私たちの神は力と愛です

2008.1.20(SUN)
新城教会牧師 上條実師

旧約聖書 イザヤ書9章6節
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 ハレルヤ!今日皆さんとともにみ言葉を学ぶことができることを感謝します。先週はこの教会に関係する方が三名亡くなられました。亡くなられた三名のご家族の方々みなさんにイエスさまからの慰めがあるようにお祈り下さい。さて今日お読みしたみ言葉は、去年の十二月中旬に語らせていただいたみ言葉です。

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

私たちが信じている神の名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』です。私は十二月に、「不思議」というタイトルで同じみことばから語りました。「不思議」ということばを国語辞典で調べると、「どうしてなのか、普通では考えも想像もできないこと。説明のつかないこと」と書かれていました。私たちはイエスさまを神と信じ受け入れた時、私たちの上に「不思議」がおこります。当然私たちは罪ある者です。死後、さばきの場所に行かなければならないものでした。しかしイエスさまが神であると信じたとき、罪全て赦され天国に入るものとなるのです。私たちの神さまは「不思議」です。そして今日は同じみことばから「私たちの神は力と愛です」というタイトルで学んでいきます。第一コリント二章九節に、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

私たちにはもう、見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともない祝福を備えてくださっています。あなたに驚くような祝福を下さることが決まっています。私たちに不思議を与えてくださいます。「不思議」を与えて下さる神です。それと同時に、「力ある神」だとあります。私たちの神様は力ある神です。私たちが祈るとき、見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだことのない力ある業で私たちに働いてくださり、訪れてくださるというのです。使徒一章八節に、

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

さらに使徒の働き二章一節から二節に、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。』

聖霊さまは私たち一人一人に力を与えてくださいます。目に見えませんが、今も現実に私たちとともにいてくださり、大きな力となって私たちに働いてくださるという約束です。天から激しい風となって訪れてくださったとあります。使徒二章二十一節から二十二節に

『しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。』

二十一節に、「主の名を呼び求める者はみな救われる」と書かれています。力ある業の一つめは、主の名、イエスさまの名を呼び求める者には救いを与えてくださるとあります。死の力を打ち砕き、死から救って下さるというのです。なんと力強い神でしょう。私は葬式に参加するときいつも厳粛な思いになります。私もいつかは死ぬ時が来る。そんなとき自分が死んだらどうなるのだろうと考えます。先週亡くなった方々はイエスの名を呼び求めた方々です。だから今は天国に入り、永遠のいのちをいただいて喜んで主を賛美しています。今日イエスキリストを神と信じていない方々は「イエスは主です。」と告白して下さい。「主の名を呼び求める者」になって下さい。私たちは自分の人生計画をします。しかしいつかストップが来ます。死を迎えます。今日イエスさまを信じましょう。イエスさまの御名を呼び求めたら救われます。あなたもイエス・キリストを信じてイエスさまのもとに帰るものになりたいと思います。二十二節には、

『・・・・・・力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟・・・・・・』

とあります。イエスさまがこの地上に来られて私たちに、「力あるわざ」と「不思議なわざ」、そして「あかしの奇跡」を現すとあります。私の二〇〇八年のテーマは昨年と同じく、「復讐と回復」、「復讐と報い」とです。今までイエスキリストを信じながらも、敗北だらけの人生でした。悲しみ、問題。イエスさまを信じていながら、なぜこんなに大変なことがあるのだろうかと思っていました。しかし霊的戦いがあること、見えない世界があり、私たちに邪魔する暗闇の力があることがわかりました。その暗闇の力に対して今年も。復讐させていただきたい。そして今年は神様から祝福。見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともない祝福。祝福をいただいて主の奇跡によって驚きの連続であるように祈ってます。今は回復不可能な問題があったとしても、今年は主の祝福を確実にいただきたいと期待しています。「自分の祈りは聞かれない」、「私は汚れた者だから私のような者が祈っても神様は答えてくださらない」「信仰の強い方の祈りは答えられても、自分は神様からの答えをいただけるような器ではない。」「自分は駄目だ」と否定的にさせてくる、攻撃してくる暗闇の力、サタンの力があります。しかしその悪しき力が見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだことのない方法で、回復する事を信じましょう。回復不可能な領域に回復を与えてくださり、報いを与えてくださり、喜びを与えて下さいます。毎日の求めてばかりの祈りから、感謝の祈りをするものに変えられる事を信じて下さい。私たちの神は「力ある神」です。では聖書の中に力ある神である「聖霊なる神」とはどのように教えているでしょうか。まずはじめにイザヤ書五十九章十九節、

『そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。』

とあります。聖霊は激しい流れのように、私たちの人生に訪れてくださるとあります。数年前、台風によって豊川が氾濫しそうになりました。近くのJR江島駅や長山駅の周辺は川が増水し、今にも氾濫しそうだということで、避難勧告が出されました。増水して激しい流れの時は恐ろしくて川に近づくことができません。増水によって河川の地形を変えてしまい、すべてのものを押し流してしまいます。ある時は川岸に建っていた家が流されてしまう映像をテレビで見たことがあります。聖霊様は私たちの問題や病気、回復不可能なできごとをにたいして、激しい流れのように来られ、破壊して下さるのです。あなたと共にいる神さまは、

『主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。』

濁流のように激しい流れのように来て、私たちの動かない問題も大きな流れの中で、取り除いて下さるというのです。私たちの回復不可能な問題を聖霊さまは勝利に変えて下さるというのです。またイザヤ書二十九章六節に、

『万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる。』

とあります。聖霊さまがどんな方かわかるように、自然界にたとえて教えてくださっています。まずはじめに雷、また地震、大きな音、つむじ風、暴風、焼き尽くす火の炎をもってあなたを訪れるとあります。雷と書かれていますが、私が子どもの頃よく落雷があったことを覚えています。小学生の時、会堂の前は田んぼでした。ある夜ものすごい音とともに落雷がありました。翌朝学校に行くため外に出て、その田んぼを見ると大きな大きな穴が開いていました。また中学の通学路に雷が落ちその通学路に大きな穴ができてしまい通行止めになったことを覚えています。今日私たちの神は、雷のように大きな力を持っておられることを覚えてください。落雷がどんな力があるかを調べました。落雷は時に人、建造物に被害をもたらし、火災の原因ともなる。その際の電圧は二百万から十億ボルトとありました。そして電流は、一千アンペアから二十万アンペアにも達するとありました。送電設備を破壊したり、雷によって多くの方が亡くなっていくそうです。世界では毎秒約百ほどの落雷が起こっているようです。日本では年間約二十人、世界では約千人ほどの方が雷によって命を落とすそうです。二百万ボルトから十億ボルト。なんというすごい電力でしょう。聖霊は雷のようです。絶対に動かない所に、聖霊の雷が落ち、私たちの問題を不可能から可能にしてくださるとあります。またその後、地震とあります。先週一月十七日は、阪神大震災の十三年目のメモリアルデーでした。あの阪神大震災は記憶に新しい事ですが、しっかり土台の上に立っていたビルや高速道路が倒壊してしました。一月十七日早朝大地震が起こり、家屋や建造物が破壊され、六四三四人の方が犠牲となり、負傷者も四三七九二人という大惨事になりました。立派な町がまるで爆撃で破壊されたかのように、大きな被害を出しました。今日家族、親族、地域のために、また巨大なビルのように絶対に回復不可能な状態でも、聖霊様は震度七のような大きな地震で問題等を破壊して下さいます。また数年前豊橋市で大きな竜巻が発生しました。すさまじい力で家屋や電柱をなぎ倒し、破壊しました。聖霊様はつむじ風、暴風とあります。全ての問題を吹き飛ばしてしまいます。また昨年アメリカのカルフォルニアで大きな火災がありました。サンディエゴ郡だけで被害総額は一一四0億円以上。一七五八平方キロメートルが焼失。東京都二十三区の面積の三倍弱が燃えました。一一六四棟の建物が全焼。多くの方が焼け出されたところを映像で見ました。聖霊さまは問題を焼き尽くす火で、全焼させて下さるのです。「雷、地震、つむじ風、暴風、焼き尽くす炎」と例えている聖霊。その神が私の神です。今までどんな苦しみ、悩み、動かなかった問題も神さまが働かれ、回復不可能が今度は回復し、祝福に導かれるというのです。今日私は祈っても駄目だと思わないでください。あなたが主の名前によって祈るとき、「雷、地震、つむじ風、暴風、焼き尽くす炎」である聖霊さまが働いてくださり、勝利を下さいます。私たちは自分のことばで祈るだけです。「イエスさま。私たちの○○を解決してください!」と祈るだけです。私たちの神は大きな力があります。イエスさまの名前によって宣言するとき悪霊の陣営が、地震、つむじ風、暴風、炎で、悪魔の陣営が破壊されます。その問題にたいして阪神大震災のように大きな痛手を負うのが悪魔の陣営です。ですから私たちは信じて祈るだけです。私たちは祈るだけです。働いてくださるのは主です。ですから、今日私たちが主の名前において祈り始めたとき、子どもであってもお年寄りであっても、だれであっても祈り始めたときに、霊的にはすごく大きな影響を及ぼしていることを知ってください。だからこそ、悪魔は知っています。祈れないように働いてきます。イエスさまの名前を使っても祈ってもダメだよ思わせるようにしてきます。私なんか戦うことできない、あとで何か疾病返しが来るのではないか…と恐れさせ、祈れなくするのが悪魔の働きです。しかし今日あなたが信じて大胆に祈り始めたらどうでしょうか。悪霊の陣営は破壊が起こります。そして私たちに見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだことのない祝福をくださるのです。その力を信じましょう。

 そしてそのような力ある神と言うことと同時に、神は力と愛です。マタイの福音書八章一節から四節に、

『イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」』

第三版では「らい病」は、差別用語になっているため「ツァラアト」と書いています。「ツァラアト」とはヘブライ語の原音に近いということで決まったそうです。この記事から見ると、らい病の方がイエスさまの所に来ていやされたとあります。そのらい病の人に触れて癒されたというのです。当時は恐ろしい病気だと言われていました。らい病人は、隔離されて生活していました。町を通るときには、「自分は汚れた者です」と大声で叫ばなければなりませんでした。当時は近寄るだけでも移ると言われていました。不治の病と言われていました。「自分は汚れた者」という声を聞くと、皆はさっと逃げました。皆からさけられる、人に近寄ることもできない状況におかれるのがこの病気です。そんな時イエスさまは近寄って、なんと彼に触り「わたしの心だ。きよくなりなさい」と言われました。イエスさまは遠いところから言葉を発したのではありません。イエスさまは彼の体に触って治してくださいました。イエスさまが触ったので治ったわけではありません。神の言葉、みことばによって癒されたのです。この箇所を読むときに、イエスさまはすごい力がある事を見て取ることができますが、私は今までそのらい病の方の気持ちになって読んでいないことに気がつきました。今回は病気の人の身になって聖書を読んでみました。人里離れ、誰にもいっさい触れられないことは、とても大きな悲しみと寂しさがあると思います。私たちは初めて出会う人に握手をしたり、ハグします。肌と肌が触れあうのは、受け入れられているという安心感があります。握手しようと思っても拒絶されたら悲しいことです。この病気の方はどんなに愛している家族でさえ、会うことができません。近寄る事すらできません。近寄れば愛する妻、子ども、友人でさえ逃げていきます。しかしイエスさまはなんと近寄って触ってくださいました。今日「手が触れる」とは、どんなに大きな愛があるかを覚えてください。小さな子どもを寝かしつけるとき、私たちは子どもを手でトントンと優しく触れて寝かせます。そのことで子どもはそれで安心し、ぐっすり休むことができます。また子どもが怪我をすると、泣き続け、お母さんを見ると、お母さんに飛びついていきます。お母さんは抱きしめてあげて傷を手当てし、背中をさすったりして泣き止ませます。手当をします。安心するのです。しかしらい病人は全く拒絶され、人里離れて隔離される。触れることも触れてもらうこともありません。近寄ればみな逃げ出してしまいます。しかしイエスさまは私たちと同じ完全な体を持っていました。イエスさまもさわれば移ってしまいます。しかし彼にさわって「わたしの心だ。きよくなれ」とさわって語って下さいました。そしていやされました。神の力が現されました。今日神の力と同時に、神の愛を私たちも身につけて行きたいと願います。自分はこのみことばを読みながら、本当に愛の足らない者だと思いました。いや愛のかけらのないものだと思いました。愛する証拠として指輪をはめ、また食事を作るのも手です。また祈るときにも手を組んで祈ります。あなたはイエスさまと同じように、手を伸ばして愛することができているか考えて見てください。クリスチャンとは「キリストに似た者」という意味があります。キリストに似たものとはほど遠く、私の手は子どもをたたき、人のものを奪い、与えなければならないのに相手に要求する手であったり、人を傷付けてしまう手となっています。しかし私たちは、イエスさまの愛をいただきましょう。神の力だけでなく、愛をいただき、神の言葉みことばを宣言していきたいと願います。聖書は「自分自身のように隣人を愛しなさい」とあります。今日皆さんは亡くなられ方の家族に対して愛をしめしましょう。もし自分の家族が亡くなったらどんな寂しさとつらさがあるでしょう。ただ一応挨拶しておけばお役目終わりという問題ではありません。私たちは各器官であり、家族です。私たちはその方々に対して祈り、支え、慰め、励ますことが必要だと思います。また新しい方々が教会に来られても、その方に挨拶もできないときがあります。愛を持って人々に接しましょう。私たちは握手したり、手紙を書いたり、電話したり、訪問したり、祈ったり、ある方は料理を作って差し上げたり、自分の手でできることをしていきましょう。手を使って行きましょう。絶対に触れたくないところにイエスさまは触れて下さいました。「誰かがやるだろう。関係ない」では行けません。触れなかったら、みことばを宣言しなかったらあの病気を持った人はいやされませんでした。私たちは手を出しましょう。愛を頂き、愛を与えましょう。無関心にさせることは、悪魔の策略だと思います。皆で支えあいましょう。私たちはただ手を出してみことばを宣言しましょう。イエスさまの名によって宣言しましょう。私たちは健康に問題がない。自分は何も問題がない。毎日が楽しく、何を食べようか?何を着ようかと迷うほど恵まれた生活をしています。しかし今日愛をいただきましょう。愛の中で人々に目を注ぎましょう。多くの方があなたの手を必要としています。今日の午後は各地域に出て行ってお祈りの時を持ちますが、あなたがその地域のために手を神の前に差しのばして祈って下さい。私が出て行って祈っても何も変わらないというのは策略です。あなたがその場所に行き、手をあげて祈るとき霊的には大きな力で、悪魔の陣営を破壊することができます。今週職場で、学校で、家庭で、問題のただ中で、神の名前によって祈りましょう。愛を持って手を伸ばしましょう。祈り始めるときに霊的に破壊が起こり、勝利を与えてくださることを覚えてください。あなたは祈る役目です。働いてくださるのは主です。祈っても何も起こらない、答えられないと言われるかも知れません。しかし一番良いときに、見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだことを主が備えてくださるのです。今年は回復不可能な問題が回復し、祝福に変えられます。回復がおきます。あなたが今まで無関心であったところに関心を持って出かけましょう。祈り始めましょう。悪しき陣営は、「雷、地震、つむじ風、暴風、炎」によって大きな打撃を受けます。祈るな!と必死に悪魔は反撃します。しかしその反撃を恐れないで下さい。今日は主が守って下さいます。ひるむことなく、主の名前を大胆に宣言しましょう。大胆に戦い続けましょう。その時勝利があります。使徒二十章三十五節に、

『受けるよりも与えるほうが幸いである』

とあります。今まで私たちはたくさん受けました。救われました。支えられました。助けられました。自分のために祈って下さる方がいました。私たちは受けるのではなく、与える者になりましょう。あなたが祈り始めて下さい。私たちが誰でも主の御名によって呼び求めたら救われます。あなたがイエスさまをが呼び求めたら勝利します。今年は回復不可能のような、今まで戦ってもはねのけられ、苦しんで傷つき、駄目だと思っていたところに不思議な神の計画が現れます。「不思議です。こんなことが起きました」と主の栄光を毎週この教会で、聞くこくができるように期待しましょう。あなたの神は生きていますか?ある方は「駄目です。難しいです」とあきらめています。それは悪魔の策略です。神の名前を使って祈って下さい。今年は回復の年です。お祈りしましょう。


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