新年メッセージ

2008.1.1(SUN)
新城教会 滝元 順師

ハレルヤ!新年、明けましておめでとうございます。昨年は色々とお世話になりました。今年もよろしくお願いします。

 二〇〇八年はどのような年になるのかわかりませんが、聖書の中に、「明日のことを心配しなくても良い」とあります。「明日は明日が心配する」と告げています。明日とは、神様のことです。クリスチャンは、明日を心配せずに歩むことができることを感謝します。
 また、私たちには、人生のマニュアルである聖書があります。聖書のみ言葉に沿って歩むならば、危険な目に遭うことはありません。
 時々私たちは、危険だとわかっていながらやってしまうことがあります。しかし、聖書のみ言葉に従って、聖霊の力によって歩むならば、普通ではできないことができます。今年一年間、楽しく歩んでいきたいと願っています。

 今年一年をどのように主に期待しますか。昨日、ここで越年の集会が行われました。六人の先生方が色々な方面から、み言葉を語りました。その中に今年の指針となるようなみ言葉と、預言的な言葉が含まれていました。信仰によって、み言葉がを受け取って歩んでいきたいと願います。

 人生は次の瞬間、何が起こるのかわからない恐ろしさがあります。今年何が起こるのかわかりません。「一寸先は闇」と言われますが、私たちには神の御手が伸ばされています。ゆえに、どのような時にも乗り越えることができます。明日を作り出す神がすべてのことを働かせて、益としてくださいます。

 私は新年早々大変忙しく、今日この集会が終わったら横浜に行き、二日間の集会をします。そして帰ってたら24時間PPHがあり、終わったら埼玉県に行っての集会があります。そこから帰ってきて、大阪での集会があり、神学校があり講義をしなくてはなりません。
 そして礼拝があって、14日から十日間ほどペルーに行くことになっています。来年のことだと思っていましたが、今日から始まってしまいました。こんな過密スケジュールをうまくこなせるのだろうかと思いますが、よく信弘先生が、「呼ばれるときが花だ」と言われますので、そうだと思っています。誰も呼んでくれなくなったらお終いだと言われますが、そうならないように、精一杯奉仕させていただきたいと思っています。

 私は海外にまで行って奉仕するようになるとは、夢にも思ってもいませんでした。教会とは一人一人なので、私に扉が開いたとしたら、全員に扉が開いているのです。共同体に扉が開いています。私たちは祝福を共有できます。
 昨年を振り返って、私はあの人のようではなかったと思ったりします。教会の中に奇跡が起こり、それを嬉しく思う反面、なぜあの人にだけ起こるのだろうか。なぜ、私には起こらないのかと、うらやましがることもあります。
 しかし全体に大きな扉が開かれています。そして、絶妙なタイミングで、神の栄光は現されます。ですから、今年一年間、色々な奇跡が起こりますが、それらのすべては共同体の祝福として、「喜ぶ者とともに喜びなさい」とありますので、受け取っていただきたいと思います。
 また、悲しみも互いに共有するならば、支え合うことができます。

 昨日の越年の集会では、日本人だけではなく、色々な国の方々がも参加してくださいました。文化、言語を越えて一つとなって礼拝を持ちました。そんな集団は教会以外にはありません。普通なら、国や文化、言語が違えば、なかなか交わることはできません。しかし、イエス・キリストによって一つにされ、神の国の民として歩むことができることを感謝します。

 十五年前、私は初めてアルゼンチンに行きました。当時、海外旅行をあまりしたことがなかったので、どうやって行けば良いのかわかりませんでした。一人で行かなければなりませんでした。旅程表の見方もわからなかったので、到着日を一日間違えて現地に告げてしまいました。到着すると、誰も迎えに来ていませんでした。ブエノスアイレスの空港で一時間待っても二時間待っても、三時間待っても誰も来ませんでした。アルゼンチンの人たちは遅れると聞いていたので、このくらいは普通かと思っていました。
 しかし、三時間くらい待って、これはちょっとおかしいと思い、問い合わせて見ました。すると、「昨日迎えに行ったけれど、いなかったから帰った」と言いました。六〇〇キロ先に帰ったというのです。それで困りました。探したら日本人教会があったので、一晩教会に泊めてもらうことにしました。
 良かったと思いました。すると次の朝、私の所に電話がかかって来ました。「イグアスの滝を見に行かないか」
 私は滝はすぐ近くにあると思っていました。だからパスポートと財布だけを持って、気軽に出かけて行きました。私はてっきり、日帰りだと思っていました。すると、「日帰りではないよ。四日間かかるんだよ…」と言われました。私はTシャツ一枚でした。そして、行った先はパラグアイという国でした。そこに日本人グループが集会をしているというので、連れて行かれました。大地は褐色で、シャツは一日で黄色に染まってしまいました。服や下着がなく買おうと思いましたが、お店がありません。
 その夜、一軒の家に泊めていただきましたが、主人が入ってきて、私にピストルを渡すのです。そして、「ここはとても危ない地域で、日本人が襲われる事が多い。夜中に誰かが部屋に入ってきたら、先に引き金を引け」と言われました。引かなかったらなったらどうなるのですか、と聞くと、「あんたが撃たれる」と言われました。
 私はピストルを置いて、「主よ。だれも入ってきませんように」と真剣に祈りました。何事もなく過ぎ、イグアスの滝を見て、「やれやれ…、今回の旅はメチャクチャだった」と思いながら、汚い格好で空港に向かいました。

 私はそんな調子だったので、帰りの飛行機を予約していませんでした。誰でもすぐに乗れるものだと考えていました。すると空港で、「ちょっと待ってください」と言われたので、待っていました。一緒に行った人たちは先に搭乗してしまいました。
 私がロビーでしばらく待っていると、突然、空港の電気が消え、コンピューターもダウンし、カーテンが引かれ、戸が閉まりました。
 私はあわてて、「どうなるのですか?」と聞くと、「あんたは乗れなかった。もう飛行機はありません」と言われました。「どうしたら良いのですか。」と聞くと、「明日また来て並んでください。そうしたら何とかなるかも知れません」と言われました。困ってしまいました。
 「どうしたら良いですか」と聞くと、近くに難民キャンプがあり、その中に日本語のわかる人がいるので、泊まれるように頼んでくれると言われました。一難去ってまた一難という感じでした。
 経済難民とは、国境間を行ったり来たりしています。通貨のバランスが崩れると、橋を隔てるだけで物価が大きく変動します。それで難民が発生するのです。
 そこに行くと、キャンプはすごい臭いでした。その中で伝道している教会があり、日本語のわかる人がいました。私が行くと歓迎して、マテ茶というお茶を提供してくれました。水にマテ茶の葉を入れて、ストローで吸います。全部飲んだら隣の人に渡して回し飲みです。水を見ると、ボーフラが元気に動いていました。「イエスさま、守って下さい」と祈って飲みました。
 夜は私が来たと言うことで、難民キャンプで集会が催されました。教会といっても、ブロックの上に板を渡して人々は座っていました。しかし、とても良い集会でした。大勢の方々が決心され主を信じました。

 次の朝、牧師が朝ご飯を提供してくれました。ベッドの下からパンを取り出しました。パンを受け取った途端、パンの周りにハエが飛んで来てパンが黒くなりました。私は手でハエを追うと、「そんなことをしないで早く食べろ」と言われました。「どんどん来るから早く食べないとハエに負ける」と言うのです。
 命からがら空港まで行きました。そうしたら突然、お腹が痛くなりました。トイレに行くと強烈な下痢でした。
 やっと飛行機に乗ると、青い紙が配られました。スペイン語と英語で書かれていました。その用紙には、「この地域はコレラ危険地帯です。以下の症状があったらすぐに申告してください」と書かれていました。最初に、「激しい下痢」という項目がありました。「私はコレラになったのか・・・」と思いました。
 しかし無事でした。予想外のうえの予想外の旅でしたが、生きて帰れて良かったと思いました。人生には予想外のことが起こります。

 今月はペルーに行きますが、ちょっと危険なところに行きます。以前ここで証をしてくださったリバイバル聖書神学校を卒業した下田先生がペルーの奥地で伝道しています。そこは魔術があり、悪霊が強く働いているところなので、やっつけてくださいと言われました。また新城教会から帰っていった、兄姉姉妹とも集会をしたいと思っています。七年ぶりになりますが、主が共にいて下さることは素晴らしいです。主とともに歩む一年間でありたいと願います。

 さて昨日は、六名の先生方がメッセージを語ってくださいました。後日、メッセージ集が編集されますので、ぜひよくお読み下さい。そこには一年を安全に過ごす為の全体的メッセージがあります。今から私がダイジェストで紹介したいと思います。

 最初に岡本信弘先生が語ってくださいました。主題聖句は第一サムエル記十七章四十五節から四十七節でした。ここはダビデとゴリヤテの戦いの記録です。ダビデがゴリヤテと戦った戦いは、今の時代に置き換えれば、目に見えない敵との、霊的戦いを現していると語りました。
 私たちの戦いは、霊的戦いです。見える世界に生きているようですが、実は見えない世界が同時存在する中に生きています。まず私たちは、今年一年間、見える世界だけではなく、「見えない世界」をよく理解し意識する必要があります。
 ダビデとゴリヤテの戦いは、現実の戦いでしたので、負けたらダビデは終わりでした。ダビデが一発ゴリヤテの槍を受けたら、それで人生は終わりだったのです。
 霊的戦いも、やってもやらなくても良いのではなく、ある意味、食うか食われるかの真剣勝負だと語られました。しかしここで、『この戦いは主の戦いである』と述べられています。十七章四十七節に、

『この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」』

 今年私たちは、主の戦いを戦います。どうやって戦うかに関して、ダビデが使った武器は、ゴリヤテが持っていた剣や槍、鎧のような武器ではなく、ダビデが長年使い慣れ、使い古していた「石投げ」という、普通で見たら武器とは思えないような武器を使い、一撃でゴリヤテを倒したのです。
 そんな記録の中から、神は一人一人に既に賜物を与えていると語られました。あなたしか使うことができない武器、剣が与えられているのです。イエス・キリストを信じる者には、誰にでも、残らず、神の賜物、すなわち、特別な能力が与えられています。それは悪魔と戦うための剣です。そして、「自分が既に受け取っている剣をさらに磨きなさい」というメッセージでした。
 皆さんが神様から既に与えられた能力で、敵と戦い、勝利することができると語られました。それが、主の戦いであると語られました。私たちには、すでに武器が与えられているので、それをさらに磨く必要があると語られました。

 二番目には、滝元開先生が語りました。彼らは色々な所で賛美をしています。昨年は刑務所で何回かコンサートをしたそうです。受刑者の方々は、毎回とても楽しみにしているようです。彼らの賛美を通して、霊的戦いが進んでいます。
 彼が語った中心的な聖句は、創世記二十六章三節から四節でした。

『あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。』

 彼は今年のみ言葉として、「この地に滞在せよ」という言葉を受け取ったそうです。私たちクリスチャンや教会は、なかなか同じ場所に滞在できない事があります。一年間色々やってみて、うまくできないからもっと良い方法はないか、と考えます。しかし主が私たちに与えてくださっている使命とは、「この地」だと語りました。与えられている使命である、この地に滞在していくことが重要であると語られました。
 特に教会のひとりひとりに、霊的戦いの領域を開いてくださっていますが、その地にしっかりと滞在し、戦い続けるとき、主は私たちを祝福してくださると語りました。
 この中で、「わたしはあなたとともにいてあなたを祝福する」と、祝福のみ言葉が語られています。この地に滞在し、とどまり続け、戦い続けることによって、祝福が与えられると教えています。

 同時にもう一つの言葉が語られました。人間は罪を犯せば罪の報いを受けなければなりません。刑務所に行くと、罪を犯した人々が閉じこめられています。私も毎月、名古屋拘置所に行ってある方と面会します。十分間だけ話す時間が与えられます。何を話しているのか、隣で全て筆記されます。最後にお祈りして帰ってきます。そこから一歩も出ることはできないし、ガラス越しで話します。すぐ前にいるのに、触れることもできません。その方は未決ですが、早く解放されるように祈っています。
 罪を犯したら、必ず報いがあります。世界は多くの罪で満ちています。神は人々を何とか救ってあげたいのですが、罪が満ちると、罪ゆえに受けるさばきがあります。人間の世界でも裁きがあるのですから、ましてや、神の世界はなおさらです。罪という原因があることにより、神のさばきの手が伸びます。
 今、日本は危険な状況にあると思います。神の前に設置されている、罪の目盛りがどんどん上がっています。日本全体の罪は、国民すべてを包括する裁きですので、私たちクリスチャンもその中に含まれてしまう危険があります。
 昨年は何度も、各地で大きな地震がありました。東海地方にないことが不思議なくらいです。昔は、大きな地震があると言われても、狼少年のように思っていました。しかし今では、明日にでも大地震が起こるかも知れないという恐怖があります。
 社会情勢も混迷しています。それは罪の結果として、神は人類をさばかざるを得ない状態なのです。

 しかしそれを食い止めるためには、主を信じた者たちの、「とりなしの祈り」が必要だと語られました。その、とりなしの祈りとは、「死んだ者と生きる者との間に入ること」だと語られました。罪によって死んだ者と、主によって生かされた者たちの真ん中に入り、神の前にとりなし、祈らなければなりません。
 今年、私たちは生ける者と死んだ者との間に入り、神のさばきの手が動くことがないように、日本の救いのために祈らなければなりません。

 続いて滝元明先生が、ダニエル書十二章十三節から話しました。

『あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。』

 父は今年で七十九才です。人生の終盤に来ています。しかし、神が与えた使命にとどまり続けなければならないと語りました。
 『あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。』
 神様は、私たち一人一人に割り当ての地、すなわち、使命を与えてくださっています。これは、年が若いとか、年を取っているとかは関係なく、最後の一息まで、主が私たちに割り当ててくださった地に立ち続けなければなりません。
 一人一人に主が与えた使命に生き続けることが大切であると語りました。今年一年間、私たちに与えられた使命を全うしたいと思います。「あなたの与えられた剣を磨きなさい」という、み言葉に通じるものでした。

 次に、フェルナンド・コハタ先生が語ってくださいました。彼はまず、私たちが霊的戦いの中で戦わなければならない相手は、王や軍隊の隊長や司令官を狙わなければならないと語りました。特に王は軍隊を指揮しているので、そこに奪われたもの、捕らわれている人たちがいる、王宮に入って戦い、王を倒す勇士が必要だと語りました。
 そして、士師記三章二十節から二十一節を引用しました。

『エフデは王のところへ行った。そのとき、王はひとりで涼しい屋上の部屋に座していた。エフデが、「私にあなたへの神のお告げがあります。」と言うと、王はその座から立ち上がった。このとき、エフデは左手を伸ばして、右ももから剣を取り出し、王の腹を刺した。』

 エフデは、敵の王の宮殿に入って、王を剣で刺し通し滅ぼしました。それは血生臭いストーリーですが、旧約聖書のストーリーは、新約時代においては霊的戦いを現しています。
 エフデは王を倒しました。それにより、イスラエルは解放されました。同様に、神様は、霊的な世界においても、エフデのような人物を募集しています。「エフデのようになって敵の王宮に侵入し、敵の首領を倒す勇士を主は求めている」と語りました。
 そのためにはどんな条件があるのか、エフデは左手を伸ばして、股から剣を取り出したとあります。
 エフデは左利きでした。左手で右の股から剣を抜いて王を刺したとあります。普通、右ならば、右に剣を差して用いますが、左手で剣を抜きました。
 左利きという表現は、エフデがハンディキャップを持っていたことを意味します。当時左利きは、右手がうまく使えないという意味でした。しかしそんな中、彼は大きな勝利を得ました。
 神が使われる勇士とは、自分の限界を知っている人物だ、と語られました。時々私たちは弱くて何もできない、ある意味で、人と比べてハンディがあると思われるかも知れません。
 しかし、左手しか使うことができない状況の中でも、神は私たちを使ってくださるのです。なぜなら、主が完全な右手となり、私たちを支えてくださるからです。
 時々私たちは、「自分は足らない」と嘆いていますが、そんな人を勇士として用いると言われます。
 それと同時に、エフデは王の所に入って行き、「私にあなたへの神のお告げがあります」と王の関心を引きました。彼は嘘を言ったのではありません。彼は王に、「お前の時は終わった。神の時が来た」と神の勝利宣言をしたのだと語りました。
 私たちはみ言葉を、敵に宣言するのです。「悪魔よ。お前の時はもう終わりだ。神の時が来た!」と宣言しなければならないのです。それも、敵の王宮に侵入し、その宣言をしなさいという深いメッセージでした。
 私は戦うことはできません、力がある人がやったら良いというのではなく、霊的にハンディがあっても良いのです。主が完全な右手となって、私たちを支えてくださるのです。神のみ言葉である真理を、敵に対して宣言しなければなりません。
 私も今年はさらに敵陣の奥にまで入り込み、「お前の時が終わった、。神の時が来た!」と宣言する者になりたいと願っています。

 次に四元雅也先生が語ってくださいました。ヨハネの福音書一章十六節に、

『私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。』

 彼が主から示されたメッセージは、「今年は昨年に増して、恵みの上に恵みが増し加えられる」というものでした。
 昨年の勝利の上に、更なる勝利が重なってくる、恵みの上に恵みが重なるということです。そうなると信じましょう。
 しかしそれと同時に、もう一つ語られた言葉がありました。それはルカの十二章四十二節から四十八節でした。

『主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。』

 ここでは、忠実な思慮深い管理人について述べています。恵みをいただくことは嬉しいですが、神の恵みとは、私たちが楽しむためではなく、目的があるゆえに恵みが与えられるという事でした。そして、新城教会には、主からの使命があると語られました。
 すなわち、教会に集められている一人一人は、神が教会全体に与えている使命を、共有する者たちであると語りました。彼はそれをうまく分析して語りました。そのような中昨年も、私たちは多くの恵みを受けたのです。
 教会にはスタッフたちがいますし、プレイズ出版、リバイバルミッションなど充実した環境で礼拝できることは感謝です。しかしそれは、単に自分たちが楽しむための道具ではありません。この教会には、世界のリバイバルのために働くという、大きな使命が与えられています。ですから、教会に与えたられた使命を共有する者として、一致して与えられた賜物をよく管理しなければならないということでした。
 私たちは神からのきよさをいただき、自分自身をも管理し、主の勇士として歩むこと、そして、与えられた賜物と使命は、決して個人のものではなく、神の国の拡大のための資産であると語られ、もう一度身を引き締めるように、主は語ってくださいました。

 そして最後は、上條先生が語りました。彼に与えられたメッセージは、昨年滝元明牧師が語ったのと同じ、詩篇二十三篇でした。そして、主は、引き続き、悪魔に対する復讐と、今まで回復不可能と思われた領域に、回復を与えてくださると語りました。
 詩篇二十三篇では、私たちを羊として描いています。主は今年、敵の目の前で宴会を催してくださり、頭に油を注いでくださると語られました。
 また、『緑の牧場に伏させてくださる』という言葉から、今年は主が私たちを牧場に伏さる年であると語られました。
 羊はそう簡単には寝ころばないそうです。寝ころぶ時は、条件が整ったときだと語りました。まずは、お腹がいっぱいで、仲間との緊張状態がなく、病気もなく、恐れやストレスがないときに、羊は寝ころぶようです。同様に、神は私たちを寝ころばせてくださる、リラックスさせてくださると語られました。
 悪魔に対する復讐と回復の時が今年訪れるという、希望のメッセージをくださいました。私たちをストレスから解放してくださるという、更なる大きな勝利のメッセージでした。

 以上のようなメッセージを各牧師が語ってくださいました。それぞれ、鋭く、主から語られた言葉をキャッチしてくださいました。それは単なる願望の言葉ではなく、今年に対する主からの預言的言葉として、受け取っていただきたいと思います。

 私に与えられたみことばは、今週の日曜日にも少し語りましたが、加えてマルコの四章二十六節から二十九節が与えられています。

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 聖書のみ言葉が与えられるときは不思議です。何気なく聖書を読んでいるときに、み言葉に捕らえられるからです。
 私の聖書の読み方は、「日曜日に何を語ろうか・・・」というような思いで読んでしまいます。先日もそう考えながら読んでいました。しかししばらくすると、メッセージの準備などそっちのけで、全て忘れて聖書に吸い込まれるように読んでいました。
 そんな中、マルコの福音書の四章二十六節から二十九節のみ言葉が心にとどまりました。
 この箇所は、種まきの例えからの続きです。マルコ四章二節から九節に、

『イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」』

 イエスさまは弟子たちに、種まきの例えを話されました。しかし彼らには、意味がわかりませんでした。するとイエスさまは、その意味について解き明かされました。マルコ四章十四節から二十節。

『種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。――みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」』

 種は道ばたに落ち、カラスが飛んできて食べてしまいました。それはサタンが種を持って行ってしまったのです。続いて、岩地に落ちた地について語られ、それはいばらが塞いで、種が育たなかったとあります。
 けれども、最終的には良い地に落ちた種は、「人手によらず」、苗から実になり、収穫へ至ったとイエスさまは語りました。
 種はどのようにして育つのでしょうか。種とはみ言葉であり、福音を伝えるプロセスを教えています。どうやったら福音が伝えられ、人々が育っていくのか・・・。
 地は人手によらず実を実らせるとあります。私たちが福音を伝えて実を実らせるのは、私たちの努力ではなく、人手によらず自然界も実を実らせていくのと同様に、福音の実も結ばれるとあります。
 しかしそれには一つの条件があります。「良い地に落ちた種だけ育つ」という条件です。岩地や、道ばた、いばらの中に落ちた種は育たないのです。

 当時の道路は石畳か砂利道でした。道ばたに落ちる種とは、岩や石の地に落ちる種を意味しています。土とは、岩が砕かれて土となります。岩でも土になったら耕すことが出来、良い地として改良できます。そうしたら、その地に蒔かれた種は芽を出し、やがて収穫に至ります。
 三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶためには、土地を改良しなければなりません。それは岩地を砕き、そこが苗床になるように土地改良をしなければならないのです。
 同時に、日曜日に語ったエゼキエル書三十六章二十五節から三十節です。

『わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。』

 水が降りかかるときに、岩は溶け出して土となります。石の心が肉の心に変えられる為には聖霊の力が必要です。エゼキエル書のみ言葉は、石のような心ではなく、肉の心、すなわちよく耕された心を主が備えてくださることを意味しています。
 またエレミヤ書三章一節から三節。二節から三節に、

『目を上げて裸の丘を見よ。どこに、あなたが共寝をしなかった所があろう。荒野のアラビヤ人がするように、道ばたで相手を待ってすわり込み、あなたの淫行と悪行によって、この地を汚した。それで夕立はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をしていて、恥じようともしない』

 日本人は、自然の岩が救いの岩だと考えています。目の前に見える岩が、救いの岩だと信じています。それゆえに、本物の救いの岩である、イエスさまが見えなくなってしまい、心が硬くなってしまう現実があることを以前にも話しました。
 日本において、夕立が止められ、後の雨がないのはどこに原因があるのでしようか。それは裸の丘、すなわち、岩を礼拝する行為によって、聖霊様が働きたくても働くことはできず、人々の心は硬くなり、み言葉を蒔いても、道ばたや岩地でいばらが塞いでしまい、育つことはありませんでした。
 しかし、その偽りの岩を砕くとき、今度はよく耕された地が出現し、人手によらず種さえ蒔けば成長して、三十倍、六十倍、百倍の収穫を与えてくださるのです。

 特に今年、私は「裸の丘」と呼ばれる、悪魔が置いた高きところを打ち砕く祈りを続けなさい、そうすれば、三十倍、六十倍、百倍の収穫を与えると、教えられています。
 
 わたしは、先生方の二〇〇八年のメッセージに、私のメッセージを加えて預言的にまとめてみました。

2008年に対する預言的メッセージ

 新城教会の霊的戦いは今年も前進します!そして今年は、昨年に増して更に恵みが増し加えられます。
 ダビデとゴリヤテの戦いは、霊的な世界での戦いを現しています。この戦いからもわかるように、戦いは負けたらすべて終わりです。ダビデがゴリヤテと戦ったとき、ダビデは自分が常に使っていた武器で勝利しました。
 あなたに与えられている賜物と剣を更に磨きなさい。そしてこの地に滞在し続けなさい。その意味は、霊的戦いの路線を貫くことです。その時、わたしはあなたがたに祝福を与えます。
 とりなしの祈りとは、死んだ者と生きる者との間に立つことです。人々の罪が増し加わるとき、神のさばきの手が伸びます。滅びは神のみこころではありません。さばきを止めるためには、悪魔と戦う勇士たちと、取りなし手が必要です。あなたは与えられた使命に生き、最後までその役割を果たしなさい。

 戦いでは強い存在を滅ぼす必要があります。そのためには、敵の宮殿の奥深くに侵入する勇士たちが必要です。なぜならば、そこに奪われ、捕えらわれた全てがあるからです。
 エフデは敵の王の宮殿に入り込み、王を滅ぼしました。わたしは、日本にエフデのような人物を必要としています。
 彼は自分の限界を知っていた人物でした。けれども神の力が彼に臨んだとき、限界を超え、彼は偉大な働きをしました。み言葉の剣を持ち歩き、神のみ言葉を敵に宣言しなさい。「お前の時は終わった。神の時が来た!」と。

 もう一度告げます。今年は昨年の恵みの上に、恵みが加わる年です。しかしそれは自分のためではありません。新城教会には世界のリバイバルを推し進める役割が与えられています。教会に属する全ての者たちが、同じ使命に燃え、一致して働きなさい。そのためにあなたがたには多くの賜物が任されています。ゆえに、それらをよく管理しなさい。

 昨年に引き続き、復讐と回復が来ます。あなたが今まで回復不可能と考えていた領域に、回復が来ます。敵の前で食事が整えられ、更に油が注がれます。
 羊が横たわるとき、それは彼らがストレスを感じていないときです。牧草が十分にあり、仲間との争いがなく、病気がなく、恐れがないときです。今年は、あなたが横になれる年します。

 人々の心は柔らかくなり、福音に耳を傾けるようになります。なぜなら、岩のような心が打ち砕かれ、肉の心が与えられるからです。それは聖霊が注がれるときに起きます。
 けれども、日本には、聖霊の働きを止める力が働いています。日本のリバイバルを止めているのは他でもなく、偶像礼拝です。日本の山々や丘々で、かつて悪霊が招かれなかった場所はいったいあるのでしょうか。ほとんど、すべての高き所が悪魔の手に陥っています。
 裸の丘を発見し、それらを打ち砕きなさい。偽りの岩を打ち砕き、本物の救いの岩である、わたしの名前を宣言しなさい。その時、後の雨が降り注ぎ、岩が砕かれ、地は耕されます。そうすれば、蒔かれた種は人手によらず実を実らせ、その収穫は三十倍、六十倍、百倍となります。

 これを主からの言葉として受け取りましょう。イエスさまを賛美しましょう。この言葉が皆さんの人生に実現し、勝利の2008年となりますように。今年はストレスなく、生きることができますように。お祈りします。


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