宝を天にたくわえなさい。

2008.1.6(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘師

マタイの福音書 6章19節〜24節
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

 ハレルヤ! 新年明けましておめでとうございます。
 二〇〇八年に入り、最初の礼拝で御言葉を語ることができ、心から感謝します。新しい年を迎え、今ここにいることができるのは、神さまの恵みだと思います。
 教会では忙しい一週間でした。先週の日曜日の礼拝が終わり、午後は県民の森での祈祷会。三十一日はカウントダウンの聖会。そして一月一日と二日は新年礼拝があり、三日と四日はリバイバルミッションが主催する二十四時間PPHが行われ、そして今日を迎えました。あっという間に一週間が過ぎてしまいましたが、皆さんは正月をどのように過ごされたでしょうか。

 先週三十一日のカウントダウンの聖会では、私を含む六人の先生方が、二〇〇八年に向けての御言葉を取り次ぎました。神さまが私に語ってくださった御言葉は、サムエル記第一の十七章四十五節から四十七節で、そこから「あなたに与えられた剣を磨きなさい」と教えられました。ここには、イスラエル人とペリシテ人の戦いが記されています。しかし、現代に生きる私たちにとっては、人とサタンの戦いを現していると思います。
 実際には、ペリシテの代表戦士ゴリヤテとダビデの一騎打ちでした。ダビデはまだ戦いに参加することは許されていませんでした。それはまだ若く戦いの経験もなかったからです。その彼が、戦いにかり出されているお兄さんたちのために食糧を持って行って、ゴリヤテと相対することになりました。
 ゴリヤテは完全防備の武具を身につけ剣や槍を持ち、どこにも隙がなく、三メートル近くもある巨人だったので、イスラエル人は意気消沈し近づくことすらできませんでした。それに反してダビデは若く、武器もありませんでした。だれの目にも勝ち目はないと思われていた戦いでした。しかし、ダビデはゴリヤテの前に立ちはだかり、言いました。

『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。』(第一サムエル記十七章四十五節)

 ダビデは羊飼いで、特別な武具を着けていたわけでもなく、持っていたものは武器とは決していえない石投げ一個だけでした。戦いに臨むにはあまりにも粗末で、おもちゃのように思われたことでしょう。しかし、イスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって立ち向かったとき、石投げで投げた石がゴリヤテの額に食い込み、彼はうつぶせに倒れたと書かれています。イスラエルはペリシテの捕虜となるところから、その石一発で形勢は逆転し、大勝利を収めたのです。彼の持っていた石は、何にもまして大きな力を発揮し、相手を打ち負かすことができました。
 皆さんも、時々は大きな問題にぶつかることがあるでしょう。そんなとき、もっと力があったら、もっと強力な武器があったらこれに立ち向かうことができるのに…と思うかもしれません。しかし、神さまには力があります。そして、神はすでに私たち一人ひとりに賜物・武器を与えておられます。その武器を磨き、神さまの御名によって信頼して用いるなら、大きな力を発揮します。そして、問題の解決、勝利を見いだすことができます。そして、神さまが見方であるならば、私たちは必ず勝利を得ることができ、その勝利は、単なる勝利ではなく、圧倒的な勝利なのです。

『では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。』(ローマ八章三十一節)
『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』(ローマ八章三十七節)

 あなたにはすでに武器が与えられていること、そしてイエスさまと共に歩むなら、この二〇〇八年も、主が先立ってくださり主が勝利を与えてくださいますから、信仰を持って進んでいきましょうと、語らせていただきました。

 ほかの先生方も、それぞれ二〇〇八年のために与えられたメッセージを語ってくださいましたが、それを聞きながら、私は大変励まされもう一度、心新たにさせられました。
 滝元明先生の証しは何度も聞いたことがありますが、今回もう一度聞き、大変感動しました。先生が引用された箇所はイザヤ書五十一章一節でした。

『義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。』

 明先生ご夫妻がこの地に入り、開拓伝道を始められた初めの頃のことです。よそから招かれて伝道に出かけるとき、切符を買うお金がなくて、奥様が着物を売って旅費をつくったそうです。またあるとき、十日間の奉仕をして帰るときにもらった奉仕料がほんのわずかだったので、先生はそれを持って部屋に行き、泣いて主に祈ったそうです。その祈りの中で明先生は主から、「お前は何のためにここに来たのか」と問われ、「もちろん、伝道です」と答えると、「それならそれでいいじゃあないか」と語られたということでした。明先生は、ご自分のことを振り返ると同時に、原点に戻って、もう一度主に信頼し、働きを進めていこうとの心情を語ってくださいました。
 主から「それならそれでいいじゃないか」と言われ、「はい。そうですね」と簡単には言えなかったのではないかと思います。本当に大変だっただろうなぁ、私だったらどうしただろうかと思います。そんな貧しい中での多くの犠牲を払ってくださった先生御夫妻のお働きに感謝するとともに、私ももう一度自分を点検し、主のために働かなければと思わされました。
 昔のことを明先生が話されるとき、「滝元家、岡本家、見城家もみな貧乏だった」とよく言われます。正直なところ、私が成長した中学・高校の頃は家の家計は安定していたのか、金に困ったことはありませんし、家が貧乏だと思ったことも一度もありません。かと言って、お金がたくさんあったわけではありませんが・・・。お金があるかないかは人間にとっては重要ですが、神さまは、私たちがお金のために労する者ではなく、天に宝を積む者となりなさいと教えています。

『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。』(マタイ六章十九節) 

 別の訳では、「自分のために、宝を地上にたくわえるのはやめなさい。」とあり、自分のために宝を積むことを戒めています。
 どこに、だれのために宝を積むかが問題です。急にお金や物をたくさん持つと人間が変わると言われます。私はよく、「世の中は金だからね」と言います。お金は大切ですし、お金があればできることもたくさんあります。しかし、使い方を間違うと大変なことになります。金や物によって支配され、堕落していった人がたくさんいます。高級ブランド品を集める人、車や食などにお金をかける人、それぞれかけるところが違います。美味しいものを食べたいと、たった一杯のラーメンのために長い行列に並んだりする人もいます。ある人は、時給が百円でも高いところに就職したいと探します。そうすることが悪いわけではありません。神さまは、私たちがこの地上で楽しむようにと、いろいろなものを与えてくださいました。しかし楽しみを求めることがエスカレートしていくと、賭け事に走って財産を食いつぶしてしまったり、偽ってでも金を得ようとします。それが裏金作りや政治献金の罪につながり、自分だけでなく、家族をも不幸に陥れることになります。
 また、一家の主人が亡くなった悲しみの中でも、財産の相続について骨肉の争いが起こり、泥沼状態になるということもよくあることのようです。我が家も両親が亡くなりましたが、分ける財産もなかったので、話し合いにもなりませんでしたが・・・。
 私はビジネスが好きで、金儲けが好きです。鈴木留蔵さんというクリスチャンの実業家の方がおられますが、私は留蔵さんを尊敬しています。今までに何度かお会いしたことがありますし、証しを聞いたり、本も読みました。昨年のハワイリバイバルミッションにも来てくださいました。留蔵さんは多くの財産を築いている大成功を収めた方ですが、自ら伝道することが趣味だと公言しておられ、自分の財を神さまのために献げておられます。普通、あれだけ財があったら人間は高ぶるだろうと思いますが、本当にへりくだった方です。
 金を儲けた人、富を得た人は、人格が変わってしまい、人生を駄目にしてしまう可能性があります。ルカの福音書に、金持ちの畑が豊作であったというたとえ話があります。ある年、豊作でたくさんの収穫がありました。それを穀物倉にしまっておこうとしましたが、小さすぎて入らないので大きな倉を建て、そこに穀物を蓄えることにしました。そしてこう言いました。『「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』(ルカ十二章十九節)
 しかし神は彼に言われました。『「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。』(同十二章二〇〜二十一節)
 さらに、『「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」』(同十二章十五節)とあります。
 現代においては、土地や株券、金や宝石が価値あるものとされていますが、その時代には衣類や穀物が財として蓄えられていました。しかしそんな虫が食い、色あせ価値が失われていくものを頼みをしても仕方がないからやめなさい、大きな倉を建てて穀物を蓄えてもいのちが取り去られたら何もならないからやめなさいと教えています。
 ここに、「虫とさび」とありますが、「さび」には、食い尽くすという意味があるようです。倉に穀物を貯蔵しても、いなごやバッタ、ネズミなどが来て、全部食い尽くしてしまうことがありました。だから、そんなものに望みをおくのはやめなさいと言われました。また、当時の家は壁が薄かったので、強盗が壁に穴を開け、家財道具全部を持って行ってしまうなことがあったようです。今の家は頑丈になりましたが、それでも安心できません。銀行に預けてあっても絶対に安全とはいえないのですから。たくさん財産を持っている方は、盗まれたりしないだろうかといつも心配があると思います。では、どこに預けると良いのでしょうか。聖書には次のように書いてあります。

『自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。』(マタイ六章二十節)

 天に蓄えられる宝は、この地上に蓄えられる目で見える宝とは全く別のものです。目に見える物質的なものは段々朽ちていき、価値がなくなってきますが、天に蓄えられた宝は、決して虫もさびもつかず、盗まれることもないのです。
 私たちが地上において、宝や財を蓄えることが悪いのではありません。事業家の方はたくさん儲けたらいいと思います。私もプレイズ出版の働きをさせていただいて、どうやったら儲かるか考えると、楽しくなります。時には、失敗してお客さんに怒られ暗くなることもありますが、その一方でビジネスのプレッシャーとスリルは、どんなゲームよりもおもしろく、商談が決まったときの喜びは、どんな美味しい料理を食べるよりも楽しいと思います。しかし、もし自分の私腹を肥やすためだけにしているとしたら、それは無意味であり、それほど見にくいものはないと思っています。
 ある一般会社のサラリーマンの方と話したとき、「うちの会社は給料が少なくて…」と愚痴を言いました。「どのくらいもらっているのですか?」と聞くと、驚くほど充分な額をもらっていました。こんなにもらっていても文句があるのかと思いました。会社のため自分は給料の何倍もの仕事をしているのに、これでは割が合わないと、自分だけが損しているかのように思っているようでした。そして、時々、働くのが空しくなるそうです。その方があるとき、「なぜ岡本さんはそんなに仕事に没頭できるわけ?」と聞きました。その方は私がクリスチャンであり、牧師であることを知っています。ですから、「やっぱりそこまで駆り立てられるのは、神さまを信じているからなんだろうね」と言われました。確かにそうです。単なる金儲けであるなら、空しいことだと思います。自分のためにではなく、神さまのために働けるということは、私の喜びです。そして、儲けたものを、神さまのためにどのように用いるかが大切です。
 あるホームページに『ゴードン将軍の宝』という記事がありました。
 昔イギリスに、ゴードンというクリスチャンの将軍がいました。彼は中国の戦闘などで輝かしい功績を残し、政府から何度も報奨金や感謝状を贈られましたが、彼はすべての金銭や称号を辞退していました。しかし、たった一度、三十三回の戦闘を記念した金メダルを作って贈られたとき、初めて彼はそれを受け取りました。そしてそれは、彼の最も大切な所有物となったそうです。
 彼の死後、そのメダルがどこにあるかを家中探しましたが、どこにも見あたりませんでした。色々調べて、ようやくその行方がわかりました。そのメダルをもらって何年か経ったとき、その地方に大きな飢饉が訪れました。彼は自分のメダルをマンチェスターに送り、それを溶鉱炉で溶かして金に換え、苦しんでいる人々のためにパンを買うようにと捧げました。そのことが何故わかったかというと、彼の日記が見つかり、そこに、金メダルを手放したときのことが次のように書かれていたそうです。「私がこの世において重んじていた最後の、そして唯一のものを私は主イエス・キリストに引き渡した」。彼はメダルを受け取ったときにはそれが自分の宝になり、それを手放したくないと思ったと思います。しかし晩年、飢饉で多くの人が苦しんでいるのを知ったとき、自分のためにそれをとっておくより、それを捧げて、多くの人が生かされるために使ったのです。天に宝を積んだのです。
 また、こんな話がありました。金持ちのおじいさんが病気になりました。多くの人が見舞いに来ましたが、彼はいつも片方の手をギュッと握っていて、だれとも握手をしようとしませんでした。そのおじいさんが亡くなり、火葬にされ、お骨を拾っていたとき、一本の鍵が残されていました。それは、おじいさんが最後まで握りしめていたもの、命よりも大切に守ってきた、財産金庫の鍵でした。当然だれもがわかるように、いくら財産を大切に金庫にしまっていて、その鍵を握っていたとしても、この地上の財産をあの世に持って行けるわけではありません。六章二十一節には、

『あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』

とあります。あなたの宝は何ですか? あなたの心は、どこを向いていますか? この年の初めに、ぜひご自分の心を点検してみてください。
 ある読み物に、こんなことが書かれていました。「あなたの宝を、広げた手のひらに載せておきなさい。もし、何かをギュッと握りしめているなら、神さまはその宝を取るために、あなたの指を無理に開いて痛い目にあわせなければならないかもしれません。しかし、もし手を広げて、その宝を手のひらに載せておけば、いつ、その宝が取り去られたか知らないまま、悔いが残ることはないでしょう」。 
 すべてのものは神のものです。神さまが私たちに与え、神さまが取られます。ですから、私たちが自分のものとして握りしめていたら、神さまが必要なとき、指を無理矢理に開かせてそれを取り去るでしょう。しかし、私たちが宝を手のひらに載せておけば、神さまがそれを自由に使ってくださいます。そして報いとして何倍にも増して恵みをいただくことができるのです。
 聖書は、物質的な宝だけでなく、見えないものの価値についても教えています。

『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。』(マタイ六章一節から二節)

 クリスチャンであれば、主に奉仕したい、捧げたいと思われることでしょう。祈ること、献金、伝道、奉仕、それらはすべて天に積まれる宝です。しかし、ここには、栄誉を受け、人から称賛を受けたなら、天の父から受けるべき称賛をこの地上で受けてしまってプラスマイナスゼロになってしまうと教えています。ですから、私たちは、この世で称賛を得ようと人の目の前で善行をすることなく、神さまから報いを得られるようにしなさいと勧めています。そして、使徒の働き二十章三十五節には、『受けるよりも与える方が幸いである』とあるように、自分のためではなく、だれかに物をあげたり、何かをしてあげるなら、祝福を受けます。
 去年亡くなった私の母親は、与えるのが大好きな人でした。「腐るほど金がある金持ちならいいけど、そんなに無理にあげなくてもいいのに」と思ったこともありましたが、母は、「昔、自分が貧しいときにはあげたくてもあげられなかった。でも今は少ないながらもあげることができる。これほどに嬉しいことはない」といつも言っていました。母は与えることによって神さまから恵みをいただき、幸せに過ごしていました。私も母と同じように、与える者となり、神さまからの祝福をいただきたいと願っています。
 また、マタイ六章二十二節から二十三節に、

『からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。』

とあります。皆さんの心の目は曇っていませんか、大事なものを見落としていませんか。ここでは、目によって全身に光が入ってくると表しており、目が一つの窓であるかのようです。もしも窓ガラスが曇っていたり、色が付いていたら、また霜がついていて光が遮られるなら、光は十分に部屋に入りません。反対に、窓ガラスが曇っていなければ、光を充分取り込むことができます。部屋の明るさは、外からの光がどれくらい差し込むかで決まってきます。「目は心の窓」という言葉もありますが、しっかりと目が開かれ、イエスさまによってきよめられ、窓ガラスを透明な状態に保ち、光をたくさん取り入れ、全身を明るくしていただいて、神さまの恵み、祝福をしっかりと受け止めさせていただきましょう。
 また、何を一番大切にするかはとても重要です。

『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』(六章二十四節)

 私たちは神さまと富に、同時に同じ比重で仕えることはできません。一番であるべきイエスさまが、ある時は二番であったり、三番であったりしてはいませんか。私も時々、点検してみます。私にとって注意しなければならないのは、忙しさです。あまりに忙しくて、仕事に追われる日々が続くと、祈り不足になり、聖書を読むことが少なくなります。時々反省します。自分では大丈夫と思っていても、御言葉から離れたなら、祈りをおろそかにするなら、いつの間にか信仰がぼやけ、サタンの罠に陥ってしまいます。ですから、優先順位をはっきりとさせておかなければなりません。気がついたらイエスさまがランク外になっているような状態にならないように、気をつけてください。
そして、神さまを第一にするなら、必要なものが与えられます。

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』((六章三十三〜三十四節)

 明日のことはだれもわかりません。しかし明日のことを知っておられ、あなたの明日を心配してくださるイエスさまがおられます。そのイエスさまが明日を導いてくださいます。私たちが精一杯捧げて主の前に生きていくならば、神さまが一人ひとりにみこころを現してくださり、素晴らしい祝福を下さると信じています。
 いつも優先順位の筆頭にイエスさまを置き、天に宝を積み、イエスさまに喜ばれる人生を歩んでいきたいと思います。お祈りします。


[バックナンバー]