おまえは何者だ

2007.8.12(SUN)
新城教会牧師 滝元明師

使徒の働き 19章11節〜20節
神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。

 ハレルヤ!おはようございます。今日もこのように、皆さんと礼拝ができることを感謝します。先週に引き続き、み言葉を語ることができますことを感謝します。
 今日は「おまえは何者だ」というタイトルで学びます。今日の記事は、使徒パウロがエペソの町で成したことについて書かれています。使徒十九章十一節から十二節に、

とあるように、素晴らしい奇跡が起こりました。今の時代も私たちが信じているイエスさまは、生きておられ、天においても地においても、いっさいの権威を持っておられますので、信じたら奇跡をみることができます。今日も奇跡を信じましょう。
 「パウロの手によって驚くべき奇跡が行われた」とあります。イエスさまが天に帰られる前に、

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやれます。』』

とあります。ですから、私たちにも同じことができます。イエスさまを信じる者が病める者に手を置いたら癒されたのです。
 パウロの手によって驚くべき奇跡を行われたとありますが、新城教会も今、リバイバルを求めて祈っていますが、このような出来事が起こったら素晴らしいです。

『パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。』

 物の中に悪霊が住むことはありませんが、聖霊に満たされたパウロの手ぬぐいや前掛けを外し、病人に触れただけで癒されたとあります。これは素晴らしい奇跡です。また悪霊も出て行ったとあります。

 一九七十年からリバイバルクルセードを始め、一九九三年には甲子園ミッションがありました。最初に日本のリバイバルのためにということで、愛知県民の森で「教職者ゼミナール」を一九七一年から二十年ほど続けました。その時のことを今でも忘れません。それは大阪のある先生が来て、このような祈りの要請をされました。
 大阪で牧師をされている方が、ある時に燃え尽き症候群になったそうです。それで気力がまったく無くなってしまったそうです。そして、牧師をやめなければならないというところになってしまいました。
 「私が愛している先生が、牧師をやめなければならないほどの病気になってしまいましたから、ぜひ祈ってください。」とお願いされました。
 その時、そこにいた牧師たちが真剣に彼のために祈りました。燃え尽き症候群になってしまった先生のためにハンカチを出し、オリーブ油をつけて真剣に祈りました。
 「主よ。○○先生が癒されますように。昔、使徒パウロの前掛けや手ぬぐいに触れただけで病気が無くなったので、同じ奇跡を現してください」と真剣に祈りました。
 その後ハンカチを持って病気の牧師のところに行き、そのハンカチを頭上に置いて、「イエスさま、同じように奇跡を行ってください」と祈りました。
 何が起こったでしょうか。感謝なことに、その先生はピタリと癒されました。彼は今はある教団の責任者としても働かれています。
 この地上での癒しは、自然治癒の法則や医学などがあります。しかし医学でもどうにもならないような病気もありますが、神が働いてくださると奇跡をみることができます。私たちも信仰を持っていきたいと思います。
 使徒の働きが書かれた時代には、たくさんの奇跡が起こっています。使徒五章十二節に、

『また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。』

とあります。聖霊が臨まれたときに使徒たちは用いられ、「多くのしるしとわざが人々の間で行われた」とあります。また五章十五節から十六節に、

『ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町から、大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。』

とあります。これは神がペテロを通してなされたことです。聖霊に満たされたということは、イエスさまと一緒にいたということです。癒したのはペテロではありません。見えるのはペテロですが、ペテロではなく、イエスさまが共にいて素晴らしい奇跡を行ってくださり、ペテロは忙しくて按手して祈ることができなくても、彼の影に触れただけで癒されたのです。それで人々は病人を道端に寝かせました。そしてペテロが通ったときに、影が触れただけで癒されたとあります。
 日本でもこのような奇跡が行われたら素晴らしいです。奇跡とは神の憐れみです。イエスさまがこの地上に来たときに、苦しんでいる人たち、病にある人たち、悪霊に束縛されている人たちを可愛そうに思いました。神様は「良い方」ですので、病気の人を見て喜んでいるわけではありません。主を信じたときに、同じように癒されることができると聖書に記されています。使徒十九章十三節から十六節に、

『ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。』

とあります。これをみると、諸国を巡回しているユダヤ人の魔除け祈祷師、祭司長の息子とありますが、今で言うと牧師の息子のようなものです。カトリックで免罪符を売っていたことがありましたが、「私が拝むと悪魔がつかない」などと言って人々を騙していました。呪術を使っていました。この人たちがパウロの奇跡を見て「すごい!」と思い、自分でもやってみようとしました。

『「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」』と言いました。すると、悪霊につかれている者が言ったことは、
 『自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどもお前たちは何者だ』とあります。私たちがイエスさまを信じたら神のものです。私たちはイエスさまに知られています。パウロはイエスさまも知っていますが、悪魔が「パウロ」という名前を聞いたときに、「あいつは手強い」と恐れおののきました。
 しかし魔除け祈祷師たちがイエスさまの名前を使って、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ったときに彼が言ったことは、
 「俺はイエスをよく知っているし、パウロも知っているがお前は何者だ」と飛びかかって殴りかかり、押さえつけ、傷を負って裸にされたという記事があります。

 「お前は何者だ」とありますが、クリスチャンには悪霊に打ち勝つ力が与えられています。私たちが、「イエスさまの名によって」とお祈りしますが、「お前は何者だ」とばかにされてはいけません。

 ブラジルに行ったとき、教職者の集会で話したことがあります。その時、ある人からこのような話を聞きました。
 一人の牧師が、「先生。悪霊につかれている人がいるので祈ってください」と言われ、仕方なく、「イエスのみ名によってお前に命じる。出て行け!」と祈ってみました。すると、悪霊が笑い出したそうです。
 「ハッハッハ〜。おまえは姦淫しているではないか。お前にそんなことが言えるのか?」
 実は、この牧師は姦淫の罪を犯していました。人々にはわかりませんでしたが、悪霊は全部わかっていました。するとその牧師は、真っ赤な顔をして逃げていったそうです。

 今度は別の牧師が、「悪霊よ。出て行け」というと、「お前は酒を飲んでいるではないか。お前みたいな偽物のクリスチャンの言うことを俺は聞かないぞ…」と言ったそうです。

 私たちは悪霊に恐れられ、権威を持って命じたら出て行く、悪霊を追い出す権威を持たなければなりません。
 私は先日山梨県甲府に行きました。甲府に行くと懐かしく思い出すことがありす。その近くに教会があったのを思い出しました。
 私はその教会のスウェーデン宣教師から招かれました。それは一九六七年か六八年の二月十四日の夜のことでした。私は初めてそのような経験をしました。
 その教会は寂れた教会で、悪霊にやられているような教会でした。集会が終わってから教会の二階に泊めてもらっていると、夜中に気持ちの悪い夢を見ました。悪魔が見せたような嫌な夢で目を覚ましました。心配が来たのでベッドに横たわりながら、家内のことや子どもたちの名前を挙げてお祈りしました。もう一度寝ようと思い目をつむると、私は生まれて初めて悪霊を見ました。
 なんと、目の前に悪霊が立っているのです。瞬間的にわかりました。すると、「滝元!ここからすぐに帰れ!!」と言うのです。私は驚き、大声を出して「イエスのみ名によって命じる!悪霊よ去って行け!!」と祈りました。
 悪霊とは霊的な存在です。私が霊の目で見たのか、肉の目で見たのかわかりませんが、見たことは確かです。「滝元!すぐ帰れ!!」と言ったことも確かです。
 そして私のベッドの周りを歩いているのです。私は祈りました。「イエスさま。あなたの十字架の血潮で守ってください。イエスの名前でサタンを打ち砕きます。」と祈りました。
 すると悪霊は去っていきました。それからベッドに入ってもう一度眠りました。朝、目を覚ましたときに、一つのみ言葉が来ました。「わたしから離れては何一つできないからである」という言葉が心をよぎりました。
 悪魔に勝つ道はイエスさまから離れていてはできないと思いました。

 悪魔は私たちを知っています。かつて私と一緒によく伝道した、ジョセフ・シメオンソン先生が中国で伝道していたときの話をされました。
 あるクリスチャンが日曜礼拝に来ないで、魔術を行っているところに行きその光景をのぞき込んでいました。
 すると悪霊が言いました。「お前はクリスチャンだろ。なぜ礼拝に出ないでここにいるのか…」
 私たちはイエスさまに覚えられていることは素晴らしいですが、悪魔も私たちを知っています。私たちが悪魔に打ち勝つ権威を持っていることは非常に大切なことです。使徒の働き十九章十七節から十九節に、

『このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。』

とあります。このようなことが起こって恐れを感じたのは、クリスチャンでした。自分たちもサタンに負けてはいけないと思いました。十九章十八節から二十節に、

『そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。』

とあります。悪魔に勝つためには、罪からしっかり離れなければなりません。
 昨日、一昨日、メッセージの準備をしながら一冊の本を読みました。ジョン・バンヤンという人が書いた、『天の歴程』という本でした。世界的に有名な本です。彼はイギリスの人で、昔は聖職者しか伝道できませんでしたが、彼は一般信徒として伝道したということで牢屋に入れられ、その中でこの本を書きました。
 それを見たときに面白い絵がありました。悪魔が一人の人を縄で縛り、何本も綱を持っていました。「おい、動け!」と突いていました。悪魔は人間が罪を犯すと、罪というひもで縛ります。色々な物を盗んだり、人殺し、姦淫、嘘を言ったり、親不孝、偶像礼拝など、色々な悪い行いにより悪魔が縛り、「こんなことをやっただろう。」「泥棒をしただろう。」「お前、お父さんとお母さんの言うことを聞かずに、財布から金を出しただろう。」と訴えます。
 しかし、罪を告白するということは、一つの法則があります。ヨハネ第一の手紙一章九節に、

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

とあります。私たちはイエスさまを信じ、過去にどんな罪があったとしても、それを告白したら、「赦してきよめてくださる」とあります。悪魔が縛って、「お前、駄目だろう…」と訴えていても、「イエスさま赦してください」と言うと、縄がパチッと切れて、自由になるのです。サタンは私たちを訴えますが、イエスさまを信じて悔い改めることによって、サタンの訴えがなくなります。

 私が十九才で教会に行った時、悔い改め運動がありました。ある青年が宮城県の実家に帰って、「自分の村で悪いことをしたので、悔い改めに行ってきました」と言いました。私は驚きました。私も将来伝道者になるためには、しっかりと罪の悔い改めと、断ちきりをしなければならないと思いました。
 私は一九四九年二月二十日にイエスさまを信じ、五月三十日にバプテスマを受けました。私は東京の日本農園研究所にいましたが、わざわざ津具に帰りました。そして一軒一軒回って、罪の告白、悔い改めをしました。梨を盗んだり、柿を盗んだことなど、謝りに行きました。私は桃を盗んだ家に行って謝りました。そこは金持ちの家でした。
 「おばさん、簀の子の滝元明というけど、東京でクリスチャンになって過去の罪が示されて、小学校四年生の時に桃をたくさん盗んだので謝りに来ました。」と言うと、その奥さんは涙をぽろぽろ流してこう言われました。
 「毎年家の桃を子どもたちが盗んでいったけど、謝りに来たのはあんたが初めてだ」と言いました。「すいません。ごめんなさい」と言うと、「ええ、赦しますよ」と言いました。お金を差し出すと、「お金はいりません。本当に来てくれて嬉しい」と言われました。
 その時に私も嬉しくなって、全部を回って謝りました。悔い改めに行って良かったと思いました。

 数年前、私は神学生たちと私の郷里である津具村に行きました。昔、ジェームス・バラ宣教師が津具村に来てリバイバルが起こった場所を調査に行きました。この津具村に代々、医者をしている山崎さんという方がいます。私よりも随分年配の人でした。そこに挨拶に行き、「簀子の滝元明です」と言うと、そのお医者さんが、「滝元くんか。忘れないよ。君のことを覚えているよ。」と言いました。「君が東京に行ってクリスチャンになって、柿を盗んだから赦してください、と言ったのを今でも覚えているよ。あの時、私は君が将来大物になると思ったよ」と言ってくれました。

 今日私があるのは、その時徹底的に悔い改めをしたからです。悔い改めたときにスッキリして、それから人が恐くなくなりました。神と人の前に生きることです。はっきりとクリスチャンとして、過去の罪を悔い改めることは非常に大切です。

 私は和歌山県の紀ノ川にある教会に行きました。ある方が、「先生。私の家は娘がクリスチャンになり、次に私も家内もクリスチャンになりました。」というのです。「おめでとうございます」と言うと、「おめでとうというのはまだ早い」と言われました。
 「わしは長男でクリスチャンになったけど、家に仏壇があるから、この仏壇をどうしたら良いかと思い、迷って、いつも来る牧師に相談します」と言うのです。
 日本の牧師は優しくて、「まあ、仏壇の蓋でも閉めておきなさい」とか、「拝まなかったら良いですよ」とか、「そんなに責められるのだったら、物置にでもしまっておいたらどうですか」などと言われたそうです。

 しかしある時、私が書いた『千代に至る祝福』を読んだそうです。それで驚いたそうです。「クリスチャンになったら偶像は捨てなさい。偶像は焼きなさい。砕きなさい」と書いてあります。
 『千代に至る祝福』を書くときには、とても戦いがありました。ちょうどマルチン・ルターが宗教改革したときに悪魔が出てきて、彼がインク壺をぶつけたのが今でも壁に残っていると言われていますが、そんな気持ちがわかるようでした。
 「偶像は捨てなければいけない」と書くと、悪魔が妨害に来たりしたので格闘をしながら書いていました。だから私が書いた本の中で一番良い本は、『千代に至る祝福』です。
 私が書いた本を読んで「偶像は捨てなさい。焼きなさい」と書いているのを読み、極端な先生だと思ったそうです。しかし、考えてみたら、「この人は聖書から書いているから極端ではなく、正しい」とわかったので、「どうしたら良いですか」と聞くのです。
 私ははっきりと「捨てなさい」と言いました。しかし「全く拝んでいませんよ」というのです。けれども、聖書は申命記二十七章で、「ひそかに偶像を安置する者は呪われる」と書いてあると言いました。
 すると、彼が顔色を変えて「私の家はクリスチャンになったけど、色々と呪われていて悪いことが起こります」と言われました。そして彼は「捨てます」と決心しました。
 私は「いつ捨てるの?」と聞きました。そして「明日捨てなさい」と言いました。数年程前に、その教会の先生に「あの兄弟は仏壇を捨てた?」と聞きました。
 「先生。捨てましたよ。そして、捨てた後ですごいことが起こりました。」と言われました。何が起きたのかを聞くと、その後親族が続々と救われたと言われました。
 自分のお父さん、お母さんが仏壇を持っていたら仕方がありませんが、自分のものであったら捨てなければなりません。だから過去の罪は一つ一つ告白し、断ち切ることが必要です。はっきりと悔い改めてください。一番大きな罪は偶像礼拝です。偶像礼拝を断ち切り、また関係しないことです。そしてサタンに恐れられるクリスチャンになりましょう。歩いているだけでサタンが恐れるような、素晴らしいクリスチャンになりましょう。

 私が武道館で集会をしている時に、私の孫の里辺架がこう言いました。「おじいちゃん。おじいちゃんが武道館でメッセージしていたときに、天の使いがいっぱいおじいちゃんを守っていたよ。」と言いました。「あんた見たの?」と聞くと、「見えるよ…。本当だよ」と言いました。
 私に仕えている天使がいると思います。いつか私も見てみたいと思います。天の使いが守っていることは素晴らしいです。悪魔に縛られたら、人生は敗北になるので、しっかりと悔い改めてください。黙示録十二章七節から十一節に、

『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。』

とあります。『私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者』とあります。サタンは私たちを訴えています。
 「この人はこんなことをやった!」「こんな過去がある!」「今までこんなことをしてきた!」と訴えます。
 しかしそれらが投げ落とされたとあります。そして十一節には、

『兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。』

とあります。サタンに打ち勝つ道はイエスの血潮です。そして「証の言葉」とありますので、「イエスさまを信じています」としっかり告白してください。
 今週は盆で、実家に帰省されている方がいるかと思います。「何だ。親不孝者。先祖様を拝まないのか!」と言われて、「クリスチャンだから拝めない。」「クリスチャン?何だと?」と言われたりすると、「じゃあ仕方がない。拝むか…」というのではいけません。唯一の真の神であり、十字架について死んでよみがえってくださり、今も、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられる「イエスさまを信じているから、偶像を拝みません」と言いましょう。
 聖書の中に「鼻から息をする者を恐れてはいけない」とあります。だから恐れてはいけません。どんなに言われても、必ず最後は勝利します。必ず勝つことができるので、信仰を持ってください。私の父親も、「恥ずかしい。恥ずかしくて村を歩けん。東京に行って気違いになった。柿を盗んだとか、桃を盗んだとか近所に謝ったりして…」と恥ずかしく思ったようですが、最後には父も母もイエスさまを信じて天国に帰りました。

 まずはしっかりと自分の罪を悔い改め、断ち切って勝利ある生活をしていきましょう。「告発者、訴える者」とありますが、訴えられていると思われる方は、自分で告白して祈ってください。赦されることを信じて祈りましょう。どんな罪も、赦されない罪は絶対にありません。共に祈りましょう。


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