Did you know?
知っていましたか?


2008.4.13(SUN)
新城教会牧師 滝元順師
新約聖書 使徒の働き17章21節〜29節
アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

 ハレルヤ!おはようございます。今日は四名の子どもたちが、ダンスを披露してくださいました。色々な形で神様を礼拝できることは、素晴らしいです。また今年は、若い世代を立ち上がらせてくださると、主が預言的に語ってくださいましたが、まさに、若い方々を立ち上がらせ、使ってくださっていることを感謝します。

 今週の土曜日、私は熊本に行きます。それはこの教会にしばらく滞在し、今、熊本で伝道されている、小林雅子先生の結婚式のために行きます。私がメッセージを取り次ぐことになっていますのでお祈り下さい。

 今日は、「Did you know? 知っていましたか?」というタイトルで学びます。
 今日お読みいただいた聖書の箇所は、パウロがアテネで、「知られざる神々に」という祭壇を見つけた時の出来事です。彼らは本当の神について知らず、偶像を拝んでいました。それでパウロは本物の神が誰であるのかを教えました。アテネの人々は、神についてはすでに知っていると考えていました。しかし実は、彼らは知らなかったのです。

 知っているつもりでも、実は知らないことがたくさんあります。悲しいことに人は常に老化しています。老化現象が進んでいることを知っているようで、あまり気づきません。
 昨日、面白いものを発見しました。それは、アメリカで、コンビニ前に若者たちたむろし、バカなことばかりしているので、どうしたら良いかと対策を考えたそうです。
 その時、一つのことが考案されました。若者にしか聞こえない音があるそうです。それを、「モスキート・トーン」と言い、蚊の羽の音です。私たちくらいの年になると、蚊が来てもその音が聞こえません。
 しかし若者は、蚊が飛ぶとき出す高い音が聞こえます。老化現象により、今まで聞こえていた高音域がだんだんと聞こえなくなるそうです。
 けれども、若い人たちはそれを聞くことができるので、若者達だけに聞こえる「モスキート・トーン」という嫌な音を流し、若者達をコンビニ前から退散させる方法を採ったそうです。
 けれども、若者たちは頭が良く、モスキート・トーンを携帯電話の着信音にしました。授業中に携帯電話を鳴らしたら迷惑です。学校では、「携帯電話を切ってください」と必ず言われます。しかし若者たちは、そのサウンドを着信音に使いました。着信音は先生には全く聞こえないようです。しかし若者たちはそれが聞こえ、楽しんでいるようです。

 パウロがアテネに行ったときに、彼は心に憤りを覚えたとあります。しかし聖書には、「怒ってはいけない」と教えています。パウロの憤りとは何だったのでしょうか。
 私たちには、頭に来るような出来事が時々あります。しかしなぜ、怒ってはいけないのでしょうか。エペソ四章二十六節から二十七節に記されています。

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

 毎日、怒ることがあるかも知れません。しかし一日ぐらいは怒っていても良いけど、二日目からは忘れなさいということです。なぜならば、悪魔が私たちの所に来て、「憎しみ」というロープで縛り上げるからです。
 案外、感情に任せて生きている人が多いかも知れません。しかし一日以上に渡って、「憎らしい、絶対に許せない!」という感情が続くと、憎しみのロープで縛られるのです。

 イエスさまの時代に、いくつかの死刑方法がありました。一つは石打ちの刑です。死刑囚を窪みにつき落とし、石で打ち殺す刑です。またもう一つは、イエスさまが受けられた十字架刑です。
 そしてもう一つ、気持ちの悪い刑があったそうです。それは、死体との抱き合わせ刑でした。死後、何日も経った腐った死体を受刑者の肩に背負わせるのです。そうすると、死体から腐った液が出て、生きている体を蝕み、最後には同じように腐って死んでしまうそうです。
 ある意味で、憎しみとはそのようなものです。憎しみが抱きつくと、段々私たちの心を蝕み、最後にはその人は憎しみによって殺されてしまいます。ですから、私たちは怒っても罪を犯さないようにしなければなりません。
 けれども、パウロは「憤りを覚えた」と記されています。使徒十七章十六節に、

『さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。』

 この憤りは、人を憎むものではなく、常に持っていてもよい憤りです。原文を見ると、『心に憤りを覚えた。』という節は、「霊的に激動を覚えた」という意味です。自分の霊が偶像の背後の霊的存在に対して反応したという意味です。
 パウロがアテネの町に行くと、偶像がいっぱいありました。その町に入った途端、彼の霊的センサーが鳴り響き、心が激動し、憤りを覚えたのです。
 私たちも偶像に満ちた街に住んでいますが、案外憤りを覚えないのかも知れません。人に対しては時々怒りますが、霊的な存在である敵・悪魔、悪霊に対しては、無感覚にされているのかも知れません。神様は私たちにいつも語りかけて下さっています。常に神様の声は響いていますが、いつの間にか霊的な耳が老化したり、退化してしまい、語りかけを聞くことができなくなっています。しかし、常に敏感な霊的耳を持っていなければなりません。

 今週も、主は私たちに声をかけてくださいます。ある人には聞こえても、ある人には聞こえないということも起こり得ます。クリスチャンは皆、神の語りかけを常に聞くことができる存在です。霊的に敏感な者になりたいと願います。
 日本には偶像が多くあり、悪霊に支配されています。私たちはある意味で、霊的にはとても危険な街に住んでいます。しかし私たちがそのことに気づかず、神の声が聞けないと、悪魔の策略にはまってしまいます。

 パウロがアテネで抱いた憤りは、決してアテネの人々に対するものではなく、町を支配する悪霊に対する憤りであったことがよくわかります。なぜならば、人々に対してねんごろに、愛を持って真の神様を伝えようと努力しているからです。
 アテネの人たちは、日本人と同じように祠を作ったり、石像を作り、それが神様だと勘違いして拝んでいました。彼らはこれで、「私たちは神様を知っている」と確信していました。
 日本人も同じだと思います。聞けば、「私たちは神様を知っています。今更、神様は必要ありません。すでに知っていますから」と答えると思います。なぜそのように答えるかと云えば、手で作った神々を拝むときに、「何らかの手応えを感じる」からです。
 日本人の拝んでいるものは、石や木や金属で、普通から言えば、それを神として拝むことはばかげた行為です。例えば、石の地蔵を拝んでいるおばあちゃんに、
 「おばあちゃん、だいぶボケたねぇ。病院に行った方が良いじゃない?」と言ったら、
 「なんでだい!」
 「だって、こんな石を拝んでいるのだから。大丈夫ですか。」
 「私はまともだよ。放っておいてくれ!」
と怒ると思います。
 
 子どもが河原から石を拾ってきて、そこに「僕のお母ちゃん」と書いて、毎朝、本物のお母さんがいるのにも関わらず、石に向かって、「お母ちゃん、おはようございます」と言ったら、「ちょっとこの子はおかしくなってしまった。病院に連れて行こう」と言います。すぐに治療をはじめると思います。
 しかし石に、「僕の神様」と書いて、「神様、おはようございます。お花を飾りましょう」と言っても、誰も頭がおかしいとは言いません。なぜ言わないのかというと、それには理由があります。
 それは、拝むとその周りに、何らかの霊的空間が出来るからです。側に近づくと、何か神のような不思議な存在の感覚を覚えるからです。ですから、「これは間違いない、人間の願い事を聞いてくれる神様に間違いない」と信じて拝みます。しかしそこには、カラクリがあるのです。

 パウロは霊感を感じ、日々偶像を拝んでいるアテネの人たちに、「そんなバラからしい物を拝んではいけませんよ」と言ったのではなく、使徒十七章二十四節、

『この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。』

と言いました。アテネの人々も日本の人々も同じです。神々は、「この宮の中に住む」とか、「石の中に住む」とか、「札の中に住む」という考え方をしています。
 ギリシア人たちもギリシア神話をベースとして、手応えを感じていました。しかしパウロは、本物の神様はこんな小さな宮の中に住んでいるのではない、もっと、大きな方であると話しました。二十八節には、

『私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。』

 日本人も石や木や金属の中に神は住んでいて、その周りに、何かオーラのようなものを発しているのが神だと考えています。しかし本物の神様はそんな限られた空間に自分を現すような小さな存在ではなく、天地宇宙を貫いておられる方です。「あなたはそれを知らなかったのですか?」と語っています。
 聖書を総合すると、限られた空間に、物質を通して現される霊感は、「神のふりをした悪魔・悪霊ども」です。日本人は策略に引っかかっています。それに手を出せば、ちょうど蛇穴に手を突っ込んだら、蛇にパクッと噛まれるのと同じように、人生は大変なことになってしまいます。
 ですから、偶像礼拝には手を出さないように、というのが聖書の教えです。
 悪魔・悪霊どもは根本的に、どこで働くのでしょうか。悪しき力が立てこもっている場所について聖書は教えています。第二コリント十章三節から六節に、

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。』

 実は悪魔・悪霊どもが立てこもる要塞があります。
 この付近は古戦場です。ここから三十分ほど行くと「長篠城」という場所がありますが、かつてそこは砦となっていました。この地域が武田勝頼の支配に陥っていた時、長篠城は徳川側の砦でした。徳川側の兵隊たちは砦に立てこもり、武田軍に抵抗しました。しかし、兵糧攻めに合い、食糧がつきたとき、鳥居右衛門が寒狭川を潜って渡り、岡崎城に助けを求めました。それで設楽原の戦いが始まったのです。

 要塞とは味方の領域の中に出来る、「敵が立てこもっている砦」です。イスラエルに行くと、「マサダの砦」があります。
 紀元七十年、イスラエルはローマ軍に占領されましたが、マサダの砦にユダヤ人たちは立てこもり、二年ほど戦ったのです。しかし最後には、ほとんどの人がそこで死んでしまいました。

 私たちがイエス・キリストを信じると、暗闇から光に、サタンの支配下から神の支配に移され、永遠のいのちが与えられます。イエス・キリストを自分の救い主として、個人的に受け入れるならば、永遠のいのちが与えられ、悪魔の支配下から神の支配下に完全に移されるのです。
 聖書には、「だれでも聖霊によらなければ、イエスは主です、と告白することができない」とあります。
 あなたは今、それを告白ができますか?
 「告白は、救いの最小量」だと思います。信じると言っても度合いがあり、知識的に裏付けがあって信じる人、また、知識的に関係なくただ信じている人、クリスチャン暦が長い人、また短い人もいます。信じると言っても、そのレベルは様々です。
 しかし、救いは「恵み」です。最小量を受け取っただけでも、救われなければ成りません。そのために必要なことは、「心で信じて義と認められ、口で告白して救われる」というみ言葉に根拠があります。ゆえに、「イエスさまは私の救い主です」と宣言できたら、救われるのです。
 「イエスさまは私の救い主です」と告白しましょう。告白できる人は、皆、永遠のいのちがあります。
 この人には、命が五分しかない、という人でも救いに預かることができます。それはただ、「イエスさまを信じます」と告白したら良いのです。

 この教会に来られている方のお兄さんが、病で命があまりないという状況で、私は病室を訪問しました。もう意識がないと言われましたが、大胆に話しました。
 「お兄さん。イエスさまを信じる祈りをしましょう。聞こえたら、私の後について祈ってください。」と言いました。
 「イエスさま。私はあなたを救い主として信じます。」と祈りました。「声が出なくても、心の中で告白してください」と言いました。祈りの声は聞こえませんでした。きっと心の中で告白してくれたと思います。
 しかし私が、最後に「アーメン」と祈ると、まったく意識を失って声を出さなかった人が、「アーッ」と声を出しました。その瞬間、横にあったモニターがピーッと鳴り出しました。それは心臓が停止したことを示す音でした。私はすぐに看護師さんを呼びました。医者が来て、「ご臨終です。」と言われました。それを見ていた人が、「まるでロケットに乗って天国に行ったようでしたね」と言われました。
 最後に「アーメン」と言って、天国に行かれました。私は人は告白するだけで救われると確信しました。

 けれども、人が救われて神の領域になっても、まだまだ、その中には要塞が残っているのです。要塞をつぶす作業がクリスチャン生活です。
 第二コリント十章五節に要塞とは、『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり』とあります。
 神様が教えてくださった知識だけで生きていれば、すべてが神の領域ですが、悪魔によってすり替えられた知識が残っているならば、まだまだ、要塞が残っているのです。ゆえに、「考え方自体」が要塞となり、そこに悪霊どもが立てこもり、攻撃を仕掛けてくるのです。
 解放とは、「考え方の転換、物の見方・世界観の転換」なのです。内側の要塞を砕くことは重要です。十章五節から六節に、

『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

 私たちは日本のリバイバル、世界のリバイバルを願っています。日本中の人たちがイエスさまを信じて、永遠のいのちを受けてほしいと願っていますが、どうしたら良いのか難しいです。
 来年は、日本のプロテスタント宣教百五十周年ですが、日本全体においては人口の一パーセント以上に、なかなかクリスチャンが増えません。常に低空飛行です。全日本リバイバルミッションや新城教会は、「日本のリバイバル」というテーマで、真剣に頑張っていますが、なかなか動きません。
 新城教会は田舎にもかかわらず、多くの方が集まられていますが、いくら集まっても、国全体から見たら一%にも満たないのです。九十九パーセント以上が、滅びに向かっています。しかし、リバイバルの鍵と秘訣がここにあります。

『あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

 まず、救われたクリスチャンたちの内側の要塞がなくなり、考え方が全て神からの知識に置き換えられたら、「外側も変えられる」と告げています。
 私たちの内側から、戦いを始めなさいと教えています。ですからリバイバルの鍵は、私たち一人一人にあるのです。

 そもそも偶像礼拝も、神から教えられた知識ではなく、悪魔から教えられた知識によるものです。偽物を本物だと信じ込んでいるところに問題があります。それは、石や木や金属で作った神々を、神であると誤解させる知識です。その根拠に、日本人には「物の中に霊が宿る」という考え方があります。
 日本人には、日本にしかない概念の言葉を持っています。それが「もったいない」という言葉です。この言葉は、日本だけにある概念で、美しい言葉だ、これを世界に広げようと言われます。
 この言葉にも、先週話した「ビーフカレー」のような、宗教的概念があります。皆さんの中に、「物を捨てるのが不得意だ」と言われる人がいると思います。
 私は、節約することや、物を長く使うことを否定しているのではありません。けれども、いらない物でゴミに出しても良いものでも、どうしても捨てられないという人がいると思います。それは、「物に霊が宿っている」という考え方があるからだと言われます。

 息子が小学一年生の頃に着ていた服を、簡単にはさみで切って捨てることが出るでしょうか。また、それらをぞうきんにすることができるでしょうか。何か、小学一年生の頃の息子の霊が服に宿っているような感じがして、ぞうきんなどにしたら、人生までがぞうきんのようにボロボロになってしまうかも知れない・・・と恐れます。
 捨てても良いものが、どんどん家の中にたまっていきます。最近、ゴミ屋敷というのがあります。すさまじいゴミがありますが、あれも霊的現象だと思います。日本人には、「物に霊が宿る」という考え方があるので、すべてに霊魂が宿っている、これにも、あれにも思い出があると言って捨てられません。
 「物に霊が宿る」という考え方自体が間違っています。物に霊が入ることは決してありません。しかし、「物に霊が付く」という間違った考えと共に、「霊を招く祈り」があると、悪霊は物体と共に働きます。

 真の神は、物の中に入ったり、限定された空間に自分を現すような存在ではなく、全てを貫いておられる方ですから、偶像礼拝は必要ありません。
 かつては、偶像を一生懸命拝んでいて、偶像を捨てるなどとは絶対に考えられなかった人が、教会に来て真実がわかります。
 「いままで感じていた霊は、本物の神の霊ではなく、神のふりをした悪霊だ。先祖ではなく、先祖のふりをした死の霊だ」と気づいたのです。そこに気づいたら偶像を、捨てることができます。それは、根本的に知識が変わったことを意味します。その結果、内側の要塞は壊れ、自由になり、問題解決を見るのです。

 知識が変わることはとても重要です。霊的戦いには、二つの方向性があります。一つは直接対決です。悪魔・悪霊どもに立ち向かっていく方法です。
 もう一つは「真理による戦い」です。私たちが真理を知ることによって、知らないうちに、内側の要塞が砕かれるのです。聖書を読み、真理に接しているうちに、「私は変わってきた」と言う人が多くおられます。それは、内側の要塞が真理によって破壊されたからです。
 ですから、日々み言葉に接し、祈り、主を礼拝し、賛美し、内側の要塞を打ち壊さなければなりません。神の国の価値観に変えることが重要な霊的戦いです。

 ここに「知っていましたか?」というタイトルの文章があります。ちょっと、読んでみます。

『知っていましたか?
 文化庁によると、日本の宗教人口は、神道系が約一億六百万人、仏教系が約九千六百万人、と神道系と仏教系だけで二億人をこえてしまいます。また、最近では結婚式の九割以上がキリスト教結婚式です。
 さらに、「あなたの宗教は何ですか?」と質問されると、「私は無宗教です。強いて言えば仏教かな?」という答えが多いといわれます。一体、日本人の宗教観は何処にあるのでしょうか。

 仏教はインドで始まりましたが、本家インドではほとんど廃れ、中国、韓国においてもあまり盛んではありません。仏教が最も深く根付いた国、それが日本なのです。

 日本の仏教の特徴は、葬式に引き続いて行われる、「先祖崇拝」にあります。結婚式がいくらキリスト教でも、葬式の八十五%は仏式であると言われます。けれども、原始仏教の何処にも、死者礼拝や先祖崇拝は含まれていません。なぜなら、仏教の死生観は「輪廻」にあるからです(実はこれも仏教ではなくヒンズーの教理ですが・・・)。

 輪廻思想によれば、死者は、死後七回、各七日間に渡り、生前の行動に対する裁きを受けるといわれます。それが「四十九日」です。この間に、地上の強力なサポートがないと、どうやら死者は、人間以外の下等動物などに輪廻してしまうようです。四十九日が過ぎれば、死者はどこかに輪廻して胎内で、出産までの十月十日を過ごすというのです。

 十月十日に四十九日を足すと、三百六十五日になりますが、仏教によれば、死者は一年後には、この世のどこかに戻って来るわけですから、「先祖供養」などは必要ないわけです。

 実は、「輪廻思想」と「先祖崇拝」は、真っ向から対立する思想なのです。しかし日本人は不思議なことに、その両者を受け入れ、矛盾を感じていません。

 それではなぜ、日本の仏教は先祖供養を行うのでしょうか。

 日本の仏教は六世紀、百済から伝えられたものですが、朝鮮半島に伝わる以前、中国において大きく変化していたのです。それは、黄河中流域にあった、先祖供養を専門に行うシャーマン(霊能者)集団よって発生した、「儒教」と強く習合したからです。

 現代の日本仏教を分析すると、実にその八割が、「儒教」の理念から来ていることがわかります。純粋な仏教思想は一割位しか含まれていないのです。仏壇の位牌も、儒教からの借り物です。さらに、社会制度も儒教の強い影響下にあります。

 江戸時代は三百年以上にわたる平和な時代でしたが、うらをかえせば、封建的構造が強く機能していたことを意味します。封建体制を維持するために、江戸幕府は、国教として「儒教」を背景とする朱子学を導入しました。続く明治政府は国学を掲げ、江戸時代の体勢を排除しましたが、日本人の根底にはすでに、「儒教」が深く根ざしていたのです。

 現在、日本人に最も強い影響を与えている宗教、それは、「物言わぬ宗教」と呼ばれる「儒教」なのです。

 現代は自らの選択による、自己責任が問われる時代です。宗教においても、もう一度見直し、拠り所をはっきりさせる必要があるのではないでしょうか。

 ところで、あなたの宗教は何ですか?』

 この文章は、来月の「新城教会ニュース」の原稿にしょうと、私が書いたものですが、日本人がある意味で知っていると思っていても、実は、全く気づいていない領域があるのです。
 クリスチャンさえも、「これは当然だ」と考えている知識の中に、神からの知識ではなく、悪魔が巧みに歴史の中で教えてきた、間違った知識が多く含まれています。

 特に日本人が強く影響を受けた知識の中に、「儒教」があります。先週日曜日午後に、「儒教が日本に与えた影響」についてセミナーを行いました。仏教だと言っていますが、その約八割が、「儒教」です。
 仏教と儒教は、全く対立するような理念が含まれます。仏教は輪廻を教えます。しかし輪廻はヒンズーから来ていますが。けれども、日本人がやっていることは、輪廻と言うよりも「先祖崇拝、先祖供養」です。これは仏教とは全く関係がないことです。仏教は一年もすると、人はまた生きている人々の世界に戻ってくるので、先祖はいません。皆、輪廻して生まれ変わっているはずです。先祖供養をすること自体がおかしいのです。
 しかし日本の仏教徒は、真剣に先祖崇拝をしています。先祖崇拝は仏教ではなく、儒教なのです。このような中に、悪魔の巧みな策略があります。
 隣の国・韓国に行くと、儒教が見える形で社会に表われています。来月五月三十日には、韓国ミッションの説明会が、ソウルで行われることになっています。そのための準備が成されていますので、ぜひ祈ってください。
 大昔は、お互いに自由に行き来していたのです。日本人のDNAを調べてみると、ほとんどの人が朝鮮半島や中国の方から渡ってきた人たちです。
 しかし日本と韓国の間には分断の歴史があります。本来は、一つになって神の国を実現するために用いられる国々であるはずです。今回の日本からのアプローチで、「韓国のリバイバルのための働きましょう」という呼びかけは、素晴らしい霊的勝利につながると思います。
 去年はハワイでしたが、今度は韓国でミッションをするように導かれています。それは、私たちの心の要塞が打ち砕かれなければ、実現できません。
 「日本は日本だけ、日本のためだけに頑張らなくては…」と考えていたら、なかなか開かれません。

 「我が家は仏教だよ、儒教は関係ない。あれは韓国のことだ…」と言いますが、実際は、儒教が中心にあります。日本を支配している悪しき力の大きな要素の一つが、「儒教」です。

 聖書にはバベルの塔から人々が拡散していった様子が記されています。バベルの塔は、イラク周辺にあったと言われます。高い塔を作り、悪霊を呼ぶ行為、「シャーマニズム」によって、人々は世界中に散らされました。
 その中で、東回りに散らされた人たちがいました。その人たちがインド付近で文化を形成しました。その集大成がヒンズー教の中にあります。ヒンズー的な環境から、仏教は始まりました。
 人々はさらに進んで、中国大陸に住み着きました。中国文明が栄えたのは、黄河流域でした。そこから儒教、道教が起こり、インドから流入した仏教と習合しました。それは朝鮮半島に伝わりましたが、朝鮮半島においては「儒教」だけがクローズアップされました。
 しかし、日本においては仏教とは言いながら、中身は儒教です。悪魔バベルの塔で仕込んだ、神の知識と反対の、悪魔の知識が人々を束縛している現実を見ることができます。

 ある意味で、東回りの人たちが始めた霊的行為の「吹きだまり」のような場所が、「日本」です。仏教は他の国々では消えていますが、日本だけ生き残っています。それも儒教化した先祖崇拝が中心となって残っているのです。

 社会の中では、強い者に価値があり、弱い者は消えていくという考え方があります。学校に行くと、成績が良くないと、価値ある生徒として認められません。
 私が中学生時代、二百人ほどの生徒がいました。入学して最初に実力テストがあり、その点数によってクラス分けがなされました。私は真剣に勉強しました。今までやったことがない勉強を真剣に行いました。
 しかし勉強をやりすぎて、テスト当日、気持ちが悪くなり、うまくできませんでした。その結果、二百人中、九十番くらいの成績でした。それで私はやる気を無くしました。それから私はいつも百番くらいを前後していました。当時クラスはAからE組まであり、頭の良い人のクラスがありました。
 私は今年、五十七才ですが、近所には同級生が住んでいます。彼らに会うと、「あの人は私よりも成績が上だった、下だった」と、中学校を卒業して、かれこれ四十年以上が経ちますが、まだあの当時の価値観が自分を支配している事に気づかされ、悲しくなります。あるときは、「あの子は私よりも下だった」と優越感を持ったりします。
 実際、これは神が教えてくださった知識ではありません。

 聖書の価値観が日本中で教えられるようになったら、素晴らしいと思います。クリスチャンは悪魔に教えられた、「強い者に価値がある」という考え方に毒されてはいけません。
 一人一人の位置づけについて聖書は教えています。第一コリント十二章二十節から二十二節に、

『しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

 聖書は強い人に価値があるというのではなく、一人一人を「からだの器官」に例えており、からだにはたくさんの臓器がありますが、それぞれの役割があって、それらは全て必要であると教えています。
 そして、人の目から見て、「これはあまり必要ではない、弱い\\\」と見えるような器官が、なくてはならない器官であると教えています。
 教会は決して強い者に価値があるとか、良い学校を出た人とか、あの人は社会的に地位があるというのではなく、全員が神によって創られた作品であり、キリストのからだに属する各器官であるという価値観で形成されなければなりません。それぞれが、有機的に聖霊によって結ばれるときに、キリストのからだは形成され、神の国は前進するのです。あくまで、神の知識に立たなければなりません。

 教会にも儒教的な価値観が巧みに入っており、また、進化論的価値観も入っています。私たちはそのような知識に毒されてはいけません。エペソ六章一節に、

『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。』

 儒教は「親孝行」が大事であると言います。しかしその孝行とは、社会のすべての組織を使い、両親を敬い、最終的には「先祖崇拝」に集約させる考え方です。
 私たちは社会において、聖書の教えと似たような概念を共有することがあるかも知れません。しかし、決して聖書の親孝行においては「孝」のような概念ではなく、『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。』と、イエスさまの戒めとともに両親に従うことです。

『「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。』

 日本人の持っている常識的概念の中で、神が教えた知識以外のものが多くあります。そして、その多くが儒教的な考え方から、日本の常識になっている場合が多いのです。常識と言う中に要塞があります。
 私たちは敵の策略に毒されることなく、神の国の世界観に生きる者でありたいと願います。日本の根底と社会構造に、悪魔の策略があります。心の中に置かれた策略を打ち破り、神の栄光を現すものにさせていただきたいと願います。
 特に、「強い者に価値がある」という考え方を捨て、一人一人が神によって創造された「キリストにからだに属する各器官」であるということを、教会の価値観の中心に据えたいものです。

 もしも今日、劣等感がある方は、それは神が教えた知識ではありません。教育の中、強い者に価値があるという考えから派生したものであり、誰かと比べられ、「価値がある、価値がない」と決断しているのです。これは神から来た考えではなく、悪魔の作った要塞です。
 私たちはキリストにからだに属する神の各器官なので、誰もが重要です。なくてはならない存在です。

 気づかなければならない領域は、多くありますが、真理の光であるみ言葉に照らして、内側にある要塞を打ち破っていただきましょう。その結果、「私たちの従順が完全になるときに、外側に対しても勝利が来る」のです。お祈りします。


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