「わたしは主、あなたをいやす者である」

2007.6.10(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

旧約聖書 出エジプト記15章26節
そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日このようにみ言葉を語ることが出来て感謝します。足もとの悪い中、お集まりくださり感謝します。今日の夜はゴスペルサパーがありますので、ぜひお出かけください。市原ひかりさんが来られます。彼女はよくテレビにも出ています。お父様の康さんはリバイバルミッションでよく奉仕してくださるドラマーの方です。大変素晴らしい演奏を聞くことが出来ます。

 私は明日からロサンゼルスに二週間奉仕に出かけます。今年はハワイリバイバルミッションがあり、その為に多くの働きがあります。それで外で働く機会が多いのです。私はロサンゼルスの日本人教会だけでなく、韓国人教会、アメリカ人教会など三つの国の教会でハワイリバイバルミッションの決起大会を行う予定になっています。これには大きな意味があると思います。
 特に、ハワイでリバイバルミッションが開かれることには、天で大きな扉が開かれる時であると信じます。ハワイと聞いて一番印象深いのは、真珠湾、「パールハーバー」です。そこから太平洋戦争が始まりました。太平洋戦争が果たした役割は、世界史において、大きな悪しき要素となったのは確かです。歴史は一方向からでは決して評価が出来ませんが、日本が太平洋戦争のきっかけを作ったのは確かです。そのことによって、大国アメリカを太平洋戦線に引き出しました。その戦いによって日本人は三百三十万人ほどが犠牲となり、アジアにおいては二千万人以上の人々が亡くなったと言われます。全体では、二千五百万人以上の人々が、ほんの数年の戦闘で命を落としたという、世界の戦史の中で最も悲惨なものでした。人類が一度も経験したことのない「原爆」を日本人は二度も体験したのです。そして、そのきっかけとなったのが「ハワイ」でした。

 今年は太平洋戦争が終わって、六十二年目です。終戦の時に十八才の方々は、今年八十才になります。あと数年もすれば、戦争を体験した人々は、相当少なくなると思います。戦後生まれの人々がほとんで全体を占めるようになります。
 聖書の世界を見ると、神の働きは常に回復と共にあります。神様は人類に回復を与えようと願っておられます。特に世界の歴史の中で、大きな汚点を残した太平洋戦争関係の霊的回復を願われていないはずがないと思います。そしてその回復とは、「原点から始まる」というのが、聖書の原則です。

 イエスさまの十字架と復活は、人類の罪の源である原罪を取り去ることにありました。アダムとエバが犯した罪の源に、イエスさまの十字架の勝利が宣言されたことにより、全人類が罪から救われたのです。
 同じように、太平洋戦争の原点である、パールハーバーのあるオワフ島のホノルルでミッションが行われることには、大きな意味があるのです。それも、以前敵同士であった日本とアメリカが一つとなって、霊的戦いを進めること、それも日本側のアプローチにより、日本主導で霊的回復運動を展開することには、大きな意味があります。

 さらに、日本が始めた戦争によって、最も大きな被害を受けたのが朝鮮半島に住む人々でした。今回私は、韓国教会でも幾つか決起大会を開くことになっています。私は日本語でメッセージしますが、韓国語に通訳されます。特に、回復のメッセージを届けたいと願っています。ぜひ、そのことを覚えて祈ってください。ハワイリバイバルミッションは、単なるイベントではなく、神が太平洋戦争の記憶が風化する直前に、その世代がまだ生きている中で、原点からの回復を願い、志を与え、実現に至らそうとされてる働きであると信じます。
 今年は、そのような意味において、日本のみならず、世界に回復の時が来ていると期待し、祈っていきたいと思います。神様の働きは常にいやしの働きと共にあります。

『「わたしは主、あなたをいやす者である」』

 神は私たちはいやしてくださるお方です。それは肉体だけでなく、心、霊、すべて、全人的ないやしと回復を与えてくださるお方です。
 聖書の「福音」とは「良き訪れ」という意味です。福音とは何かについて、イザヤ書六十一章に記されています。イザヤはイエスさまが生まれる七百年前に生きた人物でしたが、みごとにイエス・キリストの人生を預言しました。イザヤ書六十一章一節から三節に、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。』

 「わたし」とは、イエスさまです。「主はわたしに油を注ぎ」とあります。イエスさまは完全な人として、この地上に来られました。父なる神はイエスさまに油を注ぎ、神の霊によって奉仕されました。「貧しい者に良い知らせを伝え…」というのは、福音を伝えたと言うことです。そして、心の傷ついた者をいやすために来てくださったとあります。
 世界は戦争というテーマで、有史以来苦しめられています。一つの傷が次の傷を生み、それが国家的、民族的な傷となって覆っています。食い止めようとしても食い止めることができない悪の連鎖です。神はイエスさまを地上に送り、心の傷ついた者をいやすことを教えています。今回のハワイリバイバルミッションを通しても、長年据え置かれている傷がいやされる時であるように祈っています。それは単なるヒューマニズム的手法ではなく、聖霊の油そそぎによっていやされることを願うものです。
 今日も会衆の中に、いやしを必要とされている方がいると思います。ある方は肉体のいやしを必要とされ、ある方は、心のいやしを必要とされています。「わたしは主、あなたをいやす者である」という、イエスさまからのいやしが来ることを信じましょう。

 星野富弘さんという有名な人がいます。彼は元々、体育の先生でしたが、学生たちの前で演技指導しているときに失敗し、脊髄をやられて首から下が全く動かなくなってしまいました。彼は心も体も傷ついて苦しんでいるただ中で、イエスさまと出会いました。イエスさまは彼の体はいやされませんでしたが、心をいやされました。そして、彼の詩や絵によって多くの人々がいやされ励まされています。
 神様は、時々、人には理解できないことをなされます。彼の体は動かないかも知れませんが、多くの人の慰めになっています。彼の詩はなかなか素晴らしいものです。

「神様がたった一度だけ、この腕を動かせてくださるとしたら、母の肩を叩かせてもらおう。風に揺れるペンペン草を見ていたら、そんな日が本当に来るような気がした」

 彼は腕が全く動きません。一度だけでも動かせたら、お母さんの肩を叩いてあげようと詩っています。皆さんがそのような状態になって、一度だけ腕が動いたら何をしたいですか。母に対する深い愛情が表れています。彼がもしも肉体的にもいやされたら、すごいことが起こるのではないかと思います。また彼の詩の中に、こんな詩がありました。

「幸せという花があるとすれば、その花のつぼみのようなものだろうか。辛いという字があるが、もう少しで幸せになりそうな気がする」

 「辛」という字の上の棒をもう少し伸ばして、横棒を一本入れると、「幸」という文字になります。辛いという字に、十字架が乗ると「幸せ」になるのです。イエスさまを信じたら、幸せになります。辛い中でも、イエスさまが私たちの所に来られたら、幸せになるのです。「救いとは何か」について、使徒の働き二十六章十七節から十八節に、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

とあります。私たちに辛さや苦しみを与える存在とは何か、について教えています。救いとはどのような状況から救われるのでしょうか。それは、「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返る」とあります。救いとは、悪魔の支配下からの解放だと教えています。
 コロサイ人への手紙一章十三節に、

『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。』

とあります。アダムとエバが罪を犯した結果、人類は悪魔の支配に移ってしまいました。ですから生まれながらの人間は、罪の支配、悪魔の支配の中にあります。ですから、赤ちゃんが生まれたとき、「可愛い子だね。罪も汚れもない」と言いますが、それは嘘です。その中には罪の種が宿っています。種は適当な環境と時期が来ると、芽を出します。
 私の家内の実家は種屋ですが、種を買って適当な温度や湿度を与え、環境が整うと芽を出し結実します。人間も生まれたときは、「可愛いねぇ。罪も汚れもない」と言いますが、適当な環境が整うと、罪が芽を出し、花を咲かせ、実を実らせます。生まれながらの人間には原罪があり、ゆえに悪魔の支配下にあるのです。ですから放っておくと、罪あるゆえに悪魔の支配下で滅びてしまう存在です。
 しかし私たちが救われるとは、そのような悪魔の支配下から、神の支配下に移してくださるという事です。それがはっきりわかる日が来ます。それは、人生が終わる日です。

 先々週、教会では葬式が二つありました。葬式は、人生を考える良い機会だと思います。葬式は好きではありませんが、葬式でメッセージを語るのは好きです。なぜならば、葬式では、私の話をわざわざ礼服を着てまで聞きに来てくれ、真剣に聞いてくれるからです。先日Kさんが亡くなられました。また、Sさんのお母さんも亡くなられました。その他にも、この教会に来られている関係者の方々が亡くなられたこともあり、死について考えさせられる今日この頃です。
 最近では、この地域の方々も、キリスト教式の葬式にだいぶ慣れてきたようです。「教会の葬式はなかなか良いですね」と喜んで帰って行かれます。深く人生について考えるときです。Kさんの葬式は、新城ではなく島田市で行われました。新城教会はホームなのでやりやすいのですが、アウェイでやるのはなかなか難しいものがありました。葬式に二百人ほどの歴々たる人々が集まられました。葬式の時にメッセージを語らせていただきましたが、人生の究極的な事柄についても話さなければならないと感じました。
 人間は悪魔の支配下に生まれますが、やがて、悪魔の支配下なのか、神の支配下なのかはっきりとわかる日が来るのです。それがいつであるのか・・・。それは地上から出る日ですと話しました。
 私たち日本人はこうしている間にも、日本国政府の支配を受けています。朝起きたら、日本国政府の支配が強くて頭が痛くて、吐き気がしたと言う人はいないと思います。しかし日本国政府の支配がわかるのは、国を出るときです。私は最近、スペインに行ったり、アメリカに行ったりと、時差が戻らないうちに出かけるので、体内時計が狂っているところがあります。日本から出るときには、日本国政府の支配を証明する、「パスポート」を出さなければなりません。その時、「私には日本国政府の支配がある」とわかります。
 地上の人生を終えて出て行くときは、ちょうど海外旅行の出国の列に並ぶような雰囲気かも知れません。出国の列は混み合っています。人生を終えて地上から出ていく時、神の係官の前で、出国の長い列に付くかも知れません。その時に驚くでしょう。
 「世界では、一度にこんな多くの人々が死ぬのか・・・」と。やがて、何らかの書類を係官に提出します。神の係官は、私たちが持っていた書類を開いて、「あなたは神の支配下でしたね。良かったですね。あなたは神が完全支配している国に入ってください」と言われます。神が完全支配している国とは、「天国」です。やがて私たちは天国に行き、顔と顔を合わせて先に天に帰った人々に会うのです。
 教会の葬式は、淋しい中にも希望があります。永遠の別れではなく、死も苦しみも悲しみもないところで、再会できる希望があるからです。
 近頃、近親者を失われた方があるかも知れませんが、決して無駄に悲しんではいけないと聖書は教えています。聖書は、必ず、永遠の国・天国において再会できると教えています。

 しかし、生まれながらの人間は、渋柿のようでなもので、甘柿を継いでもらわなければ支配権は変わりません。生まれながらの人間が出国のゲートで神の係官に、自分の書類を提出するならば、係官は暗い顔をして言うでしょう。
 「あなたのパスポートは、悪魔の支配のパスポートです。悪魔の支配ならば、悪魔が完全に支配している国に行かなければなりません。」
「もしかすると、私は今から地獄に行くのですか?」
「そうです」
「地獄には行きたくはないですよ。何とかしてくださいよ。」
「何とかしてあげたいけれど、ここまで来ると支配を変える事務所がないのですよ。」
「どこにそんな事務所があったのですか」
「地上ですよ」
「地上のどこでしたか?」
「教会ですよ。教会に行って、生まれながらのパスポートを差し出して、神の国のパスポートに取り替えてもらったら、即、サタンの支配下から神の支配に移されたのに…残念でしたね」
と言われます。そして、悪魔が完全支配している国に行かなければならないのです。この話をKさんの葬式で話ました。

 今日初めて教会に来られた方は、偶然教会に来たのではありません。最初に、パスポートを書き換えが必要です。イエスさまを自分の救い主として受け入れるならば、永遠のいのちが与えられます。
 「辛い」という字に、十字架が加わると「幸せ」になりましたが、真の幸せは、この地上の幸せもありますが、「永遠の幸せ」を得なければなりません。それはイエス・キリストを信じることです。
 「心で信じて義と認められ、口で告白して救われる」と聖書にあります。ですから、「イエスさまを信じます」と告白したら救われます。とても簡単なことです。まだ完全には信じることができなくても、告白は重要なことです。そこには努力も修行も何ら関係ありません。

 イエスさまが十字架につけられたとき、右と左には強盗がつけられました。両者とも、イエスさまを罵っていました。しかし一方の強盗が、途中で心を入れ替え、「これはただごとではない。彼はキリストかも知れない」と、「イエスさま。あなたがパラダイスに行くときには私を覚えておいてください」と願いました。その時にイエスさまはなんと言われたのでしょうか。
 「お前はさっきまで俺の悪口を言い、舌が乾かないうちに、よくもそんなことを言えるもんだ。そんなこと出来るわけがない。お前は教会に行ったか。行かなかっただろう。そんな者は地獄だ…」とは言われませんでした。
 「今日あなたは私とともに、パラダイスにいます。」と言われました。何の努力もしなかった強盗でさえ救われたとしたら、今日ここにおられる方で救われない人は誰一人いません。信じて告白するならば、暗やみのパスポートは、光のパスポートである、天国行きに変えられます。

 私は新城市からは、大勢の人々が天国に行っていると信じます。なぜならば、時々、教会ニュースに、「声を出して唱えてください。イエスさま。私を救ってください」と声を出して読むように入れています。教会に来なくても、文章を読み、「イエスさま。私を救ってください」と告白して救われた人が多いかもしれません。
 「私は救われていた。どうしてだろうか?」
「あなたは教会ニュースを読んだでしょう。そして告白したでしょう。ラッキーでしたね。」と言われていると信じます。まずはイエスさまのお名前を告白することが重要です。その時に永遠が変わります。十字架によって、永遠が幸せになるのです。
 これは最も大きないやしではないでしょうか。今日ここにおられるすべての方が、永遠のいやし・救いを受け取っていただきたいと切に願います。

 「イエスさまは私の救い主です!」と告白してみてください。そうすれば、救われることができます。完全に聖書のことやイエスさまのことがわからないかも知れませんが、まずは告白するときに、私たちを変えてくださいます。イエスさまのお名前を告白しましょう。「イエスさまは私の救い主です」

 同時に、救いとはこの地上においても勝利をもたらす権利です。この地上は悪魔の支配下にありますが、そのような中にあっても神の支配下に移されるので、悪魔の支配によって苦しめられることはなく、神の支配の中に生きることができます。

 救いを伝達する働き「宣教」に関して、イエスさまは次のように語られました。マルコの福音書十六章十五節から十八節に、

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」』

 イエスさまは弟子たちにこのように告げられてから天に帰って行かれました。ここに宣教の手順を提供しています。救いといやしについての手順も含まれていると思います。まず第一に、

『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し』

とあります。諸悪の根源は悪魔・悪霊どもです。同時に、救いが素晴らしいものであっても人々にわからないのは、悪魔の支配があるからだと教えています。第二コリント四章一節から四節に、

『こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

とあります。イエス・キリストの救いは素晴らしいものです。永遠が変えられ、この地上においても祝福されるという素晴らしい内容にもかかわらず、わからないのはどこに理由があるのでしょうか。
 日本人はキリスト教以外の宗教だと案外寛容に受け入れます。しかしキリスト教に関しては、頭ごなしに「ノー!」と答えます。理由も何もなく、クリスチャンになろうとする人物に反対したことがあると思います。そのような体質が日本人の中にあります。
 この体質はどこで作られたのでしょうか。日本には長いキリスタン迫害の歴史があり、江戸時江代、二百数十年に渡って鎖国が行われました。それは「キリスト教撲滅運動」でした。だからキリスト教徒になると、迫害を受け、御上から苦しめられるという恐れが体質として染みついています。その為にキリスト教と聞くと、理由も聞かずに「ノー!」と答えるのです。その背後に、悪魔の力が働いています。
 素晴らしい福音を伝えているのにもかかわらず、それを受け入れないとしたら、どこに原因があるのでしょうか。それは、

『この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

とあります。今日は雨が降っていて天気が悪いですが、雲の上には常に太陽が輝いています。雨が降っている空港から飛行機が飛び立って、しばらくすると雲の上に出ます。そこには常に光が照っています。しかし厚い雲があったら、光は地上に届きません。同様に、イエスさまはすべての人を愛しており、神の霊は動いていますが、そこに黒い雲が立ち込めていたら光は届きません。それは、「この世の神々が覆いを掛けている」とあります。もしも今日家族の中で、ひとりがクリスチャンと言われる方がいたら、この世の神々の覆いをとらなければ、なかなか救いの光が届きません。
 また神様は私たちにいやしを与えたいと願っておられますが、この世の神々が暗やみを置いているならば、いやしも祝福も受け取ることはできません。
 「悪霊を追い出せ」というのは、まず覆われている暗雲を取れと教えています。イエスさまが「ゲラサ」に行ったときに、レギオンに支配されている男と出会いました。その時、レギオンたちが語った言葉が記されています。マルコ五章十節。

『そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

とあります。このゲラサという町にはレギオンの覆いがかかっていました。覆いがあったためにイエスさまを誰も受け入れませんでした。そればかりか、「ここから出て行ってください」とイエスさまを追い出しました。しかしレギオンの支配が砕かれたときに暗雲がとれたので、ゲラサはだけでなく、デカポリスと呼ばれる十の町が福音化したという記事が記されています。福音を閉ざす黒雲を打ち破るのです。
 町を覆っている悪しき雲を取り去る祈りが必要です。このことについて主は、十五年程前に教えてくださいました。新城市で人が救われない理由は、単に田舎だからと思っていました。しかし主は、「人が救われないのは覆いがあるからだ。地域から悪しき力が破られるようにとりなして祈りなさい」と語られました。はじめはよくわかりませんでしたが、町のためにとりなして祈るようになりました。それから十五年が経ちますが、徐々に黒い雲が押しのけられているように感じます。そして光が人々に届くようになりました。
 『悪霊を追い出し、新しいことばを語り』とありますが、正に、黒い雲がとれて人々に届く光は、「新しいことば」です。驚くような神の祝福のことばが人々に届くのです。
 町を支配し、国を支配する闇が取り除かれることを、祈らなければなりません。今日は一人一人にいやしが与えられるように祈りたいと思いますが、まずは、新城と日本を覆っている敵の力が破られるように祈り、新しいことばである、「わたしは主。あなたをいやす者である」という宣言が届くように祈りたいと思います。黒い雲が打ち破られるときに、届くことばは、私たちが知らない神の新しいことばです。

 次には『蛇をつかみ出せ』とあります。テサロニケ第一の五章二十三節に、

イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

とあります。人間は、「霊、たましい、からだ」によって構成されています。『霊、たましい、からだが完全に守られますように』とありますが、これは「敵の力から守られますように」ということを意味しています。
 テサロニケ第一、五章全体をぜひお読みください。これは、エペソ六章の「武具」について教えているところに共通しています。敵の手から守られるときに、私たちは完全な健康を得ることができるのです。悪魔は霊、たましい、からだに穴を開けて、蛇やネズミのように侵入しようとします。その時に侵入口、破れ口を塞がなければなりません。
 ネズミは家に穴が空いていると出入りしますが、穴を塞ぐとネズミは入ってきません。私たちの『霊、たましい、からだが完全に守られますように』とありますが、穴が空いていると蛇が侵入し、私たちに害を与えますので、つかみ出すようにと教えています。
 特に霊の世界で大きな穴を空けて、人生に蛇が入り込む要素となるのは、「偶像礼拝」です。偶像礼拝を、日本人は良かれと思ってやっていますが、最も強力な毒蛇が入り込む穴です。そこを塞がないと、人生は惨めになります。
 先週一週間、色々な方が教会に来られました。その方々は色々な問題を持っていました。なぜそんな惨めな人生になってしまったのか、その原因を調査してわかることは、霊の領域に蛇の侵入口が空いており、蛇が侵入して人生を傷付けているものでした。それが手で作った神々を拝む「偶像礼拝」です。
 日本人が拝んでいるのは、石、木、金属ですが、それに霊感を感じても拝んではいけないのです。多くの人が色々な霊体験をしていると思います。日本人は案外、霊的に敏感な民族です。おばあちゃんが死んでから、夢枕に立ったとか、金縛りにあったり、霊を見たという人が多いのです。どこで体験するかというと、ほとんどが、手で作った神々を背景に起こっています。それらは恐怖体験です。それは、霊的世界に侵入する蛇が存在することを教えています。穴があれば、放っておくと蛇が侵入し食われてしまいます。それを塞がなければなりません。仏壇をあたかも先祖かのように拝んでいますが、人は死ぬと神の管理下に入ります。ゆえに、どこか中空に浮いていたり、仏壇に住まうことは絶対にありません。
 にもかかわらず仏壇に霊的なものを感じるということは、先祖ではなく、先祖の振りをした死の霊です。死の霊が侵入するので家に死というテーマが常に流れます。
 しかし、その扉が閉じられれば死のテーマが消えるのです。「変な声を聞いたので祈ってください」と言って来られた方がありました。家系の中で相次いで、ガンで亡くなる方々があったそうです。すごく恐かったそうです。ある日その人は声を聞いたそうです。
 「今度はお前の番だ!」という声を聞いたのです。とても恐れていました。どこにその原因があるのか?それは死の力の侵入口です。
 真の神様が、代々同じ原因で人を殺そうなどと計画することは絶対にありません。神は人類に幸せを与えようとされています。にもかかわらず、家系の中に同じ問題が繰り返し起こるのは、蛇の侵入穴があるのです。その扉をしっかりと閉めなければなりません。蛇やネズミ穴を塞がなければなりません。そのためには、偶像礼拝という穴を塞がなければなりません。

 続いて魂に関しての穴は「憎しみ」です。人を憎むのは自由ですが、憎しみは悪魔と強力な関係があることを知らなければなりません。聖書は人を憎むと、悪魔が機会を捕らえると教えています。ですから、私たちは多少のトラブルがあっても、人を憎まないように努力します。なぜならその背後に悪魔の力が働くからです。憎しみがあったら魂の領域に穴が空くので敵が来ます。そして食われてしまいます。だから憎しみという穴を塞がなければなりません。

 また肉体の代表的な穴となる罪が性的罪です。それは不品行、姦淫です。性的罪は肉体をむしばみ、侵入する死の力です。肉体的罪は強い蛇が人を襲う要素になります。
 今の時代は性的に乱れた時代です。そのために蛇が侵入し、食われるのです。先日スペインに行きましたが、スペインはたいへん国が乱れていました。このままで大丈夫だろうかと思いました。小学生から麻薬を使っているのです。マリファナを五グラムまで所持していても良いという国です。だから小学生までがマリファナをやっています。そんなことをしていたら国は乱れます。
 またスペインは三割が同性愛だと言われます。市長、議員もホモだと言われます。肉体を通して蛇が侵入して国が壊されます。それを塞がなければなりません。
 このような罪を犯している人々に、「不道徳は駄目だ!」と言っても通用しません。しかし、死の力を持ったヘビが侵入する穴と知れば、人々は自分から離れるのです。私はスペインで、同性愛は大きな罪であると共に、蛇が侵入する穴だと話しました。
 蛇が侵入する穴を塞ぎ、蛇をつかみだし、『毒を飲んでも害を得ず…』とありますが、毒蛇に噛まれて死にそうになっていた人々が、十字架の血清によって毒が消され、その後、『病人に手を置けばいやされる』と言う領域に到達するのです。

 いやしに到達するまでに、条件を満たす必要があります。町を覆っている黒雲を取りのぞいて福音を語り、三領域から蛇をつかみだし、血潮の血清をもらって病人に手を置くのです。それまでに勝ち取った権威を、病人の上に置くのです。そうしたら、いやしが来るのです。

『わたしは主であって、あなたをいやす者です』というみ言葉が実際的に私たちの人生に動き始めます。今までの辛い人生は、幸せな人生に変えられるのです。
 私たちは常に神様の視点で町を見て、とりなし祈らなければなりません。町が黒い雲・福音を閉ざす悪魔の雲で覆われています。それは福音を閉ざす悪魔の雲です。しかし、クリスチャンが町のために祈り始めると、黒雲が取り除かれて新しいことばが語られます。そうすれば、人々は教会に来て蛇の進入路はふさがれ、蛇がつかみ出され、血清によって助かります。血清は、イエスさまの十字架の血潮です。そして病人に手を置けば、病人はいやされるとあります。

 『わたしは主であって、あなたをいやす者である』とありますが、今日は、霊、たましい、肉体のすべての領域でいやしを受け、幸せな人生を歩んでいきたいと願います。
 まだ永遠のいのちを得ておらず、暗やみのパスポートのままの人は祈ってください。そして霊、たましい、肉体に穴が空いている方は、穴を塞いでいただきましょう。教会全体で黒い雲が取り除かれ、神の新しいことばである『わたしは主、あなたをいやす者である』という言葉を宣言し、蛇が全て打ち砕かれ、イエスさまの十字架によってすべての毒が消えて病人がいやされる・・・、霊的な病人もいやされ、心の傷もいやされ、体の病もいやされる時となることを祈りましょう。この事を成してくださるのはイエスさまです。イエスさまに期待しましょう。

(告白の祈り)
「イエスさま。私はイエスさまを唯一の救い主、神として受け入れます。私の人生を変えてください。悪魔の支配ではなく、神の支配に置き換えてください。自由にしてください。今日私たちを覆っている悪魔の黒い雲に立ち向かいます。町を覆い、国を覆っている敵の力が破られますように。神の約束のことばが新しいことばとして届きますように。「わたしが主であって、あなたをいやす者である」という言葉が私の上に届きますように。霊、たましい、肉体において犯したその罪を赦してください。偶像礼拝の家系的罪を赦してください。憎しみからも、肉体的な罪からも完全に解放して自由を与えてください。人生の中に空いている蛇穴をイエスさまの名によって塞いでください。蛇をつかみ出してください。今日からすべての毒が消え去りますように。いやしが来ますように。勝利が来ますように。イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。」


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