主をほめたたえ、感謝しよう!

2007.12.30(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 詩篇103篇1節〜5節
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日は、「主をほめたたえ、感謝しよう!」というタイトルで学びます。
 二〇〇七年も残すところ、一日となりましたが、主が今まで守ってくださり、支えてくださったことを感謝し、主をほめたたえます。一年を感謝して、ほめたたえましょう!

 新城教会にとって、今年は大変忙しい一年でした。しかし、皆さんのお祈りとご協力によって支えられたことを感謝します。
 一年を振り返り、教会で行われた行事をダイジェストで見たいと思います。二〇〇七年のニューイヤーセレブレーションから始まり、クリスマス集会までが行われました。
 それぞれ皆さんの人生にも、思い出があると思います。一年間を振り返り、目標を達成できた方、やり残したと言われる方もいるかと思います。また、つまずいたと言われる方もいるかも知れません。多分、ダイエットでつまずいた人も多いかも知れません。
「体重計 踏む位置 ちょっと変えてみる」
と言う悲しい川柳がありましたが、位置を変えても体重は変わりません。
 奥さんが腹を引っ込めながら体重を計っていました。するとご主人が、「お腹を引っ込めてみても体重は変わらないよ…」と言いました。すると、「いや、お腹で体重計の目盛りが見えないの」と答えたそうです。
 この教会では、半年ほどで十二キロの減量に成功した青年がいます。彼は大変ハンサムになりました。人は変われば変わるものだと思いました。
「痩せてやる これ、食べてから痩せてやる」
というのもありました。どうしても食べるのが止まらない人もいますし、お金は貯まらなくても、体脂肪だけがたまる現実もあります。

 詩篇一〇三篇では、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

とあります。私たちの人生の勝利の秘訣は、主が成してくださった良いことを忘れず、感謝の心を持つことです。

 今年一年を考えると、色々あったかも知れませんが、「数えてみよ。主の恵み」という賛美がありますが、主が下さった良いことに感謝する事が大切です。

 教会では、「感謝」という言葉がよく使われます。神様によって恵まれ、感謝することができるようになります。

 しかし、ある人は二〇〇七年を終えるにあたり、まだ解決していない問題が山積みだと言われるかもしれません。そのようであっても、今日はまず、主の前に出て、今までのことを感謝する一時を持ちたいと思います。

 今年は三人の方々が天に帰って行かれました。共に礼拝を守っていた方々が天に帰られると淋しく思います。岡本キヨさんは、明るいおばさんだったなあと思います。また、片川さんもいつも笑顔で、遠くから来てくださった事を思い出します。毎年のように、一緒に礼拝を守っていた兄姉姉妹が天に帰られます。しかし私たちはやがて、天のみ国に行き、顔と顔とを合わせて再会できます。この地上には色々な苦労があるかも知れませんが、やがて天国ですべてが報われることは感謝です。

 先週は東京集会でクリスマス会がありました。三十名近くの方々が集まられ、共にイエスさまのご降誕をお祝いしました。その時、鈴木留三さん所有の施設をお借りしましたので、留三さんも来てくださいました。彼は今年、九十八才です。ハワイ・リバイバルミッションにも来て、証をしてくださいました。集会にも出て行かれましたので、証をお願いしました。それはこんな証でした。

 「私は八十八歳の時、大腸ガンで死にかけました。そして十五日間、意識不明でした。その時に天国に行った経験をしました」

 留三さんは天国の門まで行き、天国の中を覗いたそうです。そうしたら、聖書に書いてあるとおり、道路は透き通った純金だったと言われました。すると、先に天に帰ったクリスチャンたちが、栄光の体で迎えてくれたそうです。そうしたら天使がこう言ったそうです。

 「留三さん。あなたはまだ天国に入れませんよ。あなたには、まだ地上で役割があるから、十五年命をプラスするから地上に帰れ。」と言われたそうです。

 「えっ、私、帰るの?」と言いました。「そうだ。十五年間、もっと献金してから戻ってこい」と言われたそうです。

 彼はビジネスマンでお金持ちですので、財産を地上に残すのではなく、神の国のためにばらまいてから、帰って来いと言われたそうです。

 そして、ふっと気づくと、地上にいたそうです。それ以来、十年経ったそうです。神様が十五年間生かしてくれると約束されたので、あと五年残っているから一〇三才まで生きると話しておられました。

 それを聞いて、すごいと思いました。やがて天国に入れる、と聞いてもわかりにくいところがあり、おとぎ話ではないかと思うかも知れません。しかし、そうではありません。イエスさまは生きておられ、天国は現実にあります。「わたしは所を備えに行きます。備わったらあなたがたを迎えに行きます」と言われました。

 天のみ国を目指して、私たちはこの地上を生きています。この地上では、時にはクリスチャンでも色々な悩みや苦しみがあります。聖書はそんな中で助け主を紹介しています。第一ペテロ五章七節に、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

とあります。私たちは「神に委ねる」という方法を体得しなければなりません。クリスチャンになっても、重荷を自分で抱えていると、あまり良いことはありません。神に委ねる信仰をもって歩むことが大切です。

 「ゆだねる」というギリシャ語は、「縫いつける」という意味もあるようです。私たちの悩みを、イエスさまの衣に縫いつけてしまうのです。「イエスさま。私の重荷を持っていってください」と、二〇〇七年に貯まっている、すべての思い煩いをイエスさまの衣にゆだねましょう。

 詩篇五十五篇二十二節に、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

とあります。イエス・キリストを信じた私たちは、イエスさまの十字架の血潮によって赦された者ですので、正しい者と評価され、揺るがされることはないと教えています。多少問題があったとしても、主は決してあなたの人生を揺るがされるようにはなさらないのです。またマタイ十一章二十八節に、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

とあります。二〇〇七年最後の日曜日に、イエスさまに全ての重荷をゆだね、新しい年を迎えましょう。そして二〇〇七年、与えられた良きものを感謝することが大切です。

 「休ませてあげる」とありますが、これは「たて琴の弦をゆるめる」という意味から来ているようです。

 昔、私はギターを弾いていましたが、ギターの弦は張りっぱなしだと、ネックが反ってきます。そして弦高が高くなり、押さえにくくなります。ギターをベストに保つには、演奏が終わってから弦をゆるめなくてはいけません。毎回チューニングするのが面倒くさいと放っておくと、段々ネックが反ってきます。家に使っていないギターがあると、大体ネックが反っていて弦を押さえるのが大変です。ゆるめないとストレスは解放されません。

 イエスさまが私たちを休ませてくださるとは、常に張りつめている緊張の弦をゆるめてくださり、解放してくださることを意味しています。毎週礼拝に集まり、一週間たまっているストレスを主の前におゆだねし、新しい一週間を始めるのです。今日は二〇〇七年最後の日曜日ですが、二〇〇七年の重荷を全て主におゆだねする日です。

 マタイの福音書六章三十三節から三十四節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

とあります。明日のことや、来年のことを考えると心配になります。どんな一年になるのだろうか・・・と心配になります。しかし聖書は、「明日のことを心配しないでよい。明日は明日が心配します」と教えています。明日は時間の経過の中で迎えるもののように思いますが、「明日のことは明日が心配する」と、あたかも明日が人格を持っているかのように記されています。明日をもっておられるのは、神以外にありません。私たちは明日に期待しますが、もしかしたら明日はないかも知れません。神様だけが明日を支配しておられます。ということは、明日が心配するというのは、神が心配してくださるという意味です。

 「労苦はその日その日に十分あります」とあります。新改訳聖書に「労苦」と訳されていて素晴らしいです。労力を使っても報われないのはただの苦労ですが、労苦には報いがあります。クリスチャンがたまに体験する苦しみは、苦労ではなく、労苦です。皆さんが一日働いて何の支払いもないとしたら、それは単なる苦労です。しかし労苦は、八時間働いたらそれなりの賃金が払われることです。これは労苦です。

 クリスチャンの人生は、多少なことがあっても苦労ではなく、労苦です。必ず報いがあります。今年一年間、色々な労苦があったかも知れません。辛いことや悲しいこともあったかも知れません。しかし、神様はすべてを働かせて、益としてくださいます。今年一年間、もしも苦しみがあったとしても、それは単に苦労として終えるのではなく、労苦としてやがて実を結ぶ日が来るのです。

 詩篇六十八篇十九節に、

『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。』

 神様は私たちのために、「日々」重荷を負ってくださいます。私たちの人生の中で毎日共にいて、重荷を負ってくださるのです。主が側らにいて、私たちの重荷を負ってくだると教えています。

 昔飯田線に朝早く乗ると、買い出しのおじさんやおばさんたちが大勢乗っていました。その人たちは毎朝、同じ席に陣取って朝からワンカップ大関を飲みながら、特殊な空間を作っていました。

 夕方になるとその人たちがまた帰ってきます。買い出しの大きな風呂敷包みを抱えています。時々面白い光景を見ました。大きな荷物を背負いながら、それをなかなか床に置かないのです。荷物を背負いながら飯田線に乗っている人がいた印象があります。

 時々私たちもイエスさまに信じながら、重荷をイエスさまに下ろすことをしない場合があります。

 ある人が車で走っていると、おばあちゃんが大きな荷物を持って道を歩いていました。親切に止まって、「おばあちゃん荷台に乗りなさい」と言いました。

 するとおばあちゃんは大きな荷物を持って、荷台に乗り込んできたそうです。しばらくしてバックミラーを見ると、後ろの荷台で、おばあちゃんは荷物を背負ったままいたそうです。

 運転手は車を止めて、「おばあちゃん、荷物を降ろしてくださいよ」と言いました。すると、「車に乗せてもらった上、荷物まで降ろしたら申し訳ない」と言って、背負っていたそうです。

 案外私たちクリスチャンもそうかも知れません。救われて、重荷までイエスさまに背負っていただいたら申し訳ないと言ってはいないでしょうか。そうではなく、既に私たちは神の永遠のみ手の上に載っており、すべての重荷をそこに置くことができるのです。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

 サムエルという預言者が出てきますが、イスラエルはペリシテという民族に度々襲われ、苦しい時代を過ごしていました。

 イスラエルは度々周囲の民族から苦しめられた歴史がありました。苦しくなると、彼らは真剣に主を呼び求めました。そんな時、神は助けてくださいました。神からの助けをいただいた後、サムエルは一つのことをしました。

 第一サムエル七章十二節から十三節に、

『そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言った。こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、はいって来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。』

 神がペリシテ人との戦いに勝利を与え、助けてくださった後、サムエルは一つの石をとってある場所に据えました。その石は、『ここまで主が助けてくださった』という記念に、助けの石・エベン・エゼルの石を置いたのです。それは感謝の記念碑でした。

 時々、色々な所に行くと、記念碑が建っています。記念碑が建っていなければ、歴史的事実を忘れてしまいます。しかし記念碑や石塚があると、「こんな事件があった」「こんなことがあったんだ」と思い出すことができます。

 私たちも、主をほめたたえ、感謝するエベン・エゼルの記念石を心に置くことが重要です。

 サムエルがエベン・エゼルの石を置いたことによって、二度とイスラエルの領内にペリシテは入ることができませんでした。感謝とは、敵の侵入を防ぐという意味があります。ですから、私たちは毎年、主への感謝と勝利のマイル・ストーンを据える必要があります。

 一年を振り返って神への感謝と共に、感謝の記念碑を心に据え、主をほめたたえることは、敵の侵入を防ぐために大変重要です。

 今年一年間、私にとって、大変忙しい一年でした。特にハワイ・リバイバルミッションがあり、海外で奉仕する機会が多くありました。どさくさに紛れて一年を過ごしたような年でした。しかし振り返ってみると、主が助けてくださらなければ、今はないと思います。それを考えると、感動します。

=@ロン・ブラウンが、
 ロン・ブラウンが、「If not for you」という美しいメロディを書きました。ティム・ケプラーが歌っています。その歌を聴くと、いつも感動します。「もし、あなたがおられなかったら…今頃、私はどうなっていただろう・・・」と彼は言います。「今頃、ホームレスだったか、死んでいるか…」といつも彼は言います。

 彼は麻薬中毒者で、どうやっても解放されませんでしたが、イエスさまと出会い、瞬間的に変えられ、主を賛美する器として世界を廻っています。

 もしもイエスさまがいなかったら、私もどうなっていただろうかと思います。今年一年間を考えるとき、感謝に絶えません。

 先週、私はクリスマス集会が終わってから、リバイバルミッションの話し合いがありました。これからどのような働きをしたら良いかという、将来に向けての話し合いがありました。まだ発表には至っていませんが、色々、新しいアイディアが与えられ、きっと神のみこころがなると信じています。

 また、先週金曜日には、一日かけて、色々な地域に出て行き、とりなしの祈りをしました。教会が変えられた原点は、一九九三年十一月に行われた甲子園リバイバルミッションです。主の霊が注がれ、新しいことが起こりました。甲子園ミッションは激しい戦いでしたが、主が勝利を与えてくださいました。その時主は、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、霊的戦いだとはっきりと示してくださいました。そんな記念すべきエベン・エゼルの石が、九三年に据えられ、その原点を祈らなければならないと示されました。そしてもう一度、感謝しなければならないと思いました。また、もしも原点に、主のみこころ以外のものが置かれていたら、主が回復してくださるようにと祈りました。

 その手始めとして、主が訪れてくださった愛知県民の森、それもかつて私が祈っていた時に、天狗の姿をした悪霊が現れた場所に登って、皆で戦いの祈りをし、勝利を宣言しました。

 そしてもう一箇所、甲子園球場に行って祈りました。十五年前、甲子園ミッションには多くの人々が集まりました。その当時、私たちが使っていた事務所にも行き祈りました。「主がいままで助けてくださったことを感謝します」と感謝の祈りをしました。

=@それから
 それから、霊的戦いが開かれたとき、西宮市にある「甲山」という山で祈るように導いてくださいました。下條先生がかつてその山で祈っているときに、「甲子園球場で集会が出来ますように」と祈った場所です。そのことをもう一度主に感謝し、勝利を宣言する祈りをしました。

 そこに行くと、九二、三年頃の活動の記憶がよみがえってきました。記憶は、風景とともによみがえってきます。そんな画像の中で束縛を受けることもあります。

 甲子園ミッションの準備はなかなか大変でした。色々な妨害があり、また教会の中でも色々な問題が起こり、「もう止めたい・・」と放り投げてしまいたい思いがありました。

 九二年にはこの教会にたいへん辛いことがあり、がっかりしていました。それと前後して、甲子園ミッションを妨害する人物が出現し、毎週のように脅迫文書のようなものが事務所に送られて来ました。やがて、それはエスカレートし、集会の場所の周辺に変なポスターが貼られるようになりました。「リバイバルミッションこちら→」と、電柱にいかがわしいポスターが貼ってありました。恐怖を感じました。これは警察に相談しなければと思うほどでした。

 ある日、尼崎のホールで集会がありました。昨年天に帰られましたが、申賢均先生や日本の有名な先生方が集まっての集会がありました。その時、ついに今まで妨害していた男が姿を現しました。体の大きな男で、最前列に座りました。私はその時賛美リーダーだったのでよく覚えています。賛美しているうちに、彼の目の玉が裏返り白眼になりました。悪霊の強い支配を受けていると思いました。

 やがてメッセージが終わると、男はメッセージの内容に文句をつけて関係者全員を呼び出し、脅しました。

 その時彼は紙袋の中に手を入れていました。当時、紙袋の中に包丁を入れていて、人を刺した事件がありました。それで彼の持っている袋の中にナイフか何かがあるのではないかと心配し、誰も彼に手を出しませんでした。

 私を含む十人ほどの牧師が一人の男の前に並ばされ、「テメイらよく覚えておけ…」と脅かされました。すでに亡くなられましたが、田中政男先生は頬を叩かれ、身動きとれずにいました。

 その日は、私たちの教会でも大変なことがあり、大きく心がくじかれた日に重ね、また、そのような事件が起きました。

 私は、「イエスさま。もう嫌です。こんな仕事やりたくありません!」と心の底から叫び、泣きたいような気持ちでした。これから、どうなってしまうのだろう…、と思いました。

 「主よ、助けてください!」と心の中で叫びました。ふっと、彼が他の人と話している間に、そっと近づいて紙袋の中をのぞきました。そうしたら、ナイフは入っていませんでした。

 やがて彼は、「続けて妨害してやる!」と、意気揚々と引き上げて行きました。その瞬間、私は後ろから彼に体当たりしました。田中先生が「順。危ない。止めろ!」と叫びました。しかし私は彼に飛びかかりました。そうしたら、体の大きな男でしたが、まるで風船の空気が抜けるように、彼はしおれ地面に倒れました。私は彼に馬乗りになりました。その時、警察が駆けつけ、彼は業務妨害で捕まりました。私たちは彼を訴えることはしませんでしたが、その日から妨害はなくなりました。主が私に勇気を与えてくださいました。

 あの時、男を取り逃したら、ずっと続けて苦しめられたのかも知れません。それはまさしく人間ではなく、背後に働いていた悪魔の力だと思いました。

 パウロがアジヤで大きな苦しみに遭いました。その時のことが第二コリント一章七節から十一節に記されています。

『私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。』

 パウロは小アジヤ地域に行き、絶えられないほどの圧迫を受け、ついには命さえ危なくなり、心の中で死を覚悟しました。「もう駄目だ…」というところまで、追い込まれたのです。私たちの人生も、もう駄目だというような時があります。しかしそんな中にも、神の計画があると教えています。

『これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。』

 時々、追い込まれ、これ以上進めない、ギブ・アップだと言うとき、それは、自分自身を頼みとするのではなく、神を頼みとする為の訓練であったと言いました。

 ある意味で甲子園ミッションには苦しみがありましたが、自分自身に依り頼むのではなく、神のみに依り頼む訓練であったと思います。

 ある方は、今年がそのような訓練であったかも知れません。自分自身の力ではどうにもならない所まで追い込まれた人もいるかも知れません。しかしそれは、自分自身を頼みとするのではなく、神にのみに頼り、主にすべての重荷を任せる訓練であったと教えています。

『ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。』

 聖書は、人生には、「将来と希望がある」と教えています。将来と希望とは何でしょうか?それは、信仰から生まれます。パウロはどうにもならない、死を覚悟するような状況に追い込まれましたが、「その時、主は助けてくださった」、「なおも助けてくださる、」「それゆえに、将来も大丈夫!」というのです。

 かつて皆さんがイエスさまによって助けていただいた経験があるならば、その勝利の記念碑として、エベン・エゼルの記念碑を建てなければなりません。その感謝が、将来も助けてくださるという、将来と希望につながるのです。

 今まで主が与えてくださった勝利を、決して忘れないようにしましょう。それが、将来と希望への信仰につながるのです。
 しかしパウロの理解は、それだけに終わっていません。アジヤでの苦しみとは、ピリピという町でシラスと一緒に牢屋に入れられ、死刑になるギリギリの所で助けられたこと、また、エペソという町で暴動が起こり、死ぬほどの危険に出会ったことでした。新改訳聖書では、それが、コリント第二の一章にある「アジヤであった苦しみ」の引用箇所となっています。

 パウロははじめ、それはただの問題だと考えていました。人々が感情的になったからと考えていました。しかし神は、パウロに、ピリピやエペソで危険さらされた体験は、人間的問題ではなかった、霊的戦いであったと教えたのです。
 パウロは晩年、ローマで捕らえられ、自分の働きを終え、時間に余裕がある中、そのことを教えられました。それがエペソ人への手紙に記されています。
 もしもパウロが、それらを霊的戦いであるともっと早めに気づいていたら、彼の働きは変わったかも知れません。

 聖書は情報提供の書です。時に、私たちの人生の中に絶えられないほどの問題や苦しみが起こりますが、それはただ単に起こるのではなく、背後に敵の力が働いていると教えています。その力を打ち破らない限り、問題は繰り返し襲ってくるのです。
 甲子園ミッションの時、尼崎で起こった事件や、新城教会内で起こった事件を、表面的に見るならば人間的に見えますが、それは背後に働いた、見えない敵の働きであることに気づかされました。
 それに気づいた日から、私たちの中に新しい勝利が始まりました。何らかの苦しみや問題がある方は、背後に働く悪魔の力があることを意識してください。

 一年の区切りに建てる記念碑は、ただ単なる記念碑ではなく、霊的戦いの勝利を記念する記念碑でなければなりません。
 十一月頃から、私は「救いの岩を止める偽りの岩」について話してきました。そして日本の偽りが暴かれていると話しました。
 今年一年を漢字で表すと、どのような漢字で表わされるのかが、つい最近発表されました。それは「偽」という漢字でした。国全体のテーマが「偽り」でした。
 偽りが暴かれるとは、偽りの父・悪魔の力が打ち破られている証拠です。主は日本の偽りの岩を砕いておられます。国歌の「君が代」も石を礼拝しています。石の神々を礼拝する日本の偶像礼拝が根源にあります。偽りの岩が取り除かれ、真の救いの岩であるイエスさまがこの国に訪れてくださるように、二〇〇八年に向けて祈っていかなければなりません。

 明日、十二月三十一日、夜九時から集会があります。一年の締めくくりの集会です。明日、明後日は遠い未来のように感じます。しかし週報の集会案内を見て、私には一日も休みがない事に気づきました。
 明日は二〇〇七年最後の日です。そして明後日は、二〇〇八年の最初の日です。それを一つの区切りとして、主への賛美の礎を築くことが大切です。
 特に明日は夜九時から、私を除く六名の先生方がメッセージを語ってくださいます。メッセージを語る順番は、毎回、くじ引きで決めますが、主が決めて下さいます。そしてメッセージをつなげると、一年の指針となるような、預言的メッセージになることが多いのです。

 十一月に私は二〇〇七年に主が語ってくださった事柄をご紹介しましたが、語られた事柄が実現していると主に感謝しました。これは二〇〇七年で終わるのではなく、継続する預言です。
 同時に、二〇〇八年に向けて主が何を語ってくださるのか、楽しみにしていただきたいと思います。また、牧師たちが、主からの言葉をいただけるように、お祈りしていただきたいと思います。

 私には、二〇〇八年に向けて与えられているみ言葉がいくつかあります。その一つを紹介したいと思います。エゼキエル書三十六章二十五節から三十節に、

『わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。』

 これは、祝福のみ言葉です。しかしその中に、一つの条件があります。「わたしがきよい水を振りかける時に起こる」とあります。「きよい水が振りかけられる」とは、「聖霊の注ぎ」を意味しています。水が降りかかるように、聖霊の注ぎがあるように祈らなければなりません。
 エゼキエル書三十六章と共に、エレミヤ書三章一節から三節が与えられました。

『もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになれば、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。この国も大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行なって、しかも、わたしのところに帰ると言っている。――主の御告げ。――目を上げて裸の丘を見よ。どこに、あなたが共寝をしなかった所があろう。荒野のアラビヤ人がするように、道ばたで相手を待ってすわり込み、あなたの淫行と悪行によって、この地を汚した。それで夕立はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をしていて、恥じようともしない。』

 淫行、不品行、姦淫という性的な罪として表現されているのは、「偶像礼拝」の罪です。イスラエルにおいて偶像礼拝が行われていました。それも二節に、

『目を上げて裸の丘を見よ。どこに、あなたが共寝をしなかった所があろう。』

とあります。これは、イスラエルにおいて当時、「裸の丘」と呼ばれる山の頂にはすべて異教の祭壇が置かれ、偶像礼拝が盛んになされていました。それを淫行、不品行、姦淫という、霊的性的罪としてエレミヤは語っています。その結果として、「夕立は止められ、後の雨はなかった」と語られています。
 日本も同様で、夕立、後の雨が止められている原因はここにあります。

『目を上げて裸の丘を見よ。どこに、あなたが共寝をしなかった所があろう。』

 日本の偶像礼拝の原点は山頂で行われた「岩」を礼拝することでした。それがやがて現在の神社となりました。明治維新以降、神社の数は半分になりました。なぜなら、国が国家神道で神社を効果的に管理するため、数を減らしたのです。それでも十万社になりました。以前は全国に二十万以上の神社がありました。それらは元々、山の上で岩を礼拝していたものでしたが、仏教伝来と共に里に下ろされたと言われます。

 それが事実ならば、日本の至る所、高き岩山、すなわち、「裸の丘」では偶像礼拝がなされ、悪霊が呼ばれていたはずです。その結果、イスラエルと同様、夕立は止められ、後の雨はこないのではないでしょうか。

 それを打ち破る祈りは、きよい水の振りかけ、すなわち聖霊の注ぎにつながり、人々の固い岩のような心は砕かれ、肉の心が与えられ、リバイバルへとつながるのです。私は来年に向けて、そのようなリバイバルへの預言的み言葉をいただいています。

 来年は縄文時代から継続的に行われている悪霊礼拝の拠点が打ち砕かれ、後の雨と夕立が降り、この国に勝利が来るようにと、さらにとりなし、祈りたいと願っています。

 二〇〇七年最後の礼拝において、もう一度主をほめたたえ、希望を持って新しい年を迎えましょう。お祈りします。


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