多くの実を結ぶ

2007.11.25(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘師

新約聖書 ヨハネの福音書15章1節〜8節
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

 ハレルヤ!主のみ名を心から賛美します。このように健康でここで集い、共に主を礼拝することができることを感謝します。早いものでこの年もあと一ヶ月となり、クリスマスが近づいています。いつもプレイズ出版の働きのためにもお祈りいただき感謝します。毎年この時期には、クリスマスの案内のチラシを一五〇万部ほど印刷し、全国各地の教会で用いられています。一枚一枚のチラシを通して、多くの方が教会に導かれるように、お祈りいただけたら感謝です。

 ハワイリバイバルミッションが終わって一ヶ月程が経ちます。集会の証しは、すでに先生方が話しておられますので、私は、大会前後のことについて証しをしたいと思います。

 私は、ハワイリバイバルミッションのために、本大会を含めて、五回、ハワイへ行きました。一回目は昨年十月、あの何十年振りかの地震があったときです。英語が全くできず、海外の料理も苦手な私が、一年の間に何度も海外に行くなどということは、考えられなことです。しかし、神さまが遣わしてくださって、奉仕ができたことを心から感謝します。

 リバイバルミッションが毎年、色々なところで行われていますが、終わったときに「この働きは成功だったか、失敗だったか」という評価が問われることがあります。どこをとって評価するかはとても難しいところです。ただ、私たちのリバイバルミッションは、本大会に何人集まったか、どれだけの人が救われたか、恵まれたかということだけではなく、準備集会である決起大会などを含めて、その全体がミッションの働きと考えています。ですから、決起大会やとりなし、セミナーなどをひっくるめたものが評価の対象になると思います。また、大会後、先生方がどのような感想を持たれたかは、私にとってとても興味深いことです。実際に、かかわってくださった先生方がどのような思いを持っておられるかが、一つの評価につながると思うからです。

 ハワイリバイバルミッションの計画当初には、先生方の中には否定的な考えの方もいらっしゃいました。今までいくつかの教会で協力して大きな集会をしてきたが、なかなかうまくいかず、こんな労力ばかりで実のない集会は続けてやりたくないという意見があったようです。そのような状態で、リバイバルミッションがどれだけの働きができるのだろうかというプレッシャーがありました。しかし、大会準備の段階でも、多くの方が喜んで奉仕をしてくださり、祈ってくださり、燃やされている姿を私自身も見てきました。そして、ミッション後、十一月初めに、フォローアップ集会のために、明先生、平岡先生、ロン・ブラウンさんが再びハワイを訪れました。その際、先生方との感謝の食事会も持たれたのですが、その中で、協力してくださった連盟の先生方自身が強められ、燃やされ、祝福されたこと、また、教会員一人ひとり、また教会に素晴らしい恵みが注がれたことを証ししておられたことを聞き、ある意味で、この大会は主の導きの中で、主の栄光を現せたのではないかと思っています。

 私の娘も三月からハワイへ遣わされ、奉仕させていただきました。何もできない者ですが、守られて働くことができました。特に、新城教会の皆さんにはたくさん祈っていただき、支えていただいたことを心から感謝します。今週火曜日に帰ってきます。皆さんに「嬉しいですよね」と言われますが、私は「順先生ほどではないですが…」と答えています。

 今回の娘のことだけでなく、リバイバルミッションの働きは、新城教会の方々の祈りとサポートなくして、ここまでくることはできなかったと思います。全国各地で行われるミッションのために、出かけていく先生、スタッフのためにいつもお祈りいただいていたからこそ、この働きが進められ、祝福されてきたと思っています。ですから、新城教会抜きにリバイバルミッションを語ることはできません。

 新城教会では、いつも日本のリバイバルを求めて祈ってきました。この教会が今祝福されているのは、一人ひとりが与えるクリスチャンとして、祈り、捧げてきたからだと確信しています。これからも、ぜひ引き続き祈っていただきたいと思います。

 ハワイミッションの準備の中で、私には幾つかの心配がありましたが、その第一番目は、印刷物をどうするかということでした。国内であれば、プレイズ出版で印刷したものを簡単に送ることができましたが、海外へ荷物を送るとなると、多大な費用がかかります。そこで、ハワイですべての印刷をしようと、印刷所に出向いて調査をしました。しかし、実際の印刷物を見ると、グレードもあまりよくないし、見積もりを出してもらったら、プレイズで刷るよりも断然高くて、輸送費をかけてもプレイズで印刷しした方が安くあがることがわかりました。ハワイの先生方にも、「先生。まさか、ハワイで印刷しないよね。絶対にやめておきなよ。プレイズのものを見たら見れないよ…」と言われ、プレイズ出版で印刷することに決めました。次から次へと印刷物の依頼があり、しかも急ぎの仕事で、プレイズのスタッフには無理を言ってやってもらいましたが、良い印刷物ができ、用いられて感謝でした。そして、発送のことも、ハワイへ行かれる方々に一箱ずつ持っていっていただき、運送費が大幅に削減され、助けられました。

 ただ、一度、とても困ることがありました。大会前日にハワイ入りする方達に、ガイドブックや本などを持っていってくれるようにお願いし、手配していました。しかし、突然、その方たちが乗る飛行機が、「飛ばない」という情報が入りました。十七日の夜十時くらいになって連絡を受け、「困った!」と思い、早速ハワイのJTBの支店長に連絡をとると、「絶対に載せてもらえるよう強く言わなくちゃだめですよ。飛行機会社は言った者勝ちだから…」と言われたので、連絡して荷物を他の便に乗せて、何としてでも十八日に着くようにしてほしいと、掛け合いました。初めは、他社の便に荷物だけを乗せることはできないと断られましたが、JTBのツアーで来る方達が来ることになっていたので、その方達が持っていく形にしてもらえないか、この荷物が届かないと仕事にならないからと頼み、載せてくれることになりました。しかし、人数よりも荷物の数が多かったので、人数分しか無理だと言われましたが、ねばりにねばって、最終的には交渉が成立し、予定通りすべての荷物が届けられ、ホッとしました。ツアーの方達には重い荷物を運ばせてしまって申し訳ありませんでしたが・・・。

 次には、天気でした。私は大会の一週間前からハワイで準備をしていましたが、毎日必ず雨が降りました。空は晴れているのに、突然雨が降るのです。大会は野外ですから、途中で雨が降ったらどうしようと思いました。そのために、私も真剣に祈っていましたが、皆さんも祈ってくださり、本大会中三日間、一滴の雨も降らず、主が祈りに応えてくださったことを目の当たりにしました。

 また、海外ということで、お金のことも気になることでしたが、多くの献金が与えられ(すべてが満たさたわけではありませんが)、経済的にも祝福されたことを感謝します。これからも、引き続きリバイバルミッションの働きのために、またプレイズ出版のためにもお祈りいただきたいと思います。

 今日は「多くの実を結ぶ」というタイトルでお話します。

 先週、順牧師が二〇〇七年に向けて牧師達に与えられたみ言葉をまとめたものを紹介していました。それを聞きながら、もう一度、自分自身に与えられた二〇〇七年に対するみ言葉を読み直してみました。それは、エペソ人への手紙一章十四節でした。

『聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。』

 この一年間、神の栄光を現したいと願って奉仕をさせていただきました。どれだけ神の栄光を現わすことができたのかはわかりませんが・・・。このみ言葉を見ると、今回私が与えられた「多くの実を結ぶ」ことと、同じことを神が言われていると教えられました。

 昨年の十二月三十一日に語ったメッセージを読み返すと、そこに母親との会話が書かれていました。母は、昨年の後半頃から、私が行くと、よく「早く天国に行きたい」と言いました。その度に、「今、生かされているということは、この地上での使命が残されているということだから…」と励ましていたことを思い出しました。それから数ヶ月後、今年の四月に母はこの地上の務めを終えて、天に帰っていきました。まだ一年も経っていませんが、私の中では随分前に天国に行ったという感じがあります。

 今、私たちが生かされているということは、神さまの使命がまだ残っていることだと思います。ですから、神が望んでおられる働きをして、神さまの栄光を現していけるように生きていきたいと願っています。

 ここに実を結ぶための条件がいくつか書かれています。その一つがヨハネ十五章四節にあります。

『わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。』

 どんなに美しい花でも、実のなる木であっても、幹から離れてしまったなら何日かしたら枯れてしまい、種や実をつけることはできません。私たちとイエスさまの関係は、ちょうどぶどうの木と枝だと書かれています。実を結ぶ第一の条件は、枝が幹にとどまっていることであり、同様に、私たちが幹である神さまにつながっていることだと言っています。つながっているからこそ生かされ、実を結ぶことができるのです。

 また、第一コリント十章十二節には、

『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』

とありますが、人間はとかく自分の力で生きていけると錯覚してしまうものだと思います。私は何か特別なことができるわけではありませんが、時々、できないと思っていたことができると、「俺ってすごいなあ」と思うときがあります。すぐに高ぶってしまったことを反省しますが、人間はすぐに自分の力を過信してしまいます。しかし、それができるのも、神さまにつながっているからこそなのです。枝は幹から十分な水分と栄養分を吸い上げて成長します。幹から離れては実をならすことはできないのと同様に、私たちは神さまから離れたら、本来神さまが望んでおられる姿で生きていくことができません。それは当たり前のことです。私たちが「キリストにとどまる」ということは、「キリストとつながっている」ということと同じ意味を持つのです。

 次に、ヨハネ十五章二節には、

『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』

とあります。かつてはたくさんの実を結んでいたのに、葉だけが生い茂ってしまっているような木があります。本来実るはずの果実ができなければ、目的を果たしているとは言えません。それは、私たちが多くの実を結びたいと願ったとしても、神から離れ、自分勝手な生活をして、実を結ぶことができない状態を意味しています。そんな木を、神さまが取り除き、実を結ぶために刈り込みをすると書かれています。

 我が家には夏みかんの木があります。私はほとんど手入れをしませんが、教会のある兄弟が毎年枝を切ってくださいます。ですから、毎年、たくさんの実を収穫できるのですが、もっと肥料をやったり、手入れをすれば、大きくて甘いみかんができるそうです。

 ぶどうは、良い大きな実をならせるためにはたいへんな手間がかかり、害虫駆除をし、芽を摘んだり、余分な葉を摘み取ったり、手入れをしないと、甘くて大きなぶどうにはならないそうです。

 クリスチャン生活も同じです。私たちはもともと罪ある者として生まれ、最後には永遠の滅びである地獄に行く者でしたが、イエスさまという素晴らしい甘い木に接ぎ木され、栄養をいただき、天国へいく者とされています。しかし、その成長段階において、さらに良い実をならすために刈り込みがなされます。自己中心や私たちにとって必要のない罪、汚れを、神さまは取り除こうとされるのです。そのときには、痛みを感じますが、その刈り込みが終わると、そこから新しい芽が出て、良い、大きな最高級の実を結ぶことができるのです。

 そのために、教会生活は重要な役割を担っています。教会生活をしなくても、イエスさまを信じていれば問題ない、大丈夫。教会に一、二回行かなくても、聖書を読んで祈っていればいいじゃあないかと思う人がいますが、そこには大きな落とし穴があります。先ほどもお話ししたように、人間はすぐに自分の力で生きていけるように思ってしまう者ですが、一人では何もすることができません。教会での兄弟姉妹との交わり、一週間の力となるメッセージをいただくことは、私たちの成長になくてはならない栄養なのです。教会にいのちがあり、教会にとどまることは、いのちにつながっていることであり、キリストの愛の中にとどまることです。

 私の家はここから二〜三分のところですが、この中には一時間、二時間かけて教会に来られる方がいらっしゃいます。犠牲を払って来られる方のことを思うとき、犠牲を払った分だけ恵みも大きいだろうと思います。 

 ここに子どもたちが大勢座っています。メッセージ中に、週報を折り紙にしたり、お絵描きをしたりしています。隣の人にちょっかいをださなければいいのですが、必ず子どもは隣の人を巻き込みます。私は彼らを見て、どうしてちゃんと話を聞けないのだろうかと思いますが、私の小さな頃も同じだっただろうと思います。

 私はクリスチャンホームに生まれ、この教会で育ちました。ここにいる子どもたち以上に、先生たちにご迷惑をかけたのではないかと思います。中学、高校の頃、三年間ほど毎日教会で寝泊まりしていました。自分の家、自分の部屋ももちろんありましたが、学校から一度家に戻り、次の日の用具を入れ替えて、「行ってきま〜す」と言って教会に来ていました。そして、滝元先生の息子たちとともに過ごしていました。何ヶ月も干していない自分専用のせんべい布団があり、においが染みついていて、他の人の布団とすぐに区別がつくほどでした。そこで、真剣に祈ったというわけではなく、ただふざけたり、ジュースを飲んで語り合ったりしていました。そんな他愛のない毎日でしたが、本当に楽しいときでした。それは私にとって、とても重要であり、現在の私の信仰生活の基盤となっていることを思って、感謝しています。教会に集うことで、兄姉姉妹と交わり、その中で段々ときよめられていき、良い実を結ぶ条件が知らないうちに整えられていきます。

 ハワイで礼拝メッセージをさせていただいたとき、「私たちは教会を愛し、従っていきましょう。教会は私たちが力を得るところです。ですからいつも私たちは教会に行かにゃあならないではなく、教会に行きたくて仕方がないというクリスチャンになりましょう」と話しました。次に私がハワイに行ったとき、娘が「お父さん、うちの教会で今流行になっていることがあるじゃんね。『教会に行かにゃあならんじゃあいけないよねっ』ってみんなが言っているよ」と言われました。私たちは、教会を愛し、喜んで教会につながる者となっていきたいと思います。

  第一コリント三章六節には、こう書かれています。

『私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。』

 信仰は、牧師が成長させるのでも、誰かが成長させるのではありません。皆さんが共に集まるときに神の臨在があり、神ご自身が一人ひとりを成長させてくださいます。

 人は成長すると、時として高ぶります。悪魔が高ぶって地に落とされたように、高ぶりには罠があります。私たちは、よく人と自分を比べます。人を見下したり、反対に、人の成功をうらやんだりします。同じ木になる一つの実が、他の実を見て、「何故あいつは大きいんだ。何故あいつは甘いんだ」と比べたりはしません。元が同じなのですから。同様に、私たちも比べる必要はありません。私たちは、イエスさまという一つの木につながっている同じ枝ですから、人が成功したときには共に喜び、また自分が成功したときには、分かち合うことができたらそれだけで十分だと思います。

 最近は、偽装、改ざん、汚職といった偽りが暴かれています。しかし、テレビに出てくるのは、ほんの氷山の一角であり、世の中の裏側を見ると、偽りだらけなのではないかと思います。それらを引き起こすものは、突き詰めていくと「金」につながります。世の中はすべて「金」です。儲けてなんぼ、人を蹴落としてでも儲けて、騙していてもわかならなかったら良いのです。そんな状況が今の世の中だと思います。人は、金を儲けること、地位や名誉を得ること、成績を上げること、それが成功だと思っています。しかし神さまの視点は違います。人の評価と神さまの評価は違うことを覚えてください。私たちは自分で考え、自分で行動し、自分の力で何とかしようと努力します。しかし、私たちが一生懸命やろうとすればするほど、うまくいかなくていらだったり、焦ったりして、疲れ切って、人にやつあたりしてしまったりします。皆さんも、そんな経験はないでしょうか。私たちが実を結ぶ、成長するためには、人の視点ではなく、神の視点に立たなければ疲れてしまうだけだと思います。

 また、私たちは、見えるところを重視し、見えないところをなおざりにするところがあります。例えば家を建てることを考えてみましょう。マイホームを建てるために一生懸命働くのは悪いことではありませんが、ローンを返すことだけに心を向けてしまうなら、家にいる時間が少なくなり、家族との関係が疎遠になり、夫婦に溝ができてしまいます。目に見えるりっぱな家はあったとしても、外から見ると幸せそうな家庭であっても、内側では不和が起こり、家庭内暴力や親子断絶があり、苦しんでいる人が大勢います。外側よりも、内側が大切なのです。

『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(第二コリント四章十八節)

 具体的に実を実らせることはどのような形で現されていくのでしょうか。

 ガラテヤ人への手紙五章二十二節に、「御霊の実」について書かれています。

『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』

 果たして、私たちは御霊の実をならせているのでしょうか。果実の甘さは外からではわかりません。しかし、よく手入れされた幹につながっているなら、おいしい実がなるように、私たちが幹にしっかりつながり、イエスさまにとどまっているならば、自分でははわからなくても、確かに御霊の実を結ばせてくださることを覚えてください。

 ヨハネ十五章にはいくつかの実を結んだ結果が書かれています。

 一つは、私たちが祈ったら神さまがそれに応えてくださるということです。

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』(七節)

 次に、互いに愛し合い、赦し合うということです。

『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。』(九節〜十節)

 イエスさまは、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくだるほどに私たちを愛し、私たちにその模範を示してくださいました。ですから、私たちはイエスさまにならって、愛を人々に与える者、互いに赦し合う者とさせていただくことができます。

 そして、十一節には、

『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。』

とあり、喜びが与えられます。

 皆さんが礼拝に来られるとき、私は玄関の前に立ち、大きな声で「おはようございます」と皆さんに挨拶をします。すると、「先生はいつも元気ですね。喜んでいますね」と言っていただけます。それだけでも証しになっているのではないかと思います。私たちが喜んでいるならば、ほかの人にも喜びを分け与えることができるのです。

 そしてもう一つは、証しができるようになります。

『わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。』(二十六節〜二十七節)

 私たちが「キリストを証しすること」、すなわち「伝道すること」は最高の実です。イエスさまが私たちに一番望んでおられることです。「私は口べただから」とおっしゃる方がいますが、ここに書かれているように、御霊が証しさせてくださるのです。

 植物を育てる上で、水はとても重要です。私たちが生きる上でも、水はなくてはならないものです。現代の日本では、蛇口をひねれば、いつでも水が出てきますから、水を毎日ためてためておくことをしません(地震や災害のために、準備しておられる方もいらっしゃると思いますが)。同じように、私たちは神さまの愛をいつでも自由に引き出すことができます。

 しかし、多くの方が明日のことを心配します。明日のことがわからないからです。将来のためにお金を貯めたり、保険をかけて何とか安心を得たいと考えます。しかし、いくら備えても、自分の力ではなかなか安心しきれないのではないでしょうか。

 また、自分が過去に犯した罪や失敗にさいなまれ、過去に縛られている人が大勢います。しかし、悔い改め、イエスさまにつながっているなら、すでにきよめられ、赦され、変えられています。ですから、もう罪に悩まされることはありません。過去に追い立てられることもありません。しかしサタンは、私たちを過去に引き戻し、「お前はこんなことをした」、「あんなことを言った」と攻撃をしかけます。

 占い師は過去のことをよく当てます。「あなたはこうでしたね」と言われると、「この人は何でも知っている。何でも私のことがわかるんだ」と思い、騙されます。その人から「こうしなさい、ああしなさい」と言われたなら、それに従ってしまいます。

 サタンは過去を持ち出し、人々を脅し、縛ります。しかし神さまは、過去を赦し、将来に対して最善な道を用意し、祝福を与えてくださるお方です。私たちがしっかりとイエスさまに結びついていくならば、サタンなど、恐れるに足らないものであることを覚えてください。

『あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。』(三節)

 以上、述べてきたように、イエスさまという木につながっているなら、イエスさまの愛をいつでも受けることができ、その恵みを十分に受け取るなら、確実に御霊の実が成長していくことを覚えていただきたいと思います。

 私たちは誰かに何かをあげたら、あげた分だけなくなっていきます。持っているものにも限りがあります。しかし、イエスさまの愛や恵みはなくなることはありません。お母さんが遠足の前日には、すべて用意してくれているように、神さまは私たちの必要をすべて知っておられ、用意されています。ですから、明日のための心配は必要ありません。

 私たちはイエスさまにつながり、教会につながっていくことにより、一人ひとりが喜びをもって主に仕え、証し人となり、豊かな実を結び、神さまに栄光をお返しする者となっていきたいと思います。

『あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』(八節)

 お祈りします。


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