一部始終を報告します!


2008.3.23(SUN)
新城教会牧師 滝元順師
ルカの福音書24章1節〜9節
週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」女たちはイエスのみことばを思い出した。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。

 ハレルヤ!復活祭おめでとうございます。今日、皆さんと共に礼拝を持てることを心から感謝しています。
 今日のタイトルは、「一部始終を報告します!」です。「何を報告する気だろうか?」とドキドキしている人がいるかも知れませんが、それはイエスさまの「復活」のことです。
 イエスさまの復活を目の当たりにした女たちが、あまりにも驚いて、自分たちが経験した一部始終を弟子たちと周りの人たちに報告したのです。そこから私は、「一部始終を報告します」というタイトルを付けました。

 どんな宗教でも、基本となる「教え」があります。しかし、ただ教えだけでは宗教は成立しません。現実に何らかの霊的手応えを感じないと、宗教は成り立ちません。ただ教えだけに感動するならば、それは単なる哲学や学問にしか過ぎません。けれども、教え通りに行動するとき、何らかの霊的手応えを感じるなら、宗教として成立します。仏教にしても、神道にしても、何千年もの長きに渡って拝まれているということは、単なる教えだけではなく、人々が何らかの手応えを感じているからです。ですから、廃れないのです。また近ごろは新興宗教が流行っており、多くの人が関わっていますが、それは既成の宗教以上に手応えを強く感じているので人々はついていくのです。
 「ここには人間以上の何らかの力が働いている。もしかしたら、神様かも知れない、ここに従っていけば良いことがあるのでは・・・」ということで、人々はある宗教に関わっていきます。
 キリスト教もそのような意味では、宗教の一つに数えられます。しかし、もしも教えが偽りなのにも関わらず、手応えを感じた場合は気をつけなければ成りません。

 最近は振り込め詐欺が横行しており、多くの人が引っかかっています。
 昨日私はコンピューターのMNSニュースを見たら、富山県のおばあさんの所にビン・ラディンと名乗る外国人から電話があり、「ワタシ、ビンラディン。アナタ 650マンエン フリコマナイト アナタノイエニ ヒコウキ ツッコミマス」と言ったそうです。それでおばあさんは驚いて、お金を振り込んでしまったとありました。私は、そんなことあるわけがないと思いながらも、「こんな事に引っかかる人は馬鹿だなあ」と笑っていました。
 しかしニュースの項目を見たら、「虚構ニュース」となっていました。そのニュース自体が嘘のニュースでした。何と、そのニュースを読んでいた、私が引っかかっていたのです。
 「何だ、私が引っかかったのか。私はバカだなあ…」と思いました。

 振り込み詐欺も、まことしやかなストーリーがあり、向こう側に相手を感じます。その時、騙されるのです。
 ある奥さんに電話がありました。ちょうどご主人が会社に出かけた後、タイミング良く電話があったようです。「こちら、警察ですが、今あなたのご主人が捕まって警察にいます。」「なぜですか?」「お宅のご主人、電車の中で痴漢行為を働きました。これは大きな事件で、逮捕されたら牢屋に入ってしまう」と言われました。そして次にこう言いました。「ちょうど今、国選弁護人がいて、この話を示談にしてくれると言っているのですが、どうですか。」と言って電話相手が変わりました。
 「これは大きな事件で、立件されたらあなたのご主人は全てを失い、マスコミや新聞にも大きく出るでしょう。けれども被害者の方と三百万円で示談が成立するそうです。しかし今日中に、三百万円振り込まなければならないですが、どうしますか?」と言われたそうです。
 奥さんは立て続けに言われたので、パニックしていましたが、「今日中に三百万円支払え」と言われ、「ちょっとおかしい\\\\」と疑い、ご主人の会社に電話をしたそうです。すると、ご主人が電話に出て、「何?それ…?それって、振り込み詐欺じゃあないの?」と言われ、引っかかることがなかったと言われました。

 まことしやかなストーリーがあり、相手を感じ、それが間違っていたなら、味方ではなく、敵です。引っかかったら、大切なものを奪われます。

 日本人は自分の宗教の基礎となっている教えに関して、あまり関心を持ちません。「教えは何でも良い、ただ単に、何らかの手応えを感じれば良い」と手を出します。しかし私たちの周りにある諸宗教を調べると、教えの基となっているストーリーが偽物であり、作り話であることがわかります。

 かつて歴史教育の中で、日本神話をまるで史実であるかのように教えていた時代がありました。しかし日本神話を調べてみると、驚きます。天照が引きこもって、それを引き出すという神話は有名ですが、岩戸に引きこもっている天照を引き出すという全く同じ内容の神話が、ギリシア神話の中に出て来るからです。それは、「ホセイドンとデメテル神話」の中にあります。それらを天照とスサノオに置き換えると、そのまま日本神話になります。
 日本神話ができたのは八世紀のことで、ギリシア神話が流布していた時期でした。それを少しだけ変えて、日本の国生みの神話としたのです。これは偽物です。

 しかし神社に行って拝むと、手応えを感じます。日本神話の神々が実在するかのような感覚を覚えるのです。しかしそれに手を出したらどういう事になるのでしょうか。敵の策略に引っかかるのです。

 信教は自由です。憲法で信教の自由が保障されていますので、何を信じてもかまいません。しかし信じる基となる教えが、「事実か嘘か」を、よく確かめなければ大変なことになります。

 そのような意味において言えば、キリスト教とても同じです。もしもキリスト教のストーリーが嘘なら、信じない方が良いのです。「何を言っているのだ。この牧師は…」と言うかも知れませんが、本当にそうです。

 特に「このことが嘘なら、絶対に信じるのをやめた方が良い」というストーリーが、「イエス・キリストが十字架にかかって死に、三日目によみがえった」ということです。
 今日はイエスさまの復活をお祝いする復活祭です。イエスさまがよみがえられたということを記念しています。
 しかし、この「復活」がでっち上げならば、教会に来ない方が良いし、私も牧師をやめた方が良いのです。なぜならば、これが嘘ならば、すべてが崩れるからです。それは本当に大きな要素だと思います。

 しかし逆に言えば、イエスさまがよみがえられたことが事実ならば、私たちは全幅の信頼を彼の上に置くことができるのです。

 今日お読みした聖書箇所は、イエスさまがよみがえるなどとは、みじんも考えていなかった女たちが、よみがえりのイエスさまと出会った時の記事です。イエスさまがよみがえられたことを天使によって告げられたのです。それで気が動転し、その「一部始終」を、弟子たちや周りの人たちに報告したという記録です。

 実に、イエスさまは死からよみがえられたお方です。イエス・キリストは死者の中からよみがえられ、今も生きておられる神です。
 イエスさまが十字架で死なれたのは、ユダヤ人によって殺されたように思われるかも知れません。しかし殺されたというのは間違いです。なぜならば、イエスさまはこう語られました。ヨハネの福音書十章十八節に、

『だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。』

 イエスさまは十字架で殺されたのではなく、自ら命を捨て、また命を得ました。それゆえ、彼は神なのです。

 人類の最も大きな敵は死です。今日はこの礼拝が始まる前、九時半から「召天者記念会」が行われました。大勢の方々が出席されました。それは家族や親族の中で、どなたかが先に天に帰られた人を持つ家族の集まりでした。そこでは、天に帰られた兄姉姉妹のお元気な頃の写真を見る時間がありました。
 写真とは不思議なものです。それは人生の一断面を切り出しています。そこにはまだ元気な頃のお顔が、にこやかに映し出されていました。
 写真を見るときに淋しさを感じます。かつてはあんなに元気に一緒に礼拝を守っていた兄姉姉妹が、今はこの地上のどこを探しても見つからないからです。それを思うときに淋しく感じます。
 人間は生まれたら必ず死ななければなりません。しかし案外、死ぬという現実を直視していません。なぜ、直視出来ないのか。それは、人にとってあまりにも大きなテーマだからです。しかしながら、誰でも死に直面しなければならない瞬間があります。

 今朝は三百名以上の方々が礼拝に集われています。しかし百年後、この場所に戻ることができたら、どうなっているでしょうか。百年後、この会堂は解体しない限り、残っていると思います。皆さんが座っている椅子も、ボロボロになって虫やネズミが住んでいるかも知れません。
 しかし一つ言うことができることは、今日、私を含んでここにいる方々は誰一人として、ここにはいないと言うことです。
 「百年前にここで集まりがあったでしょう。あの時の人たちはどこにおられますか?」と聞いても、百年後答える人はいないのです。「そんな人たちいましたかねぇ?」と言うでしょう。
 詳しく調べてみると、「あの人ですか。あの人はとっくに亡くなられましたよ」と告げられるでしょう。

 皆、死ななければならない現実があります。そして人生がもしもシャボン玉と同じように大きくなってパンと消えて、どこを探しても見つけることができない存在ならば、人生は空しく淋しいものです。この地上でいくら幸せな家庭を築いてみても、いくら愛する人と共に住んでみても、やがて分かれなければなりません。

 しかし聖書は、人間は永遠性を持っていると教えています。そして、人生はこの地上だけで終わりではないのです。それを証明するかのように、イエスさまはよみがえってくださったと告げています。もしもイエスさまが復活しなかったら、私たちの働きは空しいです。第一コリント十五章十四節に、

『キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。』

また十九節には、

『もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。』

とあります。もしもイエスさまがよみがえられなかったら、嘘のストーリーに希望を置いているならば、クリスチャンほど哀れな人たちはいないと語っています。
 第一コリント五章十三節から二十一節までを読めばわかります。イエスさまがよみがえったことが事実ならば、私たちはイエスさまに全幅の信頼を寄せることができます。イエスさまがよみがえられたのは、永遠の世界があることを、また、肉体的な死は大きな問題ではないことを証明するために、よみがえられたと教えています。
 私たちはやがて天に行き、地上で別れた人たちと再会できる希望があります。

 人間とは不思議な存在です。体の中に命が宿っています。命はどこに宿っていると思いますか。どこだかわからないけれど、体の中に命が宿っていることは確かです。生まれてからこの方、ずっと自分は変わらないのです。人の細胞は新陳代謝して常に新しくなっています。脳細胞さえも新しくなっているようです。しかし自分自身は、新陳代謝しません。「五歳の時の自分と、今の自分とは全く違う、毎日自分が変わっている」と言う人がいたら、すぐに病院に行くことをお勧めします。普通は変わらないのです。
 聖書は神秘的なことを告げています。人の命は血の中にあり、血が命そのものだと教えています。
 命は血の中に宿っているようです。人間は霊的な動物ですが、そんな霊的動物が肉体に宿るためには、血が必要であるというのです。この地上で肉体の世話をするなら、霊的存在である命が、肉体の中に存在し続ける事ができるのです。神は神秘的存在である人を、そのような形として創造されたのです。

 今日の礼拝が終わると、特別ランチが待っています。ぜひ期待してください。教会スタッフたちは、礼拝に出席せずに食事作りに専念しています。今日の目玉は、信弘先生の刺身コーナーです。新城教会には、色々な賜物が備えられています。賛美する人もいれば、料理する人、刺身・活き作りを作る牧師もいます。食事とは楽しいものです。しかし食事は突き詰めていけば、霊的生命を肉体の中に住まわせ続けるための重要な作業です。
 しかし私たちは、やがてこの地上から出なければな時が来ます。けれども、イエスさまがよみがえられのが事実ならば、永遠の世界もあるので、死ぬことを恐がらなくても良いのです。また、先に別れた人たちとも、天国で会うことができます。

 イエスさまが十字架にかかり死んだ後、墓の中に葬られました。すると、その後ローマの兵隊たちが墓を封印しました。それは、イエスさまが生前、「わたしはよみがえりであり、いのちです、わたしは死んでも生きる。三日目によみがえる」と語ったからです。その噂は周囲に広がっていました。
 イエスと一緒に行動していた弟子たちが、イエスの体を盗んで、「墓を見ろ。空っぽではないか。イエスはよみがえったのだ」と言いふらしたら、社会は混乱します。ゆえに、ローマは墓を封印し、墓を守っていました。

 イエスさまが生まれた時代的背景を見ると、イスラエルはローマ帝国の植民地になっていました。政治の中心にローマ帝国があり、イスラエルの治安を守っていました。ある部分では、ローマはユダヤ教のような民族宗教を容認していましたが、治安維持や政治体制はローマに権威がありました。ローマ側の見方では、イエスという男はユダヤ人たちを混乱させるから死んだ方が良い、けれどもよみがえったなどという噂を立てられたら、国が混乱するので政治的にも治安的にもよろしくないと考えました。それで、イエスさまの墓を封印し、誰も遺体を引き出すことができないようにしました。番兵を起き、何者も絶対に墓を暴いてはならないとローマの封印を押して守っていました。

 しかしイエスさまが亡くなられて三日目の朝、イエスさまの周りで仕えていた女性たちが、イエスさまの体に香油を塗ろうとして墓に行きました。ユダヤ人の風習の中に、遺体に油を塗る習慣がありました。だから女たちはイエスさまの遺体に香油を塗りたいと、出かけました。彼女たちは当然、イエスさまは死んでいるという前提で墓に行きました。
 しかし彼女たちには一つの悩みがありました。どうやって墓に入ったら良いのだろうか。石を転がしてくれる人はいるのだろうか、と話し合っていたのです。
 しかしそう思いながらも、女性たちは墓に近づいていきました。私はいつもこの箇所を読むときに、女性に与えられている賜物を思います。男であれば、まず墓には行かないと思います。ローマによって封印され、番兵が立っているようなところに入るのは、絶対に無理だとわかっているので、あえてそんな無駄なことはしないと思います。
 しかし女性たちはそのような困難があっても、何とかして香油を塗りたいという愛の心を持って出かけていきました。そして彼らの期待は、「石をどけてくれるのは誰だろうか?」ということでした。

 しかし、何と、墓場に着くと驚くべき光景に出会いました。あの大きな石が脇に転がしてあり、番兵もいなかったのです。
 急いで墓に入ってみると、イエスさまの遺体はそこになかったのです。それどころか、眩いばかりの衣を来た二人の人が近くに来て、「あなたがたはなぜ生きている人を死人の中で探すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい」と告げました。

 彼女たちの驚きは如何ほどであったのか、想像が付きません。彼女たちもイエスさまの口から、「わたしは死んでも生きる」と聞いていたと思います。しかしそんなのは、ただのたわごとのようにしか思っていなかったのかも知れません。悲痛な思いの中で墓に行ったとき、そんなすごい事に遭遇したのです。

 彼女たちはすぐに墓から戻り、十一人の弟子と他の人全部に、「一部始終」を報告しました。一部始終の報告とは、「復活の事実」でした。イエスさまは事実、復活されました。生き返られました。
 キリスト教信仰の中で、イエスさまがお生まれになられたことは歴史的事実です。今年は西暦二〇〇八年ですが、西暦はイエスさまが生まれた時を基準にしています。イエスさまがこの地上に歩まれたことも、十字架にかかられたことも歴史的事実です。
 同時に、イエスさまが死からよみがえられたことも事実なら、この生ける方に全幅の信頼を置いて人生を歩むことができるのです。

 今日初めて教会に来られた方、他宗教に属されている方もおられるかも知れませんが、一度教えについてチェックしてみてください。もしも、教えに間違いがあるとしたら、少し引いてみた方が良いのです。他宗教の悪口は言いたくありませんが、仏教において日本人が「仏教」」と思っていますが、それは仏教ではありません。原始仏教においては死後の世界観は全く含まれていません。葬式の儀礼については仏教中には含まれていない要素です。嘘だと思ったら、釈迦がはじめた原始仏教について調べてみるとわかります。
 しかし「仏教」と聞くと、「葬式」、葬式というと、「仏教」です。寺の住職と聞くと、葬式をしてくれる人だと考えます。
 教会の牧師は、結構都合の良いところがあります。葬式も司式しますし、結婚式も司式します。仏式の結婚式とはあまり聞いたことがありません。たまにはあるようですが、坊さんに司式をしてもらいたいとは思わないのです。
 葬式をしているような会場で、結婚式をやりたいとはあまり思わないでしょう。この近所に斎場がありますが、斎場で結婚式をするとは、聞いたことがありません。
 しかし教会では、結婚式もやるし、葬式もやります。ここで花婿・花嫁が結婚の誓いをするときもありますが、同じ場所に棺桶が置かれる場合もあります。しかしそれで全く違和感がありません。教会なら、それで良いと考えます。なぜでしょうか?それは教会が死に勝利をしている証拠です。

 仏教とは言っていますが、全く違う教えが付います。仏教の中の先祖崇拝は、すべて儒教から来ている教えです。位牌も儒教のものです。儒教は人間が死ぬと、上と下に行くという考えです。上下に行った霊が位牌でドッキングするというのです。仏教だと思っていても、違うものになっています。嘘が入っているならば、気をつけなければなりません。拝んだら先祖のような存在が出てきたと言います。
 昨日ある方と話したら、「私は、○○さんが死んだ後、○○さんに出会った」と言われました。何かザワザワしたので見ると、死んだ人が立っていたそうです。それで、先祖を拝まなくてはならないと思い、一生懸命拝んだと言われました。そんなことがあるのでしょうか?

 人間は神から来ているので、死んだら神の手にゆだねられます。百パーセント神の管理下に入ります。だから、決して、どこかにふわふわ浮いていることはありません。生けるものの世界に、出てくることはできません。では、出てくる存在は何者でしょうか?
 それは先祖の振りをした、かつて、先祖の死に関わったことがある死の霊なのです。死の霊が姿を現すのです。ですから、日本人の霊体験は、麗しいものはありません。大体が恐怖体験です。拝まないと祟られると考えます。これは、先祖ではなく、「先祖の振りをした悪魔・悪霊の現れ」です。教会に来ると、光と闇がはっきりとします。

 女性たちは期待はしませんでしたが、墓に近づいていきました。そこでよみがえりのイエスさまと出会いました。
 教会に来る場合も、多くの場合、あまり期待しないのかも知れません。キリスト教は日本では少数派なので、あまり大したことはないだろう、日本人でキリスト教会に行くなんて特殊な人だと、あまり期待せずに教会に来るかも知れません。
 しかしそこで出会うのは、女たちが全く期待していなかったような、よみがえられた本物の神に出会うのです。

 今日初めて教会に来られた方は、キリスト教を決して宗教だと思わないでください。これは真理です。人間がこの地上に生きているとは、神様がおられるからです。人間は神によって創られているので、人は本能的に神を求めるのです。それが宗教心です。
 本物の神様に出会うことができたら、幸せになりますが、偽物ならば、振り込み詐欺のように、人生において大切なものを取られるのです。

 イエスさまが死からよみがえられたことには意味があります。ヘブル人への手紙二章十四節から十五節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

とあります。イエスさまは神でしたが、人間となって十字架にかかられて死なれ、よみがえられたことには、

『その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

 人間はなぜ死ぬことが怖いかというと、それは死後の世界を予知しているからです。死後の世界を知っているのです。
 聖書は、生まれながらの人間は悪魔の支配下にあると教えています。
 神がおられるのに、なぜこんなに不幸な世の中だろうかと言われます。それはこの地球が悪魔の支配下にあるからです。良い国を作ろうと一生懸命努力しているけれど、生まれながら悪魔の支配下にあるので、悪魔の理想世界が出来上がっているのです。悪魔の理想世界とは、破壊された世界です。

 今世界を見ると、すべてが破壊されています。それは、目に見えない人間の敵である、悪魔とその一族・悪霊が存在するからです。生まれながらの人間は、始めの人間アダムとエバが罪を犯したことにより、悪魔の手に渡ってしまいました。放っておくならば、悪魔に完全支配された国に行かなければなりません。
 海外旅行に行く場合、相手国に入っても、必ず出国しなければならない期日があります。例えば、アメリカに観光で入国したら、三ヶ月したら必ず出なければなりません。三ヶ月を超えて滞在していると、捕らえられてその人の国に送り返されます。そして、一度強制送還されると、二度とその国に入ることはできいないくらいの、厳しい法律がどの国にもあります。日本もそうです。日本国籍以外の方々が許可なしに日本に居続けたら、捕まえられて強制送還されます。

 去年はハワイ・リバイバルミッションがありました。私はハワイに何度も行き来しましたが、なかなか入国が難しかったです。私の娘がビザをもらってハワイに、一年ほど行っていましたが、六ヶ月以上滞在して一度戻ってきました。そしてもう一度ハワイに帰って行きました。もうハワイに着いているだろうと思っていたら、「入国審査で引っかかった。やばい、祈って!」とメールが来ました。現地スタッフが彼女を迎えに行きましたが、一時間経っても二時間経っても、三時間経っても出てきませんでした。
 なぜなら、持っていた書類と帰りのチケットの日にちがずれていたからです。ビザはあったのですが、一枚の書類の日にちが違っていました。それを追求され、何時間も取り調べをされました。しかし、やっと確認がとれて、ハワイに入ることができました。
 その後、泉ちゃんがハワイに行きましたが、その時にはしっかりと書類を書き換えて行きましたので、問題はありませんでした。国籍とはとても重要なものです。

 生まれながらの国籍はどこにあるのか?それは、悪魔の国に国籍があります。だから私たちは死んだらどこに行くのでしょうか。悪魔が完全支配している暗闇の帝国に行かなければならないのです。地球も悪魔が支配していますが、完璧に悪魔が支配している闇の帝国に行かなければならないのです。
 だから人間は死ぬことが怖いのです。何があるのだろうか\\\と不安に思います。これは本能的に察知している証拠です。

 人間は元々神によって創られた存在です。神は人間を愛して、ご自分の支配の中に生きるように創られました。しかしその支配権を悪魔に奪われました。その支配権を回復するために、神は自分の座を捨て、人間と同じ姿となって下さいました。
 そして人間が体験しなければならない死を通して、また、その死を打ち破る行為を通して、悪魔の支配権を打ち破り、神の支配に生きる道を創ってくださいました。それゆえ、私たちは国籍が神の支配に変えられのです。

 イエス・キリストを信じる者は、罪が赦され、悪魔の支配下ではなく、神の支配下になるのです。この地上から出て行くとき、神の国に入国できます。それは神の完全支配が現れている国です。そこには、悪いものは何一つないと聖書は教えています。死も苦しみも、悲しみも、叫びもなく、善なる神によって完全に支配されている国なのです。そこには、先に天に帰られた方々もいるのです。そしてあなたも、そこに行くことができると教えています。これが救いの一部始終です。

 イエスさまがよみがえってくださったという事実は、大きな中心軸です。もしもイエスさまがよみがえられなかったら、今語ったすべては空しいです。
 しかし事実ならば、聖書のすべてを事実として受け取ることができます。イエスさまは全ての人の贖いの代価として、ご自分をお与えになったと聖書は教えています。

 イエスさまは、私たちが犯した全ての罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださり代価を払ってくださっています。この事を事実として受け入れ、イエス・キリストを神として信じ、従っていくならば人生に怖いことはありません。この地上から出て行くときにも境なく、永遠の国・天国に入ることができます。
 最近は「ボーダーレス」「バリアーフリー」という言葉が流行っています。年を取ったときにつまずかないように「バリアーフリー」で境がないように作られています。
 実に、この地上から天国へはバリアーフリーでありボーダーレスです。生きていると同じように、そのまま天国に入ることができるという素晴らしい特権です。

 ここにおられる一人一人が、人生で最も重要なテーマである、よみがえりについて考え、イエス・キリストを信じて、死からいのちへと入っていただきたいと願います。
 また今まで犯したすべての罪もイエス・キリストが既に贖ってくださっています。罪を消し去っていただくことができます。全員が永遠のいのちをいただき、神の国に入る人生を送っていただきたいと思います。教会はそのためにあります。最後に一言お祈りします。

(告白の祈り)
「イエスさま。今私はイエスさまがよみがえってくださったことを、事実として受け入れます。私の人生をイエスさまにすべてお任せします。永遠に向けて、私の人生を導いてください。私をサタンの支配から、完全に神の支配へと移してください。この地上においてサタンの支配を決して受けることがありませんように。完全な守りの中で、永遠の世界にまで歩んでいくことができますように。勝利を宣言し、イエス・キリストの名前によってお祈りします。アーメン。」



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