知っているのと使うでは大ちがい


2008.3.30(SUN)
新城教会牧師 上條実師
新約聖書 コリント人への手紙 第二 10章3節〜4節
私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

ハレルヤ!主の聖なる名前を心から賛美します。今日皆さんの前でみことばを取り次ぐことができますことを感謝します。私は子ども部会を担当しております。毎週子どもたちに「みことばの剣」というカードを渡しています。子どもたちが毎日聖書を読むことができるように。どの箇所を読み、何を教えられたか。そして何をお祈りしたかを記入してもらうようにしています。そのカードには子どもたちが楽しくできるように、余白に「なぞなぞ」や「クイズ」なども掲載しています。本日渡したものにはなぞなぞが書いてあります。一つだけ簡単なものをご紹介します。「お医者さんがいつもうっている物は何でしょう。」さて答えはご自分で考えてみて下さい。分からなかったら礼拝後お教えしまします。さて今日のタイトルもなぞなぞみたいだとある方から言われました。「知っているのと使うのでは大ちがい」さて何でしょうか?「知っているのと使うのでは大ちがい」というのはこのようなことです。私は先日久しぶりに新幹線に乗る機会がありました。もしある荷物をいっぱい持った方が新幹線に乗ろうとしています。その人は今度到着する新幹線のグリーン車チケットを持っています。そして何号車のグリーン車でどこの座席であるかも知っています。しかしなぜか超満席で通路まで一杯な状態の自由席へ乗車し、荷物も下ろせずに目的地まで行く。そんな人がいたらあなたはどのように思いますか?なぜグリーン車に乗らないんだろう?ゆっくりと座席に座って行くことができるのにと考えます。またある方が宝くじを買いました。今は三億円いやそれ以上の金額が当たるものもあるそうですね。とても魅力的です。もし皆さんが宝くじを買って三億円が当たったとします。もし私が当たったら、金庫か肌身離さず持っていて、すぐに換金すると思います。しかしもしその方が三億円当たっている事を知りながら、そのまましまい込んでしまったらどうでしょう?二〇〇五年の新聞にこんな記事がありました。

『みずほ銀行宝くじ部は、昨年の年末ジャンボ宝くじ当せん券のうち、一等(二億円)五本、二等(一億円)八本、一等の前後賞(五千万円)九本の計二十二億五千万円分がまだ換金されていないと発表した。支払期限は来年一月四日。同行は「手元に残るくじの確認を」と呼び掛けている。』

もし皆さんが宝くじ三億円当たったら、その当たりくじを銀行に持って行き、換金すると思います。その当たりくじを持っているだけではお金は自分のものになりません。しかしそれを換金したら三億円は自分のものになります。「知っているのと使うのでは大ちがい」とはそのようなことです。手元に良いものがあるにもかかわらず、使用しない。今日皆さんのなかにも同じようなことをしている方はありませんか?「知っているのと使うのでは大ちがい」さて何でしょうか?先ほどお読みした第二コリント十章三節から四節をリビングバイブルで読んでみたいと思います。

『私がごくあたりまえの弱い人間であることは事実です。 しかし私は、戦いに勝つために、人間的な計画や方策を用いません。悪魔の要塞を打ち破るために、人間の手によらない、神様の強力な武器を使います。』

今年の年頭に滝元順牧師より語られたメッセージの中で「あくまで霊的戦いを続けていくならば、土地は改良され、人手によらずに実は結ばれ、三十倍、六十倍、百倍になる。そして今年収穫の時が来る!」とありましたが、ここでも人間の手によらないと表現しています。悪魔の要塞を打ち破るために、人間の手によらない、神様の強力な武器を使うことができると言うのです。新改訳聖書では「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」とあります。「要塞をも破る」と書かれています。「要塞」と聞いても今の時代どんな所なのか理解できないと思います。戦争を体験された方々は、「要塞」と聞けばどんな重要な所なのかおわかりだと思います。「要塞」という言葉を辞書で調べると、

「外敵等から戦略上、重要な地点を守るために築かれた構築物。とりでとも呼ばれる。国防上の重要な場所に設置されていた軍事的防備施設。砲台、司令部、観測所、電源施設、兵舎、弾薬庫などから構成される。」

とありました。要塞は戦いの中でとても重要な場所です。司令部とあります。戦いの指揮をとる場所であり、外敵等から戦略上、重要な地点を守るために築かれた構築物だといっています。私たちの教会に主は霊的戦いを開いて下さいました。今まで祝福を奪っていた敵がいることすら忘れさせられていました。「自分には信仰が足らないんだ」とか「自分には聖さがないからだ」とか惑わされてきました。しかしみことばは

『私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。』

『しかし私は、戦いに勝つために、人間的な計画や方策を用いません。悪魔の要塞を打ち破るために、人間の手によらない、神様の強力な武器を使います。』

今までクリスチャンが当然もらうことのできる祝福を奪い取っていた悪魔、悪霊の存在に気づかされました。その悪魔と悪霊に対して、人手によらない神の強力な武器を用いて打ち破ることができると言うのです。では神の強力な武器とは何でしょうか?私たちの戦いの武器とは何でしょうか?それはいつも学んでいるエペソ人への手紙六章十三節から十七節をお読みします。

『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

私たちが身につけなければならない武具と戦いの武器について書かれています。「神様の強力な武器」それは「御霊の与える剣である神の言葉を受け取りなさい」。み言葉の剣を受け取りなさいとあります。このことは私たちの信仰生活の中にとって大切なことです。私たちがみことばの剣を受け取ってしまうとどんなに大変なことかを悪魔は知っています。「みことばの剣を受け取りなさい」とありますが、剣として受け取ってしまったら、どんなに大変なことかを悪魔、悪霊どもは知っているので、みことばの剣として受け取ることをさせずに、ただ知ることにさせてきます。

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。』

私たちは肉なる者です。ですから家族、また対人関係、職場での問題等様々な戦いがあります。そして心が傷つき、苦しむばかりです。しかしこのみ言葉は、「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦っていません」とあります。クリスチャンである私たちには戦いの武器が与えられています。「私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前で要塞をも破るほどの武器」それがみことばの剣です。みことばを受け取るならば勝利をいただくことができます。先週は素晴らしい恵まれた復活祭の時を持ちました。最高の喜びの祭りでした。感謝しても感謝しきれない素晴らしい祭りでした。第一コリント十五章三節から五節に

『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。』

私たちのために、イエス・キリストは十字架にかかってくださいました。もしその十字架がなかったなら何の希望もありません。私たちは当然滅びに行き、苦しみの場所に行かなければなりませんでした。しかしどんなに罪深い者でも、イエス・キリストは十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえってくださったことを信じるなら救われるのです。「最も大切なこととして…」とありますが、聖書の中でもっとも大切な事です。今日そのイエスキリストを信じる時救われます。ふつう十字架や復活と言われても、信じることができません。イエス・キリストは今から二千年も前に存在した方です。見たことはありません。しかし私たちは、恵みによって肉なるものではなく、霊の目が開かれてイエスキリストが神であることを信じることができました。天地を造られ、今も私たちとともに生きておられる神を信じることができました。そして私たちに永遠のいのちを与えて下さいました。私たちは救われたのです。先週は礼拝前に召天者記念会を行いました。その記念会では、亡くなられた方の顔写真が映し出されました。その顔写真を見ながら、淋しい思いもありましたが、わたしたちクリスチャンには確かなる希望があります。それは天の御国で再会できる希望です。また亡くなって行った方は、決して強い人間ではありませんでした。しかし死の恐怖もなく、安らかに天に帰っていきました。本当にクリスチャンは不思議です。イエスキリストを信じるとき、死の恐怖から解放され、天国に行けると希望と確信を持つことが出ます。そして天国でまた再会できるという希望が与えられます。素晴らしいこの救いは何にも変えることができません。イエス\キリストの救いが本当だと知っているからこそ、悪魔は必死で働くのです。ルカの福音書八章五節から八節に、

『「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。』

とあります。この種の例え話の中で、四つのうち一つの種しか良い地に落ちて実を結ぶ事ができず、後の三つは成長のしない種のたとえなのでしょう。それはみことばを暗闇の力がいかに受け取れないようにしてくると言う、霊的戦いがあることを示唆しているかのようです。また特に八章八節に、

『また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。』

とあります。種蒔きの例え話をした後で、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と叫んだとあります。新共同訳聖書では、「聞く耳のある者は聞きなさいと大声で言われた」とあります。イエス・キリストが大声で「聞きなさい。大切だから」と大声で叫んだとあります。いかにみことばが大切かがわかります。よく聞き悟りなさいと大声を出しておっしゃっています。みことばの剣を受け取りなさい。知るのではなく受け取りなさい。良い土地に種を蒔く、それはみことばの剣を受け取ることです。悪魔はクリスチャンが受け取ることを怖がっています。みことばをつかんでしまうと最悪な状況が確かに起こるとわかっているから受け取れないように働いてきます。イエス・キリストはみことばで圧倒的な勝利を得ました。マタイの福音書八章十六節に、

『夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。』

とあります。霊的な解放も病もイエス・キリストはみことばにて勝利しました。またルカの福音書八章二十四節から二十五節に、

『そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』

イエス・キリストが命じたときに嵐が凪になりました。ペテロや弟子たちは漁師でしたので、嵐の中でもどのようにしたら岸に着く事ができるかを経験をしていたかも知れません。しかしこのときは「私たちは溺れて死にそうです」と言うほど、船に波が打ち寄せ、水が舟に入り、だめだと思ったのです。諦めたというより、死を覚悟したかのようです。その時イエス・キリストは、自然界に向かって命じられました。すると風も波も止まりました。「どういうことだろう」と弟子たちは驚いています。ことばで命じました。またヘブル四章十二節に、

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』

とあります。ここに「たましいと霊」とありますが、わたしたちはどこまでが精神的で、どこからが霊的なものか分けることができません。どこからが精神的でこちらが霊的などと線引きができません。また「関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」と記されています。私は何も医学的に知識がありません。だから「関節と骨髄の分かれ目とはどのぐらいのものだろう」と思いました。このように書いてある限りわずかな幅だろうとただ想像で読んでいました。今回私友人であり、四元雅也先生の義理のお兄さんである岩井勝先生が小児科のお医者さんなのでメールで質問しました。

「いつもお世話になります。ヘブル四章十二節のみ言葉で『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』とありますが「関節と骨髄」の分かれ目とは、成人ではどれくらいの間がありますか」

と聞きました。すると岩井兄から数日後こんなメールが来ました。
「上條先生、お返事遅くなりました。関節と骨髄の分かれ目の距離の件ですが、同じ病院の整形外科の部長に聞いてみました。関節を包む軟骨だけが間にあるだけで、成人ならばその厚み四ミリか五ミリ。子どもならもう少し薄いと言うことでした。さすがにみことばの剣です!」

とメールを返して下さいました。何と関節と骨髄の分かれ目は四ミリから五ミリだそうです。四ミリか五ミリの所に剣を降りおろそうとしても当たることは不可能です。私はメールをいただいた後で、机の上で物差しを出し、五ミリを紙に書き、鉛筆を持って紙に当ててみました。しかし当たりませんでした。神のみことばは関節と骨髄をも刺し通すことができるというのです。みことばの剣はピンポイントです。絶対に回復不可能な状況でも、みことばの剣で必ず勝利し、回復してくださる。必ず祝福されると知ることができます。
私たちの手にある聖書は六十六巻変わることがないことばです。いつも読むたびに素晴らしいみことばをいただき、励まされ、慰められます。しかしそれが今日のタイトルのように「知っているのと使うのでは大ちがい」です。三億円の当たりくじの当たりくじを見つけました。そして手元にあるのに換金しないと同じように、このみことばを知っていて、慰められた、励まされたというただのことばになっています。小学校では「道徳」という授業がありましたが、心の問題に対して励ましと教えをもらうことばのようであって、「慰められました」「よかった」だけの次元で、問題を見せられると、「駄目だ」とすぐに諦めてしまいます。心を騒がせてしまいます。弟子たちのようにもう死にそうだと死を覚悟してしまいます。しかしエペソ六章十七節をもう一度見て下さい。「神の言葉を知りなさい」ではなく、『神の言葉を受け取りなさい』です。みことばの剣は、関節と骨髄を刺し通すことができるような完璧な剣です。回復不可能はありません。回復するのです。わたしたちの祈りの課題は心騒ぐことばかりです。子どものこと、家庭のこと、学校のこと、職場のこと病いのこと等々なことがあります。また新聞等報道によると、先週はひどい事件ばかりでした。小学校六年生の子が卒業式を終えて、マンションから飛び降りて死んでしまったこと。また二十四才の男性が、一人殺した後、茨城県のある駅で八人を次々と刺し死傷させたこと。また高校を卒業したばかりの男の子が、駅のホームから男性を突き落し殺害させてしまったこと。「誰でもよかった。殺してみたかった」と普通では考えられないような事件ばかり起きました。また東京のある家庭では四十代の男性が、自分の両親、奥さんを殺し、子どもも傷付けてしまった。日本は傷つき放題。病んでしまっています。家庭が崩壊し、子どもたちも傷つき、崩壊してしまっています。そんな時私たちクリスチャンは、この日本のためにとりなして祈ろうと思います。しかし祈っても解決しない。自分が日本のために祈っても無理だと思ってしまいます。また私たちの個人的な問題も駄目だと思ってしまいます。しかしイエス・キリストが私たちに与えてくださるみことばは、ヨハネ一章一節に、

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

聖書は神様ご自身です。ですからあなたがみことばの剣を受け取って使うとき大きな勝利を見ることができます。イエスさまが公生涯を始まる前に四十日四十夜断食をしました。その後悪魔がイエスさまに挑戦しました。ルカの福音書四章一節から四節に、

『さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」』

とあります。その後も戦いが続いていますが、悪魔は一番関心事のところに働いてきます。断食して、空腹の時にです。石をパンになれと言いなさい。神のことばとして言ってみろと挑戦しています。決して石をパンにする事もできるはずです。しかしみことばに対して汚そうとしています。「パンになれと言いつけなさい。」とことばを言わせようとしています。みことばを汚そうとしています。みことばに対して挑戦してきます。しかしイエスさまは『人はパンだけで生きるのではない』とみことばで勝利しました。また先ほどお読みしたマタイの福音書八章十六節に、

『夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。』

と記されています。みことばを使っていやし、勝利しました。回復不可能なところが可能になりました。今も私たちの神は何も変わってはいません。あなたがみことばの剣を受け取ったならば回復不可能が可能となり、百倍の祝福となります。私たちはみことばの剣で悪魔を打ち砕くというと、頂いたみことばの剣をどのように使ったら良いか、わかないかも知れません。戦う方法は、皆さんが良いみことばだと思ったら、それを祈りの中で宣言してください。「知る」のではなく、受け取ってください。毎日聖書を読んで良いみ言葉だと思うだけでなく、そのみことばを口にして読みつつ宣言して下さい。その時にそのみことばの剣は動きます。関節と骨髄のように狭くて無理だと諦めていた問題にも勝利を下さいます。今あなたが持っている問題をみことばの剣で祈ってください。そのみことばを宣言してください。私たちは小さな者です。祈ります。しかし働いてくださるのは、私たちが問題解決するのではなく、天地を創造された全能なる神さまが、問題解決してくださいます。祈ることは何でも良いのです。イエスさまに任せることです。祈ったらイエス・キリストが受け取ってくださいます。回復不可能だと諦めてしまった所に、今日みことばを宣言して祈って下さい。どんなに長い間不可能であっても可能に、勝利を与えて下さいます。詩篇七十四篇三節から八節に、

『永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。あなたに敵対する者どもは、あなたの集会のただ中でほえたけり、おのれらの目印を、しるしとして掲げ、森の中で斧を振り上げるかのようです。そうして今や、手斧と槌で、聖所の彫り物をことごとく打ち砕き、あなたの聖所に火を放ち、あなたの御名の住まいを、その地まで汚しました。彼らは心の中で、「彼らを、ことごとく征服しよう。」と言い、国中の神の集会所をみな、焼き払いました。』

とあります。リビングバイブルだと、

『どうか、敵の手で、見るも無残な廃墟と化した都を、あなたの聖所を、ご覧ください。そこで、敵は勝ちどきをあげ、戦勝記念碑を建てたのです。あらゆるものが荒廃し、木を切り倒したあとの森のようです。 彼らはハンマーや斧で、聖所の彫り物を打ち砕き、切り刻み、あげくの果てに火を放ちました。 恐れ多くも神様の聖所にです。 彼らは、「さあ、神の名残をとどめるものを一掃しろ」と叫びながら、国中を駆け巡り、礼拝するための集会場を焼き払いました。』

とあります。敵である悪魔は教会で礼拝ができないように、みことばを剣として受け取れないように破壊してきます。教会とは建物ではなく神が頭であって、私たちは各器官です。各器官を痛めつけようと、みことばの剣を受け取れないように破壊しています。リビングバイブルの四節に、

『そこで、敵は勝ちどきをあげ、戦勝記念碑を建てたのです。』

とあります。記念碑を色々な所で見ます。悪魔は私たち各器官がみことばの剣を受け取れないように礼拝や各集会、日々のディボーションでも先に戦勝記念碑を建ててきます。今日であれば「二〇〇八年三月三十日の礼拝は俺たちが勝った」と記念碑を建てて来ます。みことばを奪い取ってきます。受け取れないようにしてきます。神のことばが、講壇から語られるとき、ただの道徳的ことば。聖書のことばを受け取れないように、様々な策略を仕掛けてきます。しかしあなたがみことばの剣を受け取ったら、勝利が始まります。毎週新城教会では多くの集会が行われています。その中で土曜日の夜に「礼拝とりなし祈祷会」を行っています。礼拝で悪魔が働かないようにお祈りしています。昨日も皆さんの顔を浮かべながら、地域の春祭りや様々な霊的ポイントに行って、祈らせていただきました。礼拝に来られた全員が「みことばの剣」を受け取ることができるように。良いことばだった。楽しかった。恵まれた。それで終わり。礼拝の座席にみことばの剣を置き忘れて帰ってしまいます。特に昨日は皆さんが受け取って剣を使うことができるようにお祈りしました。ぜひあなたも毎週礼拝に来られる前に祈って下さい。悪魔はあなたがみことばの剣を受け取れないように、先に戦勝記念碑を建てようとしています。是非礼拝前に「今日みことばの剣を受け取らせて下さい。」「礼拝に働く暗闇の力が打ち砕かれるように」祈って参加して見て下さい。礼拝が変わって来ます。また家庭集会時でも、毎日聖書を読む時でも祈って下さい。悪魔はあなたがみことばの剣を受け取ることを拒んでいます。祈ってください。今日必要なみことばが与えられるように。そして私たちにある問題、病い、また日本のリバイバルを頂くことができるように。関節と骨髄を刺し通すことができるみことばの剣を下さいと祈って参加してみて下さい。私たちがするのは祈ること。みことばを宣言して祈ることです。働いて、解決して下さるのはイエス・キリストです。私の大好きなみことば第一コリント二章九節に、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

とあります。今私はクリスチャンとして今ここにいます。なぜ私たちクリスチャンがいっぱいの問題を抱えて泣かなければならないでしょうか?なぜ喜ぶことができず、愚痴ばかり言っているのでしょうか。私たちの神は死んでしまっていますか?そんなことはありません。みことばを悪魔、悪霊に奪い取られてしまい、神のことばの権威がなくなってしまい、私たちの人生にハンマーや斧で、打ち砕き、切り刻み、あげくの果てに火を放たれているような状態です。みことばは知ってはいます。しかし受け取っていないのです。私に教えて下さったみことばだと知ったら宣言して下さい。みことばの剣を使って勝利しましょう。あなたに最高の祝福を与えてくださいます。私たちは祈るだけです。そして神が回復してくださいます。勝利してくださいます。宝くじの当たり券を持っていて、そのままではお金は入ってきません。私たちはそれを銀行に持って行って換金したら、お金が手元に入ってきます。今日聖書も読むだけではだめです。みことばは生きています。みことばの剣として受け取ってください。与えられたみことばを宣言しましょう。剣として使いましょう。私たちが知るのではなく、受け取って使い始めたらどうでしょうか。悲しみが笑顔に変わります。見たことも、聞いたこともない、思いに浮かんだことのないことを神様が備えてくださっています。信じられない、素晴らしい勝利に変えてくださいます。今あなたの持っている全て問題をだめと諦めないで、宣言して下さい。神さまが共にいて下さいます。最後に皆さんでエペソ六章十七節のみことばを宣言しましょう。このみことばを受け取って、今まで問題や病い、回復不可能な状態を与えてきた暗闇の力に立ち向かって祈りましょう。解決するように声を出して祈りましょう。あなたの神は今も生きています。宣言して祈るとき、剣は問題の原因の中心である、悪しき力を打ち砕くことができます。見たことも聞いたことも、思い浮かんだことのない祝福に変えられます。

『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』


[バックナンバー]