機会をとらえて伝道しよう!

2007.12.2(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 コロサイ人への手紙 4章2節〜6節
目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日皆さんと共に、十二月最初の礼拝を守ることができ、心から感謝します。
 今朝は私のメッセージの前に、私の娘・里辺架と岡本泉姉に証をしていただきたいと思います。今年は、ハワイ・リバイバルミッションがあり、彼女らは、現地事務所に八ヶ月間程派遣され働きました。彼女たち二人の肩にハワイ・リバイバルミッションがのしかかりましたが、よく頑張ってくれました。先週でハワイの事務所を閉鎖し、引き上げて帰って来ました。私は娘が帰ってきて嬉しいです。しかし、岡本信弘先生は、もっと嬉しいと思います。

(岡本泉姉の証)
 順先生から二日程前に、証するように言われ、準備しなくても大丈夫かと思っていましたが、今日ここに来て里辺ちゃんに、「週報、見た?」と言われ、見たら週報に「証、滝元里辺架姉、岡本泉姉」と書かれていて驚きました。
 事務所が始まった頃は、どこから手を付けて良いかわかりませんでしたが、今思うと、始まった頃はただ一生懸命、与えられた仕事をこなすだけの毎日でした。何を忙しくしていたのだろうかと思うほどでした。大会のパンフレットやチラシもまだできておりませんでした。ウォリヤーズの登録や、プレイヤーウォリヤーズという名前を考えたりしました。色々な体験をさせていただき、光栄でした。
 私は岡本信弘の娘と言うこともあり、会計関係を任されてやっていました。セミナーやランチョンの会場を調査していました。ランチョンの会場も、ここはハワイかと思われるようなホテルに決まりそうになりましたが、一度断られたアラモアナ・ホテルにもう一度連絡してみると、後から空いていて、ランチョンを素晴らしい会場で行うことができました。神様がすべてを備えてくださったと感じました。
 忙しくなるにつれて、役割分担がはっきりと決まっていきました。私は実務的なことをし、里辺ちゃんは順先生の娘ということもあって、祈祷会のリードなどをやっていました。毎回祈祷会の最後に報告をしていましたが、私が最初に出て笑いをとってから、里辺ちゃんに渡すという役割ができ、また里辺ちゃんは少し泣かせなくてはいけないというような役割になりました。そのような役割分担で、一人一人に神様がすべてを備えてくださったことを感じました。最初は私たち二人でしたが、どんどん新しいスタッフも加えられ、与えられた賜物が現されて嬉しく思いました。最後の方も忙しかったですが、すべてが自然に動いていきました。特に最後の一週間は忙しかったですが、一つ一つの動きの速さを見るのが楽しく、忙しさが楽しかったでした。それも父譲りだと思いましたが…。

 大会中は必死で、大会後も、終わったという感じがしませんでした。しかし大会後に車の中で五分程誰っているときに、ボーッとしている自分に気付きました。いつもは車で待っていることはあっても、誰かに電話をしなくてはいけないとか、あのことは大丈夫だろうか・・・と、里辺ちゃんに確認をしたりなど、ボーッとしていることがなかったことに気づき、大会が終わったのだと初めて実感しました。大会中は座って見ることもできなかったので、終わったという感じがしなかったのかも知れません。しかし、後から多くの方々から証を聞き、ハワイの教会の人たちも、「これは終わりではなく、始まりだと感じた」と言ってくださり、大会後、救われた人の証や癒しの証を聞き、これからハワイのリバイバルのために立ち上がって頑張ろうとしている姿を見て、新しい始まりを感じさせられました。

 ハワイの牧師先生が言われていましたが、前回ハワイだけで大会をしたそうですが、その時には、「終わった」という気持ちだけで何もすることができなかったと言われていましたが、今回は、日本からたくさんの人たちがサポートしてくださり、ハワイの教会の先生方も力が余っているので、喜んでおられました。ハワイの教会もリバイブされて良かったと思いました。ハワイ・リバイバルミッションを行って、たいへん良かったと思いました。ありがとうございました。

(里辺架姉の証)
 ハレルヤ!四ヶ月振りになりますが、この場所に立たせていただけることを感謝します。あの時は、「ホームは最高だ!」と思いましたが、今日は、ハワイで話すより、ホームで話す方が緊張します。
 最初に送り出されるときの心境を、「狼の中に送られる羊」と言いましたが、本当にそういう心境でした。実行委員会の先生たちが私たちを送り出すときに、「お前たちは餌だから、とりあえず、日本から投げられる竿につかまってふわふわ浮いていれば、みんな食いついてくるから…」と言われました。「お前たちの仕事は、まずは同情を買うことだ」と言われて送り出されました。
 私たちが現地に行って思ったことは、「餌としては最高かも知れない」と思うくらいでした。しかし、能力的には最低で才能もなければ、知恵もなく、何から手をつけたら良いのかわかりませんでした。ホノルル空港に先生方を迎えに行くときに、どこが入口かわからなくて一時間ずっと迷っていたくらい、はじめは何もわからない状態でした。

 私たちがハワイに送り出された理由は、運転ができる、少し英語ができるというだけでした。初めはすごく苦しかったです。特に、ハワイの先生方は霊的戦いについてあまり理解がなく、私はこともあろうに、滝元順の娘なので白い目で見られているような気がしました。しかし、がむしゃらにとりあえず、手当たり次第やっていました。
 そんな中で、神様がすごいタイミングで事を行ってくださいました。倒れそうになると、何か力が与えられるような事柄が起こり、励まされながらハワイで奉仕ができ、心から感謝しています。

 先日ハワイにある、「ニュー・ホープ」という教会の日本語部で出されているニュースレターに私の証が載りました。それが二日程前に、eメールで送られてきたので、読みたいと思います。

 『どうしたら良いだろう。八ヶ月前、ハワイの地を踏んだときの心境です。期待に胸を膨らませ、晴れやかに出口を抜けていく観光客を横目に見ながら、私たちの心はどうしたらいいのだろう・・・。ひたすらこの思いに支配されていました。毎日、口からこぼれる言葉は、「どうしたら良いのだろう」その時の心境は、あたかも狼の中に送り出された小羊のようでした。大仕事を一手に任され、戸惑い、不安に震える日々の中、泉と二人でどうしたら良いのかわからないからこそ、とにかく祈りました。毎晩、唯一開いているように思えた、天に向かって叫びました。
 「神様。助けてください。まだこれも、これも、これも決まっていません。どうしたら良いでしょうか。」と、ドアを力一杯ノックするような祈りをしました。
 そんな中、祈ると不思議なように扉があらわれ、それが開いていくのを見ました。それも一回、二回ではありません。行き詰まる度、必ずギリギリセーフで、物事が最善になっていく姿は、正に、神の成されるミラクル意外何ものでもありませんでした。
 行き詰まり、何度も、「どうして私たちなんですか。もっと知恵もあってこの仕事にたけた人たちがどれだけでも周りにいるのに…」とつぶやいた時、神様は、「これはあなたの戦いではない。わたしの戦いだ。しっかり立って動かずにいよ」と言葉をかけて下さいました。
 この言葉を聞いたとき、はっとしました。どこか自分の戦いのように、舞い上がっていたことを恥ずかしく思いました。この言葉をつかんだ瞬間、鎧に身を固めた戦士のようになった気がしました。そしてその時以来、この戦いに参戦させていただいていることを、心から光栄に思えるようになりました。
 しかし、鎧に身を固めたということは、戦いの前線に出ていると言うことです。振り返ると確かにこの八ヶ月間の戦いは、想像を絶するすさまじさでした。流した涙の数は数えきれません。でも、もう一度、同じ戦いに参戦したいかと尋ねられたら、迷いなく「はい」と答えます。
 ある方が断言されました。「ハワイはアメリカで最初のクリスチャンの州になる」と。私にとってもはや、ハワイのリバイバルは人事ではありません。これからもハワイのために祈ります。この戦いに一戦士として参戦させていただいたことを、心から光栄に思うと同時に、これから神様がハワイにしてくださる大きなミラクルに、心から期待しています。すべての栄光を主にお返しします。』

 このように感想を書きましたが、私たちがしていることすべてが精一杯で、すべてがぎりぎりセーフでしたが、扉を思い切りノックするような祈りをすると、新しい扉があらわれてそれが開いていく感じで、素晴らしいものが祈りから生まれ、祈りの力強さを感じました。この八ヶ月間で学んだことは大きかったです。初めは逃げていたり、辛抱するだけで精一杯だった小羊でしたが、八ヶ月半が終わって、神様によって鍛えられ、戦士の一員となり、この働きができたことを心から感謝しました。いつもお祈りありがとうございました。
(ここまでが証)

 

 皆さんのお祈りに支えられて、二人とも元気に帰ることができたことを感謝します。主が今年の初めに、「今年は新しい世代が立ち上がる」と語られましたが、そのように成されたのを見るときに、嬉しく思います。主が与えてくださる機会をとらえて、それをいかしていきたいと願います。

 今日はコロサイ二章四節から六節を学びます。この箇所を読むと、パウロは、「機会を十分に生かして用いなさい」とともに、「たゆみなく祈りなさい」と語っています。「祈ってください」と願い、また命令までしています。
 神の働きは、「機会をとらえて、それを生かす働き」だと思います。人生の中にチャンスはそう来ないかと思いますが、神がくださるチャンスを、祈りによってつかみ取らなければなりません。

 十二月に入って、ある意味、教会は大きなチャンスを迎えています。それは国民の多くがクリスマスを通し、イエスさまに心を向けるからです。このような機会を、私たちはつかみ、たゆみなく祈り、福音を伝えなければなりません。この季節、主が与えて下さった機会を十分に生かしたいと思います。
 日本人は年間三度ほど宗教が変わると言われます。十二月は皆がクリスチャンのような雰囲気で、現在、クリスマス商戦真っ直中です。日本人はあまり自分の宗教を重要に考えていないようです。なぜならば、盆になれば仏教徒、クリスマスになればキリスト教、また二十六日からは神道になります。
 ある人が教会に来て、「家は仏教ですがちゃんとクリスマス会をやる」と言っていました。「どんな感じでやるの?」と聞くと、「ケーキを仏壇に供え、それをおろして皆で食べる」と言いました。全くわけのわからないことをしていると思いました。何れにしても、クリスマスは、日本の国民的なお祝いになっています。こんな機会こそ、私たちは十分に生かさなければなりません。

 ここでパウロは、『目を覚まして、感謝をもってたゆみなく祈りなさい。』という言葉から始めています。私たちの祈りはたゆみのない祈りです。聖書は「常に祈りなさい」と教えています。私たちの生活がうまくいく秘訣は、たゆみない祈り、常に祈る、絶えず祈るということからだと思います。「時間もないのにどうやって祈ったら良いのですか」と言うかも知れません。それは、「常に祈り心で歩む」ことだと思います。
 今日の証の中でも、ハワイ・リバイバルミッションは、祈りによって成功したと語られましたが、祈りによって新しい扉が開きます。神様は私たちが祈る前からすべてのことをご存知です。しかし、人からの祈りによって事を行うという、霊的法則を創られました。ですから、私たちはこの法則を使わなければなりません。そのためには、常に祈ることが重要です。

『同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。』

 神がみ言葉を語る扉を開いて下さるように祈りなさいと教えています。伝道するためには祈りが必要です。祈りによって門が開かれるのです。
 では、なぜ私たちは福音を伝えなければならないのでしょうか。聖書の中一番有名な言葉は、ヨハネ三章十六節から十八節のみ言葉です。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』

 クリスマスにイエスさまがこの地上に来て下さったのは、世が救われるため、人々が救われるためです。『ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』と記されています。
 初めの人類アダムとエバが罪を犯したことによって、全人類が悪魔の手に渡ってしまいました。生まれながらの人間は、既にさばかれているのです。そのまま歩んでいると、罪にまみれ、永遠の滅びに向かっていきます。イエスさまと出会わなければ、人生は滅びに向かっているのです。

 人生はこの地上だけのものではありません。人間の魂は永遠性を持っています。やがて私たちは神の前に立つ、厳粛な日を迎えることを知らなければなりません。誰でも死ぬことを考えると怖いです。いつ死が訪れるかわからないような日々を歩んでいます。なぜ死が怖いのかというと、死後の世界があるからです。人間は、一度だけ死ぬことと、死後、神の前でさばきを受けることが決まっている、と聖書にあります。
 私も今年、五十六才になりましたが、残された人生の方が少なくなりましたので、死んだらどうなるのだろうかとふと考える時があります。
 死んだ瞬間はどんな感じだろうか。この世界から出て行く瞬間があります。どんな感じなのでしょうか。それは、海外旅行をするような感じではないかと思います。海外旅行の時、必ず出国係官の前に出ます。また、よその国に入るときには、必ず入国審査係官の前に出て、書類に間違いがないかをチェックされます。もしも少しでも不備があれば、その国に入ることはできません。国には入国の基準があり、その基準に合わなかったら、すべて破棄されます。

 私はハワイに何回も行きました。行く前にいつも娘が、「お父さん、何か持ってきてくれ」とリクエストがありました。食品を持ってきて欲しいと言われました。何が欲しいのかと聞くと、「カレーが食べたい」と言うので、たくさんのレトルトカレーを持って、ハワイに行きました。
 ハワイの入国審査の所で、「食品を持っているか」と聞かれました。「持ってるよ。娘がこっちに住んでいて、カレーが食べたいと言うから、カレーをいっぱい持ってきた。」と言いました。私はただ世間話のように言いました。すると、それを全部出せ、と言うのです。そして、「ここには牛肉が入っているな。牛肉が入っているものは、この国に持ち込むことはできない。」と言われました。
 「何でですか?」と聞くと、「いや、そういう規定だから…」と言うのです。「娘が食べたいと言っているのだから、まけてよ!」と言うと、「駄目ですよ。」と全部没収されました。私は、「きっと、あんたの昼食になるんでしょ。」とちょっと嫌みを言いましたが、全部没収されました。
 まだラーメンがありました。すると、ラーメンを見て、その成分に「鶏ガラ」と書いてありました。向こうの人は漢字がろくに読めないくせに、「鶏ガラ」だけは読めるのです。そして、「鶏ガラ」は駄目だというのです。なぜかと聞いてみると、鳥インフルエンザが入るといけないからと言って、鳥関係のものは全部取られてしまいました。
 「娘が楽しみにしているのです。あんた、私の娘の幸せを奪うのか」と言いましたが、「ごめんなさい。これは決まりだから、どうしようもない」と言って、全部没収されました。

 一つの国に入るだけでも、あれほど厳しいのなら、やがて神の国に入るためには、妥協はありません。一点でもくもりがあったら、罪があったら、天国に入ることはできないというのが聖書の教えです。「何とかして下さい」と言っても、何ともなりません。この地上で、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる意外に手はないのです。イエスさまを信じている人は、イエス・キリストによってすべての罪が赦され、滅びないで永遠のいのちの法則の中にあるので、天国にはいることができます。
 しかし、この地上でイエス・キリストを信じていないのなら、生まれながらの人間は、そのみ名を信じないゆえに、既にさばかれていて、永遠の滅びに行かなければなりません。その時こそ、残念な時はないと思います。「あなたは地上で教会に行かなかったのですか。」
「私は教会に行くことはなかったのですよ。」
「行ったけど、イエス様を信じることができなかったんです」
「残念だね。どうしようもないですよ。」
ということで、永遠の滅びに向かわなければならない日が来ます。

 御子を信じる者は永遠のいのちを持ち、信じない者は既にさばかれており、永遠の滅びに向かっています。それゆえに、主を信じた者は、何が何でも機会をとらえて、福音を伝えなければならないのです。その使命があると聖書は教えています。
 イエスさまの弟子についてマルコの三章十三節から十五節に書かれています。

『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』

 イエスさまの弟子とは、福音を宣べ伝えると同時に、悪霊を追い出す権威を持った者だと教えています。イエス・キリストを信じた者は皆、イエスさまの弟子です。今日、既にイエスさまを信じた方々は、イエスさまの弟子であると聖書は語っています。
 弟子たちには、福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威が与えられたとありますので、福音を宣べ伝え、悪魔に立ち向かっていかなければなりません。

 クリスマスの時期、私たちはイエスさまの弟子としての使命を果たしていきたいです。
 来週の九日の日曜日は、ロン・ブラウンさんをお迎えしてのコンサートがあります。なかなか教会に来にくい人でも、教会に来やすい機会だと思います。ですから、私たちはひとりでも多くの方にお伝えし、このコンサートにお招きしたいと思います。
 また、今年もたくさんのクリスマス集会があります。これはチャンスなので、チャンスを生かしてイエスさまの弟子として使命を果たしていく必要があります。

 なぜならば、人々が滅びないために、救われるために機会を提供するのです。

 今子どもたちも真剣になって福音を伝える準備をしています。十二月十五日は、子どもクリスマス会があります。子どもクリスマス会のために、今日読んだみ言葉を子どもたちが実行しています。たゆみなく祈ると共に、機会を十分に生かすことをしています。これは素晴らしいことです。
 今子どもたちは独自の祈祷プログラムを持っています。それは「ウルトラマン祈祷」です。三分間祈ったら一マス塗るという、祈祷プログラムです。ウルトラマンの格好をしたマスが塗られています。楽しみながらやっています。祈りによって扉が開くのが、聖書の原則です。

 人間は残念なことに、色々、苦しみや悲しみがないと祈りに向かっていかない性格があります。苦しみや悲しみがなくても、たえず祈っているならば、無駄な試練から守られます。

 私は牧師の息子として生まれて、嫌いなものが幾つかありました。その一つは伝道でした。伝道なんて絶対にできないと思っていました。小さな頃から教会に来ていたので、イエスさまが救い主だとはわかっていました。しかしイエスさまのことを誰かに伝えることは一番不得意でした。私は口べただし、うまく人を説得することはできないと思っていました。
 そしてもう一つ嫌いなものがありました。それは祈りでした。祈らずして、うまくいく方法を教えて欲しいと思っていました。しかし原則は崩せません。聖書は神の原則ですので、崩せません。祈りによって神のみ手は動きます。
 私が祈りに目覚めたのは、今から二十年程前の事でした。それは家内が病気になったことでした。家内は朝起きれなくなり、みるみる痩せていきました。このまま死んでしまうかも知れないという恐怖がありました。そのとき、祈りしかないと主が教えてくださいました。私はそれまで長く祈ったことがありませんでしたが、韓国でリバイバルがあり、リバイバルの秘訣は祈りだと聞かされ、自分でも祈ってみることにしました。
 ある夜、私は決心し、愛知県民の森に、夜中に入って家内のいやしのために祈ろうと思いました。ポットの中に熱いお茶を入れ、おにぎりを二つ持って行きました。一月の寒い時でした。そして県民の森の山に登りました。「神様、助けて下さい。私は今行き詰まっています。家内が病気でどうにもなりません。」と祈りました。
 そのころ、教会にもたくさんの問題がありました。悪いときには悪いことが重なると言いますが、悪いことがたくさん重なり、私の心はしなえていました。それまで色々な事件が人生に起こるのはやむを得ない、防げないと思っていました。運命として受け取らなければならないと思っていました。

 突然、交通事故や病気などが色々起こります。これは様々な事象が組み合わさり、統計確率的に起こり得るので、起こるのはやむを得ず防げない、起こった時にはそれに対処しするための力を神からもらうしかない、と考えていました。それが人生だと思っていました。

 しかし家内が病気になった当時のことを考えてみると、時を選んだかのように集中して色々な問題が起こりました。その経験を通して、様々な問題はただ偶然起こるのではなく、何か霊的な力が関わっているのかも知れない、と少しずつ思い始めました。
 私は教会の息子として生まれ、父親はいかにして神に近づくのか、ということについて教えてくれました。教会に来て聞くことは、「どうやったら神に近づくことができるのか、神を知ることができるのか」でした。それは大変重要です。私たちがイエスさまを知れば、知るほど人生が開けていきますので、主を知ることは非常に大切なことです。

 しかし聖書は、神を知ることとは、同時に悪魔に立ち向かうことであると教えています。けれども、長い間聞いて来たことは、神に近づくことだけでした。だから、すべての事柄は神から来て神に戻ると考えていました。敵の力が関わっているとは、夢にも思いませんでした。
 しかしその時、ちょっぴり、もしかしたら悪魔の力が働いているのかも知れない・・、とふっと思いました。
 一月の寒いときに、愛知県民の森の岩上で叫んで祈りました。「もしもこの問題の背後に、悪魔が関わっているならば、悪魔よ出て行け!」と夜中の二時頃、叫んでみました。

 その時私は、今までの人生の中で忘れることができない、恐ろしい体験をしました。私が「悪魔よ、出て行け!」と叫んだときに、目の前に真っ赤な顔をした天狗が出てきました。心の目で見たのか、この目で見たのかわかりませんが、目の前に天狗が現れたのを見て、頭のてっぺんから足の先まで、血の気が引くような、その後、どうやってここまで戻ってきたのか覚えていないくらいです。本当にびっくりして、逃げ帰ってきました。

 しかしそんな体験から、もしかしたら人生には、色々な出来事が起こるけれど、ただ単に偶然の連続によって起こるのではない、敵に立ち向かっていかなければならないということについて、主は教えてくださいました。

 私は県民の森で天狗と出会い、しっぽを巻いて逃げて帰ってきました。私は負けたと思いました。それで帰ってきてから、教会のスタッフたちに、「昨日一人で夜県民の森に行ったら天狗が出た」と話しました。
 すると今日司会をした信弘先生をはじめとする教会のスタッフたちがこう言いました。「夜中に一人で山に登れば、誰だって怖いものだ。だからそういう気がしただけだ」
 しかし、私はそうではないと思いました。負けてはいけないと思いました。これは絶対に、もう一度立ち向かわなければならない、と思いました。

 それで次の週、周りのスタッフたちを集めてもう一度祈りに行きました。すると二回目は天狗が出るどころか、とても恵まれました。「何が天狗だ!恵まれるではないか」ということで、その日から月曜の夜、愛知県民の森で祈祷会をするようになりました。
 それ以来、二十数年に渡り、祈祷会が開かれています。先週も行きました。立ち向かって祈るようになってから、家内も良くなりました。三十数キロの体重が、どんどん増えて健康になりました。
 私たちが福音を伝えるときに、いくら福音を語っても人々が福音を信じない、受け入れないことについて、イエスさまは次のように言われました。マルコ三章二十七節、

『確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。』

 「救われる」とは、一度悪魔に渡ってしまった魂のところに攻め込んで、もう一度奪い返すことだと言いました。その前に、強い人を縛り上げないと捕らわれている人たちを解放できないというのです。
 時々、テロリストたちによって人質になり、捕らわれている人を救出する場面をテレビでやっています。その時にはどうするのでしょうか。まずは、捕らわれている人たちを縛っている、敵をやっつけなければ捕らわれ人は解放されません。同様に、私たちが福音を宣べ伝えるときに、「強い人を縛り上げなければならない」と言われました。
 またパウロは第二コリント四章一節から四節に、

『こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

とあります。素晴らしい永遠のいのちについて伝えても、人々が耳を傾けないとしたら、私たちの言い方が悪いとか、推薦の仕方が悪いのではなく、

『そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

とあります。「覆いがかけられている」というのです。まずは覆いを取り除かれなければ、光は輝かないのです。「機会をとらえて伝えなさい」という前に、「祈りなさい」と勧めがあるのは、どのような祈りが必要なのでしょうか。それは、「強い者を縛り上げ、覆いが取り除かれるように祈る」のです。

 覆いと言っても、目に見えるものではないので、具体的にどうやってとったらいいのかわからないかも知れません。
 一般的に、「教会に来てください」と言っても、なかなか人々の心は頑固で、その言葉に耳を傾けません。
 「キリスト教。そんなものに私は興味ないね」と言って、多くの人が拒否します。それは日本の土壌にキリスト教がうまく根付いていないのではなく、「覆いがかけられている」のです。固い心を持っているというのは、覆いが掛けられている証拠です。
 しかし聖書は、そんな固い心を、神が柔らかくしてくださると教えています。エゼキエル書十一章十九節に、

『わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。』

とあります。多くのイエスさまを知らない人たちが、固い石の心を持っています。しかし神の霊が働く時、覆いが取り除かれるとき、岩のような心が取り去られ、肉の心が与えられると教えています。

 人間は何らかの優先順位を持って生活しています。現在、あなたの心を一番支配している優先順位の高いものは何でしょうか。ある人は仕事、ある人は家族、ある人は勉強、ある人はお金が最優先かも知れません。
 しかし聖書は、一番優先順位を高く置かなければならないのは、私たちを創ってくださった神、「イエスさま」を筆頭に置かなければならないと教えています。そうしたら幸せになると教えています。
 神の国とその義とを求めなさい。そうすればすべてのがうまくいく、と聖書は教えています。教会に来ていることは、人生の中の優先順位をイエスさまに置くことです。これが第一にならないと、他のことは何をしても崩れてしまいます。

 昔は雨戸がどこの家にもありました。夜寝るときには、必ず雨戸を閉めて寝ました。そして朝起きたら、雨戸を開けるのが子どもたちの仕事でした。昔の家は大きくて縁側に大きな雨戸がありました。子どもたちが雨戸を元に戻すように言われ、面倒くさいと言って一本目をうまく納めないと二、三本は入りますが、四本目くらいからうまく入りません。一本目を綺麗に入れないからこうなるのだと怒られて、もう一度一本目からきちっと入れ直すとうまく収まったという経験があると思います。

 人生も同じです。何を優先するかによって決まってきます。一般的には仕事、家庭、お金となりやすいのですが、そうすると雨戸が傾いて入っているようです。最初にイエス・キリストをきちっと置き、次のものを続けるならばうまく行きます。一般ではなかなか気づかないものですが、最も重要なことです。教会に来るとそれがわかります。イエス・キリストを第一の優先順位にしてやっていくならば、うまくいくとわかるようになります。そうしたら人生が変わってきます。

 しかし悪魔は、その優先順位に対して戦いを挑んできます。その優先順位を他のものにすり替えます。そうすると、心が段々固くなり、本当の神が見えなくなってしまいます。
 一般人が一番関心を持っているものは、一言で言うと「お金」です。最近も防衛省の天皇と言われる人物が、たくさん賄賂をもらって大きな問題になっています。彼もお金が一番の関心事でした。国のことよりも、お金が関心事になっていました。
 またある女性は、宝石を身につけることを優先し、それを手に入れるために真剣に働く人もいます。また子どもたちは、この頃はゲームが人生の中心になっていたり、コンピューターが中心になっています。とりあえずは面白いかも知れませんが、それらを優先順位にすると人生はうまくいかなくなります。イエスさまを最高優先順位に置かなければなりません。

 しかし、お金や宝石、コンピューター、ゲームなど、日本人が中心としているものについて考えてみると、それらは「石」に行き着きます。お金は「金(きん)」と書きます。お金は金本位制が基本です。昔は一万円札が発行される場合、国が一万円分の金を保有しているというシステムがありました。金は石から出てきます。神どころか、人々は石を頼りにしています。自分の救いが岩石にあると信じていることになります。
 またダイヤモンドもどうでしょう。それらは石の中に入っています。またコンピューターやゲームも元々は石です。あれらはシリコン(ケイ素)と言って、岩石の中からとれる物質を中心にコンピューターは作られます。人間が恩恵を受けているほとんどが、石からできています。金属類も鉄鉱石から出てきます。

 そして日本人は何を拝んでいるのでしょうか。それは「石」です。石で作られた神々を一生懸命拝んでいます。それが人生の中で価値あるものとして、最優先順位となっています。
 そのような事が行われると、本当の救いの岩であるイエスさまが見えなくなるばかりか、心は石のように固くなり、福音に全く耳を傾けない状況になるはずです。

 今年主がこの教会に語ってくださっていることは、「石を媒体に救いの岩への道を塞いでいる覆いを取りなさい」ということです。それはハワイ・リバイバルミッションを通して、主が教えてくださいました。
 日本の人々が目の前にある大岩を、あたかも救いの岩であるかのように信じています。またお金が、自分の救いの岩であるのかのように頼りにしていますが、それも石です。

 何と、その結果として、人々の心は固くなり、福音に覆いが掛けられています。それらの覆いが取り除かれるように祈りなさい、と語ってくださっています。ぜひ皆さん、この祈りに参加して下さい。日本の人々の岩のような心が変えられ、肉のような柔らかい心になり、福音を受け入れることができるように、機会をとらえて祈り、福音を伝えましょう。

 クリスマスもイエスさまの誕生日であるのにも関わらず、多くの人々は、サンタクロースやプレゼントの誕生日くらいにしか思っていません。イエスさまが最優先になっていません。これでは覆いが掛けられ、心が頑なになってしまいます。それが打ち破られるためには祈りが必要です。
 今日の午後は九日のコンサートのためのチラシ配布に行きます。それはただチラシ配布をするのではなく、地域のために祈ります。人々の心が固くなっていますが、柔らかくなり、イエスさまに関心を持つように、町の人たちの覆いがとられるようにと祈りながらチラシ配布をします。終わってからは、河川敷で賛美集会をして、おでんを食べます。
 エゼキエル書十一章十九節に、

『わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。』

 岩のような心が砕かれて、温かい肉のような心に変えられるためには、「新しい霊」が必要だと教えています。これは聖霊の力です。人間は聖霊の力を体験しなければ、心はいつも頑なです。しかし、聖霊が働かれると、心が解けていきます。
 使徒二章一節から四節に、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

 先週、愛知県民の森に祈りに行きました。先週の月曜日の祈祷会では、すごいことがありました。今はとても寒いです。夜八時に教会を出て、九時に現地に到着し、十一時頃まで祈ってから帰ってきます。皆、寒いので着込んでいきます。先週は二十人近くの兄姉姉妹が来て共に祈りました。ぜひ、またお時間がありましたら、お出掛けください。しかし来ることができなくても心配しないで下さい。私たちはいつもこのように祈っています。
 「今日の祈りは、新城教会を代表する祈りです。今日受ける祝福は、ここに来ることができない兄姉姉妹にも与えられる祝福です。」と宣言して始めています。だから私たちが祈っている祈りは、温かい布団の中でいびきをかいている人、お風呂の中にいる人、テレビを見ている人、楽しんでいる人など、いろいろだと思いますが、教会に関係するすべての方々を含む、代表した祈りとなるように祈ってから始めています。霊においては、新城教会の兄弟姉妹全員が、県民の森祈祷会に参加していると理解してくださって結構です。

 先週の月曜日には、特に、「人々の石のように固い心が砕かれ、柔らかい心が与えられて、クリスマスの時期に福音を伝えることができるように。」と祈りました。人々が頼りだと思っている、コンピューターやお金や宝石など、石で作られた神々に目を向けているがゆえに、心が頑なになっています。
 悪魔は神の法則をよく知っており、聖書のストーリーをねじ曲げて働きます。イエスさまは死んだだけでなく、よみがえられました。しかし、日本神話は、岩の中に天照が隠れていて、それを引き出すような聖書のよみがえりストーリーにも似た、偽りのストーリーを語り、偶像礼拝に置き換え、よみがえりの力を止めようと働いています。その背後にある悪魔の力を打ち破る祈りに導かれました。

 私が祈っていると、フワっと熱い風を感じました。皆が感じているのかと思い、聞いてみました。すると首をかしげていました。それで、みんなで祈りました。「今日は寒いですが、私たちにしるしとして、熱風が吹いてくるよう」と祈りました。
 その途端、本当に熱い風が吹き始めました。それを全員が感じました。冷たい風の中に熱い風が混ざって吹いていました。それがなんと、三十分以上続きました。
 先週祈祷会に行かれた方々に聞いてみて下さい。後ろの山が火事ではないかと思うほどに暖かい風でした。

 その時にふっと感じました。翌日、娘と泉ちゃんが帰って来るという前夜に、主は新しい扉が開かれたと思いました。人々の石のような氷のような心を溶かして、今度は柔らかい心を与えると主から励ましを受けたように思いました。
 このクリスマスは、聖霊の熱い風が吹いています。だからこの機会をとらえて、ぜひ多くの人々を誘ってください。福音を伝えてください、と主が励まして下さっていると感じました。

 今朝、皆さんにも風が吹いています。ぜひ期待して下さい。県民の森祈祷会にもぜひ来て下さい。体験をするためではないですが、体験があってもなくても、イエスさまは超自然的な働きをなさっています。
 何か苦しみの中にある方がいても、心配しないでください。イエスさまは、氷のような冷たい問題にも熱い風を送って、溶かすことができます。イエスさまのよみがえりを宣言します。お祈りします。

(告白の祈り)
「イエスさま。あなただけが私の最も大切なお方です。一番のお方がイエスさまです。救いの岩はイエスさま以外にありません。かつて岩を拝んだり、お金に救いを求めたりした罪を赦して下さい。イエスさまが、私の人生の中心であることを宣言します。アーメン」


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