教会に託された使命 Part2
・・・あらゆる国の人々を弟子とする・・・

2007.10.28(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

新約聖書 マタイの福音書28章16節〜20節
しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 ハレルヤ!おはようございます。皆さんのお祈りに支えられ、ハワイリバイバルミッションを無事に終えて帰ることができ、心から感謝します。皆様の熱いお祈りと、ご協力により素晴らしいミッションを持つことができて感謝します。
 現地では三日間の本大会と、午前中はランチョン、そして、セミナーがありましたが、全体で延べ六千人近い動員がなされ、素晴らしい勝利を与えてくださったことに感謝します。

 今回は全日本リバイバルミッションにおける、初海外ミッションでした。これまで行われてきた国内のミッションとは違い、ホームではなくアウェイの戦いで、なかなか大変な所もありましたが、お祈りとご協力、現地での働きの結晶として、主が祈りに答えてくださったことに感謝します。
 最初はハワイにある十二の日本語を話す教会が母体となって計画されましたが、最終的には、現地の教会も加わって下さり、素晴らしい天国の饗宴とも言うべき集りが繰り広げられました。
 この教会からも、先週は百名近い方々が現地に駆けつけて下さいました。しかし現地では新城教会の皆様と、ほとんど会うチャンスがありませんでした。皆さん、どこにおられたのでしょうか。きっと楽しんで下さったと思います。

 さて、イエスさまが天に帰られる直前、一つの言葉を残されました。

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。』

 イエスさまが弟子たちに託された最期の言葉は、「あなたがたは出て行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい」でした。
 イエスさまはイスラエルの片田舎で活動されていました。当時イエスさまの弟子たちはたった十一人しかいませんでした。その十一人に向かって、「あなたがたはあらゆる国の人々を弟子としなさい」と語られました。イエスさまが神様でなければ、この言葉はおかしな言葉です。たった十一人に向かって、全世界の人々を弟子としなさい、と語られたのです。普通では考えられない、妄想の世界のように聞こえるかも知れません。しかし二千年経ってみると、イエスさまに従う人たちは世界中に溢れています。現在、世界の三分の一は、キリスト教圏だと言われます。イエスさまはたった三年間しか地上で働かれませんでした。しかし、何と、今や世界の人々がイエスさまに従っています。その現実を見るとき、イエスさまはただの人ではなく、神が人となられた救い主であることがよくわかります。

 そしてこの言葉は、同時に、「教会に対する使命」として語られた言葉です。この田舎の新城教会にも、この言葉が語られているのです。イエスさまが田舎で、「全世界に出て行って福音を伝えなさい」と語られたのと同じように、この田舎にある教会にも、「全世界を視野にして、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と語られているのです。それが教会に託されている使命でもあるということです。

 今回、ハワイリバイバルミッションを通して、私たちは、その一端を担うことができたのではないかと思います。心から主に感謝します。
 先週の日曜日には二日目の本大会が開催されていて、その様子がコンピューターで中継されたと思いますが、写真も撮りましたので見ていただきたいと思います。ワイキキシェルに毎晩、多くの方々が集まってくださいました。入るときには持ち物検査がありました。武器や酒の持ち込みを禁止しているので、チェックがありました。初日には、ハワイ州の副知事がクリスチャンで、歓迎の挨拶をしてくださいました。またキリスト教ラジオの局「フィッシュ」の人気パーソナリティの方々が司会をしてくださいました。大変上手な司会でした。三日目は私が司会をすることになっていましたが、彼らの上手な司会を見て「どうしようか・・・」と心配していたら、「明日もやっても良いです」と申し出てくださったのでお願いしました。
 舞台では賛美チームも、アメリカ教会のチームと日本チームが合同で日本語と英語両方で賛美しました。またゴスペル・フラもありました。この踊りは、かつては悪霊にささげるものでしたが、今はそれを悪魔の手から取り返して、主のために踊りました。

 集会は四時間という長時間でしたので、常に人の出入りがありました。野外の集会は気軽に出入りできますが、デメリットもあります。ちょっと嫌ならば、すぐに帰ることができます。しかし今回は、皆がコンサートだけでなく、メッセージによく聞き入っていました。これは祈りの勝利だと思います。現地の方々も大勢来られました。英語と日本語の完全バイリンガルで行われましたが、通訳も素晴らしかったです。通訳はスティーブ・ケイラー先生が担当してくださいました。彼は何でも訳します。日本で生まれ日本で育ち、漢字も読めるアメリカ人です。
 皆が、「来年もやってください」と言われました。今回は初めてでしたが、きっと主がこの関係を広げてくださるのではないかと期待しています。日本の教会が中心となって計画し、祈りを積み重ね、準備してこの集会が持たれました。すべての民族が一緒になった、素晴らしい集会でした。
 麻薬中毒者であったロイ先生と元囚人たちが、賛美と踊りを披露しました。その他にも、若者たちの賛美がありました。

 今日は午後から、もっと詳しく紹介させていただきますので、ご期待下さい。色々なプログラムがあり、楽しい三日間でした。ハワイは時々雨が降りますが、この三日間はまったく雨も降らず、天候も大変良かったです。主がすべて、祈りに答えてくださり、終えることができました。
 しかしこれは終わったのではなく、「始まった」という感じでした。

 今まで日本の教会は、海外からの働きによって支えられました。多くの宣教師や有名な伝道者たちが日本に来て、「一緒に宣教をしましょう」と呼びかけ、支えられてきました。
 しかし今回は、実に、日本の宣教史上初めて、日本からアメリカに、「一緒にやりましょう!」と持ちかけました。それは目に見えない世界において大きな出来事だったと思います。マタイの二十八章の場面が、使徒の働き一章五節から八節にて、違った角度からレポートされています。

『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

 ここでイエスさまが、「あなた方はまもなく、聖霊のバプテスマを受ける」と語られたとき、弟子たちは、『「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」』と聞き返しました。それは、一見トンチンカンな受け答えのように聞こえます。
 普通の反応ならば、「あなたがたは聖霊を授けます」と語られたら、「感謝します」とか「期待しています!」と答えるはずです。

 しかし弟子たちは、「いつ国を再興してくださるのですか?」と問いかけています。これはトンチンカンな答えではないのです。
 イエスさまの弟子たちは、すでに、一つのことを理解していました。それは、「目に見えない世界が変わると、現実の世界も変わる」という理解でした。

 聖霊のバプテスマは目に見えない世界の変化です。それが起こるならば、国が変えられます。弟子たちは、見えない世界の勝利が、見える世界の勝利につながるという原則を知っていました。見える世界と見えない世界が同時存在していることを、しっかりと理解していたのです。ゆえに、聖霊様が来てくださったら、見えない世界が改革される、すなわち、国も変えられると信じていました。
 ですから「いつ国が変えられるのですか」とイエスさまに聞いたのです。しかしイエスさまは、「いつとかどんな時とか考えなくても良い。まず、あなたがたは全世界に出て行き、福音を伝えなさい」と語られました。そうすれば、そのうち、神の国が見える形で現されるとイエスさまは語られたのです。

 私たちは常に、「見えない領域で勝負する」という働きをしなくてはいけません。今回のハワイリバイバルミッションは、見える世界では三日間のイベントのようで、コンサートとメッセージでした。
 しかし私たちは見える世界だけに関心があるのではなく、見えない世界が変化することに関心を持っていました。

 かつて日本は、悪いミッションをハワイにて決行しました。それは「真珠湾攻撃」でした。太平洋戦争に至った経緯は、色々な側面があるので評価は難しいのですが、日本が太平洋戦争を意志決定した背景に、東条英機をはじめ日本の軍部指導者たちが、何度も神社参拝を繰り返し、日本の神々から答えをもらい決定したのです。
 一九四一年十二月七日の早朝を奇襲攻撃の日として選びました。その日、戦闘機が飛び立つ前、全員が神社の神々の前に勢揃いし、参拝してから攻撃を開始しました。しかも、日曜日の早朝を狙いました。日曜日の早朝は、アメリカ軍が武器を放棄し、兵士たちが教会に集まって礼拝していたからです。礼拝後兵士たちは、上陸許可を受けて心がウキウキしていました。その時を狙い、攻撃を仕掛けました。それは目に見えるところでは現実の戦いですが、意思決定は宗教的領域で成され、そこには日本の神々が関わっていました。

 これはまさしく霊的戦いです。それが日本のハワイに対する、最初のミッションでした。それを回復するためには、日本側から良いミッションを起こされなければなりません。今回は、真の敵を知った日本のクリスチャンたちが、かつて爆弾を積んで出かけて行ったハワイに福音を積んで出かけました。これは、目に見えない世界では大きな変化が起こっているはずだと思います。

 新城に残って、真剣に祈ってくださった方々もいますし、現地に応援に来てくださった方々もおられます。それは同じ土台での戦いでした。見えない世界で勝利するときに、やがて見える世界でも、必ず、変化が起こります。
 しかしそれはすぐには起こらないかも知れません。けれども、いつとか、どんなときとか、あまり気にしなくても良いのです。私たちが、「あらゆる国の人々を弟子とする」という視点を持って使命を果たしていくときに、知らないうちに見える世界も変わってくるというのが、イエスさまの答えであり、聖書の教えです。

 今回、私もハワイにおいて、たくさんの仕事をしました。先週の日曜日は、日本人教会でメッセージをしました。その前の週は、アメリカ人教会で奉仕しました。そこで私は、日本とアメリカが一つとなって、福音宣教のために戦うことは重要だと話しました。
 数ヶ月の間、ハワイに現地事務所ができて、色々な角度から活動がなされてきました。毎日のように祈りのプログラムや決起大会がありました。働きは常に、綿密な計画の中で進められる必要があります。
 しかし一方ではこのような側面も忘れてはならないのです。伝道者の書十一章一節にこんな言葉があります。

『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。』

 一般的にパンを水の上に投げたら、魚が来て食べてしまうか、鳥が来て食べてしまうか、または溶けてなくなってしまいます。ある意味で、無駄な行為に見えるかも知れません。しかし聖書は、「あなたのパンを水の上に投げよ。後の日になってそれを見出す」と約束しています。さらに伝道者の書十一章六節には、

『朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。』

 私たちの働きは、「今は状況が悪いからやらない方が良い・・・、今日は風が強いから種を蒔くのはやめよう・・・」などと言って、福音を伝える事に躊躇するのです。「チャンスが来たら語れば良い・・・」と考えるかも知れません。もちろん、チャンスを捕まえなければいけませんし、神が与えてくださった時を捕えることはとても重要です。
 しかし一方では、「水の上にパンを投げる」ような、朝も昼も夕方にも、種を蒔き続けることが重要です。「手放してはいけない、どこでうまくいくかわからない」と教えています。
 リバイバルの働きも、どこでどんな芽が出るのかわからないのです。かつて投げたパンを、後から見いだすと教えています。

 皆さんの働きも、同様だと思います。毎日、主の前に祈っている祈りや賛美も、福音を伝えることに関しても、どこでうまくいくかわからないのです。どこで収穫するのかわからないのです。
 私もこの教会で、毎日伝道活動をさせていただいていますが、水の上にパンを投げ、後になって見出すことを多く体験しています。神の働きは、私たちが知らないところで成長しています。目に見えない世界で変化が起こっているのです。

 イエスさまは弟子たちに語られました。「全世界に出て行って、あらゆる国の人たちを弟子としなさい!」

 「弟子」とはなんでしょうか?それは、「自ら進んで師匠のまねをする人」のことです。イエスさまが十二弟子を選ばれた時の様子が、マルコ三章十三節から十五節に書かれています。

『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』

 三週間前、私は、「教会に託された使命」というタイトルで語りました。教会とは、天にある支配と権威に対抗するため、悪しき力を破るための機関であると話しました。イエスさまが弟子たちを任命した動機は、福音を伝える、すなわち、悪霊を追い出すためでした。人々がイエス・キリストに関心がないのは、どこに原因があるのでしょうか。それは、「この世の神が覆いを掛けて、光が届かないようにしている」のです。覆いを取り除いたら、必ず、光は届くのです。イエスさまは弟子たちに、福音をのべ伝えること、それは「悪霊を追い出す権威」を与えたのです。

 新城教会に十五年前、激しく聖霊様が訪れてくださいました。その時のことを忘れることができません。一九九二年二月十三日、「愛知県民の森」で祈っているときに、激しく聖霊様が訪れてくださいました。私はその時、翌日から大リバイバルが起こるに違いないと思いました。

 しかしそれは、一つのはじまりにしか過ぎませんでした。その注ぎを通して教えられたのは、「田舎で伝道していて福音が伝わらないのは、単なる環境的な理由ではなく、目に見えない世界で覆いが掛けられている為だ」という事でした。
 「覆いをとる祈りをしないさい!」と主は語ってくださいました。それまでも、この教会は伝道して種を蒔いてきましたが、種をカラスによって全て食べられているような状況でした。
 しかし、地域を祈るようになってから、この教会に変化が始まりました。その変化は更に前進し、今回はハワイにまで福音を伝えるほどに成長させてくださいました。それはまさしく、霊的戦いです。

 イエスさまの弟子は、「背後に働く敵の力を破る訓練」を主から受けなければならないのです。「出て行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい」とは、「人々が見えない敵の存在に気付き戦うように教えなさい」ということを意味しています。
 私たちが敵の力に気付いたら、人生は変わります。今日本にはたくさんの問題があります。特に最近、今までごまかしていた事柄が露わにされています。食品業界が揺れています。「作りたてです」などと言って騙していたのが、何と、作りたてどころか何度も再利用されていたりと、不正が暴かれました。偽りがまかり通っていたのが、通らなくなっています。政治の世界でも同様です。
 それはある意味、霊的戦いの勝利の証拠だと思います。なぜなら、偽りの根源は、「偽りの神々」にあるからです。

 日本の神々は皆、石や木や金属を削って作ったものです。しかし石や木や金属を、千年も二千年も拝み続けているのです。普通から考えたら、「日本人の皆さん、大丈夫ですか。これは石ですよ、金属ですよ…なぜ拝めるのですか」と言われそうです。
 しかし拝み続けるのは、拝むと霊的な手応えを感じるからです。けれども、その背後にいる者が偽り者だったらどうでしょうか。
 日本の宗教の元になっている日本神話や仏教の経典が作り話であることは、誰でも知っています。天照伝説も、天皇家の家系も、一代から十代ごろまでは架空の天皇たちです。天皇家を神代の世界へと続けるために、でっち上げられたものです。近頃の研究では、聖徳太子でさえ、実在の人物ではないことが分かっています。
 そんな偽りのストーリーがあっても、そこに何らかの存在を感じるのです。だから偽りのストーリーがあっても、石や木や金属を拝み続ける事が出来るのです。

 偽りのストーリーがあって、存在を感じるということは、「振り込め詐欺と同じ」です。振り込め詐欺には「偽りのストーリー」があり、「存在を感じる」のです。
 「お宅の御主人が今警察にいます。電車の中で痴漢を働いて捕まっているのです。示談金三百万円を振り込んでください」という偽りのストーリーがあります。
 そして、ご主人のふりをした存在が、「ごめん、ごめん」と電話の向こうで泣いています。それで騙され、大金を振り込んでしまうのです。
 偽りのストーリーがあり、存在に手を出したら噛みつかれます。正に、日本の神々は同様です。偽りのストーリーがあり、存在を感じ、手出ししたら何が起こるのでしょうか。大事なものを奪われるのです。

 しかし聖書のストーリーは偽りではありません。今日ここに、「イエスさまはよみがえられた」と記されていますが、もしこれが偽りならば、クリスチャンほどばかげたことを信じている人々はいません。死んだ人がよみがえって、天に帰ったと言うのです。一般的に言ったら、冗談ではありません。
 しかし聖書は二千年以上に渡り、多くの人に批判され、批評されながら精査されてきました。にも関わらず、不動の地位を占め、現代も否定されていません。そこに偽りを見出すことができないのです。時のローマ政府も、イエスさまのよみがえりを確認しています。ということは、偽りのストーリーではなく、真実のストーリーなのです。その上で、手応えを感じるということは「本当の神」がそこにおられるのです。

 日本が偽りで塗り固められ、何らかの霊感を感じたとしたら、それは敵の力です。そこから手を離さなければなりません。
 イエスさまは弟子たちを世界の国々に遣わし、あらゆる国の人々を弟子とする、これは偽りをもたらしている神々の背後に働く敵の力を打ち破るためであったのです。
 今回ハワイリバイバルミッションで働きながら、その働きの領域が拡大し、日本人だけではなく日系人や現地にもアプローチができ、一緒に働くことができました。

 事務所は、初め、娘の里辺架と岡本泉姉が二人ではじめました。向こうの教会の先生たちはこう思ったそうです。
 「こんな小娘たちを送ってきて何ができるのだ。」しかし彼女たちは結構やりました。また、小娘たちを放っておけないと言うことで、皆が助けて下さいました。私の友人ジョー・ハイト先生や、ジョー先生の娘チェルシー、ロン・ブラウンの娘のアスティンも加わり、不思議と人種的にも黄色人種、白人、黒人が一緒になって事務所で働くという、すごい展開となりました。

 ハワイは「人種のるつぼ」のような所です。世界中から人々が集まって住んでいます。アメリカ人とは白人という概念がありますが、ハワイなら、アメリカ人とは日系人たちのことです。
 先日一つの集会がありました。上原令子さんが来てくださり、沖縄県人会で賛美をし、メッセージを語る機会がありました。父がそこに行きました。そこには三百人ほどの沖縄出身の老人たちが集まっていました。皆日本人の顔をした方々でしたが、その中で日本語が通じたのは、ごくわずかだったというのです。そのほとんどが、二世、三世の方々でした。自分のお父さん、お母さんが沖縄から移民して来たので、懐かしさを感じたようでした。
 色々な顔の色、皮膚の色の方々が加わっての集会でした。それで、「人種」という領域に関して祈らなければならないと感じました。

 そもそもイエスさまが、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と語られる中で、そこにはあらゆる民族、あらゆる文化、人種が含まれている訳です。
 世界には、肌の色や外見の違いで、色々問題があることは事実です。今回のミッションではそれらを超越して、神様が働いてくださるように祈らなければならないと思いました。

 「ポイント祈祷」というプログラムを導くことになっていたので、「人種」について祈ろうと思いました。それで、「人種」について調べてみました。
 一般的に、私たちは固定概念を持っています。アジア系は黄色人種、ヨーロッパ系は白人、そして、アフリカ系は黒人という、三色に分けています。

 しかし、人種について調べてみると、驚くことがありました。調べる中で一つの論文に出会いました。それは聖書に基づく論文でした。そこにはこう書いてありました。

「人種とは、社会的概念であって、主に歴史的な事実に由来し、生物学的な根拠は全くない」

 人種とは、神が創造したものではないと述べていました。私たちは、肌の色が違うと違った種類のように思うかも知れませんが、違いは「文化に由来する」ものであり、人種に由来するものではないのです。
 「人種的違いが大きな違いだと考える唯一の理由は、育ってきた文化がそういった違いが大きな違いだ、と教えているから」とありました。

 世界中の人々を混ぜて、無作為に二人をピックアップし、その遺伝子の違いを比べると、どのように調べても、遺伝子間の違いは「〇・二パーセント」しかないというのです。人のDNAは、ほとんど誰と比べても変わらないのです。
 さらに、「肌の色に関する情報の違い」は、その中の「六パーセント」実に、全体のたった「〇・〇一、二パーセント」しかないというのです。

 時々私たちは、肌の色で人種的違いを強調したりします。それは聖書的な考え方ではないということを教えられました。神がどのようにして人を造られたかを、知らなければなりません。神は人種を創造されませんでした。神様は「ただ一人の人」を創造され、そこから全人類を増やされました。使徒の働き十七章二十六節から二十七節に、

『神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。』

 私たちは現在、二十一世紀に住んでいます。また、日本という国に住んでいます。しかし実は神はひとりの人アダムを造り、そこから増やしていきました。決して肌の色の違う人を三種類造って出発されたのではありません。一人から始まっています。色々な国があり、ひとり一人に生きる時代が設定されている真の目的はただ一つです。
 それは、『神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。』とあります。

 神は私たちの近くに存在するのです。私たちが日本に住み、日本語を話している理由、二十一世紀に生きている理由、それは、「神と出会うため」なのです。そこに、人種間の違いはないのです。

 では肌の色の違いはどうして生じたのでしょうか。そのことについてもその論文は説明していました。
 人類の離散の根本について、創世記十一章に書かれています。バベルの塔から始まっています。バベルの塔以前、人々は一つの言葉でコミュニケーションし、同じ地域にて過ごしていたようです。しかしある時、人々が集まって町を建て、町の真ん中に塔を作りました。創世記十一章一節から九節に、

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。』

 人々が集まって塔を建て、ある行為をしました。神はその行為があまりにも危険なため、それを回避させるためにストップをかけました。

 さて、現在、世界には色々な言語がありますが、人類が最初使用していた言語がどんなものだろうかと考えたことはありますか。
 私は人類が神から直接教えてもらった最初の言語は、かなり強力であっただろうと考えています。
 聖書を見ると、創世記に神は言葉で天地を創造されました。言葉だけで宇宙を造るほどに強力な言語でした。ゆえに、創造の業の後、神が人間に与えた最初の言語は、かなり強力だったと思われます。六節に、

『彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。』

とあるように、何でも出来てしまうほどの強力な言葉でした。
 けれども、人類がこの強力な言葉を使ってやったことは、塔の上で本当の神の霊を招くのではなく、悪霊を招く行為をしたのです。
 バベルの塔の名残は今でも世界中にあります。悪霊を降ろす場所は、ほとんどが山の上などの高い所です。日本には山岳宗教がありますが、それらはバベルの塔の影響です。高いところで悪霊を招く、それも神様からもらった強力な言葉を使ってその行為を行うなら、たいへんな事態が起こってしまうので、神は互いに言葉が通じないようにしたのです。

 言葉が通じなくなると、言葉が通じる人たちだけでグループを作って過ごすようになります。言葉が通じない人たちが近くにいると鬱陶しいので、グループ同士は互いに離れて住むようになり、徐々に塔の付近から離れていったのです。
 ある言語グルーブの人たちは北へ移動しました。またあるグループは南へ、西へ、東へと移動していきました。言葉が通じる人たち同士で、移動した地域において結婚を繰り返したと考えられます。
 「人種」と言われるような、肌の色に特徴が出たのは、バベルの塔以後なのです。神が最初アダムの中に与えた完全な遺伝子情報が徐々に崩れ、同時に環境に適応していったのです。
 南の暑いところで過ごしていると、日に焼けて段々黒くなります。メラニンの少ない体質の人たちがその場所に住んでいると、皮膚ガンになりやすいようです。やがてその地域には、強い日差しの下に適応できる人たちだけが生き残っていきました。そして同じ言語、黒い肌の色を持つ人たちのグループ内だけで結婚が繰り返されるならば、その後生まれ出る肌の色には、特定のカラーが出来上がるのです。

 また北の寒いところで肌の黒い人たちが生活すると、ビタミンDの形成が困難となり、骨にクル病などが発生しやすくなります。すると北に移動したメラニンの多い体質の人たちは段々減っていくのです。白い肌の人たちだけで結婚が繰り返されると、白い肌の色を持った民族が出来上がるというのです。

 では黒人と白人が結婚できないのかというと、まったく問題なく結婚ができますし、子どもも生まれます。しかし、その間に生まれてくる子どもの肌の色は、様々なカラーが出てきます。それを調査してみると、一世代でまったく色が変わってしまうというのです。進化論者が言うように、長い時代を経て肌の色が変わるのではないのです。

 ということは、バベルの塔以降、肌の色の違いが出てきたのであり、私たちは白人、黄色人、黒人と言いますが、もともと、人類の肌の色は同じであったのです。

 実は、肌の色は数多くあって、三種に区別はできないのです。ということは、神は元々、肌の色を区別することをみこころとはされず、一人の人物から世界の人々を造り出したのです。
 ゆえに、肌の色で差別したり、人種という概念を持つこと自体、良いことではないのです。いまあるのは、人種ではなく、「文化の違いによる民族グループ」なのです。

 私たちが日本から世界へと宣教に向かうとき、「違った人種の所に伝道に行く」と考えてはいけないのです。そのように考えた時点で、すでに悪魔の騙し事に引っかかっているのです。
 その点について気をつけるようにと、今回、ハワイミッションを前にして、主は私に教えてくださいました。

 神のみこころは、あらゆる国の人々を弟子とすることであり、文化や習慣、肌の色などを超えて、神の国の文化の中で一つにされようされています。

 そもそも聖霊が降ったときに、「炎のような分かれた舌が現れて、御霊が話させてくださるとおりに他国の言葉で話し出した」とあります。それはそれまでコミュニケーション不可能であった異文化を持つ人々とのコミュニケーションの回復でした。
 ガラテヤ書三章二十八節に、

『ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。』

とあります。イエスさまがこの地上に来てくださったのは、元々一つであった人類を回復するためなのです。

 今日でも、神から与えられた能力で真の神ではなく、悪霊を招くなら、お互いの言葉は通じなくなり、分断が起こります。もしもコミュニケーションがうまくいかない人がいたら、家系の中の偶像礼拝の履歴を調べて悔い改め、契約を破棄する祈りが必要です。偶像礼拝の結果として起こるのは「バベルの塔」で起こったのと同じ事態です。互いに言葉が通じなくなり、互いに離散していくのです。

 ご主人と奥さんが愛し合って結婚したはずなのに、なかなか言葉が通じないなら、それは育ってきた文化環境の違いではなく、根源にあるバベルの塔の影響です。それは悪霊を呼ぶ行為である「偶像礼拝」の結果なのです。

 ダーウィンが進化論を唱えたことによって、人種差別に拍車がかかりました。ある特定の肌の色を持つ民族は、他のカラーに優越すると考えるようになり、世界宣教に対しても大きな悪影響を与えました。進化した肌の色を持つ人種が、野蛮な人たちに福音を届けるという構図です。高度な文明を持つ人たちが、野蛮な進化途上の人々に福音を伝えてあげるというような、人種差別的見地から世界宣教が成された歴史があります。それを悔い改めなければならないと、その論文には書かれていました。

 本当にそうだと思いました。私たちはそのような思いではなく、もともと一つであったものが回復するために、どこにも優劣なく、神が一人一人を用いて神の国拡大のために、目をとめなければいけないのです。

 イエスさまが十字架についた目的は、ヨハネの福音書で時の大祭司カヤパが預言しています。彼は、「一人が死んで国民が助かる。これで良いではないか」と言いました。そんな中に預言的メッセージがあったのです。ヨハネ十一章五十二節に、

『また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。』

 イエスさまが全人類のためにいのちを捨ててくださったのは、愛し合って一つ所に住むように、集めるためであったのです。バベルの塔から分断し、言葉が分かれ、肌の色が特徴付けられ、互いに差別するようになってしまった人類を、もう一度集めるためであったのです。

 そして教会は、その計画のために働くのです。これから私たちの教会が更に神から託された使命を全うするためには、「あらゆる国の人々を弟子とする」働きが大切です。

 私たちは元々一つです。この教会には、色々な国から集まっています。生まれた国が違ったら、人種が違うとは考えないでください。一つです。色々な国の人々が一緒に集まって礼拝することはとても大切です。
 またある方々は国際結婚されています。それはとても重要です。国、文化、言葉を越え、家庭が形成されることには大きな使命がありるます。教会とは、そのような隔ての壁があってはならない所です。イエスさまのからだに、皆が属していくこと、そのためにイエスさまの弟子として働くことを神は望んでおられます。

 今回ハワイリバイバルミッションを通して、そのことについて私は教えられました。今から、聖餐式を行いますが、聖餐式はイエスさまのからだに属すること、イエスさまの弟子になるという意味があります。それは国を超え、文化を超え、言葉を超えて、私たちは元々一つですという宣言の時です。人類は分断されたかも知れませんが、イエスさまによってもう一度集められ、一つの体に属するという、宣言の時なのです。

 聖餐式の時に、「イエスさま。私のためにいのちを捨ててくださったことを感謝します。あなたによって、一つにされることを心から感謝します。」と祈りたいと思います。
 もしも皆さんの中に、人種的偏見や壁があったらそれを捨て、イエスさまが一つに集めるために十字架にかかって死んでくださったこと覚えてましょう。そして、「あらゆる国の人を弟子としなさい」という命令が実現していくことを祈りましょう。
 お祈りします。


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