からし種の信仰

2007.7.15(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘師

新約聖書 マタイの福音書 17章20節
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。今日は台風の影響で礼拝に来ることができなかった方がおられ、少しいつもより人数が少ないですが、共に集まって礼拝ができることを感謝します。

 今年は、十月にハワイリバイバルミッションが開催されるので、順先生と明先生がそのための決起大会に出かけています。大会まであと一〇〇日を切り、毎週のように先生方が決起大会に出られているので、私の礼拝メッセージのサイクルも早くなっています。あまり早く回ってこなくていいんですけど・・・(笑)。しかし、このように奉仕させていただけることを感謝します。忙しい中ですが健康が支えられ、いつも守られていることも感謝します。これから梅雨が明けて暑くなろうとしていますので、健康が支えられるようにも互いに祈り合っていきたいと思います。

 今日は、マタイ十七章二十節から学びます。

 「あなたはいつ信仰を持ちましたか」。ある人は、長い間教会に通ってから、ある人は教会に初めて来て信仰を持った方もいると思います。私はいい加減なので、もしクリスチャンホームに生まれなかったら、神さまのもとに来ることはなかったのかもしれません。ですから、初めて教会に来て神さまの御言葉を聞き、信じ受け入れる方はすごいと思います。私は信仰を持ってから四十数年が経ちますが、幼い頃から教会に連れて来られて、信仰を持つことができたのは、ただ神さまの恵みだと思っています。

 マタイ十七章を読むと、こんなことが書かれています。てんかんの病気の息子を持つ父親が、何とか息子を癒していただきたいと思い、弟子たちのところに息子を連れていきましたが、弟子たちには、その病気を直すことができませんでした。そこで、その父親はイエスさまに直してくださるよう願いました。イエスさまは弟子たちの信仰の不甲斐なさを嘆かれ、『その子をわたしのところに連れてきなさい』と言われ、『その子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った』と書かれています。そしてその続きで、二十節に、「あなたがたにからし種ほどの信仰があったら、山をも動くような大きなことが起こる。あなたがたにできないことはない」とイエスさまは弟子たちに言われたのです。

 皆さんが信じ、伝えている福音とは何でしょうか。第一コリント十五章一節から四節に、

『兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと・・・』

とあります。そして、この福音を信じた人すべてに、永遠のいのちが与えられるという神の約束があります。

 私は小学生の時に洗礼を受けましたが、幼い時によく「イエスさまはいつ来られるかわからない。今日か明日か、いつ再臨が来るかわからない。その時に天国に行けるか?」と言われ、ビクビクしていました。中学二年生の時、キャンプで、「今日イエスさまが来られたら天国に行くことができますか?」と質問がありました。「はい」と答えた方もいましたが、私は「たくさん喧嘩もしたし、嘘も言ったし、母さんの財布からお金をもらって報告もしていないし…。このままで今イエスさまが来られたら無理でしょう…」と思い、「はい」と返事ができませんでした。しかし、その先生が「今から三つの質問をしますから答えてください」と言われました。一つ目は、「イエス・キリストが神であることを信じますか」、二つ目は、「イエスさまがあなたの罪のために身代わりになって死なれたことを信じますか」、三つ目に、「イエスさまはあなたの罪のために死なれましたが、三日目によみがえり、今も生きておられることをあなたは信じますか」という質問でした。私はこの三つの質問に、全く疑うことなく「はい」と答えました。すると先生は、「この三つの質問に『はい』と答えられた人は、いつイエスさまが来られても天国に行くことができます」と言われました。それを聞いて、「それなら大丈夫だ。いつイエスさまが来られても、いついのちを終えることがあっても天国に行ける」と確信を持ちました。時には、神の前に失敗をしたり、神さまに喜ばれないことをしてしまい、「ダメだ」と思うようなことがあったとしても、この三つの質問に「はい」と答えることができるならば、いつイエスさまが来られても天国に行くことができるのです。皆さんも、ぜひ確信を持ってください。

 次に、救いについての御言葉を見てみましょう。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ三章十六節)

 この御言葉をぜひ自分のものとして覚えてください。これは素晴らしい救いの約束の御言葉です。

 日本には八百万の神があると言われています。ここにおられる方の中にも、そんな神々を拝んで来られた方がたくさんいるでしょう。しかし、救われた今、その神々にどれだけの御利益があったかを考えると、何の良いこともなかった、馬鹿げたことだったと思われるでしょう。この日本には、神社・仏閣が、本当にたくさんあります。また、新興宗教もたくさん興っています。少し前に、ミイラ化した死体が出てきて、容疑者が「私は地球創造主の代理人、復活のためのエネルギーを送っている」と言っていました。言っている人もおかしいと思いますが、それを信じている人がいるということを思うと、世の中は大丈夫だろうかと思ってしまいます。

 聖書には、唯一絶対の救い主がいることが書かれています。

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(ローマ書一章二十節)

 また、使徒の働き四章十二節には、

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。』

とあり、天下にイエス・キリスト以外に救いはないと、はっきり書かれています。

 先週、浜松の教会の日系ブラジル人の方が来られました。どうして、新城教会に来られたかを聞きくと、最近、教会に日本人が来るようになったそうです。ブラジル人に「神さまは唯一ですよ」と言うと、「それはわかっている」と言うので、すぐイエスさまの話ができるけれど、日本人に「神さまは唯一ですよ」と言うと、「日本にはたくさん神がいる」と言われ、まず、まことの神さまはお一人だけだということを先に説明しないと、福音を語れない、前に進んでいかないというのです。だから、日本人にどうやってそのことを伝えたらよいか、話を聞きたいから来たというのです。

 そのように、日本人の神に対する考え方は外国の方とは違っていて、まず、神が唯一であるということを信じることが難しいのです。しかし、ここにいらっしゃる方は、神さまに選ばれ、イエスさまを唯一の神として、まことの神さまとして信じることができました。それは、神さまからの一方的な愛であり、恵みです。

 クリスチャンになったらどう変わりますか。クリスチャンとクリスチャンでない人は、何が違うのでしょうか。その違いをはっきりと知っている必要があります。

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』(第一ペテロ一章八〜九節)

 皆さんの周りは、近所においても、学校においても、会社においても、クリスチャンではない人がほとんどです。そして、皆さんよりも裕福であったり、幸せそうな人、出世している人がたくさんいます。今この教会で、一番幸せそうな顔をしているのは、子どもが生まれるのを待ちこがれている滝元与世夫君だと思いますが・・・。

 反対に、クリスチャンであっても、裕福でなく、病気がちであったり、問題を持っている人もいます。しかし私たちには、たましいの救いがあり、それによりどんな状態にあっても、心に平安と喜びを持つことができます。また、将来に希望があります。天国行きの切符をいただいており、永遠のいのちをいただいています。これは何にも代え難い恵みあり、安心です。

 選挙が近づいています。「百年安心の年金」を掲げていますが、ここにいる人は、百年後は誰もいないと思います。誰が保証するのだろうかと思います。世の人で保証できる人は誰もいないと思いますが、私たちが信じている神さまは、永遠に生きておられる神であり、永遠に保証してくださる方です。

 まだ洗礼を受けていない方から「信仰は難しいですね。目に見えないものを信じることは難しいですね」と言われたことがあります。しかし、当たり前のことを当たり前のこととして信じることは、難しくはありません。

 皆さんは自分が生まれたときのことを覚えていますか。誰も覚えていないと思います。しかし物心が付いて、自分の父、母の存在を知ったとき、自然と父母を受け入れたと思います。誰も、この人たちは自分の親なのだろうかと疑ったり、何とか思い込もうと考えたりした人はいないと思います。親を親と信じることは、難しいことではありません。同じように、私たちを造られ、私たちを生かしてくださっている神さまを、神さまとして受け入れることは、難しい数学を解くようなものではありません。それは、神さまが造ってくださった被造物によって、知ることができます。

『 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(ローマ1章20節)

 また、信仰とは、まだ見ていないこと、まだ起こっていないことを信じることです。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。・・・信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(ヘブル人への手紙十一章一〜三節、六節)

 信仰について考えるとき、あるおばあさんのことが思い出されます。そのおばあさんは、教会で「からし種の信仰があったら、この山にここからあそこに移れと言えば移る」という話を聞き、「すごい話を聞いた。すごい神さまがいるものだ」と、喜んで家に帰りました。そして自分の部屋の窓を開け、目の前にそびえ立っている山を見て、手を合わせて、「神さま、私は今から寝ますが、この山が明日の朝までには反対側に移りますように」と祈って寝たそうです。

 次の日、おばあさんは山が移ったどうかを見ようと窓を開けました。そしてこう言いました。「やっぱりわしの思った通りだ」。その山は前の日と同じ状態で、そびえ立っていました。何も変わっていなかったのです。「やっぱり」という言葉でわかるように、そのおばあさんは、「山は絶対に動くはずがない」という堅い信仰を持ったのでした。

 「からし種の信仰」とありますが、皆さんは「からし種」を見たことがありますか。ある本では小麦粉の微粒子と書かれていました。それほど小さい、吹けば飛ぶような、あるかないかわかならないような種です。からし種の信仰とは、強い、弱い、大きい、小さいというのではなく、あるかないかのどちらかだと言えると思います。疑わずに信じる、それこそが「からし種の信仰」なのではないでしょうか。

 六月の終わりに、ハワイリバイバルミッションの準備のためにハワイに行ってきました。家内も一緒に行きましたので、ハワイ観光をしてゆっくりしようと思いましたが、明先生も来られて、祈祷会や話し合い、集会場所の下見や準備に追われ、結局は朝から晩まで仕事の八日間でした。

 合同の集会を開いたとき、「ミッションヒストリー」と題して作られた、甲子園リバイバルミッションから現在に至るまでのDVDを上映しました。終わった後、その感想と献金のお願いをするように言われていたので、真剣に見ていました。私はそのDVDを初めて見たのですが、とても感動しました。そして前に出て感想とアピールをしようとしたのですが、涙が止まらなくなってしまい、言葉に詰まり、献金のお勧めどころではなくなってしまいました(皆さんも感動したようで、お勧めしなくてもたくさんの献金をしてくださいましたが)。

 後から、なぜ涙が出たのだろうかと考えました。甲子園時代からのことを振り返りました。ミッションで、財務運営を任されたのは三十三歳の時でした。まず頭に浮かんだことは、いくらかかるのだろうか、何人集まるだろうか、屋根のない球場だから雨が降ったらどうするのだろう、よくこんなことを考えたな…ということでした。よく考えればこれはすごく大変なことで、「甲子園でやろう!」なんてことは、簡単に言えることではないのは誰にでもわかることでした。それを言ったのは、滝元明先生でした。明先生は、いろいろ考えてできるという確信を持ったわけではなく、考えなかったのです。明先生に、「いくらかかるでしょうか?」と聞くと、「そんなことは知らん。イエスさまが知っている!」と言うし、「球場には何人入れるのですか? 先生は、実際に見たことがあるのですか?」と聞くと、「何人入れるかは知らん。でも、見たことはあるよ。いつもテレビで野球中継をやってるじゃないか」と、すべてがそんな感じでした、私は「先生は本当に幸せな人だなあ」と思いました。しかし明先生がやると決めたならやるしかない、と心を決めました。

 その働きが始まるまでは、私は新城からほとんど出たことがありませんでしたが、説明会や決起大会のために、北海道から沖縄まで色々な所に出かけていくことになりました。私は出かけた先々で、信仰を持って、信じ切って熱く祈っている主の勇士にたくさん出会いました。私には信仰がなくても、この人たちの祈りに神さまが応えてくださらないはずがないと思いました。そして、神さまが、彼らの信仰を見て、その熱心さゆえに主が立ち上がってくださり、甲子園以来、さまざまなミッションを祝福し、導いてくださったことを見てきました。そのことが思い出され、主のみわざの偉大さに感動し、涙が出たのだと思います。

 私たちは、リバイバルを起こしてくださいといつも祈っています。信じて祈っていますが、一方ではリバイバルが起こったらどうなるだろうかと心配もしています。しかし、今一度、信仰を持ってください。私たちは弱い者ですが、主は強いお方であり、確かに私たちの祈りに応えてくださり、働いてくださいます。新城の地に大いなるリバイバル・主のわざが現されることを願ってください。

 十五年前の七月に霊的戦いが始まったのを記念し、先週は特別なとりなしの祈りの時が持たれました。この地域に出て行き、皆で真剣に祈りました。まだまだ戦いがあります。しかし、この十五年間のとりなしの祈りの中で、確かに主が生きて働かれていることを私たちははっきりと教えられてきました。神さまが働かれれば働くほど、一方ではサタンも必死になって働いていることを、皆さんも感じていると思います。しかし、戦いを途中でやめるわけにはいきません。完全勝利を勝ち取るまで戦いが続きます。しかし、主は必ず勝利を取ってくださいますから、信仰を持って進んでいきたいと思います。

 信仰はある意味で戦いです。病気の方は病気の癒し、問題がある方は問題解決を祈っています。信仰が弱いから、信仰が小さいから祈りが聞かれないというのではありません。からし種ほどの信仰があったならば、山が動く。あなたがたは何でもできる、と記されています。しかし、私がするのでも皆さんがするのでもありません。私たちにはそんな力はありません。からし種の信仰を持ち、信じて疑わず一歩を踏み出すならば、主がそのことを成してくださるのです。信仰を持って祈っていきたいと思います。

 旧約聖書には様々な信仰の勇士たちの証しが書かれています。まず、ノアのことを考えてみましょう。神さまは、地上に罪が満ちたのを見て、この地を滅ぼそうとされました。しかしそのとき、神の前に正しく歩んでいたノアを救いたいと思い、「地上のすべての物を滅ぼすために大洪水を起こすが、あなたは箱舟を作って、その中に入りなさい」と告げたのです。ノアは、その言葉を信仰によって受け取り、何十年もかけて箱舟を作りました。その間、どれだけの人がノアを罵倒し、笑いものにしたでしょうか。しかし、箱舟が完成し、ノアとノアの家族八人が乗り込んだとき、神がその入り口のドアを閉められたのです。四十日四十夜、雨が降り、水は増え続け、生き物や山々をすべて覆い尽くし、箱舟に乗せられたもの以外、皆、消し去られました。ノアが強かったわけではありません。ノアが信仰を持って神さまの言葉を受け取り、忠実にそのことを守り通したことによって主が祝福し、生かしてくださったのです。

 アブラハムもそうです。彼は神さまの導きに従って、行くところ知らずして出て行った信仰者でした。信仰を持って出て行ったとき、主がいつも先立ってくださいました。また、最愛の息子 イサクをささげるように主から言われたときも、「主は必ず助けてくださる」という信仰を持って、モリヤの山でイサクをささげようとしました。そして、その信仰を見て、神はイサクを助け、「あなたがわたしの声に聞き従ったから、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう」と、大きな祝福を下さったのでした。後にモーセは神の友、信仰の父と呼ばれたと聖書に記されています。

 モーセもまた、弱さを持っていました。私たちも時々弱さを覚えます。ほかの人と比べて、あの人のような信仰は到底持てないと思ったりします。しかし、大きい信仰はいりません。からし種の信仰があればいいのです。

 先ほど読んだヘブル書にあるように、目で見えないことを信仰の目で見ることです。肉の目で見えるところは、病気であったり問題であったり、大きな障害物であったりします。右に行くべきか、左に行くべきか、この道をどうやって進んでいったらいいだろうか、どうやってこの問題を切り抜けたらいいのだろうかと一生懸命考え、自分の力で何とかしようとします。しかし一歩下がって信仰の目で見るときに、大きいと感じていた問題が、ほんの石ころのように、紙くずのように思えるようになることを覚えてください。どんなときにも神さまは共にいてくださり、支えてくださいます。神と共に歩むということは、神を愛することであり、神の命令を守ることです。また、「行いのない信仰は死んだもの」と聖書に書かれているように、信仰持って祈ると同時に、一歩踏み出して行うことが重要です。

 皆さんもいつかは死を迎えます。私たちはイエスさまを信じていますから、確実に天国に行くことができるでしょう。しかし、日本中で礼拝に出席している人は、二十万人程しかいません。先に救われた私たちには、伝える使命があります。主の選びにふさわしい働きをしなくては神さまに申し訳ないことです。滅びに向かっている人を救いに導き、新城、また皆さんの町々にリバイバルが起こされ、「主こそ神です」と皆があがめる国にしていただくために、切に祈り続け、伝道してまいりましょう。

 特に今年はハワイリバイバルミッションがあります。ハワイに行く行かないにかかわらず、そこにリバイバルが現されることを祈りましょう。それが日本のリバイバル、世界のリバイバルにつながることができることを信じて、祈っていきたいと思います。私たちが信仰を持って働くとき、神さまが喜んでくださいます。祈りは、神さまと私たちをつなぐものです。

 一言お祈りします。


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