのです。こんな概念の言葉を使っていれば、知らないうちに言葉が悪魔にとられます。

 しかし私たちは、どんなに日本語に使っても、音にのって悪霊が動くのではなく、言葉と共に聖霊様が働かれ、どんな領域にも入って働くことが出来る言葉が回復されているのです。
 言霊信仰的な考え方は、日本だけではなく、世界中の宗教にもあるようです。今私たちは、日本語の中に働く悪魔の策略を見抜き、私たちが使っている言語は、聖霊様によって教えられた、本来神が天地宇宙を創り、人を創るときに使われたことばの一部として受け取り、使うことができるように祈りましょう。
 それは自己実現のためではなく、神を礼拝し、み言葉を宣べ伝えるために用いられるべきです。互いに回復された言葉を語り、交わりの中で回復され、慰められ、いやされていく本来の言語に回復されたらどんなに素晴らしい事でしょうか。
 言葉が解放され、主の勝利が言語の中に現されますよう、祈りしたいと思います。

(告白の祈り)
 「イエスさま。あなたは私の主です。私の言葉を回復してください。言葉の背後に働いている、暗やみの力が断ち切られますように。打ち破られますように。言葉が通じるようになりますように。日本語の背後の言霊信仰にある、悪魔の策略と契約を断ち切ります。私が使う言葉は、創造主なる神から直接教えていただいた賜物であることを感謝します。この言葉をもって、仕えさせてください。イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン」


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