「何のために無駄にするのか」

2007.8.5(SUN)
新城教会牧師 滝元明師

マルコの福音書 14章3節〜9節
イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

 ハレルヤ!今日は久しぶりに、この教会でメッセージができることを感謝します。ハワイリバイバルミッションが行われることになったときに、私は一つのことを決めました。「私はハワイのために国内で決起集会をしよう」と決めました。
 それで、一月は大阪、二月は四国、三月は沖縄、四月は九州、五月は北海道、六月は北関東・北陸、七月は青森などの東北地方を回る計画をしました。そうしたら門が開かれ、百以上の教会が「来てください」と言われました。色々なところも回りましたが、今日まで健康が支えられたことを感謝します。

 特に七月は東北地方を回りました。青森の土崎にある教会の先生が、「少し前に私の教会にアルゼンチン宣教に行かれた在原先生が来られました。先生に、日本中を廻って一番恵まれている教会、リバイバルされている教会はどこですか?」と聞いたそうです。すると在原先生は、「それは新城教会です」と答えられたそうです。「ぜひ、新城教会を見に行っていらっしゃい」と言われたので、私も一度新城教会に行きたいと言われていました。
 そういう噂を聞くと嬉しいです。神様がこの教会をここまで恵んでくださったことに、感謝しています。色々な教会を回っていますが、音響だけでも新城教会はピカイチです。また椅子も良い椅子です。そして牧師も大勢います。これは素晴らしい恵みです。恵みの中で礼拝ができることを感謝しています。

 福島に行くと米沢から来られた方がいました。「先生、どうしても今日お会いしたいと思ってきました。先生の本を読んで目から鱗が落ちました。だから今日はぜひとも先生にお会いしたいと思ってきました。」と言われました。
 私は「どの本を読まれたのですか?」と聞くと、「『クリスチャンって最高だ!』という本と、『神の栄光を取り戻せ!』という本です。」と言われました。それは、私の書いた本ではなく、順牧師の本です。ですから私は、「僕ではないよ。それは私の息子が書いた本だよ」と言いました。あちらこちらで本が読まれ恵まれていることを思い、心から感謝しています。
 今日はマルコの十四章から、「何のために無駄にするか」というタイトルで学びます。三節から五節に、

『イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。』

とあります。らい病は、非常に重たい皮膚病ですが、人々が嫌っていた家に、イエスさまが入られて食卓に付いておられる時、ひとりの女がナルドの油を持ってきたとあります。
 ナルドの油をご存知ですか。ナルドの油についてですが、昔大阪で万博があった年に、私は八尾の教会に行きました。その教会の一人の女性が、中東から来た人の通訳をして、お礼にナルドの油をいただいたと言われました。その方が香りを嗅がせてくださいました。すごい良い匂いでした。そしてその方が私の聖書に、二滴ほどナルド油をくださいました。とても良い臭いで、半年ほど薫っていました。
 その高価な油をひとりの女が持ってきて、イエスさまの頭に注いだとあります。するとそこにいた何人かの者が憤慨したとあります。三百デナリ以上と書かれています。それを頭に全部注ぎました。またヨハネの福音書は、足に注いで自分の頭の毛で拭ったとあります。そうしたら幾人かの人が憤慨して、「なんで無駄にするのか。この香油だったら三百デナリで売れる」と責めました。

 三百デナリとは、日本金にすると一デナリは一日の給金なので、一日一万円とすると三百日分の給料です。ですから、三百万円くらいをイエスさまに注ぎました。だから、「なぜ無駄にするのか」と怒りました。マタイの福音書とマルコの福音書には、「ひとりの女」と記されていますが、ヨハネの福音書には名前が記されています。ヨハネの福音書十二章三節に、

『マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。』

とあります。この人物は「ベタニヤのマリヤ」でした。マリヤがイエスさまに香油を注ぎました。マルコの福音書には、「何人かの人が互いに言った。なぜむだなことをするのか」とあります。
 しかしよく考えてみると、なぜ、彼女が責められなければならないのでしょうか。マリヤが誰かから香油を取り上げて持ってきて、ささげたのであれば文句を言っても良いのですが、この香油はマリヤの物です。マリヤがこの時のために、大切にとっておいた香油をイエスさまに注いだのです。だから文句を言う必要はありません。
 文句を言った仕掛け人についても書かれています。ヨハネの福音書十二章四節から六節に、

『ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。』

とあります。「なぜそんなにもったいないことをするのだ。三百デナリで売ったら、貧しい人々に施しができる」と言いました。このように言ったのは、イスカリオテのユダでした。最後にはイエスさまを銀三十で売ってしまった男で、彼は会計係をしていましたが、いつもごまかして着服していました。彼は自分は悪いことをしていながら、いかにも自分が正しいかのように、「なぜ無駄にするのか」と言いました。

 時々そういう人がいます。「なぜ無駄にするのか」と言われます。私も今までやった仕事を他から見ると、無駄に思われるかも知れません。「なぜ甲子園で?」また「なぜ武道館で…?」と言われます。武道館での集会は十日間で一億円かかりました。ある人は、「一億円かかったら、三つくらい教会が建てられるではないか」と言われます。文句を言う人は、出した人ではなく、出さない人が言います。出した人は喜びますが、出さない人が、「なぜだ。三つくらい教会が建てられる!」と言われます。
 しかしイエスさまは、「勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことを証したように、ローマでも証しなければならない。」と言われました。私は「あなたは甲子園でやったように、今度は東京でやりなさい」と言われ、東京でやりました。あの時の集会は祝福され、恵まれました。武道館の時は十日間で三千万円くらいの黒字となりました。
 しかしその三千万円を、東京での四十日集会で、全部使ってしまいました。それは主のために使いました。なぜ無駄にするかと言いますが、無駄ではなく、神様のために使っているので感謝しなければなりません。ですからイスカリオテのユダのように、遠くからの傍観者になってはいけません。

 今は素晴らしい時代です。毎週金曜日午後二時から、ハワイリバイバルミッションのための特別な祈祷会を行っています。それは新城教会と結んで祈祷会をしています。あちらの映像を見ることができます。またこちらの映像も、あちらに見え、お互いの声も聞こえます。先週金曜日は上條牧師がハワイから挨拶をし、滝川充彦兄が賛美を導いていました。その隣で一人の娘さんが一生懸命賛美をしていました。どこの娘さんかと思い、よく見ると孫の麗歌でした。また岡本泉さんや滝元里辺架がインフォメーションをしていました。ヤキマから来ているチェルシーさんも頑張っておられました。そのような集会を見ると、素晴らしいと思います。ハワイでリバイバルミッションを行いますが、なぜハワイなのでしょうか。

 一九九三年に甲子園で集会をしました。その時に大勢の方が参加されました。今ハワイのキリスト教連盟の会長をされている方は冬木先生です。彼は平岡先生の集会で救われ、また奥様は、私のメッセージでイエスさまを信じられました。冬木先生が私に、「先生、今がチャンスです。今ならできると思う…」と言われました。
 先生がこんなことを話されていました。彼は一生懸命、甲子園ミッションのために協力をしてくださいました。しかしちょうど甲子園の集会の時にハワイに赴任することになり、先生の教会から多くの方が参加してくださいましたが、先生は留守番で参加することができませんでした。先生はとても悲しんで、一九九三年十二月三十一日に、ダイヤモンドヘッドに登って叫んで祈ったそうです。「イエスさま。私は甲子園に行けなくて悲しいです。しかし、いつかあのワイキキシェルで甲子園と同じ集会ができるようにお願いします。」と祈ったそうです。先生は、「私が一九九三年十二月三十一日にダイヤモンドヘッドで祈った祈りが聞かれました!」と言われました。私は時が満ちたと思っていましたが、その背後には、冬木先生の熱い祈りがあったことを思いました。素晴らしいことです。私たちもマリヤのようにならなければなりません。ルカ十章三十八節から四十二節に、

『さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』

とあります。マリヤについては、聖書の中にルカ十章を見ると、前にもイエスさまが彼女の家を訪れたときがありました。マルタはイエスさまにご馳走することに夢中でしたが、マリヤはイエスさまの足もとでじっと座り、イエスさまの話を聞いていました。マルタはイライラしてイエスさまのところに行き、「イエスさま。私にだけ一生懸命仕事をさせてイエスさまは何とも思われないのですか!」と言いました。
 しかしイエスさまは、「マルタ、マルタ。なくてはならないものは多くはない。マリヤはその良い方を選んだ。なくてはならないものは一つだけだ」と言われました。
 「マリヤはみ言葉に聞き入っていた」とありますが、皆さんは教会に来てみ言葉を楽しんでいますか。礼拝中眠っていてはいけません。せっかく来たので期待して聞かなくてはなりません。楽しんでみ言葉に生きることは大切なことです。子どもたちもよく聞いて下さい。マリヤはみ言葉に聞き入っていました。マリヤがわかったことは、この方はメシヤで神の子だとわかりました。そしてイエスさまがやがて人間の罪のために、エルサレムで人々に捕まえられ、むち打たれ、傷付けられて十字架で死ぬことを話されたと思います。マリヤはその言葉を心に受け止めて、「イエスさま、私たちのために十字架について死んで下さるのですか」という思いでいたと思います。

 イスラエルでは亡くなった人に香油を塗る習慣がありました。マリヤは私はイエスさまのみ体に香油を塗ろうと思い、ずっとナルドの油を大切にしておいたと思います。ある人はマルタの香油は結婚のためにとっておいたのではないかと言われます。しかし彼女はイエスさまの埋葬のために準備をしていたと思います。マルコ十四章六節に、

『すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。』

とあります。「わたしのために」とあります。マリヤの目的は自分のためではありません。三百デナリでは損をしてしまいます。しかし損得ではなく、このお方が十字架で私の変わりになって死んでくださったから、私も心から大切なものをイエスさまにおささげしようと思います。これを成したのはイエスさまのためです。時々、私たちは人に見られるために良いことをしますが、私たちはいつでもイエスさまのために良いことをすることは大切です。またマリヤは時を知っていたと思います。マルコの福音書十四章八節に、

『この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。』

とあります。イエスさまに油を注いだのは、過ぎ越しの祭りの六日前とありますが、イエスさまが十字架につけられる少し前です。マリヤはこの時を逃したら、イエスさまに油を塗る機会がないと時を知っていました。そしてイエスさまの頭に香油を塗ったと書かれています。足にも塗ったとあります。皆は、「何のためにむだにするのか」と言いましたが、彼女はむだだとは考えず、最高のものをイエスさまにおささげしたいと思いました。
 私たちはマリヤのように時を知らなければなりません。なぜ時を知らなければならないのでしょうか。それはイエスさまにおささげする時があるからです。

 私は十九歳の時にイエスさまを信じました。その時に何かいのちをかけて働く仕事が欲しいと思っていました。その時にイエスさまを知りました。そしてこの方のために人生をささげようと思いました。一年後こちらに開拓伝道に入りましたが、あの時、私にとってイエスさまのために人生をかけようと思いました。親は怒りました。「勉強するために東京に出したのに…」と怒りました。母は親戚の家を一軒一軒を回り、「明が東京に行って気が狂ってきた。頼むから親戚付き合いしないでくれよ…」と頼んでいました。しかしどんなに反対されても伝道に出て良かったと思っています。
 私の家内もそうです。ある意味において、これは無駄な人生かも知れません。彼女は日本女子大で将来教授になる道を進んでいましたが、それをやめて伝道に入る道に行きました。お母さんたちも「本当に清子はバカだ。良い道を捨ててなぜ貧乏人と結婚して…」と思ったかも知れませんが、ある時にはイエスさまのために人生をむだにする必要があります。「何のためにむだにするか」とありますが、イエスさまのために無駄にしたら大丈夫です。

 特に若い方々はイエスさまのために人生をかけて下さい。若いときに主のために働くことはイエスさまが喜んで下さっています。今若い青年たちが熱心に働かれています。昨日も十数人が町に繰り出していき、伝道集会のためのチラシを配ってきたそうです。その中から既にチケットを売ってくださいという人がいたと聞いています。また先日は、二十四時間若者たちで賛美をしたそうです。どんなにイエスさまが喜んでくださったのでしょうか。新城教会の若者には望みがあると喜んでくださっていると思います。私たちもやらなければなりません。

『この女は、自分にできることをしたのです。』

とあります。私たちは三百デナリという金をささげることはなかなかできません。しかしここに書かれているのは、「自分のできることをしたのです」とあります。私たちは人の真似ではなく、自分のできることをすれば良いのです。「みんな献身しなさい」と言ってもできない人もいます。できなくても良いのです。あなたができることをすれば良いのです。
 今日も礼拝をしていますが、集会中にふたりの人がこの会堂周辺を歩いて警備をしています。子どもたちが怪我をしないように、自動車の見張りなどをしています。また大きな集会をする時には、赤い棒を持って駐車場の案内をしています。華々しい仕事ではありません。裏の仕事ですが、イエスさまは天国に行ったら、「よく頑張った」と喜んでくださるに違いありません。ですから、あなたのできることをすれば良いのです。

 先日私は、田中たず子姉のところに行きました。彼女はもう九十才になりますが、「先生、私は何もできない…」と言われました。「姉妹。祈ることはできるよ」と言いました。「それはそうだねぇ。」と言っていました。年寄りになってできないと思っても、祈ることができます。ハワイのために祈ることができます。魂の救いのために祈ることができます。お祈りしましょう。私は「祈ってください。」「ハワイに行きましょう」と勧めています。事情で行けれない人もいますので、仕方がありません。お金がないので行けませんと言われる方もいます。少し金ができたら行きたいと言われている方のために、私は祈っています。今この教会でハワイに行きたいと言われる方が七十名程います。
 ルカの福音書二十一章一節から四節に、

『さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」』

とあります。この人はできることをしました。貧しいやもめが二レプタささげたとあります。一レプタは一デナリの百二八分の一と書かれています。日本金にすると百円より少し値打ちがありますので、二レプタは三百円くらいだと思います。彼女が持っている生活費全部をささげたとあります。よくささげたとイエスさまは喜ばれました。私たちは自分ができることを精一杯すれば良いです。イエスさまを信じ、イエスさまを愛してイエスさまに精一杯したら良いのです。イエスさまが生活費全部をささげた、やもめは誰よりも多くささげたと言われましたが、イエスさまはそのまま黙ってはいなかったと思います。その後、生活できないとはならなかったと思います。彼女の生活費は与えられたと思います。

 私は、このみ言葉を読みながら考えました。結婚した当時、仕事もなく、家もなく、行き詰まっていました。最後に金が全くなくなってしまい、田口に行って仕事と家を探していましたが、見つかりませんでした。駄目だと思いました。その時私はやけまんじゅうを食べました。持っていたお金を全部出して、まんじゅうを買いました。その時十円だけ持っていました。家内と半分ずつ食べ、「困ったなぁ。明日から仕事がない。どうしようか」と考えていました。その帰りに、八橋というところで、家内が着物を持って行き、「この着物と何かと換えてくれないか」と差し出しました。
 するとあるおばさんが、「案外良い気物だね…」と言って、ジャガイモと換えてくれました。これから伝道する、でも金もないし、職もないと思いながらジャガイモを食べていると、「おい。おるか?」という声が聞こえました。それは兄でした。「明。明日から石背負いがあるけどやらないか」というのです。一個担ぎ出すといくらというものでした。何も仕事がなくて困っていたので、「やる!」と即答しました。真夏の暑いときでした。一個ずつ担いで一日働きました。すると私を雇ってくれた人が、「ごくろうさまでした。これ、今日の日当だよ。」と言って日当をくれました。嬉しくてそのお金を持って、四キロほど山の中を走って米を買いに行きました。イエスさまは無くなったら知っています。今の生活は豊かです。聖書に、『下には永遠の腕がある』と記されていますので、イエスさまは忘れられていません。

 皆さんが今までささげたこと、祈ってくれたこと、良いこと、必ずイエスさまが報いて下さると信じて下さい。
 先日、東北の聖書学校に行きました。そこに献身者が何名かいて、そのうちの一人がこう言いました。「先生。私ね、先生たちが東京で四十日集会したでしょう。その時私はまだクリスチャンではありませんでした。しかし毎日集会に出て、毎日決心しました。」と言われました。
 その方は北海道の方ですが、北海道に帰ってからバプテスマを受け、今は献身して、聖書学校で学んでいます。「良かったね」と一緒に喜びました。
 四十日の集会はなかなか経済的にも大変でしたが、四十日やったことは無駄ではありませんでした。
 四十日の集会の中で、もう一つ感謝だったことは、一人の方が献金袋の中に金の板を二枚入れてくれました。一キログラムの金の板が二枚ありました。その時は金の値段が安かったので金庫にしまっておきました。
 今年はハワイミッションがあり、お金もいると思っていました。その時私は金があることに気付きました。それを売ってくるように言いました。すると三百六十万円で売れました。天国でその人に会ったら、「ハワイのために使いました。ありがとうございました」と感謝したいと思います。

 時々無駄に感じるときがあります。先日も日本で大きな集会がありました。日本と韓国の人々を二万人を集めた大集会でした。それは「ラブソナタ」という集会ですが、埼玉スーパーアリーナで行ったそうです。
 先日東北の教会に行きました。そこに韓国の方たちが青年たちだけで十人来ました。賛美したり、証をしたりしていました。何のために来ているのかと聞くと、ラブソナタがあるので応援に来たと言われました。オンヌリ教会の方々でした。埼玉でラブソナタをするためにオンヌリ教会から五千人が来たそうです。スーパーアリーナは使用料と設備だけで、七千万円かかったそうです。しかし献金はしなかったそうです。オンヌリ教会で全部の費用を持ったそうです。日本で六カ所やったというのです。九州で二千三百人集めたというのです。冬のソナタなどの俳優たちが大勢来て、日本の救いについて語ったそうです。その六回の集会で百二十億ウォンを韓国から持ってきたそうです。日本金で十五億円です。韓国の人たちには何の報いがあるのでしょうか。
 今世界中が真剣に日本を愛し、「日本にリバイバルを!」と祈っています。世界中が祈っています。ですから私たちも目を覚まし、日本の救いのために働かなければなりません。
 その集会について新聞に、決心者は三百二十五人とありました。私がしている仕事は小さな仕事です。これまでハワイミッションのために、日本各地で働きましたが、今まで私の集会で延べ五千二百四十一人が集まりました。小さいかも知れませんがコツコツと日本のため、ハワイのためにやっています。またその中で伝道集会もしています。まだバプテスマを受けていない方でイエスさまを信じ、バプテスマを受けたい方は来て下さい、と招きました。今までに五千二百四十一人中、三百十五人が決心しました。韓国は全部資金を持ってきましたが、私は献金を募りました。一生懸命ハワイのためにささげてくださいと勧めました。ハワイのためにです。愛を込めて皆さんがささげてくださったものが、七ヶ月間で一〇〇くらいの教会を回って、六百三十三万円与えられました。ささげられた方には、必ず大きな祝福があると信じます。日本に必ず大きなリバイバルが来ます。

 福島に行くと、福島の牧師先生たちが、「甲子園以来、毎月集まって祈っています。」また新潟でも牧師たちが、毎月祈っていると言われました。自分にできることをしています。なぜ無駄なことをしますか。私たちは主のために無駄なこともしなければなりません。イエスさまがいたら、無駄ではない。わたしのためにできることをしてくれたと喜んでくださいます。子どもでも大人でも、イエスさまのためにできることを喜んでやっていきましょう。お祈りします。


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