回復の時が来ます!

2007.6.24(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

旧約聖書 イザヤ書61章1節〜11節
神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。

 ハレルヤ!おはようございます。皆さんのお祈りに支えられ、二週間程、ロサンゼルスに出かけ、素晴らしい集会を持つことができましたことを、感謝します。今回の集会は、ハワイリバイバルミッションの一貫として行われました。日本人教会のみならず、韓国人教会、アメリカ日系人教会、白人教会、黒人教会など、色々なタイプの教会を回り、一緒に集会を持ち、共に祈ることができました。大変貴重な体験を多くさせていただきました。

 私たちは日本のリバイバルだけではなく、世界のリバイバルを求めて祈っています。今回のハワイリバイバルミッションを通して、世界に大きな回復が来ますようにという祈りの輪が、徐々に広がっていることを感謝します。
 ハワイリバイバルミッションと全日本リバイバルミッションの働きを紹介するために、一つのDVDをアメリカで上映しました。リバイバルミッションの歴史と、ハワイリバイバルミッションの趣旨などを織り込んだものです。英語の作品ですが、字幕がついているのでよくわかると思います。五分間ほどですが、そのDVDをお見せしたいと思います。これは十五年間の新城教会の歴史とも言えるでしょう。(DVDを見ました。)

 人は祈る動物です。祈るということは、どこかに祈りを聞いて下さる方がおられるという証拠です。本当の神・イエスさまが私たちの祈りを聞き、回復を与えてくださるということが、今日お読みさせていただいたみ言葉です。
 今朝は大勢の方々が来てくださいました。色々な場所から来て下さいました。特に、先日、天に召された片川さんのご親族が、納骨式のために来てくださいました。私たちクリスチャンは、この地上だけに希望を持つものではなく、永遠の国・天国に向かって進んでいる者たちです。人生は様々であり、色々な苦しみや悲しみがあります。やがて人はこの地上から出て行きます。しかしそれだけで人生が終わってしまったら空しいです。けれども、私たちはこの地上だけで人生を終える者ではなく、永遠の国・天国に向かって進んでいます。ここで礼拝をともに捧げていた方々で、すでに先に天に帰られた方々も多くいます。新城教会から天に帰られた方々が、今朝も、この礼拝に関心を持って、天国の巨大スクリーン・モニターの前に集まって、とりなし、祈っているのかも知れません。やがて私たちは会うことができる望みがあることは素晴らしいです。

 物事は何を前提に置くかによって、結果が変わります。皆さんはどのようなものを根拠・前提として人生を送られているでしょうか。クリスチャンは、「イエス・キリスト」を前提・根拠として歩んでいます。人間は何らかの目に見えない存在を必要としています。世界中で神をと信じていない民はいないのです。
 ロサンゼルスに行きましたが、ロサンゼルスには色々な国から人々が集まっています。人々はそれぞれ自分自身の信じる根拠を持って生活しています。宗教的事柄は人間の前提として一番大きな事かも知れません。
 私たちクリスチャンが信じる神とは、どのような神なのでしょうか。聖書の神は、「わたしはあってある者」と語られました。私たちの神は「あってある方」です。決してなくならない方が共にいてくださいます。人間は有限の動物であり、やがてなくなってしまいますが、あってある方が共にいてくださるならば、どんな時でも私たちは支えられます。
 日本人が根拠としている宗教は、人間が自ら作り出したものであり、その背後には偽りがあります。しかし聖書の神は事実に基づく神です。

 イザヤ書六十一章のみ言葉は大変有名です。この箇所は、特にイエスさまがお生まれになる七百年も前に、イエスさまのお生まれについて預言された箇所です。イザヤ書六十一章一節から三節に、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。』

 「わたし」とはイエスさまご自身です。イエスさまがこの地上に来られたのは、「心傷ついた者をいやすために来られた」とあります。イザヤはイエスさまが生まれる七百年前の預言者でしたが、イエスさまがこの地上に来て、どのような歩みをされるかについて預言しました。

 また、イエスさまはこのイザヤの預言を引用され、「今日このみ言葉があなたが聞いている目の前で実現しました」と宣言されました。
 新約聖書と旧約聖書を両方を読んでいくと、その事実・真実性が明らかになります。ルカの福音書四章十四節から二十一節に、

『イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」』

 イエスさまはイザヤ書六十一章一節から三節を引用し、『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』と宣言されました。七百年前にイザヤによって語られた言葉は、正しく、イエス・キリストのことであったのです。

 ここで、聖書のみ言葉は、「私たちが聞いたその日に実現する」と教えています。私たちは会話の中で、常にそれが過去形なのか、現在形なのか、未来形なのかを瞬間的に仕分けしながら生きています。
 私は二週間、ロサンゼルスにいて英語でコミュニケーションしなくてはならない場面が多くありました。語られる言葉が過去形なのか、現在形なのか、未来形なのかを聞き落とすと、大変大きな誤解につながります。そのようなことがしばしばありました。私たちは常に、それが過去に起こったのか、現在起こっているのか、未来なのかを考えています。これはギリシア的思考の世界観です。ギリシアは世界に大きな影響を与えましたが、ギリシア語的な時間的世界観は、過去・現在・未来を瞬間的に仕分けする思考形態です。

 しかし聖書の根底にある前提は、ヘブル的世界観であり、ユダヤ人が持っていた時間的世界観によって書かれています。その概念は、「完了」か「未完了」かのどちらかだというのです。ギリシア的な時間概念とは違います。
 ということは、神様は時間、空間を超えたお方なので、神が言葉を発したときに、既にそれが「完了」しているのです。
 私たちは毎週のように教会に来てみ言葉を聞いています。聖書の言葉は将来に対する預言的な言葉であったり、過去の歴史であったり、色々な事柄を含んでいます。聖書が神のみ言葉ならば、神は過去・現在・未来を超えたお方ですので、神様が私たちに言葉を語った瞬間に、完了形となるのです。ですから、私たちが聖書の「み言葉を聞いたその日」が、神の言葉が実現した日となるのです。

 イザヤが語った言葉は七百年も前の言葉でしたが、ユダヤ人たちがイエスさまからそのみ言葉を聞いた「その日」に、「この言葉は実現した」とイエスさまは語られたのです。
 ですから、今日私たちが聖書の言葉を聞くことは、私たちに神の言葉が完了形として実現する日、という信仰を持つことが大切です。

 いまだに問題が残っていたり、苦しいことがあったり、将来に対する不安があるかも知れませんが、神の中においては既に「完了形」です。イエスさまがこの地上に来てくださったのは、「心の傷ついた者をいやすために遣わされた」とありますが、イエスさまが心の傷をいやすと語られたら、私たちにまだ傷があるかも知れないけれど、神の中ではすでに完了形なのです。ですから、「今日この言葉が私たちに実現した」という信仰と共に歩む必要があります。また将来に対しても、神の言葉は既に私たちの手の中にあり、それは完了形で与えられている言葉なのです。

 イザヤ書六十一章は、個人の救いについて教えています。イエスさまがこの地上に来られた目的は、私たちをいやす目的でした。心も体も霊も含め、全人的ないやしを私たちに与えてくださるお方です。
 同時に、イエス様は「捕らわれ人を解放するため」に来られたとあります。人々は色々なものに束縛され、苦しんでいます。
 ロサンゼルスで集会をしましたが、その合間に、問題を持っておられる方々のためにお祈りしました。ある日、一人の麻薬中毒患者のために祈ってくださいと言われました。その方はインド系の方で、奥さんは日本人でした。麻薬に手を出して苦しんでいるから祈ってあげてくださいと言われ、その家を訪問して一緒に食事をし、祈らせていただきました。その人は何とかそこから抜け出したいと願っていましたが、束縛されて抜け出すことができないと言われました。
 また、先週の日曜日は白人教会で二回のメッセージを取り次がせていただきました。最後に招きをし、「イエスさまを信じたい人、苦しんでいる人は前に出てお祈りしましょう」と言うと、大勢の人が前に出てこられました。礼拝は十二時半頃終わりましたが、三時頃まで人々は祈りを受けるために待っておられました。

 そんな中に、どこの国の人なのかわからない顔つきをした男性がいました。それもちょっと恐ろしい感じの人で、ランニングシャツで筋肉ムキムキ、体中刺青だらけの目つきの鋭い人でした。彼が私の所に来て最初に見せたものは、「指」でした。彼の指先は切断されていてありませんでした。彼はハワイから来たマフィアでした。彼には色々な人種が混ざっていて、どこの人種かわかりませんでしたが主にハワイアンでした。しかし彼は、涙を流しながら「祈ってください」と言いました。
 彼は十四才の時にマフィアにスカウトされ、十六才で人を殺し始めたというのです。そして彼は「ヒット・マン」と呼ばれ、人を暗殺する役割であったそうです。しかし彼の心の中には自分の犯した罪に対する深い傷と、苦しみでいっぱいでした。彼は涙を流して祈りました。すると彼に聖霊が激しく触れました。
 人間はよかれと思って色々なものに手を出しますが、最終的には束縛されて苦しみの中に閉じこめられます。そしてそれは、自分ではどうにもならない束縛となります。
 しかしイエスさまは、その束縛から解放されるお方です。今日、「私はどうにもならない、束縛がある」といわれる方は、イエスさまがその束縛を解かれ、自由にしてくださいます。神がおられなかったら希望はありませんが、聖書は、私たちを救ってくださる神がおられることを教えています。イザヤ書六十一章を読むと、

『彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。』
とあります。また九節に、
『彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。』

とあります。ここでは「個人」から、「町々」「国々」という、視点の拡大を読み取ることができます。

 今回私はロサンゼルスに行きましたが、大きな都市は世界中、どこでも危ないです。気をつけなければ、お金を取られたり、命まで狙われるような目にも会いかねません。私はパサデナという町に滞在しましたが、はじめの一週間は、私と滝川充彦くんとでチームを組んで各教会を回りました。泊まったホテルは一番安いところでした。二人でほんの数十ドルという所で、治安は悪いけど、我慢すれば値段は安いという場所でした。昼間は何とかなりますが、夜になると何となく雰囲気が悪いのです。何もしていないのに、びんびんと恐ろしさが伝わって来るところでした。

 ある夜、私たちが駐車場に着くと、二十ドル札の束が落ちていました。「ヤッター!」と思いましたが、どうもそのお金が危なそうなのです。すべて二十ドル札だけで、変な束になって木の根本近くに不自然に置かれているのです。何となく、麻薬取引の現場ではないかと思いました。触らない方が良いと思い、すぐにフロントに連絡して逃げました。ある地域は、命が欲しかったら入るなというような場所もあります。
 巨大な町は危険をはらんでいます。日本もそうです。東京も危ないです。今日、ホームページで一年間にどのくらい東京で犯罪が起こるのかを調べました。すると、なんと、「三十万件」の大小様々な犯罪が東京では起こっているそうです。自分で自分の身は守るしかないと記されていました。

 町が建てられた背景について、聖書に記録があります。人類は、アダムとエバから始まりました。その間にカインとアベルという二人の息子が生まれました。その息子たちが喧嘩をして、カインがアベルを殺してしまうという、世界で最初の殺人事件が起こりました。
 アダムとエバは神が用意された素晴らしい、エデンの園に住んでいましたが、蛇・悪魔の誘惑に会い、そこから追放されるはめとなったのです。そこから死の力が人類に入ってきました。
 神はアダムとエバに、「善悪を知る木の実を食べてはいけない。食べたら死ぬから」と言いました。しかし何と、アダムとエバはそれを取って食べてしまいました。しかし食べたら急に腹痛を起こし、倒れて死んだとは記されていません。その時にどちらかが死んだら、私たちは生まれ出ませんでした。しかし「死ぬ」と言われた言葉がどこで実現したのでしょうか。それは「息子の代」でした。

 誰もが罪に対する基準を持っています。「この事はやっても良い、この事はやってはいけない…」と瞬時に判断できます。これは神が人に与えた能力です。日本人は創造主なる神に対してはあまり興味がありません。しかし、良心に反しない歩みをしたいと願っています。これは重要なことです。罪を犯すのは自由ですが、その結果、報いを受けるのです。

 先週は「蒔いたものは刈り取る」というメッセージが語られていました。話は変わりますが、最近、「ゴスペルステーション」がインターネットで配信されるようになりました。五月からは、四元副牧師と岡本司兄の対話とともに、色々なメッセージが織り込まれています。一度聞いてみて下さい。
 自然の法則が教えているように、種を蒔いたら必ず刈り取ります。罪を犯すのは自由であり、そこに制限はありませんが、必ずその結果を受け取らなければなりません。それをどこで受け取るのでしょうか。アダムとエバが犯した罪がどこで実現したのでしょう。すなわち、死が、どこで起こったのでしょうか。それは、カインとアベルの間に結果となって現されました。

 ですから私たちの行動は、常に、新しい世代に対して責任ある行動を取らなければなりません。今の時代の道徳規準はメチャクチャであり、心の赴くままに生きている人が多いです。しかし教会に来て、聖書を知ると、何が良いことで、何が悪いことかを知ることができるので守られます。何が守られるかというと、「新しい世代」が守られます。
 私の両親はクリスチャンで、罪の基準がしっかりしていたので、私も守られたと思います。ですから、私たちは、自分の子どもたちのためにも、責任ある行動をとらなければなりません。ゆえに、聖く歩むことが大切です。それは、新しい世代のためにもです。

 カインとアベルが喧嘩をし、カインが世界で最初の殺人者となってしまいました。聖書を見ると、「カインは町を建てていた」と記されています。カインが最初の町を建てました。その町の名前は「エノク」と呼ばれました。それが世界で最初の町の名前です。
 しかしすでに、町の土台には血が流されていました。最初の町が殺人者カインによって建てられたという現実と原点を、聖書から見いだします。さらに、カインから五代目の「レメク」がその町を発展させました。創世記四章十九節から、

『レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。』

 五代目レメクの時代には、ヤバルが家畜を飼うものの先祖となり、ユバルは音楽家でたて琴や笛を巧みに奏でる先祖であり、トバル・カインは鍛冶屋でした。この頃には、町に産業が発達し、文化が芽生えていたことを見ることができます。
 ここからもわかるように、町や文化の原点に既に罪が関わり、また、死の力が関わっていたという現実です。
 私たちは町に住み、ある文化の中に生きていますが、その根源は、必ずしも良いものではありません。アメリカに行くと、多文化の中で人々が生活しており、それぞれの文化を継承しようと努力しています。文化とは「人の営み」によって形成されるものなので、罪や汚れがたくさん含まれています。それは、必ずしも良いものではありません。

 日本人は日本人としての文化を大切にします。神が日本人に与えられた特徴はありますが、人の営みが文化の背景にあるのです。ゆえに、すべてを受け入れることはできないことを知る必要があります。創世記四章二十三節から二十四節に、

『さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」』

 カインは罪を犯したことによって、さすらい人となりました。彼は自分の弟を殺したことによって、深い傷を受けました。それから五代経ち、傷がいやされたかというと、「レメクには七十七倍」だというのです。
 レメクは、「俺を少しでも傷付けてみよ。そいつを殺してやるぞ!カインに七倍の復讐なら、俺様レメクは七十七倍の復讐だ!」と叫んでいます。その傷はかえって増大し、破壊的力も増大していたという現実を見ることができます。

 私たちは人生の中で、色々な傷や嫌な記憶があります。それを放っておくと、直るかというとそうでもありません。どんどん大きくなっていきます。ある人は憎しみを持って生活しており、放っておいたら憎しみがなくなるのかというと、そうでもありません。憎しみは段々大きくなり、それが次の世代、次の世代へと受け継がれるのです。

 しかしイエスさまがこの地上に来て下さった目的の一つとして、どうにもできない悪の連鎖、傷を原点からいやしてくださると、イザヤ書六十一章では教えています。
 町にある傷、国にある傷も、いやしてくださると教えています。私たちクリスチャンは、どのような者であるべきでしょうか。町にある傷、国と国との間にある傷も主はいやしてくださるという立場に立ち、町のために祈ることを教えられます。

 何週か前に、神の視点で町を見ましょう、と話しました。スペインに行った後、神様から教えられたことでした。
 今回ロサンゼルスに行きましたが、スペインに行った後でしたので、違った視点で町を見ることができました。今までならば、「ロサンゼルスとはこんなものだ」と見ていましたが、今回行ってみて、「ロスはスペインの大きな影響を受けている町だ」と思いました。
 人間は物事を目で見ているようですが、実は、意思で見ています。スペインに行ってからロサンゼルスに行くと、この町がスペインそのものであり、スペイン文化によって形成された町であることがわかります。

 ロスにも多くの犯罪があり、毎日のように強盗や暴行、殺人などが繰り返されている現実があります。
 今回私は、ロサンゼルス郊外のパサデナの黒人教会で奉仕しました。そこは少々危ない地域にあり、普通ではなかなか入ることができない場所でしたが、ロン・ブラウンさんが一緒に行ってくださいました。
 その教会はホームレスの人々に食事を差し上げ、そのような人々を招いて集会をしていました。その集会は大変祝福されました。聖霊様が強く働かれ、多くの方が招きに応答されました。その時私は、「町の支配者は誰か?」という話をしました。

 イエスさまがイザヤ書六十一章を引用される前、ルカ四章五節から七節で、次のような経験をされました。

『また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」』

とあります。悪魔がイエスさまを連れて行き、瞬く間に世界の国々を見せました。そして彼は、「この国々の一切の権力と栄光は俺に任されている。もし俺にひざをかがめるなら、また、これと思う人物がいたらその人にあげる」と言いました。
 今なぜ、町や国に色々な問題があるのかの答えがここに書かれています。

 『捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げる。』とありましたが、人々が捕らわれている理由は、「悪魔が町を支配しているから」です。悪魔が町を支配しており、悪魔にひざをかがめると、悪魔が人に悪い権威を授けるのです。悪魔礼拝は町を悪魔に引き渡し、人生、国自体をも、悪魔に引き渡してしまう大きな罪です。町の支配者は、目に見える人物のように思うかも知れませんが、実は、その背後に働いている悪の力である「悪魔とその子分ども悪霊」が持っていると聖書は教えています。

 しかし、イエスさまは、解放者としてこの地上に来てくださいました。そして、私たちクリスチャンは、町のために真剣にとりなして祈ることが必要であると教えられます。
 パサデナの教会でホームレスを支援している牧師と話しました。最近は、この近所で犯罪が多く発生しており、一週間に何人もが死んだ、それは自然の成り行きではなく、悪魔の働きであることがよくわかる。そして今日、先生がそのことを話してくれて、本当に良かったと語っておられました。

 人々の人生を破壊するのは、人間の判断や生まれが悪かったというのではなく、罪を通してはたらいている悪魔が真犯人であることを聖書は教えています。その晩も、多くの人々が前に進み出て、自分の罪を悔い改めてイエスさまを信じる決断をされました。

 先ほど話したハワイのマフィアのおじさんも、良かれと思って色々なハワイの神々を拝んでいました。ハワイは日本と同じような、八百万の神々を拝んでいます。特にその人は、ハワイアンの血が混ざっていて、火山の神「ペレ」を拝んでいました。しかし彼の人生は、全く惨めになり、多くの人を殺し、年を取っても心の傷はいやされず、人からも受け入れられずに苦しい中にありました。
 私はその方のために祈りました。彼は聖霊に触れられ、顔面から倒れて気を失ってしまいました。しばらく私は彼のために戦って祈り、やがて彼は気づいて起きあがり、「僕はどうしたの?」と言っていました。
 彼は倒れているときに、幻を見たそうです。それは十八本の剣を持った悪霊が、自分から出て行くのがわかったと言っていました。それを聞いて、彼は多分十八人を殺めたのだろうと思いました。死の力、破壊の力が町を支配しています。

 しかしイエスさまは、そのような死の力・破壊の力に苦しめられている人たちを解放するために、この世に来てくださいました。そして町の原点、国の原点に回復を与えるためであると聖書は教えています。

 先週はスコット先生という牧師が牧会している教会で奉仕しました。その教会の方々とともに、水曜日に町のために祈りに出かけました。ロン・ブラウンさん、そして、ジョー先生も一緒に来てくださいました。また、ドリアさんも来てくださり、素晴らしい通訳があってチームで働くことができました。そのときは、多くのとりなし手とともに祈りました。
 私はどこに行って祈るべきかを主に祈り続けていました。あるとき、フリー・ウェイを走っていると、一つの奇妙な岩が目にとまりました。そこを通る度に、「変な岩だなぁ」と思っていました。その岩は「イーグル・ロック」と呼ばれます。調べてみると、それはかつてインディアンたちが礼拝していた岩であったことがわかりました。
 それで、そこに登って祈ろうと思いました。その岩の上に登って祈りたいと伝えると、行き方を調べてくださり、スコット先生とジョー先生と共に出かけていきました。現場に着くとロッククライミング状態で、途中まで登っていくと、中腹に家が建っており、人がプールで泳いでいました。そちら側から行けば良かったと思いましたが、頂上に登ってとても驚きました。
 そこはロサンゼルスの町の真北に位置し、全体をよく見渡すことができる場所でした。何と、そこは悪魔礼拝者たちの祭壇でした。岩の上に大きな魔法陣が描かれており、真ん中の岩の窪みには、小動物の生け贄がささげられていました。
 アメリカでは時々、突然ペットが消えていなくなってしまうことがあるというのです。それは悪魔礼拝者たちが持って行くのです。それらを生け贄として悪魔に捧げて、悪魔と契約を結ぶのです。そこにはすでに生け贄として捧げられた、犬や猫の頭蓋骨がありました。

 しかし私はイエスさまに感謝しました。道を通っているときに、「岩に上って祈りなさい!」と導かれた為に、それを発見して祈ることが出来たからです。悪魔を礼拝している人たちが今でも町のために、悪いとりなしをしている現実を見ました。

 その時、私にイザヤ書六十一章が心に響いてきました。このような現実を持った町や国のために、神がイエスさまを地上に送られ、イエスさまはその傷をいやすために来てくださったことを思い出し、町のために祈ることができました。その町の支配者は、神ならぬ神々、悪魔・悪霊どもかも知れませんが、私たちがそこに遣わされ、

『彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。』

とあるように、そのような働きの為に遣わされるのです。

 創世記四章を見ると、「最初に祈りを始めた人々」について書かれています。ここで、祈りの原点を見出すことができます。四章二十五節から二十六節に、

『アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。』

とあります。人間が祈り始めた原点が記されています。
 人間は既に神と出会っており、神にいつでも祈ることができる環境でしたが、アベルが死に、悲しみの中でアダムとエバに息子セツが生まれ、孫のエノシュが生まれたとき、やっと人々は、「主のみ名によって祈り始めた」と記録されています。
 人の祈りの原点は、ダイレクトに神に向かう勝利から始まっているのではなく、「悪魔に一本取られた中で始まった」という記録を見ることができます。
 時々、祈っても、祈ってもなかなか勝利が来ない現実がありますが、祈りの原点に神の回復が訪れるように祈る必要を教えられます。

 イエスさまがこの地上に来られて、十字架の救いを成し遂げられました。その時、イエスさまが語られた言葉がマタイの福音書二十八章十八節から二十節に記されています。

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 イエスさまが十字架によって救いを成し遂げ、よみがえられた後に語られたことは、「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている。」という言葉でした。私たちがどの権威の立場に立つかは重要です。私たちの人生の中で、何を前提とするかです。私たちはイエスの十字架と復活の権威を、前提にしなければならないのです。

 祈りにおいても、私たちはどの権威を前提とするのでしょうか。それは、「天においても、地においても、いっさいの権威」を受け取った、よみがえりのイエスさまを前提として勝利を宣言しなければなりません。戦いの祈りは「勝利を宣言する祈り」です。祈りの根源が悪魔に一本取られた苦しみの中から、祈りをささげるような状況が多くあります。
 しかしそうではなく、私たちの祈りの原点は、イエスさまの十字架の勝利を原点として立ち、原点を回復する祈りをする必要があることを、今回の旅を通して教えられました。

 私たちに主が委ねられている使命は、町や国々を見て、国や町の傷がいやされ、神の権威が回復されることです。
 今回のハワイリバイバルミッションによって、多くの国の間にある深い傷がいやされ、主の勝利が現される働きとなるよう、祈っていただきたいと思います。イエスさまがこの地上に訪れたのは、「原点からの回復」です。
 今日私たちの原点に神の勝利が現され、すべての深い傷がいやされ、敗北ではなく、喜びというテーマに置き換えられるように祈りたいと思います。
 イザヤ書六十一章の最終的な結論は、私たちが喜びの種族となり、

『彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。』

とあります。敗北のような人生が、イエス・キリストによって勝ち取られ、その家族、家系を見ると、「何と、祝福された子孫であるだろう」と他の人が認めるほどに、回復するというのが聖書のメッセージです。

 今日ここにおられるお一人一人に、そして、これからの新しい世代に対して神がこのような勝利を与え、すべての原点が回復されることを願っておられます。一言お祈りします。


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