あなたの人生には希望があります

2007.7.1(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

旧約聖書 エレミヤ書29章10節〜13節
まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。このように、皆さんと共に礼拝が持てますことを感謝します。早いもので、もう七月になりました。先日、ここで新年礼拝を行ったばかりと思っていましたら、あっという間にすでに半年が経ちました。今年はハワイリバイバルミッションがあり、日々、様々な活動をさせていただいています。何よりも皆さんのお祈りに支えられ、ここまで来れましたことを、心から感謝します。今日は一年間の感謝報告会がありますが、本拠地で祈っていただくことにより、このように働くことができて感謝します。
 先週は私の両親と岡本信弘先生夫妻がハワイで、決起大会や様々色々な活動をしました。信弘先生から、報告を聞きたいと思います。どんな働きであるかを知り、ぜひお祈りください。

(岡本信弘師の証)
 ハレルヤ!ハワイに八日間行きました。「良いですね。ビーチに寝ころび、泳いで満喫してきました」と紹介したいところですが、まったくそんな時間はなく、家内が初めてのハワイでしたので、美味しいものを食べさせて観光をさせてあげようかと思いながら行きましたが、ハワイの先生方から、半日だけ島を紹介してくださると言われ、その時だけ島を回りました。歩いて五分のところにビーチがありましたが、行くことはなく、最終日にせっかくハワイに来たので一度はビーチに下りなくてはと思い、少し早起きをして家内とともにビーチに歩き、ハワイに来たと実感しました。
 いつも先生方がハワイに行って、とりなしや決起大会を開催した報告を聞いていますが、「私は大会準備に行くから…」と言って出かけました。しかしハワイでは、勇士祈祷会、礼拝、ラジオの収録を二回分させていただきました。明先生たちとも日曜日に合流しましたが、その日には、合同集会がありました。百名ほどが集められ、ともに熱く祈りました。ハワイミッションに至るまでのDVDを上映しましたが、私は昔のことを思い出しながら、感動して涙が出ました。そして前に出て話すように言われたのですが、涙が出て話せなくなってしまいました。そのような中、皆さんがハワイで期待して、祈っていてくださっています。今回は特に、ワイキキシェルにおいて、三千人ほど集めたいと願っています。
 今回、明先生がホノルル市の助役の方に出会いました。大変喜んでくださいました。先生が日本から三百名ほど連れてくると言うと、「たった三百人ですか。五万人くらい連れてきてください」と言われ、明先生が後から、「今回、失敗したなぁ。三百人って言ったのは…」と言いました。「何か協力できることがあったら言ってください」と言ってくださいました。
 その日、日本大使館の主席領事にも会いました。その方も、「協力できることがあったら、何でも言ってください。」と言われました。しかしその後、「私たちは、どの宗教でも歓迎します」と言っていました。
 またもう一人はハワイ州副知事にお会いしました。本当は知事に会いたかったのですが、知事が不在のため副知事と会いました。
 しかし彼は熱心なクリスチャンで、好意的に先生たちを迎えてくださり、先生が副知事の部屋に入ると、そこには十字架や、み言葉が掲げられており、机には十戒が掲げられ、クリスチャンであることを公にしておられました。彼は、「私も祈ります」と言われ、最後には手をつないで、皆でハワイのリバイバルのためにお祈りくださいました。

 今回、ツアーで宿泊するホテルにも視察に行きました。この大会で、夜のワイキキシェルやセミナー会場、ランチョン会場、バーベキュー会場も視察しました。また、これからの広報宣伝についても、専門家にお会いし、どのように宣伝をしたら、最小限の費用で効率よくできるかを打ち合わせしてきました。
 ハワイでは連盟の十二の教会が中心的に協力してくださっています。連盟の教会には、日本語部と英語部とがあります。この機会に、英語部にも働きかけ、ともにミッションの働きをすることを願っています。ですから、その道が大きく開かれるように、お祈りいただきたいと思います。日本人だけでは、なかなか三千人集まることは難しいです。ですからぜひお祈りください。
 いつも私の娘と、里辺ちゃんのためにお祈りを感謝します。私も、日本にいるよりはハワイの方が忙しかったです。朝から夜まで働き、ホテルに帰ると、いつも十二時過ぎでした。そのような中で、彼らの健康のためにもお祈りいただき、皆さんにもボランティアで参加していただき、大会の時には、多く参加していただき、ともに祈っていきたいと思います。
 段々盛り上がって、Tシャツもできました。ハワイでは二〜三日の内に、八十枚ほどTシャツが売れました。Tシャツを着て来てくださいました。ぜひ皆さんもお祈りくださり、ご参加ください。毎日このためにお祈りいただき、祈りによって、この働きが拡大していくことを信じています。新城の祈りと奉仕によって、ここまでミッションの働きが導かれたことを、心から主に感謝します。(ここまでが岡本信弘先生の証)

 皆さんのお祈りによって支えられていることを、感謝しています。
 教会では人生の四季を体験します。昨日はK兄とT姉の結婚式が行われました。家族・親族が中心に行うという希望があり、皆さんにはあえてご案内をしませんでしたが、大変素晴らしい結婚式でした。Oさんのお母さんが、数年前、涙を流しながら教会に来られました。何とか問題を解決したいと、悲痛な思いで来られましたが、数年の間に、主が祝福を与えてくださいました。
 神は、今日のタイトルのように、「あなたの人生には希望があります」とメッセージを一人一人に語ってくださるのです。エレミヤ書二十九章のみ言葉を受け取り、将来と希望に満ちた人生を歩んでいただきたいと思います。

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』

 「神様が私たちに立てている計画はわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。神の言葉は、すべて完了形です。
 エレミヤ書の預言は、イスラエル(南ユダ)が何の望みもないただ中で、「あなたには将来と希望がある」と語られました。
 今日ここにおられる全員に、神は完了形で、「わざわいではなく、将来と希望を与える」と語られておられます。

 先週の水曜日に、豊橋市で「アグロー」という女性集会がありましたが、一人の講師の先生が、たいへんたのしいメッセージを語ってくださいました。教会に来て笑うだけでも健康になると言って、皆を楽しませてくださいました。
 聖書には、「笑いは薬だ」とありますが、教会で顔がほころび笑うことは大切です。教会に来たら、リラックスして帰ってください。そのために、私はメッセージとは何の関係もない、小話を用意しました。

一、一〇四のダイヤルで電話番号と調べてもらうときに、「どんな『漢字』の人ですか」と聞かれ、思わず、「面白くて明るい『感じ』の人ですと答えてしまった。

二、僕のじいちゃんがボケ防止の本を買ってきて、真剣に読んでいた。次の日また同じ本を買ってきた。・・・既にぼけているのではないかと思いますが…。

三、駅の改札で四、五歳くらいの女の子とおじいちゃんが車を待っていました。すると女の子が大声で叫びました。「おじいちゃん、お迎えが来たよ〜。」

四、私がお風呂に入ろうと服を脱いでいると家内が、
「脱いだら別々のかごに入れておいてよ。服はこのかご、下着はこのかご。ちゃんと別々に洗ってるんだから、協力してよ。」
 風呂から出て、何気なく洗濯機をのぞいてみると、私のパンツと玄関マットが一緒に回っていた。

五、トムとジョニーの会話
 ジョニー:なあ、トム。
 トム:何だい?ジョニー。
 ジョニー:俺、船乗りなんだけど泳げないんだよ。
 トム:「そんなことを気にするな。俺はパイロットだけと、空を飛べないから」

 どうですか?楽しかったですか?笑うだけでも、健康になります。しかし、それよりも、イエスさまと出会うときに、本当の幸せになります。神の計画は、「わざわいではなく、将来と希望をもたらすものだ」とあります。

 ソロモンというイスラエル二代目の王は、知者中の知者と呼ばれ、多くの知識を持っていました。しかし、彼にとってわからないことがあったと記しています。箴言三十章十八節から十九節に、

『私にとって不思議なことが三つある。いや、四つあって、私はそれを知らない。天にあるわしの道、岩の上にある蛇の道、海の真中にある舟の道、おとめへの男の道。』

 彼は色々なことを観察していました。天を飛んでいく鷲はいつもどうして同じところを飛べるのだろうか・・・。また岩の上を這う蛇はどうして、同じところを這うのか不思議に思いました。
 しかし最も大きな不思議は、「乙女への男の道」とあります。昨日結婚した彼らに、「どこで出会ったのか」と聞きました。すると、「自動車学校」と答えました。同じ自動車学校に行って偶然出会い、仲良くなって結婚したのです。自動車学校に行くのが一週間でもずれたら、タイミングが合わず、結婚にまでは至らなかったかも知れません。しかしこれも神様の計画です。いつも伝道礼拝の時に引用するエペソ二章十節には、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 「明日のための心配は無用」とイエスさまは語られましたが、それには裏付けがあります。エペソ二章では、「あらかじめ備えてくださった」とあります。私たちが神を信じるならば、「将来も含めて、神がすべてを創造済み」なのです。ゆえに、「心配するな」と教えています。人間には自由意志があり、何を前提に歩んでも自由です。しかし前提によって、結果は変わります。人生の根拠に何に置くのも自由です。神によって造られたという創造論に根拠に置くのも自由、また神を認めず、進化論に根拠に置くのも自由です。または、他の神々を根拠に置くのも自由です。
 しかし前提が違えば、必ず、結果は変わります。進化論は、すべてを偶然と突然変異によって説明しますから、将来起こるであろう事柄は、すべて偶然です。もしも人生に良いことが起こるとしたら、突然変異に期待するしかありません。
 しかし私たちを創ってくださった、創造主なる神に根拠を置くならば、既に、私たちの将来は良いものとして「創造済み」なのです。ですから、「心配しないでください。明日のための心配は無用です」とイエスさまは語られたのです。

 私にとっても、皆さんにとっても、主を信じるならば、将来を心配する必要はありません。神様が「良い計画」を立てていて下さっています。私のための人生は、すでに完了形です。私たちが将来歩む空間も、出会いも、何もかも含めて、神はすべてを「創造済み」であると、聖書は教えています。それも、「わざわいではなく、平安を与える計画だ」と教えています。

 同時に神様は、どうしたら素晴らしい人生を手に入れることができるのか、という法則についても教えています。私たちには自由がありますので、前提・根拠を選択するために、自分の意思を働かせる必要があります。エレミヤ書二十九章十二節に、

『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 私たちがまず第一に、イエス・キリストに関して「興味を持つ」ことが必要です。イエス・キリストに目を向け、やがてクリスチャンになった方も多いと思います。まずイエスさまとはどのようなお方であるかについて、興味を持つことが重要です。

『わたしは道であり、真理であり、いのちです。』

とイエスさまは語られましたが、本当にそこに道があるのか、確かめなければなりません。「呼び求めて歩く」とは、今日初めて教会に来られた方も、「教会はこんなものか。」というのではなく、イエスさまについて、これから興味を持ち、教会に続けて来ているうちに、イエスさまとの出会いがあります。

 出会いの重要なポイントが、「わたしに祈るなら」とありますが、「祈り」です。どこの国に行っても、祈りを知らない人はいません。皆、祈り心を持っています。日本人は特に、祈り深い国民だと思います。時々、神社に調査に行くと、祈りのリクエストが書いてある札のようなものがあります。その札を見ると、「家族が健康でありますように」とか、「受験がうまく受かりますように」とか、「良い結婚ができますように」などがあります。その祈りはすべての宗教に共通するものです。教会に来て「祈って下さい」と言われる事柄も、神社で祈りの絵馬をかける人たちの祈りも、中身は同じです。
 しかし祈りは、「誰に対して祈るのか」が重要です。祈り心はすべての人が持ち合わせていますが、どこに対して祈るのか、「祈りの対象」が大変重要です。

 旧約聖書を見ると、「主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。神の名前をむやみやたらに使ってはいけないという教えです。なぜこんなに厳しい事を神様は言われるのだろうかと思います。しかし、それが新約聖書では結論づけられています。
 それは、「イエス・キリスト以外の名前は、使ってはいけない」というところに結論があります。イエスさまの名前以外では、祈ってはいけないというのが聖書の教えです。それはどうしてかというと、祈り心があるということは、「どこかに私たちの祈りを受けとる霊的存在がある」ことを意味しています。イエスさまの名前で祈るならば、本物の神に通じますが、イエスさまの名前以外で祈ってしまうと、大変なことになると教えています。携帯電話をお持ちだと思いますが、携帯電話で一桁番号を間違えても目的としている人には通じません。「一桁くらい良いだろう、一桁くらい間違えても、電話局がうまくつなげてくれるだろう」と思ってかけても、絶対に通じません。確実に、目的の番号を間違いなく押さない限り、意図している相手には通じません。

 私たちが本当の神に通じたかったら、「イエス・キリストという名前で祈る」以外に、本当の神に通じる道はありません。イエス・キリスト以外の名前で祈ってしまうと、本当の神様の振りをした、悪魔に電話がかかってしまうのです。日本人は祈り深い国民であり、常に祈り心があります。しかし、祈りの対象が間違っています。使っている電話番号が間違っています。それゆえに、悪いところにかかってしまいます。正しく神の所にかける電話番号を知ったら、日本人の祈りは本物の神の所に届きます。その正しい番号とは「イエス・キリスト」です。エレミヤ書三十三章三節に、

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

『 'Call to Me, and I will answer you, and show you great and mighty things, which you do not know.'』

 「わたし」とは、イエスさまです。「call to me! わたしに電話して!」と訳せます。わたしとは、イエスさまです。イエスさまに電話をしたら、イエスさまが私たちに答えてくださり、私たちの知らない理解を越えた大いなることをしてあげる、と言われています。電話番号を間違えてはいけません。
 イエス・キリストを通してのみ、天の父なる神に通じます。イエスさまが祈りを父なる神のもとに届けてくださいます。イエスさまは三位一体なる神様です。多くの人がその名前を知りません。

 教会に初めて来られた方々に、私はこのように話します。日本人は、色々な対象に祈っています。「下手な鉄砲、数打てば当たる」というように、色々な対象に祈ったら、どこかに当たりがあるのではないかと考えます。宝くじ券をたくさん買えば、その中に当たりくじが含まれる確率が高くなる、という考え方かもしれません。
 しかし、聖書はそのようには告げていません。一つだけの名前、イエスさま以外の名前を使ってはいけないと教えています。
 それで、「何でもお試し期間があるので、今使っている名前を横に置いて、イエスさまの名前で祈ってみてください」と私は言います。日本人はすぐには自分が拝んでいる対象を、捨てることはできないのかも知れません。しかし一週間か二週間くらい、イエスさまの名前だけで祈ってみてください。そうすれば、祈りが本物の神のところに届いていることを実感します。神から助けが来て、事態が徐々に変わっていくことを体験します。今ここに来られている方の中にも、お試しコースから本コースに入られた方々があると思います。

 今日初めて教会に来られた方、今あなたの宗教をやめるようには言いません。まずはお試しコースで、イエスさまの名前だけで今週祈ってみてください。そうすれば、「イエスさまこそ本当の神様だ」と体験できると思います。そうすると、段々、今まで電話をしていた相手が誰であったのか、わかってくると思います。祈りはとても重要な霊的存在とのコミュニケーション・ツールとして神が人類に与えたものです。

 「祈り」とは、ヘブル語で「パーラール」という言葉です。それは、「とりなし」という意味もあります。それは、私たちがクリスチャンになってから体験することですが、自分の祈りだけではなく、他の方々の祈りによって人生が変えられるのです。「とりなしの祈りの力」を体験することができます。
 教会に来て持つべきものは、「とりなしの友」です。教会に来たら、ぜひ、周りの誰かに「私のために祈ってください」と、とりなしの祈りを要請をしてください。誰かの祈りによって支えられます。そうすれば、普段では動かないような問題が、解決に向かって動き出します。
 教会はキリストのからだを形成する場所なので、それぞれの人々に役割があり、役割ごとに、「賜物としての機能」があるので、各々の機能が果たされるときに、全体では大きな仕事が出来ます。

 私もこのような働きをさせていただき、働きは一人ではできないことを痛切に、そして、切実に感じています。多くの方に神が賜物を与え、それも祈りの賜物を与え、祈られることによって事態が動いています。
 自分一人ができないことでも、誰かにやってもらうと簡単にできることがあります。私は時々背中がかゆくなって、自分でかこうと思っても、なかなか、かゆいところに手が届かない時があります。そんな時には、すぐに家内の所に行き、「背中をかいてくれる?」と頼むと、瞬間的にかゆみがなくなります。自分の手を一生懸命、かゆい場所に届かせようと思ってもなかなか届かないのが、他人だとあっという間に、それも何の苦もなくこなします。
 同様に祈りも自分自身ではなかなか祈っても動かない問題があるかも知れませんが、誰かに祈ってもらうときに、事態が動くという、とりなしの祈りの極意を身につけると変わってきます。

 今回のハワイミッションも、多くの祈りによって扉を開いてくださっていると思います。神はキリストのからだの「とりなしの祈り」を使っておられると痛感しています。
 先々週まで、私はロサンゼルスで二週間奉仕し、先週は大分県、今週は山口県で奉仕があります。
 またその次の週はハワイに行きます。皆さんが、「先生。大丈夫ですか。生きていますか」と言われます。昨日も、私は朝まで大分にいました。そして、ここで二時から結婚式があり、私は少し心配でした。もしも飛行機が飛ばなかったら、結婚式ができなくなってしまいます。緊張していました。朝も早めに目覚ましをかけておきました。感謝なことに、何とか飛行機に乗ることができました。
 中部国際空港に到着後、新城まで車をぶっ飛ばして来ました。途中、岡崎から音羽まで「事故渋滞」と出ていて、「渋滞二キロ」と表示されていました。「どうしよう。二キロくらいならすぐに通過できるかなあ」と思いましたが、私は祈りました。岡崎を通過する直前に、「主よ。どうしましようか。どっちが良いでしょうか。下りた方が良いでしょうか。そのまま通過した方が良いでしょうか。教えてください」と祈りながら、私は、インターチェンジを下りる方向に向かっていました。
 そして情報を見ると二キロが「渋滞八キロ」と出ました。そして、どんどん延びていきました。渋滞の列に入っていたら、私は昨日の結婚式の司式ができなかったと思います。ギリギリで間に合ったところがありました。
 しかし私のためにみんなが祈ってくれました。そして私の祈りも合わさって、高速を下りる決断に導かれたと思います。人間は瞬間の判断を求められるときがあります。どうやって決断したらいいのだろうかと思います。しかし祈りの中で、主が正しい判断を導いてくださいます。ですから色々な決断の前に、自分の思いを働かせるのではなく、ワンクッションおいて、神に祈ってみると、将来と希望につながる体験ができます。そして、誰かに祈ってもらうことは大切です。

 二週間前にロサンゼルスに行きましたが、行く前に、ハワイの事務所から連絡がありました。なかなか英語圏の方々へのハワイミッションの扉が開かないから、祈ってくださいと要請されました。ハワイには大きな教会がたくさんあり、リバイバルミッションなどをしなくても、十分に機能しています。復活祭の時には一つの教会がイベントをして、二万五千人ほど集まったようです。ハワイにはアメリカのある教団に属する教会が多くあります。なかなか入っていくことができないので、祈ってくださいと言われました。
 そして、「順先生、ロサンゼルスに行ったら、そのことを祈ってきてください」と言われました。「教団の本部に行って祈ったら良いんじゃないか」と言われました。そんなところに行けるかなあと思い、神様に「もしも、その場所に何かあるならば、教えてください」と祈っていました。そのグループは、アメリカだけでも二千くらいの教会があり、世界では四万くらいの教会を統括しています。しかし、本部に行って祈ることなど、あまり期待していませんでした。私は毎日、忙しくスケジュールをこなしていました。

 ある教会に行くと、一人のお嬢さんが来て、「私のために祈ってください」と言われました。いつも職場に行くと圧迫を受けて体の調子が悪くなるので、祈ってくださいと言われました。
 「ところで、あなたはどこに働いているのですか」と聞きました。すると、「はい。私は…」と、何と、その方は、その教団の本部事務所で働いていました。
 彼女は、「ぜひ事務所に来て祈ってください」と言われました。何と、私たちは本部の中に入り、祈ることができました。またその教団の責任者の方々にも会い、ハワイリバイバルミッションの案内をすることができました。周りの方々が祈ってくださったのが、そのような結果として扉が開かれたのだと思いました。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

 案外神様の答えは、たいそうな、大げさな領域にあるのではなく、「何気ない生活のただ中」に転がっているような気がします。普段の業務をこなしているただ中に、大きな扉が開かれるきっかけが転がっています。それを私たちがつかむか、できないかです。これは、聖霊の油注ぎがないと判断を誤ってしまうと思いました。祈り心を持って毎日を歩むことは、将来と希望の重要な鍵であると思います。

 「呼ぶ」とは、「祈る」ということでもありますが、興味深いことに「書物を読む」という意味もあります。祈りとともに必要なことは、「神の書物である聖書のみ言葉から導きを得る」大切さです。
 聖書は神の言葉ですから、読むうちに、私たちの心の中に言葉が響いてきます。先週も聖書の真実性、聖書の成り立ちについてのサンデースクールの講義がありました。旧約聖書も新約聖書も、神が人類に与えた書物であることを学ぶことができました。聖書は今から二千年、それ以前から書かれた書物であるにも関わらず、現代の私たちに語りかけます。それは神の言葉以外の何ものでもないのです。
 聖書は二千年も三千年も前に書かれた書物ですので、古文書に属するものです。日本の古文書は、日本書紀、古事記かもしれません。それらを毎晩枕元において、開いて読んでから寝るという人は少ないと思います。
 しかし聖書は世界のベストセラーであり、多くの人が二千年、三千年も前の書物を読んで、励ましを得ているのは、これが神の言葉であり、神ご自身がみ言葉を通して私たちに語りかけている証拠です。エレミヤの言葉は、

『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』

とあります。バビロンからの解放の約束とともに、将来と希望の約束が語られています。「将来と希望」という根源に、ユダがバビロン捕囚から解放されるという条件があります。
 私たちの将来と希望は、敵の手から解放されるときに体験できるのです。私たちがイエス・キリストを信じるとは、どのような意味があるのでしょうか。それは、暗やみの支配から、神の支配に移されるという意味です。
 時々、「神様がおられるのに、なんでこんなに悲惨な世の中なのですか。神がおられるのに、なぜ悪いことばかり連続して起こるのですか。」と言われる人がいます。聖書の言葉は間違っているのではないか、神様は私たちのために良いことを計画してくださったというのにも関わらず、なぜこんなに悪いことばかり起こるのだろうか、と言われます。その理由が聖書に記されています。イザヤ書十四章は悪魔について書かれています。十二節から十五節に、

『暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。』

 天使の一部が神のようになりたいという思いを持ったことにより、地上に投げ落とされました。天から落ちたというのです。それが悪魔の成り立ちです。この地球は、悪魔の支配下にあると聖書は教えています。私たちは悪魔の支配のただ中に生まれました。しかし、イエス・キリストを信じるとは、その支配下からの解放を意味します。
 今多くの問題が社会に満ちていますが、その根源は人ではなく、人を操っている悪魔・悪霊どもの仕業なのです。やがて人類は、そのことについて知る日がくるのです。それはすべての歴史が終ったときに、神によって知らされるという意味かも知れません。イザヤ書十四章十六節から十七節に、

『あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』』

とあります。新改訳聖書では、「あなた」という言葉で訳していますが、悪魔のことを指しているので「あなた」という訳言葉はふさわしくありません。新共同訳聖書は「おまえ」と訳しています。

『お前を見る者は、まじまじと見つめ/お前であることを知って、言う。「これがかつて、地を騒がせ/国々を揺るがせ世界を荒れ野とし/その町々を破壊し/捕らわれ人を解き放たず/故郷に帰らせなかった者か。」』

とあります。やがて人類は、「お前だったのか、犯人は…」と知る日が来るというのです。「家庭を乱したのはお前だったのか」、「町を乱したのはお前だったのか!!」、「国を乱したのはお前だったのか!!」と悪魔・悪霊の姿を見て、気付く日が来ると教えています。
 しかし、世が終わってから、歴史が終わってから、そのことに気付いても何もなりません。聖書は「情報提供の書」です。聖書によって、この犯人について知ることができます。誰が人生を惨めにするのか、神の計画を台無しにするのか、それに早く気付いたら、将来と希望を見出すことができます。

 聖書の中に「パウロ」という人物が出てきます。彼はパワフルな伝道生涯を送りました。けれども、彼の人生の最後のパートで、彼は一つの重大な事柄に気付きました。それを記したのが、「エペソ人への手紙」です。彼はローマにおいて人生の最期を送りました。牢獄の中で、自分の人生を振り返って、人生に起こった様々な事件に思いをはせて祈っているときに、神がパウロに語られたのです。
 「あなたがたの戦いは血肉の戦いではない」すなわち、敵との戦いであったことついて気づかされたのです。それは目に見えない悪魔・悪霊との戦いであったと気付かされたのです。
 それで彼は、急遽、諸教会に手紙を書きました。それが、「エペソ人への手紙」です。彼の生涯の行動を記した「使徒の働き」では、気付いていないところをいくつか発見することができます。
 霊的戦いについて、人生の最期で気付いていても仕方ありません。しかし教会に来ると、その事実に早めに気付かされます。そしてイエス・キリストを信じることは、敵の力からの解放だということに気付かされ、良いものを盗む犯人が誰かについて気付くならば、私たちはそれらを取り戻すことができるのです。出エジプト記二十二章七節に、

『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』

とあります。これは現実的な泥棒についての規定です。泥棒が捕まったら、泥棒は二倍にして盗んだ物を償わなければなりませんでした。
 聖書の中にザアカイという人物が出てきますが、彼は「四倍にして償った」とあります。彼はユダヤ人で、モーセの十戒をよく知っていました。彼は収税人で、集めた税金をごまかしていました。そんな泥棒をしたら、「二倍にして」返せば良かったのですが、彼はその倍の四倍にして返しました。しかし二倍にして返還するのが基本形です。

 旧約聖書の概念は、新約聖書においては「霊的側面」がつけ加えられます。私たちは新約的眼鏡を掛け、旧約聖書を読む必要があります。旧約聖書においては単なる泥棒ですが、新約聖書においては、イエスさまが泥棒の究極的な姿について話されました。
 それは、悪魔のことを、「盗み、殺し、滅ぼす者だ」と語られました。私たちの人生の良きもの、将来と希望を盗む者は誰か。
 「それは人ではなく、悪魔・悪霊だ」と教えています。この事に気付き、泥棒を見つけたら、私たちは失ったものを「二倍にして」取り戻すことができると教えています。
 今日、人生を振り返るときに「良いものがない、悲惨な人生だ」と言われる方がおられたら、泥棒は誰ですか?
 あなたの生まれた家や家族、周りの人々が犯人ではありません。その根源は、「お前だったのか。お前が犯人だったのか!!」と、敵の力が関わっていたのです。それが特定できたら、二倍にして取り戻すことができる、将来と希望が与えられるのです。

 イエスさまは私たち人類のために、この地上に来て十字架にかかられ、死んでくださり、復活してくださいました。そして人類が負うべきすべての支払いを、支払ってくださいました。私たちがイエス・キリストを信じるときに、私たちは悪魔の支配下に生きることはありません。将来と希望を得ることができます。今日、イエス・キリストによって、既に用意された良い計画を手にしましょう。そして、敵が誰であるのか、はっきりと認識して、悪魔に立ち向かっていただきたいと思います。

 教会は目に見えない領域で奉仕するところです。教会の一番大きな目的は、目に見えない領域で戦う役割です。それが教会に神が与えた機能です。それは牧師だけではなく、スタッフだけではなく、キリストのからだに属するすべての方々を通して勝利するのです。ひとり一人が一丸となって、はじめてイエスさまのからだが完成し、敵に立ち向かうことができます。教会に与えられた戦いの機能が、更に強化されるように祈っていただきたいです。
目に見えない領域で勝利を得ることによって、見える領域が変わることを体験すれば、人生が変わります。
 また日本人が祈っている対象が本当の神ではなく、敵に対して祈っていたことがわかるならば、奪われたものを二倍にして取り戻すことができます。あなたの将来には希望があります。
 「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。今日このみ言葉を自分のものとして受け取ってください。そしてイエスさまに期待してください。イエスさまとともに将来を歩むならば、決して間違いはありません。

 皆さんの心の中に、色々な祈りの課題があるかと思います。神を呼び求めて祈りましょう。また、問題がある方は立ち向かって祈りましょう。イエスさまを信じる者は、神に次ぐ者として、神に近づくと同時に「悪魔に立ち向かう」権威を与えられますので、問題の背後にある悪しき力を打ち砕くことが出来ます。
 イエスさまをまだ信じていない方は、まず、イエスさまを自分の救い主として受け入れてください。そうすれば、永遠が変わります。永遠の国天国に行くことができます。また、地上においても勝利できます。「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」とありますので、告白するならば、私たちは救われます。告白して祈りましょう。

(告白の祈り)
「イエスさま。今私は、イエスさまの名前を、高らかに宣言します。イエスさまが私の唯一の救い主であることを、宣言します。私に用意された、将来と希望を受け取らせてください。何一つ敵の手に渡ることがないように。神の良い計画を、余すところなく受け取らせてください。もしも敵に取られているならば、悪魔に立ち向かいます。悪魔よ。よく聞け!お前は神の良いものを、何一つ奪うことができないと宣言する。今、二倍にして取り戻します。将来と希望を、霊においても、肉体においても、魂においても宣言して祈ります。アーメン。」


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