あなたは素晴らしい神の作品です

2008.2.3(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

新約聖書 エペソ人への手紙2章10節
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日は石塚和基くんのバイオリン演奏を聞くことができました。彼は今、小学五年生ですが、私が小学五年生の頃は川で釣りばかりしていました。彼の演奏は、聞くたびに成長しており感動します。神様は色々な能力を一人一人に与えておられます。

 エペソの手紙二章にあるように、「私たちは神の作品」とあります。一人ひとりにその人にしかできない、素晴らしい仕事を用意しておられます。今日も聖書の中からみ言葉を学んでいきたいと思います。
 聖書は生きるために必要な情報、武器を人々に与えます。私たちがみ言葉を受け取って使うならば、人生は素晴らしく展開していきます。こんな小話がありました。
 「家のばあちゃんは、テレビのリモコンで、テレビ本体のスイッチを押して、テレビを付けたり、消したりしている」
 おばあちゃんは、テレビのリモコンの使い方を知らないので、リモコン本体を使ってテレビ本体のスイッチをオン、オフしているようです。
 多くの場合、私たちもみ言葉を、そのように使っているかも知れません。み言葉が私たちのうちに解き明かされるときに、リモコンのように遠く離れていても霊的世界をオン、オフできるのです。神は素晴らしい武器と能力を与えてくださっています。

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』
  
 神様は一人ひとりをご自分の作品として創ってくださいました。皆さんが座っている椅子は作品ではなく製品ですので、同じ形と質のものが揃っています。作品とは、「作者が心を込めて制作したもの」ですから、一点一点、皆違います。あなたの隣の方は神の作品です。顔形も違うし、性格も違います。それは神の作品として創られた証拠です。
 美術館に行くと、優れた作家の作品を見ることができます。作品を見て、時々、意味がわからないことがあります。「この作品はどのような主張をしているのだろうか?」と、意味がわからないことがあります。意味がわからない人に出会う時がありますが、それは作品価値として、高いのかも知れません。
 神様は私たちを、良い作品として創ってくださり、良い行いをもあらかじめ備えてくださったとあります。

 二〇〇八年が始まり、今年、何が起こるのだろうかと心配しなくても良いのです。神様は私たちが歩む未来も、時間も空間も出会いも含めて、すべてを良い作品として創ってくださっているからです。

 同時に神様は、一人ひとりを愛してくださっていると教えています。イザヤ書四十三章四節に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

とあります。日本人には、「神に愛される」という考え方がありません。しかし、聖書の神は人類を愛してくださっている神です。

 私たちは「愛」を感じると嬉しくなります。皆さんも家族の中で互いに愛し合うときに、家族はかけがえのないものとなり、多少社会でいやなことや苦しいことがあっても、家族の中で癒されます。
 ある読み物にこんな事が書かれていました。

 ある日の新聞にとても素晴らしい、小学一年生の少年の詩が載せられていました。それは、『お母さんは宝物』という詩でした。
 「先生。あのね。お母さんの宝物は僕だって!お母さんの宝物は絶対に指輪だと思っていたけれど、指輪は二番目だった。僕、宝物になっちゃって困るよ。僕は外で走り回ったよ。」というほのぼのとして詩でした。
 私はこの詩を作った少年が、喜びはしゃぎまくっている姿を思い、何だか私も走り回りたいほどに嬉しくなり、喜びがわき上がってきました。
 私の少年時代は孤独でした。父が戦死して本当に貧しくて、寂しい家庭で私は育ちました。誰も僕の事なんてわかってくれない。誰も僕の事なんて愛してくれない。こんなに一生懸命勉強しても、働いても、誰も僕の苦労を理解してくれないと、生きている目的も理由もわからず、いつも空しく、喜びもなく、不安な毎日を送っていました。何の希望もなく、死ぬことが怖く、人生のお先は真っ暗でした。
 しかし十八歳の時私は産まれて初めて教会に行き、神様の言葉を聞きました。

 この文章は、二年前に天に帰った、田中政男先生の文章です。「神様の宝物」という、プレシャスというトラクトから引用させてもらいました。
 お母さんから愛されていることを知った少年が、外に出て嬉しくて走りたくなったという、ほのぼのした詩ですが、私たちも神様から愛されていることを実感したら、本当に走り回りたくなります。
 また暗い、悲しい、暗闇の中に閉じこめられた人生でも、神の愛を感じるときに変えられます。田中政男先生の少年時代は大変寂しい人生を送られたようですが、今から五十年近く前に、新城教会に来てイエスさまを救い主として信じました。そして、人生が大きく変えられ、彼は何十年にも渡って日本で伝道者として働き、使命を終えて二年前に天に帰られました。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

 これは、イザヤが預言した言葉です。『人をあなたの代わりにし』とありますが、これはイエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死に、よみがえるという預言です。私たちの罪の身代わりとなって、死ぬほど、私たちを愛してくださった神の愛を知るときに人生は変えられます。
 第一ペテロ二章二十二節から二十四節から、

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』

 さて、私たちの人生を暗くするのは「罪」です。全世界の人々に「良心」という、同じ基準があります。人を殺したら悪いと全世界、六十億以上の人々が同じ理解を持っています。人のものを盗んだら悪いという、共通の理解があります。そして、一度罪を犯すと、罪がその人に重くのしかかり、人生を暗くします。

 社会においても、罪を犯すならば必ずさばきがあります。どこの国においても、罪を犯したら、必ず、さばきがあります。
 二十年以上も前の話ですが、私は賛美をしながら、豊橋へと続く裏道を車で快適に走っていました。そうしたら、急に人参棒のようなものが出てきて、警察官に「止まれ!」と言われました。広場に入れられ、そこにはパトカーと護送車のようなものがあり、その中に入れられてしまいました。
 そして、「お前はスピード違反だ」と言われ、捕まってしまいました。最近は十年ほど、時々、違反はしていますが感謝な事に捕まってはいません。その日は、捕まって「印鑑を出してください」と言われました。私は「印鑑なんてありませんよ!」と抵抗すると、「じゃあ、ちょっと指紋をここにお願いします」と言われました。
 何と私は、三十キロオーバーでした。「この場所では切符は切れません。裁判所に行って下さい」と言われました。
 私は賛美しながら、それも、アクセルを普段よりも一センチほど深く踏み込んだだけでしたが、罪人になってしまいました。
 新城の簡易裁判所に行くと、同じような人たちがいっぱい集まっていて、すぐにお友達になりました。
 「あんた何キロオーバーだん?」「私は三十キロオーバーです。」「わしは四十キロオーバーだに・・・」などと言って、最終的に裁判が始まりました。
 「被告は…」と言われ、五万円の罰金という判決でした。そして私は判決の書類にサインさせられました。裁判官は五万円を払うのが嫌ならば、一日二千円という計算で刑務所に入ることができる、と言いました。
 一日二千円ならば、二十五日間入らなくてはならないので、私は青くなりました。私は家に帰って、五万円を支払うか、それとも、一日二千円で二十五日間刑務所に入るのかを家族に相談しました。すると家族は冷ややかに、「刑務所に入ってくれば…」「メッセージの材料にもなるじゃない…」と言いました。
 しかし私は、そんなの嫌だと、五万円を支払い、やっと刑務所行きを免れました。

 それで終わりかと思っていたら、しばらくすると今度は行政処分が来ました。それは一ヶ月の免停という処分でした。
 豊川の運転試験場に行き、一日缶詰で、事故を起こして人生を失ったという短編の恐ろしい映画を、連続で七本ぐらい見せられました。一日終えた頃には、自分が加害者のような気分になり、「車なんて、もういらない!」という心境で電車で家に帰ってきました。

 その時、「罪は犯すものでない」と強く思い知らされました。この地上でも、たった一センチだけアクセルを深く踏み込んだだけで、そんな目に遭うのですから、私たちが人生の中で犯す罪に、神からのさばきがないはずはありません。

 最近も社会には罪がはびこっていますが、必ず、罪にはさばきがあります。ですから、私たちは罪を犯すことがないようにしなければなりません。そして、「私には罪がない」とは誰も言えません。なぜならば、神は人間に良心を与えており、「お前は自分でわかっているはずだ」と言われます。

 聖書は、「罪の支払う報酬は死」と教えています。かつて、神の前で仕えていた天使たちが罪を犯しました。その結果、永遠の滅び行きが決まり、彼らは悪魔、悪霊と化してしまいました。
 同様に、人類も罪を犯したことにより、同じように、永遠の滅び、地獄行きが決まってしまいました。もしも、罪を犯したことがあるならば、永遠の滅びが決まっているというのです。
 そんなことを言われたら、誰一人として逃れることはできません。
 しかし感謝なことに、私たちの罪の身代わりに、イエスさまがこの地上に来て、十字架にかかって死んでくださり、よみがえってくださったのです。

 もしも私が死刑囚として、死刑が決まっていたら、誰かが私の所に来て、「順さん。あんたの身代わりにならせてください。あなたが死刑になるのは惜しいから、私が身代わりとなって死刑になります。」と言うならば、私は助かるかもしれません。

 一人の罪のために必要ないのちは、一人のいのちです。しかし、人類の根源である神が人となって死ぬとは、全人類に対する身代わりを意味するのです。
 天地宇宙はすべて神によって創られました。人間は神によって創られました。その神が人間の所に来て、人間の姿で十字架にかかって死ぬとは、全人類を代表する死なのです。なぜならば、イエスさまは、人間の根源であるからです。
 人類が滅びるのを見かねて、父なる神が、イエスさまをこの地上に送ってくださり、全人類の身代わりとなり、罪をその身に背負い、身代わりとなって死んで下さいました。しかし、死んだだけではなく、よみがえって私たちに永遠のいのちがあることを、証明して下さったのです。
 私たちに罪があっても、イエス・キリストを救い主として受け入れ、イエスさまが罪の身代わりとなって十字架にかかって下さったと信じるなら、その瞬間、罪は赦され永遠の命が与えられるのです。それは素晴らしい福音です。

 誰一人として、罪人のままで滅びて欲しくありません。やがて私たちは、この地上から出て行かなければなりません。
 先週もお話ししましたが、私の義理の父が今年になって亡くなり淋しさを覚えています。特に、家内の母親は大変悲しんでいます。自分の長い連れ合いがいなくなって悲しんでいます。しかし、私たちクリスチャンは、いたずらに悲しむことはありません。なぜならば、やがて私たちは天国に行き、もう一度、再会できる希望があるからです。永遠の滅びではなく、永遠の国・天国において再会できます。そこは、死も苦しみも悲しみもありません。
 それを証明するために、イエスさまは十字架にかかっただけでなく、よみがえってくださったのです。イエス・キリストを信じるときに、私たちに永遠のいのちが与えられ、あなたは素晴らしい神の作品として、歩むことができるのです。

 初めの人間、アダムとエバが創られ、神様は二人を素晴らしいエデンの園に置きました。そして、生きて行くために必要なガイダンスを行いました。神は人に一つの注意事項を与えました。
 「エデンの園にある、どの木の実も食べても良い。それはあなたがたの食糧だ。しかし、善悪を知る木の実だけはとって食べてはならない。食べたら、死ぬから」と告げました。
 けれども、アダムとエバは神からの忠告・警告を聞くことができず、食べてはいけないという木の実を食べてしまいました。その結果、人類の中に死が入ったと聖書は教えています。

 けれども、人類が善悪を知る木の実を食べるに至った過程を見るとき、一つのことがわかります。それは蛇が出てきて、「とって食べなよ。目が開かれて、神様のようになれるよ」と誘惑をしました。それで、人類は善悪を知る木の実に手を出して食べたのです。

 ここから一つの真理を受け取ることができます。はじめ神様がアダムとエバに、「善悪を知る木の実を食べてはいけない」と言われました。しかし、アダムとエバは、蛇が出てくるまでは、そんな木があっても手出しせずに生きていました。別段、強い誘惑も受けずに、他の木の実を食べて満足し、楽しく生活していました。
 けれども、蛇が出てきて、誘惑を受けたときに、罪に手を出してしまいました。

 多くの人が罪に手を出していますが、その背景に、蛇の力が加わっていることがわかります。それが罪の誘惑です。蛇がいる以上、正しく歩みたいと思っていても、歩むことができないのです。
 イエスさまがこの地上に来られた目的は、もちろん、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えるためでした。しかし、十字架の大きな目的は、死の力・サタンを打ち砕くためでした。イエスさまの十字架は、悪魔の力を滅ぼす唯一の力です。

 悪魔の力が打ち砕かれるならば、私たちは危険な罪に手出ししなくても、生きることができるようになります。誘惑に満ちている世界に住んでいますが、蛇の力が打ち砕かれるならば、そのような環境の中にあっても、誘惑を受けずに楽しく過ごすことができるのです。
 こんな小話がありました。

「ダイエット中、空腹に絶えられず、キティーちゃんキャンディーを食べた。占い付。裏面を見てね、とあるので袋の裏を見ると、『誘惑に負けないでね』と書いてあった」

 案外、「占い付。裏面を見てね」とあると、ふっと見てしまうところが人間の弱さであり、悲しさです。色々な罪の誘惑が私たちの周りにたくさんあります。しかし、なぜ誘惑されるかのかというと、ただ単に、人間の弱さだけでなく、蛇が近づいて誘惑するからです。
 罪を犯すと、「罪から来る報酬は死です」とあるように、永遠の滅びに行かなければならないのです。

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 私たちの人生は良いもので満ちていると記されています。しかし、「私の人生は良い」と言い切れる人は、どのくらいいるでしょうか。
 振り返って、「本当に私の人生は良いものだった」と言い切れる人は少ないと思います。クリスチャンであっても、私の人生は良かったと言える人は少ないのです。
 なぜ少ないのかと言うと、良いものを盗む悪魔が存在するからです。

 家に泥棒が入ったことがありますか?今朝、私の家内が青い顔をして、「家に泥棒が入った!」と言うのです。「色々取られた!」と言うのです。
 私は、驚いて「えっ?!」と言うと、「…という、夢を見た」と言いました。
 夢で良かったと思いました。それで、今日は珍しく家に鍵を閉めて出てきました。
 
 私は先々週、ペルーに行きました。日本も結構治安が悪くなりましたが、それでも世界で一番安全な国と言っても良いかも知れません。あまり危機感がありません。車から離れるとき、何かを持って行かれるとはあまり考えません。ちょっと荷物を隠しておけば良いかな、くらいです。
 しかし日本から一歩出るなら、注意しなければなりません。私は結構、注意深い方で、外国に行ったら必ず大切な物は身に付けて、盗まれないように注意します。
 ペルーに行ってもいつも注意していました。しかし、最後の日に食事に行きました。そのレストランはセキュリティーがしっかりしており、車も塀に囲まれた中に入る所だったので、パスポート、お金、コンピューターなど、何もかもを入ったバッグを車の中に置いておきました。そして楽しく食事をしてレストランから出てきました。
 そうしたら、下田先生が「ワーッ!」と言って慌てていました。なぜならば、ドアの鍵が完璧に壊されており、ドアが開いていました。私に戦慄が走りました。バッグはどうなったかとすぐに見ました。しかしバッグはあったのです。本当にイエスさまが助けて下さり、守って下さいました。
 ちゃんと門番がいる所でしたが、何者かが、鍵穴にドリルのような物を差し込んで鍵を壊し、ドアが開いていました。ドアを開けると、すごいアラームが鳴るようになっているので止めたのか、または、人が来たから止めたのかわかりません。もしも、あの時にバッグを取られていたら、今日私は日本に帰っていなかったと思います。危機一髪でした。

 日本から一歩出たら、多くの泥棒がいます。また、今では日本にも多くの泥棒がいます。日本では合法的に盗んでいくような場合もあります。本当に怖いです。何も信用できないような時代です。
 今日は昼食をみんなで楽しく食べます。今日のメニューは「一口餃子です」、と言ったら、誰も残っていかないかも知れません。今日は鍋パーティーですのでご安心下さい。

 今起こっている餃子問題は、誰がやったか知りませんが、国と国との大きな問題になっています。
 正月に、私の息子と奥さん、娘といとこが東京でレストランに食事に行ったそうです。あるレストランで餃子を食べたそうです。そして帰ってきました。息子だけが食べませんでした。三人は餃子を食べた後、大当たりでした。下痢と嘔吐の大当たりで、一週間ほど苦しんでいたようです。でも、守られました。本当に色々なことがありますが、その背後に、人類を苦しめようと働いている敵・悪魔が働いています。

 イエスさまはこの地上に来て、私たちの背後に働く、敵の力を打ち破ってくださったと教えています。私たちの良いものを盗む泥棒が誰であるかがわかったら、「倍にして」取り戻してくださると教えています。
 私が好きなみ言葉です。出エジプト記二十二章七節に、

『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』

 これは旧約聖書の規則・法律ですが、新約聖書になると旧約聖書のみ言葉が、霊的領域の意味を持ちます。この盗人は、単なる泥棒ではなく、目に見えない真の泥棒、悪魔と悪霊どもであることがわかります。イエスさまは悪魔・悪霊のことを「盗み、殺し、滅ぼすもの」と語っています。

 人生の良きものを盗んでいくのは、他でもなく、悪魔とその一味・悪霊どもです。それがわかったならば、取られたものを倍にして取り戻すことができるのです。

 あなたは神の作品であり、良いものとして創られました。しかし、良いものを奪われていたら、見えない敵の力が関わって盗んでいるのです。その泥棒を特定できるならば、「二倍にして」失ったものを取り戻すことができるのです。

 今日良きものが失われていたら、イエス・キリストを信じて取り戻しましょう。同時に、良いものを盗む力がどこにあるのかを知る必要があります。
 聖書のみ言葉を知ると、「良いものを盗まれる理由と敵について」わかってきます。

 世界の歴史の中で、最も偉大な国は、「バビロニア帝国」という国でした。大バビロンと言われ、世界を支配した国でした。その国が、ある日突然権威を失い倒れました。大バビロンは倒れました。
 国が滅びる程の理由はどこにあるのか、その理由について聖書は次のように教えています。黙示録十八章一節から三節、

『この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」』

 あれほどの帝国が倒れた理由は、「極度の好色」にあるというのです。今の時代、度を超えた好色、不品行、姦淫という性的罪が満ちています。この罪は国を滅ぼします。どこの国の結末を見てみても、性道徳が乱れ、極度の好色に走り倒れています。

 私は昨年、スペインに行きました。スペインのテレビ局でメッセージを語りました。スペイン人に、「この国の最も大きな問題は何ですか?」と聞くと、全員が一つの答えをしたのには驚きました。「それは同性愛です」と言いました。
 何とスペインでは、同性同士の結婚が合法化され、男性と男性、女性と女性の結婚も可能です。地下鉄に乗ったら、男性同士が手をつないでいたり、キスしていたり、女性同士も同じであったりして、気持ちが悪かったです。
 市長も同性愛者、首相は?と聞くと、たぶんと言いました。また、議員たちの半数ほどが同性愛者、国民の三十パーセントが同性愛者だと言いました。これは「極度の好色」です。不品行、姦淫の罪が熟すると、そこまで行き着いてします。そのまま行けば国は絶対に倒れます。教会もその罪に対して、ノーと言うことができないのです。
 なぜならば、国の法律が同性同士の結婚を認めているからです。それが罪だと告げる力を社会も教会も失っています。
 私はそのことを、テレビで話さなければならないと思いました。「話して良いですか?」と言うと、「いいけど、帰りにみんなが待っているかも知れないよ」と言われましたが、私は、罪であると話しました。
 しかし私は、極度の好色に至る根源的理由について話しました。今読んだ、黙示録十八章の「極度の好色」とは、性的罪ですが、同時に、それは「偶像礼拝」を意味します。そして、偶像礼拝の原点とは何か。それは「魔術」にあります。
 黙示録十八章二十三節には、

『ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。』

とあります。偶像礼拝の根源は「魔術」です。
 今日は二月三日です。「節分」と言われます。「鬼は外。福は内」などと言い、楽しい行事に見せかけていますが、根源には魔術があります。それは魔術を簡素化、一般化したものです。日本の偶像礼拝は全て、魔術との関わりがあり、魔術が成されるならば最終的には国が倒れます。「ともしびの光が消えてしまう」とあります。

 魔術から離れなければなりません。それは悪霊を呼ぶ行為です。結果として良いものがごっそりと悪魔の手に渡ってしまうのです。偶像礼拝から離れるとは、魔術から離れることを意味します。

 先週の金曜日の夜、インターナショナル祈祷会で奉仕しました。夜九時から十一時頃まで行われました。ペルーの報告と祈りの時を持ちました。
 集会後にインターナショナル部会のブラジル人・スタッフの女性の方が私の所に来て、「先生。祈ってください」と言われました。
 「さっきメールが来て、まだ教会に来ていない人なんですが、精神的に落ち込んで奥さんと娘が今、大変な状況です。緊急で家に来て欲しいと言われたので、今から行きますから、守られるように来て下さい」と言われました。その家に着くのは夜中の十二時くらいになるといいました。「それでも来て欲しい。緊急だ」と言うのです。

 それを聞き、ただ祈るだけではいけない、私もついて行かなければと思いました。私は私の娘とともにその家に出かけていきました。
 12時ごろ家に着くと、その家の奥さんはパンダのような目をして出てきました。彼女の娘さんも、ひどく落ち込んでいました。見ると、そばに精神科の薬がたくさん置いてありました。最近はろくに眠ることもできないと言っていました。「本当に混乱している。どうにもならない」と言いました。

 私は何とかその方々が解放されるように祈りたいと思いました。夜もふけていたので、眠くて力が入らないところもありましたが、「あなたは魔術に関わっていたことがありませんか?」と聞きました。
 そうしたら彼女は、「私のおばあちゃんは魔女でした。私の母もそうでした。私も小さな頃から、ずっと魔術に関わってきました」と答えました。

 実は、ブラジルの国神と言われる偶像の名前は、「アパレシーダ」と言います。それは全国民から拝まれています。魔術を行うとき、アパレシーダを置いて祈ります。その人の名前にも「アパレシーダ」という名前が入っていました。私は、彼女が魔術の力から解放され、いやされるように祈りました。夜中の一時頃でしたが、その方のために祈りました。

 私は目を閉じて祈っていましたが、祈りの途中、彼女は突然意識を失って倒れました。私の娘がそれに気づき、受け止めましたが、倒れてしまいました。
 すると突然、背後に隠れて働いていた悪しき力が暴かれ、彼女は叫びながら暴れはじめました。それはその人ではなく、背後に働いている悪魔の力そのものでした。

 しかし、イエスさまは魔術の力から解放し、いのちを与えてくださるお方ですから、私は自信を持って勝利のポジションに立ち、悪魔に立ち向かいました。その時、聖霊の力によって魔術の力が破られていくのがわかりました。
 彼女が起きあがったときに、「頭が熱い、燃えているようだ」と言いました。何と、イエスさまが来てくださったことにより、家庭に聖霊の火が灯りました。

 次の日に連絡を受けました。彼女はよく眠ることができ、家族で旅行に出かけたと言われました。とても喜んで、これから教会に行きますと連絡を受けました。
 長い間、魔術に苦しめられていた家族が、イエス・キリストの力によって解放されました。本当に嬉しかったです。

 私はその家に行って良かったと思いました。いつも私は、「神の時をつかみましょう」と話しています。そして、「時をつかむのには、犠牲が必要」と話していますが、夜中の十二時に出かけて行くのは、ちょっと眠たいと思いましたが、出かけて良かったと思いました。
 主が勝利を与えてくださいました。イエス・キリストを信じ、罪赦されて、悪魔に立ち向かっていくとき、今まで失われていたものを倍にして取り戻すのです。

 これがイエス・キリストが与えてくださる、十字架の勝利です。この勝利のポジションに立っていただきたいと思います。神が与えてくだる、良い計画書の中に生きいただくことを心から願います。

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 神様が立てた計画はすべて良い計画です。しかし悪魔が持っている計画は、「最低・最悪」の計画書です。最低・最悪の計画書は、日々アップデートされ、より最低・最悪の計画を考えています。けれども、イエスさまを信じ勝利した人生は、最高の計画書を受け取ることができ、失ったものを回復することができます。
 イザヤ書六十一章七節に、

『あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。』

 もしも恥の人生だったら、二倍のものを受け取るとあります。多くの屈辱を受けてきたと言われる方がいるかも知れませんが、「分け前に喜び歌う」のです。この国、すなわち、日本で二倍のものを所有し、とこしえの喜び、永遠のいのちがあなたのものになります!お祈りします。

(告白の祈り)
「イエスさま。今私はイエスさまだけが救い主であることを信じます。私が犯したすべての罪をお赦し下さい。汚れをきよめて下さい。極度な好色と偶像礼拝の罪を国を代表し、地域を代表し、家族を代表し、個人も含めて悔い改めます。赦して下さい。良いものを取り戻してください。私から良いものを奪った悪魔の力が打ち砕かれますように。偶像礼拝に関わった罪を赦して下さい。魔術に関わった罪を赦して下さい。その時に結ばれた悪霊との契約を、完全に破棄します。奪われたものを取り戻します。
 悪魔よ。よく聞け!私から盗んでいったものを、今イエス・キリストの御名によって倍にして返せ!イエスさまの名によって取り戻します。勝利を宣言して御名によって祈ります。アーメン。


[バックナンバー]