収穫の時が来た!

2008.1.13(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

新約聖書 マルコの福音書 4章26節〜29節
また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。私は今年、新年早々大変忙しく、色々な所に行って奉仕をしており、どこから二〇〇八年が始まったのかわからないような状態ですが、守られていることを感謝します。新年の集会の後、横浜に行き二日間の集会をしました。そこから帰ってきてすぐに「二十四時間PPH」がありました。そして先週の日曜日は埼玉県の教会に行き、その後、大阪で霊的戦いセミナーを行い、帰ってから神学校の講義があり、明日からペルーに行くというスケジュールになっています。忙しいスケジュールですが感謝します。ぜひ明日からのペルーでの働きのためにお祈り下さい。

 今から二十数年程前、新城教会に二人のペルー人の方が来られました。それをきっかけに、インターナショナル集会が始まりました。それで今では、フェルナンド先生と奥さんのひかるさんの素晴らしいコンビで、日曜日午後四時からインターナショナル礼拝が行われています。多いときには二百名ほどの方々が来られています。会衆は大体、ブラジル人とペルー人が半々です。私たちの働きは、本国でクリスチャンになって日本に来られた方々を対象とするのではなく、日本でしか救われない外国人の方々を対象にして伝道しています。そして、日本でクリスチャンになられる方々が多いのです。人生が変えられています。
 日本の働きを終えて、ペルーやブラジルに帰られた方々も大勢おられます。日本に滞在されるのは、ほんの数年かも知れませんが、大きな人生の転換点となります。その方々は、本国に帰っても新城教会のことを忘れずに、祈っておられます。

 私は昨年、スペインに招かれ、テレビ番組を通して集会をしました。そのきっかけになったのも、この教会で救われた一人のペルー人の方でした。彼は今ではスペインでテレビ伝道者として働いています。それで、私のことをスペインのテレビ局に紹介してくださいました。そんなわけで、スペインで奉仕する道が開かれました。世界宣教が聖書の最も大きなテーマですが、こんな田舎の教会が、どうやって世界に向けて働けるのだろうかと思っていましたが、主は人手によらずに道を開いてくださいました。
 来週は、リマにおいて新城から帰られた方々を集めて、共に礼拝を持つことになっています。また、リバイバル聖書神学校を卒業して、ペルーで宣教師として働かれている、下田先生がいます。彼は元相撲取りですが、ペルー人の奥さんと共にがんばって伝道しています。彼は今、困難な場所で頑張っています。彼に、「ぜひペルーに来てください」と言われ、いつ行こうかと迷っていましたが、ついに行くことになりました。
 彼は、手ぐすねを引いて、私を待っているようです。もっと長く滞在してくれと言われましたが、次の予定があるため十日間余りで帰って来ます。どのような働きになるのかわかりませんが、皆さんの祈りによって支えられると信じています。
 ペルーは南米の太平洋岸にある国です。アンデス山脈の裾野に太平洋岸へと広がった平地に首都リマはあり、多くの人々が住んでいます。ある意味で、街は混沌とした領域も含まれています。ぜひ、お祈り下さい。

 また今日は成人の日ですが、この教会で成人式を迎える方々がいます。今朝、ある方からメールをいただきました。その方が教会に来たきっかけは、ご自分の娘さんの問題でした。娘が学校に行くことができずに、長い間、家に閉じこもっていました。
 しかしこの教会に来て、イエスさまを信じ、娘のために祈り始めました。その結果、見事にいやされ、人生が回復し、「今日娘は胸を張って成人式に行くことができます。イエスさまがおられなかったら、こんな日は来なかった」という、感激のメールをいただきました。

 主が私たちのところに来られるとき、普通では動かない領域が動き、問題は解決します。
 『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えなさい』と聖書にあります。若いときにイエスさまを信じると、人生に素晴らしい神の計画が実現します。

 昨日は中高生が自主的に、十二時間の連鎖賛美を行っていました。朝九時から夜の九時まで、ずっと中高生たちが賛美を導き、バンドも全て中高生で行っていました。ちょっとだけその様子を覗いてみると、私のようなおじさんではついて行けない、ぶっ飛んでいるすごい勢いの賛美でした。
 彼らは、「この勢いでやっていけば、必ず、新城にリバイバルが起こる!」と言っていました。ぜひ、頑張っていただきたいと思います。

 今日、掲げたみ言葉は、今年主が私に与えてくださったみ言葉です。マルコ四章二十六節から二十九節です。

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 「種蒔き」とは、「福音宣教」であり、また、「魂の成長」でもあります。私たちには、神の国の種が蒔かれています。それはやがて苗となり、穂になり、穂には実が入り、やがて三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶと教えています。
 しかし、種が蒔かれて実を結ぶまでの過程は、少しは人が関わるかも知れませんが、ほとんどは人手によらず、実を結ぶものだと教えています。神の国の働き、宣教の働き、霊的成長も同じだと教えています。

 時々私たちは、多くの人手を掛けるならば、効果があるだろうと考えます。人手をたくさん掛けたら人々は多く救われ、人手をかけたら、人々は成長するだろう…と考えます。しかし本来、神の国の働きは、「人手によらず実を実らせる」ものなのです。新城教会も五十数年に渡って福音の種を全地域に蒔いています。
 特に、大きな働きの一つに「新城教会ニュース」があります。毎月、皆さんのお手元にニュースが届くと思います。これは二十数年に渡り、この地域に福音の種を蒔いている働きです。毎回、私は巻頭言を書かせていただいています。あっという間に、メッセージを書かなければならない時期が来てしまいます。それもギリギリに、「順先生。原稿は明日までです」とメール請求がきます。私は、「忘れていた!」と、電車の中で携帯電話で原稿を書いて送ることもあります。大変な時代です。
 そのように、長年種が蒔かれており、それがどうなっているのかはわかりません。しかし、種さえ蒔けば、今度は人手によらないで実を結ぶものであり、やがて収穫の時が来ると聖書は教えています。今年主は、この教会のすべての領域において、「収穫の時」を用意されていると期待し、確信しています。

 十二月三十一日のカウントダウン聖会で、私を除く六名の先生方からみ言葉をいただきました。そして一月一日に、私自身に与えられたみ言葉を加えて、「二〇〇八年に対する預言的メッセージ」をご紹介させていただきました。
 二〇〇八年に向けてのみ言葉をまとめた全体的なものを読んでいただきたいと思います。二〇〇七年の預言的メッセージも、本当に主が語ってくださった言葉であったと、昨年を振り返ってわかりました。
 二〇〇八年も、二〇〇七年に語られた預言的メッセージは継続しています。そして主はさらに、二〇〇八年に新しい言葉を語ってくださっていることを感謝します。これは願望ではなく、預言的メッセージとして受け取っていきたいと思います。今から紹介する内容は、語られたメッセージの中心的部分をつなげたものです。

(二〇〇八年に対する預言的メッセージ)
 新城教会の霊的戦いは今年も前進します!そして今年は、昨年に増して、更に恵みが増し加えられます。
 ダビデとゴリヤテの戦いは、霊的な世界での戦いを現しています。この戦いからもわかるように、戦いは負けたらすべて終わりです。ダビデがゴリヤテと戦ったとき、ダビデは自分が常に使っていた武器で勝利しました。
 あなたに与えられている賜物と剣を磨きなさい。そしてこの地に滞在し続けなさい。この意味は、霊的戦いの路線を貫くことです。その時、わたしはあなたがたに祝福を与えます。
 とりなしの祈りとは、死んだ者と生きる者との間に立つことです。人々の罪が増し加わるとき、神のさばきの手が伸びます。滅びは神のみこころではありません。さばきを止めるためには、悪魔と戦う勇士たちと、取りなし手が必要です。あなたは与えられた使命に生き、最後までその役割を果たしなさい。
 戦いでは、強い存在を滅ぼす必要があります。そのためには、敵の宮殿の奥深くに侵入する勇士たちが必要です。なぜならば、そこに奪われ、捕えられた全てがあるからです。
 エフデは敵の王の宮殿に入り込み、王を滅ぼしました。わたしは、日本にエフデのような人物を必要としています。
 彼は自分の弱さと限界を知っていた人物でした。けれども神の力が彼に臨んだとき、限界を超え、彼は偉大な働きをしました。み言葉の剣を持ち歩き、神のみ言葉を敵に対して宣言しなさい。「お前の時は終わった。神の時が来た!」と。

 もう一度告げます。今年は昨年の恵みの上に、恵みが加わる年です。しかしそれは自分のためではありません。新城教会には、世界のリバイバルを推し進める役割が与えられています。教会に属する全ての者たちが、同じ使命に燃え、一致して働きなさい。それゆえ、あなたがたには多くの賜物が任されています。それらをよく管理しなさい。

 昨年に引き続き、復讐と回復が来ます。あなたが今まで回復不可能と考えていた領域に、回復が来ます。敵の前で食事が整えられ、更に油が注がれます。
 羊が横たわるとき、それは彼らがストレスを感じていないときです。牧草が十分にあり、仲間との争いがなく、病気がなく、恐れがないときです。今年は、あなたが横になれる年とします。

 人々の心は柔らかくなり、福音に耳を傾けるようになります。なぜなら、岩のような心が砕かれ、肉の心が与えられるからです。それは聖霊が注がれるときに起きます。
 けれども、日本には、聖霊の働きを止める力が働いています。日本のリバイバルを止めているのは他でもなく、偶像礼拝です。日本の山々や丘々で、かつて悪霊が招かれなかった場所はいったい何処にあるでしょうか。ほとんど、すべての高き所が悪魔の手に陥っています。
 裸の丘を発見し、それらを打ち砕きなさい。偽りの岩を打ち砕き、本物の救いの岩である、わたしの名前を宣言しなさい。その時、後の雨は降り注ぎ、岩は砕かれ、地は耕されます。そうすれば、蒔かれた種は人手によらず実を実らせ、その収穫は三十倍、六十倍、百倍となります。

 主が今年どのようなことをしてくださるのだろうかと、私は大きく期待しています。主がお一人一人に、この預言を成就してくださいますように。
 二〇〇八年の終わりに、点検してみたいと思います。これは二〇〇八年を越えて、二〇〇九年にも、さらには永遠へと向かうものであると信じます。

 ある意味で新城教会は、世界のリバイバルを推し進める役割が担わされていると信じます。私は明日からペルーに行きますが、この田舎の教会が世界宣教という領域で、人手によらずにそのような働きの門が開かれたこと自体、不思議だと思います。これはやりたくても、なかなか出来ない事だと思います。世界宣教の手始めに、この地域に住む外国人の方々に伝道しようと思っても、どうして良いのかわかりません。しかし主がそのような計画をお持ちならば、「人手によらず」計画は進んでいきます。み言葉にもあったように、

『夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。』

 夜はゆっくりと休むことができますか?朝はすっきりと目覚めることができますか?不眠症の方がおられるかも知れませんが、今年は、不眠症も解決する年になると宣言します。
 やはり夜はぐっすりと眠り、朝はすっきりと起きあがりたいものです。そうこうしているうちに、種は芽を出し、収穫の時が来るとは、なんと素晴らしい約束でしょう。

 教会の働きは多岐に渡り、赤ちゃんからお年寄りまで、人生のすべてを包括しています。「赤ちゃんが生まれる」という情報も寄せられますし、今日は成人式、また時には、「誰かが亡くなった」というような、悲しい知らせもあります。
 日々、色々な集会があります。新城教会で一週間に行われる礼拝や家庭集会の数はどのくらいあるか知っておられるでしょうか。一週間に、大小様々ですが、多いときには五十回近くあります。日本人の集会、外国人の集会、若者、お年寄りの集りなどがあります。教会という仕事は、やればきりがないし、やらなければやらなくて済んでしまうような所があります。五十程の集会はちょっと多すぎると思いますが、スタッフたちが協力してやってくれています。
 ある意味でそれは、人手をかける仕事かも知れません。しかしそれらの本質は、み言葉の種を蒔く仕事であり、そんな中、知らないうちにすべてが成長して行くのです。

 イエスさまを信じて何年になりますか?「私なんかクリスチャンになっても、あまり変化がない」とは言わないでください。クリスチャンには、すでに種が蒔かれており、それは人手によらず、夜寝ているうちに、目覚めて仕事をしているうちに、気づかないうちにどんどん成長していくものなのです。人手によらず、主は皆さんを養ってくださいます。

 現在、全般的に日本の教会は大変困難な時代を迎えています。第二次世界大戦が終わって、日本の教会は急成長しました。なぜならば、日本人は日本のそれまでのやり方にうんざりし、従来の宗教に見向きもしなくなり、GHQと共に入ってきたキリスト教に飛びついたからです。教会に行ったらチョコレートをもらえるとか、アメリカからの古着がもらえるとか、美味しいものが食べられるなどという理由で、初めは多くの人たちが教会に行きました。
 私の父も昔、宣教師たちからもらった長い袖の服、長いズボンをはいていました。服に自分の体を合わせろ、というような感じでした。
 物資にあこがれ、人々が教会に行った時代がありました。しかし段々と時代が変わり、経済的に豊かになると、人々は教会から去っていきました。
 昔は封建的な時代の名残もありましたので、ある面では社会統制がうまくとれていました。しかし最近では、自由主義的な考え方も入って、社会は混乱し、社会で手に負えないような問題が教会に入っています。全体的に、若い人たちが教会に来なくなっている傾向があります。教会に通う寿命が、平均すると三・五年だと言われます。教会に来ても三・五年くらいで、去っていく人が多いようです。感謝なことに、新城教会では皆、喜んで教会に来てくださっています。それは、常識を覆しています。感謝です。
 しかし一般的には、三・五年だと言われます。私は他の教会に行って、「皆さんの中で教会に来て、十年以上のキャリアを持っておられる方はどれくらいおられますか?」と質問します。
 すると、手をあげる人たちがいます。私はその方々に、「あなたは鮭のような存在です!」と言います。
 鮭は卵が孵って、稚魚が海にまで下り、成長し、生まれた川まで帰ってくる途中で、ほとんど外敵に食われてしまいます。上流まで上がってこれる鮭は、極々わずかです。日本の教会もそんな状況です。
 しかし本来、聖書が語っている神の国の原理・原則は、そんなものではありません。「人手によらず実を実らせていく」ものなのです。

 神の働きは、常に人手によらないものです。昨年のクリスマスの時にも学びましたが、ネブカデネザルが見た夢はそれを現しています。ダニエル書二章三十四節に、

『あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。』

 イエス・キリストの誕生は、時代を経て君臨していた霊的巨像、金の頭、銀の胸、そして青銅の腹と鉄の股と足を持ったモンスターが、人手によらずに切り出された石によって打ち砕かれ、最終的には、人手によらずに切り出された石が全地に満ちるというものでした。それはイエス・キリストの誕生の預言でもありました。まさしくそれは、神の国を現しています。働きは、人手によらない働きであるのです。

 同時に、人手によらずに成長するという原理原則が運用されるための条件についても教えています。それはイエスさまが、「種まきの例え」をもって語られました。マルコ四章二節から九節に、

『イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」』

そして、この内容の解き明かしが、四章十四節から二十節です。

『種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。――みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」』

 種は人手によらず成長するものだと教えていますが、その条件は、種が蒔かれた土地がどのような状態であるのかによって違ってくると教えています。
 ゆえに、私たちが最も関心を持たなければならない分野、すなわち、教会が一番関心を持つべき領域は、「種が蒔かれる苗床となる土地がどのような状態か」ということです。もしもそれが道ばた、岩地、茨が生えているならば、それらを一掃し耕された良い地に変えなければ働きは無駄になるのです。

 種が良い地に蒔かれるならば、必ず、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。それも、人手によらずに実を結ぶのです。種を蒔くフィールドの地盤改良が最も大切な仕事なのです。
 その中で、岩地や道ばたと関連しているのが、み言葉を聞くとすぐにサタンが来て、蒔かれたみ言葉を持ち去ってしまうとあります。

 マルコ四章十四節から二十節には、一つのキーワードがあります。それは、「すぐに」という言葉です。道ばたにみ言葉が蒔かれても、「すぐに」サタンが来て、種を持ち去ってしまうとあります。み言葉が岩地に蒔かれた場合、人々は、「すぐに」受け入れます。しかし、「すぐに」つまずくとあります。

 私たちが考えている以上に、サタンはみ言葉の種を奪おうと、日夜暗躍していることがわかります。神の国が拡大するためには、土地を改良しなければなりません。
 また、み言葉が育っていくためには、内に外に戦いがあることを知らなければなりません。サタンが私たちの心から、み言葉を奪ってしまうこと、困難や迫害など、外から迫ってくる要素があります。
 またもう一つは、世の心遣いや富の惑わし、欲望といった内側からわき上がってくる、戦いがあります。私たちは今年一年間、多くの収穫を得たいと願っていますが、それを阻止しようとする、内からと外からの戦いがあるという現実をしっかりと理解しなければなりません。
 しかし、この戦いに勝利さえするならば、必ず、良い地が生まれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。

 神の国とは、私たちがやがてこの地上を去り、天国に行ったときに実現するように考えますが、実は、神の国はこの地上において実現し、体験できるものであると聖書は教えています。
 神の国はどこに見出すことができるのでしょうか。マタイ六章三十三節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

とあります。私たちは今年、何を求めたら良いのでしょうか。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうしたら、すべてのものが与えられる」とあります。
 「神の国」とは、この世においては「神の支配」です。神の支配が私たちの人生に常にあるように、それを第一に求めることが重要だと教えています。

 私たちの生活のただ中に、神の時が現れるのです。神の時をつかむか、つかまないかで、人生は大きく変わってしまいます。永遠までが変わってしまいます。

 先日も話しましたが、先月のクリスマスの活動のただ中で、この教会に来られているSさんのお父さんがご高齢で、入院されていることを聞きました。九十三才で横須賀の病院に入院されているとのことでした。ちょっと遠いとは思いましたが、何とかして伝道したいと思いました。しかし、お父さんは生涯、諸宗教の研究にいそしんでおられた方で、自らも宗教を編み出した方でしたので、伝道をするのはたいそう難しいと思っていました。
 しかし十二月のテーマは、「硬い岩の心が打ち砕かれ、肉の心が与えられる」でしたので、私は、「主よ。どうか私たちがとりなしている祈りが、現実の世界でも実を結んでいる証拠を見せてください」と祈っていました。

 私はご夫妻と共にお父さんに会いに出かけました。しかし、自信はありませんでした。そんな方にどうやって伝道したら良いのか・・・と思っていました。
 お父さんは長い間、真理を求めて諸宗教を研究していたようです。私は話しました。「お父さん。お父さんは真理を求めて生きて来られたのですね。」
 すると、「そうだ。私は真理を求めて生きてきた。」と答えました。私は、「イエスさまが道であり、真理であり、いのちですと聖書にあります。だから、イエスさまが真理なのです」と言うと、お父さんは頭の良い方で、「えっ?真理って、そんなに具体的か…?真理はもっと概念的なものだと考えていたが・・・、イエス・キリストが真理って、そんなに具体的なのですか?」と言われました。
 「そうです。イエス・キリストを知ったら、すでに真理に出会っているのですよ。今日から、イエスさまを信じませんか?」と言いました。すると、「わかった。私は今日からイエスさまを信じます」と言われました。私はこんなに簡単で大丈夫だろうか・・・。と思いました。こんなに早く告白してしまって良いのだろうか、と思うくらい簡単に受け入れられました。

 するとS姉が、「お父さん。観音像とかどうするの?」と聞くと、「あれは捨ててくれ」と言われました。共に祈った後、「これで日本にクリスチャンが一人増えたな」と言われました。
 私はその日、なぜか知りませんが、家を出るときビデオカメラを持って行かなくてはいけないという思いになりました。私は用意の悪い男です。忙しいスケジュールの中で動いているので、細かいものを持って行くのが不得意です。しかし、その日は、ビデオカメラを持って行きました。
 もしも、お父さんがイエスさまを信じるという告白をしたら、映像を取っておこうと考えました。
 「お父さん。カメラの前で告白してください」と言うと、「合図を出してくれ」と言われ、一、二の三、スタートと言うと、「私は、イエスさまを信じます」と告白されました。いっしょに行かれたS夫妻も大喜びで、病室ではしゃぎました。

 そして今年になって、一月三日に一つの知らせを聞きました。それは、お父さんが天に帰られたという知らせでした。伝道できたチャンスは、あの瞬間しかなかったのです。
 あの日は、まだお元気でした。一緒にまんじゅうを食べたりもしました。しかしあの日に伝えなかったらどうなったでしょうか。クリスマスで忙しいから、一月にしようとも考えました。しかしその日が、「神の時」であったのです。お父さんはイエスさまを受け入れることができました。

 葬式をこちらから出張して行いました。集まった方々にそのビデオを上映しました。お父さんは人生の最後に、一度に多くの方々に福音を伝えてくれました。本当に危機一髪だったと思いました。
 「イエスさま。ありがとうございます。あの日に、私の心に、『今、行きなさい』と語ってくださった事を感謝します。」と祈りました。
 み言葉の種が心の良い地に落ちたと思います。葬式の中で三十倍、六十倍、百倍の実を確認することができました。
 今年も、主が皆さんに計画を持っておられ、時を持っておられます。時をつかむのも、逃すのも私たち次第です。絶対に、逃さないようにしましょう。「主よ。今日一日、神の時を捕まえて歩むことができますように。一つとして落とすことがないように」と祈ってください。

 神の時は、神々しい光の中で降りてくるのではなく、普段の生活のただ中にあるのです。
 「今日のお昼は何を食べようか。カレー屋さんに行こうか、カツ丼屋さんに行こうか?」という選択のただ中に神の時があります。

 去年九州で一人のハワイアンの方に伝道しました。九州の熊本でした。
 そして、何ヶ月かして、ハワイリバイバルミッションの働きでホノルルに行き、ある時コーヒーが飲みたくなりました。それでちょっと郊外だけど、スターバックスに行ってコーヒーを飲もうと出かけました。
 店に入り、コーヒーをもらう列に並んでいました。そしてパッと見ると、どこかで見たことのある男の顔がそこにありました。何と、それは熊本で出会った彼でした。
 それで、もう一度彼と祈ることができました。そして彼の友だちも救いに導くことができました。

 人生の中には神の時が訪れるので、一つも落としてはいけません。考えてみれば、私たちはどれだけ多くの神の時を失ってきたのかわかりません。
 しかし神は失った時さえも回復してくださいます。名前は悪いですが、「あみだくじ」というのがあります。それは、どこに線を入れるのかで順位が変わります。いつもカウントダウンのメッセージの順番はそのくじで決めます。みんなで線を入れます。神の時とは、その横棒をどこに入れるのかを指示してくれるようなものだと思います。私たちは、神の時を逃さないように、毎日歩む必要があります。そうすれば、地は潤い、改良され、良い地に変わってきます。

 特に良い地に改良するためには、敵の力を打ち砕くことが必要です。神の国とは何でしょうか。イエスさまは言われました。ルカの福音書十一章二十節に、

『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。』

 イエスさまがこの地上に来たとき、今まで起こらなかったことが起こりました。それは人を苦しめている目に見えない敵・悪魔の力が暴かれたからです。それは旧約時代には起こりませんでした。イエスさまの現れとともに、悪霊が打ち砕かれました。それは人々の目にはたいへん奇異に見えました。「何たることだ!?これはおかしい…」

 一九九二年に新城教会に聖霊が注がれました。この時期になるといつも思い出します。愛知県民の森で、私を含むたった八人の兄姉に、祈っていたら「ゴーッ」と音がして、私たちの所に主が臨んでくださいました。すると、そこに立っている一人が倒されました。私は人が倒れるのは病気以外に見たことはありませんでした。だから、最初に倒れた人を見たときに、心臓麻痺かと思いました。どうしようかと思いました。
 しかし、その後、倒れた人の手が動き、隣にいた人に触れたときに、三人が一緒に倒れました。それを見たとき、「主が来られた!」とわかりました。しかし私は、「主よ。感謝します」ということができませんでした。
 「祈祷会を止めるぞ!」と言い、倒れた人たちはタコのようにグニャグニャでしたが、起こして県民の森から逃げ出しました。そうしたら、グニャグニャになっていた人たちが、すごい勢いで走り出し、私はついていくことができませんでした。
 二台の車で教会まで逃げてきました。途中でその波が追ってくるような感じでした。私はすぐに家に帰って家内を起こしました。「起きて!すごいことが起こったから…」と言いました。
 そして教会堂に行って祈り出すと、また同じ事が起こりました。そこに入ってくる人たちが、次から次へと聖霊様に触れられ、気づいたら朝まで祈っていました。
 そして、その後起こって来たのが「霊的戦い」でした。主が訪れると、人間はなかなか対応できないものです。「これって、何?おかしいんじゃないの?」と思います。

 悪霊が姿を現し、打ち砕かれていく様を見て、当時のユダヤ人たちも、「これはおかしいのではないか!?」と思いました。しかしその時イエスさまは、

『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。』

と言われました。霊的戦いが始まっていること自体、すでに神の国が到来している証拠だと教えています。

 恵みにより、十六年間、主がこの戦いを前進させてくださっています。二〇〇八年に対する預言的なメッセージも、「新城教会の霊的戦いは、今年も前進します!」というものでした。
 今は霊的戦いを奇異に感じる人は、この教会にはおられないと思います。霊的戦いがなかったら、新城教会は一歩も進むことができないとわかっています。しかし最初は、「これは何なのだろうか・・・?」と理解できないところがあったかも知れません。
 しかしそれが神の国の現れでした。私たちのただ中に、神の国が私たちのただ中に来ているのです。
 そして、あくまで戦い続けていくならば、土地は改良され、人手によらずに実は結ばれ、三十倍、六十倍、百倍になると教えています。

 そして今年、「収穫の時が来る!」と主が語ってくださっていると信じます。今年一年間、私たちは、主の勇士として歩む必要があります。
 パウロは自分の働きのただ中では、自分がやっていることが霊的戦いと強力にリンクしているとは、あまり理解していませんでした。
 しかし、エペソ人への手紙で彼は変わりました。彼がローマで捕らえられ、牢獄の中で自分の人生を振り返って、主から教えられた事柄をしたためたのが、エペソ人への手紙です。その六章は彼の結論です。彼は色々な働きをしましたが、彼が到達した結論はこうでした。十節から十八節に、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 私たちクリスチャンは、主から与えていただく、武器と武具で武装しなければなりません。しっかり立つようにと教えています。そして、私たちが敵に立ち向かっていくときに、硬い岩は砕かれ、土地は耕され、種が蒔かれたならば、自動的に実を結ぶようになるのです。

 上條実先生が、詩篇二十三篇から語りました。イエスさまが牧者で、私たちは羊だと語られました。そして羊が横になれるときは、ストレスがない時だと語りました。今年は、「あなたが横になれる年とする」と語られました。

 しかし間違えてはいけないのは、私たちの平和とは、棚からぼた餅の平和ではなく、聖書の平和は、「戦いに勝利した結果、勝ち取られた平和」であると言うことです。
 敵を踏みつけ勝利し、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶクリスチャンになりたいと願います。お祈りします。


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