信じて、宣言しよう!


2008.4.6(SUN)
新城教会牧師 滝元順師
新約聖書 マタイの福音書 21章18節〜22節
翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日はこうして新城教会でメッセージを語れますことを、心から感謝します。二〇〇八年度に入り、新しい環境に足を踏み入れた方が多いかも知れません。四月は変化に富んだ月ですが、主により頼んで二〇〇八年度も歩んでいきたいと思います。

 先週私は、仙台の教会で奉仕させていただきました。先週の日曜日の早朝、私にとって歴史的な知らせがありました。それは、私に孫が生まれたことです。私の息子は結婚して三年ほど経ちますが、彼らに子どもがありませんでした。しかしついに生まれました。
 先週の土曜日の夜、家内からメールが来ました。「いま、生まれそうだけど、夜、十二時を過ぎると深夜料金で出産費用が高くなるそうなので、十二時前に生まれるように祈って下さい。」という内容でした。生まれたという報告は、日曜日に入ってからでしたが、生まれた時刻は、十二時数分前でした。よかったです。
 人の誕生とは不思議です。母の胎内から全く違った人格が飛び出してくるからです。神がおられなければ、そのようなことはありえません。ついに私も、おじいさんになってしまいました。

 教会は神が初めから計画してくださっている、「良い計画」が回復するための場所です。なかなか人生が良いと言うことは出来ないのです。しかし、本来は、神が私たちに備えてくださった人生は良いものです。しかしそれが盗まれています。その結果、良い人生だと言えなくなるのです。本来、私たちの人生は、素晴らしいものです。それを、イエス・キリストによって回復されます。

 今からイエスさまの語られた言葉を学びますが、その中に回復の鍵が隠されています。
 マタイの福音書二十一章十八節から二十二節を学びます。十八節に、

『翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。』

とあります。イエスさまは神ですが、この地上に完全な人として来られました。イエスさまは神ですから特別な存在で、人としての体験は少し薄かったのではないかと考えますが、そうではありません。完全に人となって下さいました。ですから私たちがお腹が空くように、イエスさまも空腹を覚えられました。今、空腹を覚えている人は、イエスさまと同じ体験をしています。お腹が空いていても、頑張ってみ言葉を聞いて下さい。

 日本人の宗教観はメチャクチャだと言われます。日本人が自分たちの持っている宗教観と共に発明したものに「カレーライス」があります。カレーはもともとインド料理ですが、日本で大きく発展し、世界に誇る料理です。今日も礼拝が終わると、カレーライスが待っています。特に、カレーライスで一番人気があるのは、ビーフカレーです。しかし、ビーフカレーには日本人の宗教観が最もよく表れていると言われます。
 カレーはインドから始まり、ヒンズー教徒や仏教徒たちの食べ物でした。カレーは黄色ですが、それはヒンズーの最高神の色で、その恩恵にあやかるようにと、わざと黄色くしてあります。そして日本におけるカレーライスの付け合わせは、七福神を表す「福神漬け」です。七福神はヒンズー神です。カレーライスを食べると、ヒンズー教の神々と一体になるという意味の料理です。
 しかしこの「ビーフカレー」はインド人に出すと、卒倒してしまうほどの食べ物だそうです。なぜなら、ヒンズー教徒やインド人にとって、牛は神であり、または聖なる神の使いです。ですから絶対に牛肉は食べません。しかしビーフカレーとは、インド料理の中に、事もあろうに、神の使いである牛を切り刻んで煮込んで食べさせるからです。それはヒンズー教徒にとっては、人肉を食べさせられるよりもショッキングな事だ、とある本に書かれていました。それで、日本人はメチャクチャな宗教観を持っていると批判していました。これがある意味、日本人の宗教観です。何でもごちゃまぜで、神の存在がはっきりしないのです。

 聖書は「神は一人しかいない」と宣言しています。それが、この地上に来てくださったイエス・キリストです。神とは、宇宙全体を創られたお方なので、姿が見えたら逆におかしいのです。もしも神が体を持っていたとしたら、相当大きいはずです。時々、子どもたちがどろんこ遊びで、「これが太陽、月…」などと言って遊んでいますが、神が地球、太陽などを創られたならば、宇宙よりも大きな体を持っていなかったら、創ることはできません。そんな大きな方が見える方がおかしいですし、天地宇宙を創造されるほどの神をイメージしようとしても難しいのです。
 しかし神が人間となってくださったら、どうでしょうか。人間であるならば、どこの国の人であっても、コミュニケーションが可能です。猿や猪なら会話はできませんが、人間ならばコミュニケーションできます。
 人類のただ中を歩いてくだった神、それがイエス・キリストです。イエスさまは人となり、「お腹が空いた」という、人の弱さも知っておられます。

 ここでは、道ばたにいちじくの木があったと記されています。ユダヤ人の法律では、お腹が空いた場合、道ばたの木の実を取って食べても良いようです。私は時々、三ヶ日を通るときに、みかんがたくさんなっているのを見て、食べたいと思います。イスラエルなら取って食べても良いようですが、日本では犯罪になってしまいます。

 イエスさまはいちじくの実を探しました。しかし葉は多く茂っていたのですが、実は一つも実っていませんでした。
 すると、イエスさまはいちじくの木に向い、『おまえの実は、いつまでも、ならないように。』と言われました。イエスさまがそのように宣言して、しばらくして弟子たちが気づくと、そのいちじくの木が根こそぎ枯れていました。
 ここを読むと、「イエスさまと俺たちと同じだ。お腹が空いてイライラすると、物に当たるんだ」と思います。ここだけ読むと、神としての職権乱用のようにも見えます。「枯れてしまえ!」と、実がなっていなかったので怒って枯らしてしまったのです。また、人間的な神のようにも見えます。けれども、それは間違いです。

 一見、気が立った行動のように見えるかも知れませんが、実は、この中に神の偉大な真理が隠されているのです。私たちはそこを、聖書から抽出して学ばなければなりません。
 ここからイエスさまは、どのような教えをされたのでしょうか。
 二十一節から二十二節に、

『イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」』

 イエスさまがお腹が減った状況の中で取られた行動ですが、それは、単なる八つ当たりではなく、「神の権威」について、「信じて祈り求めるならば何でも与えられる」という信仰の原理についての教えです。

 いちじくの木に向かって、「根こそぎ枯れてしまえ。」と宣言すれば、根こそぎ枯らすことができ、目の前に山があったら、「山よ、海に移れ!」と宣言したら、海に移るというのです。そのような権威が、あなたがたにも与えられているのですよ、と教えです。

 またそこには、更に深い意味もあります。いちじくの木は、イスラエルを象徴しています。いちじくの木は、イスラエルそのものを表していました。イエスさまは八つ当たりで、木を枯らせたわけではありませんでした。それは預言的な行動でした。

 イエスさまはイスラエルに救い主として来られました。しかし、イスラエルはイエスさまを救い主として認めず、受け入れようともしませんでした。当時のユダヤ教では、葉っぱは茂り、枝振りも良いのですが、一番肝心な実を一つも実らせていないという、それは宗教的環境そのものを表していました。
 ユダヤ人たちはイエスさまを受け入れないばかりか、やがてイエスさまを捕らえて、十字架にかけることまでしました。いちじくの木になされたことは、「最終的にイスラエルは、根こそぎ枯れてしまう」という、結末を預言していたのです。これはイスラエルに対する預言的行為として、理解することができます。

 私たちもクリスチャン生活が長くなると、知識は多くなり、葉はたくさん茂り、枝振りも良くなりますが、一番重要なのは、実を結ばなければならないのです。その実とは何でしょうか?
 それは、聖書を知識的に学ぶだけでなく、「信じて行動に移さなければならない」ということです。その行動とは、「権威を用いること」だとここでは教えています。
 いちじくの木に向かって「根こそぎ枯れてしまえ」と宣言し、根こそぎ枯れてしまったように、また、山に向かって「移れ」と宣言すれば、山が移るような、権威を信じる信仰が必要なのです。
 
 今朝、私たちは教会に来て賛美し、また祈りました。祈りについて、皆さんはどのようなイメージをお持ちですか?多分、「神様。助けてください。今、病の人がいます。癒してあげてください」などと、「神に願い事を知っていただくことが祈りだ」と理解します。
 もちろん、それは祈りであり、正しい理解です。しかし、神に願うことは祈りですが、もう一つ重要な祈りの側面があるのです。

 弟子たちがイエスさまに「祈りを教えてください」と願ったとき、イエスさまは、先ほど皆さんと共に祈った、「主の祈り」を教えられました。
 そして、その中核はマタイの福音書六章九節から十節です。

『だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』

 特に、十節、『御国が来ますように。みこころが天でおこなわれるように、地でも行われるように』と祈るように、イエスさまは弟子たちに教えられました。
 やがて私たちは天国に行きますが、天国とはどのような場所でしょうか。それは神のみこころが百パーセント現されるところです。
 私たちが天国に行けば、この地上で働いた報いがあります。天国には素晴らしい住処が用意されているはずです。イエスさまのための働きは、決して無駄ではありません。天に記念として、宝として積まれています。今日皆さんが、この場所で賛美したこと、祈ったこと、献金したこと、誰かのためにとりなして祈ったことなど、神様はしっかり見ておられ、天で貯金が貯まっています。
 私が天国に行けば、私のためのマンションが用意されているはずです。「順先生。良く天国に来ましたね。あなたは地上でよく働きましたから、素晴らしい住処が用意されていますよ。これがあなたのマンションの鍵です。どうぞ、受け取ってください」と言われたら、「やったー!俺はついに天国に住人だぁ」と喜びます。

 しかしもしも鍵を受け取ったら、こう聞いてみたいです。「すみません。天国でも戸締まりは必要ですか?」すると天使たちが顔を曇らせて、
 「この頃は、天国でも犯罪が多くなっていますから、外出するときにはしっかりと戸締まりしてくださいね。そうしないと、泥棒が入りますから…」
 「えっ?天国にも泥棒が居るんですか。」
 「そうなんですよ。イエスさまは愛なる方で、泥棒でも天国に入れちゃったので、天国も泥棒が多くなっちゃって…」
 また、「ピーポー、ピーポー」とサイレン音が聞こえます。
 「あの音は何ですか?」
 「あ〜、あれは救急車です。地上でも同じ音だったでしょう。わかりやすく同じ音にしたのですよ。」
 「じゃあ、天国でも病気や事故があるのですか。」
 「天国病院は病人でいっぱいです。」
 「えっ?天国でも病気があるんですか。」
 「でも心配しないでください。イエスさまが暇なときに病院にきて、手を置くと、全員癒されますから…」
 しかしいくらいやされても、天国に病気や事故があること自体、受け入れられないことです。天国は、「悪いものが何一つない所」であるべきです。

 『みこころが天で行われるように、地でも行われるように』という祈りは、何も悪いものがない場所である神の国が、地上に降りてくるように祈れ、と言う意味です。
 私たちは病の方々のために祈っていますが、神の国が現されたら癒しが来ます。なぜならば、天国には病がないからです。『御国が来ますように』というのは、重要な祈りです。
 この祈りは、『御国が来ますように。御心がなされますように』と、人間側から神に願っている祈りのように理解されがちですが、原文では命令形なのです。
 「御国よ、来たれ!みこころよ、成されよ!」という宣言なのです。祈りは、もちろん神様に対して「願う」領域もありますが、最も重要な祈りは、「信じて、宣言する」事なのです。

 天には全てが備わっているので、「地上に来たれ!御国よ、この地上に現れよ!」と宣言することがイエスさまが弟子たちに教えた祈りです。
 ですから、祈りとは、ただ単に神に向かうだけではなく、「宣言する」という領域が重要なのです。これを実として、神が私たちに求めておられるのです。今日はこの祈りを覚えて帰って下さい。み言葉を信じたら、今度は宣言するとき事は動きます。

 いちじくの木に、「根こそぎ枯れてしまえ!」とイエスさまが命じられると、木は枯れてしまいました。それと対応して、「山に向かって海に移れ」と命じたら、山が海に移るとイエスさまは言われました。

 果たして、「山が海に移るだろうか。それは極端だ…」と思われるかも知れません。この山が海に移るという表現は、当時の宗教家「ラビ」たちがよく使っていた表現であったようです。
 時々、私たちの人生には、色々な問題の山があります。問題の山が立ちはだかって、越えることができない時があります。「山が海に移る」とは、当時の宗教家たちが「問題がなくなる」ことを意味する表現だそうです。
 「山よ移れ」という意味は、目の前にある問題に対して、命じれば、問題が消え去るという意味があるのです。この権威を使っていくようにと、イエスさまは弟子たちに教えられました。

 今まで色々な問題があったかも知れません。また、今も問題があって大変だと言われる方がいるかも知れません。そして、「神様、助けてください。何とか問題を解決してください。」と祈っておられるかも知れません。しかし、今日は一つ進んで、宣言してみてください。「問題の山よ。海に移れ!」

 祈りは神様に対する領域と共に、神から委ねられた権威を行使することです。主の祈りは、「御国よ、来たれ!みこころよ、成されよ!」という宣言です。
 イエスさまは「信じて命じたらその通りになる、これを使いなさい」と教えられました。ですから、私たちもこの権威を使わなければなりません。日本の教会はあまり、権威の領域を使うことが少ないと思われます。いちじくの木のように、葉は多く、知識的には豊で、枝振りも良いかも知れません。しかし、実である権威を使うことは出来ていないのです。
 イエスさまは、「実を結びなさい。すなわち、権威を使ってください」と語られています。
 私たちは目の前にある山に向い、「アバ父よ。」と祈りをささげ、同時に、「御国よ、来たれ!みこころよ、成されよ!」と権威を用いて立ち向かうものでありたいと願います。

 先々週、私はある家庭で家庭集会を持ちました。そこにはいくつかの家族が来られました。素晴らしい家庭集会でした。しかし、数年前まで、その家族には皆、大きな問題があり、目の前に山が立ちはだかっていました。
 しかし、山が動いて家族全体に救いが来たのです。それで、山が動いた家族が集まって、家庭集会を行ったのです。とても楽しかったです。「これからも、行いましょう」と励まし合いました。

 そこに、一人の奥様が来られて、証をしてくださいました。「私の家にも多くの問題があったけれど、新城教会に来て八年が経ちますが、抱えていた問題が消え、自由になりました」と証をしてくださいました。

 その方が教会に来られたとき、どのような問題があったかというと、子どもたちに色々な問題がありました。そんなただ中で、一つのことに気づいたそうです。
 ある時、家の仏壇の掃除をして位牌を引き抜いて見ると、過去に死んだ親族たちの命日が記されてる札が多く納められていたそうです。そこで発見したことは、その家では、五月に長男が死んでいるという事実でした。ゾッとしたそうです。
 なぜなら、その年の五月にも、従兄弟の息子が結婚して間もなく、交通事故で死んでしまったからです。それで怖くなって、ある方の紹介で教会に来られたのです。

 その人が住んでいる街では、毎年五月に男の子、それも長男のために、盛大な凧揚げ祭りがなされます。そのために街のスケジュールが年間を通じて決まっています。人々は祭りのために、真剣に準備します。にも関わらず、「なぜ、五月に長男が亡くなるのだろうか…」と疑問に思ったそうです。

 教会に来て、一つのことに気づきました。それは、今まで自分たちが良かれと思って、長男を守ってくれる神々だと信じて礼拝をささげていた存在は、実は偽りの神々であって、「神の振りをした悪魔・悪霊であった」と気づかされたのです。
 やがて、神の権威に立ち、悪魔に立ち向かうようになったのです。するとその家にあった問題の山が動いたのです。

 いちじくの木が根こそぎ枯れたとありますが、いちじくの木とは、イスラエル全体を指しています。そしてイスラエルでは家系を重んじます。イスラエルに行くと、色々なおみやげ物が売っていますが、その中に、いちじくの木に模したイスラエルの十二部族などの家系が記されたポスターなどがあります。
 木とは世界中で、家系を表すために使われたりします。沖縄に行くと、ガジュマルの木があり、その木は胴体から多くの根が出ています。ガジュマルの木の下で、ユタという霊能者が線香を焚き、先祖の霊と称するものを呼び出す行為をします。なぜやるかというと、ガジュマルの木は、根がいっぱい出るので、それを家系と見立てているからです。

 いちじくの木が根こそぎ枯れたというのは、ある意味で、イスラエル全体の歴史、またイスラエルの家系に対応します。それはまた、私たち一人一人の家系にも対応できるかと思います。

 私たちの家系を見て、「本当に私の家系は幸せだ」と言える人は少ないのかもしれません。葉は茂って豊に見えるけれど、実を結ばない家系が多くあると思います。同じような問題が家系の中に、繰り返し、繰り返し起こるのです。
 先ほど話した家庭も、五月になると誰かが死ぬという、同じような問題が繰り返し繰り返し起こっていました。誰かが五月に亡くなったら、次の五月も危ないのです。
 家系の中で結ばれている実は、良い実ではなく、死の実を結んでいるような家系でした。

 しかし主を信じたら、「もう今後、悪い意味を結ぶな。根こそぎ枯れてしまえ!」と命じ、悪しき家系が根こそぎ枯れるように宣言することができます。そして、千代に至る祝福の家系が創造されるように宣言するのです。

 新しい創造が私たちに始まります。その人もこのことに気づき、先祖代々行なわれてきた偶像礼拝が、どれほど自分の家系の中に悪い実をならせたのかについて気づかされました。
 その人が教会に来られたとき、ちょうどいとこの長男がその年の五月に交通事故で亡くなったばかりでした。奥さんと一歳の子どもを残して死んでしまいました。いとこの長男の奥さんはとても悲しみ、その後、行方不明になってしまったそうです。私は行方不明になった奥さんは見たことも、出会ったこともないので、その話を聞いても少しだけ印象に残っただけでした。「そんな不幸なこともあるのだろうか…」と思っていました。

 しかし神様は愛なるお方です。四年ほど前私は、ある教会で奉仕をしました。それは、「霊的戦いセミナー」でした。家系の中で繰り返し起こってくる諸問題があるけれど、神はその呪いを打ち砕いてくださると話しました。そして、五月になると死人が出る家庭についての話をしました。
 すると多くの方々が自分の家系にも、何らかの心当たりがあるようで、「祈ってください」と言われました。私はその方々のために、祈りの手伝いをさせてもらいました。

 私は帰りの新幹線の時刻が決まっていましたので、祈りを打ち切って帰らなければなりませんでした。しかし、もしもその電車に乗り遅れた場合のために、浜松から東海道線を乗り継げば豊橋に深夜一時頃着く電車があったので、それも頭に入れておきました。
 最終電車の時刻が近づいても、まだ数人祈りを希望している人たちが残っていました。私は、時間がないからやめて帰ろうと思ったときに、私の心に一つの思いが沸いてきました。
 「お前、もうちょっと頑張って、最終の最終電車で家に帰れ…」という思いでした。
 案外、神様の働きは、ふっとした思いと共に与えられます。その時も、「最々終を使っても、家に帰れるではないか。それを使っても、お前の人生が大きく変わるわけではないから、時間を延ばして祈ったらどうだ?」という思いでした。
 私は、次の日も予定があって忙しいからという葛藤もありましたが、「わかりました。では続けて祈ります」と決断して、残った人たちのために祈り続けました。
 やっと祈りが終わり、「さあ帰ろう!」と思ったときに、後ろの扉が開いて、一人の小さな子どもを連れた奥さんが入ってこられました。

 「私のために祈ってくれませんか」と言われました。「何を祈ったらいいですか。」と聞くと、「私は主人を亡くしたのです。」と言われました。「どうして亡くしたのですか。」と聞くと、「交通事故で亡くしたのです」と言われました。
 私は、「あなたが話しているのと同じような事件が、私の教会に来た人にもありましたよ。さっきそのことを話しましたが、聞いていませんでしたか?」と聞くと、「ちょうど子どもが騒いだので、外に出ていました。」と言われました。
 私は世間にはよく似た話もあるものだと思いましたが、その方の名字を聞いて驚きました。何と、その人が、新城教会に来られた方の親族で、行方不明になっていたお嫁さんであったからです。

 その女性は、行方をくらませた後、子どもを連れて全国各地を巡ったそうです。しかし最後に、その町に来たそうです。
 ある日、駅前を通ると、賛美歌が聞こえたそうです。それは近くの教会の青年たちが歌っていました。教会が自分のアパートの近くだったので、通い始めたばかりだったそうです。

 私はその教会に招かれ、何も知らずにその人がかつて属していた親族の話をしました。そして、私は帰ろうと思いましたが、帰らずに祈り続け、最後の最期に来られた女性が、なんと、行方不明になっていた婦人だったのです。
 その時、主は彼女に触れてくださいました。そして、山が動いたのです。イエスさまをしっかりと信じました。

 私は、帰ってからその人の親族に話すと、大変驚かれました。神様は悪い流れを全て枯れさせ、問題の山を海に投げ入れ、忘れられていた行方不明になった女性にも愛をもって報いて下さったのです。途絶えていた交わりが再会しました。

 私たちには素晴らしい権威が与えられています。み言葉を学んで、信じて、イエスさまと同じように宣言し、権威を使わなければなりません。
 「あなたがたが信じて祈り求めたら、何でも与えられます」と記されています。

 私たちが生きているこの時代、問題が起こったら問題解決には時間を要するという世界に住んでいます。政治、経済、社会に多くの問題が起こっていますが、裁判などで問題が解決するためには、長い手続きとプロセスがあることを見ています。ですから、私たちはいつも、問題解決には時間がかかると思っています。いくらイエスさまを信じても、いくら私たちが権威を使ってみても、そう簡単にはいかないだろうと考えます。

 しかしその根底に、悪魔の策略があることを知らされます。今日の午後からは、「霊的戦いセミナー」があります。特に今日は、「儒教」について学びます。日本は、仏教思想の影響下にあるように思います。しかし実は、根強い儒教の枠組みに縛られています。午後は、どのくらい儒教の影響を受けているのかについて学び、解放を祈りたいと願っています。
 儒教の中心は「先祖崇拝」にあります。そこに向かわせるために、すべて社会の仕組みが作られているのです。
 日本人は神々を信じていますが、同時に進化論の大変強い影響も受けています。学校では、「神が天と地を創造した」とは習わず、「すべては進化した」と教えられます。教育の中に色々な策略があります。進化論が私たちの中に、深い根を張っています。地球の成り立ちは、四十億年、宇宙は百五十億年経っているという前提に立ちます。人類がここまで進化するためには、相当な時間がかかったと教えます。だから「物事は、そう簡単には動かない」という、悪い確信と信仰があるのです。

 先週私は、仙台のある教会に行きました。その教会の牧師は、かつて教授をされていて、稲のDNAの研究者でした。その方は科学者ですが、今は牧師として働かれています。先生は、「創造科学研究会」という団体に所属し、熱心に働かれています。それは、神が天地を創られたという前提に立って科学する集まりです。
 私は先生に色々と質問をしました。「創造科学で、神が天地を創造したという前提に立っているのは理解できますが、具体的にはどういう前提ですか」と聞きました。

 すると、「はい。聖書に記されている年代を合計すると、アダムとエバから現代まで、六千年位しかありません。隙間に欠けがあり、それらを見積もっても、人類は創造されてから、一万年以上にはなりません。また、神が六日間働かれ、七日目に休まれたとありますが、神は一日、二十四時間、二十四時間×六日で、天地創造のすべてを終えられたという、前提に立っています」と答えられました。

 聖書には、神が天地を創造されたと記されているので私は信じています。しかし、聖書が言う一日という単位も、一日は数億年かもしれない、ただ、六つの単位を持って長い時間をかけて創造されたと理解しても良いのでは\\\と思いました。
 別に一日、二十四時間とこだわらなくても良いのではないか\\\。一日、二十四時間、それも、たった六日間でこの広大な宇宙、そして人まで創造したというのは本当かな、と思いました。しかし彼らはそれを信じ、それを前提にして科学しているというのです。
 案外、クリスチャンでも、神が六日間で天地宇宙を創造されたと聞いていますが、まともに信じないところがあります。

 ユダヤ人たちが現在でも、真剣に守っている律法の中で、最も厳格に守っているものに、「安息日規定」があります。それは、十戒の中で、『安息日を覚えて、これを聖とせよ。』と規定されているものです。
 六日間は働いて、七日目は完全に休めという規律です。私たちは、日曜日に礼拝を守っていますが、これは旧約聖書の安息日規定からの影響です。
 しかしユダヤ教徒にとっての安息日は、金曜日の夕刻から、土曜日の夕刻であり、ユダヤ教徒たちは、一切の労働を拒否します。高層階に住んでいて、エレベーターのスイッチを押すのも、電気をつけるのも労働にあたります。だからそれらを行いません。どうするかと言うと、全て自動運転です。五十階建てのホテルに泊まっていたら、安息日にはエレベーターは各駅停車に変わります。ですから目的階に付くのに、どのくらい時間かかるのかわかりません。
 また、部屋に入ると、自動的に電気がつくようになっています。歩く距離も決まっています。電柱と電線に目印があり、布が垂れ下がっています。それは安息日に歩いて良い距離の目安です。それ以上歩くと罪を犯すことになるのです。ここまでやるか…と思いますが、厳格です。

 しかし安息日規定はなぜ生まれたのでしょうか。出エジプト記二十章八節から十一節に、

『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。』

とあります。なぜ安息日を守るように神は語られたのでしょうか。それは、神が六日間で、天地を創られたので、同じように六日間を働き、七日目には休めと教えています。神は一日二十四時間×六という短期間で、天地宇宙を創造されたようです。

 私たちは色々な問題が目の前に来ると、解決には長い時間がかかる、これは手強いと引いてしまいますが、私たちの神は天も地も人も、全てを短期間で創造された神であると信じなければなりません。

 先週の県民の森祈祷会で、「あなたがたは、長い時間をかければ神は働くと考えるな。わたしはたった六日間で、この天地を創ったから、短い期間でわざを成すことができる」と語られました。

 新城教会が始まって、まもなく六十年近く経ちます。六十年近くやってきたから、そろそろ実を結んでも良さそうだと思います。
 しかし一歩外に出ると、地域の人々はこう言います。「教会さん、その考えは甘い!この地域の宗教はどのくらい続いているのか知っているか。ここの神道や仏教は、千年、二千年と続いているのだ。教会が千年、二千年と継続できたら俺たちと同じ立場になれるかも知れないが、たかだか六十年だ…。短すぎる!」と言われるのです。
 皆さんの家の仏教は何十代も、何十年、何百年と続いています。そんな家庭でクリスチャンとして何ができるだろうか。「家族が救われるためには、相当時間がかかる。どうにもならない」と思ってしまいがちです。

 しかし私たちは信じて、宣言しなければなりません。私たちの神は、たった六日間で天地を創造できる神だと。千年、二千年は神にとっては、ほんの瞬間にしか過ぎません。第二ペテロ三章八節に、

『しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。』

とあります。神様のみ前においては、一日は千年と同じで、千年は一日と同じだと言われます。この地域が、二千年の宗教的環境を持っていたとしても、関係ないのです。私たちの前に大きな山となり、リバイバルを阻み、教会が五十年、六十年やっても、ビクとも動かないと考えてはいけないのです。二千年は、神の前では「二日」にしか過ぎないのです。この地上にある二千年にも続く悪しき契約も、二日もあれば、全て取り去ることができるのです!
 また私たち教会は地域で六十年やってきたならば、「一日は千年だ」というみ言葉に立てば、六十×三六五日×千年、すなわち、二一九〇万年の歴史を持つ教会となるのです。それは永遠の教会を意味します。

 神のみ前では、千年は一日に圧縮され、一日は千年に拡大されることを知らなければなりません。あなたの家の偶像礼拝の歴史が、何百年続いていたとしても、神のみ前では、一日にも足らない短いものなのです。短期間で主はわざを行うことができます。
 「なぜなら、わたしは六日間で天地を創った神であるから」と語られます。
 「あなたがたは、決して、長くかかると考えてはいけません。イエスさまがいちじくの木に向かって命じたように、一日のうちに問題の木は根こそぎ枯れてしまう」のです。
 目の前の問題に対して、信じて命じるならば、山は動くのです。信じて命ずることがあなたの結ぶべき実だ、と教えています。信じる信仰が、あなたの実です。

 イエスさまと同様、目の前にある山に向かって、「山よ、海に移れ!」と、またこの地域がどれほど長い偶像礼拝と因習にとらわれていたとしても、神のみ前では意味を持たないものです。二日も働けば、この地域を勝ち取ることができる、という信仰を持ちましょう。
 私たちは偉大な神の権威の下にある者です。信じて行動する者でありたいと願います。目の前に山があるかも知れませんが、決してその山を見てひるむのではなく、立ち向かって、勝利を宣言する者でありたいと願います。お祈りします。

(告白の祈り)
「イエス様。あなたの御名によって、アバ父なる神に祈ります。私たちを守ってください。救ってください。きよめてください。
 同時に、私たちには、上からの権威があることを宣言します。目の前にある山に向かって宣言します。私たちの神は、天地を六日間で創られた方である!千年は一日であることを宣言する!山に向かって宣言する。問題の山よ、海に移れ!消えてなくなれ!根こそぎ枯れてしまえ!!イエス・キリストの名前によって、勝利を宣言して祈ります。アーメン」


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