神は更に豊かな恵みを与えてくださいます。

2007.11.4(SUN)
新城教会牧師 滝元明師

新約聖書 ヤコブの手紙 4章6節〜7節
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

 ハレルヤ!おはようございます。長い間、教会を留守にしていましたが、健康が支えられ、ハワイから無事帰ることができたことを感謝します。皆さんが背後でお祈り下さり、素晴らしい集会ができたことを感謝します。

 今年三月に、孫の里辺架と岡本泉姉の二人がハワイにスタッフとして遣わされましたが、あちらの牧師先生方が、「こんな小娘たちが来て、なにができるのだろうか・・・」と言われていましたが、あれよあれよという間に準備が整い、素晴らしい集会ができて感謝だと言われました。現地の教会や牧師たちの協力があり、素晴らしい主の導きの中で集会ができて感謝でした。

 大会は十月十九日、二十日、二十一日とありました。最初の日に私は説教をしましたが、二日目は特に話す機会もなく、昼はジョー先生、夜は有賀先生が話されたので、その日はゆっくりと話を聞きました。集会は五時から始まり、九時まで行われました。本当に素晴らしい集会で、時間が長いとは思いませんでした。アメリカからミュージシャンも大勢来られ、音響も照明も最高の集会でした。今までの内で一番素晴らしい集会でした。
 二十日はとても感動しました。イボンヌさんやドク・パウエルさんのコンサートがありました。音楽を聴きながら、下津具村という四軒しかない田舎から救われ、こんなに素晴らしい集会に出席できるようにしてくださったイエスさまは、何て素晴らしいのだろうかと感動しました。

 その中でドク・パウエルさんが、泣きながら証をされました。彼がギターをはじめたのは、五歳の時だと言われました。
 当時彼がテレビを見ていると、ギターリストが素晴らしい演奏をしていたそうです。それを見ていて、「パパ、ギターだよ。見て!」と言ったそうです。初めお父さんはお風呂に入っていて見ることができませんでした。風呂から出てきたので、「パパ。来て!見てよ。パパ、僕、あれが欲しい」と言いました。
 するとお父さんが、「そうか。じゃあ、買ってやるよ…」と約束してくれました。彼の家はとても貧しく、一足の靴を買うお金さえ、出すのが大変な状況の中、お父さんがギターを彼に買ってくれたそうです。
 やがて彼は世界的なギターリストになりました。彼は大変感動しながら話していました。ジョー先生のメッセージや、有賀喜一先生のメッセージも今まで聞いたことがないほど、良いメッセージをされました。
 有賀先生は四十分のメッセージの予定が、一時間語っていました。その夜私は、「イエスさま。彼は一時間も話してしまいました…」と祈って、聖書を読んでいたら、哀歌のみ言葉が与えられました。「話すまいと私は思うけど、骨の中に火が入って押さえることができない」と書かれてました。
 有賀先生は骨の中に火が入って、押さえることができなくて、話したのではないかと思いました。来られた方々には大受けで、素晴らしい集会を持つことができて心から感謝でした。すべての面で祝福されました。

 特に留守を守ってくださった皆さんに、心から感謝いたします。上條牧師が、日曜日にハワイに到着したので、私は、「どうだった。新城の礼拝は?」と聞くと、「二百十人が来られた。」と言われました。必要な働き人が与えられ、礼拝ができて良かったと思いました。新城教会から多くの方がハワイに来て下さいましたが、現地で皆さんとなかなか会うことができませんでした。
 「あの兄姉、来ると言っていたけど、来なかったかなあ」と思い、帰ってから聞いてみると、「ちゃんと行きましたよ」と言われました。新城教会から、百人以上の方々が行かれました。素晴らしい集会ができ、皆さんにお祈りいただいたことを感謝しました。

 今週は九日からまたハワイに行きます。フォローアップ集会があります。平岡先生と、ロン・ブラウンさんと三人で行います。ぜひ、覚えてお祈り下さい。素晴らしい恵みをハワイでいただきました。これから、新しいことが始まっていくと思います。ヤコブ四章六節から七節に、

『しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

とあります。今日まで、教会やミッションが祝福されてきましたが、これからは更に祝福されるという約束です。ですから、期待していきましょう。必ず日本にリバイバルが到来する、間もなく来るに違いないと信じています。この教会も人が多くなったら困ると思いますが、更に神様が祝福してくださることを信仰を持っていきましょう。

 四十八年前に伝道に入った時に、親が反対しました。「明、食っていけるのか」とか、父は「バカ小僧。耶蘇なんかになって。だから家も仕事もないんだ。」と罵られました。
 家もなく、仕事もない中で、悲しいけれど親の前では泣かないようにしていました。泣きたいときには山の中に入って、思い切りイエスさまの前に泣いて、「どうしてですか…」と叫んで祈ったことがあります。
 その時にヘブル六章十三節から十四節のみ言葉が与えられました。

『神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」』

 私が救われた時の聖書は文語体でした。

『それ神はアブラハムに約し給ふとき、指して誓うべき己より大いなる者なき故に、己を指し誓ひて言ひ給へり「われ必ず、なんぢを恵み恵まんなんぢ殖し殖さん」と』

 山の中で、あたかもイエスさまが私の前にお立ちになって語ってくださったように感じました。目の前には家もなく、仕事もなく、真っ暗闇の中で、「われ必ず、なんぢを恵み恵まん。なんぢを殖し殖さん」と、このみ言葉をいただいたとき、「ありがとうございます。信じます」と受け取りました。
 神が指して誓うところがなく、自分を指してアブラハムに誓ったように、私に対しても同じように約束してくださったと信じました。

 五十数年が経ち、その時には考えもしなかった素晴らしい会堂ができ、皆さんが救われたことは、確かな神の約束の成就だと思います。ですからこれから必ず、私たちが見たことも、思いに浮かんだこともないような、素晴らしいことが起こります。皆さんの家庭にも、教会にも、必ず成就してくださることを、深く信じていきましょう。
 文語体の聖書には、「われ必ず、なんぢを恵み恵まん」と書かれています。恵むだけではなく、恵みの上に更に恵みを与えてくださるというのです。「殖し殖さん」と記されています。必ず今の状態よりも、もっと恵まれると教えています。新しい年が来ると、今年は去年よりももっと良い年、昨日よりも今日は良い日だと信じています。これから更に祝福されることを信仰を持っていきたいと思います。

 しかしここには、私たちが恵まれるための一つの条件が書かれています。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えてくださる」とあります。どんなに祝福されても、高ぶったら終わりです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えてくださると書かれています。第一コリント十章十二節に、

『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい』

とあります。時々私たちは神様が恵みを与えてくださっているのに、自分で立っているような気がします。聖書には、神はすべての人に命を与え、養っているとありますが、今日こうして生きていることは神の恵みです。地球は誰が創ったか、空気は誰が創ったか、雨は誰が創ったか、食物を誰が創ったか…すべては神の恵みです。
 神などいらない。俺の力で立っていると思ってはいけません。クリスチャンはどんなに恵まれても、俺がやったというのではなく、もちろん、俺がやったこともありますが、俺がやったことは神の恵みによってさせていただいた、ということです。ですから、自分で立っていると思ってはいけません。文語体では、

『さらば、自ら立てりと思ふ者は倒されぬように心せよ。』

とあります。ですから、私たちがどんなに成功しても、自分で立っていると思ってはいけません。ですから私たちは注意しなくてはいけません。私たちは色々考えてみると、ここまで来ることができたのは、色々な人からの忠告があったからだと思います。
 私を救いに導いてくださった先生は、私にとって祝福だったと思います。愛知県民の森で集会がよくありましたが、先生はきつい先生で、集会中に、「滝元兄、田中兄。出て来い!」と呼び出されて、「兄弟、大丈夫か。」と言われました。
 私は、「何がですか」と言うと、「女に大丈夫か。」と言われました。「はい、大丈夫です」と言いました。
 あの方は夫婦関係のことを強調していました。私はその叱責に感謝しています。

 私がある時、証しました。当時私は鉱山の労働者で、貧乏のどん底でした。また子どもも多いのです。私は、「皆さん、私は貧しくて、貧乏で、何もなかったので、イエスさまが助けてくれました」と証しました。そのような証は、案外、信徒の方々は同情してくれます。
 しかし終わった途端、先生が出て来て、「何を言っている。牧師がどこに貧乏したと書いてあるか」と言いました。私の子どももそこにいました。「大体ケチケチしているから、貧乏なんだ!!」と怒鳴られました。

 しかし私はその時反省しました。ケチケチするから貧乏だと言われ、やはり私はケチケチしていたと思いました。私は家内と相談し、ブラジル宣教のための予約献金をしました。怒られたので思いきりしようと思い、これだけささげたら三ヶ月くらい食っていけない、というくらい献金をしました。しかしそれから豊になりました。
 箴言九章七節から八節に、

『あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。』

とあります。時々、忠告されることは大切です。子どもたちも親がいて、「駄目っ!」と言われたら注意します。私たちも、高ぶらないようにしないといけません。
 一番危険なときは、成功したときです。ハワイが素晴らしかったと言いますが、素晴らしいのはイエスさまです。私たちは感謝しなければなりません。
 時々私も、色々な教会に行くと、よく誉めてくれます。「先生、素晴らしいですね」「先生の説教は良かったです」と言ってくださいます。そうすると良い気分になることがあります。しかし聖書には、箴言二十七章二十一節に、

『るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。』

とあります。時々誉められたり、成功すると悪魔にあおられます。「素晴らしい。あなたは頭が良い」と思わされます。そうすると落とされます。有頂天になります。

 私はハワイから帰っても忙しく、先週の土日は大阪の韓国教会に行きました。歴史が百年ほどある教会でした。初めて行きました。牧師先生はパラグアイに七年ほど宣教に行かれていた方でした。百人ほどが集まる教会でした。土曜日の夜メッセージをしました。日曜の六時から早天祈祷会でした。ホテルのモーニングコールをしてもらおうと思いましたが、うまく通じないので、夜中に何回も目を覚ましました。朝六時から四十分ほどメッセージをし、午前十一時から礼拝がありました。会衆は在日の方々で、ほとんどが日本語がわかる方々でした。午後の二時からも集会がありました。とても恵まれました。
 そうしたら、先生や信徒がこんなことを言われました。「先生。この教会では一年に二回、韓国の先生と、日本から先生を呼んで集会をしていますが、こんなに素晴らしい集会はありませんでした。私から見ると、先生は使徒パウロのよう人だと思います」と言われました。長老たちが、「先生。あまりにも恵まれたから、来年も来てくれませんか。」と言われました。
 私は「来年は何があるかわからない。また必要だったら言ってください」と言い、引き受けずに来ました。普通の日本人は、白か黒かというのがはっきりせずに、間の灰色のような所がありますが、先生は白黒をはっきりつけるから、韓国人のようだと言われました。素晴らしく恵まれた集会でした。

 そして昼食をご馳走になりました。ビビンバを食べました。二時からまた集会で三時半頃から感謝会がありました。忙しいので、少し休んでおかなくてはと思い休みました。私は寝るのが得意です。五分と決めたら五分、十分と決めたら十分間寝ることができます。二階に牧師室があり、そこから三階にある講壇まで、赤いじゅうたんを通って座ります。

 しかし、あと七分程前になって、急にお腹が痛くなってしまいました。牧師が来る前に、トイレに行きました。すると下痢になっていました。そして講壇に行き、座っていました。聖書朗読をし、お祈りをしていました。長老が祈っている時から、またお腹が痛くなってしまいました。我慢していようかと思いましたが、我慢したら出てしまいそうでしたので、牧師先生に、「先生。私ちょっと便所に行ってます。」と言い、行きました。

 韓国の教会の良いところは、長老が長い祈りをすることです。便所から帰ってくると、まだ長老さんが祈っていたので、何食わぬ顔をして講壇に出ました。そしてメッセージをしました。集会中にお腹が痛くならなくて良かったと思いました。
 『神は、高ぶる者を退け…』とありますが、私は皆から褒められて、その気になったわけではありませんでしたが、やはり健康で今日まで働くことができたのは、イエスさまの恵みしかないと感謝しました。いくら健康でも、どんなに恵まれても、高ぶってはいけません。聖書にへりくだることについて書かれています。マルコ九章三十四節から三十五節に、

『彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」』

とあります。私はクリスチャンになり、私の人生を変えた一つのみ言葉があります。私は東京で三年間ほど勉強していました。イエスさまを信じるまでは、心の中にあった願望は偉くなることでした。偉くなるとは、人をあごで使うとか、人より先に立ちたい、と高ぶった気持ちでした。私はクリスチャンになるまで、高ぶっていました。私は人を見るとすぐに罵りました。人を見ていつも、「バカだなあ」と思いました。友だちが「滝元、お前いつでも人を見てバカだという」と言いました。しかしある時に聖書を読むと、マルコ九章三十四節から三十五節のみ言葉がありました。

『弟子たち黙然たり、これは途すがら誰か大いならんと、互いに争ひたるに因る。イエス坐して十二弟子を呼び之に言いたまふ「人もし頭たらんと思はば凡ての人の後となり、凡ての人の役者となるべし」(文語体)』

 私は教会でこの聖書のみ言葉を読んだときに、目が開かれました。弟子たちは喧嘩しました。「この弟子たちの中で、誰が一番偉いのか。」と言いました。
 すると、イエスさまは弟子たちに、「この世の知者たちは上に立つ人が偉いけど、そうではない。もしあなたがたが偉い人になりたかったら、一番下になって仕える人となりなさい」と言われました。
 イエスさまは天と地を創られた素晴らしい神であるのに、栄光の座を捨て、この地上に、馬小屋に生まれ、三十才まで大工の家に育てられ、親に仕え、また三年間の伝道生活の中で、へりくだって弟子たちの足を洗い、最後にはいばらの冠をかぶせられて、「父よ。彼らを赦してください」と祈りました。
 本当にへりくだった生涯でした。イエスさまは、「人の子が来たのは仕えるためではない。かえって仕えることをして、最後には己の命を贖いの代価として人々に与えるためだ」とあります。

 「今までの偉くなりたいという考えは間違っていた。高ぶった考えを赦してください」と祈りました。「イエスさま。これからの残りの生涯を、へりくだっていけるようにお願いします。どんな道でもあなたの道に従っていきます」と祈りました。
 そして一年後に郷里に伝道に入り、仕事もなく、鉱山土方生活をしましたが、私にとって鉱山で三年働いたのは恵みでした。一番口が悪いのは、漁夫と鉱夫だと言われていました。なぜなら、落石があっていつ死ぬかわからないような仕事だからです。危ないときに、「滝元さん、危ないですよ。気をつけなさい」と言われたことはありません。
 「おい、滝元。バカ野郎。何しとる、どけっ!危ないぞ…バカ…」というのです。一日の内に、何度もバカと言われました。「バカ野郎。何しとる、これ持って行け!」と、一言一言にバカ野郎が付きます。私はムカムカしていました。

 「この野郎、偉そうな顔して、勉強もろくにできないくせに…」と思っていました。その時にイエスさまが、「お前の高ぶりが取り除かれなければ使うことができない」と言われ、私は「ロボットのようにしてください」と祈りました。ロボットはスイッチを入れたら「カチャカチャ」と動きます。だから私も言われるとおりに、「はい」と言って従いました。三年間、高ぶりが取り除かれる、良い訓練だったと思います。

 夫婦生活がうまくいかない人は、「負けるものか…」と言っています。
 先日、一人の方が来てこう言われました。「主人にへりくだったら、もっと頭に乗ってしまうのではないか…」と言われました。しかしどんな生活であっても、へりくだることができたら祝福されます。これからも必ず神は大きな器として立てて下さいます。

 今、色々な仕事をされている方々があります。もっと高くしてくださいます。そのためには、へりくだることです。ちょうど稲穂のように、実れば実ほど、頭を下げます。ですから私たちも、へりくだっていきましょう。
 また聖書に『神に従いなさい』とあります。私たちはこれからの人生は神に従うことです。ペテロ第一五章五節から九節に、

『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

 聖書には「神に従いなさい」とあります。恵まれるために、神に従うことです。私たちのクリスチャン生活は毎日が選択です。それは、神に従うかどうかです。
 今朝も戦いがあったと思います。「今日は疲れた。教会は止めておこうか・・・」
 しかし一方では「行け。行った方が良いよ…」と言います。しかし神様の方では、「礼拝を守りなさい」と言います。仕事をとるか礼拝を守るか、どちらかと思います。しかし神第一ならば、教会に行き礼拝を守ります。仕事ばかりして聖書を読まないといけません。み言葉をよく読み、祈る時間を持つことは大切です。「祈らないでも信仰はできます。み言葉を読まなくても大丈夫です」というのではいけません。

 『同じように若い人たちよ。長老たちに従いなさい』とありますが、長老とは牧師たちです。特に、若い人たちは指導者たちに従っていきなさい。従ったら祝福されます。
 小学生くらいには教会に来ます。しかし中学生になると生意気になり、「俺は教会に行きたくない」と言います。教会に行かなくてもやっていけると思いますが、それは一時だけです。行きたくないと思っても、従って下さい。
 中学生くらいになって、「部活の方が面白い」と思っても、教会を第一にすることが必要です。時々注意されるとムッとします。会社でもそうですが、きついことがあります。上司の言うことを聞くことは良い訓練です。

 私たちが神に従うこと、そして神様の言うことを聞いていくことが、勝利の秘訣だからあなたがたも勝利していくように、神様に従っていくようにと教えています。

 そして次に、『悪魔に立ち向かいなさい』とあります。

 一九九三年に甲子園で集会をしたときに、組織を作らないで神によって心を動かされた人たちでやろうという事ではじめました。
 しかし実行委員長、準備委員長が必要と思い、有賀先生に電話しました。「先生。相談したいことがあるので行っても良いですか。」と言いました。そして神戸の先生の家に行って、話しました。「実行委員長になっていただけませんか。」と言うと、先生は慎重でした。
 「二週間祈らせてください。それからお返事します。み言葉をもらったら協力させていただきます。」と言われました。それでみ言葉をいただきましたと言われました。『権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と与えられたので参加させていただきますと言われました。

 平岡先生は私の伝道によって救われた方です。「実行委員長をしてください」と言うと、すぐに「はい」と言われました。
 それで実行委員会をしたときに、有賀先生と望がこう言いました。「これからの時代は霊的戦いが必要です。だからこの集会は、霊的戦いを意識しないとできません」と言われました。
 私は、「まずいことを言うなあ、霊的戦いと言うと反対する人もいるし…」と考えました。そうしたら有賀先生がこう言いました。「こういう大きな集会をすると、必ず死人が出ます。一人は死にます。」と言いました。
 「先生、バカなことを言わないでください。楽しくやりましょう。」と言いました。しかし先生は、「一人は死にますよ」と言いました。私は、「先生、死ぬと言いますが、本当に死んだ人はいますか。」と聞くと、「おりますよ」と言いました。
 「誰ですか」と聞きました。一九七〇年代にビリーグラハムが東京に来て、八日間ほど集会をしました。実行委員長の先生は、大会後に間もなく亡くなられました。そして第二回目に来たときは、ビリーグラハム先生は東京、大阪、九州、沖縄で行いましたが、その時の大会委員長も、間もなく亡くなりました。だからこういう集会をすると誰か亡くなります、と言われました。

 しかし考えてみると、甲子園後は、誰も死にませんでした。皆生きていました。大きな戦いだったので疲れた人もいましたが、なぜ死ななかったかを考えました。大会をしようとすれば、悪魔が必ず狙います。私たちの戦いは血肉の戦いではありません。悪霊との戦いです。霊的戦いが始まり、本気で戦ったので、死ぬ人がいませんでした。
 『悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、逃げ去る』と書かれています。立ち向かうとは、「み言葉に従う」ことです。み言葉に従うことは素晴らしいことです。ハワイで話しました。ヨハネ第一の二章八節から十節に、

『しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。』

とあります。「やみが消え去る」と書かれていますが、これは「悪霊の力が打ち破られること」です。そして「光が輝くこと」は、「イエスさまが働かれること」です。尾山令仁先生の現代訳聖書には、

『しかし、私はそれを新しい戒めとして書き送る。それは、キリストにとっても、あなたがたにとっても真理である。「互いに愛し合いなさい」という戒めを守る時、暗闇は過ぎ去り、キリストのうちにある本当の光が輝きを渡るのである。』

とあります。イエスさまの新しい戒めは『互いに愛し合いなさい』とあります。闇に打ち勝つ力は、「互いに愛し合うこと」です。
 今度ハワイで祝福されたことは、ハワイの牧師先生たちと、私たちが一つになったこと、アメリカの先生方も一つになって働くことができ、愛し合ったので栄光が現されたと思います。互いに争っていたら祝福されません。甲子園が祝福されたことも、妨害したり、反発した人も赦し祝福しました。それで勝利と祝福を受けました。闇に打ち勝つ方法は、『互いに愛し合いなさい。』です。家庭もそうです。愛し合うことです。親子の間も、兄姉姉妹も愛し合うことです。現代訳聖書には、

『「光の中にいる」と言いながら、同じクリスチャンを憎むなら、今も暗闇の中にいるのである。同じクリスチャンを愛する人は、光の中にいて、躓くことはない。』

とあります。クリスチャン同士、愛し合っていきましょう。祝福されることができます。ヤコブ四章六節から七節に、

『神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

とあります。これからも私たちが高ぶらないように祈りましょう。いつでもイエスさまを第一としていくことができるように、互いに神に従い、悪魔に立ち向かって勝利していきたいと思います。お祈りします。


[バックナンバー]