ひとりの男の子が生まれた

2007.12.9(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 ルカの福音書2章8節〜12節
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日はアルフィさんのすばらしい賛美と、ロン・ブラウンさんの演奏を聴くことができ、感謝します。今晩は、大勢の方々が集まるようです。先週、多くの方々が教会に連絡を下さいました。今晩のコンサートを楽しみにしています。また、このように共に礼拝を持つことができることを嬉しく思います。
 一年は早いもので、あっという間に十二月が来てしまいました。十二月は師走と言って忙しい時期ですが、ビジネスマンの方々は特に忙しいと思います。しかし、ボーナスの季節でもあり、楽しみにしているかも知れません。けれども、
 「ボーナス日、裏を返せば返済日」
という川柳がありました。お金がどんどん出ていく季節という感じもあります。

 しかし十二月一番のフェスティバルは、「クリスマス」です。イエスさまは世界中の人々に誕生日を祝われています。
 日本は季節によって宗教が変わるようで、宗教観が定まっていません。十二月二十五日までは全国がクリスチャンぽくなります。この機会に、私たちは福音を伝えなければなりません。クリスマス川柳にこんなのがありました。

 「仏壇の 横で輝く ツリーかな」
 「おばあちゃん ツリーに短冊 やめてくれ」
 「クリスマス 次の恐怖は お年玉」

 クリスマスが終わったら、続いて神道のフェスティバルのような正月が来ます。日本人は何度も年間に宗教が変わるようですが、それは本当の神がわかっていない証拠です。
 私たちは本当の神様を紹介しなければなりません。今日アルフィさんがイエスさまを紹介したように、すべての人にイエスさまを体験していただきたいと願います。
 イエスさまは今から二千年以上前、この地上にお生まれになられました。イスラエルの片田舎に生まれた一人の男子、「この子は誰?」と歌われていましたが、その方が私たちの救い主であったのです。

 イエスさまは貧しい家庭に生まれました。マリヤとヨセフという両親の元で育てられました。しかしその生まれは、決して、彼らの間から生まれた出た子どもではなく、神の子としてこの地上に来られた方です。

 先週、私の所に、ほとんど連絡のない息子からメールが入りました。何かと見たら、「祝!女の子」というタイトルのメールでした。それには写メールが付いており、何だかわからない、エイリアンのような物体が写っていました。何だろうかと見ると、息子夫妻に四月頃子どもが生まれる予定ですが、それが女の子であると判明したようです。
 最近は、お母さんのお腹の中まで見えてしまう時代で、良し悪しです。何だか、生まれる前の人間になりかけのような時代から写ってしまいます。私が子どもを育てた時代は、そんなのはなかったので、おなかの中までは興味がありませんでした。生まれ出た瞬間に、男か女かが判明しました。しかし、今は先にわかってしまいます。
 夜には電話があり、「ちょっとコンピューターのスイッチを入れてくれ」と言われました。コンピューターはビデオまで再生できます。何と、病院でお腹の中の赤ちゃんの様子を4Dで、上からも下からも横からも、動かして見るビデオが撮影できるようです。それもプラス三千円でビデオに録画してくれるというのです。息子夫妻はそれを私のコンピューターに送ってくれました。
 見てみると、なんとその子は、私に似ていていました。周りの人たちは、ちょっとショックを受けていました。私に似ているということは、息子に似ているということです。なぜ、息子の奥さんに似なかったのだろうか、と思いました。悲しい現実を先に知ってしまったのです。両親がいて生まれるとは、彼らの遺伝子を受け継ぐので、どうにもならない一面があります。いくら頑張ってみても、しょせん蛙の子は蛙というようなものです。親を見れば子どもがわかるのです。

 しかしイエスさまは、そのように生まれたのではありません。イザヤ書七章十四節に、

『それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。』

 イエスさまは「人手によらず」に生まれたお方です。一般的には、お父さんとお母さんがいなければ子どもは生まれません。しかし、イエスさまは、「処女マリヤ」から生まれました。マリヤは胎を使われただけで、マリヤの卵子を使ったわけではありません。聖霊によって神が人となって宿り、マリヤのお腹を借りて生まれました。ですから、イエスさまは父ヨセフとお母さんのマリヤは、ちょうど養子をもらったようなものです。遺伝子的つながりはないのです。
 ということは、人の遺伝子や罪の性格を引き継いでいる子どもではなく、イエスさまはこの地上に生まれた、「神の子」であったのです。

 私たち人間は、神によって創られました。日本の教育では、「人間は進化した生物」だと教えています。人類は何もないところから、徐々に進化したものだと教えていますが、それは間違いです。神は人を人として創ってくれました。猿だったのが段々、人間になったのではありません。
 先日、あるホームページに、猿から人間への過程を図を使って説明しているものがありました。しかし、これは嘘です。人間は人間として創られたのです。
 見える世界は、見えない世界のただ中にあるのです。神は天地宇宙を創られたお方であり、私たちは見ることも、知ることもできないはずです。もしも神様に体があったとしたら、この地球を創り、太陽を創り、天地宇宙を創られた方ですから、相当大きな体があるはずです。この地球をおにぎりのように創って、何もない空間に放り出し、太陽を熱い熱いと言いながら、空間に放り出すような方がいたら、からだは相当大きいと思います。そんな存在を、地球に住む生物が知ることは不可能です。

 しかし、もしもそのような存在が、人間となって地上に来たならばどうでしょう。人間同士ならコミュニケーションが可能です。そして、神の世界がどんな感じで、神はどんなことを考えておられるのかを知ることができます。まさしく、イエスさまは、神が人となってこの地上に来てくださったお方なのです。
 今日、ロンさん一行はほとんど、アメリカから来てくださいました。もしもアメリカに行ったことがなくても、アメリカから来た人々から話を聞くならば、アメリカの国と、アメリカ人の考え方を知ることができます。

 私は来年一月にペルーに行きます。この教会には、ペルーから多くの方々が来られています。時々、私はペルーに行って、帰国された方々を集めて集会を持ちます。私はつい先日ペルーに行ったと思っていたら、フェルナンド先生が、「順先生、もう七年も行っていないよ」と言われました。また最近、「リバイバル聖書神学校」を卒業した、元相撲取りの下田先生がペルーに宣教師として遣わされています。それも貧しい地域で頑張って伝道しています。彼を助けるためにも、ペルーに行きたいと願っています。
 皆さんはペルーに行ったことがないかも知れませんが、私がペルーに行き、その様子を話したら、きっとどんな所か知ると思います。
 私たちには神の世界はわかりませんが、神が人となった方から話を聞いたら、神について知ることができます。その方がイエスさまであり、神の世界について記されているのが、聖書です。

 そしてイエスさまの誕生は偶然ではなく、聖書の中に預言されていたことの成就でした。イザヤはイエスさまが生まれる、七百年前に存在した人物でした。彼はたくさんのことを聖霊によって預言しました。イザヤ書九章六節に、

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

 「ひとりの男の子が生まれる」「その名は不思議な助言者、力ある神」とあります。
 イザヤが活躍した時代、人が神になるというような考え方はありませんでした。唯一の神・天地宇宙を創られた神を人々は信じていましたので、「男の子が力ある神」というのは、「人が神」ということになります。そのような考え方はなかった時代です。
 にも関わらず、イザヤは神の知恵によって預言しました。神が人となって、私たちを救ってくださる、そんな日が来ると預言し、預言通りにこの地上にお生まれになったのが、イエスさまです。
 ですから私たちが聖書を読むと、神の国の様子がわかります。また、イエスさまが偶然にお生まれになったのではないことがわかります。
 日本では八百万の神々と言い、何を信じて良いのかわからない国です。しかしイエスさまと出会い、イエスさまを自分の救い主として受け入れるなら、人生は変わります。イザヤ書四十三章四節に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

とあります。「わたし」とは、神です。「あなた」とは人類です。これはやがてイエスさまの十字架の預言をも含んでいます。そして、私たちは神から愛されています。
 日本人には、「神から愛されている」という考え方はありません。日本の神々は、およそ友達になりたくないような恐ろしい顔をした神々ばかりです。近所に祀られている神々も、手が千本もある千手観音であったり、炎が後ろに燃え上がっている不動明王であったりと、恐ろしいものばかりです。そんな神々と手をつないで新城銀座を一緒に買い物に行きたくありません。日本の神々は一生懸命拝めば神になりますが、放っておくと鬼になります。これは元々、「鬼」ということです。

 そんな神ではなく、私たちを愛してくださる神、それが私たちの信じているイエスさまです。神は私たちを愛してくださっています。イエスさまがこの地上に来てくださったのは、「神が持っている愛を人類に伝えるため」というのが、大きな目的でした。

 旧約聖書にはイエスさまが生まれるという預言がたくさんあります。ある人が数えたところによると、三百回以上あるそうです。
 紀元前六世紀頃、ダニエルという預言者がいました。イスラエル(ユダ)は、当時の強国バビロンに捕囚され、国全体が苦しんでいました。その時代の王の名は、ネブカデネザル。彼は全世界を支配していた大王でした。
 ある夜、ネブカデネザル王は恐ろしい夢を見ました。目が覚めても、その夢が頭から離れないのです。それで、自分の国の占い師や知識人を集めてこう言いました。
 「俺の見た夢を解き明かしてくれ。」

 皆さんも寝ているときに夢を見ると思います。いい加減な夢は良いのですが、時々、忘れられない夢もあります。
 創世記を見ると、まだ聖書が成立していない時代には、神は人間とのコミュニケーションの手段として、夢を使った側面もありますので、夢は霊的な意味合いを含んでいると思われます。
 まさしく、彼の見た夢はそのような種類の夢でした。彼は、「俺の夢を解き明かしてくれ。しかし、お前たちが本当に解き明かすことができるとしたら、夢の内容は言わないから、夢さえも当ててくれ。当てることができなかったら、皆殺しだ」と言いました。

 「冗談ではない。そんなことはできない。」と占い師たちは言いました。その時、神の預言者ダニエルが連れてこられました。彼は、「王様、ちょっとお待ち下さい。私は天の神に祈ってみます。」と言いました。
 彼が神の前に出て祈ると、何と、王が見たのと同じ夢が示されたのです。それはまさしく、神が与えた夢でした。ダニエル書二章三十一節から三十五節に、

『王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。』

 ダニエルは、王が見た夢と同じ内容を王に告げました。それは頭が金、胸と両腕が銀、腹とももが青銅、すねが鉄、また足が鉄と粘土が混ざっている、そんな巨大な像を見のです。
 すると、そこに人手によらずに切り出された石が転がってきて、足にヒットし、像は粉々に砕かれ、人手によらずに切り出された石が、全土に広がっていく夢でした。

 ダニエルはこう言いました。「頭の部分はあなたです。今バビロンの国は金の頭のようですが、やがて国は滅ぼされ、次の国が起き、さらに次の国、次の国、そして、鉄の国が分裂し始めたときに一つのことが起こる」と預言しました。
 はたして歴史はダニエルの預言通りになりました。巨大な国・バビロンは滅ぼされ、次にメド・ペルシャが生まれました。その国も歴史を見るとやがて滅び、アレキサンダーの支配するギリシャ帝国が生まれました。しかしそれもやがて滅び、ローマ帝国が全土を支配するようになりました。そして鉄の国の延長線上に、人手によらず切り出された石が転がってきました。それが、イエスさまです。
 イエスさまとは、先に語ったように、人手によって生まれたのではありません。これは聖霊によって身ごもり、「人手によらず」に切り出された石でした。それが足に当たるときに、像は倒され、やがて石は大きくなるのです。それはイエスさまの誕生と、神の国拡大を告げる預言的な夢であったのです。

 この箇所から、様々な情報を得ることができます。その一つは、過去の国々や歴史は、現代に対して何の影響も与えていないと考えがちですが、関係があるということです。
 イエスさまがお生まれになったローマ支配時代から見ると、バビロンの時代は何百年も前のことであり、全く関係がないように見えるかも知れません。れけれども、バビロンを頭とし、メド・ペルシャを胸とし、ギリシャを腹にし、ローマ帝国を足として動いている、巨大な力が存在していたことを意味しています。当時のローマ帝国の知識は、金の頭であるバビロンの知識でした。

 イエスさまがお生まれになったとき、東の博士たちがやって来ました。博士たちは、「マゴス」と呼ばれ、占星術にたけた人たちでした。星占いはバビロンから始まり、当時を支配していた霊的世界観でした。それが、イエスさまの時代をも支配していたのです。イスラエルは金の頭である、バビロンに踏みつけられていたということです。

 私たちは現代に生きており、現代がすべてだと考えるかも知れませんが、見えない世界では、ちょうどネブカデネザル王が見たのと同じような像が、現実を踏みつけているのです。
 日本においても、ある時代を金の頭とし、胸、腹、足として、現代を踏みにじっているのです。

 しかしそんなただ中に、人手によらずに切り出された石がヒットするとき、過去から現在に至って存在する巨大なモンスターが倒されるという、霊的戦いの法則を教えています。
 霊的戦いでは、色々な歴史についても関心を持たなければなりません。現代を支配している力は歴史的に積み重ねられた地層のように感じますが、それは地層ではなく、一つの体を形成して、現代を踏みにじっているのです。

 頭が金、胸と両腕が銀、腹と股が青銅、すねが鉄、足の一部は鉄と粘土とありますが、これらを一口で表せば、全て「金属」です。
 先週お話しましたように、人間が最も価値をつけているものを突き詰めると、「岩石」にたどり着きます。お金も金です。お金の背後には金本位制度があり、一万円持っていたらその分の金が備蓄されていました。また多くの女性たちは、宝石に目と、こころが捕らえられています。それも石です。
 また現代社会はコンピューター時代ですが、それらも「シリコン」という石から作られています。また石油も石の油と書かれているとおり、石の中から取り出されます。
 また女性の方々は化粧品を使っていますが、化粧品も石から作られています。
 また現代は、至る所で戦争があります。戦争も突き詰めていけば、互いに石のぶつけ合いです。戦争で使う兵器は全て金属でできています。そこで撃たれる弾も金属です。また火薬などの物質も石から採掘されます。そして極めつけは「原爆」です。原爆はウランという鉱物から作られ、大量に人々が石により殺されます。

 人間が頼っているのは、目の前に転がっている石に最も大きな価値を置き、「これが自分たちを救い、自分たちを幸せにするものだ」と信じています。

 しかしそんなただ中に、「人手によらずに切り出された石」が転がってくるのです。日本人は特に石を自分の神として拝んでいます。このバビロンにおいても同じでした。ネブカデネザルがこのような夢を見た後、ドラの平野というところに金の偶像を建て、「これを拝め、拝まなかったら皆殺しだ」と言いました。
 悪魔は本物の救いの岩であるイエスさまを隠し、そこらに転がっているただの石を救いの岩かのように錯覚させ、私たちを縛ります。それも、過去の歴史の中に働いてきた悪霊どもが総力をあげ、連携して現代に働くのです。
 しかし人手によらず切り出されたイエスさまが、足元を打つとすべてが粉々になり飛び去ります。

 クリスマスとは、岩石に価値をつけ、巨大な像に支配されている人類を救うために、人手によらずに切り出された活ける石であるイエスさまが、神の国を実現するために、この地に来てくださった日なのです。ローマ十六章二十節に、

『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。』

とあります。イエスさまが巨大なバビロンを頭とするような像を倒し、巨大な力を打ち破ったのと同じように、イエスさまを信じる者たちは、『平和の神はあなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます』と、今度はその力が与えられるのです。
 ヘブル二章十四節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

 イエスさまは、死の力を持つ、悪魔の力を打ち破るために来てくださいました。私たちの人生も歴史の中で積み上げられた、呪いに踏みつけられています。しかし、人手によらずに切り出された石がヒットするときに、過去から引き継がれていたすべての呪いは打ち砕かれるのです。

 私は毎日のように色々な方々と話します。今、教会に来られる方は、ほとんどが何らかの問題を持って苦しんで来られます。どうしたらこの問題が解かれるでしょうか、と言われます。しかしその問題の根源は、現代と言うよりもバビロンを頭にし、過去の歴史の中で、個人で言うならば「家系の中」で構築された、悪魔の巨大な力によって踏みつけられているという現実です。
 それがわかるならば、私たちは人手によらずに切り出された石であるイエスさまに頼ることができます。
 そのときに何が起こるのでしょうか。過去から現在までを貫いていた呪いが打ち砕かれるのです。今日、教会に来ていますが、イエスさまは現代に働き、過去から積み重ねられた暗闇の力を粉々に砕いてくださるのです。
 そして、その根源に偶像礼拝による束縛の力が関わっています。それらが打ち砕かれ始めると、小さな救いの岩はどんどん成長し、やがて全地に満ちたとあるように、多くの領域を支配します。
 一度人手によらずに切り出された石が家族の中に落ちると、そこに働いている像は砕かれ、神の支配が訪れます。

 聖書は『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。』と教えています。
 先週日曜日、素晴らしいバプテスマがあり感動しました。Tさんの娘さんたちがバプテスマを受けられました。一人の救いが、二、三年の間に大きく広がったのを見たからです。初めは涙があったかも知れませんが、イエスさまが来てくださると、悪魔の力が粉砕され、救われた者の足には権威が与えられ、家族の中で働いている敵の力は敗北します。そしてそれは、とどまるところを知りません。神の国の石は全地に満ちるまで広がるのです。

 イエスさまがこの地上に来てくださったのは、偶然ではありません。それは、人類を悪魔の支配から救うためでした。
 皆さんの価値の中心は何でしょうか。イエスさま以外のものにあると言われたら、今日はそれを悔い改め、人手によって切り出された石であるイエスさまを中心に置いてください。そうすれば、必ずその石は大きくなります。

 普通の石は大きくなりません。どんどん風化して小さくなっていきます。日本では、「さざれ石がいわおとなる」と偽りを歌っていますが、石は大きくならないのです。放っておけばどんどん小さくなります。お金も、使えば使うほどなくなっていきます。
 しかし人手によらずに切り出された岩であるイエスさまだけが、全地に向かって成長していきます。

 今日、ぜひイエスさまを救い主として信じてください。また、夜のコンサートも祝福され、人々が目の前の石や岩に目を向ける人生ではなく、真の神、イエスさまに目を向ける人生に変えられることを祈っています。

 今、お祈りしたいと思います。過去からの大きな像によって踏みつけられています。問題は現代に起きますが、原因は過去から流れている敵の力によります。人手によらずに切り出された石が現代を打つとき、過去からの像が倒れます。
 イエスさまの時代をコントロールしていたのはバビロンを頭とするコントロール・センターでした。
 悪魔のコントロール・センターを破られなければなりません。人間も頭がやられたら終わりです。コントロール・センターがやられたら悪魔も倒れます。霊的戦いも、悪魔のコントロール・センターを破られなければなりません。人手によらずに切り出された石が転がってきて、巨大な像が倒され、神の支配が大きく広がるように祈りましょう。そして、神の愛を受け取りましょう。

(告白祈り)
「父なる神様。今イエス様のみ名によってみ前に祈ります。神が人となってこの地上に来てくださったことを感謝します。人手によらずに切り出された岩として、この地上に来てくださったことを、心から感謝します。巨大な像が人手によらずに切り出された石によって、完全に打ち砕かれますように。今、私を踏みつけている巨大な像が打ち砕かれますように。私を自由にしてください。神の国が私の家族、親族を支配しますように。イエス様のお生まれを心から感謝します。すべての栄光をお返しし、イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン」

 また私たちが、イエスさまを最優先とすることができるように、お祈りしましょう。案外、目の前の岩石に価値を置いている場合が多いです。イエスさまよりも価値のあるものがあったら、それをイエスさま以下にして、人手によらずに切り出された方が一番となるように祈りましょう。

「イエスさま。あなたを私の人生の最も重要な場所にお迎えします。あなた以外のものが中心であったことを赦してください。石に価値を付けていたことを赦してください。イエスさまに最高の価値を置きます。神の国の支配を広げてください。生ける石であるイエスさまを心の中心にお迎えします。イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン」


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