「思い違いをしてはいけません」

2007.6.17(SUN)
新城教会牧師 上條実師

新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6章7節
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

 ハレルヤ!今日皆さんの前でみことばを取り次ぐことができますことを心から感謝いたします。今日もハワイリバイバルミッションのための決起大会が各地で行われています。滝元明牧師は富山県富山市にて本日は礼拝と夜に奉仕しております。また滝元順牧師はアメリカのロサンゼルスに出かけて奉仕をしております。報告によると、皆さんにお知らせしております集会以上にも、多く集会が計画されており、また個人的な祈りの時もあり、大変忙しくしているようです。ぜひお二人の先生方の健康と油そそぎのためにお祈りくだされば幸いです。さて今日は「思い違いをしてはいけません」というタイトルでみ言葉を学びたいと思います。私たちは「思い違い」がたくさんあります。時々我が家の恵太がかわいい思い違いをします。この間は、夕食時に「お父さん。このおはじき美味しそうだね。」と言いました。「おはじき?おいしい??」何を言っているのだろうか?と思いました。なにをおいしいと言っているかと彼をみると「おはじき」ならぬ「ひじき」をおいしそうに食べていました。また彼は口が悪く、ときどき自分のことを「オレ」と言います。「オレじゃなくて、ぼくって言いな!そんなことを言っているとオレオレ詐欺になるぞ」と息子が言っていました。すると恵太は「ねぇ?オレオレウサギって何?」と息子に質問し、みんなで大笑いしてしまいました。まだそんな可愛い思い違いなら良いのですが、クリスチャンとして、ある意味致命的な思い違いをしてしまったなら、祝福をいただくどころか、悪魔の策略にはまり、大変なことになってしまう時があります。ですから今日、神さまが私に教えて下さったり、自分が陥っていた思い違いを紹介しながら、祝福と勝利をいただけるように学んでいきたいと思います。

 ある四コマ漫画がありました。それは第一コマ目、子どもたちが楽しそうに遊んでいる絵で、そこには「若すぎる」と書いてありました。二コマ目は、若い男女の二人が書いてあり、そこには「楽しすぎる」とありました。三コマ目は働いているところが書いてあり、「忙しすぎる」と書かれてありました。そして最後の四コマ目はお墓が描かれており「遅すぎる」と書かれてありました。その漫画を見て、人生について考えさせられました。私たちは毎日忙しく、その日その日を必死にまた楽しく生きようとしています。しかしふと気付くとゴールが来てしまいます。新城教会の兄姉やご親族の方のなかで、この一ヶ月間程に四人もの方が亡くなられました。私たちは人生いつ終わりが来るかわかりません。先日あの有名な「タイタニック号」の記事を読みました。皆さんご存知のように一九一二年豪華客船が大西洋を処女航行したときに起こった事件です。皆さんご存知かも知れませんが、その記事を少しご紹介します。

「1912年4月12日、豪華客船「タイタニック号」がアメリカに向け処女航海の大西洋上で、氷山に衝突して沈没して多くの犠牲者を出した。タイタニック号が沈没した時、英国リバプール市にあるホワイト・スター汽船会社事務所の前に起こった光景は、筆舌に尽くしがたいものであった。この不運な汽船に乗り込んだ人たちの家族や、友人の群れが道路いっぱいにあふれ、交通はすっかり遮断された。そして、事務所正面入り口の両側に、大きな掲示板が掛けられ、その一つには、大きな字で「生存者」、もう一つの方には「行方不明者」の名前が書き出された。ひっきりなしに、乗船者の名前を書いた紙片を持った係員が、事務所から出て来て、入り口に立ち、大勢の人を見ながら、紙片を高く上げると、群衆はまるで水を打ったように静かになり、「生存者」の方か、「行方不明者」の方か、どちらかの掲示板に紙片がはり出されるか、みな息を殺すようにして見守った。これらの群集は、この豪華客船に乗っていた人の運命は、ただ、二つのグループに分けられた。つまり、「生」か「死」のグループのどちらか。」

と記されています。ヨハネの福音書三章三十六節に、

『御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者(信じない者)は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』

どちらかに分かれると書かれています。続いてタイタニックについてお読みします。

「また、このタイタニック号の海難事故について、一人の記者が次のように語っている。がく然とさせられることは、その船が沈んだということではなく、十五時間前に無線によって警報を受けていたにもかかわらず、その船は沈み、しかもその直前まで、船は全速力を出し、楽隊は楽器を鳴らし、船客は踊りにふけり、明らかに、だれ一人として前方に氷山のあることに注意していなかった。」と。」

十五時間前に航行航路上に氷山があると伝えられていました。しかし船は絶対に沈まない設計がされていると自信を持っていました。その為氷山があるという無線を気にしていませんでした。そのため取りかえしのつかない大惨事が起きてしまいました。第一テサロニケ五章三節に、

『人々が、『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。』

私たちは「まだ大丈夫」と思ってしまいます。四コマ漫画の最後に「遅すぎる」と書いてあるとお伝えしましたが、あなたも「平和だ、安全だ」と言っている時に、突如として滅びが襲いかかると言うことを覚えてください。ガラテヤ人へ手紙六章七節に、

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』

ぜひ思い違いをしないで下さい。忙しすぎて、終着を意識せずに毎日を送っています。最終的な裁判の時が来ます。詩篇十四篇一節に、

『愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。』

聖書ははっきりと、死後には天国もしくはさばきのどちらかであると教えています。タイタニックの時でも、乗船していた名前を高く掲げ、「生存者」もしくは「行方不明者」のどちらに貼られました。私たちも同様にどちらかに名前が記されます。「天国」か、「滅び」どちらかです。まだイエスキリストを信じ受け入れておられない方はイエスキリストを信じて下さい。あなたは救われます。特に日本人はあまりにも死について考えないみたいです。生きている間に「死」に対して語ることをタブーとしています。しかし聖書は「主の御名を呼び求めるときに救われる」とあります。また「信じてバプテスマを受ける者は救われる」とあります。そしてイエスさまを心の中に受け入れる時、「いのちの書に名が記される」と書かれています。ぜひイエスキリストを信じて下さい。その中で「思い違い」しないで下さい。私たちはイエスキリストを信じたら、永遠の命を頂くことができます。しかし悪魔は責める者です。「お前、本当にクリスチャンなの」と責めてきます。「そんな罪深い者が天国には入れないぞ。」と囁いてきます。「こんな罪をしたじゃないか?こんな思いを持っていてクリスチャンと言えるのか?」と訴えてきます。「もしかしたら、自分は神の前に見捨てられるのではないか?」「自分がいのちを落としたら滅びに行ってしまう」と苦しみ続けていませんか?いつも恐れの中で、自分は大丈夫だろうかとおびえさせてくるのです。本当に天国に行けるだろうか?と思い、救いの喜びをなくしてまいます。毎日清らかな生活をしなければいけないという、プレッシャーに押しつぶされ失敗すると「おまえは罪人だ。お前の救いはなくなった」と訴えます。しかし、私たちの救いはもうイエス・キリストを信じたとき、確かに命の書に名が記されました。だからあなたは確かにイエスキリストを信じたとき、救われて、天国に入ることができます。思い違いをしないでください。今日あなたは愛されています。

『わたしの目には、あなたが高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

世界一あなたを愛していると言っています。あなたの信仰生活がどれだけ神にたいして遠くなっても、放蕩息子の話にあるように、父の財産を湯水のように使った放蕩息子を、父親はずっと戸口で待っていました。父を裏切ったような息子に対して、帰ってきた息子を抱きしめ、着替えさせ、指輪を着けさせ、彼のために宴会を催したのです。同じように私たちがどんなに罪に汚れ、イエス・キリストを裏切ったような私たちも「お前を愛しているよ」と言ってくださり、受け入れて下さいます。ですから今イエス・キリストを主と告白するならば、あなたは確実に救われています。救いは完全です。どんなに悪魔が訴えてきても、救いを剥奪することは一切できません。あなたは救われています。そして今のあなたに対して、

『わたしの目には、あなたが高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

と神が語っていることを信じて下さい。思い違いをしないで下さい。悪魔がどんなに訴えてきてもあなたは救われています。そしてもう一つの思い違いについてエペソ六章十節に、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。』

「大能の力」とは、神の力、聖霊の力を意味します。ぜひその神の力によって強められ、更に生き生きとした喜びの人生を送っていきたいものです。しかし思い違いをしていると教えられたことは、祈りの中で思い違いをしている時があるということです。祈りには力があります。この新城教会は五十数年の歴史があります。この教会を中心に日本リバイバルクルセードが発足し、日本のリバイバルを求めていく宣教団体が発足しました。そしてよく愛知県民の森を会場として聖会を開催しました。その講師としてリバイバルが起きたお隣りの国韓国から先生方をお呼びしました。そしてなぜ韓国がリバイバルされたのかを語って下さり、その秘訣は祈りだと語って下さいました。熱い祈りを韓国はささげています。必死の祈り、祈りまくっている韓国に刺激され、この教会も県民の森祈祷会を始め、叫び求める祈りがなされるようになりました。それは私たちの教会にとって大変祝福になり、神様が扉を開いてくださったと信じます。それまでも祈ってはいましたが、祈りには力があり、祈りこそリバイバルの秘訣であると教えて下さいました。しかし必死に祈れば祈るほど、私は思い違いをしているようでした。私は必死に祈る時、神様が段々小さくなっていくような雰囲気がします。「神様。家族が救われますように。」「病気がいやされますように」と一生懸命祈っているとき、そればかりに目が行き、ほんの少しでも良くなると、「良かった。神様が触れてくださった」と考え、また一生懸命必死に祈ります。そして必死で祈る中で答えが来ないと、私たちの祈りは答えられない。神さまは遠くに行ってしまっているような感じがする。しかし思い違いをしないでください。あなたの神様はどんな神様ですか?私は親しい兄弟たちに質問する時があります。それは「あなたのイエスさまは死んじゃった?」と聞きます。すると、当たり前の答えが返ってきます。「いや、生きていますよ。私の神様ですよ。」しかし私たちが必死になって自分の時間を削って祈る中で答えられないと「駄目だ。もう祈っても無理だ。難しい」と思ってしまいます。なぜか知らないうちに、神様が働くことのできない、力のない神に成り下がってしまっています。今日十字架にかかられた救い主イエスを覚えてください。聖書はいやし主であり、助け主。また守ってくださる方です。祝福をくださり、あなたを見捨てない神、戦いの神、天地創造の神です。その他でもいくつもこのような神だとあげることができます。祈りが答えられない、駄目だと考え、私は神様に触れていただけないというジレンマに陥ってしまいます。しかし今日あなたの信じている神はどのような方かを思い出してください。天地をつくられた神であり、あなたをつくり、あなたのことを全部ご存知である神が、私たちの神であることを信じて下さい。ローマ人への手紙十六章二十節に、

『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。』

私たちが一生懸命祈っていくときに、悪魔の策略は「お前が祈っても奇跡は起こらない。」「おまえが祈っても救われない」と私たちの心に語ります。しかし神は平和の神です。私たちは何もできない者ですが、今日私たちを救い、私たちが信じた神様は大きい神です。なんでもできる神です。聖書のことばは今も生きています。天地をつくってくださり、私たちが見たこともないような宇宙までも、全部主がコントロールしてくださっていることを覚えなければ行けません。今日皆さんが道路で蟻がいたならば、自分の足で簡単に蟻をつぶすことができます。蟻をつぶすことがとても大変だ考える人はいません。我が家の六歳の恵太やもっと小さな子どもでも何も恐れずに踏みつぶすことができます。あなたが信じている神は比べることができない程大きな神さまです。あなたの問題は簡単につぶすことができる神です。時々蟻は私たちの体に上ってきて噛み、かゆみをもたらします。しかし上ってこないように気をつけていれば、蟻は何ら、私たちに驚異を与えるような、怖い存在ではありません。それと同じように私たちの神は大きい神です。なんでもおできになる神さまです。救い主であり、祈りに答えてくださる神さまであり、いやし主です。特に私の好きなみ言葉にローマ人への手紙二章十一節

『神にはえこひいきなどはないからです。』

旧約聖書にある預言者や、新約聖書のパウロなど神によって力を与えられた人物は特別な人と言うことではありません。その神はえこひいきなどないと言っています。その神が私の主であり、あなたの主です。あなたを愛してくださっています。私たちは同じ神さまを迎え入れています。ですから、今日決して神さまを小さく考えないでください。あなたと共にいる神は万軍の主であり、何でもできる神であることを覚えてください。

またもうひとつ「思い違い」をしないようにと言うことで第一コリント十二章二十七節に、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

神様は私たち教会をからだとしてたとえています。ある方は手であり、目であり、口であり、耳であり、色々な器官だと語っています。今日ここにおられる方々は、全員なにか一つの器官を担っています。しかし私たちクリスチャンは、知らないうちに傍観者になってしまうことがあります。一生懸命祈ったりするのは牧師、スタッフするのが役割。また奉仕するのは時間のある方がすること。しかし私は違う、忙しい。ある方は私は何も取りえがない。たまものがない等一つの体であるにもかかわらず、知らないうちに傍観者になっています。わかりやすく例えると、二千六年にドイツにてサッカーのワールドカップがありました。そのテレビ中継を多くの人が朝早く起きて観戦しました。またある方はわざわざドイツまで出かけて観戦した方もいます。そのテレビ中継を観戦している人たちが応援する姿はものすごく迫力あるものでした。とくにその人たちは、全員が解説者のようになって「あいつは下手だ」とか、「早く変えろ」などと、監督のようにテレビの前で指示してみたり、「走るのが遅い」「ディフェンスが弱い」等々みなが解説者でした。自分が実際やってみればまったくうまくできないのに、私たちはすぐに評論家になっています。しかし今日覚えてください。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

色々な伝道会があり、祈り会など、色々なプログラムがあります。今日は青年たちが「The Call」のための決起集会が昼食時にあります。その時誰かがやってくれるだろうと、知らないうちに選手ではなく観客になっています。応援はします。否定はしません。「頑張れ。すごい!」と応援をしますが、知らないうちに観客席に座っていないでしょうか。今日この教会が一つになり、愛し合い、互いのために祈り合っていくことをしなくては行けないことは皆さんはすでに理解しています。神さまが頭であり、私たちは各器官だというみことばは知っています。今日観客席にいたならば、あなたは批判や評論家になることはできます。しかし特定の人だけが戦うのではなく、全員が各器官をになっているのですから、あなたもグランドに降りる事が必要です。決して見ているだけでも、批判するだけでもなく、私たちは小さな働きかも知れませんが一緒に働きましょう。よく私は祈りしかできないと言われます。しかしその祈りが一番の武器です。それが一番の大きな祝福です。ある方はささげる賜物、ある方は挨拶する、それだけでも心が通じ合って一致し、喜びが与えられます。数年前天に帰った岡本康宏君はダウン症で障害を持っていました。しかしいつも新しく来られた方の所に行っては挨拶をしていました。それを見て、私たちも、そうしないといけないなぁと思いますが、なかなかお隣に誰が座っても挨拶まではできても、話しかけることができずに終わっていることがあります。今日あなたは神の一つの器官です。ぜひあなたは観客席にいないで、一緒に戦いはじめてください。あなたの与えられている時間、環境、性格も全部神はご存知です。あなたが教会のためと言うより、神さまのために働き始めて下さい。あなたが働き始めるときに、大きな力が現わされます。神はあなたを用いたいのです。自分のために持ってきた弁当である二匹の魚と五つのパンを持った少年ですら、神さまは用いて奇跡を行いました。何気ない日常使うものを神は用いて奇跡を起こしました。何か特別なもの、何か特別なことをしなくても良いのです。あなたの日常の中でできることを神にささげて下さい。私が以前聞いたみ言葉で、忘れることのできないメッセージがあります。それは韓国のチョン・ウンサン牧師が語られたメッセージです。先生は歯車の話をしてくださいました。歯車が一つ回ると、次の歯車に力が伝わります。そしてどんどん回っていくとき最後には、大きな力を出すことができます。奥に入り込んでいて誰にも見えない小さな歯車でも、その役割を忠実にすることによって大きな力を作ることができます。しかしその小さな歯車が回らなかったら、その力はそこで止まり、何も力を伝えることができません。いくらあなたが目立たない小さな歯車であり、どこで何をしているかもわからないような歯車であってもあなたに、神が任せてくださった仕事があります。ぜひグランドに出てください。あなたが日常の中で神のために託された役割を忠実にこなす時、この地域や日本の方がイエスさまを信じる事ができます。「思い違い」をしないで下さい。あなたが何もできないのではなく、グラウンドに出て、あなたのできることをやり始めてください。自分はできない、自分には何も賜物はないと悪魔は思い違いをさせてきます。あなたがグランドに出てください。やれることを行って下さい。祝福を神様が与えてくださいます。最後にもう一つ「思い違い」をしないでほしいみことばを学びます。それは詩篇四十一篇一節から三節に、

『幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。』

私の大好きなリビングバイブルで読むと、

『貧しい者に親切な人は、神様から祝福を受けます。その人が困難に会う時、神様は助けの手を差し伸べてくださいます。また、無事に守って生かし、人前で面目を施させ、敵を蹴散らしてくださいます。病気になると、神様ご自身が看護にあたり、痛みをやわらげ、心配事を取り去ってくださるのです。』

素晴らしいみ言葉です。私たちに『隣人を愛せよ』というみ言葉を知っています。知ってはいながらも、思い違いをしています。自分のことで精一杯なのです。他人のことはその人が考えること。自分には色々な問題がある。病気がある。祈りの課題がある。隣人を愛することをわかってはいても実行できない。自分のことしか考えられなくさせられています。使徒の働き二十章三十五節に、

『受けるよりも与えるほうが幸いである。』

今日私たちには、健康の問題、家族の問題、夫婦の問題等色々な問題があります。経済的な事、会社などの人間関係等多くの荷物を背負い込んで必死に生きているかも知れません。しかし詩篇四十一章一節には、

『幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。』

私たちは自分のことでいっぱいになっているかも知れませんが、聖書は弱っている者に心を配れと言っています。私たちは私たちのことで精一杯と思わさせられていますが、周りを見て下さい。もっとあなたより苦しみ、悲しんで必死に生きている人たちが大勢います。私たちには着る物があり、履く靴があり、住む家もある。食べるものもある。しかし、そんな恵まれた生活をしていても苦しんでします。しかし、世の中には、家もなく、今日食べる物がない人が大勢います。にもかかわらず、私たちは精一杯です。自分でもう駄目だ。自分はもう生きていけない。そして多くの人が自殺してしまいます。日本では一年間に三万人以上の人が尊いいのちを自ら落としてしまっています。しかし聖書は「弱っている者に心を配る人は幸い」とあります。人のことに関わることはできないと言われるかも知れませんが、あなたの祈りの中にほんの少しでも良いですから「あの人も大変そうだから助けてあげてください」と他の人のために祈り始めて下さい。人のためにあなたが心を配れるようになっていくときに、変化が訪れます。祝福があります。リビングバイブルの二節には、

『人前で面目を施させ、敵を蹴散らしてくださいます。』

私たちはいつも戦う姿勢で進むべきですが、今回私は、こういう霊的戦いもあるんだと教えられました。『人前で面目を施させ、敵を蹴散らしてくださいます。』。あなたが敵を蹴散らすのではなく、私たちは弱っている方々に心を配り始めるとき、神ご自身が私たちの敵を蹴散らしてくださると教えています。私たちは自分のことを必死に祈りますが、その時間今度は、『受けるよりも与える方が幸い』とあるように、人のためにあなたが祈り始めてください。心を配り始めて下さい。敵を蹴散らせてくださいます。またリビングバイブルの三節に、素晴らしいことが書かれてあります。

『病気になると、神様ご自身が看護にあたり、痛みをやわらげ、心配事を取り去ってくださるのです。』

わたしはこの訳が好きです。弱っている人に心を配る時、神様が直接触れてくださり、看護し、痛みをやわらげ、心配事を取り去って下さる。弱っている者に心を配る人になる時、あなたの祈りの課題は神さまが解決して下さいます。あなたは人のため祈り始めて下さい。私たちが人のために心を配るときに、主が勝利を与えてくださいます。思い違いをしないでください。あなたが戦うのではありません。あなたが行うことは全く戦いとは違うようなことですが、弱っている人に心を配ってください。すると勝利し、いやされ、心配ごとから解放して下さるのです。今日ここに多くの兄姉がいますが、お互いのために祈り始めて下さい。一緒に祈り始めて下さい。その時にその人の大きな壁が崩れると同時に、なんとあなたの壁も知らず知らずのうちに崩れます。人のために心を配る時、自分自身に素晴らしい祝福を注いで下さると約束されています。

「人は種を蒔けばその刈り取りもすることになります」とあります。ぜひ弱っている者に心を配る人となって下さい。今日は「思い違い」しないようにしましょう。あなたがイエスキリストを信じているなら、必ず天の御国に行くことができます。そしてもう一度あなたの信じている神さまの偉大さを確認して下さい。なんでもできる神です。そして観客人にならずに、あなたも参加して下さい。そうすれば一つの器官が動く時大きな力を作ることができます。そして最後にあなたが、弱っている者に心を配る人になる時、人々も祝福されると同時に、あなたも祝福され、悪しき力から勝利することができます。私たちの神は死んでいませんか。あなたの神は救い主であり、全能なる神様です。思い違いを悔い改め、生きている神様に目を向けて進んでいきたいと思います。ご一緒にお祈りします。

「愛する天のお父様。今まで思い違いをしていたことを赦して下さい。私は今日イエスキリストを信じる信仰の上に天の御国に行けることを感謝します。そして今まで祈ってきてはいましたが、知らずうちにあなたを小さく考えていたことを赦して下さい。全能の神であることを認め、信じます。また観客席にいましたが、これからは自分ができることを行う器官とさせて下さい。そして自分のことだけでなく、弱っている者に心を配る人と慣らせて下さい。主イエスキリストの聖名によってお祈りします。アーメン」


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