いのちの道を歩もう!Part2

2007.11.18(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ヨハネの福音書 15章7節
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます

 ハレルヤ!おはようございます。「ヘブンリー・キングダム」の素晴らしい賛美を聞くことができて感謝します。「イエスさまにあってハッピー!」と元気に賛美されていましたが、今日、皆さんはハッピーでしょうか?
 多分、幸せな方が多いと思いますが、「私はあまり幸せではない」といわれる方は、イエスさまにあって幸せになられることを願います。
 今日は先週に引き続き、「いのちの道を歩もう! Part2」というタイトルでお話ししたいと思います。

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』
 またヨハネの福音書十五章七節は、
『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』

 イエスさまは、『わたしが道です』と語られました。その道にとどまっていたら、欲しいものを何でも求めてください、そうすれば、それが叶えられると約束されています。今日もしも、幸せが足りないといわれる方がいるならば、イエスさまに幸せを求めて下さい。イエス・キリストの道に真理があり、いのちがあります。
 最近、教会に来られる方々の九十パーセント以上が、人生に何らかの重大な問題を抱えて来られます。今日初めて教会に来られた方は、「教会って元気の良い場所だな・・・」という印象を持たれたと思います。しかし、今日ここにおられる方々の九十パーセント以上が、何らかの問題を抱えた方々ならば、普通はどんなに暗い集まりでしょうか。しかし、集まっている人々が元気ならば、この道に何らかの解決策があるのに他ならないのです。

 現代は寂しい時代です。私はサラリーマン川柳を見るのが好きですが、その中に結構、寂しい世相が表れています。一般人が持っている心境が表れています。そこには、あまり幸せな響きはなく、寂しさだけが漂っています。いくつかを紹介しますと、
 「この俺に 暖かいのは便座だけ」
というのがありました。なんだか悲しいですね。
 最近は寒くなってきましたが、日本のトイレは便座が暖かいです。日本のトイレは、世界で最も進歩したトイレです。便座は温かく、温水まで出ます。海外から来ると勘違いして、水の噴き出すトイレで水を飲んでしまう人もいるようです。こんなトイレはほとんどないです。
 人間は一度体験した衛生観念は、なかなか落とせないものです。海外に行って何が一番大変かというと、トイレ事情や衛生観念の悪いところに行ったとき、なかなか対応が難しいです。
 何年か前にインドネシアに行くと、紙なく望みなくというトイレでした。そこにあるのは、一つのおけの水と柄杓だけでした。これで水を飲むのかな・・・、などと考えましたが、よくよく聞いてみると右手で水をすくい、左手で洗うという手動ウォシュレットでした。
 寒くなりましたが、温かいのは便座だけの人生では寂しいと思います。またこんな川柳もありました。
 「犬は良い 崖っぷちでも救われる」
 先日、「崖っぷち犬」というのが報道され話題となりました。崖っぷちで足をガタガタ震わせている犬が、何百万円もかけてレスキューによって助けられました。人生が崖っぷちになっても助けてくれる人はなかなかいませんが、犬は助かったのです。厳しい世の中です。次に、
 「忘れぬよう メモした紙をまた探す」
 こんな方もいるかも知れません。忘れっぽくなってしまい、人生の黄昏を感じている人もいます。
 新婚当時は良いのですが、しばらくすると段々、夫婦関係も冷えてきます。実は、先週私は大変ハッピーなことがありました。それは大きな記念日でした。なんと、私と家内が結婚三十周年を迎えたからです。よくぞここまでやって来たというのではなく、それはあっという間でした。つい先日、私と家内は初々しく結婚式を挙げたかのように思ったら、もう三十年も経ってしまいました。家内は本当によくやってくれています。しかし川柳では、
 「”ご飯ある?” ”作ればあるけど・・・” ”ならいいです”」
 「妻の口 マナーモードに切り替えたい」
というのがありました。さらには、
 「オバタリアン 三人寄れば暴力団」
女性は段々パワーアップします。
 「散髪代 俺は千円 犬一万」
 「年収は ゴジラ松井の一打席」
 「失敗を 恐れるあまり また失敗」
 一般的に人生は年を取るほど明るい材料がありません。暗いことが多いのです。どの道を歩んだら良いのか、わからないのです。

 しかし、そのような中でも、時代を超えて聖書は語っています。「わたしが道であり、真理であり、いのちです」と。
 どんな時代にあっても、聖書は変わることなく語りかけています。どんな状況から教会に来られたとしても、ぜひ希望を持っていただきたいのです。

 この教会では、毎年、十二月三十一日に特別な集会を行っています。その時は、私以外の六人の牧師たちが、新しい年に対する聖書からのみ言葉を語ります。それは一人一人が主の前に出て、新しい年をどのように導いてくださるのか祈った後、いただいたみ言葉を語ります。さらに私は、一月一日にそれらのみ言葉をまとめ、自分自身に与えられているみ言葉も加えて、主が一年、主の民にどのような道を用意されているのかをまとめて発表する役割があります。
 二〇〇七年のために教会に与えられたみ言葉があります。それはインターネットで、いつでも読むことができます。
 私は先週、それを読み返し、まさしく主が教会に語ってくださったと確信し、心から感謝しました。これは教会全体に主が語られた言葉であり、同時に、一人一人のテーマとしても受け取ることができます。

(二〇〇七年に対する預言的まとめ)
 イスラエル民族の荒野での四十年間は、約束の「カナンの地」に攻め込むための訓練期間でした。
 新城教会の霊的戦いは、今年で十五年になりますが、その期間はある意味、荒野での訓練でした。けれども、二〇〇七年は、新しい地に攻め込む年となります。イスラエルが、カナンの地に侵入したとき、民全体が戦いの中に入りました。同様に、二〇〇七年は、教会に属する全てが、その役割を果たす年となります。わたしは、あなたを勇士として用います!

 今年は昨年にまして、良いものが来ます。立ち止まってはいけません。ゴールはもうすぐです。わたしは超自然的な事を起こします。 
 すでにあなた方は、思いもよらない領域でわたしが働いている現実を目にして、驚いているでしょう。そうです。わたしはあなた方が思っている以上に、働いているのです。
 時が来ました。あなたは来て、サタンの頭を踏みつぶすのです。わたしは常に、常識を超えたところで働きます。わたしの働きに、信仰を働かせてついてきなさい。

 今年は、今まであなたが、「回復不可能」と考えていた領域に回復をもたらします。かつて致命傷を負った部分に、「復讐」と「報い」が来るのです。わたしは、敵の面前で宴を設けます。いつくしみと恵みがあなたを追ってくるでしょう。

 ある人は、「私は役に立たない、何も出来ない」と、もどかしさを覚えているのかも知れません。
 しかし、わたしは言います。神の採点方法は、人の採点方法とは違うのです。あなたが「小さい」と思っているような働きが、かえって重要なのです。

 今年は、あなた方を戦いのためにさらに鍛えます。なぜなら、人は戦いのために創造されたからです。人が神の目的である、神の栄光を取りもどすために働くなら、わたしは、天を押し曲げて降りて行きます。
 今までにも教えたように、日本の束縛は、海外からもたらされたものです。人々は外国からの「偽りの右手」により騙されています。その束縛を解くために、今年、わたしは、「新しい世代」を立ち上がらせます。

 こうして二〇〇七年は、群れ全体が祝福され、祝福の上に、祝福が増し加えられるのです。なぜなら、わたしは光であって、その中に、何の暗い部分もないからです。」
(ここまでが二〇〇七年に対する預言的まとめ)

 これが私たちの教会に、主が今年の初めに語ってくださった言葉です。すでに、この言葉が教会に実現しているような気がします。個人的にはまだ実現していない、と言われる方がいるかも知れませんが、見えない世界でそれが教会に実現したとしたら、やがて一人一人の現実の世界においても、必ず結果として現れます。
 特に二〇〇七年に対するこのみ言葉は、「ハワイリバイバルミッション」において実現したと思います。この年の初めに、ハワイリバイバルミッションがどのように展開するのか、全くわからないときに、主から導かれた言葉を語りました。これは誰か一人が預言として語ったのではなく、六人の牧師たちが十二月三十一日に語ったメッセージの中心部分を、ただ、つなげただけに過ぎません。しかし不思議なことに、それがハワイリバイバルミッションの働きの中で実現しているのです。
 最初に、「新しい領域に攻め込む年となる」と語られましたが、正に、今年は新しい領域に攻め込ませていただきました。日本だけではなく、ハワイでミッションが開かれたことは、大きな新しい扉が開かれた事に他なりません。
 また、民全体が戦う年になると語られましたが、教会を上げて祈りの手があげられ、教会が一丸となってハワイ・リバイバルミッションを戦い抜きました。これは神が与えてくださった、大きな祝福です。
 また「超自然的なことが起こされる」、「回復不可能と思われる部分に回復が起こる」と語られましたが、今年、教会に多くの方々を集めてくださり、救ってくださいました。しかしその過程では、超自然的な事柄がいくつも起こされ、今まで回復不可能と思われるような所に、突如として回復が訪れ、主のみ業を見せていただいています。それが、年末に向けて、更に広がっていくと信じます。

 また年の初め主は、「偽りの右手」ということを教えてくださいました。日本の神々、世界の神々と呼ばれる存在は、神ではなく悪霊です。それらの神々は、偽りの右手を持っています。右とは英語で、「right」と言います。それは「正しい」という意味もあります。しかしそれが「偽り」なのです。
 世界の神話を調べてみると、そのほとんどが、善神が出てきて悪神と戦いますが、やがてその悪神をも取り込んで神々となります。
 日本神話も同じです。アマテラスという善神が出てきて、その後、スサノオという暴れものの悪神が出て地獄にまで落とされます。しかしスサノオもやがて一緒になって神として祀られます。これは人間には善神も必要だが悪神も必要で、それらのバランスがとれている時が幸せという、アジア諸国を貫いている宗教観、すなわち、「陰陽の世界観」です。陰陽バランスが取れているときに、人は幸せという考え方です。そこには、よく拝めば神になるが、放っておくと鬼になるので、鬼にならないよう拝めという考え方が根底にあるのです。けれども、善神と見えるような神も、実は偽りの右手なのです。それは良さそうな振りをしていますが、実は、敵なのです。

 もしもあなたが誰かから脅かされ、お金を揺すられている時、突然正義の味方が現れて、「あなたを助けますよ。私に任せてください。敵を追い払ってあげましょう!」と言って、敵を追い払ってくれたとします。
 するとあなたは、「ありがとうございます。私にとってあなたは正義の味方です」と言って、少しお礼をあげます。
 しばらくすると、また敵が出てきて、脅かされて困ったとき、「そうだ。この間助けてくれた正義の味方さんに頼んだら・・・」と思い出し、「すみません。私の家にまた問題が起こったので、何とかしてください」と頼むと、
 「そうですか。そういう時はいつでも助けますから、言ってください」と、心強い言葉をくれます。
 彼が出て行くと、敵が一瞬にして追い払われます。「ありがとうございます。あなたは私にとって、なくてはならない人です」と言って、またお礼を払います。

 しかしある時、ある人からこんな噂を聞きます。「あなたを脅している人と、あなたを助けている人は、後ろでつながっています」

 脅す側と助ける側が後ろでつながっていたらどうでしょうか。もうどうにもなりません。常に問題が繰り返されます。日本の神々、また偶像を背景とする神々は、助ける側と脅す側がグルなのです。ですから、常に人生に問題が繰り返します。正しいと言われ、光と言われるような右の手も、実は、「偽りの右の手」なのです。

 しかし真の神は、そんな神ではありません。『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。』とあります。聖書に紹介されている神様は、「比較宗教」という学問で比較してみても、他の神話とは全く違った性質を持っています。世界のほとんどの神話や宗教のベースとなっているのは、良い神と悪い神が一体となる世界観ですが、聖書の神は、絶対善なる神が悪を一つも残らず粉砕するために働くのです。悪は片鱗も残さず、すべてを打ち砕く神、闇を打ち砕く光なる神として紹介されています。

 私たちの神は良いお方です。皆さんの人生には、良いものが備えられています。もしも人生が良いと言えないのならば、敵との関わりがあります。しかし、真の神は偽りの右手を発見させ、打ち破ってくださるのです。今そのことが起こっています。

 また「今年、新しい地を占領するために、新しい世代を立ち上がらせます」と語られましたが、今年は、新しい世代を立ち上がらせてくださっています。
 今回のハワイリバイバルミッションも、若い世代が頑張ってくださいました。また今、新城教会の若い世代が大変燃えています。
 先週も賛美集会をしましたが、その時、最前列で一番元気よく賛美していたのが子どもたちでした。子どもたちが燃えて主に仕えています。これは感謝なことです。
 十二月にはクリスマス集会がいくつもありますが、その多くは、部会毎で行われます。子ども、中高生、青年たちが自主的にクリスマス伝道会を開催します。毎年行われるクリスマス集会の中で、「子どもクリスマス会」はたいへん祝福されています。それは毎年、子どもたちが目標を決めて、真剣にとりなし、祈りながらやっているからです。今年は十二月十五日の土曜日です。子どもたちは目標を持っています。そこに何人集めたいと願っているのかご存知ですか?
 子どもたちは自分たちで、八〇〇人を集めようとして真剣に祈っています。子どもたちで祈祷プログラムを組み、三分間祈ったらカードの一マスを塗るという、ハワイ・ミッションのような方法でやっています。毎年、五百名程が集まっていますが、今年は「八百名」が目標です。若い世代が活躍しています。

 人間は「世界観」すなわち、「物の見方」、「価値観」がないと生きることができません。小さな頃、どのような世界観や価値観を持つかによって、将来が変わってきます。
 日本のキリスト教界の中で一つの問題があります。それは、クリスチャンホームの子どもたちが信仰を継承しないという問題です。初代のクリスチャンたちは一生懸命やりますが、二代目はあまり信仰継承しないのです。どこに問題があるのかと論議されています。
 先週そんな事柄に関する記事を読んだら、「日本のクリスチャンの親たちが考えているのは、信仰は自由なので、個人の判断に任せ、自分からイエスさまを信じる時まで待とう、という姿勢の人たちが多い」というのです。
 もちろんこれはある面では正しい考え方です。しかし、そのような中で絶対に忘れてはいけないことは、「親が待っている間にも、社会は待っていてくれない」という事です。その間に、子どもたちに一つの世界観ができ上がってしまうというのです。親が手をこまねいている内に、子どもたちの中に、ある世界観ができ上がってしまいます。それは、「イエスさまの道よりも、他の道の方が楽しい」という価値観ができ上がってしまいます。そうなると、後からそれを変えようと思っても、なかなか難しいというのです。小さな時に、イエスさまの道が真理であり、いのちの道であることをはっきりと理解させないと、子どもたちは間違った道を歩みはじめます。自主性に任せようと言っているうちに、悪い世界観が固定化してしまうのです。その間に、悪魔は神なしに生きる道を用意しているのです。子どもたちが一度その色に染まってしまうなら、二度と教会に来なくなってしまいます。ぜひ、親御さんたちは子どもたちを教会に連れてきてください。

 教会に来ているうちに、イエスさまだけが道という世界観が形作られます。新城教会では小学生以上は礼拝に出ています。礼拝中、色々なことをしていますが、耳は開いているのでメッセージは聞こえています。先ほども、会堂内を自衛隊員のように、歩伏前進している子どもがいましたが、あれで良いのです。
 昔の事ですが、忘れることができません。ある教会に私は奉仕に行きました。そしてメッセージを語っていると、真ん中にある通路を泳ぎながら這って出てくる子どもがいました。「誰だろう?」と見ると、なんと、私の娘でした。その娘も、今では主のために働いています。

 若い世代が立ち上がらない限り、神の国は前進しません。この教会の若い世代が立ち上がっていることは素晴らしいです。
 中高生の子どもたちも燃えています。毎年、レッツ・プレイズという集会が、年に二、三回行われます。しかし毎回、二百人以上の中高生が来て福音を聞いています。クリスチャンの子どもたちが、真剣にイエスさまを伝えているのです。
 小さな頃から「これが道だ!!」とはっきりわかれば、人生は迷うことがありません。

 一般的には、人は神なしに生きていくという世界観が、幼い頃に植え付けられ、色々な問題に出会って、やっと神が必要と気付くことが多いようです。
 聖書に、エルサレムからエリコに下る途中、旅人が強盗に出会ったという記事があります。エルサレムからエリコへの道は急な坂道で、よく強盗が出る所でした。そんな下り坂で強盗に出会って倒れたのです。
 多くの場合、人生の下り坂で倒れ、助けられ、教会に来ることが多いのです。それも救われないよりはましですが、色々な問題や苦しみに出会わないうちに、真理の道を歩むことが重要です。
 一度しかない人生なので、苦しみや悲しみのない、真理の道を歩んで欲しいと思います。若い世代が主の前に立ち上がっていくならば、無駄な苦しみを体験しなくて済みます。

 このように、今年主が語られた言葉のすべてが、教会に実現しているように感じます。ということは、それは見えない世界に開かれた霊的扉なので、やがて皆さんにも必ず、同じことが起こります。
 教会とは神が地上に置いた出店のようなものです。教会に集うことは重要です。なぜならば、神が私たちの人生に関わってくださるからです。神の権威の中で守ってくださいます。そして神が天で開いてくださった祝福を、教会を通し、すなわち、ひとりひとりが教会なので、そこで受け取ることができるのです。

 私は今年のはじめ、詩篇一四四篇一節から十五節までのみ言葉をいただきました。二〇〇七年に対する預言的事柄のまとめを話しましたが、詩編一四四編の中にも同じ事柄を発見できます。神様の働きは、ある時点ではわかりませんが、振り返ると関わってくださった、守ってくださったということがわかります。一四四篇一節からに、

『ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。』

とあります。去年十二月末に、私はこのみ言葉が与えられましたが、『ほむべきかな。わが岩である主』と主は語っていてくださいました。今日も、「いつまでも主に信頼せよ、主はとこしえの岩だから」と賛美しました。聖書を見ると、神を岩と例えています。岩は何百年経っても、千年以上経っても、誰かが動かさない限りその場にあり、不動のものです。だから神を岩になぞらえています。
 しかしながら、悪魔は神のみ言葉をねじ曲げ、約束が成就しないように真剣に働きます。

 先週は特に、「偽り」に関して学びましたが、岩になぞらえているのはイエスさまであるのにも関わらず、日本人は目の前にある岩が救いの岩だ、と信じて礼拝していると語りました。見ると、木や金属、特に石で作られた神々が多いのです。それがあたかも、救いの岩かのように悪魔は人々を騙しています。その偽りの岩を打ち砕かなければなりません。
 『ほむべきかな。わが岩である主』とあります。ここからも、私たちの主だけが「救いの岩」であると見ることができます。今年、主が語ってくださった言葉であると、もう一度読んで確信しました。一四四篇十二節から十五節に、

『私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。』

とあります。偽りの岩の神ではなく、本当の救いの道を歩む民は、このような祝福に預かることができます。

 しかしながら、人生の祝福を止めるのは、大きなものが止めるように思うかも知れませんが、実は小さく見える事柄なのです。
 二〇〇七年に対して語られた言葉の中に、「私は役に立たない。何もできないともどかしさを覚えているかも知れません。しかし、わたしは言います。神の採点方法は、人の採点方法とは違うのです。あなたが小さいと思っているような働きが、かえって重要なのです」と語ってくださいましたが、逆に、悪魔もこの事をよく知っています。
 人をつまずかせるのは、大岩ではなく、小さな石ころです。山のような岩につまずいて倒れる人はいません。小さな石につまずいて倒れます。悪魔は、「こんな事は小さな事だ、大した事ではない」と言いますが、それが人生を止める力となります。

 ある時に、店の前に大きなボクサー犬がつながれていたそうです。「あの〜、表につながれているボクサー犬の飼い主はどなたですか・・・。」と一人の男がおどおどしながら、店に入ってきました。
 すると一人のごっつい男が、「俺だけど、何だっ!」と答えました。
 「すみません。私の犬が、お宅の犬を殺してしまったようなので…」
 「何?あのライオンのような大きくて、狼のようなどう猛な犬を殺したって?あんたの犬は一体どんな犬だ!?」
 「はあ。生後二ヶ月のチワワです。」
 「えっ、何?そんな犬がどうしたら、うちの犬を殺せるんだ!」
 「お宅の犬が、喉に詰まらせたようでして…」

 神の祝福を止めるもの、それは、大きく見えるものよりも、小さく思えることが祝福を止めます。二〇〇七年、まだ一ヶ月半ほどあります。すべてが実現されるためには、大きな事よりも、小さな事に目を留める必要があると思います。
 エペソ四章二十五節から三十二節に、

『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』

 エペソ人への手紙は六章までありますが、六章では「霊的戦い」について記されています。しかしその準備段階として、敵の力に勝利するために必要なことが、大きな事と言うよりも結構、小さく見える事柄が重要であると語っています。
 先週は真理の道を止める「偽り」について話しました。ここでも、

『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。』

と教えています。私たちが真実に生き、偽りから離れることが重要です。しかし偽りの根源は、偽りの神々であり、偽りの父である悪魔・悪霊が関わっていると先週学びました。
 もう一つ悪魔が私たちに対して攻撃をしかける大きなポイントについて、ここで教えています。二十六節から二十七節に、

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

 人間は感情の動物です。一日の間に、何度も喜怒哀楽を繰り返します。ある時にはハッピーなときもありますが、ある時には怒る時もあります。誰も止めることができないような怒りが湧いてくる時もあります。
 聖書は怒ってはいけない、とは語っていません。怒っても、「罪を犯してはいけない、日が暮れるまで憤っていてはいけない」と教えています。そして、「悪魔に機会を与えるな」とあります。私たちは時々怒りが湧いてくることがあるかも知れませんが、悪魔に機会を与えてはいけません。感情の中、巧みに悪魔は土台を設け、人生を奪おうと機会を狙っています。日頃の歩みの中で、私たちは怒りをコントロールしなければならないことを教えられます。
 『日が暮れるまで憤っていてはいけません。』とあります。ユダヤ人たちの一日は、夕刻から夕刻までです。日が暮れると一日が終わり、また一日が始まります。私たちは、朝から晩という一日を設定していますが、ユダヤ人は夕刻から夕刻までです。
 頭に来るようなことがあったとしても、その日に、すべてを終わらせるようにと教えています。しかし人間は一度怒ると続きます。怒りが続くと、既に悪魔が機会を捕らえているのです。
 子どもの頃はできても、大人になるとできないことの一つに、怒りのコントロールがあります。大人になると、コントロール機能が壊されるような気がします。子どもの頃は、喧嘩をしても、次の日にはけろっとしていますが、大人になると一度喧嘩をすると、次の日もずっと続きます。
 継続する怒りは、すでに悪魔によって機会が捕えられている証拠です。その策略に引っかかってはいけないのです。

 毎日の生活の中で、色々な出来事があるかも知れませんが、怒っても罪を犯してはいけないのです。真理の道が塞がれて、悪魔の侵入を許すことになってしまいます。今日もしも皆さんの中に、「私は先週の怒りがまだ収まらない」と言われる方があったら、悪魔が機会を捕らえ、いのちの道を塞ぐ大岩となっています。怒りは何らかの理由があるので、自分にとっては当然なことと考えます。相手を許せないのは当然だと考えます。相手に原因があり、自分の否は小さいと考えますが、実は、その石ころは、真理の道を止める大岩となって祝福を止めるのです。

 毎日の生活の中で、悪魔に機会を与えないようにしなければなりません。「機会」とは、「窓、戸口」という意味もあります。怒りは悪魔が侵入する窓や戸口となります。悪魔は待ち伏せをしているのです。私たちに怒りの心が出てきたときには、すぐに戦いのスイッチをオンにし、悪魔が狙っていることを知り、警報を鳴らさなければなりません。そして一歩立ち止まり、一歩引くことが大切です。

 ある幼稚園で、先生が雨の日に三十数人の園児一人一人に、長靴を履かせたそうです。やっと終わったかと思ったら、一人の女の子が先生に言いました。「先生、この長靴、私のじゃあないの。」
 それを聞いたとき、先生はカッとなり、「どうして、さっき履くときに言わなかったの。」と女の子の足から長靴をとり、それを投げたそうです。
 すると女の子が言いました。「この長靴。朝、おねえちゃんが貸してくれたの。」

 「私のじゃない」と言ったのは、間違えて履かせたわけではなく、お姉ちゃんが貸してくれた長靴だったという意味だったのです。よく話を聞いていなかったので、怒ってしまいました。
 時々私も、話を聞かずに怒ってしまうことがあります。

『怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。』

と箴言にありますが、常に怒りの背後に隠れている悪魔に立ち向かわなければなりません。

 また私には、「常時怒りがある」という方がいるかも知れません。常に怒りがあると言われる方は、それが自分の性格だとは思わないでください。背後に悪魔が機会を捕らえているのです。人は元々、戦いのために創られたと教えています。人間は地を這う生き物である悪魔・悪霊どもを支配する役割として創られました。人は目に見えない敵と戦うための役割を持っています。

 そのような性格を悪魔はよく知っています。本来人間は、そのような役割で創られているので、悪魔が関わってきたら、悪魔に対して怒りがわいてきます。それで、悪魔に立ち向かっていくように創られました。

 悪魔は、人に怒りが発生するメカニズムをよく知っています。それで悪魔は人に関わり、怒りを発生させます。そして、自分に向けられないよう姿を隠し、発生した怒りを、本人に向けたり、誰かに向けさせるのです。

 なぜか知らないけど、常に怒りが渦巻いていて、イライラしているなら、あなたに対して悪魔が背後で機会を捕らえている証拠です。その怒りを人に向けさせたり、自分自身に向けるように悪魔は怒りを操作します。もしも怒りがいつも心にあったら、霊的戦いに目覚めなければなりません。多くの場合、その人と言うより、怒りの根源は家系で行われた偶像礼拝から発せられています。

 本来、その怒りを悪魔にぶつけたら、悪魔は打ち砕かれますが、悪魔は人をいびっておき、その怒りを人に向けたり、本人に向けさせ、多くの人に被害を与えます。もしも常に怒りがあるという人は、怒りの本質がわかれば、あなたは戦いの勇士です。悪魔に立ち向かっていく勇士です。

 悪魔は人の性質をうまくねじ曲げて、人に向け、本人に向けて破壊活動をしています。怒りの根源に関わっている悪魔の力を見抜いて、悪魔に立ち向かっていかなければなりません。

 パウロがアテネに行ったとき、彼は怒りを感じました。それが使徒の働き十七章十六節にあります。

『さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。』

 十七章全体を読むと、この怒りはどこに対する怒りであったかがわかります。それは、アテネの人々に対する怒りではなく、偶像がいっぱいで心に怒りを感じています。それは偶像の背後に働いていた悪魔に対する怒りでした。
 もしも何かイライラするようなことがあったら、根源は偶像の背後に働いている、悪魔から発せられているのです。しかし、それに気付かなければ、結局、私たちは騙され、人に怒りが向かいます。しかし背後にある偶像の神々、悪魔・悪霊どもが影響していることがわかれば、私たちは、敵に怒りを向けることができます。怒りという領域に勝利したいものです。

『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』

 私たちは多くの罪がありましたが、イエスさまが十字架にかかられ、身代わりになって死んでくださったことによって罪が赦されたのだから、あなたは、人を赦してあげなさいとあります。
 何らかの怒りに結びつく要素があったら、その背後に働いている敵の力、機会を捕らえようとしている悪魔を見抜かなければ勝利はありません。

 日頃、ぺろっと嘘をついたり、ちょっとしたことで怒ってしまうような小さく見えるようなことが、実は、神の祝福を止める大岩となり、立ちはだかるのです。

 日本で福音が伝わらない背景に、本当の救いの岩をふさぐ岩神や巨石信仰が根底にあります。石が拝まれることによって、福音に覆いが掛けられています。ですから、偽りの岩の背後に働いている敵の力を打ち砕く祈りをしなければなりません。
 また偶像礼拝が怒りの性質をプッシュし、内側に怒りをわき上がらせます。本来、人は怒る動物ですが、その怒りを人ではなく、神の敵である悪魔・悪霊に向けられなければならないのです。そうすれば、悪魔に怒っても、人の間では愛し合うことができます。

『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。』

 霊的戦いは、一人では戦えません。キリストのからだが一致しないと戦うことができません。お互い、神から与えられた賜物が一つとなり、敵の力が打ち砕かれるためにも、私たちはキリストのからだを構成していかなければなりません。今週一週間、偽りを捨て、

『怒っても罪を犯してはいけません。日が暮れるまで憤っていてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

 このみ言葉を自分のものとして、歩んでいきましょう。そうすれば、障害物が取り除かれ、真理の道を歩むことができます。そして、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』

このみ言葉が私たちのただ中に実現すると信じます。
 怒りっぽい感情が常にある方がいたら、背後にいる敵にその怒りを向け、祈りましょう。また、もしも憎しみがあって、どうしても赦すことができない相手がいたら、「イエスさまが罪を赦してくださったように、私も誰々を赦します」と宣言しましょう。
 悪魔に対して怒り、打ち砕いて祈りましょう。人には平和を宣言する者でありたいと願います。

(祈り)
「イエスさま。あなただけが、私の救いの岩であることを宣言します。偽りの救いの岩を打ち砕きます。偶像礼拝によってもたらされた、偽りの救いの岩を打ち破ります。イエスさまだけが救いの岩であることを、高らかに宣言します。
 偽りの神々からもたらされる、偽りの力を断ち切ってください。私の人生から、偽りを取り去ってください。真実に生きることができますように。
 また、怒りから私を解放してください。私の心の根底にある、すべての怒りを完全に消し去ってください。怒りの発生源である、偽りの岩から発せられている力を完全に打ち砕きます。
 家系の偶像礼拝を通して発生した、怒りの源を断ち切ってください。気がついたとき、自然に怒りから解放されていますように。
 人生の中で私を傷付けた人々を、イエスさまが私を赦してくださったように、私も赦しを宣言します。
 悪魔よ、よく聞け。お前は私に、怒りというテーマを通して、関わることができないことを宣言する。
 今日から怒りではなく、心優しい者と変えて、神と人に仕えることができますように。私を変えてください。イエスさまのみ名の勝利を宣言して、お祈りします。アーメン。」


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