すべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者

2007.10.21(SUN)
新城教会牧師 上條実師

旧約聖書 第一サムエル記 十七章四七節〜五一節
この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。

 お祈りいただいていますハワイリバイバルミッションも昨日第一日目が行われました。時差の関係上、こちらは日曜日の午前十一時ですが、今ハワイは土曜日の夕方四時です。後一時間後には第二日目が行われます。そして三日目は明日の午前十時まで行われます。ぜひ続けてお祈り下さい。昨日ハワイからメールが届いていますのでご紹介いたします。

「ハレルヤ!みなさんのお祈りに支えられて、第一日目の集会が無事に終わりました。心から感謝します。平日にもかかわらず、半分以上の座席が埋まり、芝生広場も埋まり、主が選ばれた方が来られた事を信じます。アメリカ人の方も、多く来られ、日本語に通訳する前に、観衆がどっと盛り上がることもありました。すばらしいメッセージと音楽は、魂の収穫を祝うかのようでした。明師のメッセージの中に、ある婦人の足が癒され立ち上がり、歩き出すという、現実的な神の癒しのみ業も見せてくださいました。今、神様が大きな収穫のときを与えようとしておられる。そのために十分に備えなさいと、集会の中において語られるようでした。今、ハワイ、日本、アメリカ、全世界をとりまくリバイバルの大波が起きようとしていることを強く感じます。」

と書かれていました。滝元順牧師と滝元明牧師がみ言葉を語たり、多くの方が決心され、前に出てこられたとのことです。メールにあったように、一人の婦人の方が癒されたことを聞きましたが、更に神様の祝福があることを祈っていただきたいと思います。昨日は千名ほどが集まられたと聞きました。新城教会からも約百名以上の方がハワイリバイバルミッションに参加されています。参加している兄姉のためにお祈り下さい。先週の水曜日にミッションのスタッフが出かけて行きました。そして木曜日には教会スタッフをはじめ多くの方が出かけていきました。しかし木曜日の夕方に出る飛行機が、整備不良のためハワイから飛んで来ず、何と欠航になってしまいました。二十名弱の人たちはなんと、その日に行くことができず、中部国際空港の近くにあるホテルで一泊し、翌日の夜十時頃の飛行機に乗って出かけて行きました。ぜひ皆さんが喜びの中守られて帰ってこられるようにお祈り下さい。私は今晩十時の飛行機で出かけ、ハワイに出かけます。ぜひ、お祈り下さい。
 ではみことばを学びましょう。今日は「すべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者」というタイトルで学びます。サムエル記第一十七章四十七節から五十一節です。

『この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。』

このみ言葉は、このみことばは、有名なダビデと大男ゴリヤテの戦いの記事です。イスラエル人はベリシテ人のゴリヤテという大男が現れ、恐れて震えていました。しかしご存じのようにダビデは圧倒的な勝利をとりました。このみなさん良くしているみ言葉から、今日学ぶ事がたくさんあります。私たちはいつもみことばによって、励まされ、神がともにいて、守り、祝福、平安、勝利がある等を学びます。しかし実際の歩みの中ではどうでしょう。私たちは全て満たされているけれども、日常生活の中では戦いがあります。毎日色々な問題に出会います。子どもや家庭の問題、会社の問題、人間関係などなど様々な戦いがあります。しかしそんな日々を送るとき「すべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者」となることができるのです。ご存知のようにゴリヤテはすごく大きな人でした。第一サムエル記十七章一節から四節に、

『ところで、ペリシテ人は軍隊を召集して戦いをしかけ、ユダのソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷きました。サウルは応戦するため、エラの谷に兵力を増強しました。こうしてペリシテ人とイスラエル人は、谷を隔てた丘の上で、にらみ合ったのです。その時、ゴリヤテというガテ出身のペリシテ一の豪傑が、陣営から出て来て、イスラエル軍に向き直りました。 身長が三メートル以上もある巨人で、青銅のかぶとをかぶり、百キロもあるよろいに身を固め、青銅のすね当てを着け、十二キロもある鉄の穂先のついた、太い青銅の投げ槍を持っていました。 盾持ちが、大きな盾をかかえて先に立って歩いていました。』(リビングバイブル)

ゴリヤテは想像を絶するような巨大な男でした。リビングバイブルでは背が三メートル以上、そして彼のよろいは百キロもあるような巨人でした。そのコリヤテがイスラエル人の前にペリシテ人戦士の代表として出てきて、十節に、

『「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」』

と記されています。ペリシテ人の大男ゴリヤテベリシテの代表しとて、そしてイスラエル人の誰かひとり代表と戦い、どちらか勝った方の国が勝利と見なすと言いました。
十一節に、

『サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。』

と記されています。サウルとは王様のことです。王も全ての兵士も意気消沈し、恐れてしまっています。私たちも毎日の生活の中で問題が起きたりして、ゴリヤテが出現して恐れてしまったイスラエルのように、すでに戦いを諦めてしまって白旗をあげてしまっている事があるかも知れません。いつもみことばで励まされ、戦っていく、祈っていくと言うことは、いつも聞いてわかっています。透明人間のような悪魔が生きており、私たちに策略をしかけ、戦いを与えてくることは聞いています。分かっていても、なぜか目の前にゴリヤテのような大男が現れ、彼を見て恐れてしまい、諦めてしまいます。なぜでしょうか?それは悪魔の策略にまんまとのせられていることを気づかなくてはいけません。悪魔はその相手である問題を見せて、大男のように見せかけ、相手だけを私たちの心を奪わせる、私たちの心が問題だけを見させ、助けがあることを見えなくさせてきます。第一サムエル記一七章十節に、『「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。」』とあります。ゴリヤテは毎日谷の所に出てきてイスラエルの兵士たちに言っています。誰が一対一で戦うのか、勝ち目は無いと訴えてきます。問題が三メートル以上もある大男、戦っても勝ち目がない。今までの中で見たことのない姿、問題だと見せてきます。そして、

『サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。』

とあります。サウル王もまたイスラエルのすべての勇士も、まんまとゴリヤテが語った言葉を聞き、非常に恐れるのです。透明人間の声を聞き、また問題だけを見て、「これは戦えない、一対一で戦っても勝ち目がない」と意気消沈させます。また十七章二十三節から二十五節には、

『ダビデが兄たちと話していると、ちょうどその時、ガテのペリシテ人で、その名をゴリヤテという代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来て、いつもと同じ文句をくり返した。ダビデはこれを聞いた。イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」』

指揮官である王も逃げ出しています。諦めています。二十四節にあるように、『イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。』皆が背中を見せて隠れてしまいました。王も誰でも良いから国をかけて戦って欲しい、もしゴリヤテを殺したらその人を大いに富ませ、自分の娘を与え、父の家にイスラエルでは何も義務を負わせない。税金も徴兵もその他何も義務を負わせないから、誰かゴリヤテと戦って欲しいと言うのです。窮地の中にイスラエル中が入れられました。私たちも結構そんな時があると思います。毎日の生活の中で問題が出てくると、敵を見せられ、しなえてしまい、逃げてしまい、もう戦えないとその問題のスイッチを全部オフにしてしまい、その問題にまんまと敗北してしまいます。しかし、神様を見上げるときに勇気が与えられることを覚えてください。ある映画のことばで「事件は会議室でおきているのではない。現場で起きている!」という有名な言葉がありますが、毎日の生活の中で事件が起こり、その場で判断しないといけません。私たちはその問題の現場で負けてしまいます。私たちはその問題を見てしなえ、人に頼ってしまいます。どうしたら良いかを聞きます。私たちは色々な方からアドバイスをもらいます。けしてそれが悪いことではありません。ただ神を忘れて人に頼ってしまいます。また、ある方はカウンセリングに頼ります。カウンセリングが全ていけない訳ではありません。しかし自分が慰められ、欠点が分かったとしても、戦わなくては解決しません。特に悪魔はその問題に対して占いや偶像礼拝などに頼らせます。これからどうやっていったら良いのかを伺います。そして名前を改名してみたり、難行苦行させたり、方位が悪いと家の家具の位置を変えさせたり、あたかも占いなどが手っ取り早く解決する。不思議なことがおきるように見させて、信用させてきます。また第一サムエル記十七章四十五節に、

『ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。』

とあります。大男は剣と槍と投げやりを持って私たちに向かってくるとあります。毎日の生活の中に、悪魔は思いがけないときに投げ槍をとばしてきます。私たちの目の前に問題を投げてきます。特に礼拝を通して恵まれた後。また祈った恵まれた後。信仰を持ち、これから神様と一緒にやっていこうと思った時に悪魔は働いてきます。投げやりを投げて問題を見させ、「ああ、そうだった。これを忘れていた」と思いださせ、しなえてしまいます。悪魔は巧みにやってきます。この講壇から下に飛び降りても、簡単に飛び降りることができます。悪魔はある程度、私たちクリスチャンが恵まれることを見ています。もっと恵まれろと待っています。そして講壇から教会の二階や屋根の高さに達すると、そこから飛び降ると怪我をしたり、ある人は亡くなってしまいます。悪魔は私たちが恵まれた時にこそ投げやりを投げ、もう前に進めない、これは駄目だ、と勇気をなくし、しなえさせます。しかし少年ダビデは堂々と戦いの戦場に出て行きました。第一サムエル記十七章四十五節の後半からに、

『私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。』』
「この戦いは主の戦いだ」とあります。私たちはイエスさまが問題を解決して下さる。祈りは答えられると知っています。主が戦ってくださいます。しかし私たちはそれでも前に進むことができません。詩篇二十篇七節に、

『ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。』

とあります。イエスさまの名前には力があるとわかっています。しかしなかなか私たちは勇気がありません。そしてヨハネ十六章三十三節に、

『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』』

イエスさまが私のために十字架にかかってくださったので私には勝利があるとわかりますが、なかなか踏み出すことができません。ある方は祝福された、霊的な戦いの中で、普通では考えることができないような問題が勝利した。イエスさまを信じた。解放された。という証を聞くときに、神は生きていると神様を賛美しますが、いざ自分の事となるとそれは関係ないと考えます。自分は難しいと考えてしまいます。しかし今日、ぜひこのみ言葉を皆さん信じてください。何か優れた人や優れた武器などを持った人にだけ力があり、私たちは違うとは思わないでください。第一サムエル記十七章三十八から四十節に、

『サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。』

とあります。ダビデは勇敢に神様のみ言葉を信じて、ゴリヤテの前に進みました。ダビデは少年でした。ここでもサウル王は相当イスラエル人の皆が恐れ、戦う人がいなかったことを見ることができます。最後に兵士ではない、ただの羊飼いの少年をイスラエルの代表戦士として託しました。諦めだったと思います。ダビデは、一応王のよろいをつけてみました。しかし自分はいつも通りの服装で良いと言って、普段の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を拾ってきていつもと同じような格好で出て行ったのです。今日神様があなたに言っています。今大きな問題があり、立ち向かうことができない、ある意味で隠れて逃げてしまっている人よ。あなたはあなたで、あなた一人で出かけて行きなさい。神がともにいて戦ってくださるからと。少年・羊飼いのダビデが三メートルもある大男の目の前に出て行くのはゴリヤテも言っていますが、「俺は獣なのか」と、バカにしたような戦い方なのかも知れません。しかし神がここで教えていることは、そのままで良い、いつものままで良いと教えています。ダビデは毎日の生活スタイルで戦いに出ていきました。悪魔はもっと祈らなければ駄目だ。ある時は断食しなくては。聖書を読んでいないじゃないか。信仰がないぞ。おまえは臆病だ。心配性だ。ほとんど聖書を知らないにも関わらず…と語ってきます。そして霊的戦いは今まで聞いてはいるけど、祈ったこともないし、自分が祈っても答えが来るはずがないと言います。理想は聖書の中にあり、素晴らしい祝福がある、神様の恵みがあるとはわかっている。しかし悪魔の前には大きな白旗を立て、「私は負けています。日曜日だけは神の勝利の陣営にちょっと行きます。そして神に祈り、賛美します。しかし自分の生活ではむずかしい。駄目だ」と諦めています。しかし私たちはもう既に悪魔から勝利をとっています。悪魔は戦いの相手を見させて、大きいぞ、大変だぞと大きさや激しさを見せてくるかも知れません。そして相手がどんなに強いかを見せて来て私たちの心をしなえさせて来ます。しかし協力してくれるはずの身内かも、神様に頼ってもダメだと語ってきます。第一サムエル記十七章二十八節から三十節に、

『兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか。」ダビデはエリアブから、ほかの人のほうを振り向いて、同じことを尋ねた。すると民は、先ほどと同じ返事をした。」

神様は必ず祝福し、助けてくださるとダビデはみ言葉を信じて言ったにもかかわらず、身内である兄弟エリアブが、神様がいるからあのゴリヤテを簡単に倒せると言っている会話を聞いて、「お前何を言っているんだ。駄目だ。戦っても無理だ。お前のほんのわずかな羊をどこに置いてきたのだ。お前のうぬぼれと悪い心はわかっているぞ。ただ戦いを見るために、イスラエルがしなえているのを見に来ただけではないか」とダビデに言っています。
ある意味で一番たよりになる家族や兄姉も、難しい、無理だ、止めた方が良いよと言われます。身内から言われることはとてもつらいことであり、戦いをストップさせます。また十七章三十三節に今度はサウルがこのように言いました。

『サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」』

王にダビデは「お前はまだ若いから駄目だ。ゴリヤテは若いときから勇士だったから無理だ。」と言われました。しかしダビデは普段のままで戦いに出かけていきました。そうですあなたも普段のあなたで良いのです。自分は性格が弱くてすぐに落ち込んでしまうこと、それもイエスさまはご存知です。知恵もまた地位も力もありません。全く何もありません。しかし神様はすべてご存知です。そのままで良いのです。子どもが三メートルもあるような大男の勇士と戦うことは無茶な戦いです。しかしダビデは「私には神がいる、これは主の戦いだ」と言いました。あなたも神様の子どもです。あなたは神の世継ぎです。ヨハネ一章十二節に、

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

とあります。あなたは神の子どもです。あなたは神の子どもとされる特権をお与えになったと言ってくださっています。第一サムエル十七章四十節に、

『自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。』

毎日の羊を飼う仕事と同じスタイルでゴリヤテの前に出ました。どうなったでしょうか。ダビデが投げた石、一発投げてそれが額に当たり、倒れて、ゴリヤテの首をはねて勝利しました。なにか信仰をもたないと祈らないとや、自分は駄目だと思わせてくるのは、サタンの策略です。しかし今日、イエスさまの名前があることを信じてください。あなたは神の子どもとなる特権を与えられています。あなたがイエスさまを救い主と信じたなら、大きな変化があります。神の子どもとなっているということです。イエスさまは全能なる神です。圧倒的な勝利者です。第一ヨハネ五章四節から五節に、

『なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。』

とあります。ローマ八章三十七節には、

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

とあります。「これらすべてのことの中にあっても」とあります。今日あなたがどんな問題を持っていても、今日イエス・キリストを信じたら、あなたは圧倒的な勝利者となることができる、勝利をもらうことができるとあります。ローマ八章三十八節から三十九節に、

『私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

とあります。あなたは自分では祈れない、戦えないと逃げていませんか。あなたはそのままで良いのです。自分は祈れないとか聖書を読めない、そのままで良いです。まずはあなたの信じているイエスさまを認め、イエスの御名を呼んでください。あなたが逃げ隠れたままでも良いです。「イエスさま、この問題を解決してください」と、問題に立ち向かって祈り始めたら、私たちがイエスさまの名前で祈り始めたときに圧倒的勝利者となります。霊的戦いというと、何かすごいことをしているように思いますが、やっていることはただ神様の権威を信じて、祈ることだけです。隠れていても、遠く逃げていても、今行うことは、その場所でイエスさまの名前で祈ってください。どこにあってもイエスさまの名前で祈るときに勝利をくださいます。

『神にとってえこひいきはありません』

私はこのみ言葉が大好きです。聖書に出てくる人たちは主にあって祝福されたとさまざま箇所で記されています。でも自分とこの聖書は関係ないと思ってしまいます。しかし今日あなたが、問題の現場で、イエスさまの名前で祈り始めて下さい。ある面では、大男に小さな石を投げているような気持ちかも知れません。しかしイエスさまの名前で祈るときに目に見えませんが、霊的には大きな剣がその問題の中に入り、圧倒的な勝利を下さることを覚えてください。私たち牧師やスタッフに言っていただければ祈りますし、お手伝いします。しかし何か問題が起こってしまってから対応する事では遅すぎます。問題は現場で起きています。問題が起こっているときに、あなたが立ち止まって祈り始めて下さい。「イエスさま、あなたの名前で祈ります。この問題を解決してください。」と、祈ってください。難しい言葉、なめらかな流ちょうな祈りはいりません。あなたの思っていることを全部「神様。こうです」とイエスさまの名前で祈るときに、イエスさまは勝利をくださいます。一国の戦いで、実質白旗を揚げたような状況の中で、サウル王はダビデを遣わしました。それも何の剣も持たず、普段と同じスタイルでいつも通り戦い、そしていとも簡単に倒すことができました。石を一発投げただけでした。ゴリヤテがダビデを傷つけることもなく、勝利しました。悪魔は投げやりを投げてきます。他の箇所では「燃える火矢」を投げると書かれています。私たちに問題を投げてきますが、あなたが神の子どもの特権を使い、今日イエスさまの名前で「私にはできませんがあなたにはできます」と神様を認めて祈り始めて下さい。祈るとき霊的には大きな剣が問題や敵に刺さり、本日のみ言葉タイトルのように「すべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者」となることができます。神が解決をして下さいます。祈り始めて下さい。色々な問題、家族の救い、病気など、祈ることがたくさんあります。祈り始めてください。祈ると私たちはすぐに結果を見たくなります。すると悪魔は投げやりを投げて「変わらないじゃない。駄目だ」と思わせてきます。しかし神がなさることは「時にかなって美しい」です。私たちは神に生かされています。だから神のタイミングを信じて祈り続けることが必要です。隠れてでも良いので、小石のように見えるかもしれませんが、普段の生活の中で、祈り始めるとき、イエスさまの名前を投げつけていくとき、一番良いときに完璧な、圧倒的勝利を与えてくださいます。あなたでは解決できないような問題。また地域、国のために。経済、教育、家族の問題。なんでも主は答えてくださいます。あなたは神の子どもです。圧倒的な勝利を私たちは頂けます。イエスさまの名前があるからです。イエスさまの名前によって今あなたが持っている問題を祈ってください。少年ダビデのように、まったく普段と変わらないままで祈り始めて下さい。誰もが驚くような事を起こして下さいます。お祈りしましょう。


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