主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない

2007.9.30(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 申命記31章7節〜8節
ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。足もとの悪い中、お集まりくださり、ともに礼拝できますことを心から感謝します。今日は申命記三十一章から、「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」というタイトルで学びます。
 聖書には歴史的背景があり、ある特定の人物や民族に語られている事柄ですが、それは同時に、主を信じる者たちに語られたこととして受け取ることができます。私たちが聖書を歴史的な書物としてだけ読むならば、それはあまり意味がないかも知れません。しかしそれを自分に語られた言葉として受け取るならば、み言葉によって勇気づけられ、励まされ、祝福を受けることができます。申命記三十一章七節から八節の括弧内を、自分に語られている言葉として読んでみましょう。

『「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」』

 先日礼拝後に、教育館二階のトイレに入ると、トイレの扉が開きました。そして、「順先生、助けて!」という声が聞こえました。なんと、そこにはカミに見放された少年が便座に座っていました。彼はカミなく、望みなく困っていたらしいのです。トイレをはじめてしまったのですが、ふと見ると、目の前にはカミがおられなかったのです。

 それで私に、「順先生。助けて!カミ持ってきてくれる?」と言いました。私は紙をとってきました。そんなカミならば良いのですが、本物の神に見捨てられる人はひとりもいません。今日ここにおられる一人一人は、神の目に留まっています。神様はあなたのことをご存知です。神様は最後の最後まで、私たちの人生を導いてくだいます。

 人間は約束しても忘れてしまったり、途中で気が変わることがあります。しかし私たちの神は、途中で気が変わったり、方向性を変えるような方では決してありません。

 今読んだ箇所は、モーセという人物が、後継者のヨシュアを呼び寄せてイスラエルの人々の目の前で語った言葉です。

 イスラエルは四百年以上に渡り、エジプトで奴隷となった歴史がありました。しかし神はモーセという人物を立て、百万、二百万とも言われる奴隷たちをエジプトから脱出させ、神が約束したカナンの地に連れていきました。その中では、紅海が真二つに裂けたり、昼は雲の柱、夜は火の柱が出て導き、また、砂漠にも関わらず、マナという食物が天から降ってきて彼らを支えました。

 このような数々の奇跡が起こったのにも関わらず、最終目的地であるカナンに入るという目標は、まだ達成されていませんでした。荒野に出て、かれこれ四十年も経っていました。神の大いなる業を日々見ていましたが、神の約束は、カナンに入れるというものでした。しかしそれは未だに実現していませんでした。

 時々私たちも神の偉大な奇跡を見ることができますが、最終目標がなかなか達成されないときがあります。

 十五年前から「全日本リバイバルミッション」がはじまり、日本のリバイバルのために働いています。その中で、神の偉大なみ業を数々見ていますが、まだ最終目的であるリバイバルには到達できていない状況かも知れません。

 しかし、そんな中でも、神の約束は変わらないということを、ここから受けとるのです。モーセは年をとり、天に帰る日が近づいていると神から語られました。その時、モーセは後継者であるヨシュアを呼び寄せ、この言葉を語りました。そしてモーセはこの地上から去っていきました。

 しかし神の約束は一世代だけではなく、二代、三代、四代と続き、計画が達成されていくという原則を学ぶことができます。モーセが語った言葉が、次にヨシュアに直接語られたことを、ヨシュア記から見ることができます。

 ヨシュア記一章一節から五節、

『さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』

 モーセがヨシュアに語った言葉を、今度は直接神はヨシュアに語りました。神様の約束は世代を超えて実現していくことがわかります。更にこの言葉は遡ると、創世記において、神がアブラハムと結ばれた契約の実行に他ならないことがわかります。創世記十五章十八節に、

『「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。』

 神はアブラハムとの約束を世代を超えて、モーセに引き継ぎ、ヨシュアに引き継ぎ、やがて実現するのです。

 神様との付き合いは、気を長くして待たなくてはならないときがあります。私たちは三分以上待てない世界に住んでいます。インスタント・ラーメンも三分待てば食べられるように調整されています。しかし三分以上だとあまり買わないそうです。

 神の働きは、何世代にも渡って、みこころが引き継がれて実現するものもあります。しかしその中で流れている神のポリシーは、決して途中で変わるものではありません。ヨシュア記一章五節に、

『あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』

とあります。この言葉は大変素晴らしいです。ぜひ、このみ言葉を受け取ってお帰りください。ヨシュア記一章五節のみ言葉を自分のものとして受け取りましょう。

『あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』

 私たちの人生に、立ちはだかる者は誰一人いないとあります。イエスさまを信じているならば、あなたの前に立ちはだかる者はいないのです。

 時々目の前に大きな石があり、立ちはだかってこれ以上一歩も進めないと思う事があります。しかし、神様はそのようには言われません。あなたの前に立ちはだかるものは何一つない、とモーセにヨシュアに語られたように、「わたしはあなたとともにいる。わたしはあなたを見捨てない。あなたを見放さない」と語っておられます。

 聖書のみ言葉の成就のためには、条件が付いていることも知らなければなりません。ヨシュア記一章六節から九節に、

『強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」』

 主がともに歩んでくださるために必要な条件が記されています。それは、

『わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。』

 教会に来ると、道徳の規準がはっきりします。世界は毎年のように道徳の規準や生活の基準が変わります。法律さえもころころとかわります。ですから、その基準に合わせるのは大変です。

 しかし聖書の基準は決して変わりません。それを心に留めることは、「あなたが栄えるためだ」とあります。私たちが栄えるために必要なことは、神の律法を心に留めることです。その律法とは、神がモーセに与えた「十戒」です。このことをよく心に留めるようにと教えています。

 若者からお年寄りに至るまで、神が人類に与えた基準をしっかり心に留めるならば、決して人生は揺るぐことはなく、繁栄すると教えています。

 では、神の戒めとは何でしょうか。それは出エジプト記二十章にあります。これをしっかりと心に留めておけば、あなたは繁栄し、祝福されます。

一、あなたには、わたしのほかに、他の神々があってはならない。

 これは最も大きな戒めです。私たちが繁栄するためには、ただ一人の神を知る事です。ただ一人の神様「イエス・キリスト」によって神と交わることができるのです。ですから、「他の神々があってはならない」と教えています。

二、あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

 偶像の神々に仕えることが、人生を破壊する最も大きな原因です。十戒において最初に記されている事柄は重要です。

三、あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

 この意味はなかなか理解し難いです。しかし聖書全体から見ると、理解できます。それは名前の使用制限であり、「イエス・キリスト以外に救いはない」ことを教えています。祈る時、イエスさまの名前以外、使ってはいけないということです。日本の偶像の神々には、多くの名前が付けられています。「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」ということわざのように、色々な名前を使えば一つぐらい祈りが聞かれるだろうと思うのです。しかし、イエスさま以外の名前の祈りは、神ならぬ神々、神の振りをした悪霊のところに届いてしまいます。本物の神様に祈りを届けたかったら、世界にただ一つだけの神の名前、「イエス」を使いなさいと教えています。

 皆さんの家に電話をかけるときに、電話番号は一つしかありません。最後の二桁くらい適当でも多分通じるだろうと、適当にやっても通じません。十桁ならば、十桁をしっかりと押さなければなりません。

 昔はダイヤル電話がありました。ある人が四四局の四四四四に電話をしました。そして電話に出た人に言いました。「すみません。一一九番に電話してくれますか。」

 「ダイヤルの四の所に指がはまってしまい、抜けません。助けてほしいのです。」この人は四以外に回すことができなかったのです。

 私たちも一つのダイヤル番号しか回すことができません。それは「イエスさま」です。イエスさまの名前を使って祈るならば、その祈りは神のところに届きます。

 「あなたはあなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」というのは、イエスさまの名前以外に救いはないという理由に通じます。

四、安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

 ユダヤ人たちは、安息日を厳しく守ります。私たちは今、新約時代に住んでいるので、旧約聖書の基準とは違いますが、「安息日を守る」とは、「神を礼拝する人生」を教えています。

 今日も週の初めの日に集まって主を礼拝しています。これは、ある意味で、『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。』という戒めを実行していることです。礼拝を中心として一週間を始めて行くことは大切です。教会に通っていると段々と違いがわかってきます。礼拝をしっかり守って一週間を始めた週と、自分のスケジュールを優先して始めた週とは違うということです。

 もちろん、諸事情があって教会に来れないのはやむを得えません。しかし、私たちの気持ちの中心が、いつも「主を礼拝したい」という思いがあれば、祝福を得ることができます。

五、あなたの父と母を敬え。

 日本人の「父と母を敬え」という思想は儒教から来ています。しかしクリスチャンはそれとは一線を画しています。注意しなければならないのは、日本人は儒教の影響を強く受けているという点です。儒教は陰陽の世界です。明るいところがあったら暗いところも存在するセットです。父母を敬うとは、先祖崇拝とセットになっています。これは聖書の考え方ではありません。聖書の神は「生ける者たちの神」です。

 死者は神の手に戻ります。ですから、死んだ人たちについては、心配しなくても良いのです。神の完全管理下にあるので、私たちの祈りによって、死後の世界が決まることはありません。「生きている父と母を敬う」ようにと聖書は教えています。生きている時は親不孝、死んでから先祖崇拝ではないのです。子どもたちもこのみ言葉を受け取って下さい。

六、殺してはならない。

 わかりきったことですが、日本では毎日のように殺人が起こっています。聖書は何千年も前から、『殺してはならない』と教えています。日本の歴史を見ると、殺戮の歴史です。血が流された歴史です。これは罪です。罪によって悪霊の破壊的な力が働くのです。

七、姦淫してはならない。

 性的乱れが氾濫していますが、これは決して幸せをもたらすものではありません。その行く末は、人生の車輪を燃やしてしまいます。

 人間にとって火はなくてはならないものです。火がなくては、食事も作れませんし、冬、暖をとることもできません。

 同様に、人間にとって性がなくては、子孫は残りません。しかし火も使い方を誤ったら大きな森を燃やしてしまうし、自分の住処も燃やしてしまいます。性は神が与えたことですが、それが夫婦の間だけでコントロールされなければなりません。性の使い方を一歩間違えると、人生を全部燃やしてしまいます。今の時代、そのような事が多く起こっています。悲しいことです。

八、盗んではならない。

 誰も見ていないからと言って盗んではいけません。

 ある人が道を歩いていると、高価な電線が落ちていたそうです。電線は銅でできていて高く売れるので、それを盗んで一儲けしようと電線を持ち上げたところ、天から声がしました。「こらっ、泥棒!!」

 天を見上げると電気工事のおじさんが電柱の上で作業をしながら、見ていたのです。

 誰も見てないから万引きしても良いという考え方がありますが、神はいつも見ています。そして、「盗んではならない」と教えています。この基準をしっかり、守らなくてはなりません。

九、あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

 日本人には、「嘘も方便」という考え方があり、嘘をつくのも修行のうちというような仏教的な考え方があります。

 しかしそうではなく、私たちは常に真実に生きていく必要があります。私はハワイ・リバイバルミッションの働きで、アメリカに入出国を繰り返しています。入国の時にはいつも緊張します。なぜならば、私は月に二回ぐらいハワイに行っているので、「なぜ、あなたはこんなに多くハワイに来るのですか」と聞かれます。

 今度、ハワイ・リバイバルミッションに行かれる方々は、何の問題もありませんのでご心配なく。私のように、何度も繰り返していると、「なぜですか?」と係官から聞かれます。いつも、説明するのが面倒くさいと思います。そして私にはミッション事務局から、色々な物品を持たされます。集会のためのチラシや、ポスターなど、色々な荷物を持ってハワイに行きます。一人、二十三キロまで持って行けるので、リバイバルミッションの事務局が二十三キロ、ギリギリで荷造りしてくれます。山のような荷物をもってハワイに行きます。「なぜ、短い滞在なのに、こんな多くの荷物を持っているのか?」と聞かれます。持ち物の申告書を提出しなければなりません。

 あなたの旅行の目的は?「観光、またはビジネス」とあります。私は牧師として働くので、ボランティアでもビジネスというところにチェックする必要があります。「観光」と嘘を申告すると、次の嘘を言わなくてはなりません。向こうの係官は、それを暴く専門家ですから、次から次へと矛盾点をつかれ、最終的には大変なことになります。

 そのようなことにならないために、すべてを正直に申告するようにしています。それで税関を通るのに、一時間くらいかかることもあります。

 聖書は「偽ってはならない」とあるので、偽りとは自分の決断による領域ですが、真実に生きる時に人生は祝福されるのです。

十、あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

 もう一つ「あなたの隣の妻を欲しがってはならない」という事も告げています。性的不道徳はむさぼりの罪なのです。

 私たち人間は必要以上のものを欲しがります。自分の必要だけで満足する生活をしなければなりません。このような十の戒めは、人間が幸せに生きるための条件として、神が与えてくださいました。私たちがそれらに心に留めて生活していくならば、人生は大丈夫です。決して見捨てられることはない、見放されることはない、主がともにいてあなたの人生に立ちはだかる者はないと教えています。

 また聖書の素晴らしさは、もしも失敗があったとしても、イエスさまが人類の罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったゆえに、罪が赦されるということです。イエスさまは神であり、人間の根源です。その方が、私たちの犯したすべての罪の身代わりとなって、二千年前に身代わりとなって死んでくださいました。教会のシンボルは十字架ですが、これはイエスさまが私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったことを現しています。私たちの犯した罪の代価の支払いは、すべて済みだから、すべての罪が赦されると教えています。

 ある人は、二千年も前のイエスさまが、なぜ、私の罪の身代わりになれるのかと言われます。イエスさまは、「過去、現在、未来」をすべて現在形で持っておられる神ですから、二千年後に対しても、現在形として代価を払ってくださったのです。

 私たちにどんな罪があっても、すべて赦されるのです。この十の戒めをしっかりと心に留めましょう。それは私たちの人生が祝福されるためです。

一、あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

二、あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

三、あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

四、安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

五、あなたの父と母を敬え。

六、殺してはならない。

七、姦淫してはならない。

八、盗んではならない。

九、あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

十、あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

 これらをよく見ると、「一番から四番」までは、人間と神様との関係を現し、また、「五番から十番」までは、人同士の関係を現しています。ちょうど十字架も縦の棒と、横の棒があり、縦棒がなくては横棒がつきません。同様に、まずは縦の棒である神との関係をしっかりとしたら、横の棒である人間関係も祝福されるのです。

 そして、イエスさまは、この十戒を「二つ」に束ねました。一番から四番までの神様との関係、また五番から十番までの人と人との関係を束ねてくれました。それも、「愛」というひもで束ねてくださいました。

 マタイの福音書二十二章三十六節から四十節に、

『「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』

 イエスさまは神がモーセに与えた十戒を、愛という帯で二つに縛ってくださいました。神と人との間柄を記した律法は、「神を愛する」という一言で表現できます。

 また「人を愛する」という中で、「盗んではならない」ということも含まれます。相手を愛していたら、相手の命を奪うことはできません。人同士の事柄も、愛という帯で一つにまとめる事が出来るのです。

 「偶像を拝んではならない」ということも、イエスさまが罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくれたという、神の愛を知ったら、他の神々を拝む気にもなりません。「神様を愛する、人を愛する」という中で、律法全体が全うされるのです。

 ゆえに、愛が一番重要であると教えています。どん底のような人生にあっても、神の愛によって人生は変わります。どん底から救われ、新しい命がわき上がります。

 今日は礼拝後、二人の方がバプテスマを受けられます。神様が素晴らしいことを今、新城教会にしてくださっています。私たちはハワイで一生懸命働いていますが、神の法則は不思議です。『受けるよりも与えるほうが幸い』とみ言葉にありますが、新城のために全力で頑張るのではなく、他の所で与えていると、何と、内側に勝利が来ます。

 この二人を見ると、神は見捨てられないということがわかります。神は私たちの祈りを聞いて下さいます。しかしバプテスマは完成ではなく、スタートです。バプテスマは勝利の礎を据える瞬間です。神はどん底の中での祈りを聞いてくださいました。彼らの証を聞きましょう。

(Jさんの証)

 私は二十年ほど前、この教会に来ていました。来なくなって今までの間、多くの破壊活動をし、罪を行ってきた人間でした。私の姉や順先生が三年ほど前から、私が救われるように祈って下さいました。三年前は覚醒剤に溺れ、一番ひどい時期でした。その時から祈ってくれました。警察に逮捕され、自分自身の人生は終わりだと思っている中で、イエスさまに一度お願いしました。その時、イエスさまが本当に助けて下さり、牢獄から出して下さったという信じられない出来事が起こりました。それから、人生を変えてくれるのはイエスさまだとわかりました。

 人生は終わってしまったと思っていましたが、なぜ、こうなってしまったのかと考えていたときに泣けてきました。その時にも、順先生や私の姉が祈っていてくれたことが自分人生の救いにつながりました。自分には、イエスさましかないとわかりました。これから教会で、イエスさまと共に生きていくことを決めました。

(Tさんの証)

 今年の二月頃から、悪霊にとりつかれてしまい、頭が混乱していました。その時、最終的に彼の所に行きました。そして教会という道を教えてくれました。その時、彼もずっと祈っていてくれました。また順先生、享子さんや、おねえちゃんに支えられながら回復しました。一時的に記憶がなくなり、自分が誰かもわからない状態に陥ってしまいましたが、教会に来たときに回復しました。目に見えない怖い世界を自分で経験し、イエスさまを信じました。

 J君のお姉さんが三年前に教会に来てこう言いました。「今まで神様はたくさんの祈りを聞いてくれたけど、ただ一つだけたいへん困ったことがある。」

 聞いてみると、弟が覚醒剤に手を出してメチャクチャな生活をして、どうにもならないから祈って欲しいと言われました。それで、私たちは祈っていましたが、全く動く気配がありませんでした。

 彼の住んでいるアパートの住所を聞き、夜中に彼のアパートのすぐ近くに行き、祈りました。あまり近づくと危ないので、そっと近づいて祈るような感じでした。

 そうこうしていたら、今年になって彼が警察に捕まった、という連絡を受けました。私はそれを聞いて、ちょっとほっとしました。「良かった、これでみんなが平和になれる」と思いました。

 しかし、J君のお姉さんは悲しみながら、「ぜひ弟のために、警察に行って一緒に祈って下さい」と言われました。私は彼の所に差し入れを持って行き、彼が収容されている留置場の下で祈りました。

 私は、「彼がそう簡単に刑務所から出ませんように。皆が少し落ち着いた生活ができますように・・」という気持ちで祈りました。

 しばらくしたら、彼が牢獄から出て来たというのです。「えっ?もう出ちゃったの」と、がっかりしました。

 私は彼が出てこないように祈ったのに、出てきてしまったことにがっかりしました。

 けれども、神の計画は別のところにあったのです。彼は留置場のどん底で教会のことを思い出したようです。そして、「イエスさま。私はどん底なので救い出して下さい。もしもイエスさまが生きておられるのならば、私をここから出して下さい」と祈ったそうです。

 すると、何と、祈った二日後に出れたそうです。ちょうど法律が変わり、彼は新しい法律適用者第二番目だったそうです。大変驚いたそうです。

 覚醒剤にも勝利できました。先日、彼と一緒にとりなしの祈りに行きました。何ヶ月か前に、私が警察の外で、「彼が出ませんように」と祈ったと同じ場所で、彼が、「もう二度と、ここには来ませんように」と祈っている姿が、ちょっぴり面白かったです。

 そんなことが起こるとは、夢にも思いませんでした。しかし神様が彼を救ってくださり、家族全体に救いが訪れています。

 また、Tさんも悪霊の力に苦しめられていました。彼女は、霊能者の所に行き、祈祷を受けたときから大きく混乱し、変な声が聞こえて、どうにもならなくなっていました。しかしイエスさまを信じて、解放を受けました。

 これから彼らの人生は長いので、皆で祈って支えてあげなくてはなりません。J君はまだ執行猶予中なので、ぜひ祈って支えて下さい。神が力を与え、人生は変えられます。それも短期間に、神がそのようにしてくださっています。

『あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。』

とありますが、足の裏で踏むところが、私たちの地になると教えています。J君のお姉さんがクリスチャンになった時も、不思議なことがありました。

 一人のクリスチャンが、豊橋のある地域が気になり、その地のためにとりなして祈りました。私たちもその場所に出かけてその地域のために祈りました。

 「この地を主のものとして宣言します。この地に働いて下さい」と祈りました。そうしたら、ある日、J君のお姉さんであるNさんから電話がありました。彼女も若いときに教会に来ていましたが、二十年ほど教会に来てませんでした。

 Nさんが何気なく、朝掃除をしていると、目の前に電光掲示板のように、数字が表れたそうです。「〇五三六二三四八〇〇」という数字が出たそうです。他の所に行っても、番号がついてきたそうです。「何だろうか・・・」と、試しに電話をしたそうです。そうしたら、今はなくなりましたが昔、新城教会で「希望のダイヤル」というテレフォンサービスをしていましたが、そこにかかりました。

 彼女は新城教会につながったので、たいへん驚いたようです。その時に、人生の背後に敵の力が関わっているというメッセージが流れていたそうです。それで教会に来て、救われました。今では、家族と親族がクリスチャンになり、ついには、長い間祈ってきた弟のJ君がクリスチャンになったのです。神の勝利が現されました。

 ある時は、祈りの答えが来るまで、長い時間がかかるかも知れません。しかし、必ず勝利があります。獄中からでも、神は祈りに答えて下さいます。

 先週私は、名古屋の拘置所に面会に行きました。それは田辺雅樹さんと言われる方です。今年の六月末、彼が教会に来てこう言われました。「先生。これからバプテスマを受けてやって行きたいので、よろしくお願いします。」

 今から数年前、豊川市のゲームセンターの駐車場で二歳の男の子が誘拐され、海に投げ込まれて殺されたという事件がありました。彼はその事件の犯人として捕まり、裁判を受けましたが、一審で無罪となりました。なぜならば、何の証拠もなかったからです。彼が捕まったのは、事件が発生した九ヶ月後でした。彼はその駐車場に寝泊まりしていて、捕まりました。しかし彼が行ったという何の証拠もありませんでした。

 最終的に取り調べの中、「私がやりました」と自白したことによって、逮捕されました。しかし、一審では無罪の判決がなされ、釈放されたのです。その後、あることがきっかけで教会に来るようになりました。

 しかし、検察側が上告し、高等裁判所で第二審の判決が下されることになっていました。彼も、弁護士たちも、第二審も絶対に無罪になると確信していました。

 二審の判決の前に彼は教会に来て、「先生。無罪になったらバプテスマを受けたいので、よろしくお願いします。」

 しかし、残念な事に、結果は逆転有罪となってしまい、その日のうちに名古屋拘置所に収監されてしまいました。

 私たちはそれまでも祈ってきたし、私は、彼と一緒に事件現場や海に投げ込んだとされる場所にも行き、勝利を祈りました。彼が二歳の男の子を誘拐し、車に乗せて殺害現場まで連れて行って海に投げ込んだとなっていますが、私は彼と一緒に現場まで走ってみましたが、普通では無理な状況のように思えました。

 もちろん誰がやったのかわかりません。殺人か、それとも事故なのかわからない状況です。しかし何しろ、彼が犯人として捕まってしまいました。

 第二審で無罪が確定するかと思ったら、逆転有罪でした。私はショックを受けました。「いままで、祈っていたのになぜだろうか…」と思いました。

 彼もあまりのショックで、たいへん痩せてしまい可愛そうでした。けれども、彼は収監されて三ヶ月が経ち、だいぶ気持ちを取り戻しました。私は、彼の事柄に対して、真実が明らかになるように祈っています。もしも、彼が何もやっていなければ、最高裁で無罪となるように祈って下さい。もしも彼が何もやっていないのに有罪となったら、これは主の敗北となります。有罪となったら、十七年の刑です。ぜひ、真実が神によって明らかにされるようにお祈り下さい。

 先週私が面会に行くと、彼はすぐに手紙をくれました。それはこんな内容でした。

「本日はお忙しいところ、面会に来ていただきありがとうございました。今回の事件で逆転有罪の判決を受けて名古屋拘置所に収監されて、来月の六日で三ヶ月になります。
 ・・・事件当時ウエーブ豊川ゲームセンターの駐車場で寝泊まりしていたため、不審者と疑われ、警察から威圧的な取り調べを毎日夜の十一時頃まで受けて、私は自白を強要されました。今ふり返ってみると、今回の事件に巻き込まれる前に、教会に縁があれば今回の事件に疑われる事もなかったと思います。もっとはやくキリスト教会に縁があればよかったと思っています。私も現在四十才ですが、まだまだこれから人生のやり直しも十分出来ますので、がんばって聖書を勉強していきます。私の両親も非常に心配しています。今後必ず、イエスさまを信じてお祈りしていく事によって、私は必ず、神さまが助けてくれます。
 私の長期間の裁判も来年には終了して、無罪になって出所して、従来通りの生活が間違いなく出来る事を確信しています。毎日イエスさまを信じて、祈り続けてがんばります。今後とも、時々、面会に来てください。それでは体調にはくれぐれも気をつけてください。

滝元順様 9月27日(木)田辺正樹」

 ぜひ、彼の獄中からの祈りに主が答えて下さるように、祈っていただきたいと思います。彼が何も罪を犯していなければ、神がその祈りを聞いて下さり、解放して下さるように祈ってください。

 今日バプテスマを受けるJ君が、獄中から祈った祈りに主は答えて下さいました。彼は罪があったのですが、それにも関わらずイエスさまは祈りに答え、最善にして下さいました。

 ですから田辺さんにも、勝利を与えて下さると信じます。しかし彼はどん底でイエスさまに出会いました。そして手紙にあったように、今ではイエスさまを信じて真剣に祈り、私が差し入れする本や聖書を一生懸命読んでいます。この期間も、決して無駄にはならないと信じて励ましています。皆さんもぜひ、時間があったら面会に行って、励ましてあげてください。主が彼を、一番よく取り扱って下さるように祈って下さい。

『主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。』

 神様はどのような場合にも、私たちと共におられ、私たちを見捨てることはない、見放すこともないのです。だから、恐れてはいけません。またおののいてはいけません。

 色々な状況の中で恐れ、おののいている方がいるかも知れませんが、恐れないで下さい。おののかないでください。神様は絶対にあなたを見過ごしにはされません。あなたのことをよく知っていると言われます。イエスさまは良いお方です。どのような状況の中からでも、救い出して下さいます。

 「主はあなたを見捨てず、見放されない」とこのみ言葉に心に留めましょう。お祈りします。


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