不思議

2007.12.16(SUN)
新城教会牧師 上條 実師

旧約聖書 イザヤ書9章6節
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 ハレルヤ!今日皆さんとともに、クリスマスの時にお生まれになられたイエスさまを礼拝することができますことを感謝します。早速イザヤ書九章六節から学びます。

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

イエスさまが私たちのために生まれてくださったことを心から感謝します。先週の日曜日はクリスマスコンサートがありました。四二七名の方が参加下さり、素晴らしい祝福を頂きました。本日も参加されていますが、ロンブラウンさんをはじめ、バンドの方々が迫力のあるすばらしい演奏を聞かせて下さいました。一週間前は少し集まりが悪く心配しましたが、定員四百名を上まわる方々が集いました。またお祈りいただいた子どもクリスマス会が昨日行われ、この集会も大変祝福されたことを心から感謝します。事故やトラブルもなく守られたことを感謝します。教会に集っている子どもたちはこの数週間、引きこもりになってしまいました。あるお母さんが、「我が家の子どもが、このごろ自分の部屋に引きこもっている」と言われました。どうしてかとたずねますと、今回子ども部会で作成した「三分間の祈祷プラン」をするため、いつも引きこもって祈っているというのです。今回目標人数を八百人とみんなで決めました。八百人集めるには祈りしかないとみんなで確認しあい、みんなで一人について三分間、八百人分祈ろうというプログラムを持ちました。そのため子どもたちは必死になって祈ってくれました。八百名の人数分には、既に先週祈りきり、多くの祈りを積むことができました。ある子は砂時計で三分間を計りながらお祈りしたり、ある子は調理用のタイマーをセットして祈ったりして真剣に祈りました。その結果、昨日は五三五名が集まりました。八百名には届きませんでしたが大変祝福されました。教育館の一階ホールにいっぱいに子どもたちが集まりました。そしてみことばもみんな静かに聞いて下さり、最後には全員で「イエスさまを救い主として信じます」と大きい声で信仰告白の祈りをする事ができました。子どもたちとともに祈った事を。神さまは答えて下さいました。本当に祝福されたことを感謝します。また皆さんもお祈り下さり心から感謝いたします。
 私は牧師の家庭に生まれました。決して今まで順調にイエスキリストを信じてきたわけではありません。中学生から高校生にかけて反発し、どうにかしてこの教会から逃げだしたい、離れたいと考えていました。しかしなぜ、今イエスさまが救い主であるとはっきりと信じることができたかというと、祈った祈りが答えられたのを見ることができたし、体験できたからです。子どもの頃、教会に大酒飲みの方が来られたときがありました。私はその方を見て正直、この人が変わること、救われることは難しいと思いました。しかしその方がイエスさまによって、まったく変えられて酒がいらなくなったのを見ることができました。また喧嘩っ早い人がイエスさまを信じて、柔和な人に変えられた姿を見る事ができました。人には絶対不可能なことと思えることも、イエスさまによって全く変えられてしまう。その変えられた姿を目の当たりにしたとき、イエスさまが確かに生きている、イエスキリストは生きていると知ることができました。祈りは答えられる。どんなことでも祈れば、答えられ、救われる事を実生活のなかで知ることができました。だから新城教会の子どもたちに祈ったら答えられる。主は生きていることを実生活の中で体験して欲しいと考えています。八百人は集まりませんでしたが、五三五名もの子どもたちが来たことは、確かに主が働いて下さったことを知ることができたと確信します。今回ある子は「五十人の友だちが来た」と言っていました。またある子は四十人と言っていました。今回確かに神さまが働いて下さったと信じます。ふつう簡単にそんな多くの友達が来ることはありえないことです。また子どもたちとみことばを聞くとき静かに聞くことができるようにと真剣に祈りました。感謝なことに祈りが答えられて、水を打ったようにみことばを聞く姿を見ることができました。そしてみんな大きな声で祈ることができ、今回のことを通しても子どもたちが神さまを体験することができたと思います。
 先ほどお読みしました『その名は不思議な助言者。力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる』とあるようにイエスさまは不思議な神様です。イザヤ書はイエスさまが生まれる七百年以上前に書かれました。七百年前にイエスキリストが生まれると預言されました。また他の箇所では、ベツレヘムと言う所で生まれると預言されています。このイザヤの時代は、イスラエルは南北の王国に分断され、北イスラエル王国は、アッシリヤという大国に滅ぼされてしまい、南王国もバビロン帝国に間もなくやられてしまうという状況下の中で「この国に救い主が生まれる、その名は不思議な助言者。力ある神。永遠の父。平和の君と呼ばれる」と預言されました。そして聖書を見ると、確かにイエスキリストはユダヤのベツレヘムで生まれ、今も毎年、世界中でこのイエス・キリストの誕生をお祝いされています。確かにイエスキリスト生まれ、今も生きていて、私達の祈りを答えて下さる神さまです。「不思議な助言者」とあります。今回子どもたちと「神様は不思議な事をしてくれる」「不思議をみんなが体験できるように祈ろう」と祈りました。主は確かに不思議なことを子どもたちに体験させて下さいました。ある土曜日の子ども会で「子どもクリスマス会に多くの費用がかかるので、必要が与えられるように祈ろう」また「誰かがささげて下さるようにと祈る前に、みんながお小遣いの中からささげよう」とアピールしました。子どもたちは真剣に祈り、自分たちもささげました。するとその翌日不思議な事を神は体験させて下さいました。ある方が子どもクリスマス会のために使って下さいと多くの献金をささげて下さいました。本当に不思議なことを神様は子どもたちに体験させて下さいました。子どもたちは「すごい。イエスさまは答えて下さった」と驚いていました。「不思議な助言者。力ある神。永遠の父。平和の君」とありますが、このクリスマスで生まれた、私達の神は不思議であり、また力強い神であり、私たちを永遠に生かし、また平和を与えてくださるのです。国語辞典で「不思議」ということばを調べてみると、

一、どうしてなのか普通では考えも想像もできないこと。説明の付かないこと。また、そのさま。
二、人間の認識、理解を超えていること。人知の遠く及ばないこと。
三、非常識なこと。突飛なこと。また、そのさま。
四、怪しいこと。不審に思うこと。また、さのさま。

私たちのイエスの名前は不思議です。不思議なる神様が普通では考えも想像もできないこと。説明の付かないことを私たちに表して下さる。人間の認識、理解を超えていることをおこしてくださる神だと信じなくてはなりません。皆さんはイエスさまが、私のために十字架にかかってくださったこと、葬られて三日目によみがえってくださったことを信じています。その十字架で流された血潮によって罪が全く赦される。そして全く思い出すこともしないとみことばによって信じることができています。皆さんは人生の中にどれだけ、イエスキリストによって「不思議なこと」を起こして頂いたでしょうか?今日もう一度どんな不思議を体験しているのか確認していきましょう。
 一つ目として先ほども言いましたが、イザヤは七百年程前に書かれました。その中に、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」と書かれています。私たちは聖書は神の言葉と信じています。その聖書が七百年も前から、ひとりの男の子が生まれると預言されました。七百年前から男の子が、ベツレヘムで生まれる預言され、現実にお生まれになったのです。この不思議はすごいことです。私は今年で五十才になりました。私が生まれる時代は、生まれる時まで男か女かわかりませんでした。私が生まれる前ある方からトマトを沢山いただいたそうです。母はそのトマトをいっぱい食べたためか、私の生まれたときの体重はなんと四千五百キロ以上だったそうです。巨大児として生まれました。先週滝元順牧師が語っておりましたが、息子さんの堅志兄のところは生まれる前から女の子が生まれる。最近はその体内の映像までも見ることができ、立体に写ると言っていました。今の医療では生まれる数ヶ月前になって性別がわかります。しかし私たちが信じているイエス・キリストは七百年も前からイザヤを通して、

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

と預言されました。ひとりのみどりごが、七百年後に私たちのためにひとりの男の子が生まれると預言された方です。なんと不思議でしょうか。
 また第二番目に、先週語られていましたが、子どもは父親と母親がいて初めて生まれます。しかし、イエスさまは、「処女マリヤ」から生まれました。マリヤは胎を使われただけで、マリヤの卵子を使ったわけではない。聖霊さまによって神が人となって宿り、マリヤのお腹を借りて生まれた。イエスさまは父ヨセフとお母さんのマリヤは、ちょうど養子をもらったようなもの。遺伝子的つながりはないと語られていました。ということは、人の遺伝子や罪の性格を引き継いでいる子どもではなく、イエスさまはこの地上に生まれた、「神の子」。まだ男性を知らない処女マリヤから生まれたことは素晴らしいことです。イザヤ書七章十四節に、

『それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。』

とあります。七百年前にそのようなあり得ないことを主が預言されました。あり得ないことが現実にイエス・キリストがそのような方法で生まれてくださいました。奇跡です。不思議です。
 そして三つ目は諦めてしまった色々な問題、まったく動かない問題等に不思議をくださいます。申命記二十六章六節から九節に、

『エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。』

私たちは「もう駄目だ」と完全にあきらめてしまう時があります。しかし、「不思議な助言者」といわれるイエス・キリストには不可能はありません。不思議なる神です。驚くような解決を与えてくださる神です。イスラエルの国が四百三十年間エジプトにとらえられた時、神はモーセを遣わして不思議を行い、出エジプトをしました。出エジプト記を見ると、あり得ない不思議なことがたくさんありました。モーセとパロ王との戦いの中で、まず杖が蛇になったり、ナイル川の水が血に変わったり、蛙、ぶよ、アブ、疫病、腫物などが起こされ、雹が降り、いなごが全地を覆い、初子が死ぬなど、十の奇跡、不思議をおこさせエジプトから出ることができました。その後も紅海が真二つに分かれ、乾いた地を通ることができました。また食べ物がなくなったとき、マナが降り、肉がほしいと言うと、うずらが降ったり、岩から水が出たり、またエリコの城壁を一日一周黙って回り、七日目は七周し、時の上げました。すると人手によらずに城壁が崩れ、エリコを占領することができました。出エジプトは無理だとあきらめていたイスラエルの民は、不思議によって約束の地カナンに入ることができました。私は出エジプト記を読みながら、なんと不思議なる神なんだろうと、主をあがめました。また聖書の中には、イエスさまが生まれてからも不思議をたくさん見ることができます。ヨハネ十一章三十九節に、

『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」』

ラザロが死んだ後四日目にマルタとマリヤのところにイエスさまは訪問しました。そのイエスさまに、生きているときに来てくれれば良かった。いやされたのにと泣き悲しんでいました。しかし何とイエスは「石を取り除きなさい」と言われました。もう臭くなっていますというにも関わらず、墓の石を取り除き、「ラザロよ。出てきなさい」と言いました。すると四日前に死んだラザロが葬りの姿である、布が体に巻かれた状態で出てきました。不思議です。あり得ないことです。またカナでは水をぶどう酒に変えました。またやもめの一人の息子を生き返らせたり、嵐を沈めたり、五千人に五つのパンと二匹の魚ですべての人が満腹になり、その後十二のかごにあまるほど食事を与えたり、四千人の人に七つのパンでいっぱい食べさせたり、いつも読んでいる聖書は奇跡やしるし、不思議ばかりを読む事ができます。不思議を与えてくださる神です。しかし私たちの心は「あなたは不思議な神様です。偉大な奇跡を行ってくださる神様です」と祈りながらも、不信仰という岩が心の中にとどまっていないでしょうか。駄目だと諦めている問題が沢山ないでしょうか?主は今も生きていて働いてくださる神です。新城教会の歴史を振り返ってみても不思議だらけです。以前は貧しく、生活面ではスラム街のような状態でした。お金もない、着る物も宣教師がくれた古着を着ていました。しかし今考えるとその時代が一番楽しかった思い出の一つなんですが、当時を考えると、今のこの会堂は考えることも想像もつかないことでした。グランドピアノや様々な楽器、空調設備などは考えることすらできませんでした。そんなふうになったら良いなあとはき考えてましたが、夢の夢。あり得ない状況でした。しかし不思議を起こしてくださいました。このような会堂を与えてくださいました。教会の開拓当初は、人が救われないので産んで増やせと言わんばかりに、子どもが多く生まれ生活さえままならない状態でした。しかしその子どもたちが成長し、牧師や様々な献身者として用いられています。私もその端くれの一人に入れてもらいました。また今は大勢の方が来てくださり、先週の礼拝は三三一名が集まったと週報に報告されています。この田舎の教会に、主は不思議を見せてくださいました。数えてみると感謝は尽きません。これからも主はもっと驚くような不思議をしてくださる方です。しかし私たちは硬い石で覆われてしまい、駄目だ、無理だと不信仰に閉ざされています。病気や問題、家族や親族の救いなどなど、必死に祈っても動かないときに、「駄目だ。自分の祈りでは答えられない。」と神様がミクロのように小さくなっています。イザヤはイエスさまが生まれる七百年も前に「不思議」と言われ、その不思議な神様が確かに、二千年ほど前に生まれました。そのことはわかっています。信じています。しかし駄目なのです。自分の神様は、とても小さく成り下がってしまっています。イエスさまの権威ある名前を知っていながら、なぜあきらめてしまっているのでしょうか?それはいつも学んでいるように、訴えているものがいます。それは悪魔・悪霊が働いています。「駄目だ、できない。絶対に無理だ」と攻撃され、知らないうちに悪魔に耳を傾け、自分の信仰生活の真ん中に「不信仰」という悪魔のおいた偽りの岩を置いてしまっています。しかし今日偽りの岩を打ち砕きましょう。このみ言葉をみ言葉の剣としてください。第一コリント二章九節に、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

「神を愛する者」というところにあなたの名前を置きかえてください。あなたに神は不思議を備えてくださっています。あなたの目が見たことのないような不思議。耳が聞いたことのない不思議そして思い浮かんだことのない不思議を備えてくださっているのです。以前このみことばを子どもたちと一緒に学びました。今まで数多くの国からリバイバルが起きたとのニュースを聞きました。中国、アルゼンチンなど色々なところのリバイバル、不思議な神の働きを聞きました。しかしもうそのことは聞いてしまいました。この日本にはそれ以上の聞いたことのない、見たことのない、思い浮かんだことのない不思議を起こしてくださるのです。神様は今までも癒しを与え、家族を救い出してくださいました。しかしまだ自分に起きていないと、うらやましく思い、自分は無理だと語ってきます。しかしこのみことばの剣で、私には今まで聞いたことも見たことも、思ったこともない不思議を用意してくださっています。考えられない出来事であなたに働いてくださいます。こんなふうになったら良いなあと思い浮かべ、ビジョンを持ちます。それ以上のことをしてくださいます。この教会にリバイバルが起きたらこの教会はどんな風になると、子どもたちと考えたことがあります。子どもたちの考えは想像もつかないユニークなものです。もちろん大勢の方々が毎週礼拝に来られ、救われることは当たり前のことですが、日本が変わること、政治、経済が変わる。事件がなくなるなど語りました。特に学校では、毎日朝の歌が賛美に変わる。そして毎回授業を始めるとき祈って始める。聖書の学びが学校の科目に入る。また教会の施設では、子ども用のチャペル。新城教会特設のプールができるとか、茶臼山の駅に日曜日は電車が増発され、新幹線までもが止まり、全国から集う。などなど子どもたちは競い合って夢を語りました。そのことが実現したら教会だけでなく、新城教会はどこのテーマパークになってしまうかのような事を語りました。私は子どもたちに言いました。「このみことばから言うと、今みんなが言ったことはすでに思いうかんだことだから、神様はもっとみんなが不思議と思うようなことをしてくださる」と話しました。子どもたちはリバイバルを想像して興奮していました。私たちはどうでしょう。想像しても悪いことばかりです。そんなことが起きればいいが・・・・・。無理だ・・・・。と堅い偽りの岩でふさがれています。

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

あなたが期待するか期待しないかです。私は子どもたちとともにこのみことばを学んで教えられました。幼子のように信じたらどんなにすばらしいことか。四十人程の子どもたちが、子どもクリスマス会で多くの子どもたちが集うように、一生懸命祈って五百名以上の人たちを集めて頂いた。これはすごいことです。主が子どもたちの祈りに答えてくださいました。今回も子どもたちと今回も地域に出て行って祈りました。本気で三時間ほど無駄口一つも言わずに祈りました。ある子どもがよそ事を話し始めると、他の子が「そんなことを言うと、集まらないから」と皆で掛け合いながら、真剣に祈りました。主はその祈りに答え、昨日の子どもクリスマス会は不思議を見せてくださいました。今日あなたの神はどんな神様ですか。七百年前に「不思議な助言者。力ある神」と預言され、今も変わらない神であると信じています。そして私たちのすべての罪が赦され、天国に行けるという確信を与えてくださいました。しかし私たちの信仰は硬い不信仰という岩でおおわれています。イエスさまが墓に葬られたとき、番兵を付けて、誰もが動かせないように封印までされていたように、私たちの信仰生活も「祝福」という二文字を、悪魔どもに封印され、誰も開けることができないように思わさせています。毎日必死に祈っています。何か祈っていれば落ち着くとか、メッセージを聞くと「そうだよね。」と思い、元気が湧いたり、またみことばを読むときに「良い言葉だ」と道徳的に教えられ、慰められます。しかし所詮絵に描いた餅。文字に書いてある不思議というように聖書の言葉はなりさがっています。しかし今日あなたの神は、『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。』をあなた用に備えてくださっている。あきらめずに信じて祈ってください。時がくると実を結びます。あなたが求めることです。主の時が来るのです。今は時代はインスタント時代です。祈ってすぐに答えられないと駄目だと諦めてしまいます。駄目だと思わないでください。不思議が起こり、素晴らしい出来事が、あなたに、教会に、日本に現わしてくださいます。今この第一コリント二章九節のみことばを堅く握って祈り続けてください。まだ祈らなくてはいけない?今までさんざん祈ってきたと言われる方もいるかもしれません。しかし祈り続けましょう。あなたが思っていること、聞いていること、思いに浮かんだこともないこと、あなたの目の前で驚くほどの恵みが起こされます。有賀先生が「驚くほどの恵み」とはビックリ仰天するほどの恵みだと語っておられました。あなたがみことばを信じて祈ってください。「神にとって不可能なことは一つもない」と信じて祈ってください。今から一緒に声を出して祈りましょう。

(告白の祈り)
「父なる神様。イエス・キリストのみ名によってみ前に祈ります。今イエス・キリストを神として、信じる者として祈ります。あなたの名は不思議です。私の人生に不思議を起こしてください。普通では考えも想像もできないこと。説明の付かないことを起こしください。驚きあきれるほどのことを、私の人生に、私の愛する家族に、私の愛する地域に、私の日本に見せてください。私たちのために生まれたイエスキリストは不思議な神であることを信じます。勝利は私たちのものです。すべての栄光をお返しし、イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。」


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