2008年に向けてのメッセージ


2007.12.31(Sat)
新城教会 岡本信弘牧師
新城教会 滝元 開副牧師
新城教会 滝元 明牧師
新城教会 公畑フェルナンド副牧師
新城教会 四元雅也副牧師
新城教会 上條 実牧師

岡本信弘牧師

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。

 二〇〇七年、この一年間も守られ、今日皆さんとともにここにあることを感謝します。また、皆さんのお祈りによって支えられ、健康が守られ、一日も寝込むことなく働くことができたことを感謝します。年を取ると一年が早いと言いますが、私はこの一年を新幹線のように、ジェット機のように走り抜けたという気がしています。

 二〇〇七年は、私にとって大きな出来事がいくつかありました。その一つは、四月八日の復活祭の朝早くに突然、母が天に召されたことです。

 前の晩、夜中の一時十五分に兄から呼び出され、駆けつけたときには母の意識はほとんどありませんでした。兄は「どうする、どうする・・・」と言ってとてもうろたえていました。私は自分でも驚くほど冷静で、まず救急車を呼びました。母の心臓は既に止まっていましたが、すぐに心臓マッサージや人工呼吸をして、病院ではかろうじて心臓が動いているという状態でした。しかし、母は、そのまま意識を回復することなく、三時五十分に天に召されていきました。

 その後、自宅に運ばれた遺体を見て、母が苦しまずに行けて良かったなあと思うだけで、涙が出ることもなく家に帰りました。しかし、布団に入った途端、淋しさがこみ上げてきて、涙が溢れるのをとどめることができませんでした。

 四年前には父が、二年前には兄の康宏が天に帰り、地上で会うことのできない淋しさはありますが、死も痛みも苦しみや悲しみもない天国で、母と三人、今日この光景をニコニコして見ているのだと思います。

 そんな事があってすぐ、ハワイリバイバルミッションの戦いが本格的に始まりました。現地での先生方とのミーティングや会場などの交渉のために、この一年間に本大会も含めハワイへ五回出かけて行きました。日本にいるときも、娘がスタッフとしてハワイに遣わされていたことで、私のスケジュールに関係なく、メールや電話で「これはどうなの、あれは? こうしてくれ、あれしてくれ…」と言われ、本当に忙しい日々を過ごしました。しかし、私にとってよかったことは、ハワイと日本は十九時間の時差で、日本の午前六時がハワイの午前十一時です。ですから、私はプレイズの仕事が始まる前、朝早くからいろいろなことに対応ができ、処理することができました。一日十五時間くらいは働いていたかと思いますが、時間を有効に使うことができたことは、私にとって嬉しいことでした。そして、ハワイリバイバルミッションは、皆さんのご協力とお祈りにより、大変祝福されました。また、このミッションは、我が家にとっても大きな祝福の時であったことを心から感謝しています。

 プレイズ出版も、ハワイリバイバルミッションの印刷物を一手に引き受け、スタッフには無理を言って急ぎで仕事をしてもらったこともありましたが、ミッションの仕事だけでなくほかの仕事も祝福され、昨年にも増して多くの売り上げも与えられて感謝します。設立十七年になりますが、来年もさらによき働きができるようにお祈りください。

 

 昨年私は、二〇〇七年に向けて、エペソ一章十四節から「すべては神様の栄光のために」と語らせていただきました。どんな時にも神の栄光を現したいと願い、聖書の一番裏にこのみ言葉を書き留め、この一年間祈りつつ歩んできました。しかし、振り返ってみるとき、どれだけ神様に栄光をお返しすることができただろうかと反省させられます。今年与えられたみ御言葉と同時に、引き続き栄光を現すために働いていきたいと思わされています。

 そして、二〇〇八年に向けて与えられたみ言葉は、第一サムエル記十七章四十五節から四十七節です。私たちは「あれが欲しい」「これが欲しい」と、無い物ねだりをすることがよくありますが、教えられていることは、「よそ見をしないで、あなたに与えられた剣を磨け!」ということです。

 十七章にはペリシテ人とイスラエル人が戦いのために軍隊を召集したことが書かれています。ダビデの兄はその戦いに召し出されましたが、ダビデは戦場に出してもらえませんでした。彼はまだ若く、戦士でもなかったからでした。しかしある日、父に頼まれて兄さんたちに食糧を届けに出かけて行ったとき、ダビデはペリシテの代表戦士ゴリヤテがイスラエルをなぶっている言葉を聞き、イスラエルがゴリヤテの前に手も足も出ない状態で、戦う前から負けを宣告されているような状況にあることを知りました。

 ダビデはサウルの前で、「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう」と申し出、ゴリヤテと対決するため出て行きました。これはちょうど、私たちとサタンとの戦いを表しているように思います。

 新城教会に霊的戦いが始まって十六年が経とうとしています。霊的戦いは、牧師やスタッフだけが戦うのではありません。牧師やスタッフだけに強力な武器が与えられているのではありません。皆に知恵、力、武器が与えられ、戦ってきました。私は、ほかの牧師やスタッフの中でも霊的に鈍い者で、よくここまでついてこられたと思っていますが、主が時に応じて勝利を与えてくださいました。これは神様の大きな恵みだと思います。

 戦いは勝たなければなりません。戦争で負けたなら、負けた国の人たちは勝った国の捕虜となります。イスラエルが負けたらペリシテの捕虜となります。私たちのクリスチャン生活もちょうど同じようです。

 私たちは神様に贖われて祝福の中に入れられ、永遠のいのちをいただいていますが、サタンは常に戦いをしかけてきます。病気や事故、夫婦間の問題、子どものこと、様々な問題が人生の中に起こってきます。それこそ、戦いです。負けたならサタンの虜となり、敗北なのです。では、どうやって勝利できるのでしょう。

 ゴリヤテは三メートルもある巨人で、よろいかぶとを身にまとい、青銅の投げ槍を持っており、どこにも隙がないように見えました。対するダビデが持っていたのは、獣を倒すための石投げと、たった五つの石だけ。そんなもので何ができるのか、だれが見ても勝ち目のない、無謀な戦いのように思われました。しかしダビデは、見えるものではなく、主のみ名の権威により、神に対する絶対的な信頼と信仰によってこの戦いに挑みました。

 『ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」』(第一サムエル記十七章四十五〜四十七節)

 そして彼は一人でゴリヤテに立ち向かいました。『こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。』(五十節)

 形勢は一気に逆転し、イスラエルが勝利を治めたのです。

 この戦いに必要なものは剣や槍ではありませんでした。そして、この勝利は決してまぐれではありませんでした。

『では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。』(ローマ八章三十一節)

『私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』(ローマ八章三十七節)

 どんな作戦を立てるかではなく、まことの神さまがどちらの味方につくかで勝負が決まります。そしてそれは、僅差ではなく、圧倒的な勝利だと書かれています。

 私は皆さんに言えるような才能は何もありません。強いて言えば、皆さんよりも少しだけ話すことが早く、食べるのもお風呂もトイレもすべて早いことくらいで、誇れることでもありません(笑)。そんな、頭も悪く何の取り柄もない私が、二十五年前に献身をしました。初めは何もできませんでしたが、十七年前にプレイズ出版が始まりました。そして、十六年前に甲子園ミッションが始められたときに、滝元先生が「甲子園ミッションのために財務運営をやるように」と言ってくださり、私を引き出して用いてくださいました。特別なものは何も持っていませんが、それ以来、私は、「呼ばれるうちが花」なのだから、自分に任されていることを喜んでさせていただきたいと思い、今日まで主に仕えてきました。

 皆さんの中には、「私は何もできないし、武器もない」と思っているかもしれませんが、それはサタンがもたらす偽りです。何もできないからと動かなければ事は進みませんし、それこそサタンの思う壺です。サタンはいつも私たちにそのように囁いてきます。

 そんなとき、サタンを一撃で倒すことができる強力な武器があったらどんなにいいだろうと思われるでしょう。よく県民の森や教会で、武器が与えられるように祈りましょうとお勧めがあります。それぞれに武器が与えられて、ある人は機関銃が、ある人はロケットが与えられたのが見えたと言います。ハッキリ見えたらどんなにいいかなぁと思いますが、私にはどんな武器が与えられているのかは見えません。しかし、きっと何か与えられていると信じています。あなたはあなたにしかない武器があることを知ってください。どんな武器かわかりませんが、隠された財宝のようが現されるように、皆さんの剣として現されてくることを信じています。

 ダビデが神様の御名を掲げ、主に信頼して放った石がゴリヤテを倒したように、私たちに与えられている武器を磨き、信仰もって立ち向かっていくなら、どんなに大きく立ちふさがるような岩のような問題も、倒され、打ち砕かれ、大きな勝利を見ることができます。

 私たちに与えられた剣を磨いて主に仕え、二〇〇八年に新しい扉が開かれ、神様の栄光と、圧倒的な主の勝利が現わされるようにと願います。

 

滝元 開副牧師

 ハレルヤ!感謝します。二〇〇七年、皆さんのお祈りに支えられて祝福された一年を神様が与えてくださったことを感謝します。二〇〇八年に向けて二つのみ言葉が与えられました。その一つは、創世記二十六章三節から四節です。

『あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。』

『あなたはこの地に滞在しなさい』とあります。神様がくださったこの地とは、新城教会にとって「霊的戦い」という地です。その地に滞在し続けるのならば、神様は私たちに空の星のように数え切れない祝福を与えると語られています。二〇〇七年も振り返ると、神様が色々なところで大きなみ業を成してくださいました。数え切れないほどの神様の奇跡を目の当たりにしました。二〇〇七年に私に与えられたみ言葉は、『刈り入れの時は熟した。来て、踏め。(ヨエル書三章十三節)』というみ言葉でした。わたしが共にいるから、サタンの頭を踏み進み行く時、栄光を現すという約束のみ言葉でしたが、神様はこの約束通りに行く先々に素晴らしいことをしてくださいました。また神様は「わたしは常識を超えたところに働く」と言われ、ヨルダン川の水岸に立った祭司たちが一歩ヨルダン川に足を踏み出でた時にヨルダン川の水が分かれたように、常識を超えたところに神様が働いてくださいました。ざわめきでハワイミッションに向けて二度に渡ってざわめきハワイ大会をさせていただきました。五月にハワイを訪れた時のことです。ダイヤモンドヘッドの山頂で賛美をしたときに、眼下に拡がる海から海へ二百二十度くらいの大きな虹が出ました。しかも、最後から二曲目で大きな虹が出て、主のご臨在の約束を目の当たりにしたようでした。「わたしはこの戦いの真ん中にいるよ」と語られているような、大きな祝福を見せていただきました。一緒に登ってくださった兄姉姉妹も一緒に喜び涙し、ある方は体調悪い中、手を引いてもらいながら登ったというご婦人の方がおられましたが、帰りにはすっかり元気なられ、「それまで病気がちだったけど、まったく元気になった」と癒しのお証しを聞くことができました。神様が私たちのただ中におられることを知ることができました。さらに九月、本大会一ヶ月前に再びハワイを訪れたときには、ビーチで賛美しました。夜明け前の真っ暗な中を、発電機とドラムスやベースアンプ、スピーカーを運び込んでマジックアイランドという綺麗なビーチにセットをし、そこで神様を賛美しました。そこにも神様がおられ、賛美の中に神様がおられると信じて賛美をしました。そして約五十分間の賛美をし、最後にハワイミッションのテーマ曲『勇気を出して』を賛美していました。ハワイの方々が踊りながら賛美されていると、ご婦人たちの手が止まり、空を見上げていました。何かと思い見上げると、虹が私たちの頭上にありました。二度に渡って海の上に虹が出ました。ハワイのオワフ島では毎日のように虹が出ます。しかしハワイで海に出る虹はとても珍しいようです。それを人は偶然と言うが…とハワイの兄姉姉妹の前で話すと、「偶然ではありませんよ。あれは神様の働きです」と言われました。行く先々に主が共におられ、多くの恵みを見させていただきました。「わたしはともにいる」という約束と霊的戦いとともにある働きの中で主は確かにおられ、大きな祝福を注いでくださっています。この年、「この地に」滞在し続ける時、数え切れない星々のような魂の救いという主の業がこれから必ず成されることを信じて進み続けていきたいと願っています。昨年のこの場所で二〇〇六年を振り返って、一つのキーワードを話しました。それは「どうしてかわからないですが」という言葉でした。「どうしてかわからないけど、聖霊様が働かれた二〇〇六年でした」と話しましたが。この二〇〇七年を振り返ると、どうしてかわからない主の業が成された中で、もう一つ思ったことは、「私たちの思い以上に主がすでに先立って働いておられる」ことを見せていただいた年となりました。ざわめきの働きのみならず、中高生の働きの中にも神様がともにいてくださり、私たちの思い以上に神様がその一人一人の心を整えてそこに届いておられる神様を見させていただきました。このクリスマスに中高生の伝道会レッツプレイズでレビが賛美しました。その中で上條頌君が「ハレルヤ!」と言いました。皆がノンクリスチャンなので「ハレルヤ!」と言っても、反応がありませんでした。そして「これを学校で流行らせてください。ハレルヤ!」と言うと、皆が「ハレルヤ!」と言いました。そしてレッツプレイズが終わり、学校に行き友だちに会うと、その友だちから「ハレルヤ!」という挨拶が返ってきたと聞くことができ、神様のみ業が進んでいることを覚えて感謝しています。私たちの思い以上に魂の深いところで神様が働いてくださっていることを見ることができます。今年は三回に渡って家内とともに刑務所でのコンサートも行うことができました。大変祝福され、歌う歌と語りかける言葉を受刑者皆ががっちりと受け取ってくださり、喜んでくださいました。私たちが定期的に行っている刑務所では無期懲役の方がおられます。毎回いる方もいます。その中で彼らがコンサートを楽しみにしてくださっています。年末になると、慰問のコンサートがあるようです。刑務所の中では私たちのコンサートをH.N.と言っているようで、受刑者が刑務官に「今回のコンサートはH.Nですか。」と楽しみにして言われるそうです。神様が一人一人の中に働いてくださり、神様のみ業が彼らの中に進んでいることを見ることができ、心から感謝しています。

二〇〇八年に向けて与えられた二つ目のみ言葉を紹介します。

民数記十六章四十八節です。

『彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。』

 神様の祝福は霊的戦いという地の中で与えられるものは確かなものであり、大きなものです。しかし、その中でもう一つの側面がこのみ言葉を通して与えられました。霊的な戦いの祈り、とりなしの祈りは、生きている人と死んだ者たちの間に立つ働きです。確かに神様が働いてくださり、リバイバルの大きな約束の祝福がこれから注がれようとしています。しかし反面、神様のさばきの手は、罪に満ちてしまったこの日本と世界に対して、止めることができないほどの罪の目盛りが満ちていることを忘れてはならないと思っています。そのような中で私たちが死んだ者と生きた者との間に立つ働きをさせていただきたいと思います。神様が罪のゆえに止めることができない神罰を止めるための働きを私たちがしなければならない年ではないかと教えられました。この神罰は、コラがモーセとアロンに向かって逆らって立ち、地が割れてコラとその仲間たちが地に飲み込まれた、その次の日に、死ななかったイスラエルの民が「あなたたちはあんなことをしてコラと一族たちを殺してしまったではないか」と言ったイスラエルの民たちに対して大きな神罰が起こりました。その時に起こり始めた神罰をアロンが、死んだ者と生きている者たちの間に立って火を投げ込んだことによって神罰が止まったことが書かれています。私たち一人一人が生きた者と死んだ者の間に立つ働きをもってこのリバイバルのために戦い続ける二〇〇八年でありたいと願います。

 


滝元 明牧師

 ハレルヤ!今年は皆さんが私のために祈ってくださったことを感謝します。

 昨年二月に、あまり気が進まないままにハワイに行きました。それは娘の道子がロンさんが来るので一緒に集会をするように言われ、ハワイに行きました。しかし、結果的にロンさんは来られませんでした。

 しかしハワイに行ったとき、私は直感的に「ハワイの時が来た」と思い、甲子園ミッションに二五〇人も来てくださったので、ぜひ、お礼をしなければならないという気持ちで、帰ってきました。そしてすぐに、「来年はハワイだ」ということで、実行委員会に話しました。

 そのことが実現し、ハワイでリバイバルミッションができました。聖霊様が働かれ、志を与えて、実現に至らさせてくださったことを心から感謝します。昨年私は詩篇二十三篇から話しました。一節に、

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』

とあります。ハワイリバイバルミッションを通して、イエスさまが羊飼いであり、乏しいことはありませんでした。また五節に、

『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』

とあります。ハワイリバイバルミッションを行うに当たり、色々な計画して前進しましたが、今年の始めに、県民の森に黒田先生が来られて、メッセージをしてくださいました。

 しかし、正直言って心配しました。なぜならば、はっきり言われたことは、「ざわめき」はハワイには受け入れないと思います、と言われました。

 そして働きが始まってから、ハワイのある先生が手紙をくれました。「ハワイの牧師会では、霊的戦いをしないようにと話し合いました。」と書かれていました。はっきり言うと、順牧師をあまりよこさないでください、ということになります。「嫌だなあ」と思いました。しかし、み言葉に、『私の敵の前で、あなたは食事を整え』とあります。

 ハワイリバイバルミッションが終わり、十一月にフォローアップ集会がありました。そして牧師の感謝会がありました。その時に先生方が言われたことは、「本当に良かった。」と言われました。そして、「霊的戦いをしないでください」と言われた先生が、「霊的戦いについて最初は色々な考えたけど、それを乗り越えて、全て栄光が現されたことに感謝します。」と言われました。また、ざわめきを受け入れることができないと言った教会が、一番ざわめきを歌っており、ハワイの教会が、ハワイリバイバルミッションによってリバイバルされました。

 これは『敵の前で食事を整え』という素晴らしい奇跡だと思います。イエスさまが素晴らしい奇跡をしてくださったことを感謝しました。

 そしてぜひ、三年以内くらいにハワイミッションをやってくださいと言われました。最近ハワイから手紙が来て、四月にもう一度ハワイに行き、集会をすることになりました。イエスさまが導いてくださったことを感謝します。

 ハワイに行ったことは大きな事でした。私をJTBの支店長が見送ってくださり、空港の奥まで入って私を助けてくれました。

 税関を通るときに係官が、「ちょっと来てください」と、私を一つの部屋に連れ込みました。何かなあと思いました。すると、「あなたのこの膨らんでいるのは何ですか」と聞かれました。私は「脱腸です」と答えました。

 昔、勝新太郎という人が、麻薬をパンツの中に入れていたことがあり、変なものを入れているのではないかと疑われて調べられました。そこで私は、こんなことではみっともないから、手術しようと決心しました。

 私は一九七〇年にリバイバルクルセードを始めたときに、田中先生と一緒に栃木県宇都宮の教育会館でメッセージしました。「皆さん。イエスさまを信じなさい」と力を入れて話していたら、音はしませんでしたが、ビリッと裂けたのがわかりました。

 それから三十六年間、そのままにしていました。しかし、段々大きくなりました。そして私は昨年六月に、初めて入院し、手術をしました。

 そしてその後、水がたまったので十一月に再入院し、手術しました。私はそのような一つの経験をしました。詩篇一一九篇七十一節に、

『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』

とあります。入院の時に、『私にとっては生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。』また、『時が良くても、悪くても福音を宣べ伝えなさい』とあるように、去年入院したときにも一緒の部屋にいた人たちに、イエスさまのことを話すことが出来ました。

 また十一月の入院の時にも、イエスさまのことを話すことが出来ました。また医者にも、私が書いた本を手渡すことができ、福音を伝えることができ感謝しました。

 一人の方が難しい顔をされていました。同じ部屋なので声を掛け、「おじさん、どう?眠れた?大丈夫?」と言いました。しかし、変な顔つきをされていました。

 そして三日目くらいに「どうですか?」と言いました。すると、「先生は茶臼山駅前の牧師さんだそうですね」と言われました。「実はうちの親戚の娘が、今そこに行っているのです」と言われました。そしてその方に証すると、とても喜んでくださいました。

 『時が良くても、悪くても』とありますが、証の機会が与えられたことは感謝でした。聖路加病院の老年の日野原という医者がいますが、彼は、「人は死にそうな病気になるときに、その人の苦しみがわかる」と言いました。私も入院したことで、弱い人に対する思いやりが与えられました。

 『私が苦しみにあったのは、人々の慰めのため』とありますが、祝福をいただくことができて感謝します。

 入院している中で、私は仕事をしました。私と家内のクリスマスカードにサインをする仕事でした。二千枚ほどに書きました。今年献金してくださった方々や、支援してくださった方々にクリスマスカードを送ることができました。

 医者や看護婦が「何ですか」と言われ、「クリスマスカードです。千五百枚ほどです。」と言うと、驚かれていました。種を蒔くことができました。私はすべてのことを福音のためにしなければいけないという思いがあります。

 この度私にとって嬉しいことは、プレイズ出版から、『天国への招待』という本を出すことができた事です。親戚や色々な方々に送ることができました。今日までに九十三冊手渡しました。お金にすると、十一万いくらかになりますが、それだけ投資することもできて感謝します。

 今年は天皇皇后両陛下にも、特別本を送りました。私にとっては、日本が変えられるという祈りがあります。十二月二十六日に侍従さんから電話があり、「両陛下に本をお渡しすることができました。」と言われました。とても感謝しました。日本にきっと、何か新しいことが起こされるに違いないと信じています。

 入院の中、出エジプト記十四章十三節から十四節のみ言葉が与えられました。十三節に、

『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。』

 昨年に入院するときには、「エジプトに下るのを恐れるな。わたしはあなたをまたエジプトから導き上る」と語られました。エジプトは私にとって病院ですが、今度は『主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。』とありますので、もう生涯入院することはないと思っています。

 私は感謝しています。手術は大きかったです。手術後に、約束していた東京の教会に奉仕に行きました。正直、傷跡を痛めながら説教をしました。

 そして十二月二十三日から二十五日までも、山梨県に集会に行きました。しかし今は、このように元気になり、主の前に立ち上がってやっていきたいと願っています。今回はダニエル十二章十三節が与えられました。

『あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」』

 数年ほど前に、リバイバル聖書神学校の生徒たちが、記念にみ言葉を書いてくださいました。これを私の家のトイレに掛けてあります。毎朝トイレに入るたび毎に、

『あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」』

 これはダニエルに語られた、神の言葉ですが、私も終わりまで、最後の時まで歩き、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ、とこの言葉を信じています。

 新共同訳聖書では、

『終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」』

『終わりまでお前の道を行き』ということは、「終わりまで滝元明の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、滝元明に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」とあります。

 私は「運命」という言葉があまり好きではありません。運命は辞書で調べると、人間の行動を支配する大きな力とありました。

 むしろ私にとっては運命ではなく、使命です。「お前に定められている使命に従って、お前は立ち上がるであろう」となります。

 私は、一九七〇年からリバイバルクルセードを続け、リバイバルミッションをやっています。二〇〇八年をを迎えるに当たり、私の使命は伝道です。信弘先生は印刷という素晴らしい能力、開副牧師は音楽という使命も、私に与えられているのは伝道です。

 今日、リバイバル新聞を見て感謝しました。オンヌリ教会が「ラブ・ソナタ」というタイトルで、日本のあちらこちらで集会をしました。とにかく日本にリバイバルが来るように、ということでオンヌリ教会が日本のために、十七億円を使ったと書かれていました。そして決心者は、三二〇人と書かれていました。

 東京では韓国の映画スターたちが来たために、二万人ほどが集まったとあります。十七億円をかけて三二〇人と書かれていましたが、私が一月から七月まで決起大会をしました。小さな教会を廻りました。しかし決心者は、三二〇人ほどいました。そして私はハワイリバイバルミッションのための献金を募り、六百六十万円ほどになりました。

 私に与えられている使命は、伝道だと思っています。ですから来年も、時が良くても悪くても、イエスさまの再臨まで、み言葉を宣べ伝えていくことを使命に思っています。

 詩篇一〇四編三十三節から三十四節に、

『私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。』

とあります。終わりの日まで歩み、終わりの時まで脱線したり、イエスさまを愛することが少なくなることがないように、最後までイエスさまのために生きていきたいと思います。

 

公畑フェルナンド副牧師

 ハレルヤ!感謝します。二〇〇七年の一年間、私とインターナショナルの働きのために祈ってくださって感謝します。新年に向けて与えられたみ言葉を開く前に、イザヤ書四十九章二十四節から二十五節を読みたいと思います。

『奪われた物を勇士から取り戻せようか。罪のないとりこたちを助け出せようか。まことに、主はこう仰せられる。「勇士のとりこは取り戻され、横暴な者に奪われた物も奪い返される。あなたの争う者とわたしは争い、あなたの子らをこのわたしが救う。』

 神の勇士として知るべきことは、私たちは霊的戦いにおいて、空しい拳闘をするのではなく、悪魔に対して表面的な攻撃をするのではなく、その根っ子を攻撃するということです。なぜならば、私たちが一つの悪霊を打ち砕いても、一番強いものを打ち砕いて取り除かなければ意味がないからです。

 ですから私たちは、強いものに立ち向かう必要があり、その強いものがいる場所に入っていかなければなりません。その場所で、強い者・悪魔が他の悪霊に対して、指令を出しており、私たちの奪われたすべてのものが、そこにあるからです。

 これを語ったことによって、次の二〇〇八年に対するみ言葉に入りたいと思います。士師記三章二十節から二十一節です。

『エフデは王のところへ行った。そのとき、王はひとりで涼しい屋上の部屋に座していた。エフデが、「私にあなたへの神のお告げがあります。」と言うと、王はその座から立ち上がった。このとき、エフデは左手を伸ばして、右ももから剣を取り出し、王の腹を刺した。』

 私は今、教会に時が来ていると信じます。神様は敵の王宮に入り、分捕り物を奪い返す強い軍隊を立ち上がらせようとしていると確信します。神様は大勢のエフデを起こし、神のために勝利を起こすと信じます。それはエフデが受けたのと同じ霊を受けて行うのです。

 この士師は神様によって選ばれました。ちょうどその時、イスラエルの民は十八年間占領されていました。モアブの王エグロンは十八年間、神の民を支配していました。イスラエル人が主を呼び求めるまで、その支配は続いており、主を呼び求めたとき、神が一人の人物をイスラエルに与えられました。

 二〇〇八年、神様はエフデのような人を探しています。それは、超自然的な神の働きのために用いるためです。

 エフデのように用いられるために、三つの重要なポイントがあります。

 まず一番目は、自分の制限・限界がわかっている人です。

 士師記三章十五節に、エフデは左利きであったと書かれています。その時代、左利きは普通のことではありませんでした。当時、左利きであることは、ハンディ・キャップを持っているという意味がありました。エフデは両利き使いではなく、左手だけで右手では何もしなかった人でした。

 神様は左利きの人、霊的左利きの人を探しています。なぜなら、彼らは自分で制限や限界があることをよくわかっているからです。

 人が拒絶した人、社会が拒絶した人を用いられます。神の評価は人の評価とは全く違います。人は外見を見ますが、神様は心を見るからです。

 神様はいつも制限や限界の多い人を選ぶように感じます。なぜなら、その人の人生に素晴らしいことを成されたときに、それらがみな神様から来ていることがわかり、神をほめたたえるからです。

 エフデは左利きでした。ここには左利きの人がたくさんいます。そして主はあなたが必要です、と言われています。「私は駄目だ。」「私は左利きで何もできない。霊的に限界がある」と言われる方があると思います。

 しかし、神様はそのままのあなたを使います、と言われます。「あなたはわたしにとって重要であり、価値がある。そのままで用います」と言われます。

 エフデは左利きでしたが、ベニヤミンの出身でした。ベニヤミンはヤコブとラケルの子でした。ラケルはベニヤミンの出産が原因で死んでしまいました。しかし死ぬ直前に、彼女はその子を「私の苦しみの子」という意味の、「ベン・オニ」言いました。しかし父がそれを聞いたとき、「ベン・オニ」ではなく、「右手の子」という意味の名前を付けました。

 「私の右手の子」と呼ばれることは、父の手がいつもあなたが守り支えているということを意味します。そしてあなたの制限のある、左手で事を行っても、父の完全な右の手がいつもいっしょに働いているという、保証をもらっているということです。

 つまり、自分ではできないことがあっても、神の完全さが支えてくださるのです。面白いことにベニヤミン部族のほとんどが、左利きであったと言われています。

 言い換えれば、自分の右手を使うことがなかったからです。なぜならば、最も完全な右の手である、神様がいっしょにいるからでした。

 ですから、神の軍隊に入るためには、あなたもベニヤミン族の左利きにならなければなりません。あなたの力には制限や限界があるかも知れませんが、神の力によって補われるからです。それは恵みによります。神の力によって補われるなら、あなたはもはや制限や限界がなくなります。それは神の完全な右の手があるからです。

 二番目のポイントは、御霊の剣を持つことです。聖書を見るとエフデはしっかりと武装していました。一振りのもろ刃の剣を作り、右ももの上に挟んでいたと書かれています。私たちが神の軍隊に入るためには、もろ刃の剣の使い方を知らなければなりません。つまりみ言葉に精通し、また語り、思い巡らす人にならなければなりません。

 パウロは聖書を「御霊の剣」と呼び、私たちの武具の一つに数えています。この剣を使わなければなりません。平日に聖書を閉じていてはいけません。ある方は礼拝が終わったら次の日曜日まで開かないでいる人があると思います。しかし神様の軍隊に参加したいと思うならば、この剣の使い方を学ばなければなければなりません。それをいつも持ち歩かなければなりません。自分の都合で使うのではなく、剣が二十四時間いつでも使えるように備える必要があります。

 第三のポイントは、み言葉を用いる勇士になることです。エフデにはもう一つの特徴がありました。それは彼が勇士であったということです。彼は恐れずに最も強い者の城に入り込みました。勇敢な人は、そこがどんな所であっても、どんな状況下にあっても、どんな時であっても思い切って入っていきます。

 神様は男性でも女性でも、勇敢な勇士を用いたいと願われています。勇敢な者たちだけが強い者の陣営に入っていき、分捕り物を取り返すことができます。

 エフデはなぜ勇敢であったかわかりますか。士師記三章二十節から二十一節を読みたいと思います。

『エフデは王のところへ行った。そのとき、王はひとりで涼しい屋上の部屋に座していた。エフデが、「私にあなたへの神のお告げがあります。」と言うと、王はその座から立ち上がった。このとき、エフデは左手を伸ばして、右ももから剣を取り出し、王の腹を刺した。』

 エフデは嘘をついたのでしょうか。そうではありません。エフデは神様からの言葉があったので、それを伝えに行きました。その神様のメッセージは敵に、「お前の時は終わった。神の時が来た!」という宣言をするためでした。

 勇敢な神の民は、神のみ言葉を持っている人です。なぜなら、神のみ言葉がサタンを打ち砕くからです。

 イエスさまも誘惑の山で悪魔に打ち勝ったとき、み言葉による宣言で勝利しました。「み言葉にはこう書いてある」と言い、み言葉で勝利しました。

 あなたがたは既に勇士なのです。なぜならば、神のみ言葉、神の啓示を既に受けているからです。ですから敵に対して神のみ言葉を宣言し、打ち砕くことができます。あなたがみ言葉を悪魔に宣言するときに、イエスの御名によって、剣を敵の腹に刺すことができます。

 ですから私たちは宣言しなければなりません。「イエスの御名によって強いもの悪魔に宣言する!私の人生、家族、健康、経済に制限や限界をもたらした悪魔よ、よく聞け。お前に対して神のお告げがある」と宣言しましょう。

 イザヤ書とエペソ書にあるように、『私を責め立てるために作られる武器はどれも役に立たなくなる』、また、『私は天にあるすべての霊的祝福を受けている』と宣言してください。

 そして『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』とみ言葉を宣言しましょう。そしてサタンにこう言いましょう。「私の子どもたちは、お前のものではない。神が私に与えたものでお前が持ち去ったものを取り返す!」と宣言してください。

 病気の人がいたらイザヤ書五十三章を宣言しましょう。『イエスの打ち傷によって私は癒された』と。

 悪魔にすべてを奪われて破壊されるのではないかと恐れ、脅されている人があったら、詩篇二十三篇四節を宣言しましょう。

『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』

 そしてもしも霊媒師や、この国の占い師があなたに敵対して立っているならば、『わたしのうちにおられる方は、この世のうちにいるものよりも力がある』と宣言しましょう。

 士師記三章二十八節に、

『エフデは彼らに言った。「私を追って来なさい。主はあなたがたの敵モアブ人をあなたがたの手に渡された。」それで、彼らはエフデのあとについて下って行き、モアブへのヨルダン川の渡し場を攻め取って、ひとりも渡らせなかった。』

 エフデの名前の意味は、「一致」という意味があります。私は神様が一致という角笛を吹き鳴らす勇士たちを起こすと信じています。

 日本人、ブラジル人、ペルー人、アメリカ人、韓国人と民族を問いません。なぜならば、神様はこの町・新城、日本を私たちに与えてくださっているからです。

 神様は霊的戦いの、もう一段上に導こうと願われています。主はあなたに同じ霊を持って欲しいと願われています。エフデの霊は今話したことが特徴です。

 二〇〇八年は私たち全員が悪魔に対して、神のみ言葉を宣言する年になりたいと思います。そしてもろ刃の剣を悪魔の腹に刺し通し、私たちの人生と教会に勝利を取る年に致しましょう。

 

四元雅也副牧師

 ハレルヤ!感謝します。私が二〇〇八年のために与えられたみ言葉は、ヨハネの福音書一章十六節です。

『私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。』

 二〇〇七年を始めるにあたり、『わたしは光であってわたしのうちに何の暗いところもない』と語られましたが、その通りに、たくさんの恵みをいただいた一年であったことを心から感謝します。

 そして私が二〇〇八年に向けて受け取ったことは、今年与えられた勝利を受け継いで、更に勝利が上乗せされる年になるということです。

 一人一人が色々な願いを持っておられると思います。ある人は、家族の救い、ある人は進学、就職、結婚など、様々な願いがあると思います。その色々な願い事においても、神様の更なる恵みを実感する年になることを信じます。

 また教会においても、プレイズ出版においても、リバイバルミッションにおいても、神様が素晴らしい恵みを現してくださいましたが、それが「更に増し加わる年」であると信じていきたいと思います。

 「恵みの上乗せ、勝利の上乗せ」が来年のテーマです。

 そこでもう一つ聖書から教えられていることは、恵みによって得られたものをよく管理しなければならないということです。

 レビ記十章一節から三節に、

『さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。』

 レビ記には、出エジプト記の中で指導者モーセによって、イスラエルの民がエジプトの奴隷の身分から解放され、シナイ山において神様から直接十戒を授かり、また選ばれた民であるイスラエルの民がどのようなスタイルで、神様との関係をもっていくかという規定が記されています。

 また出エジプト記を見ると、モーセの兄アロンとモーセの同族であるレビ人が、特別に神様から選びを受け、彼らがイスラエルの民と神様の間に立つ代表者として、神の臨在の象徴である幕屋で神に仕える立場が与えられました。彼らがイスラエルの民と神様の間に立って、民から献上される献げものを神様に献げました。

 当時イスラエルの民が神様にささげた物は、彼らの財産であった家畜、農産物などでした。アロンをはじめとする祭司やレビ人たちは、動物であったらそれを殺し、神の規定通りに内蔵などを祭壇の上で焼いて、神様への献げものとし、残りの肉や穀物は、彼らの生活の糧になるようなシステムがありました。

 また、イスラエルの民と神様との契約を象徴する大切な献げものとして、常供の献げものがありました。これは特別な調合法で精製されたかおりの高い香をたき、煙を立ち上らせるものでした。それが礼拝の一つとしてささげられていました。

 ところがレビ記十章を見ると、アロンの子・ナダブとアビブが、神が命じなかった異なったささげ物をもって神様の前に出ました。その時彼らは、神様から下された超自然的な火によって献げものともども、焼き殺されてしまいました。身の毛のよだつような出来事が起こってしまいました。

 ここでの祭司やレビ人は、現代の牧師や副牧師にあたります。ある意味で、神様と人との間に立つような職業ですが、自分にあてはめたら何回も焼き殺されなければならないような気がして、恐れを成しました。

 世間においても、牧師が若い女性を入信に至るための勉強会と言って公園に呼び出し、いかがわしい行動をしたというニュースがあったり、教会の会計をしている人が横領して、捕まったというようなニュースもありました。これはキリスト教界全体の名折れになり、そこに集っている人たちも、今後の信仰生活に関わる大打撃を受けたのではないかと思いました。

 新城教会では、今まではそのような過ちを犯すことがなく守られていますが、これからも守られるようにぜひお祈り下さい。

 レビ記十章に書かれていることは、クリスチャン全員に当てはまるメッセージであると思います。

 祭司の職は、神様からの一方的な選びによって、アロンとレビ人たちに与えられた聖なる奉仕です。

 聖書には、私たちが罪から救われて、永遠のいのちを持つことができたのは、私たちの意思や努力ではなく、また私たちが代価を支払ったのでもなく、神様の一方的な恵みによって与えられたものであり、信じるだけで無代価で与えられたものと書かれています。

 そして私たちはイエスさまの名前を通して、神様との交わりが回復し、一人一人が直接神様にお仕えする身分として生かされていると教えています。

 また聖書は、恵みによる救いに預かった私たちが、悪の行いから離れ、自分自身を聖く保ち、神様のみこころに沿って生きるように勧めています。神様の恵みは、救われた瞬間に完成されています。私たちは救われたことにより、永遠のいのち・天国に行くことができます。そして私たちは、救われたことの恵みを体験し、救いの恵みを溢れるばかりに味わい続けながら生きることができるというのが、聖書の約束です。救いの恵みも私たちの人生を通して、どんどん上乗せされていきます。

 しかし、イエスさまを受け入れて信じる告白したからと言って、あとはさようならと自分勝手な生き方をしていたならば、この世に悪魔によって張り巡らされた罠を逃れ、自分の力で正しく祝福された人生を歩むことは不可能です。私たちがそのような人生を歩んでしまったならば、ナダブとアビフが超自然的な火を持って、祭司の職を解かれてしまったことと同じように、人生の中で神様の恵みから遠く離されて生きなければならないような事態になり、神様からの溢れんばかりの恵みをもらい損ねてしまういます。

 教会に集って聖書のみ言葉を心に据え、私たちがみこころを行うことを救いの延長線上にしっかりと据えていかなければなりません。

 ルカの福音書十二章四十二節から四十八節に、

『主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。』

 ここで教えられるもう一つの恵みは、「賜物」です。新城教会では、牧師が四名、副牧師三名、フルタイムスタッフまで含めると、全部で十五名が働いています。こんなに多くのスタッフがいる教会は、日本全国を見回しても特異な存在かも知れません。これは新城教会に与えられた賜物に一つの理由があると思います。

 新城教会は自らの達成を追い求めて働きを進めているのではなく、日本人、外国人を問わず、一人でも多くの人を救いに導き、世界のリバイバルをテーマに全世界のキリストのからだ、全世界の教会に仕えて労苦することを惜しまない教会だと思います。

 それは新城教会だけではなく、プレイズ出版、リバイバルミッション、ざわめき、聖書神学校という多様の働きが包括され、リバイバルを多角的に推し進めていく働きの中に具体的な現れを見ることができます。

 滝元明先生、順先生をはじめとした牧師先生方が、牧会のかたわら、色々な形で新城教会の枠組みを超えた世界のリバイバルのための働きを展開しています。そして教会スタッフが、神様から与えられた同じ方向性の情熱をもち、教会に集う方々が霊的に欠乏しないように、一生懸命牧会活動に従事しています。見方によっては、教会外でのそのような奉仕は、新城教会にとって損になる浪費のように映るかも知れません。牧師先生がどこにも行かずに、教会の中だけを見てくれていたら、こんなに大勢のスタッフは必要なく、経済的にも楽になるので良いではないか、という考え方もあるかも知れません。

 しかしその働きの中に、私たちは神様の全世界に向けた、新しいリバイバルのための戦いのヒントを見出し、それを教会の中に適応し、実践していく中で、新城教会に多くの実が結ばれています。賜物を自分だけのものとせず、神様が遣わしてくださる所で働かせることにより、教会は恵みの上乗せを受けて成長しています。

 また、祈りを通して、献金を通して、そのような働きを、同じ方向性の情熱で支えているのが、ここにいる私を含めた一人一人なのです。

 ルカ十二章のみ言葉で、「主人から仕事を託された管理人」とは、私のことであり、ここにいる皆さんです。皆さん一人一人に神様から賜物が与えられています。ある人は音楽の賜物があり、賛美の奉仕に用いられています。人脈が広く、友だちを教会に連れてくるのが得意な人、体を動かすことが好きで教会の掃除やカレー当番などの奉仕を喜んでしてくださる方など様々です。

 私は何も賜物がないと言われる方があるかも知れませんが、そんなことはありません。聖書はそうではなく、かえって人目につかない賜物が重要であり、ここにいる皆が必要であると教えています。神様によって選ばれたあなたには、必ず神様からゆだねられた賜物があります。

 二〇〇八年は、個々の賜物が更に用いられ、祝福へとつながり、教会に与えられている賜物も大きく用いられていくと信じます。そのためには「賜物の良い管理者」とならなければなりません。

 例えば、音楽の賜物であれば、自分の意思で賛美に用いることもでき、逆に世の音楽を演奏することもできます。前者は祝福につながり、後者がそうならないことは、考えなくてもわかります。賜物の管理とは、神様のご計画に沿って、最善の方法で賜物を用いることです。

 新城教会はリバイバルの働きにおいて、多くの賜物が与えられ、また多くの兄姉姉妹が集い、ある意味で賜物の層の厚い、恵まれた教会だと思います。

 しかし聖書に、「多く与えられた者は多く要求される」とあるように、神様が大きな期待を寄せておられることを覚えなければなりません。賜物を悪用して自分勝手な火をささげたナダブとアビフのようになってはなりません。賜物を用いていただくためには、更にへりくだり、きよい歩みをしなければならないと思います。

 この群れの中から、リバイバルのための更に優れた働きがなされていくように、賜物の上乗せがなされるように祈りましょう。

 特に新城教会の十八番とも言われる賜物は、霊的戦いです。二〇〇七年も戦いの中で多くのみ業を見せていただきました。解放の祈りを通して、いやし、奇跡、イエスさまの十字架を通して、神様から与えられた賜物が現されました。

 二〇〇八年もますます戦いが進んでいくと思います。開先生が、「『生ける者と死ぬ者との間に立つ』とりなしの祈り」と話されましたが、この戦いは激しい戦いです。また、この賜物を深く実践していきましょう、とフェルナンド先生からお勧めがありました。

 私たちはその働きを強力に進めると同時に、足もとをすくわれないために、神様の前にみこころを行うことを求めていかなければなりません。

 クリスチャンになる前の私たちは、歴史を通じ、家系を通じてのろいが山積みになっており、のろいの上にのろいが積まれるような人生でした。しかし、クリスチャンになった私たちはイエスさまの名前によって、恵みの上に恵みが積まれるという、人生に変えられています。何と素晴らしいことでしょう。しかし、この恵みに私たちがとどまるためには、私たちの態度がそこに問われていることを忘れてはなりません。

 ゴスペルクワイヤー、「ヘブンリーキングダム」のレパートリーの中に、「あなたにとっての最高は、まだこれから来ます」という歌っている賛美がありますが、そのような人生を歩みたいと思います。

 互いに「あなたにとっての最高は、二〇〇八年です」と宣言しましょう!

 

上條 実牧師

 ハレルヤ!皆さんのお祈りにより、一年間守られたことを感謝いたします。去年は詩篇五十八篇十節から十一節の

『正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。 こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」』

というみことばから二〇〇七年は「悪しき力に対して復讐し、主から報いを頂く」というテーマで働かせていただきました。一年を振り返ってみると個人的には、三月に我が家の長男である麻輝が愛美姉と結婚することができました。また十月に行われたハワイリバイバルミッションではすばらしい祝福を頂き、二〇〇七年のテーマ通り「復讐と報い」を頂くことができました。日本は太平洋戦争のはじめ、ハワイのパールハーバーに攻撃をしかけ、アメリカと戦争しました。その日本が犯した罪を悔い改め、ハワイとアメリカのために祈り、ハワイの各地をまわって祈ることができました。その結果主は、報いてくださいました。日本人とアメリカ人と一緒になって福音宣教のために集会ができたことは、いまだかつてなかった事でした。主は報いを下さいました。主に栄光をお返しします。そして二〇〇八年に向けて、神様が私に与えてくださったみことばは詩篇二十三篇です。そしてもう一年「復讐と報い」というテーマで働きたいと教えられました。詩篇二三篇一節から二節に、

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。』

とあります。主はわたしの羊飼いとあります。羊である私たちが、まず羊飼いを知ることが必要であり、羊飼いをしっかりと信じて頼っていきたいと願います。パレスチナで、二人の羊飼いがそれぞれ羊の群れを引き連れて、別々の方向から来て、一つになりました。羊飼いは、もう一人の羊飼いと立ち話をしていました。二つの羊の群れがゴチャゴチャにまざってしまいました。立ち話しが終わると、羊飼いは、自分の羊にむかって、「さあ出発するよ。」と声をかけて歩きだしました。すると、羊は羊飼いの声を聞いて、羊飼いのあとにくっついて動き、何の問題もなく、二つの群れにわかれていくそうです。羊は自分の羊飼いがだれであるかを知っています。そして羊は羊飼いと親しい関係にあり、自分の羊飼いの声を聞き分け、その声に従うことができます。私たちもしっかり神の声に聞き従い、羊飼い以外の声に従わないようにしなくてはいけません。また一節に、

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』

乏しいことはないというのは「欠乏しない・足りている・十分にある」という意味です。私たちはイエスさまにあって、今年も満たされていく、足りないことがない報いを下さるというのです。二節に、『主は私を緑の牧場に伏させ』とあります。ある本に羊が横たわる時は、多くの条件が満たされた時だと書いてありました。それはどんな条件であるかというと、

 一つ目は良い草を十分に食べたときだそうです。食物がなく、飢えているときは横になることはないそうです。豊かな草にありついて、満ち足りた羊は横たわるそうです。今年この教会の礼拝や家庭集会などで語られるみことばで満足し、みことばの権威でみことば通り現実になっていくことを信じていきたいと願います。

 そして第二番目は仲間の誰とも衝突がない状態のときに、羊は、横になることが出来るそうです。一見、柔和でおとなしく見える羊の中にも、絶え間のない衝突があります。良い場所を取るために、つつき合いがおこります。そのため、羊はいらいらし、緊張し、不機嫌となり、落ち着かなくなります。体重も減ってしまうそうです。今までもこの教会に平和と愛が与えられてきましたが、さらに今年は教会である各器官が愛し合うことができるとを期待しましょう。一致しましょう。一つになって、リバイバルという目的に向かって愛し合って行きましょう。

 三番目は、病気の時は羊は、横になりません。ハエや、寄生虫に苦しめられているときも、羊は横になることはありません。特に、夏には鼻はえや、馬ばえ、牛ばえ、ダニによって羊は半狂乱の状態に追い込まれるそうです。このような障害がないときだけ羊は伏すそうです。今まで私たちは霊的戦いの祈りを続けて来ました。今年はさらに祈り続け、復讐して頂き、この教会に更に大きな癒しや解放が起こることを信じていきたいと思います。

 四番目は恐れが全くない状態の時に羊が横たわるそうです。羊は、周囲に危険があるときは決して横たわることはしないそうです。ライオンやハイエナ、きつね、狼、ハゲワシなどの野獣の危険がない。またうなり声や遠吠え、においだけでも羊に恐怖心を与えます。いままで多くの問題で苦しんできました。今まで暗闇の力の中でビクビクし、前に進むこともできませんでした。しかし今年は、横になることができなくさせていた原因である問題、そしてその背後に働いていた暗闇の力から勝利し、私たちを守ってくださる。全く危険のない場所、うなり声や遠吠え、においさえもない場所に導いてくださると言うのです。二〇〇八年は「復讐と圧倒的な報い」をいただく年と信じて進んでいきたいと願っています。


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