| 新約聖書 マルコの福音書5章34節
そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日も皆さんと共に礼拝が持てますことを、心から感謝します。大変暑くなりましたが、午後は海に行って賛美と祈りをします。ぜひ暑さ対策を万全にし、海に繰り出しましょう。ハワイのパールハーバーともつないでリバイバルのために祈る時間や、美味しいバーベキューもありますので、ぜひご参加ください。
八月は、プログラムも多くて、教会は忙しいですが、色々な方面から主が働いてくださっていることを覚え、心から感謝しています。特に、八月は青年たちが中心になり、「The Call」という音楽伝道会が行われます。ロン・ブラウンさんを中心に、バンドの方々が来られ、今回は御津町で四百名が入るホールを借りて行われます。その準備で、祈りや賛美が各地でなされています。今年は若い方々が主に引き出され、リバイバルのために燃えて働いておられるのを見て、心から感謝します。
聖書には、『後の者が先になる』とありますが、教会はやがて次世代、新しい世代にバトンタッチされ、末永く神の国を広げるために用いられなければなりません。
私が幼い頃、私の両親は青年として燃えて頑張っていました。やがて段々年を経て、今度は私たちが青年となりました。その中では甲子園ミッションなどがあり、聖霊が注がれて霊的戦いが始まるというすごいこと起こりました。
しかし私も徐々に年を取り、来週の五日は記念すべき五十六才の誕生日です。今度は新しい若い世代が立ち上がる時です。今年は既に、主は若い世代を引き出してくださり、リバイバルのために用いられるのを見て感謝しています。
しかし教会は、若い方からお年寄りまでのすべての世代の場所なので、色々なプログラムがあって良いと思います。
八月十五日には、上野五男先生をお招きして、水曜伝道礼拝が計画されています。先日私はロサンゼルスの上野先生の教会で、ハワイリバイバルミッションの決起大会を行いました。先生はゴスペル演歌を歌ってくださいます。八月十五日は「盆」であまり良い日ではないと思いますが、その日に伝道会が行われますので、ぜひ皆さんもこの集まりにお越し下さい。
私は毎週メッセージを語らせていただいていて、毎回始めに、メッセージとは関係のない小話をしていますが、今日も用意しました。まずは笑ってください。
一、ある青年が「神様。どうか、大学に入れてください。」と真剣に祈りました。すると、神様は、「そうか。では、何でもするか?」と言われました。
青年は、「はい。何でもします」と答えました。すると神様は一言、「じゃあ、勉強しなさい」。
二、世界第二の長寿者は日本人で、泉シゲチヨさんでした。この人は一二〇才と二三七日生きたそうです。
生前のインタビューでこんな質問がありました。「シゲチヨさん、どんな女性がお好みですか」
すると、「年上が良いねぇ・・・」(これ以上年上はいないと思います。)
三、高校の時、クラスで起こった出来事です。友人は部屋が暗いので照明をつけて欲しいという意味で、「先生。暗くはありませんか。」と言いました。すると先生は不機嫌そうにいいました。「私はこういう性格なのです」
四、バスケットの練習中、先生が「ストップ、ストップ」と言っても、生徒が試合をやめないのでもう一度言いました。「ストップって言っているではないか。お前ら、日本語がわからないのか!」
五、私の友人は学生時代に、「人々に夢と希望を与える職業に就きたい・・・」と言っていた。今、彼女は宝くじの売り子をやっている。
六、床屋で散髪した後、友人に出会ったら「汚ッタネェ、髪!」と言われて、むかついた。後々友人に問いただすと、「切ったねぇ。髪!」という意味だった。
七、ペットショップでの事。お客さんが、「この猿、人にはなれますか?」
店員:「まさか。大きくなっても猿のままですよ…」
時々、私がみ言葉を語っても、勘違いされることがありますが、正しく語れるように祈ってください。
今朝は、「平穏、平安、健康、安全」というタイトルで学びます。誰でも平穏な生活、平安な心、健康、安全を願っていると思います。今週も平穏で平安で健康で安全な一週間であって欲しいと心から願います。
私たちの神・イエスさまは、私たちに対して、平穏、平安、健康で安全な生活を願っておられます。今日お読みした聖書の箇所は、十二年間婦人病で血が止まらない女性に、イエスさまが語られた言葉です。マルコ五章三十四節に、
『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』
これがイエスさまが私たちに対して持っておられるみ心です。『安心して帰りなさい。病気にかからず、健やかでいなさい。』
彼女は十二年間苦しんでいた病から解放されたことによって、真の平穏と平安と健康、そして安全を手に入れました。私たちの神様は、徹頭徹尾、健康で安全な生活を願っておられます。この点について、私たちはしっかりと押さえておかなければなりません。
今もイエスさまは、私たちと共におられ、私たちを支えてくださるお方であると信じましょう。
日本の教会には悲しい一面があります。日本には八千程の教会がありますが、その多くが神のみ業は聖書の成立とともに終わってしまった、という立場をとっています。今は聖書の言葉があるので、ただ、み言葉に合わせて生活すればそれで良しとしています。実際的な癒しや奇跡は、今日では起こらない、終わってしまった、という立場に立っています。
しかし聖書を見ると、そんなことは決してありません。イエスさまは今も、私たちとともにおられ、私たちとともに働いてくださるお方です。皆さんはそれを信じますか?
それを信じなければ、教会ははっきり言って意味がありません。何のために教会があるのかということになります。私たちは人が何と言おうと、どのような立場を取ろうと、「主は今も生きて働かれる」という信仰に立っています。主が共におられ、実際に、今も助けを与え、平穏、平安、健康、安全を与えてくださると信じるのです。多くの教会やクリスチャンが、神のはたらきは既に終わってしまったしているのは残念なことです。
しかし、そのような立場をとっていたとしても、「神様が私に病気や試練を与えてくださった」と言う意見をよく聞きます。「神様が病気を与えてくださったことによって、私は変えられた」というのです。
本当に神様は、私たちに病気や苦しみを与えるのでしょうか。もちろん時には、病気や試練を通して、神に近づくことはあり得ます。しかし、神が直接的に、「ちょっと手を出してご覧。」と言って、「はい。病気、はい。試練」と私たちに手渡すのでしょうか。
そんなことは絶対にあり得ないことです。聖書は神様のことを「父なる神」と表現しています。父親が子どもたちにプレゼントをあげるときに、わざわいや問題を与える父親はいません。父親とは、子どもたちが平穏で、平安で、健康で、安全な生活を送るために存在しています。神様も同様であり、私たちに良いものを与えるお方であることを、知らなければなりません。
第一テサロニケ五章二十三節に、
『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』
とあります。神は私たちの霊とたましいとからだが、「完全に」守らるように願っておられます。第三ヨハネ二節に、
『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』
『すべての点で幸いを得』とありますが、神は私たちが、幸せで健康であるように願っておられます。
もしも私たちの神が、わざわいと回復の両方を与える神だとしたら、この世の神々と全く変わらない存在となります。
聖書は、イエスさまを癒し主として紹介しています。「病を癒すお方」として紹介しています。けれども、イエスさまがある時には病を与え、ある時には、癒しを与えるとしたら、私たちを訴える存在と助ける存在がグルの「陰陽的神々」と同じになってしまいます。そんなことは絶対にあり得ないはずです。
私たちの神は「光なる神」であり、「その中に、暗いところは何一つない」とみ言葉から学んでいます。私たちの神様は、時には悪いものを与え、時には良いものを与える神ではないのです。そのことを、しっかりと覚えなければなりません。私たちの神は、私たちが平穏で平安な生活をサポートしてくださるお方です。
しかし聖書の「平穏」、「平安」、「健康」、「安全」とは、何の戦いもない状況下での、「平穏、平安、健康、安全」ではない事を知る必要があります。
私たちの置かれている立場は、平穏ではない、不安定な、健康もいつ害されるのかわからない、また安全を脅かされるただ中にあるのです。しかし神は、そんな中から、平穏、平安、健康、安全を勝ち取らせてくださると聖書は教えています。
聖書の「平和の神」という表現は、「戦いや迫害が止んだときの平和」と位置づけられています。問題が打ち砕かれ、勝利の結果として、平穏、平安、健康、安全が与えられるのです。
そして、今日お読みしたマルコの福音書の、「十二年間婦人病を煩っていた女性の癒し」を見るときに、「癒しに到達するまでの過程」を、併せて学ぶことができます。
聖書は、記者が思いつきでイエスさまの行動を記録したのではありません。神が目的を持って、神の霊感によって記させたものです。ゆえに、記されている事柄のプロセスや順序は、大変重要です。ですから、私たちは単純に一つのストーリーをピックアップして、それだけを読むのではなく、その前後を、注意深く見る必要があります。どのような過程を経て、一つの出来事が成り立っているのかについて、目を留める必要があります。
十二年間長血を煩った女性のストーリーの前後を見ていくと、三章、四章、五章と出来事が展開し、次の状況に移っているのを発見できます。ぜひそれを読み取ってください。
マルコ三章では、イエスさまが十二人の弟子たちを選ばれたことが記されています。イエスさまが十二人の弟子たちを選ばれた目的は、「神の国の福音を宣べ伝え、悪霊どもを制する力を授けるためであった」と教えています。
そして次にイエスさまは、弟子たちと群衆に、「神の国とは、どのようなものであるのか」について語りました。
当時のイスラエルはローマの支配下にありましたので、ローマの支配から解放され、平和な政治体系ができることを人々は望んでいました。
今日は参議院選挙があります。クリスチャンは社会的責任を果たし、国の政治のためにも真剣に祈らなければならないのです。政治家たちが判断を少しでも間違えれば、国は方向性を見失い、変わって行きます。
今から六十数年前、日本は戦争に突入し、大変な目に遭いました。戦いに突入したきっかけは間違った政治判断でした。もしも当時の政治家たちが、「こんな勝ち目のない戦争はやめた方が良い」と判断すれば戦争は起こりませんでした。しかし大勢が、「宣戦布告」に走ってしまったことにより、悲惨な戦いとなりました。
私たちは国の支配に関して、神に祈らなければなりません。国の現実的支配と、その背後の霊的支配は表裏一体です。ですから、神の支配が国に訪れなければ、平安で安全な生活を営むことはできません。私たちは国の政治のために、関心を持って祈らなければなりません。
ある意味で、日本は重要な転機を迎えていると思います。ぜひ、国のために心を合わせて祈りましょう。
イエスさまが語られた国の支配は、もちろん現実の支配についても触れていますが、それ以上に、「目に見えない支配権が変わらない限り、見える支配はかわらない」ことを強調されました。
神の国とは何であるのか。それは目に見えない支配が、神の支配下に移ることです。私たちが住んでいるこの世界は、「暗やみの支配」のただ中にあります。そんなただ中に、神の国の支配が訪れ、拡大していく事、それが「神の国の実現」であると語られました。
その例えとして、神の国とは、ちょうど「からし種」のようなものだと言われました。からし種とは、コショウの粉のようであり、吹いたら飛んでしまうようなパウダー状の種です。
しかし一時、その種が地に植えられるならば、パウダーのようなものですが、芽を出すと大きく成長し、最終的には鳥が巣を作るほどになると語られました。
暗やみの支配下に神の国の種が蒔かれるなら、やがてそれは大きく広がり、暗やみの支配を打ち砕き、神の支配下に移していくのです。
マルコ四章三十節から三十二節で、からし種をたとえに神の国について語られています。
『また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」』
クリスチャンとは、最初はからし種のような存在かも知れません。それは暗やみの支配の中に蒔かれ、段々成長し、神の国が枝を張り、根を張り、この地を支配するようになります。そのために私たちは選ばれていることを、知らなければなりません。
さて、神の国についてイエスさまが教えられた後に起こったことが、マルコ四章三十五節に記されています。四章三十五節から三十九節に、
『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。』
イエスさまが神の国について解き明かされた後、舟に乗って向こう岸、ゲラサに向かっていく途中でした。舟が進んでいくうちに風が出て、湖が荒れ始め、もう少しで沈没しそうになりました。大きく安全が脅かされる問題が起こりました。
しかしイエスさまは、舟の中で眠っておられました。その時に弟子たちは、『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』と何とも、とんちんかんな、不思議な発言をしています。普通ならば、イエスさまだって完璧な人間としてこの地上に来られましたので、一緒に溺れて死んでしまうはずなのに、『私たちが溺れて死にそうでも何とも思われないのですか』と言っています。
その時イエスさまはこのように語られました。三十九節に、
『イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。』
先週、「主が共におられます!」と話しました。イエスさまが私たちの人生のただ中にいてくださいます。私たちの人生は小船のようなもので、ある意味、大海原に船出するのが人生かも知れません。時には風が吹き、波が高くなり、どうにもコントロール不能になり、溺れて死にそうな状況になるかも知れません。しかし、イエスさまが共におられるならば、同じ事が起こります。イエスさまは風をしかりつけ、湖に、「黙れ、静まれ」と言われたように、「風はやみ、大凪」になるのです。四章四十節から四十一節に、
『イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』
そのとき、イエスさまは弟子たちに、「信仰がない」と責められました。私たちも、信仰を持たなければなりません。信仰は見えなくても信じることです。イエスさまが私たちとともにおられることが、見えないとなかなか信じることができません。しかし「見ないで信じる者は幸い」と聖書にあるように、見えなくてもイエスさまは私たちと共におられます。
今日、人生の小船が揺れていたとしても、信仰を持つことが大切です。イエスさまが私と共にいてくださると信じるのです。イエスさまが一緒にいてくださるならば、弟子たちと同じように、必ず、「黙れ、静まれ!」と波を静めてくださると信じなければなりません。
波が静まって、舟はやがてゲラサに着きました。ゲラサの地に着いた時、何が起こったのでしょうか。マルコ五章一節から四節に、
『こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。』
風がやみ、向こう岸に着くと、何と、墓場から悪霊に支配されていた男が飛び出してきて、イエスさまを迎えました。そして、男の背後に働いていたレギオンが語ったことばが、五章十節に記されています。
『そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』
悪霊どもは「ゲラサという地方から追い出さないでください」と懇願したとあります。この時に、イエスさまは悪霊の言うことを聞いたのでしょうか。もしも、イエスさまが、「そうだな。おまえたちをこの地方から追い出すのはやめてやろう」と言ったならば、「神は人の祈りも聞くし、悪霊の祈りも聞く」事になってしまい矛盾します。
神は決して、悪魔・悪霊の祈りは聞かれません。イエスさまがゲラサに行ったときに、「レギオン」は打ち砕かれました。その結果、男は正気にもどり、同時にゲラサの地だけではなく「デカポリス」と呼ばれる、十のギリシャ化したヘレニズムの町々に福音が伝わったと記録されています。このような悪しき力が打ち砕かれたというストーリーが五章には記されています。
そしてその後、十二年間長血を煩った女が癒されたという奇跡につながっています。ここから一連の流れをくみ取ることができます。神の国がどのように拡大して行くかという、過程を見ることができます。
イスラエルは長い間、悪しき霊の支配下にありましたが、イエスさまのお生まれと同時に初めは小さかったかも知れませんが、神の国の種が国に落ちました。やがてその権威は、十二人の弟子たちに拡大し、次には地域全体、ゲラサをはじめとして周りの町々、村々に拡大していったのです。
このような過程の中で、十二年間病いを煩った女性が癒されたという記事を見いだすことができます。
けれど、この女性が癒される奇跡が起こる前提として、「会堂管理者の娘が病気で、その娘を癒しに行く途中、大群衆がイエスさまに押し寄せ、病の女性が群衆に紛れ込んでイエスさまの衣に触った」というストーリーです。
これは、イエスさまが一つの目的を持って行動している中で起こった奇跡と言えます。この奇跡が起こった後、イエスさまは何を知らされたのでしょうか。マルコ五章三十五節に、
『イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」』
イエスさまはヤイロの娘の病気を癒しに行く途中、大きな奇跡を行われました。十二年間病にあった女性が瞬間的に癒されるという、すごい奇跡でした。周りの人々が、「すごい奇跡だ…」と湧いているただ中で、「あなたが癒そうとしていた娘が死んでしまった」という知らせでした。
なんとも、がっかりする知らせです。しかし一連のストーリーを「信仰」というキーワードで眺めていくと面白いことがわかります。
弟子たちは、船の中でイエスさまが一緒に乗っているのにも関わらず、信仰を持つことができませんでした。イエスさまは「黙れ、静まれ」と嵐を止めました。イエスさまは弟子たちに、「信仰が薄い者たちだ!」と言われました。
そして十二年間病の女性が癒されたときに、イエスさまは何と言われたのでしょうか。マルコ五章三十四節に、
『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』
この時に癒されたのは、「彼女が信じたから」「信仰があった」からでした。女性は、「イエスさまは絶対に癒すことができる」と信じました。その時、女性は癒されました。ここからも、信じることが重要であることがわかります。信じないと、神の栄光を見ることはできません。
今朝、このように礼拝を持っていますが、礼拝は神に近づき、神の臨在の中で、もう一度信仰を新たにするひとときです。イエスさまに間違いはないと、「イエスさまは良いことをしてくださる」と、信仰を新たにするのです。
この女性は、信仰をもってイエスさま触れたときに癒されました。イエスさまは信仰を称賛されました。しかしその後、イエスさまご自身の信仰が試されるような出来事が起きました。それは、イエスさまが癒そうとして向かっている、ヤイロの娘が死んでしまった、という知らせだったからです。「もう、その家に行っても仕方がない」という最悪の状況が起こりました。
しかしイエスさまは神の子です。その時に、信仰を失われませんでした。死んでいる娘の所に向って行きました。そして何が起こったのでしょうか。マルコ五章四十一節から四十二節に、
『そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。』
女の病が癒され、平穏、平安が訪れた背景に、「信仰」を見ることができます。今私たちは神の国の拡大の中に生きていますが、私たちは信仰を堅く持たなければなりません。「人にはできないことでも、神にはできる」と信じる信仰が必要です。
日本を全体的に見るときに、「本当にこの日本に福音が広がっていくのだろうか。本当に神はこの国で働くことができるのだろうか・・・。」また現在、ハワイミッションの働きを進めていますが、「本当にハワイミッションは大丈夫だろうか・・・」と時々不安になります。
ここで、信仰が神の国拡大のためにたいへん重要であると教えられます。それも、最初は吹けば飛んでしまいそうに見える神の国の種が、やがては、死の力を滅ぼすまでの完全勝利にまでつながると、一連の出来事を通して教えているのです。
同時に、私たちが健康で安全な生活を手に入れるためには、暗やみの世界に挑戦していく姿勢が大切であると教えています。戦いの中で、主が私たちに平安、健康を与えてくださるのです。
つい最近、新潟県で中越地震があり、震度六強で柏崎市は大きな被害を受けました。そんなニュースを聞くと、いつ何時、私たちの町にも同じような地震が起こってもおかしくはありません。もしも東京にあの規模の地震が起こったら、大混乱になると言われています。私たちは、安全を脅かされているただ中に住んでいるのです。私たちは地震をただ単なる自然現象だから仕方がないというのではなく、イエスさまが荒れ狂う風と波に、「黙れ、静まれ」と挑戦したとき鎮まったように、自然現象の背後に働いている悪魔の力に挑戦し、国が災害から守られるように祈らなければなりません。
キリストの体の中には、色々な賜物が与えられており、国の安全、平穏のためにとりなし祈るように導かれます。
昨年、この教会に来られているある婦人が夢を見ました。そしてその夢がたいへん強烈な印象であったために、私とところに来られました。
それは夢の中に一つの町が出てきて、その町が破壊され、あたかも爆弾が落ちたかのような状況であったそうです。そしてそこには、「柏崎」と書いてあったそうです。その方は柏崎について何も知りませんでした。
彼女は私の所に来て、「先生、柏崎っていう町はありますか。」と聞きました。私は、「ああ、新潟県にありますよ」と答えました。
「夢の中で柏崎という町がすごい被害を受けている光景を見ました。それも、その町には原子力発電所があって、それが破壊され、日本がたいへんになったという夢でした。そんなところに原発なんてあるんですか?」と聞かれました。
私は、「柏崎は原発で有名だよ。」と言いました。時々、神様は無知を使って、真実性を現されます。その方は、柏崎についても原発についても、何も知らなかったのに昨年そんな夢を見たのです。
当時はちょうど北朝鮮問題がクローズアップされている時だったので、私は、「北朝鮮のミサイルでも飛んできたのかねぇ…」と言いました。
しかし私たちは、その夢の話を聞いて、「これは柏崎のために祈らなければならない」と思いました。新城教会のスタッフには新潟出身の方もおられますので、関連した場所にとりなしに出向き、昨年、柏崎と原発の守りを祈りました。
今回柏崎が被害に遭い、特に、原子力発電所が大きな被害を受けたことを聞いて、昨年の祈りを思い出しました。
もしかしたら、去年、私たちが柏崎のために祈らなかったら、もっと大変なことが起こっていたかも知れません。また私たちが、そのときもっと真剣に受け止め、柏崎へとりなし手を送って祈っていたら、地震は起こらなかったかも知れません。
このようなことを通して、私たちが平安で安全な生活をするためには、背後に働いているレギオンに対抗しなければならないと教えられます。それは人事ではないので、真剣に町のために、災害が起こることがないように、祈らなければなりません。
新城市は大規模震災の特別強化地域に指定されています。新城の地下には大きな空洞があり、大きな地震が起こると街が空洞に落ち込むと言われています。新城がそんな風に破壊され、新城教会が消えてなくなったら、神の栄光にはなりませんので、私たちは真剣に祈らなければなりません。
また病に関しても、病は神からのプレゼントなどとは言わず、戦って祈らなければなりません。
病はなぜ起きるのでしょうか。もちろん、人間側が不摂生をしたり、健康管理を怠れば体は土の器なので壊れていきます。やはり、健康管理をしなければなりません。
同時に、病をあと押しする、暗やみの力もあります。レギオンが打ち砕かれた後、十二年間煩っていた病が癒されたという記事を見るときに、そのような病の力が地域的に支配していたのかも知れません。
教会は人々が病にかかることがないように、兄姉姉妹が健康で、平穏な生活をすることができるように、戦って祈らなければなりません。
夏になるといつも思い出すことがあります。それはちょうど、二年前の盆の時期でした。死の力に対抗して祈らなければならないと示され、日本中の霊的な拠点にとりなしの祈りに行きました。
私と家内は、滋賀県のある仏教の総本山にとりなしの祈りに行きました。それは日本の仏教の根源的な場所であり、仏教は死の力以外の何者でもありません。仏教に関わっていたら死の力が関係します。人々は仏壇や寺を拝んで、何らかの手応えを感じています。これは本当の神ではなく、神や先祖のふりをした死の力です。日本は死の霊に操られているような国です。ですから、そのような力が砕かれるようにと、真剣に祈りました。
祈りが終わって、渋滞のただ中を車で帰ってきました。その道中、家内の携帯電話が鳴りました。牧師夫妻の携帯電話は、良い知らせよりも案外暗い知らせが多いです。家内が電話をとって、「えっ?何?嘘、本当?」というリアクションでした。そして「ちょっと待って!」と言って、私に携帯電話が渡されました。
電話は、この教会に来ている一人の女性からでした。その方は結婚したばかりで、赤ちゃんを妊娠したと思って病院に行ったそうです。見てもらうと医者が、「奥さん、あなたに良い知らせをしたかったですが、それができません。大変なことを告げなくてはなりません。あなたの左の卵巣に腫瘍があります」というものでした。「卵巣が大きく腫れ上がっています。あなたはよくもここまで我慢しましたね」と言うのです。
彼女はそれを聞いて、病院の駐車場にへたり込んでしまい、そこから電話がかかってきました。私もがっかりして、やる気を失いました。「今日は一日かけて一生懸命とりなしをしたというのに何ってことだ…」と思いました。
イエスさまが十二年間病の女性を癒された後、ヤイロの娘が死んだという知らせを聞いたように、大きなショックでした。
私はその時に信仰を失いかけていました。しかし信仰を立て直し、戦って祈りました。何が起こったのでしょうか?皆さんがすでに知っているように、何と翌日、彼女は完全に癒されたのです。それから二年経ちますが、彼女は今日も元気にこの会衆の中にいます。本当に主が奇跡を成してくださいました。
もちろん、すべての病や問題が一発で解決するのではありませんが、そのような奇跡によって、「主が共におられる!」という信仰を持つのです。
同時に、更に私たちは暗やみの支配に対して、神の国の種として、神の国を広げるために立ち向かっていくことを教えられます。
今日は七月二十九日ですが、今週は私にとって一つの記念すべき、思い出深い週です。それは一九九二年七月三十一日の出来事でした。九二年七月は、主がこの教会に霊的戦いについてはっきりと教えてくださった月でした。それまでの私たちには、現実の世界が、見えない暗やみの世界によって支配されている、というようなアイディアはまったくありませんでした。問題が起こるのは、自然の成り行きだと思っていました。それに対抗することなどはできない、偶然が偶然を呼ぶ形で人生は進んでいくものだと考えていました。
しかし一九九二年七月九日、朝六時に主が預言的に私たちに語ってくださいました。「地域に出て行って祈りなさい。地域に働いている死の力を打ち破る祈りをしなさい。」と、はっきり語られ、聖霊に押し出されるようにして、地域に出て行きました。
その後、七月九日が歴史的にも、大きな戦いが始まった日であることがわかりました。それは「設楽原の戦い」が、七月九日の朝の六時から始まったからです。数時間の戦闘で一万数千人が死ぬという、多くの血が流された悪しき記念日であることがわかりました。
そして、そのような悲しい歴史のただ中に教会が建てられている現実について教えてくださり、その背後に働いている死の力を打ち破るために戦わなければならないという、主からの預言的な導きがありました。
九二年七月は一日も休みなく、地域のためにとりなし祈りました。そのような中で、次々と事件が起こって行きました。その月は、心くじかれることがあまりにもたくさんありました。マルコ四、五章にあるのと同じように、揺れに揺れた月でした。
心くじかれ、勇気がなくなってしまう心境で肩を落としていました。その日私は名古屋で集会があって出向いていきました。集会が始まるまでに少し余裕があり、一休みしていたときに、どこからともなくザワザワと風が吹いてきました。変な風でした。「何だろう。不思議な風だなぁ」と思い、空を見上げました。
今でも忘れることができません。その瞬間、西の空に、雲の中から光輝く十字架が飛び出てきました。私は呆気にとられて、これはきっと目の錯覚だと思いました。ですから、他の所を見てから、もう一度同じ場所を見ました。すると、先ほど十字架を見た少し下の雲から、またもや十字架が飛び出してきました。
私にはそのような体験はあまりないですが、九二年にはっきりと十字架を見ました。神がその時、「わたしは生きているよ。あなたがたに十字架でとった勝利をあげます」と語られた瞬間でした。
そして続けて主が示してくださったことは、「これは不思議としるしの始まりです。あなたがたが戦い続けて行くとき、この延長線上に、素晴らしい主の勝利を見せてあげます」と語ってくださいました。
以来十五年が経ちますが、ずっと地域のために祈り、神の国の種が大きくなるように祈り続けています。主は十五年の間に、不思議としるしを多く私たちの中に起こしてくださいました。
しかし、私たちは神の国の種として、マルコ三章から五章に出ているプロセスに見られるように、信仰を持って前進しなければなりません。決して後ずさりしてはいけません。信仰を持って、前に出て行くときに、主が共にはたらかれ、最終的には死人が生き返るような、完全な神の支配を現して下さるのです。
やがて、この日本においても神の国が訪れる時代が来ます。また、あなたの家族にも、周りにもそのような時が来ます。そのような戦いの中で、あなたがたは平穏、平安、健康、安全を手に入れることができる、手をこまねいてはならないと語っておられます。
一人一人が世界に蒔かれた神の国の種として、神の国を拡大するために戦っていかなければなりません。その結果として、主は私たちに、平穏、平安、健康、安全を与えられます。
また、イエスさまは、癒しを行うと同時に、病気を与えるようなこの世の神とは違うのです。わざわいを与える存在と助けを与える存在がグルになって働く神々とは違い、光なる神様であり、良いものだけを与えてくださおるお方であることを、しっかりと信じましょう。
この国を勝ち取るために、更に主からの知恵をいただいて、前進していきましょう。お祈りします。 |