み国を受け継ぐ者

2007.5.27(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘師

新約聖書 エペソ人への手紙 1章10節〜14節
時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。

 昨夜、杉浦兄のお母さんが天に召されたと知らせを受け、淋しい思いで床につきましたが、夜中の三時頃、今度は片川さんの悲報を受け、また今朝、七時頃プレイズで祈っている時に有川兄が来て、お母さんが天に召されたという報告を聞きました。土曜の朝から具合が悪くなったとお兄さんから電話があって、日曜日の朝には家に戻ろうと思っていた矢先の報告で、有川兄も悲しみをこらえておられましたので、ともに涙を流して祈りました。ご家族の上に、大きな慰めが主からありますようにと願います。

 私たちは悲報を聞くと、淋しい思いで、気持ちが重くなります。死は肉体を持った人生の終わりを告げる時でありますが、私たちクリスチャンにとって、いのちはこの地上だけのものではなく、永遠のいのちの始まりの時でもありますから、天国で再会できるという希望があります。

 時が経つのは早く、私の父が天に召されてから四年が経ちました。ちょうど父の日の翌日のことでした。そして二年前の春、兄の康宏が、今年の復活祭の日には、母親が天に召されました。四年の間に家族を三人失ったわけです。いつも色々なことを語り合ってきた家族がそばにいないのは淋しいですが、天に召された者は、痛みも苦しみも悲しみもなく、天の御国でこの光景を見ていると思うと、慰められます。ですから、私たちは思い出にふけるのではなく、前に向かって希望を持って歩んでいきたいと思います。

 今日はエペソ人への手紙十章から『御国を受け継ぐ者』というタイトルで学びます。

 受け継ぐということは、財産だったら、それを受け取って活用していき、増やし、代々引きけ継いでいくものでしょう。味だったら、引き継いだ味を変えることなく守っていくことかもしれません。では、『御国を受け継ぐ』とはどういうことでしょう。

 私の母は七年前にオートバイで事故に遭い、左半身が不自由になり、車いす生活になりました。その前はオートバイで走り回り、店の仕事をしたり、やんちゃな孫たちを育ててくれたような肝っ玉かあさんでした。自由が利かない車いすの生活は、母にとってさぞかし歯がゆかったと思います。できることが制限され、自分の仕事が終わったかのように思ったのか、私が朝、母のところに行くと、よく「早く天国に行きたい」と言っていました。しかし、母は晩年、「私はこうして体が不自由になったおかげで、弱い人や体の不自由な人の痛みや苦しみ、弱さがわかって良かった」と私に語ったことがありました。母にとっては辛く思えることも、良かったと言える母は偉大だったと思いますし、また、神様が母を支えてくださったことを思い、感謝しました。

 人生には転機があり、選択を迫られる時、岐路に立たされる時があります。皆さんにも何回もあったと思います。人生を振り返る時、果たして自分の選択は正しかったのか、「あっちに行けばよかった」、「あのことがなかったら…」「あの時期を消しゴムで消したい」と後悔しておられる方もいるかもしれません。

 私は毎週のように東京に行きます。田舎はのんびりしていますが、東京は忙しく、みんな駆け足で歩いているようです。しかし、東京にはいろいろな発見があり、刺激があって、私は好きです。満員電車に揺られることも平気です。

 先日東京に行った時、お客さんとの約束の時間が迫っていたので、チラッと行き先を見て、止まっていた電車に飛び乗りました。電車に乗れて良かったと安心して周りの景色を見回すと、電車が逆方向に進んでいるのに気が付きました。本当は向かい側の電車に乗らなければならなかったのですが、反対側に乗ってしまったのです。しかし山手線ならば、反対方向に進んでいたとしても、次の駅で降りて反対の電車に乗れば数分程の違いで目的地に着くことができます。お客さんの所には遅れてしまいましたが、取り返しのつかないほどのほどの失敗ではありません。

 学校の試験や、受験のあと、もう少し勉強しておけば良かったと思ったり、高校や大学に進学してからも、もう少しいい学校に入れたかもしれないのにと思ったり、また、就職してからも、自分に合っていない、こんな所に就職して…と思う人もいるかもしれません。また、結婚の決断は、人生のうちでも大きな選択を迫られる時だと思います。すでに結婚している方は、決める時に、どうしようかと悩んだことが思い出されるのではないでしょうか。

 ある兄弟に「結婚しないの?」と聞いたところ、その兄弟は「結婚はリスクがあるじゃあないですか。色々なカップルを見ているとやっぱり考えちゃいますよね。一度結婚したら変えられないじゃあないですか。だから、とりあえず今は結婚しないと思います」と言いました。確かに一度決めたら簡単には変えられません。世の中には、簡単に離婚してまた結婚する人もいますが・・・。結婚に限らず、これから先、何が起こるかわかりませんし、将来のことは誰も予測できませんから、不安を持つのは当たり前だと思います。誰でも失敗は嫌なので、慎重に考えます。やり直せることも多いですが、もとに戻ることはできません。

 しかし、私たちクリスチャンにはどんな時にも希望があることを、聖書は教えています。

 『彼に(イエス・キリスト)信頼する者は、失望させられることがない。』(ローマ人への手紙十章十一節)

 『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたし(イエス・キリスト)は、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』(ヨハネ八章十二節)

 暗やみでも光があれば安全に前に進むことができるように、イエスさまは世の光であり、イエスさまに従う者は決して暗やみを歩むことがないと、聖書は教えています。私たちが信じている神様は、ある時は神だけれども、ある時は鬼にもなるというのではなく、良い方であり、私たちが信頼するならいつも祝福を与えてくださる方です。「数えてみよ、主の恵み」と賛美歌にありますが、私も今まで、数え切れないほどの祝福をいただいてきました。しかしまだ足らない、神様の祝福はこんなものではないと主に期待しています。皆さんにも素晴らしい祝福が用意されています。主に信頼して、信仰生活を楽しく歩んでいただきたいと願っています。

 旧約時代にモーセという預言者がいました。モーセは、四十年間の王宮の生活、四十年間の荒野の生活、出エジプトをして約束の地に向かった四十年間と、全く違う四十年間を過ごし、百二十年生きました。波瀾万丈の人生でした。

 当時、エジプトの中でヘブル人は過酷な労働を強いられていましたが、それでもこの民はますます増え広がったので、エジプトの王はこれ以上ヘブル人が増えるとエジプトが危ないと思い、女産婦たちに「ヘブル人の男の子が生まれたら全部殺せ。女の子だけを生かしておくように」という命令を下していましたが、この助産婦たちは神を恐れていたので、男の子が生まれても生かしておきました。レビ人の家に生まれた男の子は3ヶ月家で育てられましたが、隠しきれなくなった親は、何とか生きながらえて欲しいと願い、その子をかごに入れてナイル川に流しました。パロの娘に見つけられ、自分の息子として育てられたのがモーセでした。

 彼は四十年間王族として育てられ、王宮の様々なしきたりなどを学び、エジプト全土を知ることができました。しかし彼が四十歳になった時、一つの事件が起こりました。エジプト人とヘブル人が争っているのを見たモーセは、エジプト人を殺してしまいました。しかし次の日、今度はふたりのヘブル人が争っているところへ仲裁に入った時、そのヘブル人から「あなたはエジプト人を殺したように、私も殺すのか」と言われ、自分が人殺しをしたことが恐ろしくなりました。そして彼は四十年間の王宮の生活を捨て、ミデヤンの地に逃げました。彼はそこで結婚し、家族を得、羊飼いをして、それまでの裕福な生活とは全く違う荒野の生活を送りました。そこで四十年間という時間が流れ、幸せな日々を送っていました。しかし八十歳の時に、神の山ホレブで燃える柴の中から突然、「モーセ、モーセ」と神様から呼ばれ、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを見、叫びを聞いた。だから、エジプトの手から彼らを救い出そうと思う。そのためにあなたをエジプトに遣わす。私の民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と言われました。その時モーセは、「ちょっと待ってください。そんなことは私は聞いていないです。そんな気もないし、そんな力もありません。私は口べたですし…」と断りました。しかし神様の命令だったので、ある意味で仕方なくエジプトに戻り、パロ王と対決しました。ナイル川が血になったり、ぶよの大群、いなごの大群が現れたりと、数々の奇跡を行い、最後にはパロからの許しを得て、イスラエルの民を引き連れてエジプトを出、荒野を経て約束の地に向かいました。普通ならば、二、三週間で行けますが、彼らの不信仰の故に、四十年間荒野をさまよいました。そしてモーセは約束の地を目の前にしてヨルダン川の手前で天に召されていきました。

 彼の百二十年の人生を見ると、すべては神様の計画の中で、つまり生まれた時から神様がイスラエルを救うために必要だと選び出し、用いた人生であったことがわかります。四十年間の王宮の生活の中で、すべての権威を自分の手に取り、そして四十歳の時には荒野の生活をしました。王宮にいた人は、荒野での生活には耐えられないでしょう。しかし彼はそこで家族を持ち、荒野の生活を習得したときに神様から声がかかりました。この時、準備が整っていたのです。もう一度彼はエジプトに帰り、イスラエルの民を引き連れて荒野に向かっていきました。もしその時、彼に王宮での生活がなければ、パロと対決することはできなかったでしょう。また荒野の四十年間の生活がなかったら、二百万、三百万という民を、四十年間もの間導くことはできなかったでしょう。もちろん彼が望んだわけではありませんでした。何とか逃れたいと思っていたでしょう。しかし神様の計画は、彼の思いとは違ったところにあり、神が遣わされた者として、神の手となり、足となり、大きな働きをしたのです。その間、本当に数々の戦いがあり、選択を迫られることが何度もありました。しかし、そんな中でもモーセはいつも神様に頼り、導かれたことが出エジプト記に書かれていますので、ぜひお読みください。

 このモーセだけでなく、私たち一人一人も神様によって選ばれた者です。

 『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』(ヨハネ十五章十六節)

  私もたくさんの失敗をし、悩んだりしてきましたが、過去を振り返り、その失敗を後悔することはあまりありません。その時、失敗したことや悩んだことも、後々になって、あの時の失敗、悩んだことが今の私の力になっていると感じているからです。神様が私たち一人一人を選んでくださっているのですから、自信を持ってください。

 先日、ある方からプレイズ出版に至るまでの証を書いてくださいと言われ、自分のクリスチャン人生を振り返った時、神様が素晴らしいことをしてくださったことを思い返しました。

 私はクリスチャンホームに生まれ、幼いときから将来神様のために働きたいと思って生活してきました。学生の頃には、こんなことを勉強して何の役に立つのかと思いました。また、高校卒業後、厨房設備の会社に入り、設計図を書いたり、配線・配管をしたり、営業、機械の修理などしてきましたが、これも、将来役に立つだろうかと思いました。兄の経営するスーパーの手伝いをして、肉や魚を切っていたこと、それも伝道のためには不要のように思われました。ですから、教会献身をした時、自分が今まで学んできたことは当てにならない、全部捨てて一から出直そうと思いました。

 そんな時、教会から、印刷を担当するようにと言われ、卓上の印刷機で印刷を始めました。その頃から、滝元明先生は「将来、この教会で、カラーのもっと綺麗な印刷ができるようになって、僕の本がここから出版できたら素晴らしいね」と笑いながらおっしゃっていましたが、私は「先生、そんなことは無理ですよ。できるはずがないですよ・・・」と言い続けていました。しかし、印刷をしながら、こんなかすれたような字では誰も読まない。どうせ刷るならもっと良いものを作りたいと思うようになり、一九九〇年に、一台の単色印刷機械を購入し、印刷を本格的に勉強し始めました。

 そして次の年、一九九一年に「ブレッシング」というA4サイズの両面カラー刷りのトラクトを発売しました。そのトラクトは爆発的に売れました。私は全く知らなかったのですが、両面カラーのトラクトは、キリスト教界で初めてだったということで、一ヶ月に何十万部と売れました。毎日、トラクトを印刷しながら、私は印刷技術を学ばされ、訓練されました。当初、私一人でしたが、夏目洋平兄が献身してくださったので、励まされ、ここまでこられたと感謝しています。

 そしてもう一つの転機が、一九九二年でした。その年の二月、神様の導きによって甲子園リバイバルミッションを一九九三年十一月に行うと決まり、私は財務運営の担当を任されることになり、その話し合いに連れて行かれました。私は「やりたくない」と思いながらそこに行きました。ミーティングで、とりあえず全国の教会に呼びかけるために印刷物が必要だということになった時に、「プレイズ出版に印刷を任せよう」と言われました。私はその時、事務所開設の一年半前に、プレイズ出版の働きが始まった意味がはっきりとわかりました。甲子園の話が出てから印刷機を購入して覚えても、到底間に合わなかったでしょうし、すべての印刷物を外に頼むのは、納期や金額的な都合も合わなかったと思いますが、一年半前に、私が願ったわけではありませんが、プレイズ出版が興されていたことにより、印刷物の用意ができました。神様のご計画としか言いようがありません。

 甲子園の準備はとても忙しく、甲子園に何度も通い、帰ってきてこちらで夜中に印刷し、また甲子園に行くという繰り返しでしたが、色々と教えられたこともたくさんありました。

 甲子園の働きが始まるまで、私は新城から出たことがほとんどなく、ほかの教会へ行ったこともありませんでした。しかし、あの時様々な教会を訪問させていただき、日本のキリスト教会の現状を知ることができました。そして、そのことが、今のプレイズ出版の仕事に生かされています。また、財務運営を任せられて働いた時には、兄のスーパーで学んだことが役に立ちました。そのほか、過去に失敗したこと、悩んだことが、役に立っていることを思う時、今までのことすべては無駄ではなく、神様が壮大な計画の中で導き、すべてのことを益としてくださっていることを感じています。

 今は、何故こんなことが、と思えるようなことも、後になって、ああ、この時のためだったのかと思えることがたくさんあります。私たちクリスチャンは神様のご計画の中にいるので、神様に信頼していくならば、必ず祝福を与えてくださると信じています。

 それは、エペソ一章十二節にあるように、『前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるため』なのです。

 では、神様が願っておられる、私たちに委ねられている計画とは何でしょう。

 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』(ヨハネ三章十六節)

 イエスさまは、罪を持ったまま地獄に行き、滅びてしまう私たちを救うために、この地上に来られました。そして、天国への希望を与え、永遠のいのちを与えてくださいました。先に救われた私たちには、多くの方に、このイエスさまを伝える責任が委ねられています。これこそ、神様が私たちを選んでくださった目的であり、委ねておられる計画です。ですから、『また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』(エペソ一章十八節〜十九節)とあるように、目の前の問題や誘惑に惑わされることなく、心の目をはっきりと開いていただいて、神様が与えてくださるものがどんなに素晴らしいものかを、はっきり見させていただきたいと思います。

 「聖徒が受け継ぐもの」とは、私たちがまだ見ていない将来、神様が持っている素晴らしいご計画だと思います。聖徒の受け継ぐべきものを受け取っていくならば、私たちの人生は、これからもっと祝福された人生に変わると思います。年をとると、私はもうやることが終わったと思わないでください。

 ある本にこんな記事がありました。皆さんもカーネールサンダースという名前を聞いたことがあると思います。ケンタッキーフライドチキンの創始者です。彼はレストランを経営していましたが、段々経営不振に陥り、全部整理して年金生活をするか、それとももう一度新しい事業を起こすかという選択に迫られました。彼はクリスチャンでしたので、教会に行き、「神様、どのようにしたらいいですか」とひざまずいて祈ったそうです。その時に教会で会った人の言葉にヒントを得て、ケンタッキーのフランチャイズを思いついたそうです。そして六十五歳の時、ゼロからスタートしてこの事業を立ち上げました。今では皆さんもよくご存知のとおり、とても大きな事業として成功を収めました。

 彼はいつも事業を成功させることだけを考えていたわけではなく、「神に喜ばれる生活をしていくならば、必ず祝福される」という強い信仰を持ち続けていました。レストランを経営している時から、孤児院や学校、教会などに多くの献金をしてきた人です。もちろんケンタッキーの事業が大成功してからも、多くの施しをして素晴らしい働きをしたことが記されていました。

 いつ、どこで神様が私たちを使われるかわかりません。皆さんも年をとったからといって私の仕事は終わったと思わないでください。その時々に、一人ひとりに神様の計画があることを覚えてください。まだするべきことがあるからこそ、今ここに生かされています。私も、天に召される時は私のするべきことが終わった時だと思います。

 今年は、十月にハワイミッションが開かれます。ハワイで奉仕している私の娘のためにも、皆さんに祈っていただいていることを心から感謝しています。彼女は、四年半の海外生活を終えて、昨年九月に帰ってきましたが、これから何をするのかと心配していました。そして彼女もそう思っていたと思います。そんな時に、ハワイミッションのためのスタッフが必要だという話が出て、私が軽く娘に「ハワイに行くか」と聞くと、本人はただハワイに行けるということで「行く、行く!」と言いました。私は「まだ指名されたわけではないから…」と言いましたが、しばらくして娘が、「お父さん、私のハワイ行きはどうなっている?」と聞かれました。その時点ではまだ何も決まっていませんでしたが、しばらくして彼女がハワイに行くことになりました。その理由は私よりも勝っていることがあったからです。それは、私よりもはるかに英語ができること、国際免許を持っていること、定職に就いていないのでお金がかからないというところです。今は、初めの遊び気分は吹っ飛び、とても忙しく働かせていただいています。娘からは毎日のようにメールが来て、これはどうする、あれはどうすると聞かれ、かえって私の仕事が増えたようにも思いますが、娘が真剣に奉仕しているのを見ることは、親として何より嬉しいことです。

 私たちは神の子どもとされ、多くのものを託されていますが、中には、イエスさまは私を愛しているだろうか、私は本当に天国に行くことができるだろうかと心配している人がおられるかもしれません。しかし私たちには保証があります。

『聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。』(エペソ一章十四節)

 電化製品を買う時、性能やメーカー、価格を見て購入されると思いますが、保証書がついているかどうかは重要です。買う時点では必要がありませんが、調子が悪くなった時、保証書がないといくら保証期間であっても保証を受けられないケースがたくさんあります。ただの紙切れですが、保証書と書かれているこの一枚は、大切にしなければなりません。

 「御国を受け継ぐための保証書」「永遠のいのちを持つ保証書」は、目に見えません。イエスさまは二千年前にこの世に来られ、私の罪のために、すべての人の罪を背負って十字架で死んでくださり、三日目によみがえりました。多くの人の前に現れ、天に帰られる時、「わたしの代わりに、あなたがたに聖霊を送る」と言われました。聖霊様が私たちの保証です。聖霊様を目で見ることはできません。しかし「主こそ、神です」と口で告白することができるならば、聖霊様が共におられるのです。聖霊様が共におられるなら、御国を受け継ぐ保証書を持ち、永遠のいのちの契約書を手にしていることを、ぜひ信じてください。 

 そして、私が遠く離れている娘をいつも気にかけているように、イエスさまは私たちが背を向けているときにも、イエスさまを否んでいるときにも、私たちを愛し、私たちのことを気にかけ、私たちのためにとりなし、祝福を与えようとされていることを覚えてください。御国を受け継ぐ者として選ばれた私たちは、神のみ名がほめたたえられるために、神のみこころを悟り、この働きをともに戦い抜いて、主のみこころを現し、主の栄光のために働いていきたいと思います。お祈りします。


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