主が共におられます!

2007.7.22(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

イザヤ書41章8節〜12節
しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。

 ハレルヤ!おはようございます。ゴスペルクワイヤーの素晴らしい賛美を聞くことができて感謝します。今歌われたように、今朝、悪魔の力が打ち破られ、主の勝利が現されることを信じます。

 子どもたちは夏休みになって、ほっとしているところではないかと思います。この季節になると、「昔は夏休みがあったなあ」となつかしく思い出します。しかし夏休みにはたくさん宿題があり、普段よりも大変かも知れませんが、ゆっくり休んで宿題もやっていただきたいと思います。
 三河弁には、人から指摘されて初めて気づく異常さがあります。
 例えば、お母さんが「夏休みくらい勉強しなさいよ。」と言うと、子どもが答えました。「先生がしんでもいいって…」
 この意味を何気なく受け取っている人は、真の三河人かも知れません。「先生がしんでもいいって?冗談じゃあない。あんた死んじゃあいけないよ。」と答えるのが普通かも知れません。「しんでもいい」という三河弁の表現は、「しなくても良い」という意味です。さて、今日も少し小話を見つけました。メッセージと何の関連性もありませんが・・・。

 一、「うちの近所には子犬をもらってください」という紙が五年以上も貼られている。もう子犬であるはずがない。

 二、主人が昼食に近くのファミリーレストランに、子どもたちを連れて行ったときの事です。少し混んでおり待たねばならず、入口の順番待ちのノートに中学生の息子が何を思ったのか、「オトノ」と記入しました。しばらくしてウェートレスが大きな声で「オトノサマ〜」と読み上げて恥ずかしかった。
 私も時々、他人の名前を書くことがありますが…。

 三、先日、近所のスーパーの大売り出しに出かけたときのこと。特売品のサラダ油が売り切れてしまい、中年の女性客が、「わざわざ遠くから来たんですよ!」と女子店員と店長に文句を言っていた。店長は「申し訳ありません」とお詫びしていたが、客が帰った後、店員に対して、「遠くから来るようでは、日頃のお客様ではないから気にするな…」と言っていた。もっともである。
 
 四、高速道路の出来事。連休中、バス旅行に参加した。高速道路が大混雑で大幅に遅れたので、ガイドさんがサービスエリアでのトイレ休憩で、「時間がないので十分後に出発します」と言う。ところがトイレは長蛇の列。「早くしないと乗り遅れるぞ」と仲間と言い合っていたら、後ろから、「大丈夫ですよ!」との声。振り向くと運転手さんだった。

 小話はこの辺にして、み言葉を学びましょう。
 前回、「聖書のみ言葉は聞いたその日に実現する」と話しましたが、今日のみ言葉も、何百年前、何千年も前に誰かに語られた言葉ではなく、「今日、主が私たちに語ってくださっている言葉」として受け取りましょう。
 イザヤ書四十一章十節から十二節を、共にお読みしたいと思います。「わたし」とは神様、「あなた」とは自分のこととしてお読みください。

『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。』

 四十一章八節に、『しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ」とありますが、これはイスラエルだけではなく、「イエス・キリストを信じるクリスチャン」に語られている言葉です。
 今日は特に、十節にある、『恐れるな。わたしはあなたとともにいる』という言葉をキーワードとして、学んでいきたいと思います。

 私たちは「ハワイリバイバルミッション」のテーマソング「勇気を出して」を何気なく歌っていますが、この歌詞の中には、「主があなたとともにいます」という言葉が、何度も繰り返されています。私も、最近まで、あまり深く考えないで歌っていましたが、「主が私たちと共におられる」というテーマが、今回のミッション中にあることに気付かされました。

勇気を出して 歩き始めよう
君を愛するイエスがいるから
勇気を出して 歩き始めよう
君と一緒に イエスがいるから

 先週私は、ハワイで一週間ほど奉仕させていただきました。ハワイミッションまであと一〇〇日に迫り、「一〇〇日前決起大会」をホノルルで開催しました。とても良い集まりで感謝でした。働きが前進していることを、心から感謝しています。それも、主が一緒にいてくださるので、働きが進んでいると実感しています。

 旧約聖書を読むと、登場人物の神体験には共通性があります。それは、「わたしはあなたと共にいる」という言葉です。アブラハムもイサクもヤコブも、困難の中で主と出会い、「わたしはあなたと共にいる」という言葉によって慰められ、励まされ、強められました。
 四百年もの間、エジプトに閉じこめられていたイスラエルの人たちを脱出させ、百万とも二百万とも言われる民をカナンの地まで連れてきたモーセも同様でした。また、モーセの後を継いだヨシュアも、同じように主と出会い、「わたしはあなたと共にいる」という言葉によって励まされました。
 申命記の三十一章二十三節に、ヨシュアに対して語られた言葉が記されています。

『ついで主は、ヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」』

 「これからどうなっていくのだろうか」という不安の中にあったヨシュアに対して、『強くあれ。雄々しくあれ。わたしがあなたとともにいる。』と主は語られました。
 今日ここにおられる一人一人に確実に言えることは、「主が共にいてくださる」ということです。クリスチャン生活は、主がともにいてくださる事を体験する生活です。また主が共にいてくださることを信じるのが、信仰生活です。
 
 ユダの王、ヨシャパテが敵の大軍に囲まれて窮地に陥り、どうにもならないときに主が預言者を通して語られました。第二歴代誌二十章十七節に、

『この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』

 勝ち目のない戦いに遭遇したヨシャパテに、『この戦いはあなたがたの戦いではない。』と語られました。
 クリスチャン生活は「主の戦い」です。「気落ちしてはならない。」「恐れてはならない」「主はあなたがたとともにおられます」と語られます。
 彼らの賛美とともにも主は大きな勝利をイスラエルに与えられました。

 またバビロンから帰還したユダヤ人たちが神殿を建てようとした時に、敵が来て彼らの働きを止めようとしました。そんな時、その指導者であったゼルバベルとヨシュアに、主は語られました。ハガイ書二章四節に、

『しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ。――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ。――』

 ここでも、「わたしがあなたがたとともにいるからだ」と語られ、彼らは勇気を持って立ち上がり、敵のただ中においても、神殿を建て上げました。
 私たちも時々、敵のただ中に身を置くような状況があるかも知れませんが、主を信じる者たちには、「わたしはあなたとともにいます」と語っておられます。主がわたしたちとともにいてくださる、という信仰と体験により、今週も始めたいと願います。

 イエスさまのお生まれは、主がともにおられるという旧約聖書では特定の人物に対する事柄が、主を信じるすべての者たちに一般化される出来事であったことがわかります。
 イザヤ書七章十四節に、

『それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。』

とあります。このイザヤ書の預言が、新約になって実現しています。そして、「インマヌエル」という言葉が訳されています。マタイ一章二十三節に、

『「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』

 イエスさまというお名前は、「神がともにいてくださる」という意味です。そしてイエス・キリストを信じる者には、神が共にいてくださるという祝福がもたらされ、イエスさまとともにこの地上を歩む事が出来るのです。
 今回私は、ハワイの決起大会に行かせていただき、色々な働きをしましたが、皆さんの祈りとともに主が働いてくださり、働きが広がっていること感謝しています。
 この働きは最初「日本人の救い」という願いから始まりました。ハワイには多くの日本語を話す同胞が住んでいますので、その方々が救われる為の働きとして始まりました。特に中心的に働きを担っていてくださる、日本語教会連盟があります。それらの教会が核となって、この働きをサポートしてくださっています。
 最初、私がハワイにおじゃましたのは今年の二月でしたが、現地では私の娘と岡本泉さんが働いています。日頃、彼女らとは電話やスカイプなどで顔を合わせていますが、あちらに行くと彼女たちが一生懸命頑張っているのが、さらによくわかりました。感心すると共に、たいへん嬉しく思いました。あちらこちらに私たちを案内をしたり、多くの人と関わってミッションについて説明し、多くの仕事をこなしています。
 そしてこの度、事務所にジョー先生の娘のチェルシーさんが入り、三人体制となりました。この働きは不思議と、誰かが始めたというよりも、神が選んで人々を集めてくださっているのを感じます。それは甲子園ミッション以後、私たちが体験していることですが、策略的にではなく、主によって感動させられた者たちが集められるという、現象が起こっています。
 私の娘も泉さんも、主から、「あなたはハワイに行って働きなさい」という声を聞き、ハワイに行ったそうです。ジョー先生の娘さんは今ポートランドで神学生をしていますが、主から、「あなたは今年、ハワイに行って働きなさい」と語られたそうです。また、お母さんにも、「あなたの娘は今年の夏は家に帰って来ないよ」と語られたそうです。彼女は、神学校を休学してハワイミッションのために働いています。
 また、八月になるとロン・ブラウンさんの娘さんも加わって奉仕してくださいます。一昨年、私はワシントン・D.C.にとりなしに行きましたが、そこで彼女とも出会って一緒に祈りましたが、彼女が加わることにより、黄色人種、白人、黒人が共に働くようになります。日本人だけではなく、主は世界中の人々を愛し、救おうとされていると思います。

 今回は通訳としてドリアさんが行ってくださいましたので、決起大会は日本語と同じ重さで英語でも福音を伝える事が出来ました。私と平岡修治先生、ティム・ケプラーの三人で奉仕しました。先週の日曜日は一〇〇日前の決起大会でしたが、今回はミッション事務局主催で行われましたので、どのくらいの人数が集まるだろうかと心配していましたが、いつもの倍の人々が集まりました。それも日本人だけではなく、白人の方々や現地の方々、英語圏の方々が来られました。ハワイ全体のリバイバルが動きだしていることを、心から感謝しました。
 しかし時々、「この働きをこれから、どうやって進めたら良いだろうか」と不安になります。

 今回ハワイの決起大会を終えて、日本に帰ってくるときに、主が一つのことを突然私に語ってくださいました。それは、『ざわめき』の中にある賛美が、頭の中を巡りました。

主の勇士よ 今目を覚ませ
主があなたとともにおられる
主の勇士よ あなたの力が
今この地を救い出す

という、フレーズが突然飛び込んできました。飛行機に乗り込む寸前に、この賛美が、矢のように飛び込んできました。
 この歌は「ざわめき7」に入っていますが、これは、一九九六年に奇しくもハワイで録音されたものです。しかも、この歌は私がリードをとって歌っています。今回の決起大会では、私がギターを抱えて賛美リードをしました。
 この賛美は士師記六章のギデオンの働きがテーマになって作られています。彼が勇士として呼び出された瞬間について士師記六章十一節から十四節にあります。

『さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」』

 四月にこの箇所からメッセージをしましたので、合わせてご覧ください。この時代、イスラエルはミデヤン人の軍勢に支配され、何を生産しても全てミデヤン人に持って行かれ、大変な状況にありました。
 そんな中、ギデオンは酒船の中に自分の身を隠し小麦を打っていました。当時の酒船は石灰岩をくり抜いたもので、身を隠すのには適した場所でした。そこで彼は自分が食べる分の小麦を打っていました。
 そんな状況下で突然、主が現われ、「勇士よ。主があなたとともにおられます」と語られました。彼は当惑しました。勇士どころか、一番弱っているただ中で、「勇士よ。主があなたとともにおられる」と語られたのです。それは彼にとって、嫌みのようにしか聞こえなかったと思います。
 しかし主は、決して冗談を言われるようなお方ではありません。その言葉は真実でした。神の選びの基準は人間の基準とは違うのです。
 今年、新城教会に与えてくださっている預言的な言葉の中にも、「神の基準と人間の基準は違う」とありましたが、人間が「この人は強い」と思っている人を、神様が「強い」と評価されているわけではないのです。そればかりか、人間側から見て、弱さを持っているように思われるただ中に、主は、「勇士です」と語られるのです。
 皆さんの中にも、「私は弱っている、強められたい」と思っている方がいるかも知れません。けれども主は、あなたを弱いと評価されているわけではないのです。

 ギデオンという人物はマナセ族に属する人でした。歴史をみると、マナセはヨセフの息子でした。彼の弟にエフラエムがいました。ヨセフの父ヤコブが二人を祝福するときに、左手と右手を交差させ、弟エフラエムに第一の祝福を置き、マナセに二番手の祝福を置きました。そんなわけで、マナセ族は代々虐げられていました。そんな歴史的背景から、「マナセ族は弱い」と思われていました。このギデオンはマナセ族のアビエゼル人ヨアシュに属し、若い者で、自分では何もできないと考えていました。しかしそのようなただ中に主は訪れ、「主があなたとともにおられる」と語られました。そして十四節、

『すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」』

 私たちは、「私には力がない、力をもらってから働きたい」と考えますが、主が共におられるという事実に気付くならば、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え」と語られます。
 主が共におられると気付くことは、とても重要です。主がとともにおられると気付けば、「今の力で十分です。それ以上の力はいりません。あなたのその力で出来る」と語って下さいます。

 私はハワイミッションの働きをしながら、「私では力不足だ、難しい」と、時々失望する時がありますが、「あなたの力で十分。ハワイを救い出すことができる」と語られているはずです。テーマ的にちょっと大き過ぎるように感じますが、主がこのように語ってくださっていると感じました。
 「あなたのその力で行き、ハワイを悪魔の手から救い出せ」
 ホノルル空港で、主がそのように私に語ってくださったと受け取りました。主が共におられるならば、そのままの力で、敵を十二分に打ち砕くことができます。イザヤ書からも共通性を見出すことができます。
 四十一章十一節から十二節、

『見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。』

 ギデオンには不安がありましたが、主から語られ、行動を開始しました。その時、何が起こったのでしょうか。士師記六章三十四節に、

『主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。』

 主がともにおられることを確認し、主のために働き始めたとき、主の霊がギデオンを覆い、事態は勝利に向かって動き出していきました。
 私たちは「自分は不十分でこのままではやっていけない」と思いますが、主がともにおられると信じて一歩を踏み出していくと、主の霊により、不可能と思われていることができるようになるという原則を、聖書から見出すのです。
 イスラエルの初代の王のサウルにも、主は同じことを告げられました。第一サムエル十章六節から七節に、

『主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。』

 サウルは若く、自分ではどうして良いのかわかりませんでした。しかし主が共におられることを確認して出て行くならば、主の霊が注がれ、手当たり次第に何もかもできるようになると語られたのでした。

 一九九二年、甲子園ミッションが始まる前、私たちは無力さを感じて主の前に出ていました。その中で主が激しく下ってくださったという経験があります。それ以来、自分は何も変わっていませんが、「あなたの力でこの地を奪い返しなさい」と主が語ってくださっているように感じます。それも、聖霊の力によって、今まで打ち破ることができなかった領域を、次から次へと、主が先に立って打ち破っておられるのを体験しています。主が共にいてくださり、私たちの戦いに先んじて戦ってくださるのです。

 新約聖書においてもこの原則は同じです。弟子たちがよみがえりのイエスさまと出会ったとき、マタイの福音書二十八章十八節から二十節に、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 彼らは、よみがえりのイエスさまと出会いました。そのとき、彼らには驚きとともに、混乱があったと思います。しかしイエスさまが語られた言葉は、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」でした。弟子たちはたったの十一人しかいなかったはずです。そんな彼らにイエスさまは、「全世界に出て行って福音を伝えなさい。」と告げられたのです。
 すなわち、「あなたのその力で出て行きなさい」と語られました。なぜなら、「わたしが世の終わりまでいつもあなたとともにいますから」。
 彼らが行動を開始したとき、聖霊が注がれ、今や世界に福音が広がっています。聖書の原則は事実であり、現代を生きる私たちにも当てはまるのです。今日も皆さんと、主がともにおられることを確認しましょう。

 先日、面白いことがありました。一人の女性が来られ、「私のために祈ってください。」と言われました。その方は人間関係の癒しのために祈って欲しいと言われました。その時に一つの指輪を持ってこられました。「私にはこの指輪に悪い思い出があります。順先生。この指輪を処分してください。」と言われました。「処分ってどうするの?」と聞くと、「質屋にでも売って…」と言うのです。
 その指輪を見ると、ダイヤモンドがたくさんはまっており、高価なものに見えました。「五万円ぐらいにはなる」と言われました。「これを売ってハワイミッションにでも献金してください」と言われました。しかし私は、「ご自分で処分する方が解放につながるのではないですか。売ったお金でハワイに来てください」と言いました。すると、「処分してくれないのですか…」と言って、しぶしぶ帰られました。

 その方はどのように指輪を処分したらよいのかわからず、考えていたようです。家に帰る途中のバス停で、「あっ、そうだ。イエスさまに祈ってみよう。」と、祈りのアイディアを思案していたようです。
 「私の側に、誰か宝石の話や、指輪の話をする人が現れ、売るための手助けが来るように祈ったらどうだろうか・・・」と考えたようです。しかし、まだ祈っていなかったそうです。
 そんなことを考えている最中に、後ろから声が聞こえました。「あんた。大きな荷物を持ってどこに行くの?」
 振り向くと、後ろに一人のおばあちゃんが立っていて、「私も、若い頃はあんたと同じような大きなカバンを持ち歩いて宝石を売り回ったもんだ…」
 彼女は驚いて「おばあちゃん、今、何を言ったのですか。」と聞くと、「私は宝石商だよ」と言いました。彼女はビックリして、「本当ですか。今私は指輪を売りたいのですが、売れますか。」と聞いたようです。すると、「どれどれ、私に見せてごらん」と言って、何と、彼女をバス停から、普通の人では入ることができない、宝石の取引所に連れて行ってくれたそうです。
 すると、鑑定士が「これは良い指輪ですね」と、何と、彼女が考えていた金額の倍で売れたそうです。そして、その方は指輪が売れたお金で、ハワイリバイバルミッションに来るそうです。

 これは主が共におられる証拠です。主がともにおられるので、一番都合の良いおばあちゃんが遣わされたのです。主を信じる者たちには、主がともにおられるという証拠です。ですから、恐れなくても良いのです。私たちと共に主がおられます。主がともにおられるときに、「その力で十分です。」「一歩進んでご覧なさい。今度は聖霊の油そそぎによって、新しい力を受け、普通ではとうてい不可能のようなことでも扉が開く」と教えています。
 ギデオンは主が共におられるということを何度も試していますが、最後には信じて行動を始めました。その時に主の霊が注がれ、三百人の勇士と共に十二万数千人のミデヤン人の軍隊を打ち破り、イスラエルをミデヤン人の手から解放したのです。

 実は、彼が聖霊の力を受ける前に、主から語られたもう一つの言葉があります。この点も学んでおくべきです。士師記六章二十五節から二十六節に、

『その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」』

 彼が聖霊の力を受ける前に語られたのは、「あなたの父が持っているバアルの祭壇を取り壊しなさい。アシュラ像を切り倒しなさい。」でした。
 ギデオンの家系はバアルやアシュラを礼拝する、偶像礼拝の家系でした。主は、その祭壇を打ち壊すようにと語られたのです。

 旧約時代は、イエスさまの十字架と復活が完成していなかったので、解放されるためには、偶像を全て撤去し、取り壊すことが要求されました。しかし今の時代は、イエスさまの十字架の勝利があるので、壊せない部分は、関係を断ち切ることができるようになりました。ですから、「家には偶像があり、家族が拝んでいる、それらは自分の物ではないので、すぐには壊すことはできません」という場合でも、その背後にある悪魔との契約を断ち切ることができます。
 その時、私たちの上に主の霊が注がれ、素晴らしい勝利が与えられます。神の力を受け取るための必要なことは、霊的解放であることがここからわかります。

 さて、今日は礼拝後にバプテスマがあり、Nさんがバプテスマを受けられます。彼女は現在伊勢市に住んでいます。伊勢は伊勢神宮で有名な町です。Nさんは伊勢生まれ、伊勢育ち、現在、八十一才です。人生のすべてを伊勢で過ごしてきました。
 しかしこのおばあちゃんは、最近、イエスさまを信じました。なぜイエスさまを信じたかというと、不思議なことが起こったからです。ちょっとNさんにお話を伺います。

(Nさんの話し)
 初めて滝元先生にお会いし、お話を聞いている間に、足がガタガタ震え始め、自分の肩の辺から黒と灰色の煙が出て来ました。これは人間業ではないと思いました。イエスさまの力を体験したのです。

 おばあちゃんは、娘さんがこの教会に来られ、そのとき一緒についてきてカフェで待っておられました。おばあちゃんを長くお待たせしたので、私は、ご挨拶しようとしていたら、おばあちゃんの方から牧師室に来てくださいました。
 おばあちゃんは私の部屋に入った途端、足がガタガタ震えたようです。私は、おばあちゃんが伊勢から来たというので、主が直接語ってくださるように短くお祈りしました。悪い先祖からの偶像礼拝のつながりが断ち切られるようにと祈りました。すると突然、肩の辺りから二色の煙が出て行ったそうです。一方が黒く、一方は灰色に見えたそうです。まさしくそれは、陰陽の神々を象徴しています。
 おばあちゃんは驚いて、家に帰ってすぐに神棚をゴミに出したそうです。伊勢の人が神棚を処分することは普通では考えられない事ですが、主が働いてくださいました。
 そして今日は洗礼を受けられます。これは主が共におられる結果です。先日はおばあちゃんと一緒に、伊勢にとりなしに行きました。おばあちゃんに、「もう内宮や外宮に拝みに行ってはいけないよ。」と言いました。
 彼女は「はい。」と言いながらも、「私はまだ行くよ・・・」と思っていたようです。しかし祈りをした後、市の条例が変わり、老人が無料で乗れるバスが廃止になったそうです。今まで無料バスに乗れたので毎日、内宮に行っていたようですが、突然、行けなくなってしまったそうです。それが祈った直後だったので、たいへんびっくりしたそうです。
 「これは神宮に行ってはいけないということだ!」とはっきりとわかったそうです。ほかにも、主は数々の奇跡を行い、おばあちゃんにわかりやすく教えてくださいました。

 本当に主は共におられます。主が私たちと共におられたら、勇気を失うことはありません。そのままの力で良いのです。あなたが歩み出すならば、新しい油を注ぎ、地の果てにまで遣わすと主は語って下さいます。私たちはハワイ・リバイバルミッションの為の働きをしていますが、この片田舎の教会に何ができるのだろうかと考えます。
 しかし「主が共におられる!」と信じて一歩行動に移すならば、主がこの戦いを進めてくださると信じます。主が共におられることを確信します!

(告白の祈り)
「イエスさま、今あなたが私と共におられますから、感謝します。私をそのままの力で遣わしてくださることを感謝します。ギデオンのように、父方の悪しき偶像礼拝の祭壇を断ち切ります。母方を支配する、一切の悪しき霊からも解放し、神の霊により包んでください。私と共に主がおられることを信じます。勝利を宣言し、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。」


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