| 新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日、皆さんとともにみ言葉を学ぶことができますことを、心から感謝します。
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』
皆さんのお祈りに支えられて、ハワイリバイバルミッションも、フォローアップ集会をもってとりあえず集結します。
先週ある方にお会いしたら、ちょうどハワイリバイバルミッションの時に、海釣りに出かけていたそうです。ちょうど太平洋が目の前だったので、奥さんが、「この海の彼方ではハワイリバイバルミッションが行われているから、お祈りしようよ」と言うと、「そうだね。」と、ご主人は釣り竿を置いて、「ハワイミッションを祝福してください。」と祈ったそうです。
するとその途端、竿が海の中に引き込まれそうになったので急いでつかみ、引き上げると、なんと大きな鯛が釣れていたそうです。そして、足もとには大きなタコが来ていて、それも捕まえて、その日は大漁だったと言われました。
「あれはハワイミッションのおかげですかね?」と言われていました。色々なところで、様々な祈りがあったことによって、祝福されたと思います。
そのせいなのか、中日もついに日本一になりました。中部地方には、嬉しいことがたくさんあるようです。とは言っても、私は中日ファンでも何でもありません。信弘先生は大のファンですので喜んでいると思います。
さて、ハワイリバイバルミッションも終わりましたので、少々、ジョークでも入れてリラックスしたいと思います。
「スポーツ中継で、アナウンサーが、『一瞬も目が離せない転回となりませした!』と叫んだ瞬間にコマーシャルに切り替わった」というのがありました。
「プロ野球中継を見ていると、小学校一年生の娘が来て、このおじさんたちはいつも野球して遊んでばかりで、何のお仕事しているのと言ってきた」
「幼稚園児だった私は、幼稚園の先生というものが職業であることを知りませんでした。毎日私たちと遊びほうけている(と信じていた)先生のことがある日、本気で心配になり、『先生は働かなくても大丈夫?』と聞いてしまいました。」・・・案外、子どもたちには大人は誤解されているものです。
最近、賞味期限が問題になっていますが、
「友人は賞味期限が一分前のヨーグルトを食べ、こうやってスリルを味わうんだと言っていた。」賞味期限が多少過ぎてもあまり問題はありませんが。
「『万引きは立派な犯罪です』という張り紙を見つけて、友人は『立派だなんて励ましたりして、かえって万引きが増えないかなあ』と心配していた」
「色違いのブラースが二着大幅値下げで店頭に並んでいた。両方を手にとって迷いに迷っていたら、側にいた女性が、『こちらが似合うわよ。』『そうですか。ありがとうございます』と一着を手放した途端、さっと取ってレジの方へかけていった」これも一つの手ですね。
「小学生の時、母に、『勉強しなさい。勉強があんたの仕事でしょ。』と言われ、『仕事は家庭に持ち込まない主義なんです』と答えたら叱られた。」
さあ、これからはみ言葉を語ります。
『わたしが道であり、真理であり、いのちです』・・・この言葉は、神でなかったら、絶対に語ることはできません。「わたしが道であり、真理であり、いのちです」という言葉を、誰かが道ばたで語ったら、どう思われるでしょうか。
先週は「リバイバル聖書神学校」がありました。生徒たちが豊橋駅前で路傍伝道をしました。メッセージを語る人、賛美をする人、とりなしをする人と三つのグループに分けてやりました。
もしもそこで、「私が道であり、真理であり、いのちです」と自から語ったら、頭のおかしな人として、病院に連れて行かれてしまうでしょう。
イエスさまはこの地上に実在された方です。彼は、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と語りました。この言葉を語れる人物は、世界で一番頭が狂った人か、神かの、二人に一人です。
歴史の中で、イエスさまのあとに付いていく人たちは絶えません。イエスさまの中に、道、真理、いのちがあるのか、実際に探求してみることが必要です。
イエスさまの道を歩むとは、「いのちの道を歩む」ことです。言い換えるならば、「イエスさまにとどまる」という意味です。ヨハネ十五章七節から八節に、
『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』
いのちの道を歩むとは、イエスさまにとどまることです。そうしたら、何が起こるのでしょうか。
『わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』
私たちがイエス・キリストにとどまり、いのちの道を歩むならば、欲しいものを何でも求めてください、そうすればそれが叶えられるとあります。イエスさまは生きておられる神ですので、この言葉は真実です。
今日何か願い事をもって礼拝に来ていたら、今、このいのちの道にとどまっていることを確認し、「イエスさま、私はこんな願い事があります。聞いて下さい」と求めて下さい。
その結果、
『あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』
とあります。イエスさまは、「弟子となって付いてきなさい」と言われます。イエスさまを信じた人は「イエスさまの弟子」です。
二週間前にもこの事を話しましたが、イエスさまは十二人弟子を呼び寄せて言われました。マルコの福音書三章十三節から十五節、
『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』
イエスさまは十二人弟子を任命し、「悪霊を追い出す権威を持たせた」のです。弟子は師匠の望んでいるとおりに訓練されます。私たちはイエスさまの弟子です。そして、弟子たちは神の栄光を現します。それは、「悪魔の力を打ち破る」ことによって現されるのです。その権威を受け取った者がイエスさまの弟子です。
今日一人一人が神からの権威を受け取り、悪魔に打ち勝つ勇士となりたいと思います。教会は弟子たちの集団です。何を中心に学ばなければならないかというと、「福音を宣べ伝えること」、それはすなわち、「悪霊を追い出す権威について」です。また、教会は権威を使うための情報提供の場所でもあります。悪しき力を破り、神がかつて失った栄光を取り戻すのです。
イエスさまの弟子に「ペテロ」という人物がいました。彼はイエスさまの一番弟子のような人物で、イエスさまを間近に見、イエスさまから直に教えてもらった人物でした。彼がイエスさまの生涯を見て、一つのことを記録しました。ペテロの手紙第一の二章二十二節、
『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。』
イエスさまを見て、ペテロが下した結論は、『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。』という事でした。
人は近づけば近づくほど、ぼろが出てきます。しばらく前に結婚したご夫妻に出会い、「結婚して何かお互い、驚くようなことはなかった?」と聞くと、「あった、あった!ビックリしたよ…。」とご主人が、「彼女は、夜中に僕の布団を全部とって行くんだ。」と言っていました。
普通なら、近づけば近づくほど、「やっぱり人間だなあ・・・」とぼろが出ます。しかしイエスさまに近づいた弟子たちは、イエスさまを見て、「イエスさまは本当に真実なお方だ。その口に何の偽りも見いだすことはできない」と語ったのです。
「イエスさまの弟子となる」とは、「師匠のキャラクター、性質を受け継ぐもの」でなくてはなりません。イエスさまの弟子とは、「イエスさまに似たもの」なのです。私たちも、『罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。』という人格に、近づきたいものです。
特に、ペテロは一つのことが心が留まり、そこを見習いたいと願いました。ペテロの手紙の中には、そのことが繰り返し記されています。第一ペテロ三章十節から十二節に、
『「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」』
これは詩篇からの引用ですが、ペテロはイエスさまの人格と自分を照らし合わせて、「この点が足りない・・・」と気付きました。その箇所をリビングバイブルで見ると、
『幸福で正しい生涯を送りたいなら、舌を制し、くちびるからうそが出ないようにしなさい。悪から遠ざかって、善を行ないなさい。 平和な生涯を送りたいと願うなら、熱心に追い求めて、手に入れなさい。主は常に、自分の子供たちを見守り、その祈りに耳を傾けてくださいます。 しかし、悪事を働く者には、主のきびしい顔が向けられているのです。』
彼が一番強調したかったことは、「うそをついてはいけない」ということでした。私たちは時々、ふっと嘘をついてしまうことがあります。日本では「嘘も方便」という言葉があり、嘘も必要だという考え方があります。
以前、私はスピード違反で捕まってしまいました。「印鑑を持っていますか」と聞かれ、私は「捕まるつもりではなかったから、持っていませんよ」と、ちょっと突っ張ってみました。
すると、「あなたの職業は何ですか。」と聞かれました。私は、「どうしよう・・・」と思いつつ、とっさに、「ぼ・ぼっ、ぼくは、会社員です」と言ってしまいました。
後から心が責められました。「私は会社員ではない。牧師だ…」と責められました。私は悔い改めを祈っていたら、また捕まってしまいました。
そのときも、「あなたの職業は?」と聞かれたので、「はい。牧師です」と答えました。すると、「牧師さんならば、なお気をつけてくれなくてはこまります。」と言われました。牧師とは、正しく生きている人の職業だ、と見てくれているようです。寺の坊主が悪さをしても、あまり問題にはなりませんが、牧師が悪さをすると、すぐに新聞や週刊誌に書かれてしまいます。クリスチャンとは、「きよい人たち」という印象が社会にあるようです。これは、今まで日本の教会がとってきた行動がいい加減ではなく、正しかったことを表しています。たった一パーセント以下のクリスチャン人口ですが、社会に良い影響を与えたことは素晴らしいと思います。
幸せに、長生きしたいと思うなら、何が必要かというと、まず第一に、「嘘をつかないで真実に生きること」です。小さな事かも知れませんが、これは大変重要です。
ペテロは人生の中で大嘘をつきました。イエスさまと三年半も暮らしておきながら、イエスさまが捕らえられたとき、周りから、「お前はイエスと一緒にいただろう」と聞かれ、「そんなことは決してない。人違いだ。俺はあんな男は絶対に知らない」と三度も否み、イエスさまを裏切ってしまいました。それで、彼の心は大きく傷つきました。
彼は、「嘘をつくと祝福を失う」と、身にしみて体験したのだと思います。ですから、嘘を言わないで生きていくことは重要だと語りました。
今週も、嘘をつきたい時があるかも知れませんが、真実に歩むことが必要です。
そして「罪だと思われることに一切、手をださないこと」です。「罪とは何か」と、誰でも判別できるように人間は作られています。それは誰の心にも良心があるからです。良心に触れると痛みます。どこの国の人にも、同じ基準があります。殺人は悪いこと、盗みも悪いこと…と良心に照らし合わせて、皆、わかっています。しかし良心に反し、繰り返し罪に手を出すと、段々、良心が弱り、何とも思わなくなってしまいます。
私たちは常に、良心に反しない、罪と思われることから一切、手を引くならば、「あなたは幸せに生きることができる」と教えています。
私たちは、常に選択の世界に生きています。Aを選ぶかBを選ぶのか・・・。そんな時、正しい道を選び取っていかなければなりません。
また、「誰とでも、平和に暮らすことを考え、そのためには全力を尽くしなさい。」とあります。イエスさまは、「平和を作り出す人は幸いです。」と語られましたが、争いも、平和も、選択にかかっています。イエスさまの弟子として、悪魔に打ち勝つ権威をいただくために必要なことは、「偽りを言わない、罪を犯さない、誰とでも平和に過ごす」ことに心を留める必要があります。それがペテロが、イエスさまの生涯から学んだことです。
ゆえに彼は、最後には、迫害もいとわずに大胆に福音を伝える勇士となりました。今週、偽りから離れ、イエスさまの弟子として生きたいと願います。
最近日本において、長い間隠されていた偽りが暴露されています。今まで、偽りがまかり通っていましたが、まかり通らない時代となってきました。それはある意味で、神がこの国に触れておられる証拠だと思います。政治、経済、教育、宗教の世界においても、偽りが暴露され、真実に生きる風潮が高まっています。
毎日のように食品業界では、賞味期限の改ざんや、再利用問題が出ています。かつては日本の国神と言われるような、伊勢神宮の膝元で長い間老舗と言われていた菓子会社が不正をしていたことがわかりました。あの会社は、毎月、伊勢神宮に自社製品を奉納し、秘儀を行いながら菓子を作っていました。
しかし、そこには偽りがあり、大きく信用を落としています。偽りは決して人を幸せにはしません。いつかは、ばれてしまいます。真実に生きなければなりまなせん。
偽りが幸せを奪い取ってしまう要素となるのには、理由があります。聖書は、「偽りの発生源」について教えています。ヨハネ八章四十四節に、
『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』
時々嘘をついてしまいたいという衝動に駆られますが、その根源に、「偽りの父」である悪魔・悪霊どもが関わっています。人は日頃の生活のただ中で、霊的戦いを常に体験しているのです。悪魔のうちには真理はありません。真理はイエスさまだけにあり、「彼らは偽り者」、「偽りの父」なのです。
偽りは悪魔から発せられます。日本で偽りが正され、「正しくしましょう」という機運が高まっているのは、「偽りの父が権威を失っている」ことに他なりません。
そして、偽りの根源とは、「偽りの神々」にあります。偽りの神々は、真理の道を塞ぐ、み言葉の約束を止める力として働きます。
日本に多くの偽りがあるとしたら、その根源は偽りの父であり、その媒体となっているのが、「偽りの神々」です。イザヤ書二章八節に、
『その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。』
とありますが、日本は偽りの神々に満ちており、自分の手で作ったものを拝んでいます。
日本で拝まれているものは、皆、石や木、金属です。そんなものをよくぞ拝めると思います。しかし、それが千年も二千年も継続して拝まれています。なぜ拝まれているかというと、人々は手応えを感じているからです。手応えを感じなければ拝み続けません。
皆さんはなぜ、教会に来続けることができるのでしょうか。それは同様に、手応えを感じるからだと思います。教会に来て、「神様がおられる、主は生きておられる・・・」と、目には見えませんがイエスさまが生きておられると、「手応えを感じる」からです。イエスさまに願い事をするときに、手応えを感じるから、イエスさまにとどまることができるのです。教会には、何も拝む対象の像はありませんが、賛美や祈りの中で、その手応えを感じます。
同様に、偶像礼拝も、何らかの手応えを感じるので、そこから離れることができないのです。どの宗教にも、教えの背景に、色々とストーリーがあります。聖書にもストーリーがあります。聖書には色々な事柄が記されています。
しかしもしも、聖書に記されている事柄が偽りで、事実に反するただの神話なら、それらを根拠に何らかの手応えを感じるようなら、気をつけなければなりません。なぜなら、偽りが根底にあって、手応えを感じる時は危険だからです。
最近、「振り込め詐欺」が横行しています。皆さんもご注意下さい。よくテレビでやっているので、「バカだなあ。あんなのに引っかかるなんて・・。あほらしい」と思いますが、実際に電話がかかってくると、なかなか対応できないそうです。
最近では、前日に、「俺、携帯変えたから…」と言って、息子の振りをして携帯電話にかかってきます。信用して、自分の息子の番号として登録すると、次の日にまた電話がかかってきます。それが振り込め詐欺の手口です。
先日ある人が言っていました。「私の所に振り込め詐欺の電話がかかってきた!」
彼女はいつもバカにしていたけど、本当に危うく振り込むところだったと言っていました。どんな様子かと聞いてみると、朝、ご主人が出勤してしばらくしてから電話がかかって来たそうです。
「もしもし、こちらは警察ですが。今、あなたのご主人が警察署にいます。」「えっ、何でですか?」
「今朝、ご主人が出勤途中、痴漢行為を働きまして、それで捕まったのです。今大きな問題となっていまして、相手が訴えると言うことで、このまま訴えられると刑務所に行かなければなりません。ちょっとご主人にかわります」と言って相手がかわり、「悪かった。ごめん、ごめん」と泣いて謝るそうです。
日頃、「主人はちょっと嫌らしかったから・・・」と奥さんは思っていたので、「もう、あんた、何やったのよ…」と怒ったそうです。
そうしたら次に、「今、弁護士も来ていて、話を付けてくれているようです。弁護士にかわります」
「あの私は弁護士です。被害者の方が三百万円で示談にすると言っておられます。三百万円即金で払ってくだされば、示談にできるようですが…」と言ったそうです。
その時、「三百万円か…」と思ったそうですが、ふっとおかしく思ったそうです。それで別の電話で会社に電話をかけたそうです。すると、ご主人が出て、「はぁ?何それ?」と言ったそうです。それで、それが振り込め詐欺であることがわかり、引っかからないで済んだ、と言われていました。
振り込め詐欺は、「偽りのストーリー」なのです。ご主人はそんなことをしていないのに、背後に偽りのストーリーがありました。その上、身近な存在を感じます。ご主人のような存在が、電話の向こうにいます。それを信じて、手を出したらどうでしょうか。大事なお金を持っていかれます。
宗教も同じです。もしも偽りのストーリーがあって、何らかの存在を感じていたら、気をつけなければいけません。
しかしその点、聖書は二千年にも渡って、多くの批評家たちから批評・批判され、一言一句、一点一画まで精査されました。その結果、聖書の真実性、信憑性がどんどん高まったのです。聖書は間違いのない、神からの書物であることがわかっています。
ですからこの二千年もの間、聖書を読む人は絶えないのです。今でも、毎年のベストセラーは「聖書」です。聖書が世界のベストセラーから下りたことはありません。
イエスさまはこの地上を歩まれた方であり、イエスさまの誕生についても、旧約聖書では何度も預言されています。イエスさまが救い主であるという、事実の上に信仰を守れることは素晴らしいです。
ですから皆さん、安心してください。聖書は真実の書です。そして聖書に基づいて主を礼拝をする時、何らかの手応えを感じたら、それは本物です。
けれども、日本神話や仏教経典はすべてでっち上げです。それは皆が知っています。しかしなぜ人々がそこに行くかというと、何らかの手応えを感じているからです。しかし、それは、振り込め詐欺と同じ敵の力なのです。人生で一番大切なものを盗まれてしまうのです。
その偽りの発生源は、偽りの父である「悪魔」だと聖書は教えています。
さて、聖書は神様のことを「岩」と表現しています。岩とは動かないものです。何千年経ってもその場所にあります。岩をモチーフとして、神を現しています。
第二サムエル二十二章四十七節に、
『主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの岩なる神。』
イザヤ書四十四章八節に、
『恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。』
詩篇九十五編一節から二節に、
『さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。』
私たちはよく賛美します。
さあ 賛美しよう 救い主イエスに
さあ 賛美しよう 救い主イエスに
ホサナ たたえよう 賛美しよう救いの岩
ホサナ たたえよう 賛美しよう救いの岩
私たちの救いの岩はイエスさまです、と賛美しています。しかしこの救いの道を塞いでいる存在が日本にはあります。この点について、もっととりなして祈る必要があると感じています。いままで、この点を見落としていたかも知れないと思いました。
ハワイに行くと、昔から拝まれてきたものに、石や岩があります。ハワイアンの人々は、三世紀頃、遠いタヒチの方から上がってきた人たちです。タヒチは四千キロも離れた南の島です。そこからあるものを持ってやって来ました。それは、タヒチの神殿の岩石です。彼らはその石でハワイ島に神殿を築いています。その石は持ち上げることができないような、重みのあるものです。どうやってこれらを運んできたのだろうかと不思議に思います。
この石はタヒチで拝まれ、「この岩に救いがある」と信じられていたのです。自然の岩が、自分たちの救いの岩だと信じているのです。その岩でハワイに神殿を造ったら、ハワイもタヒチと同じ霊的環境になると考え、彼らはわざわざ石を運んで神殿を作りました。
石を拝むことなど、原始的なことで、あほらしいと思っていましたが、実は聖書には、私たちの神を「救いの岩」と表現しています。しかし悪魔は、「目に見える岩が救いの岩ですよ」と偽りを語り、本物の救いの岩を見えなくしているのです。
日本の神々の多くも石作りです。日本になぜこんなに多く偶像があるのだろうかと思います。神社や寺が多いです。新城市には、神社だけでも百以上あります。合併する前、すでに百以上ありましたので、町村合併で二百近くになったのかも知れません。
歴史のある時点で、悪霊の大リバイバルがあり、神社を作ることに真剣になった時代があったと思います。神社は同じようなタイプのものばかりです。ハワイリバイバルミッションを通して、石を礼拝することが単なる空しいことと言うよりも、「本当の救いの岩である、救い主を見えなくしている偽りの力」であることを教えられました。だから、背後に働いている敵の力に立ち向かわなければなりません。
日本の宗教の源流について調べてみました。日本は南から登ってきた縄文人たちによって始まりました。日本に昔から住んでいた人など、一人もいません。かつて縄文人は、南の島々から北海道まで、全体に住んでいました。彼らには国境という概念はなく、全日本に広く分布していました。
父と私が生まれたのは、北設楽郡津具村です。津具村に行くと、山奥にもかかわらず、縄文人の遺跡があります。それを調査してみると、日本最古の縄文遺跡の一つだというのです。そのうえ、津具村近くには黒曜石が産出し、それを目当てに日本中の縄文人たちが集まり、黒曜石の取引をしていた形跡があるというのです。そしてその地名が「滝元」です。
縄文人は山上にある、大岩を神体にして礼拝していました。シャーマンという霊能者が岩に霊を降ろし、不思議な現象を起こしました。それが繰り返されると、人々は岩に霊が宿っていると思い込み、岩を拝むようになりました。それが長い間続けられてきました。
その後、「弥生人」と呼ばれる人々が稲作と共に中国の方からの侵入してきました。日本人とは、縄文人と弥生人がミックスして出来たような民族です。そんな流れの中、六世紀になると仏教が入ってきました。仏教は平地に寺を建て、先祖を拝ませます。それまで縄文人たちは、山上で岩を拝んでいましたが、仏教が入ってきて、平地に寺を建てたのです。民衆は山に登るより里で拝める寺に流れました。
それを見て、古くからの縄文系の岩を拝んでいた人たちは焦りました。これでは、うちのお客さんが取られてしまうということで、結局、寺に模して里に「神社」を建てました。寺に対抗して、神社を建てました。神社が寺に似ているのもその為です。
神社の根源は、もともと山上にある大岩です。岩を「救いの岩」と信じて拝んでいたのが日本の偶像礼拝の原点です。それは、結果的に、本物の救いの岩、いのちの道をとどめる「偽りの力」に他なりません。
この付近を調べてみると面白いことがわかりました。教会の目の前には雁峰山があります。そこに大きな岩があります。それは「額岩」という岩、そして「石座石」という巨石があり、そこで縄文人たちが悪霊を礼拝をしていました。
やがてこの地域にも仏教が入り、平地に寺を建てていきました。それに対抗する形で、麓に「石座神社」が建てられ、人々は神社を礼拝するようになりました。
昔は山麓から幅一里、約四キロが神域だったと言われています。教会があるところも、昔は石座神社の境内であったと考えられます。
そのような歴史を発見するとき、日本のリバイバルを止め、いのちの道を塞いでいる巨石信仰の背後にある敵の力を見抜いて、打ち破らなければなりません。そして、「本物の救いの岩はイエスさまだ!!」と宣言しなければなりません。
案外日本のリバイバルを止めているのは、そこらに転がっている石なのかも知れません。人々が転がっている石を礼拝することによって、本物の救いの岩であるイエスさまが見えなくなっている現実があるのかも知れません。
今週はぜひ、皆さんの住んでいる町々にある、岩を神体として礼拝している場所に行き、主の御名によって、「それは神ではない!!」と宣言して下さい。偽りの力が打ち破られ、「イエスさまこそ救いの岩であり、真理であり、道であり、いのちです!」と宣言して下さい。それは偽りの根源が破られることです。
つい嘘をついてしまうことがありますが、それ以上に、偽りの神々に騙されることが結果的に「最大の偽り」となり、私たちの幸せを塞ぐ大岩となるのです。
このような偽りの岩が完全に打ち破られ、人々が本当の神を知ることができるように祈っていきたいと思います。
また、偽りの父の策略を見抜くために、主の弟子たちは働く必要があります。一度しかない人生ですが、平和な人生、幸いな人生を歩みたいものです。偽りから解放されることは大きな事です。単なる偽りを取り除くだけではなく、この国にある偽りの根源である「偽りの神々」、そして、その背後の敵と戦うことが重要です。
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』
福音を伝えることに心を向けていきたいと願います。まもなくクリスマスです。イエスさまのお生まれを記念する日です。イエスさまがお生まれになったことは事実です。十二月という証拠はありませんが、お生まれになったのは事実です。
ペテロがイエスさまから、「偽りから離れる」ことを学んだように、私たちも偽りを捨て、偽りに流されることがないように祈りましょう。また、私たちの心に罪があったら罪を赦していただき、決して悪を行うことがないように、主の守りを祈りましょう。
今週、誰とも争うことなく、平和に過ごすことができるように祈っていきましょう。また本物の救いの道を塞いでいる、敵の力が破られるように祈りましょう。
(告白の祈り)
「イエスさま。今私たちはイエスさまだけが道であり、真理であり、いのちであることを宣言します。私の中から偽りを取り除いて下さい。罪を消し去ってください。かつて偽りの岩を救いの岩のように拝んでいたことを赦して下さい。私のいのちの道を塞いでいる、岩を砕いて下さい。常にイエスさまの中にとどまることができますように。イエスさまが救いの岩であることを宣言します。御名によってお祈りします。アーメン」 |