あなたは見張り人です


2008.2.24(SUN)
新城教会牧師 滝元順師
旧約聖書 イザヤ書 62章6節〜9節
エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。主は右の手と、力強い腕によって誓われた。「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む。」

 ハレルヤ!皆さんとともにみ言葉を学べることを感謝します。
 寒くなったり温かくなったりと、気温の差が激しい毎日ですので、風邪を引いている人が多いかも知れません。今日は新しい力といやしをいただいて、一週間を始めていきたいと願います。

 今週、月曜日から木曜日まで、私は韓国で奉仕することになっています。リバイバルミッションでは、一つのビジョンがあり、やがて韓国でミッションを行いたいと祈っています。
 今まで日本の教会は韓国の教会に助けられ、韓国のリバイバルは日本に影響をもたらしました。やがて日本教会は、韓国教会にお返ししなくてはならないと思います。
 さらに、歴史を振り返ると、日本はアジア諸国に大きな迷惑をかけました。その根底にあるのは霊的理由であり、偶像礼拝です。その流れの中、日本は特に韓国を侵略し苦しみを与えた歴史があります。日本が置いた悪しき土台を悪魔の手から勝ち取るために、韓国教会と日本教会が一つとなって働くことが、大きな霊的回復につながると信じます。そのように導かれますように、ぜひ、とりなしお祈り下さい。

 今日のタイトルは、「あなたは見張り人です!」というタイトルです。
 先週は海上自衛隊の「イージス艦・あたご」が「聖徳丸」という漁船にぶつかるという悲惨な事故があり、毎日、そのニュースが流れています。どこに衝突の原因があるかということで、色々と報道されていますが、最近では、イージス艦には何人もの見張り人が立っていましたが、見張り人が見落としたところに原因があるのではないかといわれています。あの海域は船の通行が大変多いので、注意をしていましたが、うっかりと漁船を見落としたようです。そのために衝突し、大事故につながる結果となってしまいました。

 見張りとは、どの領域においても大変重要です。聖書は、イエス・キリストを信じた者たちは、霊的見張り人にならなければならないと教えています。
 「見張り人とは何か」、それは言い換えれば、「とりなしの祈り手」に置き換えることができます。

『エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。』

 エルサレムとは、イスラエルの首都です。しかしエルサレムとは、「神の都」または、「教会」を指しています。
 教会とは、神の臨在と神の支配が現されている場所です。そこには高い城壁が築かれており、敵が侵入できないように神が守っていてくださっています。
 しかしながら神の守りと共に、エルサレム、すなわち教会に住む者たち(イエス・キリストを信じた者たち)は、都の城壁の上に立つ見張り人としての使命が与えられています。そして、「昼も夜も決して黙っていてはならない」と告げられています。敵に対して見張り、もしも敵が近づいたら、声を上げて警鐘をならさなければならないのです。

 今年、私に与えられているみ言葉は、マルコの福音書四章二十六節から二十九節です。

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。』

 神の国とは、『人が地に蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。』とあります。
 教会とは神の国の現れの場所です。神の国は、人手によらずに拡大していくものだと教えています。新城教会の働きも神の国の働きですから、「人手によらずに拡大」して欲しいと願っています。人々はイエス・キリストを知らないので、一人でも多くの人々に福音を伝えなければならないのです。
 しかしみ言葉さえ伝えたら、人手によらずに実を結ぶとあります。『夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。』とあります。そのように、なりたいと願っています。

 牧師という職業は、夜は寝て、朝は起きるような、正確なリズムを刻む生活ができない場合もあります。夜中に色々な問題に対応しなければならないときがあります。また、朝早く起きなければならないときもあります。夜遅く寝なければならないような、不規則な生活になることも多くあります。
 私はこのみ言葉のように、夜は寝て、朝は起き…と正確なリズムを刻むような生活をしてみたいです。人手によらず神の国が拡大するとは、素晴らしいことです。
 これは、クリスチャン人生そのものについても同様です。夜はしっかりと眠ることができ、朝は正確に起き、そうこうしているうちにどんどん実を結ぶことができたら、どんなに素晴らしいでしょう。
 今年主は、夜は寝て、朝は起きて、そうこうしているうちに拡大すると約束してくださっていると信じます。

 しかし今日お読みしたみ言葉は、それに反するかのように、「昼の間も夜の間も決して黙っていてはならない」と告げています。この二つをどのように理解したらよいのでしょうか。
 それは全体において、夜は寝て朝は起きて、そうこうしているうちに実を結んでいくという原則の中で、一方では、「全員が寝ていてはいけない、誰かが城壁の上に立って見張りをする必要がある」と教えていると思います。
 昔、戦争に行った方は、「歩哨」という働きに立ったかも知れません。それは兵隊たちの中で順番が決められており、自分の時間になったら見張り所に立つのです。
 今週一週間、神の教会は夜は寝て朝は起き、そうこうしているうちに実を結んで行きますが、全体が祝福されるためには、常に、「誰かが城壁の上に立って見張りをする」ことが重要なのです。それがとりなしの祈りの働きです。
 
 とりなしの祈りは重要な働きです。とりなしの祈りによって、敵の力は見破られ、勝利を手にすることができます。しかしそれを怠ると、敵の攻撃に遭うかも知れません。
 第二列王記六章八節から十二節に、

『アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」』

 「アラム」とは、敵の勢力を表しています。アラムは常にイスラエルに挑戦していた国でした。アラムの王はイスラエルを何とか攻撃しようと狙っていました。時々、不意打ち作戦を立て、兵隊を送ったところ、何と、すでにイスラエルはその情報を掴んでいて、アラムが下って来る道に前もって軍勢が配備されてしました。逆にアラムは蹴散らされたのです。それが一度や二度ではありませんでした。
 アラムの王は、「これはわが軍の中にスパイがいるに違いない」と怒り、スパイを捜そうとしました。
 すると家来がこう言いました。「いいえ。王様。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られる言葉までも、イスラエルの王に告げているのですよ。」

 敵の首領が寝室で妃と、「今度イスラエルをどうやって攻めてやろうか・・・」とひそひそ語っていた段階で、すでにエリシャはその計画に気づいていたのです。
 計画案が王から発表される前に、すでにその計画はエリシャによって見破られていました。
 預言者エリシャはそれほどに神の力を受けていました。私たちにもエリシャのような油注ぎをいただきたいです。
 敵がどのような計画を立てたとしても、それを先に見破り、先に軍隊が配備され、何の危害も受けない人生を送りたいと願います。そのような、敵の計画を見破る、霊的レーダーを持った見張り人たちが教会には必要です。

 私は明日から四日間、韓国に行きます。今週の韓国行きの予定は、リバイバルミッションとの打ち合わせで決まりました。しかし、一つの計画が定められる中で、その計画が人からではなく、神から出たことを知らされる事柄が起こります。なぜなら、不思議とその予定に向かって、前段階の準備が人手によらず始まるからです。
 私はいつも不思議に思います。予定は、先方や教会、また、自分との兼ね合いで決められます。スケジュールの組み方はたいへん難しいです。私はスケジュール管理ソフトに時間単位で予定を打ち込んで管理しています。どこに時間が空いているのかを見ながら、最終的に予定が決定されます。

 しかし明日からの韓国訪問が決まってから、いろいろな動きがあり、日本にある韓国人宣教師の教会に私は招かれました。またその前後に、韓国人の方々の解放の祈りや、とりなしの祈りが集まってきました。自分でそのように計画をしたわけではありませんでしたが、今回の韓国訪問の準備が成されました。それを見るだけで、私は、主が既に見張り人を配備し、明日からの働きのために備えておられることを実感します。

 四年前のことですが、一人の韓国系の方ためにお祈りをさせていただきました。それは、その方のお父さんが大病で、一般的には助かる見込みがないので祈ってください、と言われました。
 その方のルーツは、韓国の釜山にあると言われました。私は釜山に行ったことがありませんでしたが、少し釜山について調べて、共に祈りました。その背後に働く敵の力が打ち砕かれ、病が癒されるようにと祈りしました。
 しかし病院からは、お父さんは絶対に助からない。二度と家に帰ることはできないと言われていました。しかし、何とか主にいやしていただきたいという願いをもってお祈りしました。
 その時、祈りを依頼された方に、一つの幻が見せられました。それは、釜山港が見え、海の中に赤い鳥居が立っている光景の幻だったそうです。そんなことを言われたので、韓国について、釜山について、さらに詳しく調べてみました。
 すると、歴史的に日本と韓国をつなぐ悪しきゲートが釜山にあることがわかりました。
 かつて、豊臣秀吉は釜山から、朝鮮半島を侵略したという歴史があります。また、日本が軍国主義の時代、そこから多くの人を強制徴用して日本に連れて来たりと、悲惨な歴史を発見しました。
 日本と韓国を結ぶ悪しきゲートが釜山にあることがわかりました。それは、日本にとって大きな罪であり、日本人の責任として、釜山に行ってとりなし祈らなければならないと思いました。
 それで私は、釜山のとりなしの計画をたてました。そうこうしているうち、日本にある韓国教会から招かれました。するとその教会に集っておられる方々は、ほとんどが釜山から日本に来られた方々でした。
 私は、「近々釜山に行く」と告げると、「私は釜山から来た宣教師です。ぜひ私をサポートしてくれている教会に行ってください」と言われました。私は、自分たちでタクシーを借り、とりなしに行こうと考えていましたが、釜山の教会が全て整えてくださり、ともに釜山のとりなしに行きました。

 釜山の教会の牧師は、一方では歯医者をされていました。私たちが教会を訪れると、まずは歯の診察から始めますと言われ、皆の歯をチェックしてくれました。危うく歯を抜かれそうになり、「日本で治療するから…」と言ってお断りしました。
 私が最初に歯の治療を受けていると、どこからともなく待合室に、「祈ってください」と言う人たちが大勢集まりました。そこに来た人たちは、霊的問題を持っておられ、待合室では解放集会が始まりました。待合室は霊的診断室で、一方では歯を治療しているという、面白い光景でした。

 今、韓国は二十五パーセント程がクリスチャンです。今度、韓国の大統領になった李さんは、熱心なクリスチャンだそうです。ソウルの市長をしていましたが、大統領になりました。彼はソウルのある教会に熱心に通っており、教会では駐車場係の奉仕をされていたそうです。彼は大統領に決まってからも、駐車場係をやりにいったそうです。すると警察が、「あなたが駐車場係りをやると警備上困るのでやめてください」と言われ、今では駐車場係ができなくて悲しんでいると先日聞きました。なかなか、へりくだった方が国の責任を持ちました。きっと祝福され、国も変わってくると思います。

 韓国の歯医者さんの教会の人々と共に、釜山の日本と関係する場所に行ってとりなし祈りました。そして、最後に釜山港に行って、祈りました。
 そこに赤い鳥居が立っている幻を見せられたと言われたので、日本から韓国につながっている悪しき門が打ち砕かれ、今度は、神の国の門が開かれますようにと、真剣に祈りました。すると天が開かれ、いっしょに行った人たちも驚くほどに、聖霊様が強く訪れて下さいました。

 そして日本に帰ってきました。日本に帰ってくると、絶対に家には帰れないと言われていた、そのお父さんが奇跡的にいやされて、退院したのです。それからすでに四年になりますが、先週お聞きしましたら、今も元気に生活されていると言われました。身障者一級の免許を持っていましたが、身障者手帳を今年は返さなければならないほどだそうです。
 見張り人としての使命を果たすことができたことに感謝しています。

 見張り人は交代で城壁の上に立って見張る係です。人々が夜、ぐっすり眠っている間にも、ある人たちは見張り人として、城壁の上で見張っています。そのような人たちによって、教会は守られるというみ言葉です。

『わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。』

 見張り人がいる教会は、決して敵に侵入されることはないのです。
 私たちがイエス・キリストを信じたら、全員が主の見張り人として、城壁の上に立つように教えています。

 私たちの信仰生活の中で最も大切なものは何でしょうか。それはもちろん、み言葉ですが、祈りも大切です。
 祈りは、人生のそのものを変えていきます。十九世紀に活躍した神の器であり、祈りの人であった、「アンドリュー・マーレー」は『祈りの学校』という本を書きました。その中で彼は、ヨハネ四章を引用し、そこには三つの祈りのクラスがあると書いています。

 ヨハネ四章は、イエスさまがサマリヤ地方の「スカル」という町に行き、一人の女性と出会ったストーリーが記されています。この女性は、五人も主人を変えたために、皆からのけ者にされて、社会に定着できないような女性でした。その女性とイエスさまは会話をされました。
 ある意味で、彼女は罪人という烙印が押されているような女性でした。ヨハネ四章十九節から二十四節に、

『女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」』

 ここには、三つの祈りのタイプがあります。
 女性は、イエスさまを預言者と認め、イエスさまに真の礼拝場所はどこですかと尋ねました。
 サマリヤ地方はかつて、アッシリヤという大国に捕虜にされ、多くの人がアッシリアへ連れて行かれました。しかし一部の人たちは、アッシリヤ人と混血し、サマリヤに住んだのです。
 イスラエルの人たちは純血を重んじました。しかしサマリヤの人々は純血を失い、混血してしまいました。だからユダヤ人は、サマリヤ人たちを差別していました。そこには深い溝があり、会話をしませんでした。
 しかしイエスさまは、そのサマリヤ人の女性に話しかけられたのです。それは一般的に異例のことでした。

 その時、その女性は驚いて、イエスさまに聞きました。「礼拝する場所はどこが本物ですか」
 サマリヤ人たちは、ゲリジム山という山を重んじ、そこを礼拝場としていました。しかしそれは本当の神を礼拝していたのではなく、カナンやアッシリアから持ち込まれた偶像の神々を礼拝する、高きところでした。

 一方、ユダヤ人たちは、エルサレムを礼拝の場所として、厳格な礼拝の習慣を保っていました。彼らの習慣は、朝と夕の二回、必ず宮に上って祈りました。
 サマリヤの女の質問は、「ゲリジム山での礼拝が本物か、ユダヤ人たちの礼拝が本物か」と聞きました。
イエスさまはユダヤ人なので、当然、「エルサレムでの礼拝が本物です。」と言われるかと思っていたら、二十二節。

『あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。』

 「霊とまことよって礼拝するときが来る、今がその時だ」と語られました。

 サマリヤの女とイエスさまが出会った時刻についてヨハネは記しています。それは「第六時」と記されています。それを今の時刻に直すと、「昼の十二時」になります。
 実は、ユダヤ人の祈りは、朝と夕の二回でした。しかしイエスさまは、「今がその時」と語られたのです。
 普通、昼の十二時は休みのときです。特にパレスチナは暑いので、人々は昼は外に出ません。昼はゆっくりと休む時間でした。

 時々、色々な国に行くと、昼の習慣が違うことにビックリします。去年私はスペインに行きましたが、スペインで昼ご飯と言えば、午後の二時過ぎでした。レストランが開くのが午後一時半頃です。人々は大体、二時頃にレストランに集まって昼ご飯をゆっくりと食べます。
 しかし私たち日本人は、十二時になると時差があるにもかかわらず、昼食のスイッチが入ります。しかしスペインでは一時半か二時頃まで、昼食を食べられません。
 また、南米の田舎に行くと、「シエスタ」という習慣が残っていて、昼には店も事務所も閉まり、昼寝の習慣があります。昼ご飯をゆっくり食べて、夕方五時頃まで昼寝をします。日本もそんな社会になったら面白いです。
 それは私たちのライフスタイルとは、全く違います。私たちにとって昼は一番忙しい時間です。稼ぎ時というライフスタイルです。シエスタですから寝てください、と言われてもなかなか寝付けません。午後五時頃になると、店は再びシャッターが開けて仕事が始まります。

 イスラエルも同じです。昼は暑いので外に出ません。しかしこの女は、最も日が高い、暑いさなかに外に出て、それも重労働の水汲みに来たのです。
 この事から見ても、彼女がどのような人かわかります。
 昔は井戸は共同でしたので、水汲みの時刻は女たちでごった返しました。そのような場所はどこの国でもうわさ話の場になります。
 彼女はそんな所には行きたくないので、こっそりと暑いさなかに水汲みに来ていました。
 そこでイエスさまから話しかけられたのです。イエスさまはどんなに罪があったとしても近づいて、いのちの水を与えてくださるお方だとわかります。

 さて、三つの祈りのパターンとは、第一に「間違った対象への祈り」です。サマリヤ人がゲリジム山で祈っていたのは、偶像に対する祈りです。
 また二番目は、ユダヤ教的祈りです。それは「習慣的な祈り」です。ユダヤ人たちは、朝と夕に決められたパターン化した祈りの生活を送っていました。
 しかしイエスさま、それを良しとされませんでした。イエスさまが語られた祈りとは、「霊とまことによって父を礼拝すること」、すなわち、「み霊による祈り」を求めておられるのです。

 サマリヤでは昼は普通、休んでいます。そんな寝ているただ中が、「今がその時だ」と語られたのです。
 主が見張り人として祈りなさいと語られるとき、それは、「今は祈りの時ではない」と考えているときが、主が求めておられる「祈りの時刻」なのです。そのような祈りを、私たちに命じておられるのです。
 エペソ六章は、霊的戦いについて教えている箇所ですが、霊的戦いの一番の武器とも言うべきものは祈りです。その祈りについて教えています。六章十八節に、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 『どんなときにも御霊によって祈りなさい』とあります。ちょうどイエスさまが、「今がその時です」とサマリヤの女に語られたのと同じように、み霊による祈りとは、普段では祈りの時間とは思われない時刻に、聖霊によって与えられる祈りです。

 教会に来たときは主を賛美し、祈るかも知れません。しかし主が、「今がその時」と語られる時刻は、皆さんの生活のただ中に与えられるのです。
 それが言い換えれば「見張り人としての役割」であると教えています。

 ビジネスマンの方なら、会社で働いているただ中で、主が突然、み霊による祈りを与えてくださいます。その祈りを受け取るときに、敵の力を打ち破ることになります。
 また主婦の方々は、忙しい夕食の準備のただ中で、祈りが投げ込まれるかもしれません。それを受け取って祈るときに、見張り人としての使命が果たされ、教会全体が守られるのです。
 今週、主は一人ひとりに、見張り人としての役割を与えてくださいます。ですから見張り人としてのパートを見逃すことがないよう、見張り人として、忠実に奉仕できるように祈りたいと願います。

 教会はキリストのからだを建て上げる場所であると教えています。教会は体に例えると、ひとりひとりは、「各器官」であると教えています。コリント第一の十二章十八節から二十七節に、

『しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

 この教会には多くの方々が属されています。日曜日の礼拝に来る方々は、三百名以上ですが、都合で来られなかったり、遠方に住んでいる方々を入れると数百人規模になります。インターナショナル礼拝を含め、一週間にこの教会に集われる方々を合計すると、大体、五百名から六百名程になりです。それは教会まで来る人数ですので、裾野はもっと広いです。教会は、その中に属する、すべての人が祝福されなければなりません。
 いつも週報を見るときに、悲しく思うことがあります。なぜならば、病で苦しんでいる方々がおられるからです。一方では問題から解かれますが、一方では依然として問題があり、苦しんでいる方々がいます。とかく、「自分に問題がなければ良い」と考えがちですが、教会はキリストのからだであり、ひとりひとりは各器官です。一つの部分が苦しんでいたら、他の部分も共に苦しむと教えています。
 例えば、左手が不自由ならば、右手も不自由になります。体全体が不自由になります。またお腹が痛ければ、全身が調子悪くなります。最近もインフルエンザにかかって、苦んだ人たちがいると思います。インフルエンザは大変なようです。私は今まで、かかったことがありませんので、どういうものかわかりませんが、四十度くらいの高熱が出てたいへんだと言われます。
 しかしそれらを人ごとだと思うのではなく、教会の中に起こっているすべての問題はキリストのからだの中での苦しみであり、互いに共有化しているのです。同時に、喜びも共有しています。
 そしてエルサレム、すなわち、教会の中に敵が侵入せず、問題が消え去るためには、一人一人が見張り人となり、役割を果たしていく必要があるのです。それぞれに与えられた賜物を活かすならば、主は教会に勝利を与えます。どこが尊くて、どこかが劣っているのではありません。体でも、よく誉められる場所と、誉められない場所があります。顔やスタイルは誉められますが、足の裏は一度も誉められることはないかも知れません。しかしそれは全身を支える重要な役割をしています。
 目立たない器官が、かえって大切だと主は言われます。
 人間の身体でも、大切なものは、見えない場所に収まっています。内臓器官は大切ですが、見えません。しかし刻一刻、生命維持のために働いています。この教会には長生きされる方が多くおられます。どこが強いかというと、やはり内蔵、胃腸が強いと思われます。しかし一度も、その内蔵は見ることができません。手術をする医者などは知っているかも知れませんが、普通は全く知りません。しかしそれが一番大切です。

 教会でも、目立たないような、見えない器官が大切なのです。また一人一人の目立たない、とりなしの祈りや見張りの祈りが、最も大きな勝利をもたらすのです。

 神の器官はからだのようであり、色々なところから情報を収集し、敵の力を打ち破ります。
 そもそも私たちは、生活のただ中で、周りから色々な情報を取り入れながら、一つの決断を下して生きています。
 お腹が空いて冷蔵庫を開けます。たとえば、冷蔵庫の中にある豆腐を食べようとするとき、豆腐をまず目で見ます。腐っていないかどうか、形が壊れていないかを瞬間的に目視で判断します。さらに触ってみて、変に柔らかくなっていないかを見て情報をとります。また食べる寸前にも、鼻が豆腐の臭いを確認します。匂いが大丈夫なら口に入れます。
 鼻が口の上にあることは素晴らしいです。神様が口の上に鼻を創られたのは見事だと思います。さらに、口に入れたら舌で味を確認、やっと飲み込むのです。人は次々と色々な情報を取り入れながら行動しています。

 同様に、キリストのからだも同様です。それぞれにさまざまな情報が与えられ、それらの情報が集約され、神の国が拡大するのです。今週もひとりひとりに、神様が情報を与えてくださいます。そして最終的には、主が情報をまとめてくださいます。

 私は仕事柄飛行機によく乗ります。飛行機は一番安全な乗り物だと言われます。世界中で一日に何十万機もの飛行機が飛んでいますが、落ちたという情報はほとんどないです。それに比べ、車の交通事故はたくさんあります。飛行機事故は稀です。
 しかし安全な乗り物ですが、飛行機に乗るときには常に一抹の不安があります。「落ちなければいいけど…。何十万分の一の確率が、この飛行機に当たりませんように、守ってください」と祈ります。
 しかし、考えてみたら実際怖いです。飛行機の材料は、何一つとして手を離して浮く物質はありません。手を離せば全て落ちていく材料ばかりだからです。
 けれども、翼、エンジン、そして、パイロットなどが組み合わされて飛びます。しかし根本的にはそこに、「人間の知恵」があるので飛行機は飛ぶのです。

 私たち一人一人も、手を離せば自然に落ちていくような罪人であり、弱い者かもしれません。しかし一人一人が組み合わされ、神の知恵が教会に注がれるときに、教会は飛び立っていきます。
 今週一週間、そのような働きができるよう、お祈りしましょう。そして「主よ。どうか、私を見張り人として用いてください。情報を決して逃すことがないように」と祈りましょう。

 ある人は夜中に、「起きなさい。この事について祈りなさい」と短い祈りを要求されるかも知れません。
 甲子園ミッションの活動中、夜遅くに決起大会から帰ってきて眠りにつきました。
 すると耳元で、「起きてすぐに祈りなさい」と語られました。「今、新城に向かっている別の車が危ないから祈れ」と語られました。
 ちょうど、その車には私の息子が乗っていました。だからすぐに起き上がって、「主よ。彼らの車を守ってください。アーメン」と祈り、また眠りました。

 明け方、彼らが帰ってきて言いました。「今日は東名で危なかった。前の車が事故を起こして、もう少しでぶつかるところだった。」
 その時、「起きて祈れ!」と言われた意味がわかりました。私が祈った時、天使が遣わされ、主が、彼らを守ってくださったと思います。それが見張り人としての役割だと思います。

 就寝中、そんなことがあったら、必ず起きて祈ってください。また、仕事のただ中でも、私たちは見張り人としての役割があることを認識し、意識しながら仕事をすることが大切です。

 昨年、「ハワイリバイバルミッション」がありましたが、色々な所でとりなしの祈りをしました。
 オワフ島の北方に「オパナ岬」があります。そこは歴史的な場所です。一九四一年一二月七日は、日本が真珠湾攻撃を仕掛けた日です。それに先立ち、アメリカ軍は最新鋭の兵器をオパナ岬に設置していたそうです。それが「レーダー」です。敵の飛行機が飛んでくる情報を事前にキャッチする機械です。今では一般的ですが、当時は最新鋭の兵器でした。そこでは、三時間毎の交代勤務で警戒がなされていました。

 十二月七日、朝四時からのチームが七時ごろ、一つの信号を受信しました。二百二十キロほど先に飛行物体情報を受信しました。
 それはオパマ岬に向かっているようでした。速度から判断し、飛行機に違いないと判断し、すぐに担当者は情報センターの担当者に連絡しました。
 しかしちょうどその時刻、情報センターの担当者は朝食で席を外していたのです。すると隣の席に一人の空軍中佐がいて、「それはカルフォルニアから飛んでくる味方の飛行機だ」と言ったそうです。
 しかしそれが、真珠湾攻撃のために空母から飛び立った、日本軍の攻撃機の編隊だったのです。

 米軍は情報をキャッチしていましたが、情報が生かされなかったのです。やがて日本の攻撃機はパールハーバーへ到達し、米軍に大打撃を与えました。
 もしもその時、最新鋭のレーダーが受け取った情報をうまく取り扱い、「これはおかしい」と担当者が正しく判断していたら、たぶん日本はパールハーバーで負けました。パールハーバーで勝ったことにより、日本は更に戦いに駆り立てられていきました。もしもそこで日本が攻撃に失敗していたら、太平洋戦争はもっと早く終わった事でしょう。
 少しの判断ミスが、後の勝敗や犠牲を大きく左右したのです。

 私たちクリスチャンは霊的レーダーです。見張り人として城壁に立ち、情報を受け取るのです。エリシャが神からの情報を受け取り、イスラエルに伝えたように、私たちも情報を受け取り、主の前になすべき行動の重大さを教えられます。今日、ひとりひとりが見張り人として城壁の上に立ちましょう。

『昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。』

 『この地でエルサレムを栄誉とされるまで』とありますが、教会を通して神の国は広がっていきます。リバイバルが全土に広がっていくまで、私たちは黙っていないで城壁の見張り人として立ち、戦かい続けることが使命です。

 今週、見張り人として、その役割を果たすことができますように。神の時をつかみ、主が、「今がその時です」と言われる時をつかむことができますよう、祈りましょう。
 またその結果として、神の国が更に広がることを祈りましょう。


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