今日のメニューは何ですか?

2007.5.20(SUN)
新城教会牧師 上條実師

新約聖書 マタイの福音書24章45節〜47節
主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

 ハレルヤ!今日皆さんの前でお話しできますことを感謝します。今日は少し変わった「今日のメニューは何ですか?」というタイトルでお話しいたします。

 順牧師ご夫妻とフェルナンドご夫妻は今スペインの方へ行かれてご奉仕しております。送られてきたメールによりますと、日本時間で昨日午前二時から六時まで五〇〇人の会衆が集う中、テレビ中継がなされました。二回目は今日の夜中二時から六時まで行われるそうです。ぜひ皆さんがお休みになる前に、順牧師に良き知恵が与えられて、語ることができるように覚えてお祈り下さい。

 お祈りして頂いておりましたゴスペルクワイヤーのコンサートが、昨日大変祝福されて行われたことを心から感謝致します。三九七名が集うことができました。とてもパワフルな賛美と演奏を聴かせてくださり、多くの新しい方々も集うことができました。お祈りを感謝し、主に栄光をお返しします。

 さてさきほどお読みしたマタイの福音書二十四章四十五節から四十七節をもう一度お読みします。

『主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。』

その四十五節の中に『食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべ』とあります。このみことばを中心に語っていきたいと思います。以前新城教会の文書伝道部という部会があり、「み言葉の剣」というタイトルで小冊子を毎週作成し、皆さんに配布していたことがあります。牧師や教会スタッフが神さまから教えられた事を毎日読むことができるようにと発行していました。私はその時「自分は自動販売機になりたい」と書いたことを思い出します。自動販売機というのは好みのボタンを押すと、その商品が出てきます。そのようにいやしが必要な時は、いやしが出てくる。解放が必要な時は、解放が出てくる。祈れば祈りの答えが与えられる。神さまはそんな方です。だから私もそのような器になりたいと書いたことがあります。その時に一番欲しいものが出てくる。そんなものになれたらと思います。時々間違ったものが出てきた時にはとてもショックを受けます。必要な時に必要なものが出てくることは人を満足させます。今日のみことばも同じようなみことばです。食事時なのに「お風呂です」と言って、お風呂の用意をしたり、食事時なのに「寝てください。」と言って就寝の用意をしたりしたら、相手は満足できず、ある人は怒り始めてしまします。私たちの神さまはいつも必要をご存知であり、祝福を与えてくださる神さまです。ですから食事時に食事をきちんと与えることが出来るクリスチャンになりたいものです。そうすれば四十七節には素晴らしいみことばがあります。

『まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。』

とあります。全財産を任せてくださる神さま。神さまが私に対して信頼し、神さまの働きに携わらせてくださるというのです。私たちを通して大きな祝福を現してくださる。用いてくださるというみ言葉です。

 全く世間の話しですが、昔「明石家さんま」という人が「大竹しのぶ」という人と結婚し、その間に子どもが生まれました。その子どもの名前をご存知ですか。「いまる」という名前を付けたそうです。「いまる」という名前の意味をインターネットで読み、おもしろいなと思いました。それはなんと「生きているだけで丸儲け」という意味だそうです。私たちクリスチャンも同じ事が言えると思います。今まで問題があって苦しみ続けてきました。病に苦しみ続けてきました。色々な束縛の中に生きてきました。しかし今年神さまがこの教会に語ってくださったこと陰陽の神ではないということです。良いことが続けば、悪いことが起こる。そんなかみではないのです。だから「私たちは生きているだけで丸儲け」です。毎日神様の祝福をいただくことができる。この二〇〇七年は祝福の年です。生きていて毎日が丸儲けなのです。特別感謝で仕方がない事があります。丸儲け。ただ恵みである「十字架」を信じることができたことです。イエス・キリストは私たちの罪のために身代わりになり、苦しみを受けてくださり、滅ぼされて三日目によみがえってくださった。ただこの事を信じただけで、私たちは救われることができるのです。恵みです。祝福です。しかし日本人はなかなかイエス・キリストを信じることができていません。日本のことばに「タダより高いものはない」という言葉がありますが、日本人はただというと裏があると思うようです。私たちも条件反射のようにそんな簡単に罪が赦されるはずがない。どんな罪人でも、イエス・キリストを信じただけで罪が赦されるなんて、そんな簡単な話はないと思うのです。良い行いこそが救いだとか、今までの罪の罪滅ぼしのために、先祖を拝めなど代償を求めます。しかし十字架はただ。信じたら救われるのです。イエスさまが私たちのために罪を全部赦してくださるというのは事実なのです。その十字架を知ることは最高祝福であり、私たちクリスチャンは、この十字架を離すことは出来ません。過去多くの人が殉教していきました。「イエス・キリストを信じることをやめたら生かしてやる」と言われ他にも関わらず、「私はイエス・キリストを信じることをやめません!」と、しっかり立ち、ためいのちを失っていった人が多くあります。なぜなら十字架は、自分の宝物であり、最高の祝福、最高の恵みなのです。この十字架を信じた私たちが今日

『食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。』

というみ言葉を覚えてほしいのです。

 先週の日曜日は「母の日」でした。その母の日にある新聞記事が記載されていました。それは「主婦業」を月給で考えるといくらになるかという記事です。主婦の方は本当に大変だと思います。ただただ頭が下がる思いがします。奥様方は本当に、尊い働きをされています。その記事はアメリカのサラリードットコムという所が試算した所、年収一五〇〇万円に相当すると言うことでした。主婦は保母や料理人、家政婦、運転手などを主婦がこなすなど主な役割10項目について、それぞれの作業時間から得られるべき賃金を積算したそうです。すると週九十一・六時間働いているとありました。それは裁判官並みの年俸十三万四千百二十一ドル(約千五百二十万円)に相当するそうです。そんな大変なお母さん方に、子ども達が「今日のご飯何?」と聞きます。そして食事時に「何だ。これだけか…」と言っています。奥様方は食事は何にしようかと大きな問題です。時間を掛け、メニューがだぶらないように、また経済的なことも考え、それに加え栄養を考えながら、作ったにもかかわらず「これだけ?」と量的や品数が少ないと言ったり、「これはまずい」と愚痴を言ったりしています。どれだけお母さん方は悲しい思いをさせているかと思います。特に毎日同じものを出せば、どれだけおいしいものでも家族は嫌がります。普段食事のメューに関して、バライティーに富んでいます。毎日メニューを変え、新しいメニューを聞けば、教えてもらいながらでも作ります。聖書は「食事をきちんと与える忠実なしもべ」とありますが、「忠実」という言葉の意味ご存知でしょうか?

「忠実」…まごころ込めてよく努めること。内容をごまかしたり、省略したりせずそのままに示すこと。

また、「思慮深い」ということばの意味は、

「思慮深い」…言葉を注意深く、十分に考えるさま。

という意味があります。『食事時には食事をきちんと与える忠実な思慮深いしもべ』ということは霊的に対して、全くと言っていいほど無関心です。一概に食事と言ってもそれぞれ好みの味付けが違います。私の父親の実家の津具村に行くと、ものすごく味が濃いです。みそ汁を飲んだ時、みそをそのまま飲んだかのように辛かったのを覚えています。味付けは各家庭で違っており、人それぞれ食べる量も違います。だいぶ昔になりますが、静岡市のとある教会に奉仕に行きました。集会後一人のおばあちゃんの家に民泊させてもらいました。三人で宿泊しましたが、とても手厚い接待をして頂いたことを覚えています。朝になり、おばあさんが張り切って朝ご飯を出して下さいました。メニューはパン食でしたが「若い方なのでよく食べられるでしょうねぇ」と言って、なんと一人一斤ずつのパンを用意して下さっていました。朝からそんなに食べることができず、三人ともパン一枚ずつ食べあとは食べ切れませんでした。沢山出されても、そんなに食べることはできません。食事のメニューでも、病人食というものがあります。味付け、カロリーなど事細かく計算されています。ある人は流動食、胃潰瘍の方には胃潰瘍用の食事、肝臓病食、腎臓病の食事、糖尿病の食事、低タンパクの食事、減塩食などたくさんあります。また和食では、うどん、そば、寿司、丼物等々色々なものがあります。ラーメンだけをとっても、お店でみんな特徴を出しています。○○風のラーメンと、地域やベースの味を考えて調理しています。私たちは自分の好みの中で選んで、食べたいものを食べます。また韓国料理、イタリア料理フランス料理、スペイン料理・インド料理・タイ料理・ベトナム料理・エスニック料理など、さまざまな国の料理があります。今はグルメの時代で、テレビ番組でも毎日料理番組が放映され、それを見てみんながその店に殺到するような時もあります。私は食事がなかなか出てこないときに、クリスチャンらしからぬ態度を取ってしまいます。私は空腹だとイライラし、怒りっぽくなります。しかし食事を食べると私たちは力をいただき、幸せと平安を頂くことができます。また健康を受けることができます。時間やお金をかけてでもその食事を食べたい時には、食事に出かけます。私の知っているあるご夫妻は、焼き肉を食べるためにだけわざわざ神戸に出かけたり、わざわざ北海道に行ってグルメツアーをして、海産物やラーメンを食べにだけ出かけたりしています。美味しい物を食べるためには時間とお金を使ってでも出かけていくのです。しかし先ほども言いましたがクリスチャンは霊的食べ物には非常に鈍感です。霊的食事にたいして「忠実な思慮深いしもべ」になるように祈らなくてはなりません。第二コリント二章十一節に、

『これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』

とあります。私たちはサタンに欺かれて、サタンの策略にはまってしまいます。霊的な世界のなかで私たちは天国に行くか、地獄に行くかを決定します。霊的な部分は霊肉魂の中で最も必要なものです。だから霊的に何を食べても良い。とりあえず量があれば良い。ある人は全く食べないで終わって時もあります。マルコの福音書七章三節から四節に、

『パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。』

「堅く守られるように言われたしきたりがたくさんある」とあります。あなたはしきたり的な信仰を持っていませんか?今日は日曜日です。ただ礼拝に行く日だからとまったく感動もなく、教会に行く日と日曜日が癖になっているのでただ来られた方もいるかも知れません。どんな気持ちで礼拝に来られましたか。どんな新鮮な思い出礼拝に出席されていますか?また今日も聖餐式があります。これも毎週行っているから、しきたりのように受けていませんか?またささげ物もいつも献金する金額が決められてあるので、何も考えずに献金していませんか?マンネリ化した信仰生活を送っていないでしょうか。しかし、私たちは思慮深い忠実なしもべにならないといけません。マタイの四章四節には、

『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』

とあります。このみ言葉は私たちの食べ物です。みことばに親しみましょう。みことばは剣です。エペソ六章十七節に、

『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

日々霊的戦いです。私たちは戦いの中に、丸腰で出て行くことはできません。その日その時の必要なみ言葉の剣を持たせていただき、剣をしっかり握り、職場や学校に出て行かなければならないと思います。しかしある人は通読の中で何章を読むとか、聖書を読まないと罰が当たるような感じ、しきたりで読まれている方がいるかも知れません。あなたの一番必要なみことばを時にかなって語ってくださることを覚えてください。先日詩篇一一九篇を読みました。この箇所は普段なるべく早く読み切ってしまおうと、必死に勢いをつけてあまり考えもせず、素早く読みがちです。しかし一一九編五十節には、

『これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。』

とあります。み言葉は悩みを生かしてくださいます。また詩篇一一九篇八十二節に、

『私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか。」と言っています』

み言葉は私たちに慰めを与えてくださいます。詩篇一一九篇一〇五節に、

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

どのように前に進んで良いかわからないときに、み言葉によって照らしていただくことが出来ます。暗い道を歩いている時に灯火であり、光であるみことばを頂くことができます。また一一四節には、

『あなたは私の隠れ場、私の盾。私は、あなたのみことばを待ち望みます。』

私たちは嵐の中でどのように対応したら良いのか、どこに隠れればいいかわからない時があります。しかしみ言葉は私たちの盾、守りです。一六二節には、

『私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。』

宝物を見つけたときのように、みことばによって喜ぶ。言い方は悪いのですが驚喜すると言うことです。また一七〇節には、

『私の切なる願いが御前に届きますように。みことばのとおりに私を救い出してください。』

み言葉には、救いがあります。そして一七二節には、

『私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいから。』

私たちは正しいみことばを賛美しつつほめたたえることができます。普段一一九篇はあまりしっかり読まないものですが、その中にすばらしいみことばだらけです。み言葉は私たちの霊の食べ物です。あなたが今一番必要なもの、今の生活の中で一番食べるべき必要なものを神様が提供し、読ませて下さいます。あなたが今日のメニューは何でしょうかと、祈りつつみことばを頂く時、私に語ってくださいます。今一番必要なことを聖書をとうして語って下さいます。毎日食べて味わうとき、霊は成長し、強くなります。そのみことばの剣で、悪魔の力を打ち砕き、解放され、祝福され、「生きているだけで丸儲け」になります。あなたが今日聖書を読むとき、自分の霊・肉・魂の中で何を神様が語ろうとしているかをしっかりとキャッチできる器になっていただきたいと思います。

 先週一週間は、日本の中で悲しい事件がたくさんありました。特に私たち愛知県の長久手町で大変な事件がありました。一日中そのニュースが放映されていました。元暴力団の人が元妻を人質にとって自宅に立てこもったのです。その事件で一人の警察官の方が亡くなられました。私はその事件を聞き、テレビでその中継を見ながら祈らされました。ある方はその中継を見て、あんな犯人は死んでしまえば良い。警察が早く踏み込んで射殺したら良いのにと思ったかも知れません。しかし私たちクリスチャンは、そのようなニュースを見たときに、どのようにしたらよいでしょうか?神様は人それぞれに語りかけておられます。「このことを祈りなさい」と語ってくださっています。それをキャッチし、あなたはこのメニューです。このことを祈りなさいと言われることについてあなたがその時祈れるか、どれだけそのメニューを聞き、祈り、行なえるかがその事件を最善に解決して下さるのだと教えられました。食事時に主人の好む食事を出す忠実な思慮深いしもべにならなくてはいけないのです。冷たいものではなく、ちょうど食べ頃のものを出さなくてはいけません。料理には食べる人に対してタイミングがあります。私たちは色々な情報を神さまから受け取っています。聞いています。そんな中で、私たちはその時をキャッチして、祈りを置くべきです。その事件が早く解決するように、犯人の家庭ために、特に夫婦の復縁話について言っていたので夫婦のために、特に新城教会の各ご夫妻のために祈りました。また死者やけが人がこれ以上出ないように。またその地域の人々のために祈らされました。またもう一つは、福島県の会津若松市で起こった考えられないような事件でした。県立高校の進学校の男子生徒が、四十七才の母親を殺害し、その遺体を切断し、今日の報道では、自分の部屋に飾りたかったとありました。考えることができない事件です。その報道を見ながら中学生、高校生のために、子どもたちのために祈りました。若者のためにぜひ祈ってください。少年の自宅の部屋にはホラー系のビデオがたくさんあったそうです。ホラー映画を見ている間に人を殺したくなり実行してしまいました。また少年は過激な音楽を聴いていたそうです。報道によるとロックスターのマリリン・マンソンというロック調の音楽を聞いていたそうです。そのグループは一九九〇年に結成し、九十八年には全米で一位になったグループですが、その歌詞は、麻薬や悪魔礼拝、同性愛、反キリストのような歌を歌うグループです。映画や音楽の中に働く悪しき力が、自分の母親を殺してしまい、またお母さんの首を自分のバックに入れて漫画喫茶によってから警察に自ら出頭した。また右腕は白いペンキで塗られており、犯行現場の植木鉢に立ててあった、こんな事件は誰が考えても霊的に病んでいることがわかります。今子どもたちは簡単にDVDや音楽やゲームなどを手に入れることが出来ます。今回の事件のことで私の三男と話しました。彼は高校二年生です。彼の友だちが言ったことを聞いて愕然としました。あまりにも衝撃的でした。息子の友だちは「自分に命が二つあったら人を殺してみたい」と言ったそうです。ある意味で殺人と普通な人とは紙一重のようなものだと思いました。悪魔の策略にはまり、音楽や映画、またゲームで毒されていることを覚えるときに、何を祈れと神さまが言っているかを聞き、それをキャッチして祈らなくてはいけないと思いました。教会に来ている皆さんの子どもたちのために、地域にある幼稚園、保育園、小学校、中学校、高校、大学のために祈らなくてはならないと思います。いじめの問題についても、子ども会で「今までにいじめられたことがある人」と聞きました。するとなんとみんなが手をあげました。今度は「いじめたことのある人」と言うと、今度もみんな手をあげました。そして極端なことを聞いてみました。「人を殺したいと思ったことがある人」と言いました。するとある子が手をあげていました。私は本当に悲しかったです。今までどれだけ霊的なことを話し、神さまのことを伝えてきたか。特に霊的戦いについて話しながらも、教会の子ども達の中に策略を巡らし、まんまとワナにはまってしまっているのです。子どもたちは少しのことで、切れて怒ってしまいます。自分が収拾できなくってしまう、超えてはいけないところを越えて怒ってしまっている子どもたちがあまりにも多くいるのです。いじめの問題でもあなたが祈る領域、あなたに託されている祈りがあると思います。ぜひ神の声を聞いて祈ってください。また先々週は近くの豊川市にあるゴルフ場の管理人室で殺人事件がありました。未だに解決されていません。その他でも新聞やテレビ等を見るときに、神様が私たちに祈るように教えてくださっているはずです。何を祈るのかあなたのためのメニューを聞いて、祈りましょう。あなたがそれをキャッチしなくてはいけません。霊的に私たちは鈍感です。批判や批評は簡単にできます。しかし悪しき力は祈りを奪い取っています。自分の生活のことで精一杯。自分以外のことに関しては祈ることが出来ないのです。今日この礼拝には三百人以上の方がいます。?コリント人への手紙十二章二十七節には

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

とあります。一人ひとりは各器官です。すべて違った役割があります。ですから、私たちが食事時に食事を与える忠実な思慮深い者になったら必ず、事は起こり始まります。「今日、私の祈りのメニューは何ですか」と聞き、それをキャッチし、祈り始める時大きな動きがあります。あなたは体の一部分です。あなたしか感じ取ることしかできない事があります。あなたが「神の国を第一に求めなさい」とありますように神様を第一として求め、祈れと言われていることをキャッチして祈りはじめたら扉が開かれ、祝福に預かることができます。しかし鈍感で祈らないのであれば、今は末の世です。更にこの世は悪くなる一方です。みことばの剣を持ちましょう。リバイバルの鍵はあなたの祈りで開かれます。その剣で悪魔の働きを打ち砕きましょう。私たちの周りには悲しみ、傷つき、苦しみがありすぎます。あなたの仕事。あなたの地域。日々あなたが出会わせてくださる方々。その為に祈りましょう。奥様たちは自分で決めて、買い物に行こう考え行った場所も、神様があなたに何かを教えるためにその場所に行かせて下さっているのです。先週わたしが神さまから教えられた聖書の箇所は、エレミヤ書四十八章十節、

『主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ。』

とあります。リビングバイブルでは、

『モアブの血を流すのをいとい、剣を抜くのをひかえる者は、のろわれよ。 わたしが与えた仕事に手をつけない者は、のろわれよ。』

とあります。イエス・キリストがあなたに与えた仕事に手をつけないものはのろわれよ。とあります。あなたを選び、十字架でいのちを投げ出し、あなたのために命を救ってくださったイエス・キリストが、あなたに今語っています。日替わり、いや毎刻毎刻「今あなたはこれを祈りなさい。」「このみ言葉の剣で大胆に戦いなさい」と神が言われていることを覚えてください。全く聞かずに、しきたり的なクリスチャン生活を送っていたことを悔い改めましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。」とあります。霊的に鈍感だといわれる方もいますが、求めましょう。霊的メニューがわかるように祈りましょう。新聞を読んでいて可愛そうだなあとか、大変だとか思ったらその事を祈りましょう。今日自分の食事のために年収一五〇〇万円相当の仕事をされている方々、お母さん方祈りましょう。ご主人方、仕事の中でも神は語っています。キャッチしましょう。私たちは日々「今日のメニューは何ですか」と祈りましょう。あなたに任された仕事があるのです。神は、

黙示録三章二十節

『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』

あなたが戸を開くなら、神さまは入ってくださいます。メニューをしっかりと受け取る器になりましょう。お祈りしましょう。

(祈り)

『神さま私に今、霊的メニューがわかるように、霊的な目を開き、霊的な耳を開かせてください。いつでも、どんな時でも、あなたの求めておられることを知り、あなたが与えてくださった仕事に手をつける器とさせてください。今その霊的耳と目を妨げる悪しき力を打ち砕きます。常にあなたのメニューを知ることのできる者とさせてください。主イエスキリストのみ名によってお祈りします。 アーメン』


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