主が立ち上がられた日

2008.2.17(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

旧約聖書 イザヤ書 14章22節〜27節
「わたしは彼らに向かって立ち上がる。――万軍の主の御告げ。――わたしはバビロンからその名と、残りの者、および、後に生まれる子孫とを断ち滅ぼす。――主の御告げ。――わたしはこれを針ねずみの領地、水のある沢とし、滅びのほうきで一掃する。――万軍の主の御告げ。――」万軍の主は誓って仰せられた。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。アッシリヤのくびきは彼らの上から除かれ、その重荷は彼らの肩から除かれる。これが、全地に対して立てられたはかりごと、これが、万国に対して伸ばされた御手。万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。御手が伸ばされた。だれがそれを引き戻しえよう。」

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日はこのように、皆さんの前でメッセージを取り次ぐことができることを感謝します。最近は雪が多くて、教会に来にくい地域に住んでおられる方もいるかと思います。新城市はあまり雪が降りません。今日は共に、快適な場所で礼拝出来ることを感謝しています。
 二月は一年の中で二十八日しかない(今年は二十九日ありますが)不思議な月です。太陰暦の名残のある月で、特殊な霊的雰囲気を感じます。

 しかし、二月は私たちにとって忘れられない月です。なぜならば、一九九二年二月十三日に聖霊さまが訪れてくださり、それ以来、教会が変えられたからです。
 この教会に昔から来られているお年寄りの方が言われます。「新城教会で色々な奇跡が起こったけれど、一番の奇跡は、順牧師が変わったことだ」と。
 嬉しいような悲しいような複雑な気分になります。私は牧師の息子として生まれましたが、信仰の火がほとんど消えているような者でした。しかしそんな私にも聖霊の火が与えられました。
 新城教会は五十数年になりますが、その長い歴史を知っておられる方、また、つい最近クリスチャンになられた方もおられると思います。もし、歴史をよくご存知でないならば、『主が立ち上がられた日』という本をお読み下さい。私はこれまでに七冊ほど本と書きましたが、最初に書いた本が、『主がたちが上がられた日』です。この本のタイトルは、イザヤ書十四章二十二節から付けました。『わたしは彼らに向かって立ち上がる』とあります。主が私たちの為に、立ち上がってくださった記録です。
 それは二月十三日の夜中の十一時頃、たった八名の者たちが愛知県民の森で祈っているときに起こりました。激しく聖霊さまが訪れてくださいました。折しも、甲子園ミッションの準備期間でした。

 甲子園ミッションは、日本のリバイバルの始まりのような集まりとなりました。その準備のただ中に、主が訪れてくださいました。
 甲子園ミッションを計画し、実行に移したとき、様々な問題と困難が起こりました。しかし、聖霊さまが私たちの所に訪れてくださったことにより、問題の山をブルドーザーのように押し切っていきました。その活動の二年間は、聖霊の操り人形のように、主が私たちを使ってくださったようでした。
 あの素晴らしい甲子園ミッションは、どこに原動力があったのでしょうか。それは聖霊さまが激しく訪れてくださったことに原動力がありました。あれから十六年、主は教会と私たちを支えてくださいました。

 聖霊の注ぎは、主を信じる者すべてが必ず受けるべきものです。アメリカでリバイバリストとして十九世紀に用いられた、チャールズ・フィニーは、彼の聖霊体験を次のように語りました。

「聖霊は私の肉体を魂を貫くように降ってきた。その印象はまるで電気の波のよう。幾度も私を超えていった。まるで愛の波が幾重にも押し寄せてきたようだった。他にどのように表現すれば良いのかわからなかった。それはまるで神ご自身の息のようだった。」

 主の訪れは人を変えます。記念すべき二月に、私たちは再び新しい聖霊の油注ぎをいただき前進したいと願います。

 旧約聖書を見ると、聖霊の注ぎは特定の人にしか注がれませんでした。それは預言者や王などでした。神は特定の人物に聖霊を注ぎ用いました。
 しかしイエスさまの訪れと共に、それが変わりました。今の時代は、全ての人たちに注がれるという、素晴らしい約束があります。
 使徒二章十七節から十八節に、

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』

 今日ここには、若者から老人までおられますが、全ての人々に注いでくださるのです。

 先週の二月十三日の夜、聖霊が注がれた日を記念しての祈祷会が行われ、七十名ほどが参加されました。しかし、十六年前の祈祷会は、たったの八人でした。
 私たちは甲子園ミッションの準備に疲れ、また色々な問題で行き詰まり、主を求めていました。「主よ。助けてください。私たちの所に訪れてください。」と一週間、徹夜で祈っていました。二日、三日は良かったのですが、段々と祈りも疲れていました。最初は二十人ほど集まって祈っていましたが、一人去り、二人去り、最後の日はたった八人しかいませんでした。私は最後の日の祈祷会のリーダーでした。祈祷会のリーダーには特権があり、リーダーの心次第で祈祷会を長くも短くもできます。その日私は、三十分祈ったら帰ろうと準備していました。
 祈りにも力が入らず、声も出ないような感じでした。祈り始めて三十分が経ち、もう帰ろうかと思っていました。県民の森の広場上空はよく飛行機が通ります。三十分祈ったときに、上空に飛行機が飛んでいるように感じました。
 しかしその音は、自分たちに迫ってくる津波の音のようにも感じました。その音が聞こえ始めると、それまで声を出さずに祈って人々が、徐々に声が大きくなり、「主よ。リバイバルを与えてください。主よ。訪れてください」という、怒濤のような祈りに変わっていきました。
 その瞬間、波が私たちの祈りの輪に入ってきたように感じました。すると、横で祈っていた一人の女性が、硬いコンクリートの上にすごい勢いで倒れました。私はそれを見て、「心臓麻痺に違いない」と思いました。それまでの私は、人が倒れるのは病気以外に見たことはありませんでした。この人は死んでしまうのではないかと思ってしまいました。しかし、他の人たちは、人が倒れたのにも関わらず、全く気にせずに真剣に祈っていました。私のように、落ち着いてその光景を見ていた人がもう一人いました。「早く救急車を呼ばないとこの人は死んでしまう」と思っていたらしいです。

 しばらくすると、倒れた人の手がピックと動きました。そして右側にいた人の足に少し触れました。そうしたら、並びの三人が同時に倒れました。いくら鈍感な私でもその時は、「主が訪れてくださった!」とわかりました。普通ならば、「ハレルヤ!感謝します。祈りに答えてくださってありがとうございます」と感謝するはずです。
 しかし私は、「おい、祈祷会やめるぞ!逃げるぞ!」と言って、その祈祷会をたたみました。倒れた人たちを起こして、県民の森の小屋から新城教会まで逃げてきました。倒れた人たちはタコのようにグニャグニャで、足が立ちませんでした。しかし、小屋から少し出たときに、今度はすごい勢いで走りはじめました。超スピードで走っていきました。谷に落ちるのではないかと心配しました。みんなを捕まえて、二台の車で教会まで急いで逃げ帰ってきました。

 今まで体験したことがないことが起こったので、車の中で話し合いました。すると、ある人が言いました。「さっきの波が車を追っているようだ。」
 ちょうど私は長篠城の辺りを走っていましたが、車の後ろで「ゴーッ」という音をもう一度聞きました。私は車を飛ばして教会まで帰ってきました。

 それから、私は家内の所に行きました。愛する家内はすでに就寝中でした。子どもたちがまだ小さかったからです。家内を起こし、せき立ててこの教会堂に来て、もう一度祈ろうと思いました。
 教会に入ると、県民の森から戻ってきた人たちがすでに祈っていました。その夜、祈祷会に来れなかった人たちに電話をしました。すると深夜にもかかわらず、みんな教会に集まってきました。すると、県民の森で起こったことが、この場所でもう一度起こりました。

 家内はその光景を見て、「何これ?」と言っていました。しかし家内は心の中で祈ったそうです。「主よ。これは何ですか。もしも聖霊さまの働きでしたら、私にも教えてください」と祈ったそうです。祈っていたのは、この場所の真ん中通路の後ろでした。
 そのように祈った途端、家内は皆が祈っていた、この講壇の前まで飛ばされ、叫んで祈り始めました。
 家内に激しく聖霊が注がれ、彼女はドラムはたたけませんが、その夜はドラムの前に座って、ドラムをリズミカルに叩き始めました。気でも狂ったのではないかと思いました。

 その夜、新城教会の将来について、すべてを見せられたかのような、預言的な祈祷会でした。この十六年間に、その夜、主が現してくださった事柄が一つ一つ現わされているように感じます。
 あの日の夜の霊の油注ぎは、かけがえのないものでした。それまでも私はクリスチャンでしたし、それなりに信仰生活を送っていました。しかし主が訪れたその日から、心が熱くなり、十六年間その火は消えず、燃え続けています。

 今日は礼拝に、こんなに多くの方々が集まっています。ある意味で、これはリバイバルです。先週は県民の森の祈祷会に、深夜、七十名ほどの兄弟姉妹が集まりました。十六年前はたったの八人だったのに、十倍近くの人々が集まっていました。そこには中高生からお年寄りまで集まっていました。今年十六才、十五才の若者たちは、ちょうど聖霊が注がれた年に生まれた子どもたちでした。彼らも一緒に祈祷会に加わっていました。それは私にとって、とても感動的でした。

 聖霊さまが私たちを愛してくださり、この教会に訪れてくださったことを、もう一度心から感謝します。またこの二月、過去の栄光に浸るのではなく、もう一度、主に新しい扉を開いていただきたいと切に願っています。

 旧約聖書の時代には、特定の人にしか注がれなかった聖霊が、今の時代は全ての人に注がれると約束されています。
 旧約聖書の中から、聖霊が注がれた記事を学んでみましょう。

 初代イスラエル王として任命された、サウルに聖霊が注がれたときのことが記されています。第一サムエル記十章三節から七節に、

『あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。』

 サムエルはサウルに言いました。「あなたが進んでいくと、ある人に出会うでしょう。その人はパンを三つ持っているでしょう。その内の二つをくれるから、それを受け取りなさい。やがて預言者の一団に出会うでしょう。その時、あなたに聖霊が注がれるでしょう。」
 『主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。』と語りました。「聖霊が注がれたら、新しい人に変えられ、手当たり次第何でもしなさい。」と語られました。

 甲子園ミッションの準備期間に聖霊が注がれて後、私たちは手当たり次第何でも行いました。それでうまくいったと確信しています。その時、「ざわめき」の賛美ができました。

主の霊があなたに 天から激しく注がれる 
天から激しく注がれる
主の霊があなたを 新たな人に変えられる 
新たな人に変えられる

主の霊注がれ みなぎる主の力
主の霊注がれ 現れる主の栄光

主が共におられるから 手当たり次第何もかも
手当たり次第何もかも 現そう主の栄光

 主の霊が注がれるとき、何でもうまくいくと教えています。しかしこれは自己実現の為ではなく、主のみこころが現されるという意味です。
 第一サムエル記十章では、ある人が三つパンを持っていて、サウルにパンを二つくれたとあります。そしてその後、聖霊が注がれるとサムエルは預言しました。

 「三つのパン」とありますが、新約聖書では、イエスさまが三つのパンの例えを語られました。ルカの福音書十一章五節から十三節、

『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』

 夜尋ねてきた友人のために、パンを三つ貸してくださいと隣人に頼み込んだという例えが記されています。三つのパンとは、「求める」、「捜す」、「叩く」に対応しています。
 聖霊の力を受け取るために必要なことは、「求め、捜し、叩く」という、ある意味で、「ひたむきさ」が大切であると教えています。
 私たちの信仰生活は一度しかありません。やがて皆、天に帰ります。天に帰ったら、神様は私たちの地上での働きを評価されると思います。「よくやった、忠実なしもべよ。」と言われたいものです。一度しかない信仰生活、主のために力一杯働きたいと思います。そのためにも、聖霊の力を求め、捜し、求め、叩くことが必要です。

 サウルは二つのパンを受け取り、その後、聖霊が注がれました。
 イエスさまが天に帰られる前、一つのことを語られました。マタイの福音書二十八章十九節から二十節、

『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 イエスさまは天に帰られる前、「出て行ってすべての造られたものたちに福音を宣べ伝えなさい」、特に、「全世界に出て行って福音を伝えなさい」と語られました。
 私たちの伝道の視点は、周りの地域だけではなく、全世界を視点にしなければなりません。
 昨年はハワイリバイバルミッションがありましたので、その一つが実現できました。来週私は、韓国に行くことになっています。ぜひお祈り下さい。
 今まで日本の教会は、韓国の教会から多く支えられて来ました。新城教会に聖霊が注がれた背景にも、韓国の先生方が聖霊の火を投げ込んでくださいました。そのことによって、聖霊の火が付きました。

 しかし、日韓の歴史を見ると、日本は韓国対して、大変悪い行為をしました。ある意味で、霊的回復のためにも、日本側からアメリカにアプローチして、ハワイリバイバルミッションが行われたように、次は、日本側からのアプローチで韓国においても、リバイバルミッションを行いたいと願っています。日本側から、費用も、何もかも計画を立てて、韓国人のさらなる救いのために、リバイバルミッションを開催したいと願っています。
 ですから来週、月曜から木曜日まで韓国に行き、その計画の提案と、現地での交わりなどをしたいと願っています。そのために、ぜひお祈りください。

 イエスさまは、「全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさい」と語られました。聖霊が注がれるときに、「彼らは預言する」とありますが、この教会にも預言が与えられました。
 その中で主が語られたことの一つは、「日本はかつて、アジアの国々に多大な迷惑をかけましたが、やがて日本は霊的戦いと解放の剣を持って、かつて傷付けたアジアの国々へ出て行く」という預言が語られました。

 「主が語られたことはすべて成し遂げられる」とありますので、主がそのように行ってくださると信じています。韓国リバイバルミッションは、その一環として期待してます。

 『あらゆる国の人を弟子としなさい。』『父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい。』とあります。
 今日は子どもたちが六名バプテスマを受けます。バプテスマは、「父、子、聖霊の御名によって授ける」とあります。
 私たちの神様は、「三位一体」の神です。三つにして一つです。神様は天地宇宙を創られた唯一のお方です。それを父なる神と言います。その神様が人間の姿を取ってこの地上に来てくださいました。それがイエスさまです。イエスさまは同時に、「神の子」という立場で地上に来てくださいました。そして三十三年の生涯を終え、天に帰られました。その後、聖霊が降りました。この三つをどのように理解するのでしょうか。

 神は天から人となって地上に降りてきてしまったゆえに、宇宙はコントロールを失ったのでしょうか。そうではありません。神がこの地上におられたときにも、神は神として全宇宙を支配しておられました。
 イエスさまが天に帰られて、地上には神がいなくなってしまったのでしょうか。そうではありません。聖霊さまが遣わされました。聖霊さまは神ご自身です。お一人お一人の役割があり、各位があります。しかし、それは三人ではなく、一つです。イエスさまは、「わたしと父とは一つだ」と言われました。これを「三位一体」と言います。

 三つのパンは、ある意味で、「父なる神、子なる神、聖霊なる神」を表していると思います。
 サウルに、「まずは二つのパンを受け取りなさい」と言われたことは、何を意味しているのでしょうか。聖霊を受けるために、第一に、神はただ一人であるということを認めなければなりません。日本には八百万の神がありますが、ただ一人の神しかおられないのです。
 そして、その神様と出会うためには、イエス様を信じることが必要です。真の神様に出会いたかったら、イエスさまを救い主として受け入れなければなりません。イエス・キリストによって、私たちは父なる神のもとに行くことができます。
 イエスさまは、「わたしが道であり、真理であり、いのちです」と語られました。しかし、この二つのパンだけではまだ足りません。

 二つのパンを受け取ったら、続いて「聖霊が注がれる」とサムエルは語りました。
イエスさまが「三つのパン」の例えを語られ、最終的結論がルカの福音書十一章十三節にあります。

『してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』

 二つのパンだけではなく、三つ目のパンが必要です。それは聖霊さまです。今度は聖霊さまを迎えなさいと教えています。使徒一章五節に、

『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』

とあります。私たちは聖霊のバプテスマを求め、聖霊さまである三つ目のパンを求める必要があります。
 イザヤ書十四章二十五節に、

『わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。アッシリヤのくびきは彼らの上から除かれ、その重荷は彼らの肩から除かれる。』

とあります。今日皆さんの中で、重荷がある方がおられたら、このみ言葉が実現しますように祈ります。またイザヤ書十章二十七節に、

『その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。』

とあります。ある人にはくびきがついていて、束縛されています。牛にくびきがついて、二頭が一つにされます。しかしくびきが砕かれたら、牛は解き放たれ自由になるように、私たちにも、罪と悪魔のくびきがついていることがあります。
 そのくびきは、どのようにしたら砕かれるのでしょうか。イザヤ書十章二十七節を英語の聖書NKJVで読むとわかりやすいです。

『It shall come to pass in that day. That his burden will be taken away from your shoulder, And his yoke from your neck, And the yoke will be destroyed because of the anointing oil.』

 「the yoke will be destroyed because of the anointing oil./油そそぎによってくびきが砕かれる」と教えています。私たちも、聖霊の油注ぎを受けたとき、くびきが砕かれたようでした。

 イザヤ書十四章は、悪魔の起源について教えている箇所です。十四章十二節から十五節に、

『暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。』

 この箇所は特定の国のことではなく、悪魔のことを告げていると解釈されています。イギリスの代表的な神学者D.M.ロイド・ジョーンズが、『キリスト者の戦い』という本を書きました。その中でも、イザヤ書十四章はサタンの起源であると記しています。
 またビリー・グラハムの『天使』という著書の中にも、イザヤ書十四章は、「戦いの原因について述べており、反逆する前のルシファーのことである」と記しています。
 イザヤ書十四章は、究極的には悪魔について言及している箇所です。十四章十六節から十七節に、

『あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』

 私は、『新改訳聖書』の訳よりも、『新共同訳聖書』の方がふさわしいと思います。なぜならば、新改訳聖書には「あなた」と表現されている箇所が、新共同訳聖書では「おまえ」と訳されているからです。悪魔に対しては、奥さんがご主人を呼ぶような「あなた」という表現を使うのでなく、「おまえ」で十分だと思います。

『お前を見る者は、まじまじと見つめ、お前であることを知って、言う。「これがかつて、地を騒がせ、国々を揺るがせ、世界を荒れ野とし、その町々を破壊し、捕らわれ人を解き放たず、故郷に帰らせなかった者か。」』(新共同訳聖書)

 やがて人類は知る日が来ると教えています。家族を壊し、町を壊し、国を壊し、不幸を与えていた真犯人はお前か…と、やがて気づく日が来るのです。しかし、世の終わりに気づいても手遅れです。
 聖書は情報の書です。私たちに情報を提供しています。この世界を破壊している根本的原因は、もちろん人間の罪や欲望もありますが、その背後に働く悪魔・悪霊の働きであると教えています。そして、イザヤ書十四章二十二節は、

『「わたしは彼らに向かって立ち上がる。――万軍の主の御告げ。――わたしはバビロンからその名と、残りの者、および、後に生まれる子孫とを断ち滅ぼす。――主の御告げ。――』

とあります。「バビロン」とは、悪魔のことを表してしています。また、「彼らに向かって立ち上がる」の「彼ら」とは「悪魔と一味」です。この箇所は、悪魔に対して、主が立ち上がられることを意味しています。

 私が書いた『主が立ち上がられた日』は、主が、悪魔に対して立ち上がってくださった瞬間についての記録です。それが、私にとっては一九九二年二月十三日であったからです。
 その日以来、油注ぎとともに、個人のくびき、家族のくびき、また、国のくびき、世界のくびきが打ち砕かれ始めたのです。
 聖霊の注ぎが来るときに、くびきが砕かれ、主が立ち上がってくださいます。

 『主が立ち上がられた日』という題名を付けましたが、このタイトルは教育館の階段を上りながら、ふっと心に響いてきたタイトルでした。
 後から、主が、このみ言葉を教えてくださいました。正しくイザヤ書十四章のみ言葉の通りに、主が立ち上がられる日に、敵の力が打ち破られるのです。それも聖霊の油注ぎによって打ち破られていくと主が語ってくださいました。

 今日私たちは、更に新しい油注ぎを求めましょう。新しい油注ぎとともに、敵が打ち砕かれていきます。イザヤ書十四章一節から六節に、

『まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。主が、あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたに負わせた過酷な労役を解いてあなたをいこわせる日に、あなたは、バビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌って言う。「しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。』

とあります。かつて悪魔が国々の民を絶え間なく打ち続け、怒り、容赦なく虐げていましたが、「主が立ち上がられた日」に、敵の力は打ち破られ、負わされていた過酷な労役は解かれるのです。
 「あなたの痛みは終わりになる」とあります。昨日この箇所を読み、また、感動がわき上がってきました。主が私たちにあの日以来、勝利を与えてくださいました。そしてまた今日も、新しい勝利を与えてくださると信じています。

 主からの三つ目のパンを求めましょう。主が私たちの所に来てくださるように、お祈りしましょう。


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